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カテゴリー「バーニー・サンダースとアメリカ」の35件の記事

2017年4月21日 (金)

多民族国家アメリカと「人種」という言葉ー人種という言葉は使わないのが常識

 多民族国家アメリカを考える上で、第三に定義をしておかなければならない問題は、いうまでもなく、「人種」(レースrace)をどう考えるかであるが、 この言葉はきわめて問題の多い言葉である。

 ユネスコは一九六七年にだした声明『人種および人種偏見についての声明』で「人類を『人種』raceに区分することは、因習的で恣意的なもので、それを何らかの段階秩序に結びつけることは許されない」と述べた。「人種race」という言葉の使用自体が人種主義racismへの感染を意味しているというのである。生物学の分類用語としての「種」は相互に融和・通婚できないという意味をもっているから、とくに「ヒトの種」を意味する漢語の「人種」という言葉を使うこと自体が、現在では、いわば無知の証明であろう。

 また「人種」と翻訳される英語のレースraceという言葉はスペイン語のrazaやイタリア語のrazzaにさかのぼるものであるが、本来は植物や動物をグループ化する用語であった。これが一七・八世紀にベルニエやリンネによって人間の集団に転用されたのであるが、問題は、彼らが「人種」というとき、もっぱら肌の色や顔かたちなどの人びとの見かけの相違が地球上にどう分布しているかを論じたことである。「白色人種・黒色人種・黄色人種」などという見かけを優先した分類が、そのなかから生まれたのであるが、しかし、これは現在のDNA解析を駆使した研究成果からいうと、科学的に無意味な分類、ナンセンスである。『老子』に「色に囚われれば何も見えなくなる」(一二章)とあるが、こういう囚われは、まさに因習的・恣意的なものでしかない。

 最近の分子人類学は、現生人類はアフリカに起原をもち、人類の地球全域への移動にともない、異なる地域環境への適応を遂げたことが明らかにした。肌の色や顔かたちなどは移動していった各地の自然条件におうじて遺伝子に生じた末梢的な相違にすぎない。哺乳類サル目ヒト科ヒト亜科ヒト属に属する現生人類(ホモサピエンス)は生物として完全に一体であって、むしろ人類の類的特徴はきわめて移動性が高く、環境に適応する能力をもっていながら生物的な一体性(相互理解と性的紐帯の強さ)を維持する点にこそある。分子生物学の尾本恵一(『分子人類学と日本人の起原』)はこれらの点をふまえて「人種」という用語は学術的にも破綻しており、使用すべきではないと述べている。

  それ故に、アメリカにすむネーティヴ・アメリカンやアフリカン・アメリカン、ヨーロッパ系、アジア系などの様々な人々を「人種race」と呼ぶのは正しくないことになる。彼らはどの場合もエスニック集団なのであって、ブラックの人々がエスニック集団であれば、WASPの人々もエスニック集団なのである。だからこそ、アメリカを「多人種国家」とはいわず「多民族国家」というのである。そういう中で、たとえばブラックの人々のみを「人種race」という言葉でとらえること自体が、もし口に出さないとしても人種差別であり、最悪の人種主義であることは銘記されなければならない。

 そもそもリンネやブルーメンバッハなどの生物分類学者の仕事は、ヨーロッパが世界に進出し、世界各地の民族を「文明」の名において支配し、さらにはしばしば虐殺したり、奴隷化したりするのと同じプロセスで進んだ。ヨーロッパの博物学的な生物分類学は、それに対応する人種主義偏見を作り出したのである。人類の高い移動性・適応性は、本来は先述の「民族=エスニシティ」の相違、文化的・習俗的な相違を柔軟に受け入れる素地であったはずであるが、それが「身体の相違」であり、「生き物」としての相違であるとするところに他民族嫌悪(ゼノフォビア)・人種主義が発生するのである。

 こういうことからすると、結局、人類の分子生物学的分類をする場合にも「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA系グループというような学術的に正確な用語を使うほかないだろう。これは人文社会科学にとっても深刻な問題であって、たとえば、マルクスも『資本論』で「労働の生産性は人種などのような人間そのものの自然と人間を取り巻く自然に還元される」「(世界には)すでに調査が行われた地域だけでもなお四〇〇万人の人食い人種が住んでいる」などと述べている(Ⅰ535)。もちろん、マルクスはダーウィンの見解にふれて、人類の間での性的な交流は差異を作り出すのではなく、むしろ種の典型的な単一性を作り出していく。差異を作り出すのは地質などの環境的自然であり、そのような自然的基礎の上に民族性も存在しているという趣旨のことを述べており、「人種」が環境の産物であることを認めている。しかし、上記のような記述が人種主義な偏見に満ちたものであることは明らかであり、この点でマルクスもヨーロッパ的な偏見のなかにいたのである(全集(31)248)。

 なお、以上からみると、先に見たスターリンの論理は、最悪の人種主義であることがわかる。前述のようにスターリンは「民族=エスニックグループ」を「国民となる資格をもつ民族」と、その可能性がない「人種的な共同体」に区別する。スターリンは、「ギリシャ人、エトルリア人、ゲルマン人、ゴール人、アラビア人」などから「ユダヤ人、ラトヴィア人」以下のロシア帝国内の「ーー人」と表記した集団を「人種的な共同体」とした上で、その中から「民族=国民」の資格あるものを選別するというやり方をする。ようするに特定のエスニック・グループを「人種あるいは種族」にすぎないという形で差別するのである。

 とくにユダヤ人の問題は大きかった。ユダヤ人は、DNA系グループとして独自なグループをなす訳ではなく、あくまでもエスニック・グループである。スターリンは、ユダヤ人について、ロシア帝国内でいえばロシア・グルジア・カフカーズ高地などの異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しない「人種」であるとした。ユダヤの人々の広域的な都市間・地域間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。この論理が直接に、後のスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺につながったことはいうまでもない。

 ソビエト連邦が旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自治と自決の権利をどのように保障し、民主主義的な地域間、国際間の関係を作り上げていくかは、現在までも尾を引く大問題である。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていたことになるだろう。

 よく知られているように、死去直前のレーニンはスターリンを「粗暴な大ロシア人主義者」と激しく批判し、石にかじりついても糺すと述べたというが、しかし、結局、スターリンの民族理論と人種主義は徹底的に批判されることなく過ぎたのである。

2017年4月20日 (木)

レーガン「アメリカ市民権は国民のもっとも神聖な所有物」?

 アメリカは多民族国家であるが、その実態を知るためには、国民・民族・「人種」の三つの言葉の区別を正確にとらえておかなければ話が混乱する。まず第一の国民とは「ナショナルNatinal」であって、日本国憲法一〇条に「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係ということができる。具体的にいえば、同二二条に「国籍nationalityを離脱する自由」とあるように、国家の国籍、市民権であり、それによって法律の上で国家に所属するということである。だからそれは離脱可能な関係であるが、その意味ではそれは「幻想的共同体」、ベネディクト・アンダーソンの言い方を採用すれば「想像の共同体」であるということができる。

 社会には、この「想像=幻想」は、一種、神聖なものなのであって、人々がそこから離脱することは許されないという考え方がある。アメリカで典型的なのは、第四〇代元首レーガンが、アメリカ市民権は「わが国民のもっとも神聖な所有物」であると称したことであろうか。市民権とは「物」であって、しかも「神聖な所有物」であるという訳である。ここでは、紙に書かれていることは「約束」に過ぎず、物ではないという常識は通用しない。国籍とは法的な約束ではなく、執着したり、他人に誇ることができるような「物」であるというわけであって、こういう狭い執着心のことを「国家主義」という。

 もちろん、国家は現実の存在であり、そうである以上、国家の利益=国益というものは現実に存在する。それを別の国家が頭から決定することは許されないというのが、いわゆる自決の原則である。この自決権とは、本来は、第一次大戦の中でレーニンが「平和に関する布告」で述べた民族独立、植民地解放の要求であり、それがウィルソンの「十四か条の平和原則」の提唱に影響し、ヴェルサイユ条約での原則となり、さらに第二次大戦後に国連に引きつがれたものである。ただ現在では自決権というものは、国民国家を形成する権利を意味するだけではなく、同時にその国民国家が自己決定する権利であると理解されている。

 国連憲章(第1条2)に「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」とあるように、それは国際社会=国家間社会における民主主義の原則なのである。それらの国家の利害は異なっており、そこには正当なものも不当なものも存在するだろう。しかし、それを他の国家が判定することは許されない、国家間関係においては、相互に国益を認め、自決権を認めることこそが無用な衝突や戦争をさけるために必要であるという考え方である。

 この自決権の原語は、The Right of Nations to Self-Determinationであるが、日本では、普通、これは民族自決権と翻訳される。しかし、これは国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳した方がよい。ネーションという英語はたしかに民族というニュアンスももっているが、基本的には国家というニュアンスが強い。ようするに、それは国籍をもって法的に国家に所属する人々、つまり「国民」が他の「国民」からは自立して国家の意思を形成する権利(あるいはそれを要求する権利)意味するのである。

2017年4月 8日 (土)

民族の定義についてーーアメリカ論の前提

 アメリカは多民族国家であるが、その実態を知るためには、国民・民族や「人種」というものの定義を正確にしておかなければならない。まず第一の国民とは「ナショナリティ」であって、具体的にいえば、国家の国籍、市民権によって法的に国家に所属し、政治的な関係を結んでいるということを意味する。そこでは「国家」と「国民」が一対一で面と向かい、国民一人一人が国家と契約し、国家にに属しているという法的な感覚と想像力が前提になっている。ベネディクト・アンダーソンの言い方を採用すれば、国民=ナショナリティとは「想像の共同体」あるいは「幻想的共同体」なのである。

 ここでは第二の「民族」について論ずる、

 もっとも古典的なものはジョン・スチュアート・ミル『代議制統治論』の定義で、ミルは、人種と血統、言語と宗教、さらに地理的境界などの共通性などを条件として歴史的な沿革によって生まれる協働と共感に結ばれた集団のことをいうと述べている。これはかってオーストリアの学者政治家オットー・バウアによりつつ述べた定義とほぼ同じものであって(阪東宏『歴史の方法と民族』1985)、基本的に依拠できるものであるが、もう少し述べれば、これは社会が様々な集団と共同体によって組織されていることを前提に生まれる。つまり、それらの集団や共同体は、必ず相互のネットワークのなかに自然的な共通性やそれにもとずく分業をもっている。そのまとまりが、ミルのいうように、激しい争闘、抑圧、迫害、戦争などの重たい歴史的経験の共通性と運命によって、協同意識をもち、その内部に公共圏や歴史文化を作り出した場合、それについて民族性が生まれたというのである。

 これは国民=ナショナリティとは違って想像上のもの(法的なもの)ではなく、きわめてアドホックな多様で状況的なものであるとはいえ、それなりの共同的利害をもった実在的な関係なのである。もちろん、その民族性がどの程度の広さと正統性をもつか、どの程度の強さや持続性をもつのか、現実は極度に多様であって、決して固定的なものではない。しかし、それはやはり一つの大きな共同体、共同組織なのであって、その意味では人類学のいう「エスニシティ」のことであるといってよい。

 なお、この民族の定義については、ソビエト連邦を全体主義化してヒトラーとともにポーランド分割を強行して第二次世界大戦を引き起こしたスターリンの定義なるものが有名である。スターリンの定義は右のオットー・バウアの仕事を利用して「民族とは言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体である」と述べたもので(スターリン『マルクス主義と民族問題』)、その特徴は、この四つがないと「民族」とはいわないという点にある。しかし、ミルやオットー・バウアもいうように、これらの標識は固定的なものではなく、どれか一つの標識だけでは民族は成立しないが、逆にある標識が欠けても民族として存在することはありうるというのが実態である。言語学の田中克彦が言語の近接性は民族の必然条件ではないとしていることも注意したい(『言語からみた民族と国家』)。

 スターリンの図式は、近年にいたっても、学術的に何か意味があるような扱いをうけているが、それは「堅固な共同体=民族」にのみ自治と国家的自律の権利を与えることに眼目がある。つまり、スターリンは、この「民族の定義」をソビエト連邦内部において、その異民族・少数民族を「民族」として承認するかどうかの基準として提出しているのである。実際、スターリンの右のパンフレットは、たとえばラトヴィア人は民族ではないなどの恣意的な断定をしている。またユダヤ人についても、ロシア・グルジア・カフカーズ高地の異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しないと判定している。ユダヤ人はその広域的な地域間・共同体間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。これがスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺の原因となり、ひいてはイスラエル建国にあたって、多くのユダヤ民族がソビエト連邦から離れたこと、あるいはソビエト連邦が進んでユダヤ民族をイスラエルにを追い出す結果を導びいたことはいうまでもない。

 ようするにスターリンの定義は、いわば民族の行政的定義であって、そのエスニックな側面を無視することによって成り立っている。それは民族=エスニシティと国民=ナショナリティを区別しないのである。スターリンの論理でとくに問題なのは、「民族とは人びとの人種的な共同体ではない」として「ユダヤ人」を含む「ゲルマン人、エトルリア人、ゴール人」などの「ーー人」と表記した集団を例示していることである。つまり、スターリンは人類の生物学的な分類を民族の定義においてまったく無視するのが特徴である。ユダヤ人が、普通、「人種」といわれることは決して学術的に正確ではないとはいえ、ここにスターリンがユダヤ人を民族から排除したことの重要な伏線があったことは明らかである。

2017年2月 6日 (月)

アメリカ連邦制とユナイテッド・ステーツの翻訳

 依然としてアメリカ論をやっています。一番難しいと考えてきた連邦制論についてのメモを終えました。

 小説家の司馬遼太郎は、その『アメリカ素描』というエッセイで「日本はできるだけ法の厄介にならずにすませたい」という国で、「メイフラワー号の始祖たちが最初に法によって個人を明確にし、政治団体をつくってそれへの忠誠を誓わせた国とはちがっている。法によって州ができ、州の連合国家をつくり、さらに法が元首の主人であるとしたこの人口国家にあっては、法という文明材を信ずることなしに生きてゆけない」と述べている。この記述は歴史家から見ると、とても現在の学問水準には耐ええないものである。こういう通俗常識を打破するのは歴史学の重要な役割だと思う。


 アメリカは、世界でも第四位の面積をもつ大国であるが、その大国意識はアメリカが一つのステーツ(国家)ではなく、五〇のステーツ(州)と一つの特別区(ワシントンDC)をもっていること、つまり連邦国家であるということにも支えられている。アメリカは連邦制を国家意識の基礎にすえている国なのである。そして、それは連邦を構成する「邦=州」はワシントンに対抗する州権をもっているのだ、だからアメリカは民主主義なのだという考え方にまでつながっている。

 歴史家から見ると、連邦国家は、前近代から近代への変化の時期に、その国家がどのような経過で設立されたかに関わっている。それは前近代から近代にかけての変化を国家論として理解する上での根本問題の一つである。つまり、近代以前には国家領域のなかにさまざまな民族的集団(エスニック・グループ)が含まれていたことが多い。一般に連邦制はそれらの諸地域あるいは諸民族がどのように連合し、あるいは統合されたかということを反映しているのである。そして、アメリカの場合は、いうまでもなくネーティブ・アメリカンの大地を奪取した植民地権力の連合から始まっており、この連邦国家は根本的にはとても民主主義的なものとはいえない。

 さて、「United States of America」という国名は、アメリカ独立宣言の直後に作成された一三の植民地権力の「連合規約」で定められたもので、この段階での一三植民地権力は国家そのものであり、それ故にここではStatesは「州」ではなく「邦」と訳される。これはたとえば一八一五年のウィーン会議の議定にもとづいて結成されたドイツ同盟(Deutscher Bund)と同じことであるという。このときは国家連合であって、まだ連邦ではなかった。各「邦」(ドイツでは各領邦国家)は、おのおの「邦憲法」をもち、主権は、そこにあったのである。

 これが約一〇年続いた後、一七八七年の憲法によって各「邦」は外交・軍事などの特定の権限を連邦に委譲し、連邦議会が立法権、連邦裁判所が司法権をもち、これによって連邦が形成された。アメリカの連邦制を決定しているのは憲法である。主権を憲法では連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。

 それでも、この連邦は南北戦争までは実質上は「州の連合体」の側面が大きく残っていたが、南北戦争における北部の勝利をへて連邦政府の権限が優越する側面が強化される。それは南北戦争の後に、ナショナルという名称を冠する法律がゲティス・バーグの戦いの年、一九六三年に初めて制定されたこと(National Banking Act)などに象徴されている。そして、フランクリン・ローズヴェルトのニューディールのなかで大統領権限が拡大し、ここでアメリカは連邦国家というスタイルを残しながらも、実質上は単一的な強力な国民国家に変貌した。

 これがアメリカの連邦制の簡単な経過であるが、世界的には連邦制国家はきわめて多い。具体的に挙げれば、まず英米法に属する国ではカナダ、オーストラリアがある。両国はアメリカよりも独立の時期が遅いためもあって、憲法の文面でも中央の力がアメリカよりも強いが、オーストラリアの正式国名Commonwealth of Australiaはオーストラリア連邦と翻訳されることも多い。とくにヨーロッパに連邦制が多いことが注目される。フランス革命で極端な中央集権化を追求したフランスは例外としても、ドイツはいうまでもなく、スイス連邦、ベルギー王国、オーストリアは明瞭に連邦制であり、がイギリスも、正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であって、唯一のイギリス王をいただくという意味では連邦制ではないが、アイルランドのほかスコットランド、ウェールズも連邦的分権性をもっている。スペインがバスクの分離要求にさらされ、イタリアでも北部同盟が連邦主義をかかげていることはよく知られている。

 一般的にいってヨーロッパでは国内の民族的集団が残りやすい有利な条件があったということになるだろう。もちろん、ヨーロッパの外でも、国名に連邦をふくむ諸国は、たとえば、ロシア連邦、アラブ首長国連邦、ミャンマー連邦共和国(Union of Myanmar)、ブラジル連邦共和国などがあるが、ヨーロッパに連邦制国家が多いのは、一六世紀以降、ヨーロッパが世界の他地域を支配して、その地域を破壊してきたのに対して、ヨーロッパ内部の枠組みは相対的には維持されたためであると考えることができるだろう。
 その意味でまた逆に、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどの植民地に由来する諸国で連邦制が多いのは、原国民(ネーティヴ)を抑圧して入植した植民集団による領土分割がきわめて強力であって、それが連邦制を結果していったということになる。

合衆国か合衆国か、アメリカ連邦か

 アメリカ史研究の中でも、このようなアメリカの連邦制はもっとも理解しにくいものである。しかし、これは根本的な問題なので、それを見直すために、歴史学の立場から翻訳語のもつ問題に迫っていくこととするが、ここで問題は、アメリカの正式国名、「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」の翻訳が問題になる。

 この国名は素直に「アメリカ連邦」と訳すべきものであろう。世界で連邦制国家が主要な国家の姿の一つである以上、それが国家論としても正しい呼称であろう。それはドイツの正式国名、ブンデス・レプブリク・ドイチェランドBundesrepublik Deutschlandがドイツ連邦共和国と訳されるのと同じことであるはずである(ブンデス=同盟=ユナイト、レプブリク=共和制)。しかし、日本をふくむ東アジアでは「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」は伝統的に「アメリカ合衆国」と翻訳されてきた。最近では、ジャーナリストの本多勝一が提案した「アメリカ合州国」という訳語も使われているが、考えてみると、「合衆国」にせよ「合州国」にせよ、世界に存在する他の連邦国家と区別して、アメリカについてのみ、特別な国名をあたえるというのは東アジアに独特な奇妙な現象ではないだろうか。

 「アメリカ合衆国」は、最初、アヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしく、日本でも、徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という翻訳が使われた。しかし、「合衆」というのは、中国の古典に見える「衆人を和合させる」という意味の言葉で、「合衆国」とは「王のいない国=共和国」の意味で作成された言葉である。一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの宗主国、神聖ローマ帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国、ペルシャ帝国、ムガール帝国、清帝国、さらに日本帝国の七つがあるというものであった。当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。それを知った中国の人が無理して古典から拾い出したのが、「合衆国=王のいない国」ということだったのである。ようするに、中国で作られた「アメリカ合衆国」という翻訳は、「United States of America」という英語を直訳したものではなかったのである。

 私たちは「合衆国」という言葉に国王のいない国というものに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きを見るべきなのである。福沢諭吉が、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたのも同じことだろう。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)が「合衆政治」という言葉を共和政治と同じ意味で使っていることも、アメリカ合衆国=王がいない国という通念を繰り返したものである。その意味ではこの言葉は、明治以来の日本に染みついた王のいない国柄、民主主義のお手本=アメリカという観念を言葉として支えるものだったのである。

 なお、本多勝一が、その興味深いルポルタージュ『アメリカ合州国』で提案した「合州国」は「ユナイテッド」を「合」、「ステーツ」を「州」と訳し、「合衆国」と同じガッシュウコクと読ませようというのである。「ステーツ」は「国家」という意味だが、たとえばヴァーモントは「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」であり、これをヴァーモント州と訳す。だから「ユナイテッド・ステーツ」も「合州国」と訳せばいいという訳である。たしかにこれは翻訳の正確さという点では一つの前進である。そのため相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を使うようになっている。しかし、この訳語もうまい語呂合わせではあるが、「アメリカ連邦」という単純な翻訳に劣るというほかないだろう。

 むしろ問題は、これまでUnited States of Americaが素直に「アメリカ連邦」と訳されなかった理由にある。それは端的にいえば、この訳語ができた一九世紀後半は、東アジアにおいてむしろ前近代的な国家の分権性から中央集権的な国家を形成する動きが一般的であったためであろう。たとえば、この時期、一九世紀後半に独立の王朝をもつ琉球国家を強制的に「処分」編入し、アイヌ諸民族の大地(アイヌモシリ)を奪い尽くした。そこでは連邦どころか自治権も否定されたのである。もちろん、そもそも日本自体も徳川帝国までは、幕府と藩の両方ともが主権をもつ一種の連邦制の複合国家であったことはいうまでもない。しかし、それは明治維新において、「封建的」なものとして否定されるだけで、近代的な連邦制や地方自治という方向には動かなかったのである。現在の日本国がまったく連邦制的な要素をもたないのは、なかばは明治維新によって、またあるいは急いで資本主義帝国になるために大日本帝国は例外的といえるほど連邦制の色彩のない単一の国民帝国となったのである。

 前述のように、国名として連邦制を名乗らないものをふくめれば、世界では連邦制国家は普通の国家のあり方である。日本人が連邦制という言葉を忘れがちなのは、近代日本が連邦制の対極にある国家であったからであり、「琉球処分」もアイヌモシリの略奪も忘れ去られがちで、いわゆる「単一民族幻想」が一般的であったためであろう。その意味でもアメリカ連邦という国家論的にも正しい訳語に切り替えたいものである。

連邦制の財政構造とナショナル・ミニマム
 イギリスのスコットランドやスペインのバスク、さらには旧ユーゴスラビア連邦の四分五裂の状況を考えれば明らかなように、連邦制の問題は二一世紀においても世界史の根本問題である。もちろん、各国での連邦制の実態はきわめて多様である。連邦制の共通性は、ほとんどそれらの国家がなんらかの形で連邦形式の憲法をもっていることにつきるといってよい。たとえばアメリカを連邦国家というのは、まずは、アメリカが国家連合から連邦という経過を辿り、その国家法(連邦憲法ー州憲法)が連邦制のスタイルをとっているためである。

 しかし、その連邦制の現実は憲法の文面だけからは判断できない。それはまず連邦に参加している各「邦」が、どの程度、団体としての自治・自律の権限をもっているか、また連邦国家において各「邦」の水平的な協同や意思統一が、実際の重みをどの程度もっているかに関わってくる。もちろん、そのような「邦」の自立性や水平的な連合が連邦制の理念にふさわしい形で存在している連邦国家は現実には存在しない。その意味では連邦制は本質的には一つの理念にとどまっているというべきであろう。しかも問題となるのは、このような連邦制の具体的な姿は、実際には連邦を構成する各「邦」の実質に関わることである。「邦」が、その基礎にある自治体(タウンシップあるいはコミューン)をどこまで実質的に代表しているか、その意味で「邦」が団体としての自立性をどこまでもっているかという問題である。

 そもそも、現代の諸国家は、一般に①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)からなる三層の構成をとっているが、連邦制とは直接には①と②のレベルの関係である。②の広域行政府が、さまざまな経過によって成り立った民族的・文化的・歴史的な独自性をもつものとして、法的に一つの「邦」として認められている場合を連邦制というのである。しかし、その連邦制の実質は、とくに②ー③の関係、②広域行政府(「邦」)が③の基礎自治体をどこまで実質的に代表しているか、さらに住民の自治が基礎自治体から広域行政府にいたる団体にどこまで貫いているかによって大きく異なってくる。

 アメリカを例に取ると、五〇の州の下には、現在、約五万の基礎自治体がある。その内訳はだいたい全国で約三〇〇〇の「郡county」、そしてその下部単位の「町town」が同じく約一万七千、自治性の強い「市municipality」が同じく約一万九千、さらにアメリカに独特なものとして同じく約一万四千の「学区」がある。警察や消防は自治体警察・自治体消防で、刑務所も州のみでなく、自治体で運営するなどのことはよく知られているだろう。さらにただでさえ複雑なアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしているのは特別区なるもので、これは消防・土壌保全、灌漑、上下水道などの単一のサーヴィスを提供するだけの団体であって、約三万にも上るという。

 問題は、こういう①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)という三層構造は、その国家が連邦制か非連邦制かに関わりなく、一般的であることで、右に述べたように、連邦制とは、そのうちでも②が民族的・文化的・歴史的に特殊な位置をもっている場合をいうことである。逆にいえば連邦制でない場合でも、地方自治の拡張にともない②のレヴェルに強い団体自治権が成立した場合は、連邦制国家と非連邦制国家は機能的には無限に接近していくことになる。現在においては、全体として連邦制と地方自治はしばしば相似した姿を示すのである。

 そして連邦制にせよ、地方自治にせよ、何よりも重要なのは、住民の意思が実際に、各広域行政府や基礎自治体の団体自治にどこまで反映しているかという住民の自治の問題である。バーニー・サンダースがいうように民主主義は下から上へ、ボトムからトップへ貫徹すべきものであり、住民意思が基礎自治体に貫徹し、基礎自治体同士の連携関係に貫徹し、それが広域行政府に代表され、広域行政府の連携を前提として国家権力の総体に貫徹していくこと、そしてそのようなボトムからトップへのサイクルが繰り返されることこそが、地域に基礎をおく民主主義なのである。それは、それを保障しうるような経済的・財政的なシステムをともなわなければならない。

 そして、そのような経済的・財政的なシステムは、現代においては、たんに基礎的な自治体・コミューンのレヴェルで閉じているものではなく、③コミューンをふくむ、①国民国家、②広域行政府との連携・補完の関係において実現されるものである。二〇世紀の国家は、連邦制か非連邦制かをとわず、基礎的な自治体・コミューンに対する財政的連携と補完の関係を発展させてきた。

 たとえば連邦制のカナダ、ドイツ、オーストリアでは、各基礎自治体の公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度が憲法で保障されている。そこには「連邦議会とカナダ政府は、州政府がほぼ同様な課税水準で、ほぼ同様な水準の公共サービスを提供するに足る歳入を確保できることを保証するように平衡交付金を支出する原則に拘束される」(カナダ憲法第三六条)とあって、平衡交付金という制度によって地域格差是正の処置がとられている。ドイツでも同じような財政調整制度が存在し、それはドイツ連邦共和国基本法に、その連邦の性格が「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定されていることに支えられているもので、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出するために」立法権を認められている(基本法第72条二項)。

 このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつことは明らかであろう。これが、いわゆるドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。

 また非連邦制の国家として日本を例にとると、日本の自治体の総予算うちで地方税の占める割合は長く四割を切り、六割が政府からの補助によっている。そのため長く日本の支配政党である自民党や企業メディアは、このような状態を「三割自治」と称して、「道州制」によって独立採算にすべきであると主張してきた。たしかに自治体予算が過剰で無計画な「公共事業」に割かれ、政府補助に使途規定のものが多いなかで、自治体財政が硬直化しがちであることは事実であり、それは解決しなければならない問題である。しかし、だからといって、自治体予算のうち教育やインフラなどの必須的経費が確実に保証されていることをやめてしまっては元も子もない。このような保障は、日本国憲法がすべての国民に「健康で文化的な生活をおくる権利」を基本的な人権として認め、「国はすべての生活部面について社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(第二五条)としている結果であることはいうまでもない。

アメリカの連邦制の貧困な実態
 問題はアメリカでは、後にふれるニクソンの時期の政策を例外として、以上のような地域財政調整制度がまったく存在しないことである。そもそも、アメリカ連邦憲法は一八世紀後期に成立したもっとも古い憲法であり、補正箇条によって一定の補正が行われてきたとはいえ、依然として、基本的な人権と社会権の項目がないという現代的な憲法思想へのグレードアップをサボってきた旧式のものである。アメリカは、他の先進諸国とは相違して、地域自治体の財政を調整し、教育や社会福祉についてのナショナル・ミニマムを保障する財政調整制度を欠くきわめて特異な国家なのである。

 アメリカの自治体はたしかに六六%を自主財源によってまかない、残余が補助金となっている点では日本の自治体と真逆である。しかし、これは決して地域に基礎をおく民主主義といえるようなものではない。その財政はつねに厳しく、しかも、初等中等教育費(三六,四%)と道路など建設維持費(五,三%)、治安警察費(八,八%)、社会サーヴィス保障費(一一,七)などの必須的経費で七割以上を占め、予算の硬直化は日本よりも激しい。教育予算をとれば、その財源は自治体の資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる(ライシュ。格差65頁)。また、社会保障については連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまうという。

 しかもアメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。大ざっぱにいえば、現在では連邦政府には所得税(個人所得税+法人所得税)の約八割、州政府には所得税の約二割弱、売上税の六割強、そして自治体には資産税の九割以上という配分になっている。そして、税収規模は連邦予算は全税収の六六・八%、州予算は一九・六%、地方自治体は一三・六%に過ぎない。現在ではアメリカの国家財政は極端な中央偏重の税収構造になっているのである。その上、ほぼすべての州憲法で州は財政赤字をだすことは禁止され、公債を組むことも困難となっている。広域行政府や基礎自治体の財政自主権は厳密には形式的なものにすぎないというべきであろう。

 ようするに、これは現代的な福祉国家の常識からいえば、実際上、国家的な責務を放棄し、住民自治の財政的条件を奪い取りながら、その責任を基礎的な自治体・コミューンに押しつけたものというほかないであろう。もちろん、アメリカにおいても州政府や自治体の努力や協同によって相当の事業が可能になる。しかし、このようにして自治権の社会的・経済的な内容の相当部分が骨抜きになっていることは事実でアリ、それを前提とすると連邦制度や地方自治制度の中身として残るものはきわめて寒々しいものになる。たとえば、国家元首クリントンは一九九九年に発した行政指令一三一三二号において「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」といっているが、これは地方自治をもっぱら地方政府の行政のあり方という狭い範囲に局限しようというものであって、住民が自治体・コミューンとそのネットワークを媒介として国家意思それ自体を積極的に形成していくという発展的な住民自治の発想を最初から排除している。

 日本の法学界では「地方自治の本旨」(憲法九二条)とは、「国民の不断の努力によって保持される」べき基本的人権(憲法一二条)を地域において保障し実現する住民の自治の営為に根付くもので、それを前提として自治体の団体自治があると捉えられている。ところが、日本の自民党がかかげている改憲案は、この「地方自治の本旨」を「地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自律的かつ総合的に実施することを旨として行う」というきわめて狭いものにしようとしており、法学界からは、これは地方自治を行政の局面、あるいはそこへの住民の参画に限ろうとするものであるという強い批判がある。クリントンの行政指令一三一三二号のいう「人々に最も近い政府のレベルthe level of government closest to the people」なる文言と自民党改憲案のいう「住民に身近な行政」なる文言はまったく同じものであって、たしかに住民自治どころか住民を「身近な」極限された空間に押し込めようとするものであるといわざるをえないだろう。

 クリントンの行政指令一三一三二号が「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」というのは、公共分野におけるナショナル・ミニマムを諦める論理として働き、新自由主義を地域から支える論理となったのである。ナショナルミニマムがないということは行政の責任を曖昧にする。その基点からアメリカの行政のあり方を問うことが、アメリカ国制史の基本問題だろう。

 私は大学は国際基督教大学でアメリカ論を考える時間はたっぷりあったはずで、とくに大塚久雄先生の御意見をうかがう機会があったのに不勉強なままできました。

 以下は、連邦制論に関わって、アメリカの国号をどうするべきかという問題で、以前、合州国の方がよいと書いたのですが、それを考え直したものです。

 日本史研究では、いわゆる複合国家論が一世を風靡したことがありますが、最近のヨーロッパの情勢をみていると、この複合国家論という論点自体は正しかったと考えるようになりました。そういうなかで研究を見直してみたものです。素人の議論ですが、御参考までに。

2017年1月 3日 (火)

ファシズムという言葉の意味をどう考えるか。

ファシズムという言葉

 ドナルド・トランプは「偉大なアメリカよ。再び」というスローガンで大統領になった。この主張は、しばしば「ファシズム」的であるといわれる。たしかに、アメリカの最近の動きをみていると、アメリカに、初めて、それらしいファシズム運動が生まれ、実現の道を歩んでいるようにみえる。しかし、ファシズムという言葉は歴史学においてもはっきりとした定義がない言葉であり、また欧米語としてもきわめて曖昧な言葉である。

 ファシズムの語義から調べていくと、まずこの言葉の語幹、ファッショは、もともとラテン語の「束」という意味の言葉、ファスケースFascesに由来するものである。左にファシズムという言葉を初めて使ったムッソリーニのファシスト党の標章を掲げた。この真ん中に描かれたものがファスケースである。斧に木の棒の束を革紐で結びつけている模様である。このデザインは当時のイタリア国王の紋章などにも描かれているが、ムッソリーニはイタリアの多くの建造物のレリーフなどに、このファスケースの模様をあふれさせた。ファシスト党は、立党のしばらく後、一九二二年、この党章を旗印として、ローマに進軍し、それを背景として政権を奪い、ファシスト大評議会を基礎とする一党独裁制を固め、ユーゴスラビアに進出し、アルバニアを保護国とするなど一挙に勢力を高めた。

 ヒットラーが、ムッソリーニのローマ進軍の翌年、ミュンヘン一揆を起こし、ベルリン進軍を呼びかけたが、それは失敗に終わった。それゆえに、当時は、ナチスのハーケンクロイツ(鉤十字)よりも、このファスケースの方が有名だったのであり、そこからファシズムという言葉が生まれたのである。

 もちろん、ファシスト党もナチスも、議会・憲法を停止して、軍事行動や謀略で独裁を行うという点では同じである。ドイツは、イタリアに一〇年遅れたものの、一九三二年の総選挙でナチスが第一党となり(ナチス二三〇、社会民主党一三三、共産党八九)、翌年首相に指名されるや、国会議事堂放火事件をでっち上げ、ワイマール憲法を停止する全権委任法を押し通してナチス一党独裁を実現したのである。それ故に、イタリアのファシスト党もナチスも同じようにファシズムといわれたことに不思議はなかった。

 ファスケースがラテン語の「束」という意味であることは右に述べた通りであるが、斧に木の棒の束を革紐で結びつけたファスケースという物、それ自体は、古代ローマの王あるいは執政官に付き従った護衛が、権威の標章として肩に担いでいたもので、日本語では儀式のための斧、つまり儀鉞(ぎえつ)とか、木の棒を束ねているという意味で束桿(そっかん)などと訳される。これはローマの王あるいは執政官の権限、命令権を象徴するものなのである。この命令権はインペリウムと呼ばれ、それがインペリアリズム(帝国主義)の語源となったのであるが、ようするにファスケースの模様は、国家の至高の命令権(インペリウム)の周りに結集せよという意味を含むわけである。

 ムッソリーニは、そこから「我々は束だ、ファッショだ」と呼びかけた訳である。ファッシネート(fascinate)というと「魅惑する」「魔法で人を縛り付ける」という意味であるが、その語源もファスケースと同じであるらしい。そして、そもそも、このファスケースの模様は国家を象徴するシンボルとして決してめずらしいものではなかった。アメリカでもワシントンが初代大統領に選出された年、一七八九年に連邦議会下院は、議会の衛視の標章として、このファスケスを採用している。アメリカ「独立革命」の指導者たちは、フランス革命にならって共和制の象徴としてローマの古典主義を尊重していたが、これはローマの儀礼をそのまま真似したものである。アメリカにはそのほかにもファスケースFascesのデザインは多く、ホワイトハウスの大統領執務室(オーバルオフィス)のドアの上や、下院本会議場の演壇の国旗の両側にあり、さらにリンカーン記念館のリンカーン像のイスの前面にも彫り込まれているという。そもそも、棒を束ねるということ自体は、イソップ物語に「一本の木の棒は折れやすいが束にすれば折れない」という話があるのと関係するらしい。毛利元就の「三本の矢」と同じ話である。

 七〇年ほど前、ジョージ・オーウェルは、「ファシズムとは何か」というエッセイで、ファシズムという言葉は、非常に定義しにくい。実際の使われ方からするとほとんど無意味な言葉だといっているが、しかし、そうはいっても、欧米では、ファシズムといえば、上記のような語義、語感、ニュアンスは伝わるのだろう。
 しかし、日本語でファシズムといった場合は、カタカナの外来語であって、その意味はオーウェルのいう以上に曖昧になる。それ故に、「トランプはアメリカに初めてファシズムを実現するかもしれない」といっても、学者、政治家、ジャーナリストでない人には正確なところは伝わらないことになるだろう。というよりも学者も、ファシズムの定義とナルトほとんど曖昧なのが実際なのである。

 私の専門領域をまったく外れるが、ファシズムという言葉について考えている。上が、その経過的な報告。

 それでは、このファシズムというのを日本語にどう訳すかだが、やはり、超国家主義という言葉に翻訳して使うことになるのではないかと思う。ただ、それは英語で言えば、ウルトラ・スタティズム(ultra-statism)である。丸山真男のいうようなウルトラ・ナショナリズムではないのではないかと思う。
 それは明日考えたい。

2017年1月 1日 (日)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望(ロバート・ライシュ)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望
                        2016年12月31日土曜日  ロバート・ライシュ
 ドナルド・トランプは、2016年の最後の日に次のようにツイートした:

 「すべての皆におめでとう。私の沢山の敵や、私に反対してひどく負けてしまって、どうしていいかわからない人へも。愛してるよ」。

 すぐにアメリカ合州国大統領になろうとしている男が、いやしい精神で、浅薄で、ナルシスティックな、そして報復的な性格を表し続けている。

 トランプは、世界を個人的な勝利か敗北か、敵か友人か、サポーターか批判者かという点から世界を見ている。
大統領は個人的な敵意を越えて、公共的に信託された職を維持しなければならないものなのだということもまだわかっていない。

 大統領は、彼に反対票を入れ、また彼に反対し続けるかもしれない人々を含む、すべてのアメリカ人を代表するものとされている。

 民主主義において、大統領の政策に対して戦う人々は、彼の個人的な敵ではない;
彼らは、反対党派であり、批判者である。

 中傷されたり、敵と分類されたり、報復されることを心配せずに、政権を握っている人々に反対する自由。それに民主主義は依存している。

 新年おめでとうございます、トランプさん。

 あなたには、大統領としての行動を学ぶために20日間あります。
 あなたの方針に反対し、あなたの人格について心配している我々のすべてが心から望むのは、その学びです。

2016年11月19日 (土)

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

 11月16日、水曜日夜、バーニー・サンダーズ上院議員は、選挙が終わってからはじめて、まとまった演説をし、大きな注目を集めた。フェースブックでは、もう60万の人がみている。https://www.facebook.com/PoliticalRevolution/videos/1308001395918740/。

このワシントンのジョージタウン大学で行われた演説で、サンダースは、いくつかの問題についてトランプ次期大統領とともに働けることを希望しているといった。

 しかし、同時に、そのためにも、極右のジャーナリストのスティーヴ・バノンを戦略アドヴァイザーに選任することを再考するように要求した。スティーヴ・バノンは人種主義と性差別と外国人ヘイトと同性愛嫌悪で有名で、さらに反ユダヤ主義者でもある。 

 サンダースは、アメリカは徐々にさまざまな差別を克服するところに進み出てきたのであって、アメリカ合州国の大統領のそばに人種差別主義者がいることは受け入れられないと強い調子で釘をさした。

 彼のスピーチは、依然として激しい口調で、74歳とは思えないエネルギーに満ちているが、他方、その演説は、サンダースがきわめて柔軟な政治家であることも示した。つまり、サンダースは、ドナルド・トランプを攻撃するのではなく、むしろ、トランプが大統領選挙における演説で約束した、大多数の共和党の政治家とは異なる公約を具体的に取り上げて、その実行をせまったのである。それは下記のようなもの。

 (1)トランプ氏は社会保障予算をカットすることはしない。メディケアとメディケードを切ることはしないといった。私は拡充せよと主張するが、切らないというのは前提であり、重要な約束だ。

 (2)トランプ氏は、1兆ドルを我々の公共的なインフラ整備に投下すると約束した。それをすれば何百万もの給料の良い仕事口ができる。これも私の主張に共通する。

 (3)私は、今日の連邦の最低賃金が飢餓賃金であり、それは1時間につき15ドルにアップされねばならないと主張した。トランプ氏は、1時間につき10ドルまで最低賃金を上げなければならないと言った。これは十分ではないが、一つのスタートだ。

 (4)トランプ氏は、ウォール街の許しがたい強欲さと悪行を批判し、ニューディールで採用されたグラス・スティーガル法を復活するといった。これは最大の焦点のひとつだ。賛成なことはいうまでもない。

 (5)トランプ氏は、6週の有給出産休暇を実現すると約束した。地球上で主要な文明国といえば少なくとも12週の有給の家族と病気療養休暇が条件だが、これもスタートとしては重要だ。

 (6)トランプ氏はTPPなどの我々の壊滅的な貿易政策を変えるといった。これも賛成だ。


 時代錯誤の無知で頑迷な人種差別、外国人ヘイト、性差別などではまったく妥協はしない。しかし、以上が、誠実に行われるかどうかが問題だ。
 大統領候補が、この国の労働家族に偽善や嘘をいうことはゆるされないことは分かっているはずだ。これらを注意してみていくし、一緒にできることはいくらでも協力する。期待していると言ってもよい。
  
 以上が演説の主な内容の一部。

 面白いのは、サンダースの口調は、きわめて激しいし、表情も豊かだが、よい意味で、いつも同じことをいっていることだ。私は英語を聞き取るのは得意ではないが、民主党第一次選挙のときから聞き続けていたので、だんだんなれてきて分かるようになった。とくにデモクラシー・ナウというアメリカの番組では、書き起こしがついているので、分からないところはそこをみればだいたい聞き取れる。https://www.democracynow.org/2016/11/17/bernie_sanders_calls_for_trump_to_ax

 口調が、きわめて激しく表情も豊かだが、いうことが同じというのは、アジテーターであり、実際には霊性な知性派であるということでもあろうが、しかし、バーニー・サンダースは決して人に嫌われるタイプの人間ではないようだ。

 すでに『バーニー・サンダース自伝』(大月書店)が翻訳・発行されているが、『Our Revolution』という続編がアメリカでは11日に発行されたはずだ。

 日本の野党や市民勢力とアメリカの先進的な勢力との交流は必然的に進むだろうから、サンダースの演説を聞く機会はふえるに違いない。

 この日、水曜日、彼は、この日の昼、はじめて上院民主党の執行部に選出された。新設の普及(アウトリーチ)委員会の責任者となり、上院予算委員会の上級議員にも再任された。共和党は、上院で民主党に負けたら、サンダースが予算委員長になってしまうと危機感をあおり、一議席多数を維持したが、ぎりぎりだったわけだ。

 ウヲール外オキュパイ運動の中心をになったエリザベス・ワレンも執行部入りしたから、民主党上院執行部は先進派が有力な役割を担うことになる。

 なお、いまの焦点は民主党の全国委員会委員長に誰がなるかである。サンダースらはケイス・エリソンを推薦している。それが実現すれば、民主党は大きく変わり、アメリカ政治の非効率さの象徴である二大政党制は上から解体の方向に進むだろう。

 民主党が変わらなければ、4年後には第三党の形成に進むのかもしれない。共和党がどうなるかも波乱含みだからアメリカの政治はあきらかに激動期に入った。

 サンダースの主張は昨年までの民主党の枠組みを明らかに超えている。サンダースの行動は、舞台の外ではなく、舞台の中心にでてきている。サンダースは、この間、アメリカで起きるさまざまな問題に的確で適時のメーッセージをだし、演説をし、それは相当のインパクトをもっている。これが続くと、サンダースの行動は、このままでも、実質上、第三党の役割を果たすことになる。

2016年11月10日 (木)

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明 20161009

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明
                                 20161009
「ドナルド・トランプは支配勢力の左右する経済・政治・メディアにあきれて嫌になった没落する中流階級の怒りと響きあった。人々は、領事館の労働と低賃金が嫌になり、然るべき支払いのある仕事口が中国などの外国に行くのをみているのが嫌になり、億万長者が連邦の所得税を支払わないのに嫌になり、そして子供たちが大学へ行く学費の余裕もないのに嫌になっている。それにも関わらず、大富豪はさらにリッチになっているのにあきれているのだ。

 トランプ氏が、この国の労働者家族の生活をよくする政治に誠実に取り組むならば、それに応じて私と、この国の先進的勢力は協力する用意がある。人種主義者、性差別主義者や外国人ヘート、そして反環境主義の政治の道を行くならば、我々は精力的に彼に反対して行動するだろう。」

 アメリカの進歩勢力に頑張って欲しいと思う。トランプに対してはしばらく我慢をすること、軍警察、KKKのような危険な動きとできるかぎり連動させないようにすること。1年2年もたせて4年後への展望につなげることだと思うが、それらはバーニー・サンダースは十分わかっているだろう。

 しかし、ヒラリー・クリントンは政治家として終わり。彼女はバーニー・サンダースに謝らねばならない。それができなければ完全に終わる。政治家にも仁義というものはあろう。彼女が今後できる唯一の役割がそれだろう。

2016年9月 7日 (水)

アメリカの選挙のおそるべき汚さ


 アメリカの選挙にはすでに憲法のレベルで制度的な欠陥が多いというのがアメリカの政治学会の常識であるが、ただ、、制度的な欠陥には歴史的な理由や経過があるものであって、それらを解決するためには一定の時間がかかる。しかし、選挙の実際の運用に関わる問題は、それとは別のレヴェルの問題であり、アメリカの選挙の実際において何よりも驚くべきなのは、その恐るべき汚さである。

 ここでは大統領選挙に限らず、選挙一般について確認していくことにするが、まず第一は、選挙権そのものの問題である。民主主義国家においては国民に選挙権を保障することは何よりも重要な行政の義務である。しかし南北戦争後に制定されたアメリカ合州国憲法修正一五条は、黒人に投票権をあたえたものの「投票権は拒否されることも制限されることもない」という消極規定であって、選挙権を「国民固有の権利」とする(日本国憲法一五条)常識的な規定とは異なる不十分なものであった。しかも、アメリカでは二〇世紀初頭、投票権を国民に自動的にあたえずに事前登録を義務づけ、移民や黒人の投票を抑制する措置がとられた。これは公民権法のなかで成立した投票権法が成立した後も根幹として維持されており、そのためアメリカでは、七〇年代以降も、三〇%ほどの国民が選挙権をもっていない事態が続いている。とくに白人の有権者登録率は約七割、黒人は約六割、中南米系は約五割強にとどまるという実態は、アメリカが民主主義国家とはいえないことを示している。

 こういう国家における政治家や官僚その他、何らかの形で税金によって生活を維持している人間で、選挙権を国民に保障することを第一の義務として行動しない人間は、主権者を主権者と考えない人間であり、また主権者の税金を不当に所得している人間である。そのような人間は民主主義者ではないことはもちろん、そもそも非道徳な人間であって社会的に排除するべき存在である。彼らは、それだけでなく、こういう実態をさらに悪化させようとしている。

 これは社会的な犯罪者あるいはその予備軍であるとしかいいようがない存在であろう。問題は、アメリカではこういう社会的な犯罪者あるいはその予備軍が大きな顔をしていることである。つまり、二〇一三年、アメリカ最高裁は、投票権法にもとづくガイドラインの一部を違憲だとして、州による投票制限の道を開いた。これによって相当数の州が投票制限法を強行し、その中で、(すべての人がもっている訳ではない)運転免許証やパスポートなどの写真付き身分証明書の提示、選挙投票日当日の有権者登録の廃止、事前投票期間の短縮、日曜日の事前投票への制限、事前の住所変更申請などの問題が発生している。投票する時間や手続き条件をもたない人間は実力がないのであって、そういう人間は投票しなくてよい。そういう人間はアメリカ民主主義の誉れにふさわしい人間ではない。そういう人間は二級市民であって、その投票は抑圧してよいという訳である。最高裁は、アメリカの超富裕者(ヴェリー・リッチ)に対して「アメリカの経済のほとんどを所有しているあなた方は、ホワイトハウス、政府、連邦議会、州知事、州議会をも買い占めていい」といったのだ、というのがサンダースの評価である(サンダースHP、issues)。

 さらに汚らしいのは、アメリカでは国勢調査のある一〇年ごとに州の選挙区の形を操作して無風選挙区を作り出す二大政党の裏取引が行われることで、この選挙区の形を怪獣のようにするゲリマンダーといわれる詐術も、最高裁判決によってさらにやりやすくなってしまった。有り体にいえば民主党支持者が多い区域を作って、そこでは民主党が圧倒的に勝利をするが、他の地区では共和党がかならず勝利するか、いい勝負ができるように選挙区の形を操作するのである。とくに連邦下院議員選挙の選挙区は各州の知事・議会において圧倒的に共和党有利のゲリマンダーが行われており、これをくつがえすのはすぐには困難という状況ができあがっているという。
 こういう神経をもつ社会的犯罪者たちは、投票日当日に投票妨害を強行することも辞さない。サンダースは「人々はどの選挙でも投票するのに何時間もまたなければならない。これは国民的な不名誉だ」と述べているが、アメリカの野蛮な社会的犯罪者は、どれを不名誉とは考えない。今回の予備選挙でも問題になったように、不利になりそうなところでは民主党・共和党の裏取引の下で投票所それ自身を閉鎖したり、数を減らすという破廉恥な行動が行われている。

 二〇〇〇年のゴアとブッシュの大統領選挙の際に、投票機械がわざと古いままに置かれているという事実が明らかになったことは世界を驚かせたが、今回、二〇一六年の大統領選挙において、どのような不正が、どのような勢力によってどう行われたか。これはバーニー・サンダースに対する支持が、ここまでに達したという情勢のなかで、今後、さらに赤裸に明らかになっていくであろう。

 破廉恥政治の当人たちにとっては選挙はゲームの対象である。彼らは、そのゲームを巨大な金の動くビッグ・ビジネスとし、そこに巨大な害虫のように寄生している。たとえば、トランプの選対本部議長であったポール・マナフォートはウクライナのヤヌコヴィッチ前大統領のコンサルタントという経歴でロシアのプーチンとの関係もあるという人物で政治宣伝のプロである(二〇一六年八月に辞任)。またビル・クリントンの選挙参謀・政治コンサルタントをつとめたディック・モリスは、スキャンダルで辞任した後、共和党のマサチューセッツ知事、アルゼンチン・ウルグアイ・メキシコの大統領選挙で活動した選挙戦略家で、オンライン投票システム(Vote.com)の代表でもあるという人物である。以前の日本では、こういう存在を政治ゴロといっていたが、最近では、日本でも電通が同じような選挙ヤクザの役割を果たすようになったことはよく知られている。しかし、さすがにアメリカの「政治ゲーム市場」は国際的である。

 ゴアは、イラク侵攻の直前のアメリカ上院が静かだった理由を、議員たちの多数が間近の選挙でテレビコマーシャル枠を買うための資金集めイヴェントに出席していたためだと証言している(『理性の奪還』)。そしてゴアが敗北した大統領選挙の年の選挙戦全体にかかった費用は三〇億㌦であったが、二〇〇八年のオバマ選出の年には五三億㌦にまで達している。バーニー・サンダースがいうように、これは億万長者と企業権益による政治の買い占めである。しかも、二〇一〇年、最高裁のシティズン・ユナイテッド訴訟判決は、諸団体が選挙の前にテレビ宣伝をすることを禁止していた選挙運動改革法を「表現の自由」の名のもとに違憲であるとして金権選挙をさらに野放しにした。このような法律家のことを東アジアでは伝統的に「法匪」と呼ぶことになっている。

2016年8月29日 (月)

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

 「私たちのつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。私たちは、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている」。これはオバマ大統領の二〇〇九年の就任演説の一節である。アメリカにおける民族の多様性がアメリカという国家にとって一つの「強み」に展開した、また民族差別(「人種=マイノリティ差別」)が消滅した、あるいは消滅の方向が決定的であるという宣言である。
 たしかにオバマが大統領になったことは、一九六〇年代初頭に始まった公民権運動の一つの到達点を示している。しかし、それはまた、ブッシュ(子)政権においてコリン・パウエルとコンドリーサ・ライスの二人のアフリカン・アメリカンが続けて国務長官となり(おのおの二〇〇一年~二〇〇五年、二〇〇五年~二〇〇九年の在任)、中東戦争を主導したことの直接の延長線上に生まれた事態なのである。オバマも中東における戦争の責任者であって、中東の人々からいえばパウエル・ライス・オバマはほとんど区別はつかないであろう。植民帝国のトップが奴隷主によって占拠されていた一九世紀前半までと比べれば、アフロ・アメリカンの人々がアメリカの国家中枢のトップを占めたということは、たしかに世界史のなかで奴隷的な民族差別はかならず消滅していくことの証拠であるが、しかし、それが自己を戦争責任者とするところに展開したことは深刻な問題である。パウエルは、それを実感しているに相違ない。パウエルは国務長官として「イラクが大量破壊兵器を開発している」という虚偽をイラク戦争の開戦理由として主張したが、それが恥辱的な誤りであったことを認めた。
 ただ、ここでとくに紹介しておきたいのはライスである。彼女はアラバマ州バーミンハムの豊かな牧師と教師を親とし、縁の深い知人の縁戚にコリン・パウエルがおり、恩師はパウエルの前の国務長官マデレーン・オルブライトの父親というアフリカン・アメリカンのエリートを絵に描いたような女性である。しかし、バーミンハムの位置するアラバマ州は一九六二年に人種差別主義者として有名な民主党のジョージ・ウォレスを知事として圧倒的な得票で当選させた州である。知事選においてウォレスが掲げたスローガンが「今こそ黒人を隔離せよ! 明日も、さらに永遠に!」というものであった。
 そして、バーミンハム自体が白人暴徒の爆弾テロが日常茶飯事で「ボミングハム(爆弾の町)」という異名をもつ町であった。そういう状況のなかで、公民権運動の昂揚にともなって、一九六三年、マーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとする南部キリスト教指導者会議が行動を起こした。実は、バーニンハムの警察・消防署長は、南部のレーシスト犯罪集団、クー・クラックス・クラン(K・K・K)のメンバーであったが、彼がバーミンハム市長に立候補して穏健派に敗北を喫するというチャンスをねらって、選挙直後、四月に大規模な非暴力行動を開始したのである。それは「南部キリスト教指導者会議」(SCLC)全体の意思統一にもとづく行動で、行動参加者は、非暴力を誓約して効果的な抗議の仕方と自分の身体の守り方を訓練するという徹底したものであった。
 しかし、問題の警察署長は市長が交代したにもかかわらず、その職に居直り、警察とK・K・Kが一体になって非暴力の運動参加者に殴りかかるという狂気をあらわにした。その映像が全世界に流れて大きな衝撃をあたえるなかで、キング牧師は、これに抗して、南部を中心として全国各地から暴力の停止、人間的な自由と仕事を要求するワシントン行進を行うことを宣言した。そして、八月二八日、キングはワシントンのリンカーン記念堂の前で有名な演説「I have a dream」を行ない、圧倒的な迫力をもってアメリカの国家権力を抑え込んだのである。その演説の一節には「この瞬間の緊急性を見過ごし、黒人の固い決意を見損なったら、国家は致命傷を負うでしょう」とあり、時の大統領ケネディも、それを支持する態度を明らかにした。ケネディは問題がアメリカの国家としての体面に関わるものとなったことを確認し、ここではっきりと梶を切ったのである。
 さて、説明がながくなったが、パウエルやライスにとっても、このバーミンハムにおける対決が決定的な意味をもっていたことは明らかであろう。とくにライスは、このなかで友人の少女をK・K・Kに殺害されている(New York Times 2000年12月18日付)。ワシントン行進の翌九月、クー・クラックス・クランが、公民権運動の関係者の教会であるというだけで、バーミンハムの一六番街バプティスト教会に時限爆弾を設置したのである。聖歌隊の衣装に着替えるために更衣室にいただけの少女が殺されたのである。その葬儀にはキング牧師が説教している。ライスは「両親の励ましがあったおかげで、大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」と子供時代について語るが、そこにはキングの「私には夢がある」という声が響いていたに違いない。

ケネディ暗殺とベトナム戦争

 キング牧師の説得力は圧倒的なものがあった。もちろん、アメリカの支配層のなかに根強く存在したレーシスト(人種主義)勢力は暴力を行使し続けたが、公民権運動はこのとき、アメリカの国家権力を抑え込むことに成功したのである。
 しかし、問題は、このときベトナムにおいてアメリカが決定的な間違いをおかしていたことである。つまり、第二次大戦後のインドシナ内戦は、一九五四年のジュネーブ協定はフランスの植民地宗主権を否定し、ホーチミンに率いられたベトナム民主共和国と南ベトナムのバオダイ王権(フランスによって傀儡として担ぎ出された旧阮王朝の王)の間での和平にもとづいて二年後に統一選挙に入ることが合意されていた。しかし選挙でベトナム民主共和国が勝利することは確実とみたアイゼンハワー大統領はジュネーブ協定をやぶってバオダイ王権の首相ゴ・ジン・ジェムを居すわらせ、ベトナムに介入したのである。
 ところが、ゴ・ジン・ジェム政権はもっぱら王朝的な私欲と無秩序という正体を現して、ベトナム民衆の反発をうけ、南ベトナム解放戦線の結成によってジェム政権は崩壊の道に入った。そのなかで、ケネディは、一九六一年初頭、大規模な軍事顧問団を派遣してベトナムへの介入をエスカレートさせたのである。アメリカは、国防長官マクナマラが後に自己批判とともに述べているように、東アジアの歴史について無知なまま、ホーチミンの北をもっぱらソ連や中国の手先と見誤っていた(マクナマラ回顧録)。そもそも、日本とフランスからのベトナム独立を主導したホーチミンは、インドシナへのアメリカの介入をもっとも恐れており、それもあってベトナム独立宣言をアメリカ独立宣言の「すべて人間は平等に造られ、造物主によって一定の奪いがたい権利を付与され」という一節の引用で始めたという深慮遠謀の政治家である。現実の政治においては援助を確保する関係で、ソ連と中国という「社会主義」両帝国との関係に配慮したとはいえ、ホーチミンは最後までアメリカとの軍事対決をさけジュネーヴ協定にもとづく平和を追究していた。しかし、アメリカには自己がジュネーヴ協定を破り、国際法上の不正義を行っているという常識はなかった。マクナマラの回顧録にもそのような言及は一言もない。
 アメリカはアジアを包括的に支配しようという巨大な野心に目がくらんでいた。問題はそれがソ連にとっても同じことであったことであって、このころ、この二つの帝国は危険な意地の張り合いをヒートアップさせていた。まずケネディの大統領就任の前年、ソ連領空に潜入していたアメリカの覆面偵察機U2が撃墜された。そしてケネディが就任した一九六一年にはソ連が有人衛星による地球一周に成功し(ガガーリン搭乗、ヴォストーク一号)、さらに核実験を再開する。そしてそれに対して、アメリカも有人ロケット第一号を打ち上げ、核実験を再開する。核軍拡は宇宙軍拡に及んだ。そして、一九六一年に東ドイツがベルリンに「壁」の建設を開始し、翌一九六二年一〇月にはソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚し、状況は核戦争の一歩手前までいったのである。
 現在からみればソ連の「社会主義」なるものはソ連帝国の全体主義的性格を飾るものに過ぎず、アメリカの「自由」なるものは国内の民族差別を解決しないままの大言壮語に過ぎなかったことは明らかである。しかし、このときは、両方とも、相手のこけおどしのイデオロギーを恐怖し、実態とは異なる虚像に踊らされていたのである。とくにアメリカの側は「社会主義圏」なるものを過大評価し、それが一枚岩となって全世界でアメリカの権益を狙っているという過大な恐れ、いわゆる反共主義によって自己呪縛の状況にあった。ケネディは早い時期にベトナム介入の判断の誤りを自覚したといわれるが、こういう文脈にとらわれてベトナムをみていた以上、その道を引き返すことは困難であった。
 決定的であったのは、一九六三年、ベトナム仏教会がジェム政権の仏教弾圧に対して、サイゴン街頭で僧侶が焼身自殺するという激しい抗議行動に立ち上がったことであった。これは、バーミンハムの警察とK・K・Kが公民権運動に暴力を振るっていた、まさにこの時のことである。アメリカとベトナムは一つのカオスのなかに投げ込まれた。そして、しばらく後、アメリカとジェム政権の関係が不透明になるなかで、駐アメリカ大使を実質上の後援者として、一一月、ゴ・ジン・ジェム政権はベトナム軍のクーデターによって崩壊したのである。ケネディ政権は事態の掌握すらできていないという最低の状態で、このニュースを聞いて顔面蒼白となり、ベトナム政策の見直しを指示したという。
 しかし、一九六三年一一月二二日、翌年の大統領選挙をひかえて、南部での公民権法への支持が決定的だと考えて、テキサスにむかったケネディは、ダラスの町をパレードしている最中、熟練したスナイパーによって殺害された。ケネディは、あたかもその死をもって公民権法をあがなったかのようにさえみえる。奴隷解放宣言を発した後に暗殺されたリンカーンと重なるイメージである。ケネディ暗殺の背後にはケネディが公民権運動に明瞭に賛同する立場に梶を切ったことに反発する凶暴な人種主義勢力があったことは確実である。

「ブラックパワー」運動とキング牧師の暗殺

 副大統領としてケネディを引き継いだジョンソンは、ケネディより年長でフランクリン・ルーズヴェルトに引き立てられた民主党の南部ニューディーラーであった。彼は人種差別を違法として公民権運動の法的な出発点をあたえた一九五四年のブラウン判決(■■■)に対する南部連邦議員の抗議宣言に加わらなかった三人の上院議員の一人であって、公民権運動の意義は十分に理解していた。ジョンソンは、南部民主党の頑強な抵抗をおさえて、一九六四年六月、公民権法を通過させたのである。これによって投票権登録の際の読み書きテストなどが禁止され、公共施設や学校における人種差別・隔離が非合法化された。
 ジョンソンも必死であった。ジョンソンは、ケネディの死の翌年、一九六四年、次期大統領に立候補するにあたって、「偉大な社会」計画を打ち上げ「貧困との闘争」をうたった。これはジョンソンのニューディーラーとしての識見をよく示す大規模な福祉政策をふくむ構想であり、この計画は黒人の経済的・社会的条件の改善の面でも相当の意味をもったのである。ジョンソンは黒人のデモや主体的な政治参加には一貫して消極的であったから、公民権運動のなかには批判が強かったが、キング牧師は南部政治の現実の厳しい状況も勘案して大統領選挙にあたってジョンソンを支持したのである。これがケネディの死への同情とあわさってジョンソンは記録的な大差で大統領選に勝利した。
 しかし、それにも関わらず、南部では無知な白人暴徒による妨害がはげしく、黒人の投票権登録は現実にはほとんど進まなかった。とくに問題となったのが、一九六五年初頭から、バーミンハムの南のセルマの保安官が投票権登録を暴力的に抑圧したことで、駆けつけたキング牧師までが一時逮捕され、さらには州警察が公民権運動の活動家を殺害するという事件が発生した。これに対してキングらはセルマへの抗議の行進を組織したが、アラバマ州知事のウォレスの指示によって警察は催涙弾を発射し棍棒で殴りかかった。しかも、それに続いて白人暴徒がボストンから支援に入っていた白人の牧師を殴打して殺害するされて死去するという事態となる。「血の日曜日事件」である。これも大問題となり、結局、これによってジョンソンはキングの要求をうけて、投票権登録手続きを連邦政府が保護する投票権法を通過させ、それは一九六五年八月に発効したのである。
 しかし、ジョンソンの躓きは、彼がニューディラーであるとともに、第二次大戦における戦功を勲章として上昇した政治家であったことであった。ジョンソンは大統領就任直後にベトナムでの勝利を目標とすることを宣言したという。そのような立場から、ジョンソンは一九六四年に公民権法を成立させたしばらく後、トンキン湾で米軍駆逐艦が北ベトナムから、二次にわたって攻撃されたことを理由として、議会に戦争遂行権限を認めさせた、この事件は、一次目は米軍の挑発によるもので、二次目は虚報であったことが後に明らかになったが、議会では下院は全員賛成、上院では反対はあったものの三人のみという滅茶苦茶な事態であった。そして、アメリカは、一九六五年、北ベトナムに対する北爆開始し、さらに地上軍覇権という泥沼に入り込む。三〇〇万のベトナム人と五万八〇〇〇人のアメリカ兵が死ぬという無益な戦争であった。
 マクナマラが述べているように、ケネディの暗殺がなければ、戦争の泥沼化の様相は若干なりとも異なっていたかもしれない。これは一種の神話であるかもしれないが、当時を想起しつつ、この時期の記録を読んでいると、巨大なアメリカのシステムを動かしていた人々の人間的な弱さが破壊的な結果をもたらしたという歴史の偶然性に衝撃をうけるのである。
 これに対して圧倒的な正義を体現していたのがキング牧師であった。キングは、南部における公民権運動の主要な担い手であった南部キリスト教指導者会議が躊躇するなか、一九六六年一月、「クリスチャンとしては、この戦争は誤りだというほかない」と声明した。そして、一九六七年に出版した著書『我々はこれから何処へ行くのか』において、キングは成熟した社会科学者としての声をもって語る。「連邦政府は、自国内での貧困に対する戦争に勝つよりもベトナムでの無分別な戦争に勝つことに深い関心をもっている」というのである。そして彼は、公民権運動の総括をする口調で、一〇〇年の奴隷制の時代と、一〇〇年の差別の時代の根元に対して、一〇年間、攻撃をかけ、その基礎を削りとることに成功したとして、南部諸州では黒人の投票権登録は少なくとも一〇〇%、とくにバージニア州とアラバマ州ではそれぞれ三〇〇%と六〇〇%を増加させたという。しかし、キングの現状認識はきびしい。つまり「南部キリスト教指導者会議が一九六三年にバーミンハムに入っていったとき、それはその年を変えようとする計画であった」「闘争は全国的な規模で行われたのものではなかった。それをしたのは南部人だった」「北部のゲットー、北部の黒人社会には沈滞が重く立ちこめている」「もはやこれ以上引き延ばしてはならないのは北部の大都市である」「本当に高いコストを必要とするのは、これから先のことなのだ。白人の抵抗が強くなるのは、この事実を物語っている」というのがキングの分析である。
 こうしてキングは、「潜在的に爆発性をそなえ、短い導火線と長い虐待の経験をもつ北部の黒人社会」に活動の重点を移し、白人を含めた貧困との闘争に本格的に取り組み、合州国中枢を本格的に変革する道に踏み出たのである。それと同時にキングはベトナム反戦運動にもはっきりとしたイニシアティヴを示し、一九六七年四月一五日のニューヨーク、セントラル・パークでの反戦集会では全国の反戦運動と合流することを宣言した。
 キングが、ここまで踏み切ったのは、結局、黒人運動にとって何よりも重要なのは非暴力の真理であり、また信仰にもとづくものかどうかは別としても正義と博愛のパワーであるという考え方であったように思われる。つまり、この年、一九六七年、全国五九の都市で黒人の暴動が発生した。この年をふくむ九年間で数えると全国三〇〇都市で五〇万人が暴動に参加し、二五〇人が死亡、一万人が重傷を負い、六万人が逮捕されている。いわゆるブラックパワーの運動である。
 このブラックパワーという主張は、南部キリスト教指導者会議ではなく、北部にも拠点をもつ全国組織、人種平等会議(CORE)と学生非暴力調整委員会(SNCC)で優勢になった主張である。キングはSNCCでそれを主張したストークリー・カーマイケルなどに対して、暴動をあおるようなブラックパワーというスローガンが、公民権運動における最大の強みであった非暴力の思想を無効化させるものであり、無益な盲動であることを必死になって説得したが、それは届かなかったのである。たしかに、人種主義の暴力に向き合っていた人々が、ベトナムにおける戦争暴力の惨酷さを誇示するかような連邦政府に対して一種の世界観的な憎悪を増幅したことには十分な理由があった。それだけに、キリスト者であると同時に賢明な社会運動家であったキングは、これを前にして座視することはできなかったのであろう。
 そして、ここでも悲劇が起こった。公民権運動においてイスラム教の立場からキングとならぶ働きをしたマルコムXが、一九六五年二月、暗殺されたことである。マルコムXは一時期、自衛のためならば実力行使はありうるという立場を表明していたが、しかしアフリカを歴訪するなかで考えを改めてキングに近づいた人物である。それだけにキングとの間で広い連合が始まれば、それはきわめて大きな意味をもったに違いなかった。その暗殺は奇怪なもので、真相は不明である。
 このなかでキングは苦闘を重ねたが、一九六八年四月、メンフィスの清掃労働者のストライキ支援に向かい、労働者の組合運動とも連携する立場を鮮明にした。下記が、その際、キングが『新約聖書』のマタイによる福音書の山上の垂訓を引用しながら行った演説の結びの部分である。彼は翌日朝、ホテルのベランダにでたところを銃撃され倒れた。
さて、今後将来、何が起こるのかわたしたちには分かりません。将来には困難な日々が待ち構えています。でも、わたしはもう案じたりはしません。なぜならば、わたしは山上に登ったからです。もう不安はありません。みなさんと同じく、私も長生きがしたい。しかし物事には摂理というものがあります。だから今は思い悩んだりはしないのです。わたしは神の御意思に従いたいだけなのです。そうすると、神はわたしを山上に導いてくださいました。そこからあたりを見渡すと、約束の地が見えたのです。わたしは、あなたたちと一緒にそこにたどり着けないかもしれません(I may not get there with you)。しかし、今夜、このことだけは分かってほしい、われわれはひとつのピープルとして将来約束の地にたどり着くということを(We as a people will get to the Promised Land)。わたしは今夜幸せです。何も案じることはありません。どんな人間も恐ろしくありません。わたしのこの目が主の降臨を見たのだから。
 ここには、彼の宗教的信念とともに、自己の死を予知するかのような雰囲気があるが、キングは人種主義と戦争の暴力が蔓延する現状への怒りをたたえた瞳で聴衆を凝視しながら演説を終えたと伝えられている。
 アメリカ国家の中枢部に、もう少し信仰心があればと考えるのは私だけではあるまいが、しかし、そのような期待がむずかしいことを示したのは、キング暗殺の年の一一月に行われたアメリカ大統領選挙の結果であった。つまり、この年一月の南ベトナム解放戦線のテト攻勢によってアメリカ軍の勝利はほぼ不可能視され、しかもソンミの村民虐殺事件は戦争の正統性がまったくないことを世界に明らかにした。そのなかで、ジョンソンは、毎晩、共産主義に妥協した人間として石を投げつけられるという悪夢にさいなまれて大統領選への不出馬に追い込まれた。当選したのは共和党のリチャード・ニクソンであったが、彼がベトナム戦争に固執して醜悪なウォータゲート事件を起こしたことはいうまでもない。しかし、ここで確認しておくべきことは、この大統領選挙に「血の日曜日事件」を引き起こした元アラバマ州知事のジョージ・ウォレスが民主党を脱党して立候補し、アラバマ州、アーカンソー州、ジョージア州、ミシシッピ州、ルイジアナ州でトップを取り46人の選挙人を獲得したことである。日本にとっては、彼の副大統領候補が第二次世界大戦において日本本土に対する無差別爆撃を行った元空軍参謀総長カーチス・ルメイであったことも忘れることはできない。

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