「大徳寺文書」と北区
「大徳寺文書」と北区
『史料、京都の歴史』月報14、1993年1月
京都は日本の代表的な古都である。もちろん、古都といえば、奈良や鎌倉をあげることもできるが、奈良の歴史は、古代の都城時代は別として、中世になるとやはりまだ不分明なところが多い。鎌倉にいたっては、その都市としての様相は最近の発掘成果を待って、はじめて問題になりつつある状況である。
それに対して、京都は古代から近世にいたる長い期間、歴史時代のほぼすべてにわたって、都市の歴史像を描くことができる唯一の町である。これは日本の都市の中では特筆すべき特徴であると思う。そして、それが可能になるのは、主には京都の寺社や旧公家に大量の文書資料、古文書が収蔵されているからである。それは、京都市民にとっても意識しにくいことかもしれない。また、観光のために京都を訪れる人々にとっては町並みや建造物などの有形文化財が目立つのは当然のことだろう。しかし、京都の文化は古文書に象徴されるような、ある意味で「無形」の情報によって支えられているのである。
古文書は痛みやすい「有形」の文化財である。私は、東京大学の史料編纂所という研究所で、長く紫野の大徳寺の古文書の編纂、つまり古文書を読んで「無形」の活字情報にする仕事にたずさわっている。その関係でこの『史料京都の歴史』を編纂している京都市歴史資料館、さらに京都府立総合資料館などの機関にお世話になることが多い。そして京都には、他にも京都国立博物館などの文書館的機能を有する諸機関がおかれている。これだけ充実した機関の集中は、大量の貴重で脆弱な古文書を修三する京都という都市にふさわしいもので、さすが京都と思うのである。
さて、『大徳寺文書』(大日本古文書家わけ第十七、発売元東京大学出版会)であるが、第一冊目は一九四三年の出版であり、戦後一時期の中断をはさんで第十四冊目を七年前に刊行し、それをもって三千四百点の本坊所蔵の中世文書のすべての刊行を終了した。四十二年間、私を入れて研究者五人による仕事となる。現在では塔頭文書の編纂に入っており、『真珠庵文書』の第二冊目の校正を先日やっと終了したところである。
大徳寺関係のまとまった量の中世文書を含む塔頭文書としては、このほかに、『徳禅寺文書』(近年発見された襖内文書を含む)、『大仙院文書』『黄梅院文書』などがあるが、これらの塔頭文書を入れると、大徳寺関係の文書は日本の禅寺の有する古文書としては質量とともに抜群のものとなる。研究者にはよく知られていることであるが、特にこのために、『大徳寺文書』は禅宗社会といえるような特徴をもった室町時代の政治・社会・文化に関する最良の史料の一つとなっているのである。
ただ、ここで考えてみたいのは、京都の地域の歴史、特に北区の歴史にとっての『大徳寺文書』の意味であり、その利用法である。地域史のための文書群の利用に置いて、まず先行するのは、コツコツと地名や人名を調べ、文書の文言にしたがって町や田畠の所在を復元する作業である。私どものような編纂の仕事においては、この作業を怠るとひどい結果におちいることになる。ただ、すでに中世の北区に関しては、たとえば高橋康夫氏の『京都中世都市史研究』(思文閣出版、1983年)に収められた研究があり、本書、つまり『史料京都の歴史』(北区)の出版とあいまって、京都の市民の方ならば、誰でも自分の住んでいる地名のでてくる古文書をみつけ、地域史の概略を探ってみることができるようになったともいえるだろう。
私がおこなってきたのは、このような基礎作業の一部であって、またその視野も限られているが、以下、第一に地域における寺社の相互関係とでもいうべき問題を論じてみたい。たとえば、大徳寺文書の中には賀茂社関係の史料がしばしば現れる。興味深いのは、大徳寺が賀茂地域で買得した田地の売券に、その売買を安堵する賀茂大神宮の政所下文が添えられている場合があることである。その売地安堵の下文には「およそ一条以北の田地、屋敷など、一代社務の成敗をもって末代の亀鏡に備ふるの条、先規の通法、一社の存知、勿論なり」(『大徳寺文書』八一二号、一五〇六号文書など)という文言をみることができる。大徳寺の田地買得は地域社会における賀茂社のそのような権威が一つの保障となっていたのである。しかも、賀茂社は他の権門と相論する時にも「およそ一条以北の事、前々は当社進退をなす」というのを決まり文句としていた(『壬生家文書』)。後者の史料は『史料京都の歴史』第四巻、市街・生業(二七三ページ)に採録されており、すでに川嶋将生氏が洛中と洛外の境界の問題に関わる重要史料として注目したものである(『洛中』と『洛外』、『京都市編さん通信』一七〇号)。そこには、「一条以北」の土地が京都の中でもっていた独特な位置が象徴されているように思われる。
だから、『大徳寺文書』の中に残された「一条以北」という文言は、賀茂社と大徳寺の地域的関係の一側面を示しているのである。それを前提として「北区における寺社と寺社の相互関係」という問題にさらに踏み込んでいくことは今後の課題であろうが、その際、避けることができないのは、具体的な人間関係であろう。私は、大徳寺と賀茂社の寺僧・神官・関係者たちの間には相互の知人関係や親戚関係があったのではないか、地域社会の上層には、そのような関係を軸とする、半ば貴族的で半ば宗教的な社交関係が広がっていたのではないかと思うのである。
たとえば、賀茂の御手洗川のそばにあった神照庵という寺庵は、神主賀茂藤久の曽祖母の庵であり、その妹の尼僧が住持をしていたが、彼女は有名な養叟宗頤(大徳寺第二十六世)の門徒であり、その縁で宗頤の坊である大用庵の末寺となったという。そして興味深いことには、この一族の先祖の多数の石塔が大徳寺の徳禅寺の奥にあったという。養叟宗頤はしばしば女性に対しても付法をしたいわれているが、この場合は大徳寺と賀茂氏の間の深い関係がその背景にあったことになるのである(『大徳寺文書』一八〇四号文書)。さらに、真珠庵の住持であった化庵宗普と賀茂の尼寺・真松庵の住持が同じ氏の出であったと考えられるなど、このような事例は他にも多かったように思われる。
同じような作業が他の寺社と寺社の間でも考えられないものであろうか。最近、五島邦治氏が「今宮神社文書にみる新馬送進」(『京都市歴史資料館紀要』第九号)で、新紹介の興味深い文書を含む文書目録を紹介した今宮神社と大徳寺の関係なども、研究を深めることはできないであろうか。今宮神社文書は本巻にも当然収録されているであろうから、今後さらに研究が進むことを期待したいと思う。
さて、第二に論じてみたいのは、寺院社会史とでもいうべき分野の問題である。過去の社会の実相を象徴するような「物」や事柄に注目して、少し意表をつくような叙述をする手法を、最近の学界では「社会史」と称しているが、そのような手法は地域社会における寺社の存在を考える上でも有効に違いない。
こういう種類の仕事では、まずは実感がものをいうことになるが、編纂の仕事で大徳寺にうかがうことが多くなって印象に残ったことは、私にもたいへん多い。その内の一つが宗務本所の入り口の土間などに据えられているカマドであった。文書の撮影などでたいへんな御手間をお懸けすることになるので、やはり戸口で来意を告げるというのは相当緊張することであるが、意が通じて玄関の中に入ることを許可されると目にとまるのが、この大きなカマドなのである。