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カテゴリー「歴史学読書案内」の6件の記事

2017年7月17日 (月)

日本史の30冊。豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003年)

豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003年)
『日本史の30冊』に載せたものです。沖縄について新城郁夫・鹿野政直『沖縄を生きるということ』(岩波書店)を読んでいて、この原稿を載せようと考えました。沖縄の歴史を基礎常識にしていくことの重大性を思いました。

「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さ」
 1963年に刊行された『沖縄』(岩波新書)は、現在でも読むにたえる沖縄史論の古典である。その第一節「日本人の民族意識と沖縄」は、「本土」の沖縄についての「異常な無関心」を伝えるところからはじまり、「沖縄にたいするこうした無理解、国民的な連帯意識の弱さは、とうぜん沖縄返還運動を全国民的なものとするうえに大きな障害となっている」「日本のナショナリズム=民族的な連帯意識の弱さについては、すでに多くの学者の論及がある。むしろその問題は、戦後の日本の論壇での、最も主要な継続的なテーマであった。そこには、たんに日本人の一般的な民族意識の弱さという問題だけでなく、沖縄に対する一種の差別意識の問題がある」と続く。そして、その差別意識の根拠は「琉球という一種の異民族、異質の 文化圏にぞくする僻地としてのイメージが、日本人の意識に歴史的にうえつけられている」ことに求められる。
 『沖縄』の筆頭著者・比嘉春潮は柳田国男に師事した著名な民俗学者であり、彼がこのように問題を設定したのはめざましいことである。しかし、問題は事実認識にあった。つまり、新書『沖縄』は「本土」と琉球の「民族的」近接性を強調する一方で、琉球を固定的に「僻地」とみてしまう。弥生時代に農業の道をとらなかったために農業の発達が遅れ、停滞的な歩みの中で沖縄は眠っていたとまでいうのである。こうして近縁的な社会の相違は「発展の相違」に還元されて理解され、琉球は「本土」にくらべ、社会発展史上で一〇世紀も遅れていたと結論される。しばらく前までは、「本土」の歴史学界でも一四世紀の琉球王国ははじめての古代国家であり、薩摩の武力進入(一六〇九年)は、封建国家による古代国家の統合であるなどという意見がしばしば聞かれた。
 この種の抽象論は今でも克服されていないが、比嘉たちの議論には彼らなりの理由があった。琉球王国を武力征服した薩摩藩、「琉球処分」によって中央集権を確定した明治国家の支配の下で、琉球が直面した差別と収奪を強調するあまり、彼らは、琉球史の枠組を苦難と「貧しさ」を基軸として描いてしまったのである。
 しかし、近年の琉球史の研究は、琉球が豊かなサンゴ礁の漁撈、多様な海産物と硫黄・砂糖などの特産品をもち、「僻地」であるどころか東南アジアに貿易圏をひろげた大規模な港市国家であったことを明瞭にした。琉球史を無前提に「日本史の一環」ということはできないというのである。その起点を作ったのは、太閤検地論で有名な沖縄出身の歴史学者、安良城盛昭であり、その影響の下で本格的な史料分析によって琉球王国の国制を明らかにした高良倉吉であった。
 本書はそれ以来、二〇年ほどの研究の到達点を示している。残念ながら、本書は通史ではなく、編者による序論と六本の論文からなる研究論集であるが、しかし、「本土」と琉球が各々異なりながらも深く関係しあって発展と変化の道を歩んできた枠組を明らかにすることに成功している
琉球王国の歴史
 その時代区分は、序論とⅠ章「琉球王国の形成と東アジア」(安里進)で述べられており、その(1)草創期縄文文化は、南アジアに特徴的な丸ノミなどをともなうもので、琉球弧ルートで鹿児島に到ったが、六四〇〇年前の鬼界カルデラ噴火で壊滅した。その後、展開したのは(2)「貝塚文化」であって、北部九州の縄文文化との交流も維持しながら独自化の道を歩み、中国とのタカラガイ交易などを特徴としていた。そして本土の弥生時代に対応する時期を(3)「貝塚後期文化」といい、そこでは旧石器時代以後の温暖化のなかで発達したサンゴ礁の生態系に依拠した生業システムが形成される。彼らは、豊かな漁撈と独占的な貝交易によって弥生農耕文化を受けいれる必要がなかった。そもそも農業の発展のみを社会分析のモノサシとするようなことは誤りであるというのが本書の視座である。
 「本土」の古墳時代以降に対応する(4)貝塚文化最末期には、ホラガイが仏教の法具とされ、日本を経由して大陸に流通し、さらに唐で発達した螺鈿細工の原料としてのヤコウガイも移出される。その代わりに人びとは鉄器を入手するが、このような交易の統括において役割を高めた首長が、琉球の各地域に盤踞し始めたのである。
 これをうけてだいたい一〇世紀以降、「本土」の平安時代に対応する時期に(5)原グスク時代が始まる。中国の宋代における華僑の東南アジア展開のような交易の広域化に対応して、この時期、長崎産の石鍋や徳之島産の須恵質陶器カムィ焼が琉球全域に流通する。そして、畠作や水田が本格化し、人口が増大する。その中枢には城塞形の小さなグスク的遺跡が位置していた。そして、一三世紀以降、いよいよ(6)大型グスクの時代が始まり、浦添グスクに拠点をもつ初期中山王家の勢力が他のグスクを圧倒した地位をもって出発した。一四世紀に入ると中山から山南・山北が分離して三山時代が始まるが、一四二〇年代には思紹と尚巴志の父子(第一尚氏)が三山を統一し首里へ拠点を移す。その後、第二尚氏への王朝交替があって尚真王期には(在位一五世紀後半から一六世紀)琉球王国は琉球全域におよぶ繁栄した王国となる。(7)琉球王国の時代である。この時期、琉球は東南アジアにまで貿易船を送り、「万国の津梁」と自称したという。
 問題は、この琉球王国の繁栄が明の冊封と海禁体制のなかでの琉球の特権的地位に支えられていたことで、しかも、時代がすぐにヨーロッパ勢力のアジア登場にむかっていたことである。これがアフリカと南アメリカにおける人間の大量殺害によって特徴づけられ、「長い一六世紀」ともいわれる世界資本主義の原始蓄積期であることはいうまでもない。そして、本書Ⅱ章「琉球貿易の構造と流通ネットワーク」(真栄平房昭)に記されているように、この原蓄の推進要因となったグローバルな貴金属流通の中枢に、メキシコ銀のアジア中国還流と膨大な日本銀の増産があった。
 こうして世界史は近代の帝国の競合の時代に入り、東アジアでは中華帝国の最後の建設と崩壊の時期に入っていく。それに先だって日本が秀吉の朝鮮出兵という帝国的冒険に突入し、それは無益な破壊をもたらしただけで終わったものの、極東の小帝国としての日本(参照、本書■頁)を担保する形で、薩摩の琉球への侵略と武力統合が行われた。
 (8)徳川期の琉球王国は、一方で徳川幕藩体制の下に統合され、他方で清への朝貢体制を維持したが、その中で逆に芸能・生活文化から国制にいたるまで琉球としての特色が意識された。Ⅲ章「自立への模索」(田名真之)は、この純化・独自化の逆説を「琉球的身分制」と「史書の編纂」という側面から描き出している。またⅣ章「伝統社会のなかの女性」(池宮正治・小野まさ子)は沖縄の女性史の分野にあてられており、祭祀と芸能、さらに繊維の生産と貢納を中心とした女性の位置について論じている。Ⅲ・Ⅳを通じて歴史学の側から琉球文化の成熟の様相が語られるが、全体として女性の位置が独自なようにみえるのは、本書の論調からすると、海洋国家に独自な男女間の社会分業ということに関わるのであろうか。なお、Ⅱ章において、琉球が日本列島の南北軸の西南端という位置を生かして徳川期の列島市場との結合を高めながら、砂糖を大阪に出荷する見返りに渡唐銀を入手し、北海の昆布などの海産物の輸出ルートに乗るという遠心性を確保していることなども、「両属と自立」という図柄のなかに位置づけられている。
 さて、以上が前近代部分のだいたいの紹介であるが、Ⅴ章「王国の消滅と沖縄の近代」(赤嶺守)、Ⅵ「世界市場に夢想される帝国」(冨山一郎)は、中華帝国体制の崩壊の隙間を狙って明治国家によって行われた琉球王国の政治的廃絶から(「琉球処分」)、日本の帝国経済の台湾への拡大のなかで必然化された徳川期琉球の砂糖産業の経済的破綻(「いわゆる「ソテツ地獄」)までを取り扱っている。とくにⅤの分析は鋭いもので「琉球処分」がやはり国際的な不法行為であったことを明らかにしているように思う(なお、本書には、これに対応する薩摩の琉球王国侵略についての具体的な記述がないが、これは紙屋敦之の仕事などによって補充する必要がある)。
「日本人」という言葉のワナ
 冒頭に述べたように、本書は、通史ではない。しかし、この紹介からもわかるように、本書は、具体的な記述のなかで、前近代史と近代史を統一的・連続的に説明するという通史にとってもっとも重要な視座を提供している。何よりも重要なのは、本書が、琉球史というもっとも重要な部面において、「日本人」という民族を固定してとらえる考え方を実際の叙述において乗り越えたということであろう。私も、民族なるものは、(法的関係としては固定された、できれば、このように再版で直します)「国家ー国民」の関係とは異なって基本的に状況的なものであると考える。それが実際の社会・社会構造と異なるレヴェルで自己運動し、客観的に「形成」されたり「統一」されたりする実態をもつというのは幻想にすぎない。悪名高いスターリンの「言語、地域、経済生 活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体」云々という民族の固定的定義は、その幻想を形式論理で包んだものにすぎない。
 すでに新書『沖縄』も「どこかに‘日本人’または‘日本民族’なるものがいて、ぜんぶ同じ体質と同じ文化をもち、同じような歴史的発展をしてきたという考え方」を痛烈に批判していた。比嘉らが「ナショナリズム」を「無関心」や「差別」を突き抜けて希求される「国民的な連帯意識」の問題としたことは冒頭に引用した通りである。たしかに「民族」とは、人びとの「連帯意識」にかかわることであり、より正確にいえば多重的で伸縮する公共圏のあり方にかかわる問題である。
 しかし、国家と社会の間に存在する公的な圏域が民族の名をもってよびだされる場合、それが民主主義的なものか、あるいは魔物となるかはすべて時と場合による。琉球史は、この歴史学にとって緊要な方法問題に直結する分野であり、本書は、それを具体的な実証の場所で考える上での試金石となっている。

参考文献
比嘉春潮・霜田正次・新里恵二『沖縄』、岩波新書1963年
安良城盛昭『新・沖縄史論』沖縄タイムス、1980年
高良倉吉『琉球王国の構造』吉川弘文館、1987年
安里進『琉球の王権とグスク』山川出版社、2006年
西里喜行など著『沖縄県の歴史』山川出版社、2004年
赤嶺守『琉球王国』講談社、2004年

2017年4月30日 (日)

日本史の30冊。武田清子『天皇観の相剋』

武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)

 現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。終戦時の国民の力量は、実際上、天皇の位置のような国制問題についてイニシアティヴを発揮できるようなものではなかった。やはり天皇の位置はアメリカによって作られたものである。

 本書は、今から40年近く前に発行されたものである。その時期にこれだけの史料に目配りすることができたのは、著者が20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事したという経歴にあったろう。武田は1942年にニーバーにアメリカに残ることを進められたが、同じ日本人として苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。しかし、帰国後、日本YWCAに就職し、終戦後も、その延長上で国際的な活動を続けたのである。

 そのなかで著者は世界の人々が日本をどうみているのかを実感した。本書には、その経験が生きており、アメリカ、イギリス、オーストラリア、中国(および付論として韓国)の外交官、学者、宗教者などの多様な「天皇観」が原史料や直接のインタヴューによって手際よく紹介されている。ただ、「社会主義」の側の動きを示す史料がかけているのは執筆時期からいってやむをえない。私は、国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、当時、武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが、20世紀社会主義の全体主義的性格を強く批判していたことは正しかったと考えている。現在、この時期の世界政治史を見通すためには、どうしても「20世紀社会主義」なるものの問題性をまとめて考えなければならないだろう。私は「社会主義」がすべて全体主義に帰着するとは考えないが、体制崩壊のみによってスターリンが朝鮮戦争を仕掛けたという史料がでてきたことは深刻な問題である。

 さて、本書の検討の起点はアメリカである。著者が注視したのは、この時期のアメリカの駐日大使ジョセフ・C・グルー。彼は日米開戦によって、六ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに送還され、途中で日本に帰国する武田らとすれ違っている。

 アメリカに帰ったグルーは国務省の「知日派」の中心として活動し、国務次官に就任し、戦争末期に重大な役割をになった。グルーはアメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、アメリカによる天皇制の廃止、さらには天皇の戦争責任の追及はさけるべきであるという主張をもっていた。天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であるというグルーの指摘は正しいといわざるをえない。

 これに対して、アメリカ国務省には中国の位置を重視し、日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループがあった。有名なのは中国研究者のオーウェン・ラティモアである。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留することを提案している。

 「天皇観の相剋」とは、このアメリカにおける二つの立場を中心にいうのであるが、重要なのは、その両者を相対化しうる立場として中国の見地があったという指摘である。つまり、蒋介石がルーズヴェルトとの会談において、天皇制の処置については、戦後の日本国民自身の意思決定にまかせるべきだと述べたといい、また中国共産党の庇護の下にあった日本の共産主義者、野坂参三が天皇打倒ではなく、軍部打倒、民主日本の建設という目的の下に広く連帯すると述べたことに注目している。

 また個人レヴェルでも、そのような意見は多かったというのが武田の実感であるようである。とくに日本で生まれ、朝鮮で、医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間、獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。彼も戦争中に同じような立場を表明したという。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。ここには日本に親しみをもちつつ批判的な見地を維持した欧米の知識人の系譜がみえるように思う。これは近代日本思想史に位置づけるべき問題であろう。

 これらは「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場というべきものであろう。武田は、それと対比すると、アメリカ国務省内部の両派は、結局、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動するパワーポリティクスの思想、一種の西洋合理主義であるといっている。

 しかし、本書の面白さは、やはり第二次世界大戦の終了という世界史的な転機の渦中で行動した政治家や外交官の個々人の息づかいのようなものが史料にそくして語られることにある。

 中心は、先にふれたグルーで、たしかにグルーの系統的な主張とイニシアティヴがなければ、アメリカの日本占領の経過は、もう少しギクシャクしたものとなったかもしれない。グルーについては、その姿勢の基本はヨーロッパ情勢との関係での強力な反ソ連の立場があったことを論じた藤村信『ヤルタ――戦後史の起点』、またより新しい研究として日本との関係を論じた中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』をあわせ読むべきであるが、中村も、グルーの現実主義的な見通しの確かさについては舌をまくと述べている。そして、グルーの行動でもっとも注目すべきことは、アメリカの終戦戦略としての原爆投下問題への関わりであろう。

 1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は軍事的無条件降伏ではあるが、君主国であることをも否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくする方策であるという説得であって、新任の大統領トルーマンは、一時、それに賛成したが、しかし、結局、陸軍長官スティムソンなどの反対によって、この声明は潰えた。アメリカ軍部中枢は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいたのである。原爆の実験成功は7月16日のことであったが、彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったろう。

 グルーはポツダム宣言の起草、通告の経過のなかで、最後まで、「天皇」を「鍵」として使う案を先行させようとして、トルーマンとスチムソンに働きかけ、ポツダムに立つために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにメモを突っこむという「異常なほどの執拗さ」をみせたが、結局、原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。翌年、スティムソンは、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、持論を再説し、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」といういまわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。このような終戦の経過を正確に認識することは、ルーズヴェルトの死のような歴史的偶然の評価をふくめて、いまでも当事国にとっては必須のものであろう。

 本書は、それを考える上で、現在でも基礎的な意味をもっている。とくに、武田が終戦にむかう日本において、当時の日本政府の最大の関心事が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものであったことをまず銘記しなければならないと指摘しているのは基本点をついている。

 ただ、史料の検討と批判が進んだ現在の立場からみると、すでに本書には日本側の昭和天皇とその側近の動きについては史料批判が甘いところがある。枠組みはアメリカが決めていたとしても、ある時期からは、戦争責任の波及を怖れた昭和天皇側近の宮中派が、その下に取り入って戦後の天皇のあり方について合作した。そこにはグルーの段階とは違う形で、戦後におけるアメリカの戦略があり、アメリカが日本を握る利権・国益についての判断があり、また日本で戦争を遂行した支配層の動きがあった。

 私は、アメリカの当初の占領政策が、「知日派」も「親中国派」も、君主制の行方については最後は日本国民が決定することであるという態度をとったことは正しいと思う。そこから「国体護持」を国際的に認めてもらうために「憲法九条」が定められたという結果となったのだという側面もたしかにあるように思う。しかし、それと、右のような合作を推進した日米の諸勢力の評価は、すでに別問題であろう。たとえば、天皇の「人間宣言」やマッカーサーの『回想』などの史料が、昭和天皇の退位をはじめとする諸問題を回避するという占領軍と昭和天皇側近の合作であることは、近年の研究が詳細に明らかにしたところである。

 もちろん、著者は思想史家であって、本書のスタンスは占領・被占領経験を思想史的に考えるということにある。それは著者が「敗戦と天皇制」の問題を一つの異文化問題として経験した以上、当然のことである。しかし、現在となってみると、この時期の異文化交錯が、いったい何を残したかを真剣に考えざるをえないように思う。

 問題は、この時期、元首相近衛文麿、東大総長南原繁、さらには志賀直哉その他の多くの人々が、少なくとも昭和天皇は退位すべきだという意見を表明したことである。武田が強調するように、終戦時、国民の大部分がアジア侵略についての責任意識にかけ、天皇制を維持することを当然と考えていたなかで、これを日本人自身の責任で実現することは最低の倫理的な筋の通し方であったのではないだろうか。逆に、この点では、この時期、ほぼ唯一の反戦勢力としての権威をもっていた日本共産党が、さきにふれた野坂の見解とは相違して、獄中に長く囚われていた徳田球一など指揮の下にもっぱら「天皇制打倒」をスローガンとして過激に行動したことも問題となろう。また戦後派の知識人一人々々の思想と行動も問われるに違いない。

 このような問題をふくめて国民全体が、より成熟した態度をとれなかった理由を思想史の外からも詰めていき、そのような視野の下で現在の政治と文化を考えることが必要であるに違いない。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
中村政則『象徴天皇制への道』(岩波新書)
吉田裕『昭和天皇の戦後史』(岩波新書)

2017年4月21日 (金)

基本の30冊、日本史、黒田俊雄『権門体制論』

黒田俊雄『権門体制論』(『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、1994年)

 黒田俊雄は、平安時代から南北朝時代までを対象として、国家と宗教、そしてそれに関わる身分制度にいたるまでの広範な問題を論じた研究者である。その仕事は、「中世」を論じようとするならば、どの分野を研究するのでも、掛け値なしの必読書となっている。とくに重要なのは、本書にまとめられている「権門体制論」といわれる国家論であって、ここではそれを解説し、さらに必要な批判も行っておきたい。

 黒田は「権門」という言葉を、「中世」における貴族を指し示す概念として利用している。それは、普通、「公家・武家・寺社(寺家・社家)」などの史料用語で表現されるが、それらは貴族の門閥としては同じものであって、職能は違っても、同じように「権門」と表現することができるというのである。後に述べるように「権門」という言葉の理解には微妙な問題があるが、この貴族論的視角はきわめて重要なものである。

 これは普通の常識とは異なっている。つまり、日本では、貴族とは「お公家さん」のことで、武家のことを貴族とは言わない。新井白石の『読史余論』は、律令時代には天皇が国家を支配したが、柔弱な「公家」が都との実権を握るなかで、世の中が乱れ、それを立て直した質実剛健な「武家」が国家を握ったという。明治政権の自己意識も、この枠組を前提としたもので、果断な草莽の武士が英明な天皇を担いだというものである。そこでは徳川将軍家も本来の武士の質実剛健さを失った存在であるとされたが、公家を軽愚する感じ方もさらに強められたのである。この国は、尊貴な血統や生得の特権をもつ存在に対する、フランス革命のような徹底的な闘争を経験していないから、それを表現する「貴族」という用語の理解が鍛えられることがなかったともいえよう。これが現代の「一億総中流意識」といわれる風潮にも適合したのである。

 黒田の「権門体制論」は、このような歴史常識に対する挑戦であった。これが歴史学にとって決定的であったのは、白石のような見方が、「公家=古代的支配階級」、「武家=中世的(封建的)支配階級」などという図式の形で石母田正・松本新八郎などの「戦後派歴史学」の初期代表者に影響していたためである。こういう考え方は、安易な「武士発達中心史観」に帰結してしまう。こうして平安時代は「古代」であるといい、鎌倉幕府の創建から徳川幕府までの歴史は、そのまま歴史の進歩であるということになる。

 これが黒田の石母田・松本批判なのであるのであるが、「権門体制論」が本当に目指したのは、実は、国家論・王権論における戦後派歴史学批判であった。つまり、歴史学は戦後、まずは戦前の「皇国史観」に対する学術的批判を重視した。しかし、黒田は、現憲法において天皇が儀礼的象徴に局限されたことに対応して歴史学の課題は異なってきたという。つまり、そのなかで象徴天皇制イメージが過去の天皇制のすべてに延長してしまう非歴史的な見方が、国民の歴史意識のなかにもちこまれた。そこでは天皇は(1)政治的責任から外れた地位にあり(不執政論)、(2)天皇は文化支配を行う存在であり(徳治主義論)、(3)万世一系の神秘存在である(神話的血統論)などの側面が超歴史的な特徴として強調されることになる。黒田は、こういうのっぺりとした理解ではなく、天皇制王権の歴史的な波動と変遷を具体的に明らかにし、王権として最小化した場合でも政治的な権威を失うことなく持続してきたことを正確に説明しなければならないとしたのである。

 私は、ここまでは黒田の意見に全面的に賛成である。ともかく権門体制論は、これを説明するための構想だったのである。その出発点は「権門」による国家職能の分掌という捉え方にあった。つまり公家は「公事」を司どる文官的な門閥、武家は武士集団を組織する源平両氏の棟梁、寺家は「王法」に対置される「仏法」によって「鎮護国家」に勤める勢力(社家もこれに準ずる)であるという。これらの「家」は家産制権力として、どれも荘園の知行体系を有して国土を分割していた。こうして「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は諸々の権門に分掌されていた」のであるが、「しかしそのほかにどの権門にも従属しきらない国家独自の部面」あり、このいわば「超権門」的な虚空間というべき場に王権が巣くうというのが黒田の図式である。「権門体制論」は貴族論的な視角であるよりも、実は、国家を職能論的に分割して、王権の基礎としての超権門領域を析出することこそが最初からの目的であったのである。こうして、天皇制の「不執政」「徳治主義」「神話血統」などは、この虚空間から生み出される様々な意匠として説明されることになった。

 これは巧妙な説明であるが、黒田説の真価は、むしろこの先にあった。つまり、黒田は、これにもとづいて顕密体制論といわれる中世仏教論を体系化した。それは最澄の教学に由来する顕教(比叡山)と空海の事行を中心とする密教(高野山)を両翼にもつ「顕密」の体制という議論であるが、黒田はその職能的な役割が「鎮護国家」であることを確認しつつ、その中で神道が実際上は教義的にも経済社会的にも顕密の仏教によって支えられている様相を明らかにした。顕密の寺家の職掌は虚空間の神秘の周囲に存在する神道を荘厳することにあったというのである。

 そして、黒田は、さらに権門の諸職能はそれに照応する職業の人びとを民間世間に組織していったという身分論を展開した。主論文の「中世の身分制と卑賎観念」は著作集の第六巻におさめられているが、黒田が強調するのは、それらの身分制には深く世襲と浄穢の観念が浸透しているという事実である。ようするに、黒田は、ここにあるのはインドのカーストに似た関係であり、仏教用語でいえば「種姓」にあたるという。社会の職業身分全般を浄穢観念にそって組織することに成功した権門体制は、この「種姓身分」制によって、その中心に存在する超空間の清浄を確保したということになる。

 こうして権門体制と顕密体制は神道と清浄のシステムを作り出すことによって完成した。権門体制に結集した国家中枢と卑賎観念にまといつかれた民衆身分との間に対抗的な関係が成立し、中世における「日本国全体をまとめた一個の国家」「幕府をこえた(朝廷と公家をふくむー筆者注)大きな国家秩序」が組織され、その下に、カースト制的な特徴をもったきわめて公的階層的な特徴をもった社会が組織されているというのである。

 私は、以上のような黒田の課題意識と体系的な説明への意思の鋭さには感嘆するが、しかし、そこには大きな疑問が残る。その最大のものは、権力の地域的な基盤は国家に何の影響もあたえないのかということである。つまり鎌倉時代をとれば武家は鎌倉を根拠とし、公家の中枢が京都に位置する。そもそも鎌倉権力は1180年代内乱(源平合戦)から後鳥羽クーデターへの反撃(「承久の乱」)にかけて西国国家に侵入し、それを支配した。東国の御家人たちが大規模に西国に移住・侵入していったこをもよく知られている。鎌倉時代の東国には公権力が存在し、小国家・半国家としてむしろ西国国家を支配したのである。室町時代には、足利尊氏の子供、義詮と基氏が兄弟で京都と鎌倉をおさえ、基氏の系列は関東公方としてなかば独立な権力を維持した。細川氏が四国・中国東部、山名氏が山陰をおさえたなどの広域権力の例も多い。鎌倉室町時代に朝・幕の両方をふくむ「日本国」が存在したことは事実であろう。しかし、このような広域権力が複合する構造を無視しては事実にそくした議論にはならないだろう。

 これは、黒田の貴族範疇(=権門)が荘園を支配するというだけで、その居住と領主制のあり方が顧慮されないことに関わってくる。マルク・ブロック『封建社会』の言い方をかりれば、貴族とは血統・生活様式・法などによって柔軟に設定されるべき範疇である。黒田の貴族論は、複雑な階級的な結集や従属関係の中にいる貴族を、職能という側面からのみ裁断しすぎる。現実の国家権力と貴族階級を権門に職能論的に分解することを先行させるという出版点が間違いなのである。そもそも、黒田は、「権門勢家」という用語を「権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語」とまとめて理解する。しかし「権門」と「勢家」には重要な区別がある。つまり、「権」には「斤」「ハカリゴト」という意味があり、権門は、本来、国家の枢密の計に参加する支配的な王族・貴族をいうのである。権門は、国家意思の具体的な形成プロセスに関わる用語なのであって、その意味では黒田のいう「国家独自の局面」に関わる用語であって、この局面を黒田のように「超権門」領域と理解することがボタンの懸け違いなのである。

 さて、黒田説には、細かく論じれば、さらに多くの論理的な問題があるが、しかし、歴史学は論理ではない。黒田の歴史史料、とくに宗教史料の解析能力と直覚力は第一級のもので、先述の顕密体制論、種姓身分論の達成が示すように、史料の重層を断ち割って深部の実態を明らかにする黒田の振る舞いには独壇場というべきものがある。とくに、この国の歴史にカーストの範疇を持ち込んだことは、石母田正・網野善彦・大山喬平が挑み続けた問題であって、そこで黒田がもっとも深いところにまで立ち入ったことは歴史学者はみな認めるところである。

 なお、黒田説の歴史学にとっての重大性は、徳川時代の「朝幕関係」を論じた宮地正人の『天皇制の政治史的研究』にも明らかである。宮地は黒田とほとんど同じ現代天皇制についての課題意識から出発し、次のようにのべる。「徳川時代の公儀権力は、朝幕が一体となった構造をもつ。その一体性は、天皇による将軍職補任という形式をとるが、その前提には武士集団の中心となる棟梁的な門閥組織、黒田的にいえば「権門」が存在する。そして朝幕関係の周囲には国制的な儀礼と法意識が組織されるが、’日本というまとまりの意識が朝廷の存在を不可欠のものとして現れる’なかで、学芸や諸職の組織を公的に統属させるシステムが広がっていく」(趣意要約)。

 宮地のみでなく、徳川時代の論者で、「中世」を黒田説にそって理解する研究者は多いが、ともかく宮地説は黒田説に酷似しており、宮地説が徳川国家論において通説の位置をしめる以上、このことは、黒田説の道具立てが前近代国家史の全体の脈絡のなかで有効に働くことをよく示しているのである。

 これは奇妙なことのようにみえるのであるが、おそらくこれは黒田権門体制論の「中世国家論」としての無謬性を示すものではなく、ぎゃくに黒田の描き出した公的階層的でr稠密な社会組織のあり方は、むしろ徳川幕藩体制にこそ適合するということを示しているように思う。幕藩体制においては兵農分離という条件の下で支配層は巨大都市(都城)に集住し、列島社会は職能を中心に階層的に組織されていくる。カーストというものをどう理解するかは別の重大な問題であるが、ここに列島社会の東アジア文明への一体化、いわばその中国化が考えられることは明らかなのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。


宮地正人『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、1981年)
大山喬平『ゆるやかなカースト社会・中世日本』(校倉書房、2003年)

基本の30冊、榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館、2007年)

 待望のアイヌ民族の通史。約1600年間を追跡した大冊であるから、事前に明治時代の北海道にふれた大河小説、池澤夏樹『静かな大地』と、登別のアイヌ民族の豪家に出身した知里幸恵の『アイヌ神謡集』を読まれるのがよいかもしれない。池澤がアイヌ語について指導をうけた萱野茂は金田一京助の学統をうけている。金田一は知里幸恵『神謡集』の出版を世話した当人でもあり、金田一は幸恵の弟の知里真志保を指導している。真志保はアイヌ学を創成した人物であるが、そのユーカラ論は本書を読む上でも必読のものである(『アイヌ神謡集』岩波文庫巻末)。

 現在、アイヌ民族の歴史は、少なくとも「続縄文文化」までは辿ることができると考えられている。続縄文文化というのは、縄文文化から継続して、奥羽北部から北海道を中心にいた文化で、本土でいえば弥生時代にあたる。系譜的にいえば、アイヌの人びとは縄文人からの連続性がもっとも高いのである。つまり、アイヌの人々の由来を考えることは「日本人はどこから来たか」という大問題に直結するの。

 しかし、研究の現状は、まだアイヌの通史を前縄文文化からたどるところまで熟しては以内。それ故に、本書は7世紀から12世紀ころまでの擦文文化期から始められている。擦文文化は幾何学的な擦痕文様をもつ土器を特徴とし、奥羽(岩手・秋田以南)のエミシ文化の強い影響をうけて、青森県から北海道に広がっている文化であり、アイヌ社会への連続性が非常に高い。

 この時代、北海道と奥羽は交易ルートを通じて社会的にはほぼ一体であったが、奥羽は倭人の侵略的な植民・戦争にさらされている。それと抗争するなかで、10世紀以降の奥羽には、「東夷の酋長(安倍氏)」「出羽山北の俘囚主(清原氏)」「俘囚の上頭(奥州藤原氏)」などと呼ばれた地域権力が形成される。これらは和人の浸透もうけているが、それ自体としては、津軽・北海道をバックにしたアイヌ境界国家と呼ぶべきものであろう。12世紀、これが源頼朝の平泉攻めによって倒壊させられたことは、アイヌ史における国家形成の動きが挫折したことを意味する。

 こうして奥羽エミシは関東の武臣国家の強力な支配をうけて最終的な混住の道を歩むことになった。だいたい北緯40°ライン(津軽以北・以南)を境としたアイヌの大地(アイヌ・モシリ)の第一次分割である。しかし、北の擦文文化はしぶとかった。擦文文化は、さらにオホーツク文化と呼ばれるアムール下流域からカラフト・千島列島に広がるギリヤーク諸族の狩猟文化との交流・競合関係をバックとしており、また奥羽の最北端とも海峡をまたぐ活発な交流を維持していたのである。鎌倉時代、日本海交易ルートの最北、津軽半島西岸の十三湊を押さえた「蝦夷管領」津軽安藤氏は、津軽海峡をまたぐ境界権力を形成した。津軽安藤氏の権力それ自体がアイヌとの混淆に根付いていた可能性も高い。

 1264年、モンゴルが女真族を動員し、さらにギリヤーク諸族を味方につけて北から北海道に侵入しようとしたことは、鎌倉後期から南北朝期の列島の歴史に巨大な影響をあたえた。これはアイヌの抵抗によって失敗したが、それをみた、モンゴルは大元国を建国し、体制を立て直して1274・1281年の九州攻撃にまわる(いわゆる「文永・弘安の役」)。モンゴルは、それにも失敗したが、今度は、1284年から三年間、大軍をカラフトに派遣し、ふたたびアイヌに迎撃されて退いた。モンゴルにとっては、本拠に近い北からの侵入こそがもっとも重要な政治・軍事課題であったという。

 知里真志保はユーカラに描かれたヤウンクル(陸の人)とレプウンクル(海の人)の争いは、この時期前後におけるアイヌとギリヤークの闘いを反映したものであるとしている。著者は、この仮説を東北アジアの実際の軍事国際情勢のなかに見事に位置づけた。しかも、重要なのは、この緊張した情勢のなかで、蝦夷管領の津軽安藤氏が内紛を起こし、それがアイヌの軍事力をかりた反鎌倉の蜂起に結びつき、それが鎌倉幕府滅亡の重要なきっかけとなったとされることである。その背景には北海道を守ったアイヌの人びとの誇りと軍事力があったことは確実であろう。安藤氏は津軽海峡の北にも拠点をかまえていたが、そこには「渡党」と呼ばれた渡島半島のアイヌが参加していたという。『諏訪大明神絵詞』には、この時期の渡党は倭語が通じ、容貌も倭人と似ているとあるから、渡島半島のアイヌは倭人の血も受け入れていたものと思われる。

 ようするに、「元寇」をもっぱら九州での合戦においてのみ考え、鎌倉幕府滅亡を朝廷は西国情勢からのみ考える常識は虚像にすぎないのである。しかもそれはユーカラの理解に関わるのみでなく、さらに『御伽草子』の「安寿と厨子王」の理解にも関わる。つまり、安寿と厨子王の父、岩木判官正氏の「岩木」は津軽岩木山の岩木であって、そこには「日の本将軍」といわれた室町期の津軽安藤氏のイメージが投影されているというのである。アイヌ史の投げかける問題は文化論の上でもきわめて大きいといわねばならない。

 しかし、室町時代の後期、津軽安藤氏(下国安藤氏)の一党が渡島半島南部に多数の館をおくようになっていた。北海道のアイヌ・モシリへの倭人の本格的な侵略と、それへの抵抗の時代が到来していたのである。1456年、函館近辺の村で、小刀の代価をめぐって和人の鍛冶屋がアイヌの青年を刺殺した事件をきっかけに、翌年、アイヌの首長コシャマインを中心とした大蜂起が発生し、渡島半島南部に分布する和人の10箇所ほどの館を焼き尽くしたのである。

 それに対する反攻のイニシアティヴをとり、奸計によってコシャマインを倒したのが、後の徳川大名、松前氏の祖先であった。アイヌ・モシリの第二次の決定的な分割である。これまで、北海道と津軽のアイヌは連携して本州との交易を行っていたが、これが不可能となり、下北半島、津軽半島北岸に残ったアイヌ集落も徐々に消滅の道に追い込まれたのである。アイヌの無国家社会は、戦国時代に突入していた倭人の武家権力に対抗できなかったのである。また、大陸に成立していた明帝国がカラフトへの支配を強め、北海におけるアイヌの自由な行動が制約されるにいたっていたことの影響の大きかったという。

 こうして徳川時代以降、アイヌ民族にとって苦難の時代が始まった。まず、松前藩は、徳川初期、渡島半島の南半部を「和人地」として囲い込むと同時に、アイヌとの交易を松前の市庭に限った。さらに、アイヌが松前に来ることも禁止して、藩主直営もしくは家臣の経営する交易の場(「商場」)を北海道内地に設定し、アイヌの生産物の買い叩いた。その深刻さは、これに対して、1669年、日高地方、静内の首長シャクシャインが呼びかけた蜂起が北海道北東部をのぞく全民族的なものとなったことに示されている。緒戦では優勢な闘いをしたものの、幕府軍の到着と鉄砲による反撃、和睦儀式でのシャクシャインのだまし討ちによって、この反乱は無惨な結果に終わる。北海道全土が松前藩の直接支配の下におかれ、アイヌ民族は、「商場」における交易相手という立場から、事実上、漁場における下層労務者の地位に転落したのである。

 アイヌ民族のこのような窮境は、アムール川流域の女真族がヌルハチの下に結集して清帝国に成長し、カラフトアイヌとのネットワークが抑圧されるようになっていたこととも関係しているという。そして、さらに、唯一アイヌの手に残っていた東の千島列島との交易関係も18世紀後半には、松前藩に握られる。そのなかで、クナシリに設定された「商場」での虐待に抗議する1789年のクナシリ・メナシの蜂起も弾圧された。こうして、19世紀には、アイヌ・モシリは南から、北から、さらに東からも囲い込まれ、その内側は、「商場」ではなく、商人資本による場所請負に開放され、激しい収奪の場となっていった。

 それでも、アイヌ民族の先住者としての共同体的な大地占有は潜在的には残されていた。しかし、明治維新をへた後、1872年の「地所規則」などの制定以降、北海道の大地は私有地に払い下げられ、山林原野は国有地となっていく。そして明治時代なかば、北海道庁の設置とともに和人資本の大規模な進出のなかで、アイヌ・モシリは最終的にアイヌの手から切り離されていった。1898年の「北海道旧土人保護法」によって給与された土地も五町歩以内とはいうものの、多くは条件が悪く、漁業や狩猟の生業の場を奪われたアイヌに貧窮と差別の道を強制する同化政策であったというほかない実態のものであった。第二次大戦後の農地改革が、北海道においては、この給与地を不在地主と称してアイヌから取り上げる結果をもたらしたことは知られていない。そ

 こうして、現在でもアイヌ民族に対する構造的な差別が存在していることは本書が引用した諸統計に明らかであり、これをどう受け止めるかは日本の歴史学にとって根本問題の一つである。私は、日本の歴史の最大の特徴は、近代にいたるまでその北部に原始の伝統をひく無国家の共同体社会が続いていたことにあると思う。強靱な生命力をもって北海の自然と共生し、それを維持することを社会秩序としてきた民族の存在である。しかも、彼らは大陸から千島列島にいたる交易ネットワークに適合する形で、北海の自然に対して持続可能な開発を行ってきた。

 まず確認するべきことは、このような列島の棲み分けが政治的にみて倭人国家とアイヌにとって長期的な安定要因であったことであろう。和人国家はアイヌ民族を「北の障壁」とし、アイヌ民族はながく和人を主要な交易相手としてきたのである。もとより、この関係には一方的な性格があり、倭人国家がアイヌ民族社会とその富を順次に収奪してきたことは直視されなければならないだろう。源頼朝の奥州戦争がアイヌ境界国家を消滅させ、室町時代以降の「近世化」から明治維新のなかで民族間関係としてはあってはならない行為が行われたことは明瞭な事実である。これは国連が勧告するようにアイヌ民族の先住民族としての諸権利を正面から認め、民族間関係を恢復する取り組みによってしか取り戻すことのできない歴史的負債であるといえよう。私はアイヌ民族のコミュニティを十全に維持することは日本の歴史と文化のために必須の問題であると考えるが、同時にそのためには、北海道をふくめた列島社会自体がコミュニティの連鎖する協同社会となることを必要としているように思う。それは明らかに将来社会の構想に関わる問題なのである。それを社会的な合意としていく上で歴史学の役割はきわめて大きい。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
入間田宣夫「北方海域における人の移動と諸大名」(『北から見直す日本史』大和書房2001年)
大石直正など『周縁からみた中世日本』(『日本の歴史14』講談社、2001年)
菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』(朝日選書、1994年)
児島恭子『アイヌ民族史の研究』(吉川弘文館、2003年)
瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)

基本の30冊、平川南『律令国郡里制の実像』

平川南『律令国郡里制の実像』(上下、吉川弘文館、2014年)

 著者は、東北の多賀城の研究所にいたとき、漆桶の蓋紙に使われた奈良時代の反故紙が漆でコーティングされ、赤外線ビデオで透視すれば文字が読めるのを発見した。木簡に次ぐ、発掘文字史料の登場である。これは古代史研究のあり方を大きく変えた。つまり、従来の古代史研究は中央集権というイメージの下に、おもに法制史料を中心に進められ、そのため、国家の地方支配も「国・郡・里(郷)」という地方制度の形式的な枠組にそって論じられてきた。それに対して、著者は、考古学者と協同して、発掘された地域史料を中心に問題を組み立ててきた。本書は、書名が示す通り、古代の「律令国郡里制」の形式的な制度研究に対して、その「実像」をはっきりと対置したものである。

 まず最初に取り上げられるのは、七道の制度である。そこでは、諸国の国名の語義が抜本的に見直される。国名は、ヤマトの支配層が七道を行き来するなかで、その視点にもとづいて名付けられたものであるというのである。たとえば、本居宣長以来の通説によれば、武蔵はムサ上、相模はムサ下、両国は牟佐国という国を上下二つに分けたものだということになっていたが、武蔵は本来東山道ルート、相模は東海道ルートで上総・下総につながる以上、相模と武蔵の国名は個別に考えるべきだ。サガミは関東の入口、足柄坂のサカに関係し、ムサシは「六差」であって周囲六国に道が通じている意味だという。同じように甲斐も「交ひ」、つまり北の東山道と南の東海道の結節点にある国であるといことになり、それは有名なヤマトタケルが甲斐酒折宮を拠点にして、東山・東海の両道を制圧したという伝説に結びつくというのである。

 国家機構は交通形態から生まれる。つまり中央と地方を結ぶ「道」から生まれたということになるだろう。とくに東国の場合は、その先端の「道の奥」(陸奥)や「出羽」(イデハ=出端)に蝦夷地への軍事植民組織、「柵・城」が置かれており、それをふくめて奈良時代になっても、「道」にそって陸奥出羽按察使などの広域軍事行政が残ったということになる。越が越前・越中・越後、吉備が備前・備中・備後、筑紫が筑前・筑後に分割されたのも同じことである。

 こういう「道」にそった広域支配が実際に大きな影響をあたえていることは、諸国の「国」自体が、道にそった地理的な条件によって「道前・道後」などとブロック分割されたことにも現れる。これは鎌倉時代になっても国府・守護所を中心として各地に「奥郡」というブロックがみられるのと同じことであろう。このブロックの形態はきわめて多様であるが、しばしばそれに関係して出羽・加賀・丹波などの国の分出、さらには国府の移転が行われたという。しかも、こういうブロックは、国司の守・介・掾・目の四等官による地域担当に結びついていた可能性があるという。従来は、ややもすると、国司のうちの守のみが指揮系統のトップに位置すると考えられがちであったが、実際には、各地から、「守」だけではなく、「掾・目」に「大夫」という尊称を付した木簡が出土している。これは国内の各地域において四等官が独自の権限をもっていたことを示すというのである。

 これは国内の郡里のレヴェルでも同様であって、丹波、甲斐、陸奥などの事例から郡が内部で「東西」分割されている様相が明らかにされる。郡には郡家郷(郡衙の所在する郷)のほかに、それに準ずる大家郷、さらにたとえば氷上郡に氷上郷というような郡名郷が同時的に存在する場合がある。これらには様々な経緯が想定されるが、ようするに本質的には、それらは郡衙別院などと史料に現れる郡衙の支所というべき存在であるという。こういう分郡といわれる現象は、制度が崩れていくということでなく、郡そのものが分掌と分割の可能性を最初から含んでいるのである。

 さらに下の「里(郷)」レヴェルも一枚岩ではない。著者は郡が「里刀自」に令して労働動員する様子を示す木簡史料などから、里(郷)の内部に「氏」の集団が存在していることに注目する。そもそも「郡・里」のあいだの分割・分掌は「氏」に関係しているのではないか。さらに著者はこの「氏」と重なって「村」(ムラ)があったことをも示唆するようである。この「村」はおもに里(郷)内部の地点や領域表示、さらに五十戸の戸籍を施行する前の集落表示に使用される用語であり、ようするに郡里の内部には一定の集落性をもつ「村」が隠れていたのである。ただ注目すべきなのは、「村」が郡内部の複数の里(郷)をふくむような広域表示として使用される場合もあることで、著者によれば、これは「村」が「群集一般=ムレ」というより一般的な語義をもっていたために、それをつかって里(郷)のような単位を外れたまとまりの呼称として使ったのであるという。これは複数の里(郷)をふくむまとまりという意味では、郡の分割と同じことであろう。里(郷)と村の関係というのは、第二次大戦前の清水三男の提言以来の大問題であるが、ここに確実な検討の方向が明らかになったように思える。

 しかも、この村のレベルに照応して、郡郷の内部には駅家・厨家・烽家・津司などという多様な交通組織が存在していることを示す木簡が続々と出土している。そこに明らかになるのは、地域支配機構が網の目のように広がる陸路と海路の交通網に瘤のように結節している様相である。これらの組織の駅長・厨長・津長・庄長などの史料も出土しており、9世紀になると中央の文献にも税長・調長・服長などが登場する。「里長」もふくめると各郷に相当の「長(役人)」が生まれているのであって、私は、これらの人びとのうちの有力者は「刀禰」といわれているに相違ないと考えている。刀禰は男の有力者で、前述の「(里)刀自」は女の有力者ということになる。

 こうして、「国郡里」の行政組織は、実際には「道>国>郡>里(郷)>村」という五階層を越える重層的な実態をもっており、その間の指揮・分掌系統も単純なものではないことが明らかになった。これによって8・9世紀の地方組織のイメージは根本的に塗り替えられてしまったということができる。ただ、本書は上下二冊、全体で八〇〇頁余の大冊であって、その分析は詳細・極微にわたるから、その全体のイメージをつかむには、著者が本書の各論文を基礎にして一般向けに叙述した日本歴史の通史シリーズの一冊『日本の原像』で読まれた方が分かりやすいだろう。著者は石母田正ー青木和夫と続くいわゆる「在地首長制論」の直系の位置にある研究者なので、その古代社会論の大枠のイメージも通説を前提とすれば分かりやすいものである。この『日本の原像』を脇において、その詳細な史料実証編として本書を読めばさらに眺望は広がるだろう。

 しかし、私は、本書は、おそらく石母田首長制論の大崩壊の開始の記念碑になるのではないかと思う。すでに紹介したように(■■■頁)、石母田は、奈良時代の国家支配、いわゆる「個別人身支配」は建前であって、その内実は首長制的な郡司による共同体支配にある。それこそが一次的関係であって、国家の地方支配はそこから派生した二次的関係にすぎないという。しかし、首長制的な関係は宗教やイデオロギーには残っているものの、すでに国家的な関係による地域社会の直接組織が中軸となっているというほかない。六世紀ころまでは地方社会にいきづいていた首長制は、すでに断片化し分散して、国家の地方支配のなかに埋め込まれ、それと一体になっている。律令制的な「個別人身支配」が、本書が明らかにした重層的な役所の構造によって実現しているのである。そこから切り離した首長制支配というものを「一次的生産関係」であるとして仮想する必要はないのである。

 その条件となったのは、奈良時代が、文明化と急速な開発と交通によって、国郡里の行政組織の周囲に経済組織が無秩序に群生したことにあるだろう。九世紀の国家と社会は、それに連続して、京都の都市王権を中軸とする、より安定的な王朝国家のシステム=国衙荘園体制の大枠を形成したのである。地域社会では開発にともなって郡郷の組織がさらに個別化し、「郷倉・里倉」が分立・増加していく。村井康彦が論じた「里倉負名」である。彼らは「倉」を拠点として田地耕作を「負名(=村の氏の名を負う身分)」として請け負う。この田地耕作契約は、律令制では「班田」といい、9世紀後半には「散田」といわれるようになるが、「班」も「散」も「あがつ(分与する)」と読む行為であって、両者を厳密に分けることはできない。ようするに「個別人身支配」が基本的には連続しているのである。

 戸田芳実が明らかにしているように、10世紀以降の地域社会の秩序は刀禰によって作られている。前述のように彼らは、8世紀以来の「長」たちに連続する存在であり、耕作の共同体的な秩序を指導する者としては「田刀(=田刀禰)」と呼ばれ、国家(および庄園)に対する田地の契約主体としては「負名」といわれた。この田刀が平安時代なかばに「田堵」という普通の農民に対する呼称に変化し(「田や屋敷を堵で囲む人びと」という意味)、負名が「名主」に変化するのである。

 従来の古代史研究は、普通、奈良時代の「国郡里」の地方組織は9・10世紀に解体していくという制度史的な解体史観が多かったが、平川による国郡里制の実像の捉え直しによって、このような連続的な把握が可能になったのである。ただ、そうであるだけに、私は、石母田の首長制論の理論の枠組を詳細に点検して、その影響から自立していくことが、今後、必要なのではないかと思う。平川も、遺跡の観察から9・10世紀の地域の有力者たちが新しい経営を作り出す様子を論じているが、しかし、それは平安時代の農村史研究と噛み合うレヴェルにはなっていない。そのためにもまず石母田ー青木の見通しを清算しておくことがどうしても必要だろうと思う。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
平川南『よみがえる古代文書』岩波新書、1994年
平川南『日本の原像』小学館、2008年
戸田芳実『日本中世の民衆と領主』校倉書房、1994年
村井康彦『古代国家解体過程の研究』岩波書店、1965年
保立道久 『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年

基本の30冊。安田浩『天皇の政治史』(青木書店、1998年)

 日本の天皇家は20世紀をこえて珍しく残存した王家の一つであるが、憲法第一条が規定するように、その地位は、主権者としての国民の総意に依存している。そして憲法の規定では、実際のところ、天皇は内閣の通告のもとに10項目の国事行為のみを行う国家の儀礼要員である。ここに現憲法の天皇規定の最大の特徴がある。

 つまり現在の天皇は厳密にいえば、「王」ではあっても「王権」はもたず、「君」ではあっても君「主」ではない。天皇に残っているのは、その王としての身分のみである。その身分は「法の下の平等、貴族制度、身分または門地による差別の禁止」(14条)の唯一の例外的存在として、宮内庁などの儀礼部局や特権的な財産などによって支えられているが、しかし、さらに根本的に考えると、その身分は、そこに付着する文化によってできあがっている。そしてその文化的あるいはイデオロギー的な性格は、ほとんどその過去に関わっている。過去の王についての記憶、歴史意識が現在の王を支えているのである。

明治・大正・昭和ーー三代の天皇

 最近の歴史学は、このような現代天皇制のあり方を前にして王権論を組み直す努力を重ねてきた。安田浩の本書は、その動きを代表する位置にある。対象は、明治・大正・昭和の三代の天皇。安田は、彼らの言動を詳細に追跡しており、このような通史的な分析の試みは現在でも本書のほかにはない。

 まず明治天皇については、明治維新のときの17歳の青年が君主として作られていく経過が語られる。西郷・岩倉らの維新首脳部の感化と演出によって、洋風の扮装の下に政務、軍務などに取り組みつつ、祖霊と神慮を信じる王者となっていく様相が興味深い。彼はそのような王として、欧州から帰国した岩倉使節団と留守政府のあいだでの不調和、政変のなかで、それなりの聖断の役割を果たし始め、有名な儒学者、元田永孚などの側近をえて政治主体としても自立していく。

 明治憲法は天皇大権と国務大臣による多元的な輔弼を規定するだけで、政府・行政・内閣についての規定を一切もたない異様に短文の憲法である。そこまで削りこんだ意図と経過が、維新首脳の内紛への天皇の介入と伊藤博文の役割を焦点にして解明されている。憲法公布から日清戦争をへて天皇大権が議会を通じて作動するシステムが形成され、そこに軍隊権威と国家神道の確立をともなって専制君主制が成立する過程の記述もわかりやすい。

 大正天皇の心身は不調であったが、逆に明治憲法を前提として君主のあるべき姿が強調され、枢密院の強化などの王権の構造強化が起きる。心身不調の王の代に王権が強化されるのは、王権がイデオロギー的な存在である以上、珍しいことではない。原敬内閣も君主不調のなかでの元老と議会の状況的統合という本質をもっていたのであって、いわゆる「政党内閣」も天皇親政の名目化ではあっても天皇制機構の名目化では決してなかった。

 こうして天皇大権は、多様な形態を取りながらも一貫して強化され、その上に昭和天皇が行動する。安田の記述で印象的なのは、まず満州事変における関東軍の行動への追認の素早さであろう。英米との合意によるアジア分割を一貫して重視する天皇とその周辺の姿勢は中国の抵抗力への蔑視ともいえる過小評価と表裏の関係にあったことがよくわかる。また、天皇の君主としてのプライドが御前会議への執着となり、それが結局内閣制を破綻させ、大本営政府連絡会議に権力中心が移動し、大元帥天皇が打ち出されるという筋道の描写も見事である。

 明治憲法成立前後に専制君主制が確立した以上、政治史の主語が天皇であるのは当然のことであるが、これが本書以前には明瞭でなかった。私もほぼ同時期に『平安王朝』という新書で同じ問題意識にたって王権の通史を叙述したが、安田は現代史家として、三代の天皇の言動を論理的に見通すことは、たとえば昭和天皇の戦争責任を論ずるためにも必須なことを痛感していたに相違ない。

丸山真男を引証する必要はあるのか

 私のような前近代の研究者からみて興味深いのは、国家中枢部のやりとりが「謀議、輔弼、元老は関白」などの古代以来の政治語彙に満ちていることである。これは安田が基軸史料を丁寧に引用しながら論じているためわかるのであるが、これらの語彙を体系的に読み込んでいけば、さらに明瞭な王権身分論も可能になるのではないかと感じる。

 つまり、安田は天皇の行動形態を受動的君主、能動的君主、委任君主、統帥権的天皇などなどと分類することによって、君主の多様な行動を跡づけていく。それは当初作業としては不可欠であろうが、多様な君主の言動が一つの人格において可視的となっていることこそが王権の構造であろう。実際、君主の受動性には、つねに「よきに計らえ、下手をやれば俺は知らん、叱責するぞ」という能動的要素が含まれるのであって、安田が近代天皇の行動様式を基本的には「受動的君主」であり、状況におうじて「能動的君主」となるとするのはやや形式的に過ぎる。君主身分は国家機構の人格的反映として君主の主観を離れた客観的な存在である以上、政治責任はそのレヴェルで問われるべきものであろう。

 これは君主の多様な諸側面に対する多元的輔弼なるものの理解にも関わってくる。つまり、一般に制度的に整えられた君主制、とくに立憲君主制においては憲法が君主権限を制約する代わりに君主権は無答責原則によって守られる。安田もいうように、そこでは、君主の無答責と輔弼者の有限責任によって政治決定の無責任体系が形成される。ただ、安田が、この無責任体系を直接に丸山真男の評論的エッセイを追認するかのように説明することは不適当であろう。つまり、安田こそ、無責任体制の政治的創出という事実、そしてその本質が君主の擁護と責任の回避のための意識的な政治にあることをはじめて論証したのである。法的に無答責という虚偽を作っても、非人道的行為などの歴史的責任、行為責任は絶対的なものであって、それを明示することこそが歴史学その他の学術の役割であることはいうまでもない。

 またそもそも日本近代の専制的な天皇制は立憲君主制と比べて特殊に歴史的・日本的なものであって、天皇大権の下に、国家権力の枢密部の巨大な領域が独立して憲法規定の外側に存在する。明治憲法は、実際には近代憲法ともいえないような特異な構造をもち、しかも天皇の告文などが明示するように神権制によって支えられていた。このような構造を、丸山流の印象批評で論ずることは学術的にはほとんど無意味である。

 明治天皇は個人では統御できないような巨大な非法的部分を君主身分において統合することを自身の制度身分として選択し、昭和天皇はそれをファナティックな神権的軍事支配という巨大な非法領域にまで拡大した。彼らは広大な法外領域=「密室」のなかに設置した「密室」をその身分生活としていた。この二重の「密室性」は一般の国家秘密と本質的に異なるものであって、王とは最高の身分的な生活様式である以上、そこには王家に骨絡みの責任が宿る。

絶対主義範疇の放棄は必要か
 安田は2011年に死去してしまったが、本書を実証編とすれば、その死去直前に校正を終えた『近代天皇制国家の歴史的位置』は理論編というべきものであって、二冊あわせて検討しなければならない。そしてその焦点は、安田が近代天皇制に対する「絶対主義規定」を放棄する立場を明らかにしたことにある。

 私は、この点には賛成できない。私は大学院に進学しようとしたとき以来、なんども著者に会い、一緒に仕事もしたが、結局、研究内容に立ち入った議論をすることもなくすぎた。それにもかかわらず、議論のできない今になって意見をいうことは申し訳ないように思うが、しかし、学問は永遠のものであることに免じて御許し願いたいと思う。

 もちろん、安田が資本主義に変容していく最末期の封建社会の権力を絶対主義と規定し、いわゆる日清戦後経営後に日本資本主義が確立して以降も、その権力の本質は封建制にあるという議論、戦前の「日本資本主義論争」における講座派の絶対主義論にそのまま従えないのは当然であろう。安田のいうように近代天皇制はまずは20世紀にも諸国に登場した後発資本主義国の権威主義秩序の初例の一つというべき側面があることは明らかである。また、安田が、講座派が、絶対主義の社会的基盤をもっぱら封建制あるいは半封建的な寄生地主制におくことを批判するのにも賛成である。『近代天皇制国家の歴史的位置』の第四論文は、近代天皇制に対応する基礎的社会関係は、財界を別とすれば、むしろ中小地主を名望家として重層的に組織する地主国家的関係にあり、この疑似共同体的な名望秩序を「帝国議会」によって動員するシステムこそが重要だとしており、これは学界の強い支持をうけている。

 私は、これらの点に批判がある訳ではない。しかし、すでに述べたように(■■■)、そもそも徳川幕藩制を封建制とは考えない立場からすると、絶対主義という範疇は封建制論という呪縛から切り離した上で、なお活かすべきものではないかと思う。近代天皇制が立憲君主制というべきものではなく専制君主制であることは、最晩年の安田がむしろ積極的に強調したところである。そして絶対君主も専制君主も英語にすれば同じようにAbsolute Monarchyなのである。

 そもそも講座派は天皇制をドイツのカイザートゥム、ロシアのツァーリズムとの比較のなかで論じようとした。絶対主義を封建制の最終段階と固定的に捉える考え方は別として、この問題設定の正統性は承認すべきであろう。安田のいうように、日本の近代天皇制が後発資本主義国の権威主義秩序の一類型であることは疑えないが、問題は、このような国際比較をふくめて日本天皇制の歴史的な特殊性をどう考えるかにこそあるはずである。それは大石嘉一郎がいうように、「近代絶対主義」というほかないものであると思う。

 私は、世界の資本主義化のなかで、ロシア・ドイツそして日本のように「帝国」としての伝統をもつ諸国家が、資本主義的な社会変化をも条件としてその国家システムと君主制を強力化し、資本主義的帝国を構築していった場合、古典的な定式化を尊重して、それを絶対主義と呼び続けたい。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。
参考文献
大石嘉一郎「第一次大戦後の国家と諸階級の変容」(同『日本資本主義史論』東京大学出版会、1999年)
安田浩『近代天皇制国家の歴史的位置』(大月書店、2011年)
山田朗『大元帥 昭和天皇』(新日本出版社。1994年)