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都市王権と貴族範疇ーー平安時代の国家と領主諸権力

都市王権と貴族範疇ーー平安時代の国家と領主諸権力
『日本史の方法』創刊号、奈良女子大学「日本史の方法」研究会、二〇〇五年三月
 私は、平安時代政治史のキー概念として都市王権という用語を使用してきた。もちろん、前近代社会において、社会的分業が都市と農村の分業というスタイルを取る場合、国家と王権はつねにその拠点を都市においている。その意味では前近代王権はつねに都市王権である。それ故に、平安王権を都市王権と規定するというだけでは、そこにはほとんど有効な意味はない。ここで都市王権というのは、そのような一般的な意味ではなく、平安時代の国家、「王朝国家」の歴史的な国家形態に特徴的な王権の特徴を表現する。それは、端的にいえば、平安時代の国家には王権の直接の基盤となる貴族社会が京都にしか存在しなかったという特徴である。王権という以上、それはまず宮廷によって支えられねばならず、そして宮廷は貴族社会の中にのみ存在する。この貴族社会、貴族が構成し、生活する日常世界が、平安時代には京都にしか存在しなかったのである。
 このように考える前提は、王権の規定は、まず都市貴族その他の貴族範疇の確定によって担保されなければならないということにある。そもそも王権が、まずは貴族集団の代表として存在している以上、王権論は、貴族範疇の特殊な諸内容を確定し、それを基礎にして、その代表形態にどのような特徴があるかを確定するところから出発すべきであろう。限って使用している。
 本来は、このような問題を立てる場合には、都市と農村の分業と対立という視座それ自身を理論的にふかめる作業から出発しなければならない。社会的分業に関する理論的研究としては、望月清司、黒田紘一郎などのよるべき仕事があるが、しかし、私は、これまでの理論作業には、都市と農村の対立がどのように精神労働と肉体労働の対立によって媒介されていたかという視角が欠如していると考えている。これについては簡単な試論を「情報と記憶」という小文で述べているのでそれを御参照願いたいが(『アーカイヴズの科学』上)、そもそも京都あるいは首都という範疇自身が、特定の観念形態を前提としており、それを捉え直すためには都市・首都が観念形態の領域におよぶ精神的中枢性を、どのように確保しているかを問わざるをえないはずである。そういう考え方から、私は、これまで、問題の理論的な再検討こそがもっとも重要な課題なのだと考えてきたし、それに関係する基礎的な理論研究を優先し(参照、「歴史経済学の方法と自然」『経済』二〇〇三)、中間的な説明はできる限りさけてきた。
 しかし、このシンポジウムの組織過程で、小路田泰直氏から、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四年)で述べたことをもとにして、文明史の中での平安時代の位置について俯瞰的に論ぜよと要請された。右のような私の感じ方は御伝えしたが、しかし、世界史の段階などという問題について発言した以上、自己の研究範囲の全体像を他の分野の研究者にもわかるように展開するのは、研究者としての義務ではないかという小路田氏の正論には抗しがたかった。現在の社会諸科学が陥っている歴史的視座の喪失という危機的状況の中で、歴史学者も社会科学者の一員として、より明解な全体像の構築に努力すべきことは、誰もが認めざるをえないだろう。
 そこで、ともかくもこれまでの自分の仕事をつづり合わせる形で、全体像なるものに挑んでみることにした。しかし、こういう経過からいっても、本稿も理論というものを単純な定義集、あるいは実証成果を自己流に合理化したり説明したりするレトリックと等置してしまう歴史家の宿弊の内部にある。しかも、以下の説明は、世界史的な平安時代論というレヴェルは確保しておらず、シンポジウム組織者からすれば、このような中途半端な議論を要請したのではないということになるだろう。とはいえ、これが私の限度である。
Ⅰ都市王権の範疇についてーー研究史と自分の仕事
1戸田の都市論とウェーバー
 都市王権論を構想する場合の研究史上の前提は、戸田芳実の王朝都市論、その「王朝都市論の問題点」という論文に求めるべきであろう(『日本史研究』)。もちろん、この戸田の論文は、都市王権論というよりも、その議論の基礎をなす都市貴族の集住と階級的な結集の形態について論じたものである。しかし、戸田が、その中で王権論をも考えていたことは、そこで戸田がウェーバーの「君侯都市」という用語を紹介していることに明らかである。
 そして、戸田の都市と王権という問題意識については、あるシンポジウムでの「流通路というのは、特定の権門領主が所有しえない。したがって最高の権門が、国家の名においてそれを管理する。ところが別の面で、非農業民の組織というのは家産経済の組織化だという面がありまして、かならずしも国家そのものへの組織化ではない。つまり、古代の律令的分業とはまったく違う。皇室も、最高の権門ではあっても、全社会階級をそういう意味で統合しているわけではなくて、最高の貴族としての経済になっている。そういう経済機構の形成が、都市に集中しているということから、都市と地方との交通路が、彼ら共同の管理の対象になって、それを天皇の名において行う。こういうのが権門体制といわれているものの機構だと思います」という発言が参考になる(『シンポジウム日本歴史⑥荘園制』一五三頁、学生社、一九七三年)。
 つまり、首都とその近郊都市地域に集中した経済機構が権門による家産制的な組織形態をとっている。その中で、都市と地方との交通形態、交通路・交通施設などの掌握が、権門貴族を代表する天皇の名前の下に諸権門の共同管理の対象となっている。それによって「権門体制」は都市が地方社会に対して固有にもっている支配力を掌握することが可能になった。比喩的にいえば、有機体の心臓をおさえることによって、それに接続している脈管系統・神経系統のもつ固有の力をおさえることが可能になったという訳である。こういう戸田の見解を敷衍すれば、平安時代的な意味での都市王権とは、優越的な地位をもつ都市=首都を支配し、洛中とそれに連接する都市地帯がもつ地方社会への規定性に依拠して、いわば擬似的・外見的に国家的支配機構を形成している状態の国家であり、たしかに王家は都市貴族の代表であるが、国家機構それ自身が非農業的分業と交通を統括しているのではないということになる。
 私も、平安時代の国家は行政的な制度支配を中軸とする国家ではなかったと考える。もちろん、戸田も強調しているように、それは平安国家が必要な制度支配の実力をもたなかったということを意味しない。実際に、平安国家の前提となった律令制王国においては都城制を拠点とした機構的なシステムが非農業的分業と交通を統括していた。それは畿内という上位共同体による他の共同体に対する支配を第一の本質とし、支配共同体に導入された軍事・官僚機構が共同体間の世界に流入・合体したとでもいうべき性格をもっていた。そこでは軍事官僚機構を支える社会組織が、実際上は直接に氏族的あるいは「首長制的」な組織によって支えられる側面も強く残っていた。これに対して、九・一〇世紀の過程を通じて、そのようなシステムが編成替えされ、機構的なシステムの外被の内側に、社会的分業と交通形態の内部に精神労働と肉体労働の対立が埋め込まれ、より文明的・経済的な支配の諸条件が生まれたのである。こういう経過からしても、われわれは「律令制支配崩壊論」「解体論」を取るわけには行かないのである。
2黒田紘一郎の都市王権論をうけて
 以上は、私たちの世代にとっては出発点的な確認事項にすぎないが、しかし、残念ながら、以上のような戸田の見解は一つの提言にとどまったといわざるをえない。戸田をひきついで、それを展開しようとしたのは、黒田紘一郎の歴史科学協議会の一九七六年大会報告「日本中世の国家と天皇」であった(のちに『中世都市京都の研究』校倉書房、一九九六)。黒田は「天皇制の存立の不可欠な要素として、分業構造、とりわけ都市支配の問題を重視する」という観点にたって、天皇の代替りごとに発布される「新制」が、王朝都市支配の総括としての都市法的性格をもっていることを強調し、それと関係させながら、天皇の血統、儀式、レガリアの問題などを論じた。別稿でふれたように(「都市王権論の原型」『歴史学をみつめ直す』校倉書房)、この黒田の報告は、それ以降の王権論の展開の全体的な見取り図のような役割を果たすことになったのである。
 私が黒田の仕事の意味を実感したのは、「町の中世的展開と支配」(『日本都市史入門』Ⅱ、一九九〇年)という論文を執筆する中でのことであった。この論文の中心テーマは、黒田が強調した都市法としての「新制」の系譜を平安時代から鎌倉時代にかけて復元してみることにあった。そして、さらに「中世前期の新制と沽価法」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年)という論文で、その視野を市場法・価格法などの全体に広げることを試みた。このような法令に表現される王権の都市支配こそが、平安時代の天皇制の固有の基礎であったことはすでに明かであると思う。しかし、残念なことに黒田も、この問題を自身で詳細に展開する余裕をもたず、黒田の議論は十分に受けつがれることのないままに終わった。
 実は、当時の議論は、ちょうど活発な研究を開始した網野善彦の仕事が焦点となって展開するという経過をとっていた。黒田の都市論は、網野に対する批判として展開されたものであったし、戸田の都市論も網野の仕事を意識しながら行われたものであったといえるかもしれない。そして、戸田・黒田の仕事が十分な成果をみずに終わったことは、研究史的には、結局、彼らの議論は網野の展開した議論の前で立ち止まってしまったと評価されることになるだろう。しかし、他方、忘れてはならないのは、黒田紘一郎の議論の前提には、網野や戸田の議論との関係以上に、黒田俊雄の学説の影響が大きかったことである。黒田紘一郎は、王権の都市的構造を、「王城の地としての天皇所在地(京)を聖地として、徳治主義の理念を中世的触穢思想に補完されながら復活させるイデオロギー」という形で論じているが、この前提に黒田俊雄の議論があったことは明らかである。私も論文「日本中世の諸身分と天皇」(『講座・前近代の天皇』青木書店、一九九三年)において、身分論を中心とした黒田俊雄の諸学説に向き合わざるをえなくなり、それを通じて都市王権の全体的な身分的構造を問うという課題の前にたたされることになった。そして、黒田説の身分論の評価において重要なのは、たしかに黒田紘一郎のいう「徳治主義」の問題なのである。黒田俊雄は平安・鎌倉時代の身分制の外枠として「君・臣・民」という東アジア的な徳治主義にとりまかれた「国家体制にもとづく身分系列」を措定している。この「君・臣・民」という序列の問題が「明治維新」にいたるまで日本の国家思想史においてきわめて重要な位置をもっていたことは(黒田もどこかで述べているように)いうまでもないが、それは東アジア的な国家思想から背馳する特殊に日本的な側面をもっていた。つまり、「君・臣」関係は、たしかに一面で「公的な」もの、官職位階制・官僚制を本質とする中国的な法理念であるようにみえるが、日本の実際では、官職位階制秩序の本質はそれ自身が礼的な秩序にあった。官職・官位制は官僚制的な組織原理である前に、しばしば身分的な称号にすぎず、しかもそれはほとんどもっぱら生来の「貴賤」・血統によって左右されていた。そして、そういう貴賤の礼的秩序がさらに「浄穢」という自然的な秩序にとりまかれて存在したというのが、有名な黒田の「種姓の身分的構造」論である(「中世の身分制と卑賎観念)。
 そして、この「浄穢」の体系が本質的に都市的なものであったことは大山喬平が述べる通りであって(「中世の身分制と国家」、同『日本中世農村史の研究』、岩波書店、一九七八年)、王の生活は「穢」の排除の論理にもとづいて、人為的・身分的に都市内部に作り出された一種の仮想空間の内部で神聖化された。平安国家にとって本質的な問題は、このような構造が都市的な宮廷社会の狭い閉鎖的な構造として四〇〇年にもわたって存在しつづけたことである。私は『黄金国家』で、このような王権を巨大な繭の内部に閉鎖的に自足する大きな幼虫にたとえたが、この首都社会の相貌は一種異様なものである。その中で、王権と都市貴族相互に濃密な血縁関係が形成され、双方ともが自己を神格的な存在とする中で(河内祥輔『中世の天皇観』山川出版社、二〇〇三)、尊貴なる血統が維持された。王権の周囲を、それ自身都市貴族の諸階層が分厚く取り巻き、煩雑で人為的な儀礼体系、礼の体系が伝統化され、さらに「穢れ」という衛生観念によって都市空間は階層的に分節され尽くした。こういう意味で、日本的な君臣関係は、徹頭徹尾、京都の都市宮廷社会内部の礼的関係であったのである。
 そして、都市王権の閉鎖性は、狭隘な都市宮廷内部での王と側近貴族の一体化をもたらし、王の代行権力、いわば「摂政王・執政王」というべき存在を必然的に生み出す。こうして、長きにわたった平安時代が、そのような王権の二重化・重層化というべき政治構造を国家内部に定置することとなった。よく知られているように、丸山真男は日本の政治構造における「執持」「仕奉」「後見」「身内」などという特徴を、政治史の「基調低音」として素描しているが、石母田は、このような丸山の意見に対して、「それではその基調低音なるものがどうやって作り出されたのか、それを考えることこそが歴史学にとって重大なのだ」と述べている(『石母田正著作集』8)。黒田は、さらにきびしく、丸山の議論は素人の思いつきにすぎず、俗流の「日本文化論」と区別しがたいと切り捨てているが、私も、たしかにこのような構造は歴史的に解明されねばならず、それは歴史の基調低音というべきものではなく、むしろ都市という儀礼世界・貴族世界の中で人為的に作り出され繰り返される単調高音ともいうべきものであったと思う。長期にわたった都市宮廷・都市貴族社会の閉鎖的世界の構造こそが、その土台であったということになろうか。
 私は黒田の「身分の種姓的構造」を氏的な国制イデオロギーという形で読みかえると同時に、以上のような視角から、『平安王朝』(1969)、『平安時代』(岩波ジュニア新書、1999年)などで、いわば王を主語として政治過程・政治史を描いてみた。これについては、しばしばそういう卑小な作業によっては歴史はわからないという批判をうけたが、しかし、私が意図したことは、いうまでもなく、王権の実態を過大に描くことではなかった。そこで目指したのは、王の狭隘な行動を描き出すことによって、むしろ狭い都市宮廷の世界を浮かび上がらせ、王権をその閉鎖的世界に巣くう「肉体」=「支配者」であるものとして相対化することであった。その意味では、平安時代の政治史、あるいは一般に支配層中枢部の政治史というのは、所詮、その程度の卑小なものである。この当然の事実をわきまえないかのような議論は、私にはまったく了解できない。
Ⅱ都市貴族と宮廷社会
1京都権門貴族の概念についてーー石母田正と黒田「権門体制論」
 研究史において、最初に貴族範疇に焦点をあてたのは、石母田正の「『宇津保物語』についての覚書」(『石母田正著作集』一一巻)であった。この著名な論文で、石母田は「都市に集結した貴族層は統治と支配のために国家の一員として組織されねばならず、そこに一箇の鞏固な連合的共同制が個人を超越し緊縛する強制力として成立する」「我が国の貴族は本来都市貴族であるが、しかし貴族が都市の住人として自らを意識するに至るのは特定の時代の経過を経た後であった」などと述べている。さきほど平安王権を繭の中の巨大な幼虫に譬えたが、この石母田正の論文は、平安時代の都市貴族社会の異様で閉鎖的な様相をとらえることに成功しているという点で、すべての基礎にすわるものである。ただ問題は、石母田が、この都市貴族範疇をおそらくウェーバーから借用したのではないかと思われることである。石母田の議論がウェーバーの論文「古代文化没落の社会的諸原因」の影響をうけていたことは石井進の証言があるが(石井進「『中世的世界』と石母田史学の形成」『中世史を考える』校倉書房、一九九一)、『経済と社会』の一定部分を石母田は読んでいたのであろう。前述のように、戸田がウェーバーの『都市の類型学』を引用して議論を展開していることなどを勘案すると、ここには日本前近代史の研究の内部に存在したウェーバーへの理論的な依存、一種のウェーバー問題があったようにも思われる。
 これに対して、「都市貴族」という用語をより意識的に分析範疇として打ち出したのは、河音能平の北京シンポジウム論文「中世封建時代の土地制度と階級構成」(一九六四年発表、河音『中世封建制成立史論』東京大学出版会、一九七一年、所収)であった。この著名な論文において河音は奈良時代の国家的土地所有を分割・継承することによって形成された上級土地所有を都市貴族的土地所有と概念化し、それが院政期後期に領主的土地所有と地主的土地所有を再編成することによって「封建国家体制=封建的土地所有体制」が確立するという展望を述べた。そこで、都市貴族的土地所有が、「各地域、とくに畿内に居住する農民以外の多様な職種の勤労人民(半農半漁民・半農半手工業者・半農半林業者など)を権門寺社への奉仕者集団(「座」)として組織した」ことに注目し、「この貴族的土地所有形態が同時に社会的分業の政治的組織形態をなしていた点に、都市貴族的土地所有が一六世紀までも存続しえた理由があった」と論じていることは、網野善彦の問題提起よりはるかに早く、かつそれとほとんど変わらない図式であるという点でも見逃せない。この意味で、河音の都市貴族論は、戦後歴史学の諸論点をきわめて早い段階で先取りするものであったということができる。
 ただ、都市貴族論において実際上の焦点となるのは、ここでもやはり黒田俊雄の「権門体制論」である。黒田が、「権門勢家」という言葉について「権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語」と解説しているように(著作集①四七頁)、「権門」とは、黒田独特の貴族概念だということができる。そしてこの「権門」とは公家・武家の双方を含むものである。よく知られているように、黒田は、この用語を使用することによって武家貴族と公家貴族を絶対的に区別し、実質上、武家貴族を特権的な「歴史の担い手」としてしまう「武士中心史観」を痛烈に批判することに成功した。
 研究史上は、この黒田の権門概念が貴族論の最初の確実な手掛かりであることは明らかであり、それをふまえ私も平安時代の首都の上層都市貴族を「権門貴族」と呼ぶことにしたい。しかし、それは黒田の権門体制論の枠組みをそのまま承認するということではない。黒田は、貴族範疇を首都京都および鎌倉・奈良の政治都市の上層都市貴族に限定し、しかも多様な相互関係をもった上層都市貴族を、諸類型の職能的「権門」に分解することから議論を出発させてしまう。これはある意味で、黒田が権門体制論を構想するにあたって、ウェーバーの家産制支配・名望家支配、そしてフリュンデ封建制の概念を参考にしたとされることとも関係している(吉田晶「権門体制論の頃」『黒田俊雄著作集』一、月報)。黒田は、「権門」をそれらの諸特徴を同時に内包したものととらえるようであって、それによって、「権門」は、「家産」と「名望」と「職能」のすべてを混淆的にはらむきわめて実体的な範疇として措定されることになる。有名な論争で永原慶二が鋭く批判したように、黒田の議論にスタティックな構造論という色彩が強くなり、そもそも都市貴族的な体制が、どのように形成されるかという移行過程論が弱くなったのは、ここにも一つの原因があるのではないだろうか(ただし、黒田の権門体制論は、移行過程論よりも、「中世」の全体の構造論的な把握に焦点があり、そこに優位性があったから、このような問題は盾の半面であるともいえることはいうまでもない)。私には、現在のヨーロッパ史学において、どのような貴族論が議論されているか、たとえばローマ的な都市貴族とその中世への連続面や断絶面について、どのような議論が行われているかなどの知識はない。ただ、歴史学にとってはウェーバー的な類型論ではなく、たとえばマルク・ブロックが『封建社会』で展開したような貴族論が必要だろうと思うだけであるが、ともかく、ここにも、日本前近代史研究の中に存在したウェーバー問題があるというのが私の直感である。
 黒田の議論に大きな意味を認める立場からも、日本における貴族範疇を、このような理論問題の再点検もふくめて、その形成過程にそくしてより柔軟に考えるところから出発するべきことは明らかであろう。そして私などにとっては、その場合の前提は、やはり石母田の『日本の古代国家』が刊行された頃の議論にもどり、石母田が強調した律令制王国の五位集団(「通貴」、実態としては畿内豪族)の運動方向の検討ということになる。日本における貴族範疇は八世紀における諸道の官僚制の形成とパラレルに進んだ平安時代の権門貴族は律令貴族からの連続的移行の中で、しかも異なった規模・類型の貴族範疇の形成として捉えなければならない。
 河音は都市貴族的土地所有という概念を提示しながら、結局、黒田の権門体制論に対する立場を明らかにしなかった。河音の議論は戸田との共同責任に属するものであったようであるから、これは戸田の問題でもある。戸田は「荘園制形成過程の重要な特徴は、律令国家の中央都城に集住した皇族・官人貴族、およびこれに付属する社寺が、その定住形態のまま、あるいはむしろその定住形態に規定されつつ荘園領主に転化したことにあるが、かつてわれわれはこの事実から、荘園制的土地所有を『都市貴族的土地所有』と規定する見解を示した(傍点筆者)」と自分の見解を説明している(「王朝都市論の問題点」、一九七四年、『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年)。そして、その「王朝都市論」において①都市貴族の階級的結集形態を、貴族の都市集住や諸官衙の配置形態などの実態においてとらえ、国家権力構造の実態にせまる、②都市による農村支配とそれを媒介した都鄙交通形態を解析する、さらに③都市住民論、④都市政治史と民衆運動論などの課題を提示した。このような移行論を重視する戸田の立論には、永原の黒田に対する批判の影響がみてとれる。しかし、結局、戸田もこれらの見通しを具体的に論じ、黒田の権門体制論に対してまとまった見解を表明することはなかった。
2京都権門貴族と「陪臣」的都市住民
 律令官人貴族の荘園制的権門貴族への移行過程において決定的なのは、やはりいわゆる一〇世紀国制改革において、法的な意味での都市貴族範疇が成立したことである。この国制改革の中には、九世紀を通じて展開した王族・貴族の京都外への「留住」を禁止するなどの都鄙関係に関わる一連の法令が含まれていた。これによって、都市貴族は、会坂・山崎・大兄山などを境界とする首都圏の領域内部に居住しなければならないという規定が作られた。私見は、これこそが、戸田が「定住形態に規制されつつ荘園領主に転化した」と表現したところの、中央貴族に対する居住規制の歴史的形態であったというものである(「荘園制支配と都市・農村関係」『歴史学研究』一九七八年大会別冊、「律令制支配と都鄙交通」『歴史学研究』四六八号。なお参照、木村茂光「一〇世紀の転換と王朝国家」『日本史講座』③、二〇〇四)。そして、このような居住規制が、一一世紀半ば頃までは五位城外の禁制として生きていたことは、最近、西山良平が論じたところである(「平安京と農村の交流」『都市平安京』京都大学学術出版会、二〇〇四)。
 そして何よりも重要なのは、都市貴族範疇の成立がそれに従属する都市住民の諸階層を生み出したことである。つまり『新猿楽記』に描かれた西京の右衛門尉の一家が示すように、国家と権門貴族は都市住民上層部から、国家機構・家産機構の下部を構成する諸要員を確保した。彼らは「君・臣・民」というレヴェルではとらえられないような、宋帝国でいう胥吏的な存在、日本的な表現では一般には「侍」という言葉で表現することができる陪臣的な存在である。このような存在が、中央都市を媒介として「臣」と「民」の間に分厚く存在するという構造が、平安国家と権門貴族の直接の基盤となっていたのである(保立「日本中世の諸身分と天皇」)。権門貴族がそれに対応する多様な都市住民諸階層を生み出し、ぎゃくに後者が前者を支える構造こそが権門体制なるものの基底的な実態であったと考えるべきではないだろうか。
 黒田俊雄の権門体制論の最大の問題は、「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は諸々の権門に分掌されていた(中略)。しかしそのほかにどの権門にも従属しきらない国家独自の部面があった」という形で、まず現実に存在する国家の都市的構造を職能と家産によって「権門」に分割し、その残余を「公的な」実態として設定するという図式にある。しかし、都市上層住民は社会層としては諸権門と諸官衙を貫通して動きネットワークをはりめぐらせている存在なのであって、彼らは「受領郎等」、「下級官人」、「道々之輩」などのようなさまざまな顔をもって国家体制・諸権門・諸官衙の下部に組み込まれている。たしかに諸官衙は、それに承応する道々之輩の都鄙往反を組織し、関係の職能・職業に対する独自の公権を発展させ、「道」「道々之輩」の国家的な編成を展開した。しかし、それは権門の組織と実質上重なり合っていたはずである。たしかに「どの権門にも従属しきらない国家独自の部面」という問題それ自身は存在するが、黒田の議論には、右のような実態を無視して、やや問題を制度論理的に取り上げてしまう傾向があるのではないだろうか。しかし、こういう都市住民の組織こそが、京都に集中した都市的な国家の下部機構の主要な内容をなすものであったのであって、そこでは都市論を前提として諸権門・諸官衙を横断して存在する権門貴族と都市住民の対抗・対応関係こそを問題としなければならないのではないだろうか。黒田の権門体制論の最大の弱点は、そこに都市論が十分には位置づけられていないことなのである。
 そして権門貴族・都市貴族が城外禁制の下にいる以上、このような都市住民の「田舎の通い」が首都を中心とした支配・経済機構の実態をなすことになる。このような都市的な構造の内部に、地方社会との人的交流が存在し、さらにそこに地方社会に根をおく存在が参加してくることによって権門体制は機能したのである。私はかって『今昔物語集』の芋粥の説話に登場する「五位の侍」のような存在の都鄙往反の活動の中に権門貴族の地方支配の構造を確認した。この五位は「所につきて年来になりて許されたるもの」というたたき上げ型の五位なのであって、そこに立身の夢をかける致富説話というのが芋粥説話の本来の意味であったのである。権門体制は彼ら京都住民が「田舎の通い」の中で確保しようという利害に依拠した都市的な支配・領有体制であった。
3王権と都市貴族的土地所有
 一〇世紀国制改革は、国司=受領が定額の年貢の納入を請け負い、その見返りに任国の運営について専権をもつというスタイルで国司制を再建した。その下で、内印によって荘園領有をみとめる官省符荘の体制をととのえ、留住貴族を抱えこんだ九世紀初期荘園を国家的な枠の中に押さえ込んだのである。これは一面で権門貴族の荘園支配の基礎を提供したことはいうまでもないが、本質的なのは、それが土地所有の国家的な形態の再建を意味したことである。五位城外の禁制の下で、国司として赴任する人間が、いわば京都の都市貴族集団の代表者として国家的土地所有権限を享受したのである。それ故に、この国家的土地所有の本質はそれが京都に集住する都市貴族の集団所有である点にあった。この体制の下で、国司は年貢納入を請負い、「負名」による有期的請作を組織していたが、それは公田における国家的土地所有の存在を示している(参照、戸田「平民百姓の地位について」、一九六七年、前掲『初期中世社会史の研究』)。当時の荘園領有は、このような国衙を中心とした国家的土地所有の下で規制されていた以上、平安時代(とくにその前期)における土地所有と支配の形態は「国衙荘園体制」と規定するべきことになる(前掲『シンポジウム日本歴史5、中世社会の形成』一〇一頁、戸田の発言)。このような都市貴族の集団所有・地方支配を支えていたのは、まずは国内の領主諸階層(後に述べる「国内名士」たち)であり、国司苛政上訴の政治過程に見て取れるように、彼らは国司から相対的に離れた結合を維持して、領主的な階級的結集を発展させていった。そこでは、とくに在庁官人を中心とする国衙に結集した地域領主が競合・連合して、新たな条里制開発を進展させたことが大きかったはずである。そして彼らの下部で国衙行政をになったのは、九世紀の国例・国衙法の中から生まれた行政と勧農の公共組織、刀禰ー田刀禰(田刀)たちであった。田地を請作する「負名」は他方で「刀禰」「田刀」として、「在地」の裁判、検察、土地境界(「地頭」)管理など(保立(「中世初期の国家と庄園制」)を集団的にになう「実用主義的行政能力」を担保していたのである(大山喬平「中世史研究の一視角」『日本中世農村史の研究』岩波書店。なお参照、梅村喬「平安時代公証制試論」『ヒストリア』一七三)。
 国衙荘園体制に実現された国家的土地所有の基本は、このような国司・在庁官人・刀禰という各レヴェルの集団間関係の組織にあったが、その集団的所有が領主制・地主制支配によって私的に媒介されて共同体支配に連接していたことはいうまでもない。そこにおける下人支配を中心とした社会的強制力なしには国衙荘園体制は機能しえなかったはずである。そして、領主制と私的諸契機を考える際には、そこで奈良平安時代の急速な社会経済的な開発過程がもたらした都市的な奢侈をふくめた「富」への欲求の肥大化が大きな役割を果たしたことを強調しなければならない。領主制支配が商品交換と交通・分業の拡大からうけた影響はきわめて大きかった。九世紀の富豪層において確認される領主制における動産所有の位置はいよいよ拡大したはずである。
 このような体制の中で、都市王権が都市貴族的な土地所有を代表する国土領有高権を保持したのである。ここでは、王権が呪術的な閉鎖性をもって土地所有の体系の枠外にあったことがむしろ都市貴族的領有を代表するにふさわしかった。都鄙をつなぐ人的諸関係の基軸が前述のような「侍」、陪臣制という型式をとっていたために、「家士制の糸は天皇にまで達する前に終わっていた」(ブロック『封建社会』②一六〇頁)。王権の位置は超越的なものであったが、逆にその下で分節化された国家の諸圏域・諸機能は、全体としてはそれなりの開放性や合理性を確保した。都市と文明のシステムは、その都市的欲望の肥大化・文明化を駆動力として、つねにそれなりの開放性・経済性・合理性を担保するのであるが、ここに依拠して閉鎖的な王権が社会の開明化と農本主義的な開発を主導する「新制」「徳政」のイデオロギー的中枢となるという逆説が機能したのである(保立「町の中世的展開と支配」前掲)。それが都市農村関係の集団的編成が、農村共同体上層の実用主義的行政能力に支えられた「一種の合理的関係」の色彩をもっていたことに対応するのはいうまでもない(大山喬平前掲論文)。
 院政期、この都市貴族的土地所有が直接に王権に集中する構造が形成された。私見では、それを主導したのは官省符庄を象徴する内印が、院領荘園における院の手印起請に推転したことにある(「中世初期の国家と庄園制」)。これを法的中枢として官省符庄をこえる規模と強大性をもった膨大な御願寺領や女院領の領域的な荘園体系が形成された。都市貴族の集団的所有は、それらの都市附属の宗教施設、後宮施設の所職と貢納としてひろく都市貴族に分配され、相互に複雑な関係をもった諸関係として再編された。そこで決定的であったのは、第一に国司制は知行国制の下に編成され、その下にはしばしば幾つかの国衙を統合する広域的支配の構造がうまれたこと、第二には、摂関家領を中心とする最上級貴族の荘園領有も、この院領荘園の中に部分的に吸収され、あるいはそれとの関係において位置づけられたことである。
 これは都市貴族の集団的所有の形態の転形と評価するべきことであり、そこでは、もちろん、王権は、大量の富が集中する首都を占拠し、臣下と官衙の奉仕によって生活空間を構成しているのであって、高権を代表する存在として、依然として、荘園領有体系の外部に存在するという性格は法的には維持されている。しかし、問題は、これが王家・王族内部の激しい矛盾・闘争の中で実現されたことであって、事柄の本質からして、それは国土高権と知行体系の軍事化、それ故に、王者の私的利害の表面化、権門貴族内部における激しい争い、そして武家貴族(軍事貴族)の宮廷貴族に対する優越という過程をともなっていた。こうして、律令貴族から荘園制的な権門貴族への移行において、一一世紀までにおける宮廷貴族の優位の時代が終了し、「院政時代」とそこにおける軍事貴族の優越化の時代が始まったのである。
 在地の行政システムとしての郡郷司・刀禰のシステムの内部から析出された「地頭」が、知行国制と広域的な権力編成の下で中央に直結するシステムとして再編されたのは、このような土地所有関係の軍事化に対応している。地頭は郡郷司刀禰がになっていた勧農と地頭の境界管理を継受し、一一世紀までの在地支配体制を転換させた。在地的な領主諸階層、「国内名士」の中央直結と武士化が、地頭制形成の原点となったのである。そして、このような郡郷司・刀禰のシステムの破壊・再編は、他方で、その下部構成を「古老」を頂点にいただく荘園村落に純化させたということになる(前掲「中世初期の国家と庄園制」)。
Ⅲ地方貴族と軍事貴族
1地方留住貴族の概念についてーー戸田の地方貴族範疇の意味
 一般に日本では貴族というと京都の御公家さん、公家貴族・宮廷貴族を思い浮かべることが多い。それは明治時代、徳川将軍家や大名家がれっきとした貴族であるということを忘れさせる方向で一般の歴史意識が再編成されたためである。王政復古のイデオロギー、そして四民平等のイデオロギーの下で、武家は貴族ではないという考え方が一般化した。「封建制」は文明の敵、文化の敵であって野蛮そのものという訳である。この考え方は一種の「封建制」批判ではあったが、実際上は、その下で、公家貴族と公家文化がある意味で復活した。もちろん、社会の近代化は不可避的なものであるから、公家文化は無傷のまま生き延びた訳ではないが、しかし、伝統的な文化の中で、この天皇制を支えていた公家文化の位置が曖昧なままになったことは、日本の歴史文化のあり方に大きな影響をあたえた。ブルジョア革命を経験しなかった日本近代が、貴族文化批判を完遂しなかったということは、歴史文化の継承関係の曖昧化を意味したのである。そして、それは日本のブルジョアが十分な文化性をもたなかったことと表裏の関係にあるということもできる。
 しかし、現在から考えてみれば、京都の公家貴族のみに貴族範疇を限定すべきではないことは明らかである。この点で、戸田芳実がしばしば使用した軍事貴族、地方貴族、あるいは地方軍事貴族という用語は重要な意味をもっている。そもそも平安時代における都市貴族という範疇は、その対極に地方貴族という範疇を生み出す形で成立した。つまり、前述のように、寛平年間の「留住」禁止令は、九世紀を通じて、都市の王族・貴族が地方社会に「留住」していく動向に対して発せられたものである。このような動向は、従来、常識的には、王族や貴族の「土着」として問題とされてきたが、戸田は、それが史料の上では「留住」と現れてくることに注目した(「領主的土地所有の先駆形態」、前掲『日本領主制成立史の研究』所収、「中世成立期の国家と農民」前掲『初期中世社会史の研究』など)。
 論文「荘園制支配と都市・農村関係」で述べたように、「留住」禁止令の中には、地方に留住するか、それとも都に帰って都市貴族としての途に戻るかを選択させるという側面があった。そして、実際、地方に留住することを選択した貴族はたしかに存在し、彼らと地方住民との血縁的・身分的な関係の中から、九・一〇世紀、地方貴族というべき存在の中核が形成された。戸田が、その延長線上で、国衙軍制論において「地方軍事貴族」という範疇を提示したことは、研究史上、決定的な意味をもっている(「国衙軍制の形成過程」、前掲『初期中世社会史の研究』)。晩年の戸田はさらに「国内名士」という地方名望家を表現する史料用語に注目し、軍事貴族のみでなく文官的な地方貴族の存在にも注目し、地方貴族範疇をさらに豊富化した(「王朝都市と荘園体制」、前掲『初期中世社会史の研究』)。私も、その驥尾にふして「高家」という言葉が地方社会で使用されていることを指摘したことがある(保立「中世初期の国家と庄園制」『日本史研究』三六七号、一九九三)。考えてみれば、有名な伊賀国の領主・藤原実遠の父、「諸司の労の五位にて京にしあるくもの」といわれた藤原清廉は、戸田が「都市貴族的な領主」と呼称しているように、文官的な国内名士として留住していた存在である。それに対して「当国猛者」といわれた子どもの実遠は武家的な「国内名士」「高家」であったということになる。
 このように、留住貴族(地方貴族)の内部には文官貴族と軍事貴族の双方が存在し、両者をふくんで、地方的な貴族社会、貴族的社交の世界が存在していたのである。その構成者としては、まず、一〇世紀の平将門のような存在が注目される。彼らは国衙と牒を通わすような特定の公的身分をもっていた。しかし、それのみでなく、たとえば『源氏物語』の明石入道のような「前司」たちがそこに新たに加わってきたし、西山も論じたようにさらにさまざまな存在が地方留住の道を新たに選択した(西山前掲論文)。地方貴族社会にはそのような存在を含め、多様な文武の有力者たちが存在するようになったのである。戸田が示唆するように、彼らが国内の所々に「館」をかまえて交流する社会が生まれ、その中で地方社会における陪臣身分、女房身分・侍身分も形成されたと思われる(保立「中世民衆のライフサイクル」『中世の女の一生』)。
2留住貴族と地域権力・「地域複合国家」
 都市貴族・地方貴族という概念は、それ自体としては一般的な概念であり、前近代史のどの段階でも適用できるが、平安時代の歴史的貴族範疇としては、以上のように、京都権門貴族、およびそれに対応する留住貴族という範疇を設定するべきであろう。平安時代の支配階級の構成は、このような留住貴族が首都の権門貴族に緩い形態で従属的に連合していることを本質としていた。首都の権門貴族は、首都への結集という居住形態を維持することによって、自己の活動形態を局限し、その支配をいわば都市機構に付着した間接的な形態にとどめていた。これに対して、平安時代の留住貴族は貴族の必須条件である世襲制や法的資格、あるいは宮廷に由来する奢侈的・都市的生活様式などを実現していないという意味で、ブロックの用語でいえば事実上の貴族であるにすぎなかった。彼らは、十全な意味での貴族の家柄としては成立しておらず、むしろ一定の名望、過去の曖昧な伝統、そして権門貴族への「侍」「陪臣」としての緩い従属と奉仕を、自己の尊貴性の標識としていたというべきであろう。逆に権門貴族の側からいえば、彼らが組織した「陪臣」的存在には都市住人型のほかに地方領主型が存在したのである。
 平安時代前半の支配層が、都市王権の下で、このように相対的に緩い結合をもった権門貴族・留住貴族から構成されていたということは、この時代が相対的に自由で非暴力的、文化的な側面、とくに地方社会にとっては「地方の時代」とでもいうべき自由な側面をもっていたことを示している。それはある意味で文明と社会的開発の積極的な側面を示しているということもできよう。私もそれを認めるのにやぶさかでない。しかし、それをあまりに美化することはできないだろう。私は、『今昔物語集』の「芋粥」の説話を分析したことがあるが(「説話芋粥と荘園制支配」『物語の中世』東京大学出版会、一九九八)、この説話からは、京都の権門貴族の下でしばしば法的には「侍」「下人」という地位にたった留住貴族は、自己の拠点にかえれば、それをまねした本格的な領主制的な支配と従属のシステムを形成し、従者・下人支配を展開したことが明らかとなる。地方社会において京都のコピーとして形成された世界の内部に形成された従者・下人支配は、体系的な支配の一環として存在していたのである。
 また、すでに一一世紀には源氏・平氏の武門の貴族の下で軍事的な都鄙ネットワークが形成されはじめたことも無視できない。尾張国郡司解文に表現されるような武士の残虐行為の中には、清和源氏の手兵が参加していた可能性が高いことは別に述べた通りである(保立『平安王朝』)。そして、「留住」という行為と行動様式は、地方社会に文官支配を根づかせるのではなく、結局、支配階級内部における軍事貴族の地位を高める方向で働いた。その典型というべきなのは、やはり伊勢平氏が留住した地方軍事貴族という立場から、白河院の時代における王統をめぐる政争の中で、中央宮廷に入りこんだことであろう(高橋昌明『清盛以前』)。満仲の時代から、武門の貴族の武力はまずは支配階級内部の王権をめぐる争いのために存在したが、院政期において、それがシステムとして動き出したこと、とくに保元・平治の乱の中で、王城における大規模な戦闘が展開し、それによってすべてが決着したことが重大であった。武門の貴族は、このような軍事的ネットワークの形成によって、従来の都鄙間の緩い連合を換骨奪胎して切り替えていった。
 また東国に留住した源義朝が文官的な留住領主の典型である熱田大宮司氏と結合して中央へでていく方向をとったことも興味深い。熱田大宮司家は、一方で三河大夫とか額田冠者などという字をもって地域で活躍するとともに、高階氏、高倉氏などと深い関係をもっていた(保立『義経の登場』)。高倉範季が源頼政の母を叔母にもち、源範頼を養子としているなどという関係はきわめて興味深い。これらの事例は留住貴族の世界から政治史が流動化したことをよく示している。平安時代は、地方貴族社会が一定の結集軸と構造をもちはじめ、より強固な国家体制の枠を構成していく時期でもあったといわなければならない。留住貴族がそこで作り出したネットワークの様相については、野口実「豪族的武士団」(「豪族的武士団の成立」『院政の展開と内乱』日本の時代史⑦)を参照されたい。
3王権と留住領主のネットワーク
 そのネットワークの基礎には、政治的な契機をふくんで広域的なネットワークを広げた特徴的な領主権力のあり方が存在していた。私は、このような地方留住貴族の基礎に存在した領主的土地所有のあり方を留住領主的土地所有と表現してみたいと思う。ここで領主的な土地所有というのは、単に経済的な範疇ではない。野口がいうように、「武士団」という政治組織それ自身の再検討、領主の家産制的な支配組織の政治組織としての側面の再検討が必要なのである。そもそも、かって河音能平は、「領主制という範疇は、まず厳密に政治史的範疇として理解されねばならない」とのべたことがあるが(「平安末期の在地領主制について」、前掲河音著書)、河音によれば、領主的土地所有とはまずは一種の階級的政治組織として現象するものであって、その原型は、一〇世紀の「不善の輩」のもっていた農奴主階級の「同類」組織に求めなければならないという(河音「日本封建国家の成立をめぐる二つの階級」、同河音著書)。それは戸田が強調した九世紀の「党」とも共通するものであろう(戸田「中世成立期の国家と農民」、『中世初期社会史の研究』東京大学出版会、一九九一)。この「党」あるいは「同類組織」のような存在が、平安時代後期の留住貴族の土地所有の政治組織にまでどのように展開してきたかという問題の系統的な検討が必要なのである(前掲『中世封建制成立史論』参照)。
 そのためには、研究史的には、石母田正が措定した平安時代の領主概念、つまり「私営田領主」から「豪族的領主層」にいたる領主概念の再検討から出発することがどうしても必要になる。この意味では、石母田ー戸田・河音らによって展開された平安時代の領主論・領主支配論は、依然として問題の焦点であり続けているのであって、領主論を過去の遺物のようにいう一部の見解は無責任な印象批評である。そして、以上に述べた全体の脈絡からいえば、平安時代史研究者としては、それは無責任という以上に、歴史学者にあるまじき研究史無視の表現であるというほかないのである。
おわりに
 以上、平安時代の国家と社会構成を特徴づけた都市王権、権門貴族を上層とする都市貴族、そして地方の留住貴族の範疇について検討してきた。もちろん、これはあくまでも荒いスケッチにとどまっており、今後、これらの範疇を相互に連関する一体性をもった歴史的範疇としてさらに綿密に仕上げることが必要であると考えている。しかし、この問題を検討するためには、事柄の性格からいって、大きく視野をひろげ、奈良時代から平安時代への移行過程を捉え直すとともに、平安末期の内乱の中で展開した国家と階級構成の転形の概略を試論的にでも議論することがどうしても必要になる。これは平安時代研究者としての私には手にあまる問題であるが、ともかくも、この間、諸所で述べたおおざっぱな見通しは、奈良時代、平安時代、鎌倉・室町時代の国家の歴史的な特徴を、律令制王国、王朝国家、武臣国家(旧王ー覇王体制)と表現することとすれば、それに対応する国家形態は民族複合国家、都市王権、地域複合国家と規定できるというものである。
 このうち、最後の「地域複合国家」論は、一九七九年の歴史学研究会大会における伊藤喜良「室町期の国家と東国」(のちに『中世国家と東国・奥羽』校倉書房、所収)、佐藤博信「戦国期における東国国家論の一視点」によって示されたものである。この歴史学研究会大会における問題提起の研究史的な画期性は、網野善彦がそれをうけて独自な「東国国家論」を展開したこともあって見逃されがちかもしれない。しかし、この大会で問題提起を行った市村高男が「相対的ながらも自立性・完結性かつ求心的性格を有する地域社会と、そこに形成された地域権力を如何に把握していくのか。すなわち単なる中間行政庁としては処理しえぬ『国家』的様相を帯びた地域権力、またそれに系譜を引く巨大な地域権力を中世国家との関係でどのように評価していくのか」などと問題を見通したのは、現在からみると、すこぶる正確なものであったといえるのではないだろうか。そして、このような議論の前提に、水林彪の「複合国家論」(「近世の法と国制研究序説」『国家法学会雑誌』、一九七七年)、それ故にその主要な前提である石母田の見解があったことはいうまでもない。
 とくに伊藤報告が展開した室町期国家=地域ブロック権力連合論は、石母田の見解を前提としつつも、地域国家が「従属的な地域政権」、いわば従属的な小国家として大国家の一部に統合されている構造をどうとらえるかという問題意識につらぬかれていた。私は、このような「地域複合国家」の構造を作り出した過程こそが、平安時代末期の内乱と戦争の時代であったと考えている。