アメリカ連邦制とユナイテッド・ステーツの翻訳
依然としてアメリカ論をやっています。一番難しいと考えてきた連邦制論についてのメモを終えました。
小説家の司馬遼太郎は、その『アメリカ素描』というエッセイで「日本はできるだけ法の厄介にならずにすませたい」という国で、「メイフラワー号の始祖たちが最初に法によって個人を明確にし、政治団体をつくってそれへの忠誠を誓わせた国とはちがっている。法によって州ができ、州の連合国家をつくり、さらに法が元首の主人であるとしたこの人口国家にあっては、法という文明材を信ずることなしに生きてゆけない」と述べている。この記述は歴史家から見ると、とても現在の学問水準には耐ええないものである。こういう通俗常識を打破するのは歴史学の重要な役割だと思う。
アメリカは、世界でも第四位の面積をもつ大国であるが、その大国意識はアメリカが一つのステーツ(国家)ではなく、五〇のステーツ(州)と一つの特別区(ワシントンDC)をもっていること、つまり連邦国家であるということにも支えられている。アメリカは連邦制を国家意識の基礎にすえている国なのである。そして、それは連邦を構成する「邦=州」はワシントンに対抗する州権をもっているのだ、だからアメリカは民主主義なのだという考え方にまでつながっている。
歴史家から見ると、連邦国家は、前近代から近代への変化の時期に、その国家がどのような経過で設立されたかに関わっている。それは前近代から近代にかけての変化を国家論として理解する上での根本問題の一つである。つまり、近代以前には国家領域のなかにさまざまな民族的集団(エスニック・グループ)が含まれていたことが多い。一般に連邦制はそれらの諸地域あるいは諸民族がどのように連合し、あるいは統合されたかということを反映しているのである。そして、アメリカの場合は、いうまでもなくネーティブ・アメリカンの大地を奪取した植民地権力の連合から始まっており、この連邦国家は根本的にはとても民主主義的なものとはいえない。
さて、「United States of America」という国名は、アメリカ独立宣言の直後に作成された一三の植民地権力の「連合規約」で定められたもので、この段階での一三植民地権力は国家そのものであり、それ故にここではStatesは「州」ではなく「邦」と訳される。これはたとえば一八一五年のウィーン会議の議定にもとづいて結成されたドイツ同盟(Deutscher Bund)と同じことであるという。このときは国家連合であって、まだ連邦ではなかった。各「邦」(ドイツでは各領邦国家)は、おのおの「邦憲法」をもち、主権は、そこにあったのである。
これが約一〇年続いた後、一七八七年の憲法によって各「邦」は外交・軍事などの特定の権限を連邦に委譲し、連邦議会が立法権、連邦裁判所が司法権をもち、これによって連邦が形成された。アメリカの連邦制を決定しているのは憲法である。主権を憲法では連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。
それでも、この連邦は南北戦争までは実質上は「州の連合体」の側面が大きく残っていたが、南北戦争における北部の勝利をへて連邦政府の権限が優越する側面が強化される。それは南北戦争の後に、ナショナルという名称を冠する法律がゲティス・バーグの戦いの年、一九六三年に初めて制定されたこと(National Banking Act)などに象徴されている。そして、フランクリン・ローズヴェルトのニューディールのなかで大統領権限が拡大し、ここでアメリカは連邦国家というスタイルを残しながらも、実質上は単一的な強力な国民国家に変貌した。
これがアメリカの連邦制の簡単な経過であるが、世界的には連邦制国家はきわめて多い。具体的に挙げれば、まず英米法に属する国ではカナダ、オーストラリアがある。両国はアメリカよりも独立の時期が遅いためもあって、憲法の文面でも中央の力がアメリカよりも強いが、オーストラリアの正式国名Commonwealth of Australiaはオーストラリア連邦と翻訳されることも多い。とくにヨーロッパに連邦制が多いことが注目される。フランス革命で極端な中央集権化を追求したフランスは例外としても、ドイツはいうまでもなく、スイス連邦、ベルギー王国、オーストリアは明瞭に連邦制であり、がイギリスも、正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であって、唯一のイギリス王をいただくという意味では連邦制ではないが、アイルランドのほかスコットランド、ウェールズも連邦的分権性をもっている。スペインがバスクの分離要求にさらされ、イタリアでも北部同盟が連邦主義をかかげていることはよく知られている。
一般的にいってヨーロッパでは国内の民族的集団が残りやすい有利な条件があったということになるだろう。もちろん、ヨーロッパの外でも、国名に連邦をふくむ諸国は、たとえば、ロシア連邦、アラブ首長国連邦、ミャンマー連邦共和国(Union of Myanmar)、ブラジル連邦共和国などがあるが、ヨーロッパに連邦制国家が多いのは、一六世紀以降、ヨーロッパが世界の他地域を支配して、その地域を破壊してきたのに対して、ヨーロッパ内部の枠組みは相対的には維持されたためであると考えることができるだろう。
その意味でまた逆に、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどの植民地に由来する諸国で連邦制が多いのは、原国民(ネーティヴ)を抑圧して入植した植民集団による領土分割がきわめて強力であって、それが連邦制を結果していったということになる。
合衆国か合衆国か、アメリカ連邦か
アメリカ史研究の中でも、このようなアメリカの連邦制はもっとも理解しにくいものである。しかし、これは根本的な問題なので、それを見直すために、歴史学の立場から翻訳語のもつ問題に迫っていくこととするが、ここで問題は、アメリカの正式国名、「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」の翻訳が問題になる。
この国名は素直に「アメリカ連邦」と訳すべきものであろう。世界で連邦制国家が主要な国家の姿の一つである以上、それが国家論としても正しい呼称であろう。それはドイツの正式国名、ブンデス・レプブリク・ドイチェランドBundesrepublik Deutschlandがドイツ連邦共和国と訳されるのと同じことであるはずである(ブンデス=同盟=ユナイト、レプブリク=共和制)。しかし、日本をふくむ東アジアでは「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」は伝統的に「アメリカ合衆国」と翻訳されてきた。最近では、ジャーナリストの本多勝一が提案した「アメリカ合州国」という訳語も使われているが、考えてみると、「合衆国」にせよ「合州国」にせよ、世界に存在する他の連邦国家と区別して、アメリカについてのみ、特別な国名をあたえるというのは東アジアに独特な奇妙な現象ではないだろうか。
「アメリカ合衆国」は、最初、アヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしく、日本でも、徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という翻訳が使われた。しかし、「合衆」というのは、中国の古典に見える「衆人を和合させる」という意味の言葉で、「合衆国」とは「王のいない国=共和国」の意味で作成された言葉である。一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの宗主国、神聖ローマ帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国、ペルシャ帝国、ムガール帝国、清帝国、さらに日本帝国の七つがあるというものであった。当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。それを知った中国の人が無理して古典から拾い出したのが、「合衆国=王のいない国」ということだったのである。ようするに、中国で作られた「アメリカ合衆国」という翻訳は、「United States of America」という英語を直訳したものではなかったのである。
私たちは「合衆国」という言葉に国王のいない国というものに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きを見るべきなのである。福沢諭吉が、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたのも同じことだろう。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)が「合衆政治」という言葉を共和政治と同じ意味で使っていることも、アメリカ合衆国=王がいない国という通念を繰り返したものである。その意味ではこの言葉は、明治以来の日本に染みついた王のいない国柄、民主主義のお手本=アメリカという観念を言葉として支えるものだったのである。
なお、本多勝一が、その興味深いルポルタージュ『アメリカ合州国』で提案した「合州国」は「ユナイテッド」を「合」、「ステーツ」を「州」と訳し、「合衆国」と同じガッシュウコクと読ませようというのである。「ステーツ」は「国家」という意味だが、たとえばヴァーモントは「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」であり、これをヴァーモント州と訳す。だから「ユナイテッド・ステーツ」も「合州国」と訳せばいいという訳である。たしかにこれは翻訳の正確さという点では一つの前進である。そのため相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を使うようになっている。しかし、この訳語もうまい語呂合わせではあるが、「アメリカ連邦」という単純な翻訳に劣るというほかないだろう。
むしろ問題は、これまでUnited States of Americaが素直に「アメリカ連邦」と訳されなかった理由にある。それは端的にいえば、この訳語ができた一九世紀後半は、東アジアにおいてむしろ前近代的な国家の分権性から中央集権的な国家を形成する動きが一般的であったためであろう。たとえば、この時期、一九世紀後半に独立の王朝をもつ琉球国家を強制的に「処分」編入し、アイヌ諸民族の大地(アイヌモシリ)を奪い尽くした。そこでは連邦どころか自治権も否定されたのである。もちろん、そもそも日本自体も徳川帝国までは、幕府と藩の両方ともが主権をもつ一種の連邦制の複合国家であったことはいうまでもない。しかし、それは明治維新において、「封建的」なものとして否定されるだけで、近代的な連邦制や地方自治という方向には動かなかったのである。現在の日本国がまったく連邦制的な要素をもたないのは、なかばは明治維新によって、またあるいは急いで資本主義帝国になるために大日本帝国は例外的といえるほど連邦制の色彩のない単一の国民帝国となったのである。
前述のように、国名として連邦制を名乗らないものをふくめれば、世界では連邦制国家は普通の国家のあり方である。日本人が連邦制という言葉を忘れがちなのは、近代日本が連邦制の対極にある国家であったからであり、「琉球処分」もアイヌモシリの略奪も忘れ去られがちで、いわゆる「単一民族幻想」が一般的であったためであろう。その意味でもアメリカ連邦という国家論的にも正しい訳語に切り替えたいものである。
連邦制の財政構造とナショナル・ミニマム
イギリスのスコットランドやスペインのバスク、さらには旧ユーゴスラビア連邦の四分五裂の状況を考えれば明らかなように、連邦制の問題は二一世紀においても世界史の根本問題である。もちろん、各国での連邦制の実態はきわめて多様である。連邦制の共通性は、ほとんどそれらの国家がなんらかの形で連邦形式の憲法をもっていることにつきるといってよい。たとえばアメリカを連邦国家というのは、まずは、アメリカが国家連合から連邦という経過を辿り、その国家法(連邦憲法ー州憲法)が連邦制のスタイルをとっているためである。
しかし、その連邦制の現実は憲法の文面だけからは判断できない。それはまず連邦に参加している各「邦」が、どの程度、団体としての自治・自律の権限をもっているか、また連邦国家において各「邦」の水平的な協同や意思統一が、実際の重みをどの程度もっているかに関わってくる。もちろん、そのような「邦」の自立性や水平的な連合が連邦制の理念にふさわしい形で存在している連邦国家は現実には存在しない。その意味では連邦制は本質的には一つの理念にとどまっているというべきであろう。しかも問題となるのは、このような連邦制の具体的な姿は、実際には連邦を構成する各「邦」の実質に関わることである。「邦」が、その基礎にある自治体(タウンシップあるいはコミューン)をどこまで実質的に代表しているか、その意味で「邦」が団体としての自立性をどこまでもっているかという問題である。
そもそも、現代の諸国家は、一般に①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)からなる三層の構成をとっているが、連邦制とは直接には①と②のレベルの関係である。②の広域行政府が、さまざまな経過によって成り立った民族的・文化的・歴史的な独自性をもつものとして、法的に一つの「邦」として認められている場合を連邦制というのである。しかし、その連邦制の実質は、とくに②ー③の関係、②広域行政府(「邦」)が③の基礎自治体をどこまで実質的に代表しているか、さらに住民の自治が基礎自治体から広域行政府にいたる団体にどこまで貫いているかによって大きく異なってくる。
アメリカを例に取ると、五〇の州の下には、現在、約五万の基礎自治体がある。その内訳はだいたい全国で約三〇〇〇の「郡county」、そしてその下部単位の「町town」が同じく約一万七千、自治性の強い「市municipality」が同じく約一万九千、さらにアメリカに独特なものとして同じく約一万四千の「学区」がある。警察や消防は自治体警察・自治体消防で、刑務所も州のみでなく、自治体で運営するなどのことはよく知られているだろう。さらにただでさえ複雑なアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしているのは特別区なるもので、これは消防・土壌保全、灌漑、上下水道などの単一のサーヴィスを提供するだけの団体であって、約三万にも上るという。
問題は、こういう①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)という三層構造は、その国家が連邦制か非連邦制かに関わりなく、一般的であることで、右に述べたように、連邦制とは、そのうちでも②が民族的・文化的・歴史的に特殊な位置をもっている場合をいうことである。逆にいえば連邦制でない場合でも、地方自治の拡張にともない②のレヴェルに強い団体自治権が成立した場合は、連邦制国家と非連邦制国家は機能的には無限に接近していくことになる。現在においては、全体として連邦制と地方自治はしばしば相似した姿を示すのである。
そして連邦制にせよ、地方自治にせよ、何よりも重要なのは、住民の意思が実際に、各広域行政府や基礎自治体の団体自治にどこまで反映しているかという住民の自治の問題である。バーニー・サンダースがいうように民主主義は下から上へ、ボトムからトップへ貫徹すべきものであり、住民意思が基礎自治体に貫徹し、基礎自治体同士の連携関係に貫徹し、それが広域行政府に代表され、広域行政府の連携を前提として国家権力の総体に貫徹していくこと、そしてそのようなボトムからトップへのサイクルが繰り返されることこそが、地域に基礎をおく民主主義なのである。それは、それを保障しうるような経済的・財政的なシステムをともなわなければならない。
そして、そのような経済的・財政的なシステムは、現代においては、たんに基礎的な自治体・コミューンのレヴェルで閉じているものではなく、③コミューンをふくむ、①国民国家、②広域行政府との連携・補完の関係において実現されるものである。二〇世紀の国家は、連邦制か非連邦制かをとわず、基礎的な自治体・コミューンに対する財政的連携と補完の関係を発展させてきた。
たとえば連邦制のカナダ、ドイツ、オーストリアでは、各基礎自治体の公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度が憲法で保障されている。そこには「連邦議会とカナダ政府は、州政府がほぼ同様な課税水準で、ほぼ同様な水準の公共サービスを提供するに足る歳入を確保できることを保証するように平衡交付金を支出する原則に拘束される」(カナダ憲法第三六条)とあって、平衡交付金という制度によって地域格差是正の処置がとられている。ドイツでも同じような財政調整制度が存在し、それはドイツ連邦共和国基本法に、その連邦の性格が「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定されていることに支えられているもので、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出するために」立法権を認められている(基本法第72条二項)。
このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつことは明らかであろう。これが、いわゆるドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。
また非連邦制の国家として日本を例にとると、日本の自治体の総予算うちで地方税の占める割合は長く四割を切り、六割が政府からの補助によっている。そのため長く日本の支配政党である自民党や企業メディアは、このような状態を「三割自治」と称して、「道州制」によって独立採算にすべきであると主張してきた。たしかに自治体予算が過剰で無計画な「公共事業」に割かれ、政府補助に使途規定のものが多いなかで、自治体財政が硬直化しがちであることは事実であり、それは解決しなければならない問題である。しかし、だからといって、自治体予算のうち教育やインフラなどの必須的経費が確実に保証されていることをやめてしまっては元も子もない。このような保障は、日本国憲法がすべての国民に「健康で文化的な生活をおくる権利」を基本的な人権として認め、「国はすべての生活部面について社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(第二五条)としている結果であることはいうまでもない。
アメリカの連邦制の貧困な実態
問題はアメリカでは、後にふれるニクソンの時期の政策を例外として、以上のような地域財政調整制度がまったく存在しないことである。そもそも、アメリカ連邦憲法は一八世紀後期に成立したもっとも古い憲法であり、補正箇条によって一定の補正が行われてきたとはいえ、依然として、基本的な人権と社会権の項目がないという現代的な憲法思想へのグレードアップをサボってきた旧式のものである。アメリカは、他の先進諸国とは相違して、地域自治体の財政を調整し、教育や社会福祉についてのナショナル・ミニマムを保障する財政調整制度を欠くきわめて特異な国家なのである。
アメリカの自治体はたしかに六六%を自主財源によってまかない、残余が補助金となっている点では日本の自治体と真逆である。しかし、これは決して地域に基礎をおく民主主義といえるようなものではない。その財政はつねに厳しく、しかも、初等中等教育費(三六,四%)と道路など建設維持費(五,三%)、治安警察費(八,八%)、社会サーヴィス保障費(一一,七)などの必須的経費で七割以上を占め、予算の硬直化は日本よりも激しい。教育予算をとれば、その財源は自治体の資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる(ライシュ。格差65頁)。また、社会保障については連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまうという。
しかもアメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。大ざっぱにいえば、現在では連邦政府には所得税(個人所得税+法人所得税)の約八割、州政府には所得税の約二割弱、売上税の六割強、そして自治体には資産税の九割以上という配分になっている。そして、税収規模は連邦予算は全税収の六六・八%、州予算は一九・六%、地方自治体は一三・六%に過ぎない。現在ではアメリカの国家財政は極端な中央偏重の税収構造になっているのである。その上、ほぼすべての州憲法で州は財政赤字をだすことは禁止され、公債を組むことも困難となっている。広域行政府や基礎自治体の財政自主権は厳密には形式的なものにすぎないというべきであろう。
ようするに、これは現代的な福祉国家の常識からいえば、実際上、国家的な責務を放棄し、住民自治の財政的条件を奪い取りながら、その責任を基礎的な自治体・コミューンに押しつけたものというほかないであろう。もちろん、アメリカにおいても州政府や自治体の努力や協同によって相当の事業が可能になる。しかし、このようにして自治権の社会的・経済的な内容の相当部分が骨抜きになっていることは事実でアリ、それを前提とすると連邦制度や地方自治制度の中身として残るものはきわめて寒々しいものになる。たとえば、国家元首クリントンは一九九九年に発した行政指令一三一三二号において「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」といっているが、これは地方自治をもっぱら地方政府の行政のあり方という狭い範囲に局限しようというものであって、住民が自治体・コミューンとそのネットワークを媒介として国家意思それ自体を積極的に形成していくという発展的な住民自治の発想を最初から排除している。
日本の法学界では「地方自治の本旨」(憲法九二条)とは、「国民の不断の努力によって保持される」べき基本的人権(憲法一二条)を地域において保障し実現する住民の自治の営為に根付くもので、それを前提として自治体の団体自治があると捉えられている。ところが、日本の自民党がかかげている改憲案は、この「地方自治の本旨」を「地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自律的かつ総合的に実施することを旨として行う」というきわめて狭いものにしようとしており、法学界からは、これは地方自治を行政の局面、あるいはそこへの住民の参画に限ろうとするものであるという強い批判がある。クリントンの行政指令一三一三二号のいう「人々に最も近い政府のレベルthe level of government closest to the people」なる文言と自民党改憲案のいう「住民に身近な行政」なる文言はまったく同じものであって、たしかに住民自治どころか住民を「身近な」極限された空間に押し込めようとするものであるといわざるをえないだろう。
クリントンの行政指令一三一三二号が「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」というのは、公共分野におけるナショナル・ミニマムを諦める論理として働き、新自由主義を地域から支える論理となったのである。ナショナルミニマムがないということは行政の責任を曖昧にする。その基点からアメリカの行政のあり方を問うことが、アメリカ国制史の基本問題だろう。
私は大学は国際基督教大学でアメリカ論を考える時間はたっぷりあったはずで、とくに大塚久雄先生の御意見をうかがう機会があったのに不勉強なままできました。
以下は、連邦制論に関わって、アメリカの国号をどうするべきかという問題で、以前、合州国の方がよいと書いたのですが、それを考え直したものです。
日本史研究では、いわゆる複合国家論が一世を風靡したことがありますが、最近のヨーロッパの情勢をみていると、この複合国家論という論点自体は正しかったと考えるようになりました。そういうなかで研究を見直してみたものです。素人の議論ですが、御参考までに。