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大徳寺文書の重書箱と曝涼

大徳寺文書と「法衣箱・重書箱」
        保立道久
 今年三月の文化財審議会で重要文化財に指定された大徳寺所蔵の古文書は、日本の禅宗寺院の所蔵する古文書として、量質ともに有数のものである。指定目録によれば、その総数は、四二六七通、内訳は九七巻、二帖、百册、五十四幅、三二四六通、九鋪、一七二枚、一箇に上る。
 ながく大徳寺文書の編纂にたずさわってきた関係で、私も、この指定調査事業に協力した。詳細目録の作成は大変な作業ではあったが、大徳寺文書は、そのほとんどが表具などの人工的な処置を加えないまま、文書が作成された時代のままのウブな形で存在しており、それを縦覧することはかけがえのない経験であった。たとえば、室町時代の書状は料紙の端を細くきって封紐とし、細く畳んだ文書を巻止めて墨引きを加える、いわゆる「切封」という操作を加えている。大徳寺文書においては、珍しいことに、しばしばこれがそのままの形で残っている。文化庁の調査官とも話したことだが、これだけ大量の文書がこういう形で残っていることは珍しく、これが大徳寺文書の価値を高めている。
 それは大徳寺では文書が文書箱や倉に入った後は、それを開いてみるようなことが少なかったことを意味する。調査では、和尚様たちと一緒に「文書箱」を文倉から運び出し中身を点検したのであるが、これだけ厳格に管理されていれば紛失しないのはもちろん、一度倉に入れられれば文書がウブな形のままに残るのは当然と感じた。
 そこで、ここでは、大徳寺文書の個々についての紹介ではなく、室町時代の大徳寺において、これらの文書が、どのように管理されていたかについての知見を報告したいと思う。これは、まったく地味な話しではあるが、しかし、これらの「文書箱」の過半は室町・戦国時代に作成されたものであって、それ自身が重要文化財の付属品として登録されている。そして、これまでまったく注目されていない禪院における文書箱の管理の様子を少しでも明らかにできるならば、それは貴重な文書を伝えてきた先人の意思にそうことではないかとも思う。
 さて、前置きが長くなったが、上に掲げた写真は、現在、「丁箱二」と呼ばれている文書箱であり、墨書からもと「如意庵重書箱」であったことがわかる。そして、同じ筆跡の墨書の「如意庵文書箱」がもう一箱ある。この二つの文書箱はおそらく安土桃山時代頃のものと思われるが、室町時代の如意庵校割帳によれば、如意庵の文書箱は古くから二つときまっていたようである(『大徳寺文書』一六四四)。この重書箱の中には、寺院に檀那から寄進された土地の寄進状その他の証明文書が入っていることはいうまでもない。そして、この「重書箱」の置き場所は侍真寮であった。それに対して、この校割帳によれば、真前には「法衣箱」が置かれ、納所寮には「算箱、日記箱、銭箱」などが置かれていたことがわかるのも重要である。
 これらの箱のうち、禅院にとってもっとも重要なのが「法衣箱」であることは明かである。そもそも校割帳、つまり経典などをふくむ什物、財産目録は住持の交替などの重大な時期に作成されるのであるが、作られた校割帳自身が、この「法衣箱」の中に入れられ、さらに、この「法衣箱」自身が「衆封」されている(『大徳寺文書』一六四三)。そして、如意庵の「法衣箱」に言外宗忠などの祖師の法衣が納められていたことはいうまでもない。つまり、校割帳を開いて寺院の什物を点検するためには、「衆封」を解き、祖師の法衣を拝すことが必要になるという訳である。このような方法は、禪院にとってもっとも確実で厳格な管理であるといえるのではないだろうか。
 真前におかれた法衣箱の中の校割帳に登録された財産のうち、土地の寄進状その他の証拠文書は、真前を管理する住持の命の下に侍真が「重書箱」に入れて管理し、実際の財務を担当する納所禅師、衣鉢禅師の管理する「算箱、日記箱、銭箱」とは区別されていた。このような「法衣箱」ー「重書箱」ー「算箱・日記箱」というような階層性をもった文書管理のシステムが、実際にはどのように動いていたかということを、さらに細かく知ることはなかなか難しい。ただ、興味深いのは、龍翔寺再建の時に活躍した和渓宗順の龍翔寺什物渡物目録によると、「法衣箱」の中には法衣のみでなく、「証文、古帳等、いろいろ多し」という状態になっていた(『大徳寺文書』二三四三)。つまり、法衣箱の中には校割帳ではなく、重書それ自体が納められることがあったということになる。だから、「重書」の内でも、とくに祖師の法衣の傍にくるまれて存在するような特別扱いの重書というものもあったのであろう。こういうことを知ることができるのは、何といっても『大徳寺文書』ならではのことではないかと思う。
 御承知のように現在でも行われている「曝涼」の記録が『大徳寺文書』には相当数伝わっている。その季節は現在とは違って、だいたい七月七夕過ぎの頃であるが、たとえば上でみた如意庵の場合をふくめて(『大徳寺文書』一六四六)、その場合はしばしば「法衣箱」と「重書箱」がセットで曝涼されていることも興味深い。世俗的なことを述べるようであるが、室町時代には寺院の財政は、だいたい八月の御盆を年度のしめの時期としていたから、その直前の時期に行われる曝涼には、寺院の財産の確認の意味もあったのではないだろうか。けれども、現在に伝わる「重書」の状態からして、その時も一点一点の文書を開けてみてみるというようなことはなく、丁重に扱われたに相違ないと思う。それは「重書」の中に残る檀那たちの書状や寄進状が祖師たちに対する世俗の帰依を表現するものであった以上、当然のことだろう。「法衣箱」と「重書箱」のセットというものは、昔の禅僧たちにとっては、現在の学者にはわからないような気持ちを呼び起こすものであったに違いない。そこには祖師の活動の痕跡が凝縮しているのである。
 さて、以上に引証した本坊所蔵の文書は、私の職場、東京大学史料編纂所の出版にかかる『大日本古文書、大徳寺文書』(全一四册)にすべて収められ、また御寺の御理解をえて、文書のフルテキストや謄写が史料編纂所のデータベースとして利用可能になっている。私は、この大徳寺文書の最後の部分の編纂(一一巻から一四巻まで)を担ったのであるが、重要文化財の指定によって、明治時代より始められた大徳寺文書の編纂調査事業も一区切りということになったように思う。室町時代以来の古文書の管理・保存の後をうけて、一定の役割を果たすことができたことを光栄と考えている。本当に長い間、地味な仕事に御協力をいただいた歴代の大徳寺の諸尊宿には御礼の言葉を知らない。
 しかし、ここ二〇年ほどは、『大徳寺墨跡全集』(毎日新聞社)が刊行され、編纂が終了し、さらに重要文化財指定にともなう詳細目録が作成されたことによって、大徳寺の文書の新しい研究の条件が整えられた時期でもあった。この趨勢の中で、さらに長く続くはずである。今後とも是非よろしくお願い致したいと思う。