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カテゴリー「バーニー・サンダースとアメリカ」の32件の記事

2017年2月 6日 (月)

アメリカ連邦制とユナイテッド・ステーツの翻訳

 依然としてアメリカ論をやっています。一番難しいと考えてきた連邦制論についてのメモを終えました。

 小説家の司馬遼太郎は、その『アメリカ素描』というエッセイで「日本はできるだけ法の厄介にならずにすませたい」という国で、「メイフラワー号の始祖たちが最初に法によって個人を明確にし、政治団体をつくってそれへの忠誠を誓わせた国とはちがっている。法によって州ができ、州の連合国家をつくり、さらに法が元首の主人であるとしたこの人口国家にあっては、法という文明材を信ずることなしに生きてゆけない」と述べている。この記述は歴史家から見ると、とても現在の学問水準には耐ええないものである。こういう通俗常識を打破するのは歴史学の重要な役割だと思う。


 アメリカは、世界でも第四位の面積をもつ大国であるが、その大国意識はアメリカが一つのステーツ(国家)ではなく、五〇のステーツ(州)と一つの特別区(ワシントンDC)をもっていること、つまり連邦国家であるということにも支えられている。アメリカは連邦制を国家意識の基礎にすえている国なのである。そして、それは連邦を構成する「邦=州」はワシントンに対抗する州権をもっているのだ、だからアメリカは民主主義なのだという考え方にまでつながっている。

 歴史家から見ると、連邦国家は、前近代から近代への変化の時期に、その国家がどのような経過で設立されたかに関わっている。それは前近代から近代にかけての変化を国家論として理解する上での根本問題の一つである。つまり、近代以前には国家領域のなかにさまざまな民族的集団(エスニック・グループ)が含まれていたことが多い。一般に連邦制はそれらの諸地域あるいは諸民族がどのように連合し、あるいは統合されたかということを反映しているのである。そして、アメリカの場合は、いうまでもなくネーティブ・アメリカンの大地を奪取した植民地権力の連合から始まっており、この連邦国家は根本的にはとても民主主義的なものとはいえない。

 さて、「United States of America」という国名は、アメリカ独立宣言の直後に作成された一三の植民地権力の「連合規約」で定められたもので、この段階での一三植民地権力は国家そのものであり、それ故にここではStatesは「州」ではなく「邦」と訳される。これはたとえば一八一五年のウィーン会議の議定にもとづいて結成されたドイツ同盟(Deutscher Bund)と同じことであるという。このときは国家連合であって、まだ連邦ではなかった。各「邦」(ドイツでは各領邦国家)は、おのおの「邦憲法」をもち、主権は、そこにあったのである。

 これが約一〇年続いた後、一七八七年の憲法によって各「邦」は外交・軍事などの特定の権限を連邦に委譲し、連邦議会が立法権、連邦裁判所が司法権をもち、これによって連邦が形成された。アメリカの連邦制を決定しているのは憲法である。主権を憲法では連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。

 それでも、この連邦は南北戦争までは実質上は「州の連合体」の側面が大きく残っていたが、南北戦争における北部の勝利をへて連邦政府の権限が優越する側面が強化される。それは南北戦争の後に、ナショナルという名称を冠する法律がゲティス・バーグの戦いの年、一九六三年に初めて制定されたこと(National Banking Act)などに象徴されている。そして、フランクリン・ローズヴェルトのニューディールのなかで大統領権限が拡大し、ここでアメリカは連邦国家というスタイルを残しながらも、実質上は単一的な強力な国民国家に変貌した。

 これがアメリカの連邦制の簡単な経過であるが、世界的には連邦制国家はきわめて多い。具体的に挙げれば、まず英米法に属する国ではカナダ、オーストラリアがある。両国はアメリカよりも独立の時期が遅いためもあって、憲法の文面でも中央の力がアメリカよりも強いが、オーストラリアの正式国名Commonwealth of Australiaはオーストラリア連邦と翻訳されることも多い。とくにヨーロッパに連邦制が多いことが注目される。フランス革命で極端な中央集権化を追求したフランスは例外としても、ドイツはいうまでもなく、スイス連邦、ベルギー王国、オーストリアは明瞭に連邦制であり、がイギリスも、正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であって、唯一のイギリス王をいただくという意味では連邦制ではないが、アイルランドのほかスコットランド、ウェールズも連邦的分権性をもっている。スペインがバスクの分離要求にさらされ、イタリアでも北部同盟が連邦主義をかかげていることはよく知られている。

 一般的にいってヨーロッパでは国内の民族的集団が残りやすい有利な条件があったということになるだろう。もちろん、ヨーロッパの外でも、国名に連邦をふくむ諸国は、たとえば、ロシア連邦、アラブ首長国連邦、ミャンマー連邦共和国(Union of Myanmar)、ブラジル連邦共和国などがあるが、ヨーロッパに連邦制国家が多いのは、一六世紀以降、ヨーロッパが世界の他地域を支配して、その地域を破壊してきたのに対して、ヨーロッパ内部の枠組みは相対的には維持されたためであると考えることができるだろう。
 その意味でまた逆に、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどの植民地に由来する諸国で連邦制が多いのは、原国民(ネーティヴ)を抑圧して入植した植民集団による領土分割がきわめて強力であって、それが連邦制を結果していったということになる。

合衆国か合衆国か、アメリカ連邦か

 アメリカ史研究の中でも、このようなアメリカの連邦制はもっとも理解しにくいものである。しかし、これは根本的な問題なので、それを見直すために、歴史学の立場から翻訳語のもつ問題に迫っていくこととするが、ここで問題は、アメリカの正式国名、「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」の翻訳が問題になる。

 この国名は素直に「アメリカ連邦」と訳すべきものであろう。世界で連邦制国家が主要な国家の姿の一つである以上、それが国家論としても正しい呼称であろう。それはドイツの正式国名、ブンデス・レプブリク・ドイチェランドBundesrepublik Deutschlandがドイツ連邦共和国と訳されるのと同じことであるはずである(ブンデス=同盟=ユナイト、レプブリク=共和制)。しかし、日本をふくむ東アジアでは「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」は伝統的に「アメリカ合衆国」と翻訳されてきた。最近では、ジャーナリストの本多勝一が提案した「アメリカ合州国」という訳語も使われているが、考えてみると、「合衆国」にせよ「合州国」にせよ、世界に存在する他の連邦国家と区別して、アメリカについてのみ、特別な国名をあたえるというのは東アジアに独特な奇妙な現象ではないだろうか。

 「アメリカ合衆国」は、最初、アヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしく、日本でも、徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という翻訳が使われた。しかし、「合衆」というのは、中国の古典に見える「衆人を和合させる」という意味の言葉で、「合衆国」とは「王のいない国=共和国」の意味で作成された言葉である。一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの宗主国、神聖ローマ帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国、ペルシャ帝国、ムガール帝国、清帝国、さらに日本帝国の七つがあるというものであった。当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。それを知った中国の人が無理して古典から拾い出したのが、「合衆国=王のいない国」ということだったのである。ようするに、中国で作られた「アメリカ合衆国」という翻訳は、「United States of America」という英語を直訳したものではなかったのである。

 私たちは「合衆国」という言葉に国王のいない国というものに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きを見るべきなのである。福沢諭吉が、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたのも同じことだろう。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)が「合衆政治」という言葉を共和政治と同じ意味で使っていることも、アメリカ合衆国=王がいない国という通念を繰り返したものである。その意味ではこの言葉は、明治以来の日本に染みついた王のいない国柄、民主主義のお手本=アメリカという観念を言葉として支えるものだったのである。

 なお、本多勝一が、その興味深いルポルタージュ『アメリカ合州国』で提案した「合州国」は「ユナイテッド」を「合」、「ステーツ」を「州」と訳し、「合衆国」と同じガッシュウコクと読ませようというのである。「ステーツ」は「国家」という意味だが、たとえばヴァーモントは「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」であり、これをヴァーモント州と訳す。だから「ユナイテッド・ステーツ」も「合州国」と訳せばいいという訳である。たしかにこれは翻訳の正確さという点では一つの前進である。そのため相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を使うようになっている。しかし、この訳語もうまい語呂合わせではあるが、「アメリカ連邦」という単純な翻訳に劣るというほかないだろう。

 むしろ問題は、これまでUnited States of Americaが素直に「アメリカ連邦」と訳されなかった理由にある。それは端的にいえば、この訳語ができた一九世紀後半は、東アジアにおいてむしろ前近代的な国家の分権性から中央集権的な国家を形成する動きが一般的であったためであろう。たとえば、この時期、一九世紀後半に独立の王朝をもつ琉球国家を強制的に「処分」編入し、アイヌ諸民族の大地(アイヌモシリ)を奪い尽くした。そこでは連邦どころか自治権も否定されたのである。もちろん、そもそも日本自体も徳川帝国までは、幕府と藩の両方ともが主権をもつ一種の連邦制の複合国家であったことはいうまでもない。しかし、それは明治維新において、「封建的」なものとして否定されるだけで、近代的な連邦制や地方自治という方向には動かなかったのである。現在の日本国がまったく連邦制的な要素をもたないのは、なかばは明治維新によって、またあるいは急いで資本主義帝国になるために大日本帝国は例外的といえるほど連邦制の色彩のない単一の国民帝国となったのである。

 前述のように、国名として連邦制を名乗らないものをふくめれば、世界では連邦制国家は普通の国家のあり方である。日本人が連邦制という言葉を忘れがちなのは、近代日本が連邦制の対極にある国家であったからであり、「琉球処分」もアイヌモシリの略奪も忘れ去られがちで、いわゆる「単一民族幻想」が一般的であったためであろう。その意味でもアメリカ連邦という国家論的にも正しい訳語に切り替えたいものである。

連邦制の財政構造とナショナル・ミニマム
 イギリスのスコットランドやスペインのバスク、さらには旧ユーゴスラビア連邦の四分五裂の状況を考えれば明らかなように、連邦制の問題は二一世紀においても世界史の根本問題である。もちろん、各国での連邦制の実態はきわめて多様である。連邦制の共通性は、ほとんどそれらの国家がなんらかの形で連邦形式の憲法をもっていることにつきるといってよい。たとえばアメリカを連邦国家というのは、まずは、アメリカが国家連合から連邦という経過を辿り、その国家法(連邦憲法ー州憲法)が連邦制のスタイルをとっているためである。

 しかし、その連邦制の現実は憲法の文面だけからは判断できない。それはまず連邦に参加している各「邦」が、どの程度、団体としての自治・自律の権限をもっているか、また連邦国家において各「邦」の水平的な協同や意思統一が、実際の重みをどの程度もっているかに関わってくる。もちろん、そのような「邦」の自立性や水平的な連合が連邦制の理念にふさわしい形で存在している連邦国家は現実には存在しない。その意味では連邦制は本質的には一つの理念にとどまっているというべきであろう。しかも問題となるのは、このような連邦制の具体的な姿は、実際には連邦を構成する各「邦」の実質に関わることである。「邦」が、その基礎にある自治体(タウンシップあるいはコミューン)をどこまで実質的に代表しているか、その意味で「邦」が団体としての自立性をどこまでもっているかという問題である。

 そもそも、現代の諸国家は、一般に①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)からなる三層の構成をとっているが、連邦制とは直接には①と②のレベルの関係である。②の広域行政府が、さまざまな経過によって成り立った民族的・文化的・歴史的な独自性をもつものとして、法的に一つの「邦」として認められている場合を連邦制というのである。しかし、その連邦制の実質は、とくに②ー③の関係、②広域行政府(「邦」)が③の基礎自治体をどこまで実質的に代表しているか、さらに住民の自治が基礎自治体から広域行政府にいたる団体にどこまで貫いているかによって大きく異なってくる。

 アメリカを例に取ると、五〇の州の下には、現在、約五万の基礎自治体がある。その内訳はだいたい全国で約三〇〇〇の「郡county」、そしてその下部単位の「町town」が同じく約一万七千、自治性の強い「市municipality」が同じく約一万九千、さらにアメリカに独特なものとして同じく約一万四千の「学区」がある。警察や消防は自治体警察・自治体消防で、刑務所も州のみでなく、自治体で運営するなどのことはよく知られているだろう。さらにただでさえ複雑なアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしているのは特別区なるもので、これは消防・土壌保全、灌漑、上下水道などの単一のサーヴィスを提供するだけの団体であって、約三万にも上るという。

 問題は、こういう①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)という三層構造は、その国家が連邦制か非連邦制かに関わりなく、一般的であることで、右に述べたように、連邦制とは、そのうちでも②が民族的・文化的・歴史的に特殊な位置をもっている場合をいうことである。逆にいえば連邦制でない場合でも、地方自治の拡張にともない②のレヴェルに強い団体自治権が成立した場合は、連邦制国家と非連邦制国家は機能的には無限に接近していくことになる。現在においては、全体として連邦制と地方自治はしばしば相似した姿を示すのである。

 そして連邦制にせよ、地方自治にせよ、何よりも重要なのは、住民の意思が実際に、各広域行政府や基礎自治体の団体自治にどこまで反映しているかという住民の自治の問題である。バーニー・サンダースがいうように民主主義は下から上へ、ボトムからトップへ貫徹すべきものであり、住民意思が基礎自治体に貫徹し、基礎自治体同士の連携関係に貫徹し、それが広域行政府に代表され、広域行政府の連携を前提として国家権力の総体に貫徹していくこと、そしてそのようなボトムからトップへのサイクルが繰り返されることこそが、地域に基礎をおく民主主義なのである。それは、それを保障しうるような経済的・財政的なシステムをともなわなければならない。

 そして、そのような経済的・財政的なシステムは、現代においては、たんに基礎的な自治体・コミューンのレヴェルで閉じているものではなく、③コミューンをふくむ、①国民国家、②広域行政府との連携・補完の関係において実現されるものである。二〇世紀の国家は、連邦制か非連邦制かをとわず、基礎的な自治体・コミューンに対する財政的連携と補完の関係を発展させてきた。

 たとえば連邦制のカナダ、ドイツ、オーストリアでは、各基礎自治体の公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度が憲法で保障されている。そこには「連邦議会とカナダ政府は、州政府がほぼ同様な課税水準で、ほぼ同様な水準の公共サービスを提供するに足る歳入を確保できることを保証するように平衡交付金を支出する原則に拘束される」(カナダ憲法第三六条)とあって、平衡交付金という制度によって地域格差是正の処置がとられている。ドイツでも同じような財政調整制度が存在し、それはドイツ連邦共和国基本法に、その連邦の性格が「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定されていることに支えられているもので、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出するために」立法権を認められている(基本法第72条二項)。

 このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつことは明らかであろう。これが、いわゆるドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。

 また非連邦制の国家として日本を例にとると、日本の自治体の総予算うちで地方税の占める割合は長く四割を切り、六割が政府からの補助によっている。そのため長く日本の支配政党である自民党や企業メディアは、このような状態を「三割自治」と称して、「道州制」によって独立採算にすべきであると主張してきた。たしかに自治体予算が過剰で無計画な「公共事業」に割かれ、政府補助に使途規定のものが多いなかで、自治体財政が硬直化しがちであることは事実であり、それは解決しなければならない問題である。しかし、だからといって、自治体予算のうち教育やインフラなどの必須的経費が確実に保証されていることをやめてしまっては元も子もない。このような保障は、日本国憲法がすべての国民に「健康で文化的な生活をおくる権利」を基本的な人権として認め、「国はすべての生活部面について社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(第二五条)としている結果であることはいうまでもない。

アメリカの連邦制の貧困な実態
 問題はアメリカでは、後にふれるニクソンの時期の政策を例外として、以上のような地域財政調整制度がまったく存在しないことである。そもそも、アメリカ連邦憲法は一八世紀後期に成立したもっとも古い憲法であり、補正箇条によって一定の補正が行われてきたとはいえ、依然として、基本的な人権と社会権の項目がないという現代的な憲法思想へのグレードアップをサボってきた旧式のものである。アメリカは、他の先進諸国とは相違して、地域自治体の財政を調整し、教育や社会福祉についてのナショナル・ミニマムを保障する財政調整制度を欠くきわめて特異な国家なのである。

 アメリカの自治体はたしかに六六%を自主財源によってまかない、残余が補助金となっている点では日本の自治体と真逆である。しかし、これは決して地域に基礎をおく民主主義といえるようなものではない。その財政はつねに厳しく、しかも、初等中等教育費(三六,四%)と道路など建設維持費(五,三%)、治安警察費(八,八%)、社会サーヴィス保障費(一一,七)などの必須的経費で七割以上を占め、予算の硬直化は日本よりも激しい。教育予算をとれば、その財源は自治体の資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる(ライシュ。格差65頁)。また、社会保障については連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまうという。

 しかもアメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。大ざっぱにいえば、現在では連邦政府には所得税(個人所得税+法人所得税)の約八割、州政府には所得税の約二割弱、売上税の六割強、そして自治体には資産税の九割以上という配分になっている。そして、税収規模は連邦予算は全税収の六六・八%、州予算は一九・六%、地方自治体は一三・六%に過ぎない。現在ではアメリカの国家財政は極端な中央偏重の税収構造になっているのである。その上、ほぼすべての州憲法で州は財政赤字をだすことは禁止され、公債を組むことも困難となっている。広域行政府や基礎自治体の財政自主権は厳密には形式的なものにすぎないというべきであろう。

 ようするに、これは現代的な福祉国家の常識からいえば、実際上、国家的な責務を放棄し、住民自治の財政的条件を奪い取りながら、その責任を基礎的な自治体・コミューンに押しつけたものというほかないであろう。もちろん、アメリカにおいても州政府や自治体の努力や協同によって相当の事業が可能になる。しかし、このようにして自治権の社会的・経済的な内容の相当部分が骨抜きになっていることは事実でアリ、それを前提とすると連邦制度や地方自治制度の中身として残るものはきわめて寒々しいものになる。たとえば、国家元首クリントンは一九九九年に発した行政指令一三一三二号において「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」といっているが、これは地方自治をもっぱら地方政府の行政のあり方という狭い範囲に局限しようというものであって、住民が自治体・コミューンとそのネットワークを媒介として国家意思それ自体を積極的に形成していくという発展的な住民自治の発想を最初から排除している。

 日本の法学界では「地方自治の本旨」(憲法九二条)とは、「国民の不断の努力によって保持される」べき基本的人権(憲法一二条)を地域において保障し実現する住民の自治の営為に根付くもので、それを前提として自治体の団体自治があると捉えられている。ところが、日本の自民党がかかげている改憲案は、この「地方自治の本旨」を「地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自律的かつ総合的に実施することを旨として行う」というきわめて狭いものにしようとしており、法学界からは、これは地方自治を行政の局面、あるいはそこへの住民の参画に限ろうとするものであるという強い批判がある。クリントンの行政指令一三一三二号のいう「人々に最も近い政府のレベルthe level of government closest to the people」なる文言と自民党改憲案のいう「住民に身近な行政」なる文言はまったく同じものであって、たしかに住民自治どころか住民を「身近な」極限された空間に押し込めようとするものであるといわざるをえないだろう。

 クリントンの行政指令一三一三二号が「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」というのは、公共分野におけるナショナル・ミニマムを諦める論理として働き、新自由主義を地域から支える論理となったのである。ナショナルミニマムがないということは行政の責任を曖昧にする。その基点からアメリカの行政のあり方を問うことが、アメリカ国制史の基本問題だろう。

 私は大学は国際基督教大学でアメリカ論を考える時間はたっぷりあったはずで、とくに大塚久雄先生の御意見をうかがう機会があったのに不勉強なままできました。

 以下は、連邦制論に関わって、アメリカの国号をどうするべきかという問題で、以前、合州国の方がよいと書いたのですが、それを考え直したものです。

 日本史研究では、いわゆる複合国家論が一世を風靡したことがありますが、最近のヨーロッパの情勢をみていると、この複合国家論という論点自体は正しかったと考えるようになりました。そういうなかで研究を見直してみたものです。素人の議論ですが、御参考までに。

2017年1月 3日 (火)

ファシズムという言葉の意味をどう考えるか。

ファシズムという言葉

 ドナルド・トランプは「偉大なアメリカよ。再び」というスローガンで大統領になった。この主張は、しばしば「ファシズム」的であるといわれる。たしかに、アメリカの最近の動きをみていると、アメリカに、初めて、それらしいファシズム運動が生まれ、実現の道を歩んでいるようにみえる。しかし、ファシズムという言葉は歴史学においてもはっきりとした定義がない言葉であり、また欧米語としてもきわめて曖昧な言葉である。

 ファシズムの語義から調べていくと、まずこの言葉の語幹、ファッショは、もともとラテン語の「束」という意味の言葉、ファスケースFascesに由来するものである。左にファシズムという言葉を初めて使ったムッソリーニのファシスト党の標章を掲げた。この真ん中に描かれたものがファスケースである。斧に木の棒の束を革紐で結びつけている模様である。このデザインは当時のイタリア国王の紋章などにも描かれているが、ムッソリーニはイタリアの多くの建造物のレリーフなどに、このファスケースの模様をあふれさせた。ファシスト党は、立党のしばらく後、一九二二年、この党章を旗印として、ローマに進軍し、それを背景として政権を奪い、ファシスト大評議会を基礎とする一党独裁制を固め、ユーゴスラビアに進出し、アルバニアを保護国とするなど一挙に勢力を高めた。

 ヒットラーが、ムッソリーニのローマ進軍の翌年、ミュンヘン一揆を起こし、ベルリン進軍を呼びかけたが、それは失敗に終わった。それゆえに、当時は、ナチスのハーケンクロイツ(鉤十字)よりも、このファスケースの方が有名だったのであり、そこからファシズムという言葉が生まれたのである。

 もちろん、ファシスト党もナチスも、議会・憲法を停止して、軍事行動や謀略で独裁を行うという点では同じである。ドイツは、イタリアに一〇年遅れたものの、一九三二年の総選挙でナチスが第一党となり(ナチス二三〇、社会民主党一三三、共産党八九)、翌年首相に指名されるや、国会議事堂放火事件をでっち上げ、ワイマール憲法を停止する全権委任法を押し通してナチス一党独裁を実現したのである。それ故に、イタリアのファシスト党もナチスも同じようにファシズムといわれたことに不思議はなかった。

 ファスケースがラテン語の「束」という意味であることは右に述べた通りであるが、斧に木の棒の束を革紐で結びつけたファスケースという物、それ自体は、古代ローマの王あるいは執政官に付き従った護衛が、権威の標章として肩に担いでいたもので、日本語では儀式のための斧、つまり儀鉞(ぎえつ)とか、木の棒を束ねているという意味で束桿(そっかん)などと訳される。これはローマの王あるいは執政官の権限、命令権を象徴するものなのである。この命令権はインペリウムと呼ばれ、それがインペリアリズム(帝国主義)の語源となったのであるが、ようするにファスケースの模様は、国家の至高の命令権(インペリウム)の周りに結集せよという意味を含むわけである。

 ムッソリーニは、そこから「我々は束だ、ファッショだ」と呼びかけた訳である。ファッシネート(fascinate)というと「魅惑する」「魔法で人を縛り付ける」という意味であるが、その語源もファスケースと同じであるらしい。そして、そもそも、このファスケースの模様は国家を象徴するシンボルとして決してめずらしいものではなかった。アメリカでもワシントンが初代大統領に選出された年、一七八九年に連邦議会下院は、議会の衛視の標章として、このファスケスを採用している。アメリカ「独立革命」の指導者たちは、フランス革命にならって共和制の象徴としてローマの古典主義を尊重していたが、これはローマの儀礼をそのまま真似したものである。アメリカにはそのほかにもファスケースFascesのデザインは多く、ホワイトハウスの大統領執務室(オーバルオフィス)のドアの上や、下院本会議場の演壇の国旗の両側にあり、さらにリンカーン記念館のリンカーン像のイスの前面にも彫り込まれているという。そもそも、棒を束ねるということ自体は、イソップ物語に「一本の木の棒は折れやすいが束にすれば折れない」という話があるのと関係するらしい。毛利元就の「三本の矢」と同じ話である。

 七〇年ほど前、ジョージ・オーウェルは、「ファシズムとは何か」というエッセイで、ファシズムという言葉は、非常に定義しにくい。実際の使われ方からするとほとんど無意味な言葉だといっているが、しかし、そうはいっても、欧米では、ファシズムといえば、上記のような語義、語感、ニュアンスは伝わるのだろう。
 しかし、日本語でファシズムといった場合は、カタカナの外来語であって、その意味はオーウェルのいう以上に曖昧になる。それ故に、「トランプはアメリカに初めてファシズムを実現するかもしれない」といっても、学者、政治家、ジャーナリストでない人には正確なところは伝わらないことになるだろう。というよりも学者も、ファシズムの定義とナルトほとんど曖昧なのが実際なのである。

 私の専門領域をまったく外れるが、ファシズムという言葉について考えている。上が、その経過的な報告。

 それでは、このファシズムというのを日本語にどう訳すかだが、やはり、超国家主義という言葉に翻訳して使うことになるのではないかと思う。ただ、それは英語で言えば、ウルトラ・スタティズム(ultra-statism)である。丸山真男のいうようなウルトラ・ナショナリズムではないのではないかと思う。
 それは明日考えたい。

2017年1月 1日 (日)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望(ロバート・ライシュ)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望
                        2016年12月31日土曜日  ロバート・ライシュ
 ドナルド・トランプは、2016年の最後の日に次のようにツイートした:

 「すべての皆におめでとう。私の沢山の敵や、私に反対してひどく負けてしまって、どうしていいかわからない人へも。愛してるよ」。

 すぐにアメリカ合州国大統領になろうとしている男が、いやしい精神で、浅薄で、ナルシスティックな、そして報復的な性格を表し続けている。

 トランプは、世界を個人的な勝利か敗北か、敵か友人か、サポーターか批判者かという点から世界を見ている。
大統領は個人的な敵意を越えて、公共的に信託された職を維持しなければならないものなのだということもまだわかっていない。

 大統領は、彼に反対票を入れ、また彼に反対し続けるかもしれない人々を含む、すべてのアメリカ人を代表するものとされている。

 民主主義において、大統領の政策に対して戦う人々は、彼の個人的な敵ではない;
彼らは、反対党派であり、批判者である。

 中傷されたり、敵と分類されたり、報復されることを心配せずに、政権を握っている人々に反対する自由。それに民主主義は依存している。

 新年おめでとうございます、トランプさん。

 あなたには、大統領としての行動を学ぶために20日間あります。
 あなたの方針に反対し、あなたの人格について心配している我々のすべてが心から望むのは、その学びです。

2016年11月19日 (土)

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

 11月16日、水曜日夜、バーニー・サンダーズ上院議員は、選挙が終わってからはじめて、まとまった演説をし、大きな注目を集めた。フェースブックでは、もう60万の人がみている。https://www.facebook.com/PoliticalRevolution/videos/1308001395918740/。

このワシントンのジョージタウン大学で行われた演説で、サンダースは、いくつかの問題についてトランプ次期大統領とともに働けることを希望しているといった。

 しかし、同時に、そのためにも、極右のジャーナリストのスティーヴ・バノンを戦略アドヴァイザーに選任することを再考するように要求した。スティーヴ・バノンは人種主義と性差別と外国人ヘイトと同性愛嫌悪で有名で、さらに反ユダヤ主義者でもある。 

 サンダースは、アメリカは徐々にさまざまな差別を克服するところに進み出てきたのであって、アメリカ合州国の大統領のそばに人種差別主義者がいることは受け入れられないと強い調子で釘をさした。

 彼のスピーチは、依然として激しい口調で、74歳とは思えないエネルギーに満ちているが、他方、その演説は、サンダースがきわめて柔軟な政治家であることも示した。つまり、サンダースは、ドナルド・トランプを攻撃するのではなく、むしろ、トランプが大統領選挙における演説で約束した、大多数の共和党の政治家とは異なる公約を具体的に取り上げて、その実行をせまったのである。それは下記のようなもの。

 (1)トランプ氏は社会保障予算をカットすることはしない。メディケアとメディケードを切ることはしないといった。私は拡充せよと主張するが、切らないというのは前提であり、重要な約束だ。

 (2)トランプ氏は、1兆ドルを我々の公共的なインフラ整備に投下すると約束した。それをすれば何百万もの給料の良い仕事口ができる。これも私の主張に共通する。

 (3)私は、今日の連邦の最低賃金が飢餓賃金であり、それは1時間につき15ドルにアップされねばならないと主張した。トランプ氏は、1時間につき10ドルまで最低賃金を上げなければならないと言った。これは十分ではないが、一つのスタートだ。

 (4)トランプ氏は、ウォール街の許しがたい強欲さと悪行を批判し、ニューディールで採用されたグラス・スティーガル法を復活するといった。これは最大の焦点のひとつだ。賛成なことはいうまでもない。

 (5)トランプ氏は、6週の有給出産休暇を実現すると約束した。地球上で主要な文明国といえば少なくとも12週の有給の家族と病気療養休暇が条件だが、これもスタートとしては重要だ。

 (6)トランプ氏はTPPなどの我々の壊滅的な貿易政策を変えるといった。これも賛成だ。


 時代錯誤の無知で頑迷な人種差別、外国人ヘイト、性差別などではまったく妥協はしない。しかし、以上が、誠実に行われるかどうかが問題だ。
 大統領候補が、この国の労働家族に偽善や嘘をいうことはゆるされないことは分かっているはずだ。これらを注意してみていくし、一緒にできることはいくらでも協力する。期待していると言ってもよい。
  
 以上が演説の主な内容の一部。

 面白いのは、サンダースの口調は、きわめて激しいし、表情も豊かだが、よい意味で、いつも同じことをいっていることだ。私は英語を聞き取るのは得意ではないが、民主党第一次選挙のときから聞き続けていたので、だんだんなれてきて分かるようになった。とくにデモクラシー・ナウというアメリカの番組では、書き起こしがついているので、分からないところはそこをみればだいたい聞き取れる。https://www.democracynow.org/2016/11/17/bernie_sanders_calls_for_trump_to_ax

 口調が、きわめて激しく表情も豊かだが、いうことが同じというのは、アジテーターであり、実際には霊性な知性派であるということでもあろうが、しかし、バーニー・サンダースは決して人に嫌われるタイプの人間ではないようだ。

 すでに『バーニー・サンダース自伝』(大月書店)が翻訳・発行されているが、『Our Revolution』という続編がアメリカでは11日に発行されたはずだ。

 日本の野党や市民勢力とアメリカの先進的な勢力との交流は必然的に進むだろうから、サンダースの演説を聞く機会はふえるに違いない。

 この日、水曜日、彼は、この日の昼、はじめて上院民主党の執行部に選出された。新設の普及(アウトリーチ)委員会の責任者となり、上院予算委員会の上級議員にも再任された。共和党は、上院で民主党に負けたら、サンダースが予算委員長になってしまうと危機感をあおり、一議席多数を維持したが、ぎりぎりだったわけだ。

 ウヲール外オキュパイ運動の中心をになったエリザベス・ワレンも執行部入りしたから、民主党上院執行部は先進派が有力な役割を担うことになる。

 なお、いまの焦点は民主党の全国委員会委員長に誰がなるかである。サンダースらはケイス・エリソンを推薦している。それが実現すれば、民主党は大きく変わり、アメリカ政治の非効率さの象徴である二大政党制は上から解体の方向に進むだろう。

 民主党が変わらなければ、4年後には第三党の形成に進むのかもしれない。共和党がどうなるかも波乱含みだからアメリカの政治はあきらかに激動期に入った。

 サンダースの主張は昨年までの民主党の枠組みを明らかに超えている。サンダースの行動は、舞台の外ではなく、舞台の中心にでてきている。サンダースは、この間、アメリカで起きるさまざまな問題に的確で適時のメーッセージをだし、演説をし、それは相当のインパクトをもっている。これが続くと、サンダースの行動は、このままでも、実質上、第三党の役割を果たすことになる。

2016年11月10日 (木)

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明 20161009

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明
                                 20161009
「ドナルド・トランプは支配勢力の左右する経済・政治・メディアにあきれて嫌になった没落する中流階級の怒りと響きあった。人々は、領事館の労働と低賃金が嫌になり、然るべき支払いのある仕事口が中国などの外国に行くのをみているのが嫌になり、億万長者が連邦の所得税を支払わないのに嫌になり、そして子供たちが大学へ行く学費の余裕もないのに嫌になっている。それにも関わらず、大富豪はさらにリッチになっているのにあきれているのだ。

 トランプ氏が、この国の労働者家族の生活をよくする政治に誠実に取り組むならば、それに応じて私と、この国の先進的勢力は協力する用意がある。人種主義者、性差別主義者や外国人ヘート、そして反環境主義の政治の道を行くならば、我々は精力的に彼に反対して行動するだろう。」

 アメリカの進歩勢力に頑張って欲しいと思う。トランプに対してはしばらく我慢をすること、軍警察、KKKのような危険な動きとできるかぎり連動させないようにすること。1年2年もたせて4年後への展望につなげることだと思うが、それらはバーニー・サンダースは十分わかっているだろう。

 しかし、ヒラリー・クリントンは政治家として終わり。彼女はバーニー・サンダースに謝らねばならない。それができなければ完全に終わる。政治家にも仁義というものはあろう。彼女が今後できる唯一の役割がそれだろう。

2016年9月 7日 (水)

アメリカの選挙のおそるべき汚さ


 アメリカの選挙にはすでに憲法のレベルで制度的な欠陥が多いというのがアメリカの政治学会の常識であるが、ただ、、制度的な欠陥には歴史的な理由や経過があるものであって、それらを解決するためには一定の時間がかかる。しかし、選挙の実際の運用に関わる問題は、それとは別のレヴェルの問題であり、アメリカの選挙の実際において何よりも驚くべきなのは、その恐るべき汚さである。

 ここでは大統領選挙に限らず、選挙一般について確認していくことにするが、まず第一は、選挙権そのものの問題である。民主主義国家においては国民に選挙権を保障することは何よりも重要な行政の義務である。しかし南北戦争後に制定されたアメリカ合州国憲法修正一五条は、黒人に投票権をあたえたものの「投票権は拒否されることも制限されることもない」という消極規定であって、選挙権を「国民固有の権利」とする(日本国憲法一五条)常識的な規定とは異なる不十分なものであった。しかも、アメリカでは二〇世紀初頭、投票権を国民に自動的にあたえずに事前登録を義務づけ、移民や黒人の投票を抑制する措置がとられた。これは公民権法のなかで成立した投票権法が成立した後も根幹として維持されており、そのためアメリカでは、七〇年代以降も、三〇%ほどの国民が選挙権をもっていない事態が続いている。とくに白人の有権者登録率は約七割、黒人は約六割、中南米系は約五割強にとどまるという実態は、アメリカが民主主義国家とはいえないことを示している。

 こういう国家における政治家や官僚その他、何らかの形で税金によって生活を維持している人間で、選挙権を国民に保障することを第一の義務として行動しない人間は、主権者を主権者と考えない人間であり、また主権者の税金を不当に所得している人間である。そのような人間は民主主義者ではないことはもちろん、そもそも非道徳な人間であって社会的に排除するべき存在である。彼らは、それだけでなく、こういう実態をさらに悪化させようとしている。

 これは社会的な犯罪者あるいはその予備軍であるとしかいいようがない存在であろう。問題は、アメリカではこういう社会的な犯罪者あるいはその予備軍が大きな顔をしていることである。つまり、二〇一三年、アメリカ最高裁は、投票権法にもとづくガイドラインの一部を違憲だとして、州による投票制限の道を開いた。これによって相当数の州が投票制限法を強行し、その中で、(すべての人がもっている訳ではない)運転免許証やパスポートなどの写真付き身分証明書の提示、選挙投票日当日の有権者登録の廃止、事前投票期間の短縮、日曜日の事前投票への制限、事前の住所変更申請などの問題が発生している。投票する時間や手続き条件をもたない人間は実力がないのであって、そういう人間は投票しなくてよい。そういう人間はアメリカ民主主義の誉れにふさわしい人間ではない。そういう人間は二級市民であって、その投票は抑圧してよいという訳である。最高裁は、アメリカの超富裕者(ヴェリー・リッチ)に対して「アメリカの経済のほとんどを所有しているあなた方は、ホワイトハウス、政府、連邦議会、州知事、州議会をも買い占めていい」といったのだ、というのがサンダースの評価である(サンダースHP、issues)。

 さらに汚らしいのは、アメリカでは国勢調査のある一〇年ごとに州の選挙区の形を操作して無風選挙区を作り出す二大政党の裏取引が行われることで、この選挙区の形を怪獣のようにするゲリマンダーといわれる詐術も、最高裁判決によってさらにやりやすくなってしまった。有り体にいえば民主党支持者が多い区域を作って、そこでは民主党が圧倒的に勝利をするが、他の地区では共和党がかならず勝利するか、いい勝負ができるように選挙区の形を操作するのである。とくに連邦下院議員選挙の選挙区は各州の知事・議会において圧倒的に共和党有利のゲリマンダーが行われており、これをくつがえすのはすぐには困難という状況ができあがっているという。
 こういう神経をもつ社会的犯罪者たちは、投票日当日に投票妨害を強行することも辞さない。サンダースは「人々はどの選挙でも投票するのに何時間もまたなければならない。これは国民的な不名誉だ」と述べているが、アメリカの野蛮な社会的犯罪者は、どれを不名誉とは考えない。今回の予備選挙でも問題になったように、不利になりそうなところでは民主党・共和党の裏取引の下で投票所それ自身を閉鎖したり、数を減らすという破廉恥な行動が行われている。

 二〇〇〇年のゴアとブッシュの大統領選挙の際に、投票機械がわざと古いままに置かれているという事実が明らかになったことは世界を驚かせたが、今回、二〇一六年の大統領選挙において、どのような不正が、どのような勢力によってどう行われたか。これはバーニー・サンダースに対する支持が、ここまでに達したという情勢のなかで、今後、さらに赤裸に明らかになっていくであろう。

 破廉恥政治の当人たちにとっては選挙はゲームの対象である。彼らは、そのゲームを巨大な金の動くビッグ・ビジネスとし、そこに巨大な害虫のように寄生している。たとえば、トランプの選対本部議長であったポール・マナフォートはウクライナのヤヌコヴィッチ前大統領のコンサルタントという経歴でロシアのプーチンとの関係もあるという人物で政治宣伝のプロである(二〇一六年八月に辞任)。またビル・クリントンの選挙参謀・政治コンサルタントをつとめたディック・モリスは、スキャンダルで辞任した後、共和党のマサチューセッツ知事、アルゼンチン・ウルグアイ・メキシコの大統領選挙で活動した選挙戦略家で、オンライン投票システム(Vote.com)の代表でもあるという人物である。以前の日本では、こういう存在を政治ゴロといっていたが、最近では、日本でも電通が同じような選挙ヤクザの役割を果たすようになったことはよく知られている。しかし、さすがにアメリカの「政治ゲーム市場」は国際的である。

 ゴアは、イラク侵攻の直前のアメリカ上院が静かだった理由を、議員たちの多数が間近の選挙でテレビコマーシャル枠を買うための資金集めイヴェントに出席していたためだと証言している(『理性の奪還』)。そしてゴアが敗北した大統領選挙の年の選挙戦全体にかかった費用は三〇億㌦であったが、二〇〇八年のオバマ選出の年には五三億㌦にまで達している。バーニー・サンダースがいうように、これは億万長者と企業権益による政治の買い占めである。しかも、二〇一〇年、最高裁のシティズン・ユナイテッド訴訟判決は、諸団体が選挙の前にテレビ宣伝をすることを禁止していた選挙運動改革法を「表現の自由」の名のもとに違憲であるとして金権選挙をさらに野放しにした。このような法律家のことを東アジアでは伝統的に「法匪」と呼ぶことになっている。

2016年8月29日 (月)

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

 「私たちのつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。私たちは、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている」。これはオバマ大統領の二〇〇九年の就任演説の一節である。アメリカにおける民族の多様性がアメリカという国家にとって一つの「強み」に展開した、また民族差別(「人種=マイノリティ差別」)が消滅した、あるいは消滅の方向が決定的であるという宣言である。
 たしかにオバマが大統領になったことは、一九六〇年代初頭に始まった公民権運動の一つの到達点を示している。しかし、それはまた、ブッシュ(子)政権においてコリン・パウエルとコンドリーサ・ライスの二人のアフリカン・アメリカンが続けて国務長官となり(おのおの二〇〇一年~二〇〇五年、二〇〇五年~二〇〇九年の在任)、中東戦争を主導したことの直接の延長線上に生まれた事態なのである。オバマも中東における戦争の責任者であって、中東の人々からいえばパウエル・ライス・オバマはほとんど区別はつかないであろう。植民帝国のトップが奴隷主によって占拠されていた一九世紀前半までと比べれば、アフロ・アメリカンの人々がアメリカの国家中枢のトップを占めたということは、たしかに世界史のなかで奴隷的な民族差別はかならず消滅していくことの証拠であるが、しかし、それが自己を戦争責任者とするところに展開したことは深刻な問題である。パウエルは、それを実感しているに相違ない。パウエルは国務長官として「イラクが大量破壊兵器を開発している」という虚偽をイラク戦争の開戦理由として主張したが、それが恥辱的な誤りであったことを認めた。
 ただ、ここでとくに紹介しておきたいのはライスである。彼女はアラバマ州バーミンハムの豊かな牧師と教師を親とし、縁の深い知人の縁戚にコリン・パウエルがおり、恩師はパウエルの前の国務長官マデレーン・オルブライトの父親というアフリカン・アメリカンのエリートを絵に描いたような女性である。しかし、バーミンハムの位置するアラバマ州は一九六二年に人種差別主義者として有名な民主党のジョージ・ウォレスを知事として圧倒的な得票で当選させた州である。知事選においてウォレスが掲げたスローガンが「今こそ黒人を隔離せよ! 明日も、さらに永遠に!」というものであった。
 そして、バーミンハム自体が白人暴徒の爆弾テロが日常茶飯事で「ボミングハム(爆弾の町)」という異名をもつ町であった。そういう状況のなかで、公民権運動の昂揚にともなって、一九六三年、マーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとする南部キリスト教指導者会議が行動を起こした。実は、バーニンハムの警察・消防署長は、南部のレーシスト犯罪集団、クー・クラックス・クラン(K・K・K)のメンバーであったが、彼がバーミンハム市長に立候補して穏健派に敗北を喫するというチャンスをねらって、選挙直後、四月に大規模な非暴力行動を開始したのである。それは「南部キリスト教指導者会議」(SCLC)全体の意思統一にもとづく行動で、行動参加者は、非暴力を誓約して効果的な抗議の仕方と自分の身体の守り方を訓練するという徹底したものであった。
 しかし、問題の警察署長は市長が交代したにもかかわらず、その職に居直り、警察とK・K・Kが一体になって非暴力の運動参加者に殴りかかるという狂気をあらわにした。その映像が全世界に流れて大きな衝撃をあたえるなかで、キング牧師は、これに抗して、南部を中心として全国各地から暴力の停止、人間的な自由と仕事を要求するワシントン行進を行うことを宣言した。そして、八月二八日、キングはワシントンのリンカーン記念堂の前で有名な演説「I have a dream」を行ない、圧倒的な迫力をもってアメリカの国家権力を抑え込んだのである。その演説の一節には「この瞬間の緊急性を見過ごし、黒人の固い決意を見損なったら、国家は致命傷を負うでしょう」とあり、時の大統領ケネディも、それを支持する態度を明らかにした。ケネディは問題がアメリカの国家としての体面に関わるものとなったことを確認し、ここではっきりと梶を切ったのである。
 さて、説明がながくなったが、パウエルやライスにとっても、このバーミンハムにおける対決が決定的な意味をもっていたことは明らかであろう。とくにライスは、このなかで友人の少女をK・K・Kに殺害されている(New York Times 2000年12月18日付)。ワシントン行進の翌九月、クー・クラックス・クランが、公民権運動の関係者の教会であるというだけで、バーミンハムの一六番街バプティスト教会に時限爆弾を設置したのである。聖歌隊の衣装に着替えるために更衣室にいただけの少女が殺されたのである。その葬儀にはキング牧師が説教している。ライスは「両親の励ましがあったおかげで、大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」と子供時代について語るが、そこにはキングの「私には夢がある」という声が響いていたに違いない。

ケネディ暗殺とベトナム戦争

 キング牧師の説得力は圧倒的なものがあった。もちろん、アメリカの支配層のなかに根強く存在したレーシスト(人種主義)勢力は暴力を行使し続けたが、公民権運動はこのとき、アメリカの国家権力を抑え込むことに成功したのである。
 しかし、問題は、このときベトナムにおいてアメリカが決定的な間違いをおかしていたことである。つまり、第二次大戦後のインドシナ内戦は、一九五四年のジュネーブ協定はフランスの植民地宗主権を否定し、ホーチミンに率いられたベトナム民主共和国と南ベトナムのバオダイ王権(フランスによって傀儡として担ぎ出された旧阮王朝の王)の間での和平にもとづいて二年後に統一選挙に入ることが合意されていた。しかし選挙でベトナム民主共和国が勝利することは確実とみたアイゼンハワー大統領はジュネーブ協定をやぶってバオダイ王権の首相ゴ・ジン・ジェムを居すわらせ、ベトナムに介入したのである。
 ところが、ゴ・ジン・ジェム政権はもっぱら王朝的な私欲と無秩序という正体を現して、ベトナム民衆の反発をうけ、南ベトナム解放戦線の結成によってジェム政権は崩壊の道に入った。そのなかで、ケネディは、一九六一年初頭、大規模な軍事顧問団を派遣してベトナムへの介入をエスカレートさせたのである。アメリカは、国防長官マクナマラが後に自己批判とともに述べているように、東アジアの歴史について無知なまま、ホーチミンの北をもっぱらソ連や中国の手先と見誤っていた(マクナマラ回顧録)。そもそも、日本とフランスからのベトナム独立を主導したホーチミンは、インドシナへのアメリカの介入をもっとも恐れており、それもあってベトナム独立宣言をアメリカ独立宣言の「すべて人間は平等に造られ、造物主によって一定の奪いがたい権利を付与され」という一節の引用で始めたという深慮遠謀の政治家である。現実の政治においては援助を確保する関係で、ソ連と中国という「社会主義」両帝国との関係に配慮したとはいえ、ホーチミンは最後までアメリカとの軍事対決をさけジュネーヴ協定にもとづく平和を追究していた。しかし、アメリカには自己がジュネーヴ協定を破り、国際法上の不正義を行っているという常識はなかった。マクナマラの回顧録にもそのような言及は一言もない。
 アメリカはアジアを包括的に支配しようという巨大な野心に目がくらんでいた。問題はそれがソ連にとっても同じことであったことであって、このころ、この二つの帝国は危険な意地の張り合いをヒートアップさせていた。まずケネディの大統領就任の前年、ソ連領空に潜入していたアメリカの覆面偵察機U2が撃墜された。そしてケネディが就任した一九六一年にはソ連が有人衛星による地球一周に成功し(ガガーリン搭乗、ヴォストーク一号)、さらに核実験を再開する。そしてそれに対して、アメリカも有人ロケット第一号を打ち上げ、核実験を再開する。核軍拡は宇宙軍拡に及んだ。そして、一九六一年に東ドイツがベルリンに「壁」の建設を開始し、翌一九六二年一〇月にはソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚し、状況は核戦争の一歩手前までいったのである。
 現在からみればソ連の「社会主義」なるものはソ連帝国の全体主義的性格を飾るものに過ぎず、アメリカの「自由」なるものは国内の民族差別を解決しないままの大言壮語に過ぎなかったことは明らかである。しかし、このときは、両方とも、相手のこけおどしのイデオロギーを恐怖し、実態とは異なる虚像に踊らされていたのである。とくにアメリカの側は「社会主義圏」なるものを過大評価し、それが一枚岩となって全世界でアメリカの権益を狙っているという過大な恐れ、いわゆる反共主義によって自己呪縛の状況にあった。ケネディは早い時期にベトナム介入の判断の誤りを自覚したといわれるが、こういう文脈にとらわれてベトナムをみていた以上、その道を引き返すことは困難であった。
 決定的であったのは、一九六三年、ベトナム仏教会がジェム政権の仏教弾圧に対して、サイゴン街頭で僧侶が焼身自殺するという激しい抗議行動に立ち上がったことであった。これは、バーミンハムの警察とK・K・Kが公民権運動に暴力を振るっていた、まさにこの時のことである。アメリカとベトナムは一つのカオスのなかに投げ込まれた。そして、しばらく後、アメリカとジェム政権の関係が不透明になるなかで、駐アメリカ大使を実質上の後援者として、一一月、ゴ・ジン・ジェム政権はベトナム軍のクーデターによって崩壊したのである。ケネディ政権は事態の掌握すらできていないという最低の状態で、このニュースを聞いて顔面蒼白となり、ベトナム政策の見直しを指示したという。
 しかし、一九六三年一一月二二日、翌年の大統領選挙をひかえて、南部での公民権法への支持が決定的だと考えて、テキサスにむかったケネディは、ダラスの町をパレードしている最中、熟練したスナイパーによって殺害された。ケネディは、あたかもその死をもって公民権法をあがなったかのようにさえみえる。奴隷解放宣言を発した後に暗殺されたリンカーンと重なるイメージである。ケネディ暗殺の背後にはケネディが公民権運動に明瞭に賛同する立場に梶を切ったことに反発する凶暴な人種主義勢力があったことは確実である。

「ブラックパワー」運動とキング牧師の暗殺

 副大統領としてケネディを引き継いだジョンソンは、ケネディより年長でフランクリン・ルーズヴェルトに引き立てられた民主党の南部ニューディーラーであった。彼は人種差別を違法として公民権運動の法的な出発点をあたえた一九五四年のブラウン判決(■■■)に対する南部連邦議員の抗議宣言に加わらなかった三人の上院議員の一人であって、公民権運動の意義は十分に理解していた。ジョンソンは、南部民主党の頑強な抵抗をおさえて、一九六四年六月、公民権法を通過させたのである。これによって投票権登録の際の読み書きテストなどが禁止され、公共施設や学校における人種差別・隔離が非合法化された。
 ジョンソンも必死であった。ジョンソンは、ケネディの死の翌年、一九六四年、次期大統領に立候補するにあたって、「偉大な社会」計画を打ち上げ「貧困との闘争」をうたった。これはジョンソンのニューディーラーとしての識見をよく示す大規模な福祉政策をふくむ構想であり、この計画は黒人の経済的・社会的条件の改善の面でも相当の意味をもったのである。ジョンソンは黒人のデモや主体的な政治参加には一貫して消極的であったから、公民権運動のなかには批判が強かったが、キング牧師は南部政治の現実の厳しい状況も勘案して大統領選挙にあたってジョンソンを支持したのである。これがケネディの死への同情とあわさってジョンソンは記録的な大差で大統領選に勝利した。
 しかし、それにも関わらず、南部では無知な白人暴徒による妨害がはげしく、黒人の投票権登録は現実にはほとんど進まなかった。とくに問題となったのが、一九六五年初頭から、バーミンハムの南のセルマの保安官が投票権登録を暴力的に抑圧したことで、駆けつけたキング牧師までが一時逮捕され、さらには州警察が公民権運動の活動家を殺害するという事件が発生した。これに対してキングらはセルマへの抗議の行進を組織したが、アラバマ州知事のウォレスの指示によって警察は催涙弾を発射し棍棒で殴りかかった。しかも、それに続いて白人暴徒がボストンから支援に入っていた白人の牧師を殴打して殺害するされて死去するという事態となる。「血の日曜日事件」である。これも大問題となり、結局、これによってジョンソンはキングの要求をうけて、投票権登録手続きを連邦政府が保護する投票権法を通過させ、それは一九六五年八月に発効したのである。
 しかし、ジョンソンの躓きは、彼がニューディラーであるとともに、第二次大戦における戦功を勲章として上昇した政治家であったことであった。ジョンソンは大統領就任直後にベトナムでの勝利を目標とすることを宣言したという。そのような立場から、ジョンソンは一九六四年に公民権法を成立させたしばらく後、トンキン湾で米軍駆逐艦が北ベトナムから、二次にわたって攻撃されたことを理由として、議会に戦争遂行権限を認めさせた、この事件は、一次目は米軍の挑発によるもので、二次目は虚報であったことが後に明らかになったが、議会では下院は全員賛成、上院では反対はあったものの三人のみという滅茶苦茶な事態であった。そして、アメリカは、一九六五年、北ベトナムに対する北爆開始し、さらに地上軍覇権という泥沼に入り込む。三〇〇万のベトナム人と五万八〇〇〇人のアメリカ兵が死ぬという無益な戦争であった。
 マクナマラが述べているように、ケネディの暗殺がなければ、戦争の泥沼化の様相は若干なりとも異なっていたかもしれない。これは一種の神話であるかもしれないが、当時を想起しつつ、この時期の記録を読んでいると、巨大なアメリカのシステムを動かしていた人々の人間的な弱さが破壊的な結果をもたらしたという歴史の偶然性に衝撃をうけるのである。
 これに対して圧倒的な正義を体現していたのがキング牧師であった。キングは、南部における公民権運動の主要な担い手であった南部キリスト教指導者会議が躊躇するなか、一九六六年一月、「クリスチャンとしては、この戦争は誤りだというほかない」と声明した。そして、一九六七年に出版した著書『我々はこれから何処へ行くのか』において、キングは成熟した社会科学者としての声をもって語る。「連邦政府は、自国内での貧困に対する戦争に勝つよりもベトナムでの無分別な戦争に勝つことに深い関心をもっている」というのである。そして彼は、公民権運動の総括をする口調で、一〇〇年の奴隷制の時代と、一〇〇年の差別の時代の根元に対して、一〇年間、攻撃をかけ、その基礎を削りとることに成功したとして、南部諸州では黒人の投票権登録は少なくとも一〇〇%、とくにバージニア州とアラバマ州ではそれぞれ三〇〇%と六〇〇%を増加させたという。しかし、キングの現状認識はきびしい。つまり「南部キリスト教指導者会議が一九六三年にバーミンハムに入っていったとき、それはその年を変えようとする計画であった」「闘争は全国的な規模で行われたのものではなかった。それをしたのは南部人だった」「北部のゲットー、北部の黒人社会には沈滞が重く立ちこめている」「もはやこれ以上引き延ばしてはならないのは北部の大都市である」「本当に高いコストを必要とするのは、これから先のことなのだ。白人の抵抗が強くなるのは、この事実を物語っている」というのがキングの分析である。
 こうしてキングは、「潜在的に爆発性をそなえ、短い導火線と長い虐待の経験をもつ北部の黒人社会」に活動の重点を移し、白人を含めた貧困との闘争に本格的に取り組み、合州国中枢を本格的に変革する道に踏み出たのである。それと同時にキングはベトナム反戦運動にもはっきりとしたイニシアティヴを示し、一九六七年四月一五日のニューヨーク、セントラル・パークでの反戦集会では全国の反戦運動と合流することを宣言した。
 キングが、ここまで踏み切ったのは、結局、黒人運動にとって何よりも重要なのは非暴力の真理であり、また信仰にもとづくものかどうかは別としても正義と博愛のパワーであるという考え方であったように思われる。つまり、この年、一九六七年、全国五九の都市で黒人の暴動が発生した。この年をふくむ九年間で数えると全国三〇〇都市で五〇万人が暴動に参加し、二五〇人が死亡、一万人が重傷を負い、六万人が逮捕されている。いわゆるブラックパワーの運動である。
 このブラックパワーという主張は、南部キリスト教指導者会議ではなく、北部にも拠点をもつ全国組織、人種平等会議(CORE)と学生非暴力調整委員会(SNCC)で優勢になった主張である。キングはSNCCでそれを主張したストークリー・カーマイケルなどに対して、暴動をあおるようなブラックパワーというスローガンが、公民権運動における最大の強みであった非暴力の思想を無効化させるものであり、無益な盲動であることを必死になって説得したが、それは届かなかったのである。たしかに、人種主義の暴力に向き合っていた人々が、ベトナムにおける戦争暴力の惨酷さを誇示するかような連邦政府に対して一種の世界観的な憎悪を増幅したことには十分な理由があった。それだけに、キリスト者であると同時に賢明な社会運動家であったキングは、これを前にして座視することはできなかったのであろう。
 そして、ここでも悲劇が起こった。公民権運動においてイスラム教の立場からキングとならぶ働きをしたマルコムXが、一九六五年二月、暗殺されたことである。マルコムXは一時期、自衛のためならば実力行使はありうるという立場を表明していたが、しかしアフリカを歴訪するなかで考えを改めてキングに近づいた人物である。それだけにキングとの間で広い連合が始まれば、それはきわめて大きな意味をもったに違いなかった。その暗殺は奇怪なもので、真相は不明である。
 このなかでキングは苦闘を重ねたが、一九六八年四月、メンフィスの清掃労働者のストライキ支援に向かい、労働者の組合運動とも連携する立場を鮮明にした。下記が、その際、キングが『新約聖書』のマタイによる福音書の山上の垂訓を引用しながら行った演説の結びの部分である。彼は翌日朝、ホテルのベランダにでたところを銃撃され倒れた。
さて、今後将来、何が起こるのかわたしたちには分かりません。将来には困難な日々が待ち構えています。でも、わたしはもう案じたりはしません。なぜならば、わたしは山上に登ったからです。もう不安はありません。みなさんと同じく、私も長生きがしたい。しかし物事には摂理というものがあります。だから今は思い悩んだりはしないのです。わたしは神の御意思に従いたいだけなのです。そうすると、神はわたしを山上に導いてくださいました。そこからあたりを見渡すと、約束の地が見えたのです。わたしは、あなたたちと一緒にそこにたどり着けないかもしれません(I may not get there with you)。しかし、今夜、このことだけは分かってほしい、われわれはひとつのピープルとして将来約束の地にたどり着くということを(We as a people will get to the Promised Land)。わたしは今夜幸せです。何も案じることはありません。どんな人間も恐ろしくありません。わたしのこの目が主の降臨を見たのだから。
 ここには、彼の宗教的信念とともに、自己の死を予知するかのような雰囲気があるが、キングは人種主義と戦争の暴力が蔓延する現状への怒りをたたえた瞳で聴衆を凝視しながら演説を終えたと伝えられている。
 アメリカ国家の中枢部に、もう少し信仰心があればと考えるのは私だけではあるまいが、しかし、そのような期待がむずかしいことを示したのは、キング暗殺の年の一一月に行われたアメリカ大統領選挙の結果であった。つまり、この年一月の南ベトナム解放戦線のテト攻勢によってアメリカ軍の勝利はほぼ不可能視され、しかもソンミの村民虐殺事件は戦争の正統性がまったくないことを世界に明らかにした。そのなかで、ジョンソンは、毎晩、共産主義に妥協した人間として石を投げつけられるという悪夢にさいなまれて大統領選への不出馬に追い込まれた。当選したのは共和党のリチャード・ニクソンであったが、彼がベトナム戦争に固執して醜悪なウォータゲート事件を起こしたことはいうまでもない。しかし、ここで確認しておくべきことは、この大統領選挙に「血の日曜日事件」を引き起こした元アラバマ州知事のジョージ・ウォレスが民主党を脱党して立候補し、アラバマ州、アーカンソー州、ジョージア州、ミシシッピ州、ルイジアナ州でトップを取り46人の選挙人を獲得したことである。日本にとっては、彼の副大統領候補が第二次世界大戦において日本本土に対する無差別爆撃を行った元空軍参謀総長カーチス・ルメイであったことも忘れることはできない。

2016年8月25日 (木)

アメリカは「合衆国」ではなく、やはり「合州国」が正しい

「合衆国」ではなく「合州国」
①「合衆国」と世界の「第七帝国=日本」
 アメリカの国名「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」は普通「アメリカ合衆国」と翻訳されるが、これは誤訳に近い誤りで、正確には合州国とするのがいい。このことを始めて主張したのはジャーナリストの本多勝一であるが、それ以降、日本では相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を採用している。
 建国時のアメリカを構成したのはイギリスからの移民が入植した一三のステーツであった。ステーツという言葉自体は国家ということであり、ステーツには、本来、「州」という意味はないから「ユナイテッド・ステーツ」を「合州」とは訳せないという意見があるかもしれない。しかし、たとえばヴァーモントは現在でも「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」といい、これをヴァーモント州と訳す。つまり「ステーツ=州」がユナイト(連合)したものを「合州国」と翻訳することは十分に筋が通るのである。
 これに対して、「合衆国」という翻訳はアヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしい。「合衆」というのは、中国の古典に見える言葉で、「衆人を寄せ集める。衆人を和合させる」、つまり共和という意味であって、「アメリカ合衆国」というのは「アメリカ共和国」という意味になる。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)も「合衆政治」という言葉を民主政治と同じ意味で使っている。徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という名称が使用されたのは、この意味である。
 ここにはアメリカに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きが表現されているといってよい。つまり当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。実際、一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの帝国とその他に幾つかの王国があるというものであった。七つの帝国とは西ローマ帝国を引き継ぐ神聖ローマ帝国(ドイツ)、東ローマ帝国を引き継ぐロシア帝国とオスマン・トルコ帝国、そしてペルシャ帝国とインドのムガール帝国、さらに東アジアでは清帝国と日本帝国の七帝国である。この七帝国の観念は一六世紀にはあったようで、日本帝国が七番目の帝国であったというのは、イエズス会の宣教師の記録にもでてくる。これが秀吉の朝鮮出兵と結びついて「日本=帝国」という観念がヨーロッパではよく知られるようになっていたのである。
 そう考えていた東アジアの人々にとっては一八世紀末に登場したアメリカが王のいない強国として発展しているのは驚異の対象であった。とくに自分の国が世界の帝国の一つであると認められていると考えていた日本は、帝王はおらず、王さえもいない三流の国家としか考えられないアメリカから、ただの軍人ペリーがやってきて対等な通商と開国を要求したことに憤激したのである。我々の国は帝国であったはずなのに、これはどうしたことかという訳である。「合衆国」という用語は、そういう中で流通した用語なのである。福沢諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたが、これも同じことである。こういう経過のなかで、日本には「アメリカ=民主主義」という図式が深く根づくことになった。太平洋戦争の敗北とアメリカ占領という経過のなかで、それがさらに強化されたことはいうまでもない。
 この意味では、私たちが「合衆国」という言葉を使い続けていることは、私たちが一九世紀からの世界認識の枠組みに囚われていることの象徴であるかもしれない。これは重大な問題なので、以下、必要な限りでの歴史的説明をしておきたい。
②アメリカの北部と南部
 アメリカは、何よりもイギリスが北アメリカ大陸に設置した一三の植民地「州」の連合、植民国家として出発した。それはアメリカの地図をみれば明らかなことで、そこでは州境は自然地形ではなくほとんど直線の場合が多い。これは先住民が自由に使用していて境界が存在しない土地を上から測量して、植民地「州」権力が自分たちの領分を決めていったためである。これはヨーロッパ列強がアフリカや中近東で大規模な測量をして直線の国境線を画定し植民地体制を固めていったのと同じやり方である。合州国という表記はアメリカが、こういう「州邦」権力から始まったという経過を正しく表現している。
 アメリカ建国時の一三州とはニューイングランドといわれる北東部四州(①マサチューセッツ、②ロードアイランド、③コネティカット、④ニューハンプシャー)、中部の大西洋岸四州(⑤ニューヨーク、⑥ニュージャージー、⑦ペンシルベニア、⑧デラウェア)、そして南部五州(⑨バージニア、⑩メリーランド、⑪ノースカロライナ、⑫サウスカロライナ、⑬ジョージア)からなっていた。
 このうち、植民はまず南部から始まった。それが一六〇七年に設置された南部のヴァージニア植民地である。最初の移住者一〇五人は半数が飢えと病気で死ぬという厳しい運命に見舞われたが、そのなかで彼らはネーティヴの人々の助力をえて命をつないだ。しかもネーティヴの人々からアメリカ大陸原産のタバコの栽培法を習い、それをヨーロッパ市場にだすことによって徐々に安定していったという。そして彼らはアフリカから移送された奴隷の労働によって肥沃な南部農業地帯に農場を経営し、膨大な資本と富をアメリカにもたらしたのである。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあったのである。しかし、そのなかでネーティヴの人々の善意はまったく裏目にでて、彼らは先祖から守ってきた大地から放逐されるにいたった。
 これに対して、北部の植民はやや遅れて、一六二〇年、メイフラワー号にのった清教徒のピルグリム・ファーザーズが北部ニューイングランドのプリマス植民地に渡ったのが最初である。彼らの場合も、当初、大きな苦難を経験し、ネーティヴの人々に助けられながら、結局それを裏切ったのはヴァージニアと同じである。しかし、プリマスに渡ってきたのは、イギリス国教会のなかでは迫害されていて、オランダからアメリカに渡った分離派といわれる例外的な人々であった。彼らは一〇年後に渡ってきてマサチューセッツを建設した別の清教徒(イギリス国教会内部の改革派)の移民グループに統合されてしまう。北東部ニューイングランドは、南部に比べて狭く寒冷で、土地も痩せており、この時期のアメリカ全体のなかではニューイングランドの位置が軽かったことは明らかである。北部では南部のように輸出を目指して奴隷労働による農業大経営を営むことはなく、むしろ自営農業のベースの上に、漁業・造船・手工業・商業・貿易などが発達することとなった。
 なお、以前、日本では、アメリカの建国というと、ピルグリム・ファーザーズが話題の中心となることが多かった。これには色々な理由があるが、大きかったのは、メイフラワー号が到着した冬一一月を記念するという「感謝祭」(サンクス・ギヴィングデイ)が、一九四八年に、日本の新嘗祭の日程の上にかぶせる形で「勤労感謝の祝日」という祝日に定められたことであろう。本来、「感謝祭」は、本来はプリマスの地方的な祝祭であったが、南北戦争で北部が勝利したのちに、その勝利宣言のようにして「建国神話」化されたものである。今では忘れられがちなことだが、アメリカの軍事占領とともに、その建国神話が(七面鳥とともに)日本に持ち込まれたということになる。
③州の拡大とネーティヴの大地
 このように南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由は、最初はネーティヴの人々の協力によって命をつなぎながら、すぐにそれを裏切ってネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。北部にとっても南部にとっても、問題の中心は「州」連合とネーティヴの人々の部族国家の間での緊張した対外関係にあったのである。
 そしてそれはヨーロッパ勢力の間の関係、とくにイギリスとフランスの関係に深く関わっていた。つまり、イギリスがスペインの無敵艦隊を英仏海峡の海戦で破ったのは一六世紀末(一五八八年)であったが、一七世紀に入ると世界の覇権争いはイギリスとフランスの間にうつった。それは植民地ではアメリカとインドの二つの戦線で戦われたが、一七五五年には本格的な英仏戦争が英仏戦争が展開した。イギリスは、この戦争に勝利することによって世界の覇権を握ったのである。アメリカ大陸では、フランスは、一六〇八年、カナダのセントローレンス川河口にケベックを建設し、ネーティヴの人々との毛皮貿易を行いながら内陸に進み、さらに南にくだってミシシッピ川流域を領有してルイジアナと命名していたが、イギリス軍は、ケベックとモントリオールでフランス軍を破った。そして、アメリカ独立の動きは、このフランスへの勝利の後、イギリスがアメリカ植民地に軍費償還のための税をかけようとしたことへの反対運動から始まった。これまで、アメリカ独立の動きは、もっぱらイギリスとアメリカの関係のなかでのみ考えられがちであったが、それは、このような国際関係のなかで起きたのである。
 こういうなかで、植民地「州」の連合が最初に議論に上ったのは、英仏戦争の前年、一七五四年にニューヨークの中北部のオルバーニーで行われた討議に始まる。この会議は、フランスに対するイギリス領植民地の共同防衛を目的として開かれたものであるが、そこではオルバーニーの西、オンタリオ湖岸からカナダにかけてを本拠とするイロコイ族の人々が招かれ、フランスに対抗してイロコイ連合の友好関係を形成することが重要な議題となっていた。つまり、アメリカ「州」連合という発想はフランスを意識していたことはいうまでもないが、同時に直接に隣接するイロコイ部族国家に対する対外関係のなかで形成されたものなのである。
 ここを起点としてアメリカ「州」連合はネーティヴの人々の部族国家に対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「州」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、オジブワ族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連合はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。
 アメリカ独立を国際的に承認したパリ条約(一七八三年)に引き続いて、アメリカ連邦は、このミシシッピ以東の領域を、順次、六マイル平方の区画(タウンシップ)に測量分割し、一部公有地を残した上で民間に払い下げる法律をつくった。そして、この計画の進行によって人口が増加すれば、各地域を準州・州に格上げして、地方議会を組織するという国土開発の大方針を決定したのである。州の組織の基礎単位が、この六マイル平方の区画(タウンシップ)にできあがったタウン・タウンシップということになる。この土地払い下げの方針によって、人々が東海岸から西に群れをなして移住していったのが有名な西漸運動であって、これによって、アメリカの国土はどこも似たような雰囲気をもつタウン(またはタウンシップ)の網の目によって覆われていった。
 これを後押ししたのがフランスからのルイジアナ購入であって、ナポレオンは、イギリスへの復讐をねらって、英仏戦争前のフランス旧領ルイジアナをスペインから取り戻し、それをアメリカに譲渡して、アメリカと組んでイギリスを包囲しようと画策した。時の大統領ジェファーソンは喜んで、この話しに乗り、一八〇三年、アメリカ連邦はフランス旧領ルイジアナを獲得したのである。このルイジアナとは、現在のミシシッピ河口部のルイジアナ州のことではなく、それを最南端として、ロッキー山脈の東山麓とミシシッピ川の間を、カナダ国境のモンタナ・ノースダコダにまでいたる広大な領域である。
 そしてやや遅れて一八四五年にはテキサスを併合し、翌一八四六年にはオレゴンをイギリスから獲得し、一八四八年にはカリフォルニア一帯をメキシコから買い取って、アメリカの領土は大西洋岸にまで到達した。これらの地域も人口増加にともない次ぐ次ぎに州として昇格していったことはいうまでもない。合州国という表記のよいのは、このように州を新設して、それを「合」併していくことによって、アメリカが膨張していった経過をも示唆できることであろう。
④一九世紀半ばまでのアメリカは資本主義ではない
 さて、このように膨張していった一九世紀のアメリカの社会構造は、普通、資本主義、資本主義国家であるとされている。たとえば、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(第一章)は、ニューイングランド植民地の小規模な農民や手工業者からなる村落は、プロテスタントの倫理を基礎として作られたものだが、それが資本主義精神の形成に意外な役割をになったという。次ぎに一部を引用した、このウェーバーの有名な学説も、アメリカが資本主義であることが前提になっているといってよいだろう。
「資本主義精神」はベンジャミン・フランクリンの生地(マサチューセッツ)ではとにかく明白に「資本主義の発達」の前提として存在したのに、隣接する南部諸州などではそうした精神がはるかに未発達であった。南部の植民地は営利を目的に大資本によって作られたものであり、それに対してニューイングランド植民地は、牧師・知識人と小市民・手工業者・自営農民の結合によって宗教的理由から創設されたものであったにもかかわらず、そうなのである。
 こういうニューイングランドの小農民や商工民の村落こそが「資本主義の精神」のゆりかごだったというウェーバーの理解に依拠すれば、一九世紀に東部から移住していった人々が網の目のように作り出していったタウンシップが資本主義の原基になって、アメリカ全域を資本主義社会としていったということになる。たしかにニューイングランドを起点として西部に広がっていったタウンの網の目を前提として、村落社会が局地的な市場圏を作り出し、産業革命の初期段階とも理解できるような「市場革命」といわれる根深い農村的な資本主義の動きが生まれたことが明らかにされている(安武秀岳二〇一一)。
 しかし、一九世紀半ばまで、南北戦争前のアメリカ社会の全体的な構造をみれば、それを資本主義社会ということはむずかしい。まずアメリカ社会の基軸をなした大地の領有関係は合州国による大地の国家的な公有にあった。これなくしてはタウンシップの計画的な開発は実現できなかったことはいうまでもない。一九世紀の植民地論者として有名なE・G・ウェークフィールドが「土地は、植民の対象となるためには未耕地であるばかりでなく、私的所有に転化されうる公有地でなければならない」(『イギリスとアメリカ』(世界古典文庫版、第二冊、一三七頁)としているように、アメリカにおける土地所有の関係は、連邦と州(States)が国家的に領有するネーティヴの人々の「未耕地」に対する所有と、移民たちがそこから割き取った私的な土地所有という二つのスタイルをもっていた。この時期のアメリカの社会構造は、ネーティヴ・アメリカンの抑圧の上にたった植民国家的な社会構成であるというほかないだろう。
 しかも、問題は、すでに述べたように、アメリカの経済的・政治的中心はアメリカ南部にあったことである。南部では、イギリス産業革命が本格化するなかで紡績の原料となる綿花のい栽培・輸出が盛んとなった。それに駆使された黒人奴隷人口は一七九〇~一八六〇年の間に約七〇万人から約四〇〇万人にも増えている。そもそも初代大統領ジョージ・ワシントンから第七代大統領アンドリュー・ジャクソンまでの大統領は、(父ジョン・アダムス、子クィンシー・アダムズの第二代・第六代大統領をのぞいて)すべて南部の裕福な農場経営者であって、多くの奴隷を所有していた。日本では南部というとややもすれば、ミシシッピ流域を考えてしまうが、ワシントン特別州はもとバージニアの北辺部なのであって、一九世紀のアメリカ合州国は、実際上、「ヴァージニア王朝」であるとさえいわれる。この時期のアメリカ合州国が「奴隷主国家」「奴隷制共和国」などといわれるのも当然なのである(安武、上杉忍)。
 ウェーバー学説のわかりやすさもあって、これまで、一九世紀前半までのアメリカはなんとなく資本主義社会と考えられていた。しかし、アメリカというと、そのすべてを資本主義あるいは資本主義の発達という図式で考えることをやめなければならない。そこから離れて自由に考えていけば、この時期のアメリカはネイティヴを抑圧する植民国家・植民帝国的な社会であり、そのトップに奴隷所有者が位置している社会構成であるというほかないのである。これまで歴史学は「奴隷制社会、封建制社会」などのシェーマがあてはまらない社会について積極的に社会構造論を考えてこなかった。しかしこの「アメリカは人種的な植民国家的な社会構成」であったという認識は、現代の世界を正確に捉えるために、どうしても必要なことであろう。
 アメリカ社会が資本主義社会となるのは、南北戦争において、北部が南部に勝利した後のことである。後に述べるようにそこではアメリカ人種的な植民国家構成から人種的な資本主義構成への変化が起きた。それと同時に、アメリカの国家は、南北戦争の後に、植民国家連合という複合的な国家ではなくなって、一つの国家となったのである。南北戦争までは、英語でUnited States of Americaを受ける動詞は複数形であったが、南北戦争の後は単数形になったことは、その一つの証拠である

2016年8月22日 (月)

アメリカの大統領制について、そもそも大統領という訳語はよくない

大統領という訳語はよくない
①プレジデントは本当は元首と訳したい
 アメリカのプレジデントを東アジアの漢字文化圏では「大統領」と翻訳する。これは、徳川時代の末期、一八五八年の日米修好通商条約に「帝国大日本大君と亜米利加合衆国大統領と親睦の意を堅くし」とあるのが始めの例であるらしい。それが東アジアに広がったのであるが、明治時代の半ばまでは「監督」「大頭領」などともいわれて固定されたものではなかったという(『明治のことば辞典』東京堂出版)。「棟梁・統領」というなじみやすい言葉に「大」をつけたのが訳語として成功した理由であろうが、しかし「統領」の大きいものという言葉は、やや大げさなだけでその具体的な職能を現さないのが欠点だろう。これは日本で早くから大統領は特別の存在だという意識がうまれたことに対応したものであろうか。ワシントンは少年の頃、斧の切れ味を試そうとして桜の木を切り倒したがそれを父に白状した。その正直さこそがワシントンを偉人にしたという話は修身の教科書にものっていてがよく知られていたのである。共和国の大統領も立派なものだという「偉人伝」である。
 こういう事情もあって大統領という訳語は完全に根付いているから、当面、変更することはむずかしい。それ故に、以下、そのまま使い続けることとしたが、ただ、本来からいえば、これは国家儀礼を主宰する職制を表現する「元首」という言葉に変えた方がよいと思う。つまり、プレジデントPresidentという言葉が国家のトップの意味で使われたのはアメリカが初めてであるが、それはアメリカに国家元首の役割を担う国王が不在であったためである。それが前例となって王が不在になった時、フランス、イタリア、ドイツなどでも元首の職名として受け入れられていった。逆にいえば、大統領制の対極にある議院内閣制は、発祥地のイギリスの例からいっても国王による首相の任命が前提になっており、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、さらに遅れて日本やスペインでも同じである。つまり、国王――議院内閣制、国王不在――プレジデントという対照があるのであって、これはプレジデントという職名の本質が元首にあることをよく示しているといってよい。
 そもそもプレジデントの語義はラテン語にさかのぼれば、pre=前にsidere(sit)=座るということである。辞書ではたとえば大学の総長、協会の会長から、ただの会議の議長までをいう。ワシントンは連邦議会の議長職としての権威を認められてプレジデントになったのである。元首の元は「はじめ」、首は「こうべ」であって、組織や集会の秩序と儀礼をつかさどるという意味だから、この点からいってもPresidentの翻訳としてふさわしいだろう。
②大統領の憲法的地位と帝国性
 以上は、プレジデントという職名をどう翻訳するかという問題だが、これは世界の諸国家の頂点部分の多様な実態を整理して、そのなかで元首の国家儀礼を主宰する機能を説明することに関わってくる。

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 図に簡略に示したように、世界の諸国家の頂点部分には①王身分、②元首、③執行権者の三種類の人々が集まっている。まず①王身分の保持者のなかには、イギリスの王のように儀礼の主催者であり、執行権への関わりももつような君主的元首としての性格を残す王から、日本の天皇のように国政に関わる権限を有さず、元首でもない王(儀礼の主催権はもたず、国事行為も内閣の指示のもとに何項目かのみを行う)、さらにはスウェーデンのようにほとんど市民社会の内部にとけ込みつつある王まで、現代では多様な王身分が存在するようになっている。
 また②の国家儀礼を主宰する元首機能については、アメリカ大統領のように執行権者として元首機能を兼ね備える場合から、ドイツ・アイスランドのように名誉的プレジデント(元首)が置かれる場合、カナダのようにイギリス国王代理としてカナダ総督が名誉元首の役割を果たす場合、あるいは日本のように(前記の天皇の存在を別にして)執行権者としての首相が随時に状況に応じて儀礼的役割を果たすだけの例など、実に多様な構成となっている。ここでプレジデントを元首と翻訳すれば、アメリカのプレジデントはアメリカ国家元首、ドイツのプレジデントはドイツ名誉元首と呼べばよいことになり、様々な元首のあり方をわかりやすく表現できることになるだろう。
 そのように整理してくると、アメリカのプレジデンシー(presidential government大統領制)の独特な姿が浮き出てくる。アメリカでは大統領が行政権を握ると同時に元首の役割を果たすことが、大統領の権威と権限をきわめて強いものとしている。もちろん、憲法は大統領が行政権を握るとするだけだが(第二条)、大統領は合州国陸海軍と各州の民兵の最高司令官(Comander in Chief)であり、また条約の締結権などの外交における役割、さらに高官の任命や恩赦の権限が憲法に記されている。これらが大統領の元首機能を示すことは明らかである。また大統領は立法府に関われないとはいっても、大統領は議会の立法した法案に対する拒否権をもっている(それを押し戻すには議院の三分の二の多数か必要となる。憲法第一条七節)。最高裁判所の判事を指名する権限の位置も大きい(但し上院の助言と同意が必要。憲法第二条二節)。
 このような大統領権限の強力さは、アメリカの建国者が、アメリカを「帝国」と意識していたことに関係している。つまり、アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントンはアメリカを「興起しつつある帝国」と呼んでいる。またベンジャミン・フランクリンは植民地時代から死ぬまで四〇年にわたり、アメリカを「帝国」といい続けていた。アメリカ憲法の立法者たちが書いたA・ハミルトン、J・マディソンなどによる論説集『ザ・フェデラリスト』の「序論」にも憲法案の審議に「この帝国の命運」がかかっているとある。
 王のいないアメリカを「帝国」というのは漢語の語感からするとおかしいように感じるかもしれないが、英語の「エンパイアempire」は、ラテン語でいえばインペリウム、つまり、共和制時代のローマの執権者がもつ「命令・命令権」に由来する言葉である。「エンパイア=インペリウム」は王制か共和制かという問題には関わりない言葉であり、実際、彼らがアメリカを帝国という場合の範型はローマ帝国にあった。プレジデントというローマ由来の言葉を選んだのもそのためではないだろうか。トクヴィルは「共和国が一人の人間の軛につながれるとき、権力はあたかも万人の上に出るところは少しもないかのように、簡素で飾り気なく、また慎ましく振る舞い続ける。かってローマの皇帝たちが強大な力をもっていたとき、人びとはなおカエサルと呼びかけ、皇帝は友人を訪れ親しく食卓についたのである」と説明している(『アメリカのデモクラシー』第一部八章)。アメリカ大統領の地位は共和制ローマのイメージで考えるのがよいという訳である。アメリカの上院議員をセナターというのはローマの元老院にならったものであるのも同じことであろう。
 ホワイトハウスを初めとしてアメリカにギリシャ・ローマ風建築が異様に目立つのもそのためである。こういう白亜の建物は革命期のフランスではじまった「新古典主義」といわれる大仰なローマ風建築様式であるが、アメリカ建国期の指導者たちは、ギリシャ・ローマ風の様式をイギリスに対抗する共和思想の象徴として流行させたのである。その中心となったのは、独立宣言の起草を主導し、独立戦争直後にはフランス公使となった、後の第三代大統領トーマス・ジェファーソンであるが、彼は早い時期にアメリカ連邦は「広大にして肥沃な領土を自由の帝国に加える」ために存在すると述べて、ネーティヴの人々をの土地を取り上げ、さらに彼らを東へ移配することを呼びかけた。また、ジェファーソンは生涯に六〇〇人の黒人奴隷を使役したといわれるヴァージニアの奴隷制プランターであった。ジェファーソンにとっては、奴隷制の上に立って「共和制」を実現し、さらにはゲルマンの蛮族と戦ったギリシャ・ローマが一つの理想であったのであろう。しかしヨーロッパがゲルマンに発することを考えれば、ネーティヴの抑圧は根本的な不整合であって、ジェファーソンの生涯と思想には大きな矛盾がはらまれていた。現在、ワシントンにある白亜のジェファーソン記念館は、第二次大戦中にフランクリン・ルーズヴェルト大統領によって建設されたものであるが、このジェファーソンの「自由の帝国」なる思想のもつ矛盾はアメリカ史の中でいまだに解決されていない矛盾なのである。
③大統領制は民主的か
 世界では、近年、アメリカの大統領選挙は奇妙で不公正な部分が多いという認識が広がっているが、しかしそれでもアメリカ大統領が「強力なリーダーシップをもった自由世界の指導者」であるとされることは多い。とくに日本では、アメリカの大統領制度は民主主義世界における理想的な制度であるというのがいまだに一つの常識である。アメリカ大統領は国民による選挙で選出され、これを中心として行政権は大統領、立法権は議会、司法権は裁判所の専権となるという厳密な三権分立が制度化されているというのである。
 注意すべきなのは、こういう見方は徳川時代の末期からの伝統であった。福沢諭吉だけではなく、たとえば津田真道が幕府の大政奉還を前にして作った「日本国総制度」という憲法草案に徳川将軍家を元首としその名を「大頭領」としたのはアメリカの影響である。第二次世界大戦の敗戦直後に高野岩三郎が作成した「日本共和国憲法私案要綱」も大統領制を提案しているが、それは「天皇制ヲ廃止シ、之ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制採用」「日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トスル。大統領ノ任期ハ四年トシ、再選ヲ妨ゲザルモ三選ヲ禁ズル」という明瞭にアメリカ合州国憲法を下敷きとしたものである。また日本の議員内閣制を首相公選制によって大統領型に変化させようという議論も自由民主党のなかには根強く存在している。
 しかし、ここでまず問題にしなければならないのは、そもそも大統領制そのものをどう考えるかということであろう。もちろん、現在の選挙システムを抜本的に正した上でということではあるが、この問題は、アメリカ大統領が世界にあたえる巨大な影響からして、どうしてもふみこんで考えておく必要がある。これはむずかしい問題であるが、やはりトクヴィルの見解が参考になる。つまりトクヴィルは「大国では一般庶民の権力欲は小国に比べて激しいが、同時にまた特定の人々の胸中には栄光を愛する気持ちが燃えさかっており、彼らは、人民の喝采を博すことこそ努力のしがいがあり、いわば自分を自分以上のものに高める恰好の目標とみなしている」「大国の方が、政府はより多くの一般的理念を掲げ、先例の繰り返しや地域の利己主義から容易に脱する。その構想には一層の閃きがあり、行動はより大胆である」と述べて、アメリカの大国性に注目しているのである。
 たしかに大統領の問題とは、アメリカのように広大な大国に特有なダイナミズムをどう考えるかにあるのであろう。大統領選挙を勝ち抜いた大統領が「自分を自分以上のものに高め」たかのように幻想し、人びとも「想像上の平等」のなかで、大統領が巨大な人格であり、自分がその一部であるかのように幻想する。そこで大統領の元首としての姿が国民の群集心理の共鳴板として大きな意味をもつことは疑いない。
 神学者のカール・バルトは、その『ローマ書講解』において、政治的な行為のすべてに潜むこのような幻想を「巨人主義」と名付けている。私は、このようなアメリカ大統領制のもつダイナミズムのすべてを、頭から拒否するべきものであるとは考えないが、しかし、それがそのままでは、やはり一つの病であることは疑いない。人間が他の人を飛び越えて一人巨人になれると考えることは神を蔑することである。それを拒否するためには、やはりアメリカの歴史における現実の大統領の行動を具体的に知って歴史的な省察を深めることであり、またアメリカの政治学者が熱心に主張しているようにアメリカ大統領制を世界の政治制度のなかで客観的に考えることであろう。こういう問題での単純なアメリカ第一主義はすでに許されるものではない。
 それを確認した上で、ここで紹介しておきたいのは、政治学のロバート・ダールが、その『アメリカ憲法は民主的か』という著作で述べた次のような感想である。
「子供時代に、私たちは大統領をその偉大さゆえに崇拝することを教わります。そして、大人になると、神話的な前任者たちのような偉大さを達成していないと、大統領をあざけるのです。大統領への両義的な見方は、アメリカ文化に深く根付いているものです。他の発達した民主国家の政治システムと比べると、私たちのシステムは最も不透明で複雑で混乱を起こしやすく理解困難なものであるという気がします。私たちは大統領制の神話的な側面にあまりに深く浸っているので、政治体制が崩壊でもしないかぎり、大統領制を変えようと真剣に考慮することはないでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、私たちアメリカ人は大統領制と一体なのです」
 私たちは、ダールのようなアメリカ政治学界の長老が、このように冷静にして痛切な感じ方をもっていることをふまえて、過不足なく大統領制についての思考を深めていきたいものである。

2016年7月 9日 (土)

サンダースと連邦銀行議長グリーンスパンとの論争

 サンダースは、連邦議会議員となったときから、その鋭く熱い質問や演説は有名で、「民主的社会主義者」を自称していたこともあって、一種の名物議員であった。

 もっとも有名なのは、連邦銀行(Federal Reserve Bank, FRB)理事会の議長アラン・グリーンスパンとの論争であった(下記に引用したユーチューブは聞き物である)。

 二〇〇七年、M・レイボヴィヒは『ニューヨークタイムズ・マガジン』(JAN. 21)にサンダースの活動を追った記事を書いているが、グリーンスパンが委員会にくるたびに繰り返された、激しいやりとりは有名でいつも傍聴者が増えたという。グリーンスパンは一九八七年にレーガンによって連邦銀行(Federal Reserve Bank, FRB)理事会議長に選任されて以降、ブッシュ(父)、B・クリントン、ブッシュ(子)の四人の大統領の下で、二八年のあいだ連任し、「金融の神様」などといわれた人物である。民主党からも共和党からも議会で正面から批判を受けることはなかった。躊躇しなかったのは、唯一、サンダースだけで、サンダースは、一九九九年以降、議会で何度もグリーンスパンを追求し、「あなたは我々の国の中流や働く人びとの方をむかず、強大な企業の利害を代表してばかりいる。億万長者のカクテルパーティの方ばかり見るな。あなたは数千万の労働者が侮辱している。中流階級の崩壊、巨大な格差、普通の家庭からは大学にもいけない。これはあなたの時代に起きたことだ。それにも関わらず経済はよくなっているというのか。最低賃金を抑え、飢餓賃金を強制し、億万長者には減税、一体何をやっているのか」と激しい口調で論難した。その様子をビデオでみていると、サンダースがずっと同じことを主張しつづけていたことがよくわかる。「あなたが正直な人間であることは知っているが、現実世界で何が起きているかを知らない」という口調はほとんど叱責に近いものである(https://www.youtube.com/watch?v=WJaW32ZTyKE)。

 グリーンスパンが長く連邦銀行の議長をつとめたのは、実際には金融状況の判断力が正しいというのではなく、その篤実な人柄と常識判断によるところが多かったとはいえ、一時「マエストロ」の域にあると神秘化されたグリーンスパンを正面から批判するサンダースの政治家としての資質は相当のものである。

 サンダースの批判にもかかわらず、グリーンスパンはそのウォール街優遇や最低賃金の抑圧方針をかえず、金融緩和の単調な方針をとり続けた。しかし、結局、住宅不良債権の焦げ付きに発する二〇〇八年のリーマンショックの後、自己の誤りを認めるところに追い込まれた。議会で「あなたのイデオロギーがまずかったのではないか」と詰められ、「私のイデオロギーに欠陥があった。それがどの程度の意味をもち取り戻せないものかはまだわからないとしても、非常に苦しんでいる」といったのである。そして、当時、これはサンダースの勝利を意味するという見方がささやかれた。


 さて、グリーンスパンは、いわゆるマネタリストの立場を象徴する人物であった。彼の権威が地に落ちたのは、マネタリズム学説の象徴となったのであるが、マネタリズム(貨幣至上主義)とはミルトン・フリードマンを中心とする学派で、一二二九年の世界大恐慌の後にアメリカ経済学界を支配したケインズ派経済学を批判する立場をとって、一九六〇年代ごろから徐々に影響力を強めていた。それが、レーガン(在位一九八一~八八)の大統領府において全面的に採用されたのである。

 この時期のアメリカは自信にあふれていた。レーガンの下で、アメリカとソ連の軍拡競争はアメリカの勝利におわり、グローバル資本主義は、ソ連の社会全体主義の凋落とともに世界市場を制覇した。それとともに、労働力も商品の買い方・売り方は資本の「自由」、どのようなものであろうとその規制は「悪」であって、すべて自己責任にゆだねるべきだという「新自由主義」イデオロギーが猛威を振るった。その主張は、公共の福祉の立場から行われる公営企業を民営化し、経済への行政的関与を「規制」と称して排除し、さらには医療・教育などをふくむ人びとの生活に関わる公共財も市場化し、労働力契約においてまでもも正規雇用や最低賃金制を崩そうというものであった。

 「市場は自由な競争が行われるべき場である」ということ自体は、市場経済にとっての当然の常識である。しかし、これが「新自由主義」といわれたのは、その主張が市場原理主義ともいうべき立場に突き抜けているからであった(最初は貶称であった。中岡)。そして、この「新自由主義」を経済学の側で推進したのがマネタリスト学派(貨幣至上主義)であった。この学派は一九世紀末期のヨーロッパ、オーストリアのメンガー、スイスのワルラスなどにさかのぼる。メンガーらの学説は「新古典派」などとと呼ばれるが、ようするにアダム・スミスやマルクスの生産価値説に対して「主観的価値説」を主張して、人間の側のある財への欲求の増大・減少の量的変化を数学的に仮定すれば財の「効用」を決めることができ、そこから経済の動きを予測できるというものであった。
 この「新古典派」はヨーロッパよりもアメリカでもてはやされた。それを代表するのが、アーヴィング・フィッシャーであって、彼は「新古典派」の見解を前提として、得意な数学を生かして貨幣数量説を発展させ、貨幣の流通速度は制度的・行政的条件のみに依存して決めることができ、それは実態的な経済諸条件とは切れた関係にあると論じた。逆にいうと、社会に流通している貨幣の総量を規制することによって物価の水準の安定をはかることが可能であるという訳で、このような議論をマネタリズムというのである。

 結局、マネタリストの学説とは、政府の経済政策は原則として貨幣供給量の操作と金融政策だけに限定されるべきだという貨幣至上主義、金融至上主義である。経済学の仕事を貨幣・金融操作だけに限定するというのは、端的にいえば実体経済の動きを追認し、資本の要求通りに「規制緩和」をすれば経済はまわっていくというイデオロギーに過ぎなかったというほかない。
 ユーチューブをみていると、リーマンショック後のグリーンスパンは真面目な人だけにショックは強かったようだ。 しかし、個人はどうあれ、客観的には、ようするにマネタリズムとは無能と不作為の弁明、あるいは金融業の実務を合理化し、自己納得するための説明者にすぎない。アメリカ特有の実務学問である。

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