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奈良時代の王権と社会構成ーー不比等皇親論

奈良時代の王権と社会構成

論文集『東亜王権と政治思想』

International Academic Forum,

Sovereignty and Political Thought in East Asian History

2007,9,20 於復旦大学
奈良時代の王権と社会構成
はじめに
 私の専門は日本史の平安時代から鎌倉時代にかけてですが、陶先生から奈良時代について論ぜよという御依頼でした。躊躇したのですが、シンポジウムの中で、奈良時代の王権論が必要があることがわかりましたので御引き受けすることにしました。ただ、あくまでも素人ですので、そういうものとして御聞きいただければ幸いです。
Ⅰ東アジアの中世と日本国家
(1)東アジアの「中世」
 日本の歴史学界においては、奈良時代は「古代」であるという見解が疑いなく通用しているが、目を東アジアに転ずれば、必ずしもそれは常識的な時代区分ではない。それをもっとも明瞭に述べているのは、中国史家の谷川道雄であって、日本では奈良時代を「古代」であるということが多い。しかし、先年発表した『黄金国家』(青木書店、二〇〇四)という著書で、私は日本の東洋史学界における、内藤湖南ー宮崎市定の見解、つまりユーラシア大陸全体の「中世」は西でローマ帝国、東で漢帝国が崩壊する二・三世紀から始まるという見解に賛成であるとした。帝国を破壊した側からいえば、中世は、ユーラシア大陸中央部における豊かな牧畜的・商業的条件にささえられた諸民族、つまりその東部における匈奴と、西部におけるゲルマン民族の活動によってはじまった。東では匈奴が漢帝国をおびやかし、匈奴と同じ民族であると考えられるフン族が西に走り、その動きに刺激されてゲルマン民族がローマ帝国に侵入を繰り返す。これが東西の古代帝国を崩壊させ、世界史的な中世の開始を告げたということになる。この時代、ユーラシア規模での国家間の交渉関係や遠隔地交易が活発化し、その中で、「東アジア世界」のような広域的な世界が形成される。このような世界史の波動というべきものはたしかに実在するもので、東アジアの歴史家がこれを共同して明らかにしていくことが重要ではないでしょうか。
(2)社会構成ーー首長制社会
 そもそも「古代・中世・近世・近現代」というような歴史の区分法はあくまでも便宜的なものであって、とくに、「原始」ということを考えると、縄文を原始というようにいってよいのかどうか。そこには実際上、相当程度発展した技術と文化が存在したのではないかと考えられるのであって、縄文時代、さらには弥生時代を「原始」と呼称することがどこまで妥当であるかは再検討せざるをえない問題を含んでいる。「原始と文明」を対置する方法も本当に正統であるかは疑問が残る。「原始」の内部には何段階もの時間がある。ひいてはエンゲルスの文明=国家という図式が現在の段階で適当かどうかという問題をふくむ。エンゲルスの趣旨は正しい。しかし、現実には、国家以前の文明というものをみとめるべきではないか。社会構成史史上における無階級社会。
 現在の段階で、この「原始と文明」の対置と「古代・中世・近世・近現代」という区分法を、用語としても追放してしまうことは現実的でない。ただし、確認しておくべきことは、この区分法は文明の区分法なのであって、現状で「古代」という用語を使用する以上、古代という時代区分を適用するためには国家の存在がどうしても必要であることである。。
 このような留保をおいた上でのことであるが、二・三世紀から「中世」であるというのは、この時代の日本は「原始」であったということになる。中国史における漢以前、世界史上の古代においては日本は「原始」であった。縄文弥生は世界史の客観的な時間の中においては「古代」の時代に属するが、それは「古代」以前、文明以前であることを重視して、「原始」であるというほかない。それとはことなって、二・三世紀以降は、日本列島においても確実に国家への胎動が開始されており、その意味では、この時期を原始に当てはめるのではなく、世界の文明史の時期区分の適用範囲に入ってきたという意味で、世界史上の中世に属するというべきであろう。つまり、日本には古代はなかった。
 普通、日本では「中世」=「封建制」という見方が一般的です。その上、私は日本には封建社会というべき時代は存在しなかった。マルクスは『資本論』で江戸時代の日本を封建制といったとされるが、それは『資本論』の誤読であるなどと発言しましたので、これは一種の常識はずれと感じられ、さらに、いわゆる「社会構成論」を放棄するものと受け止められたようです。たしかに、私はマルクスが「経済学批判序言」でのべた社会構成はあくまでも例示で、そのまま維持すべきものとは考えません。前近代の社会構成という場合に古代奴隷制社会、中世封建制社会のほかにも様々な類型があったと考えます。しかし、経済過程を究極的な基礎において社会構成を分析するという考え方自身は、すでにマルクスの名前によらずとも、ある意味で当然のことだと思います。
 今日の報告に即していえば、この時代の日本をどうとらえるかということになれば、集団的な所有を基礎にする社会構成が存在したということになります。ただ、現在の段階では、それをマルクスのアジア的生産様式という用語で表現することが適当とは思わないということです。こういう問題は、もう一度、前近代の社会構成なるものをどのように概念的に把握するかという基礎から問題を立て直さざるをえない種類の問題です。しかし、歴史家としては、それをまってはいられません。そこで、日本の学界では、ともかくもそれを首長制社会という言葉を使用して考えることが一般です。当面のところ、私もそれでよいのではないかと考えます。
 さて、私が日本史の研究を始めた頃には三・四世紀には日本国家は成立していたといわれていました。しかし、現在の日本の学界では、日本における階級的な社会と国家の成立を段階的に追跡する考え方が一般的です。その中で、国家の最終的な成立を全体として遅くみる考え方、つまり七世紀ととらえる見方が多くなりました。それ故に、世界史上の「中世」の日本を首長制社会と呼ぶとすると、相対的にフラットで非階級的な首長制社会と、成層化し複雑化した階級的な首長制社会の二段階を措定することになります。つまり、日本はこの世界史の「中世」の時代に非階級的な集団的社会構成から階級的敵対的な性格をもった集団的な社会構成に移行したということになります。そもそも世界史上の中世という時代の特徴は、周辺の首長制的社会を、最終的に文明の道にひきずりこんでいく時代、それを通じて「東アジア」世界というような広域的世界を作り出す時代であったといってよいのかもしれません。
(3)双系制社会論と首長・王権
 こういう国家の成立を遅くみる見方を決定したのは、吉田孝が主唱した双系制社会論です(『律令国家と古代の社会』岩波書店、一九八三)*1。双系制というのは、父系・母系の双方の関係が社会関係の中で対等な位置をもっているという意味で、むしろ東南アジアの人類学的な調査から導き出された概念です。非常に単純化していえば、いわゆる階級支配が男と女の対立を社会的に組織することを重要な根拠としていたとすると、家父長制が成立していない以上、階級社会ではないという訳です。この双系制論は、従来、母系制という観点から強調されていた論点を、より長期的なスパンで議論することを可能にしました。もちろん、それは人間の男女の身体的性差にもとづく性的分業が存在していたことを否定するものではありません。むしろ、そのような性差の社会的な意味は逆に強力であったはずですが、社会的権威という点では、男性権威と女性権威が相対的に平等であり、あるいは独自であり、それが社会的にも政治的にも一般化している社会構成というものを措定することが可能であるということができます。成層化し、複雑化した首長制社会において、この双系制的な社会編成が強力に存在し、首長権力の構成原理となっているということは十分にありえると思います。そして、この吉田の仕事をうけて、いわゆるフェミニズムの立場に立った歴史学的な分析がきわめて重要な事実を明らかにしつつあります。たとえば、義江明子は、卑弥呼を巫子王とし、男弟が政治的実権を握っていたという従来のイメージを強く批判し、この時期の首長は男女によって構成されており、政治・経済さらに軍事においても対等な関係をもっていたことを示しました(義江『作られた卑弥呼』ちくま新書、二〇〇五)。
 とくに最近注目されるのは、王権についても双系制の議論が活発化していることです。そもそも王権の継承が血縁によるようになること自身が六世紀であるというのが有力な見解です。たとえば「五世紀頃に王権継承に血縁原理が導入され、六世紀前半、欽明による政権統一を契機に血縁原理にもとづく王権継承法が確立した」(大平聡)、「(六世紀王権は)皇子宮をいとなむ同母集団内の長子(大兄)が継承資格者とする「大兄制」と世代内継承原理を導入することによって血統や世代を重視する方向に王権を転換した」(佐藤長門)(『日本の時代史2倭国と東アジア』鈴木靖民編、吉川弘文館)ということになります。これらの見解は、それ自体としては王権の構成原理に双系制を読み込むものではないが、的そして、私見によれば、この王位継承法の中に双系制原理があることは確実で、たとえば五〇七年に即位した継体天皇は、応神天皇の五世王と伝えられ、男系では王統の断絶があります。しかし、継体の妻は雄略の娘・春日大娘ですから、その母系によって継体の王位の連続性が承認されていると思われます*2。これを王位の簒奪者が政略的に前王の娘と婚したととらえるのではなく、社会的制度として実態的な意味があったという訳です。これらは女性と母が王位継承において大きな意義をもったこと、王権において同世代の異母兄弟姉妹の位置がどれだけ高かったかを物語るものといってよい訳でしょう。女性の首長、女性の王はけっして例外や臨時的な現象とみてはならないということになります。
 そもそも六世紀末の推古女帝から八世紀後半の称徳女帝までの約二〇〇年間、女帝は推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)ですから、八代六人となります。これに対して男帝は舒明・孝徳・天智・天武・文武・聖徳・淳仁の七人です。これは日本の国家が最終的に成立してくる段階でも、どれだけそれ以前の首長制社会の規定性が強かったかの証明だと思います。以上、茫漠としたことを申し上げましたが、今日の報告は、このような国家の段階論を前提にして奈良時代の王権について述べることにあります。ようするに日本は、この時代、東アジアの中世において文明化と階級社会の道に出発した後発国家であるということですが、後発であるということが必ずしも社会にとってマイナスのものではない。逆にいうと、日本列島の集団的社会構成の特徴は、世界史上の「中世」における発達した文明と技術を受け入れながら、長く国家以前の状態を維持したことにあると思います。そこでは双系制的な社会編成が強固なものとして形成され、一つの社会的・イデオロギー的な伝統になっています。そもそも我々の大先輩にあたる石母田正さんも、奈良時代まで日本の「未開性」を強調した歴史家です。しかし、それだけに奈良時代の政治社会論には「未開」から登場したばかりであるという複雑な問題がはらまれることになります。
Ⅱ奈良王権の血統
 奈良時代の王権を考える場合には、その王統がきわめて特殊なものであったことを確認せざるをえません。まずこの点にしぼって説明をし、私見を述べたいと思います。
(1)持統の位置と王家の近親婚
 奈良王朝の血統が、天武天皇の子孫の内で、持統天皇所生の草壁皇子の嫡系の血統にのみ限られたことはよく知られています。その起点は、六八六年九月、天武の没後、皇后持統が「称制」したと伝えられることです。持統は、それとほぼ同時に、自身の姉・大田皇女(早く死去)と天武の間に生まれた大津皇子を「謀叛」として処断して自己の天皇位を固めました。この行動は、一般には、子供の皇太子草壁皇子に王位を伝えようという趣旨に引きつけて理解されます。妻として母としての立場を優先して持統の行動は「中継ぎ」の役割に限定してとらえられるというのが、これまでの普通の考え方でした。しかし、最近の義江明子・仁藤敦史(ヒメヒコ制的なペア論なので、王権論としてはどうかー加藤)などの見解は、こういう「女帝=中継ぎ」論を批判して、王権の構成の双系制的伝統をうけて女帝が主体的な天皇として存在していたとします。持統は、すでに七月には、息子の草壁とともに、病臥中の天武から万機の委任をうけています。私も、これをうけて持統自身が、天武の皇后であると同時に天智の二女であるという地位を積極的に主張したものと考えます。
 端的にいえば、このような持統の血統的な位置こそが奈良時代政治史の出発点でした。壬申の乱の後の王族・貴族内部での「平和」をもたらす上でも、この持統の地位と行動は自然なものでした。天武の血統を引くと同時に、持統を通じて天智の血統を引くことが奈良王朝の正統の血統であるということになります。これは持統が作り出した伝統であり、女系を通じて前王の血統がつながるという意味でも男女双系の正統性という観念が生きていたのだと思います。
 しかし六八九年(持統三)に皇太子草壁が死去したことが奈良時代の政治史の展開の基礎条件となりました(二八歳)。まず、これをうけて六九〇年(持統四)正月に持統が正式に即位し、そして同じ七月に天武の長男(母は宗形君徳善)の高市皇子が太政大臣の地位につきます。高市は壬申の乱の軍事指揮者としての声望があり、持統即位とともに開始された藤原京造営のイニシアティヴをとった人物でしたから、持統の下で補佐の役割を果たすことができれば、これは一つの体制として続いたと思われます。しかし、高市は六九六年(持統一〇年)に死去してしまいました(四三歳)。
(2)文武天皇と藤原不比等
 私は、これをうけて、持統がどのように王権を構成していったかが、奈良時代政治史にとって決定的な意味をもったと考えます。六九七年(文武一)二月に草壁の息子の軽皇子が立太子し、八月、一五歳で即位しました。文武天皇です。この文武の即位には二つの見逃せない独自性がありました。第一は、これまでの天皇は壮年で即位するのが一般でしたから、一五歳での即位は例のない若さなことです。また第二は、文武が即位と同時に藤原不比等の娘・宮子を夫人、紀朝臣竈門娘と石川朝臣刀子娘を嬪(夫人よりランクのさがる妻)として迎えたことです。つまり持統は、文武に皇女も親王娘も妃として迎えさせないという姿勢を明示したのです。七世紀以前は皇女を妻とするというのがもっとも正統的な天皇の婚姻の形態でしたから、これも例がないことです。もちろん、文武は、天智・持統の孫の世代となりますから、文武の妻となる適齢期の皇女(天智・天武の娘)はすでにいなかった可能性もありますが、しかし、親王の娘がいなかったとは考えられません。
 これをどう評価するかの鍵は不比等にあります。不比等は高市の死去のしばらく後、文武の立太子の前に、右大臣以下、他の五人の重職者と並んで、最年少の三八歳で資人を与えられており、その段階で、持統の支持を獲得していたものと思われます。そして六九八年八月には「藤原朝臣賜わりし姓は、その子不比等をして承けしむべし」という法令がでて、不比等の位置が決定されます。普通、この時期は藤原不比等の権力の拡大の起点と評価されますが、しかし、以上のような経過は、すでにこの段階で文武と不比等の娘の間に皇太子を期待する路線が決定されていたと理解するほかありません。つまり草壁・文武と続く王統は藤原氏の女を皇后とし、そこに王統をつなぐという決定です。王統譜からいえば、これは不比等の権力の拡大の起点ではなく、この段階ですでに不比等が王権の「みうち」=准構成者の地位に到達していたということになります。その意味では、ここで奈良時代政治史の大枠が決まったというのが私見です。実際に、紀朝臣竈門娘と石川朝臣刀子娘は、七〇一年(大宝一)に首皇子(聖武)が誕生し、無事に成長が確認されると、七一三年(和銅六)に嬪号を削られます。これが嬪所生の男子が首皇子の競争者となることをふさぐものであったことはいうまでもありません。
(3)「不比等=皇親説」
 このような決定がここで行われた理由は何かが問題です。従来の見解は、持統の不比等に対する信頼一般で物事を処理してしまう嫌いがあります。しかし、私は、これを合理的に理解するためには、不比等の位置がきわめて特殊であったと理解するほかないと思います。つまり、不比等は、皇太子天智が鎌足に与えた女、車持公の娘、与志古娘からうまれた天智の皇胤であったという『大鏡』および『帝王編年記』(斉明)にみえる伝承を事実と考えるほかないと思います。不比等は、高市の代わりの位置にある持統の「弟」として、天智の権威をもにないつつ、持統の補佐の地位を認められたのではないでしょうか。多田一臣「鏡王女の贈答歌」(『ことばが拓く古代文学史』笠間書院、一九九九)は、「歴史家からはまったく根拠のない俗説として退けられるのが常だが」としつつ、鎌足が天皇から女性を下賜されたことを示すいくつかの傍証史料を点検し、その可能性が高いことを主張しています。私も多田のいうように、この伝承は無視すべきではないと考えます。不比等という名前もやはり無意味ではありません。ここでは、多田がかかげた史料のほかに、六九五年(持統九)に不比等とその妹で天武の女御であった五百重娘との間に不比等の四男・麻呂が誕生しているに注意したいと思います(『尊卑分脈』)。この不比等と異母妹の婚姻も、持統の下で、藤原氏と天皇の妃との尋常でない関係が許されていることを示すものでしょう。
 持統・元明は、不比等に兄弟としての行動を期待し、貴族もそれを容認しました。女帝が独自の役割をもつという前提の下で、その弟や叔父がそれを補佐する権能をもつという論理が、ここで働いたのではないでしょうか。不比等を、天智の男子として認められている「みうち」として扱うにあたって、王権の構成原理として続く双系制が大きな意味をもった。不比等は、卑弥呼を佐治する「男弟」というべき位置にあったともいえると思う。
 義江明子は支配層の結集・婚姻形態が双系制から父系に転換する際、「父系近親婚を繰り返すことが双系原理にそった継承・相続を行いつつ実質的に父系血統を確立し財の集積を実現していく最も有効で自然な方法」であるとしています(「系譜様式論からみた大王と氏」『日本史研究』四七四号)。天皇にとっては近親婚のみでなく、臣下への女性下賜によって臣下の家産を支配するという方法が存在したということになります。この父系近親婚は新羅王朝でもきわめて濃厚なものがあった訳ですが、この父系近親婚は双系制の最終段階に現れる成層化の過程でのもっとも重要な形態ということができるでしょうか。新羅王朝の近親婚と日本王権の近親婚との比較はきわめて重要な論点であろうと思います(なお不比等の特殊な位置については瀧浪貞子(『帝王聖武』131頁)にまとまった指摘があります)
(4)双系制と奈良時代政治史
 以降の政治史はいわば一本道です。それは(1)文武と宮子の間には聖武(七〇一年(大宝一)誕生)のほかには男子が生まれなかったこと、(2)持統が七〇二年に死去し、つづいて文武が七〇七年六月に二五歳で死去してしまったこと、(3)七〇七年七月、元明が即位し、七一四年(和銅七)六月に首皇子が立太子したこと、(4)元明が七一五年(霊亀一)に元正に譲位し、翌年には不比等の娘の光明子が妃として入内し、三年後には聖武との間に女子(阿部)をもうけたこと、そして(4)元正が七二四年(神亀一)に聖武に譲位したことなど、事態は藤原不比等の家系との間で王統を営むという既定路線通りに進みました。
 この成り行きの中で、文武が若くして死去したこと、文武と宮子の間には宮子の不可思議な健康不調のためもあって他の男子が生まれなかったことによって、王統をつぐ男子が聖武一人にしぼられることとなりました。さらに、七二七年(神亀四)年九月には、即位の三年後、聖武の妻の光明子から男子が産まれ、一一月には0歳で立太子しました。この皇太子が無事に成長すれば全体の政治史は大きく異なっていたはずですが、しかし、翌年九月には皇太子が死去してしまい、結局、聖武は藤原氏との間での男子をもうけることがありませんでした。これによって聖武の血統は光明子との間にもうけた女子阿倍内親王などの女性のみというきわめて厳しい結果となりました。
 しかし、この路線の選択自身は、前述のように、文武即位前後において持統が決定したものです。従来、これを「新しい直系原理」と名付けて、体系的な理解を示したのは河内祥輔でした(『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館、一九八六)。しかし、この路線はやはり男系という意味での直系主義とはいえません。男系的な直系原理とは、少なくとも王位継承の原理としては、母系には副次的な意味しかおかない原理をいうと思います。これは、母系をどの家族から受けるかという決定であり、双系制原理の変形というべきものです。これは、私見では母系を不比等を通じて天智から受けるという決定であったということになります。
 なお、河内は持統による路線決定を認めないため、その理由を説明しません。むしろ、直系原理の創出と実現を「文武と聖武の父子二代にわたる課題」であったとするのですが、それによって、この路線が偶然的な障害の中で徐々に選択せざるをえなかったものであるかのように事態を描き出しているように思います。
Ⅲ万世一系と東アジア
 以上、奈良時代初期の日本王権の家族形態、婚姻形態や血統は、この時代の東アジアにおいてきわめて独特のものであったと思います。最初に申し上げたように六世紀末から八世紀後半まで女帝と男帝の数が匹敵していること、王族・貴族をとわない近親婚の多さ、さらに王と臣下の間での女性交換の流行などにそれは表現されています。もちろん、皇帝や王の性的な放縦の事例ならば、いくらでも指摘することができますが、これはそういう問題ではなく、むしろ体制的な問題です。
 それは、おおざっぱにいえば、双系制の原理から家父長制が登場し、それが最終的に確定していく過程のことであったということになります。よく知られているように、天武の一〇人の皇子の子孫のうち、名前の残る人々のうち相当部分にあたる四〇人前後が、告発や内紛の中で(後に許されたものもふくめて)死刑・流刑に処され、断絶しました。私は、奈良時代の政治史が、このように厳しいものとなった理由は、それがこの社会編成の切り替えと同時に進行したことにあるのではないかと考えます。
 こういう中で、日本の王権と国家は、その自己認識と国家イデオロギーを作っていきました。それ故に、それは大変に複雑な過程であったはずです。普通、奈良時代の王権のイデオロギーとして、「万世一系」思想が強調されます。日本ではもっとも普通には天皇制のイメージは天智・天武の時代と奈良時代を素材にして作られますので、この時代の天皇は、それ以前のより神話的あるいは伝説的な天皇と平安時代以降の天皇をつなぐ位置にあります。奈良王朝は、その位置によって当然に万世一系を自覚し、代表する王統と考えられています。しかし、それは、いわれるほど単純なものではありません。王統譜の存在と万世一系という系譜意識の存在は異なる問題である。そこで、この「万世一系」イデオロギーについての私見を述べて報告を終えることにしたいと思います。
 この万世一系というイデオロギーは、少なくとも平安時代における理解では、(1)王位の神権制的な継承の永続性、(2)男系的な父子継承の永続性、(3)東アジアと対比した日本天皇制の永続性というだいたい三つの要素から構成されているといってよいと思います。しかし、以上のような実態からみると、それは事実を反映したものであるとは考えられません。
 この中で奈良王朝の開始の時に確実に存在していたのは(1)の王権の神権制的な永続性というイデオロギーのみではないでしょうか。しかも、そのイデオロギーもけっして古くからのものではなかったといわれます。このような分野はまったくの素人ですが、田村圓澄によれば「政治的君主としての天照大神を必要とし、また天照大神を奉祭する伊勢神宮を創建したのは、律令国家を構築した天武天皇・持統天皇であった」のですし、そもそも天照大神は持統天皇自身のイメージが二重化して完成したものであるといいます(『伊勢神宮の成立』吉川弘文館、一九九六)。『記紀』にまとめられた日本神話の体系には、当然、古来からの諸要素が含まれていたとしても、それが集成される中で大きく形を変えていったであろうことは確実です。
 (2)の男系的な父子継承の永続性という観念については、しばしば文武天皇の即位宣命が、その実在を示すものとして引用されます。「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中・今に至るまでに、天皇が御子のあれ座さむいや継々に、大八嶋国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に座す神の依し奉りし随に、この天津日嗣高御座の業と、現御神と大八嶋知らしめす倭根子天皇命云々」(『続日本紀』文武元年八月庚申条)という訳です。しかし、ここにはたしかに天皇が「天つ神の御子」として神話時代から永続しているという論理(1)は存在しますが、「天皇が御子のあれ座さむいや継々に」という文章に「男系的な王位の父子継承の永続性」を認定することはできません。そもそも、7世紀・8世紀で直線的な男系父子継承は一回もないというのが実態である。結果的に王位が父王から息男王に伝わった事例も舒明ー敏達、文武ー聖武、光仁ー桓武への継承三回があるのみというのが実態である。男系の王が父子系譜的に連続して長く続いたという意識は発生しようがありません。
 そして、第三の要素、つまり(3)東アジアと対比した日本天皇制の永続性、つまり東アジアでは王朝は交替するが、日本では交替せずに永続的に続いてきたという要素も、奈良時代には成立していなかったと思います。もちろん、(1)の神話的系譜の論理から他国とくらべて天皇の永続性を主張することはできますが、これは東アジア諸国の現実の国制を対比して、日本のみが長く王家の血筋が続いているという観念です。このような東アジアと日本の国制を比較する論理は、唐も新羅も全盛期にあった奈良時代前期には発生しようもなかった考え方であると思います。これも『黄金国家』などで述べたことですが、私見では、この論理は、むしろ唐と新羅の王朝の凋落が明らかになった九世紀に現れたものです。
 唐帝国崩壊に向かう東アジアの激動は日本国家の自己意識、国制イデオロギーに大きな影響をあたえました。それを典型的に示しているのが、九世紀なかばの天皇、仁明天皇の四十歳をいわう「算賀」の祝賀会に捧げられた長歌の次の一節です。
「御世御世に相承襲て、皇ごとに現人神と成り給ひいませば、四方の国、隣の皇は百嗣に継ぐというとも、何にてか等しくあらむ。(中略)帝の御世、万代に重ね飾りて、栄えさせたてまつらむ」
ここで、隣国の王は「百嗣」であるというのは、天命をうけた王の家系は百代にもわたって続くという東アジアの政治思想、いわゆる「百王思想」を意味しますが、それに対して日本の天皇は「現人神」であって、さらに「万代」も続くという訳です。これが日本の「国歌・君が代」の原型、『古今和歌集』(賀部、詠み人知らず)の「わが君は千世に八千世にさゞれ石の巌となりて苔のむすまで」という和歌と同じ論理を語っていることはいうまでもありません。
 私は、万世一系イデオロギーは奈良時代初頭から存在していたものではなく、むしろ九世紀以降、東アジアの他の王朝が崩壊したという事実と対比して根づいていったイデオロギーではないかと考えています。10世紀末にはじめて宋に渡った凋然は宋皇帝に日本を紹介するにあたって「国王一姓伝継」などと万世一系イデオロギーを述べ、それを聞いた宋の皇帝が「この島夷、すなわち世祚はるかに久しく、その臣また継襲してたえず、これけだし古の道なり」などと羨ましがったという(『宋史』491)。また後三条による院政開始の直前に宋にわたった成尋は、日本の王統譜を神代から数え上げ、国王はみな「神の氏をうく」としている(『参天台五台山記』)。万世一系イデオロギーは、このように対外的に主張され、それが対内的にはね返って国家権威を語るイデオロギーとして確定するという構造を最初からもっていたのではないだろうか。万世一系イデオロギーの本質は(3)にあり、それを中軸として(1)(2)が凝縮していったということになります。
 私は、首長制的な特徴を残した成立したばかりの王朝にとって、奈良時代の政治史はきわめて厳しいものであったに相違ありませんが、彼等は、隣国の王朝の崩壊をみて、自信を取り戻したということではないかと思うのです。少なくとも、万世一系イデオロギーは、このような時代状況の中で生まれたものであることを確認し、それを相対化することが必要であると考えます。
 最後になりますが、法制史の石井紫郎氏は、最近、日本でまた売れ出した新渡戸稲造の『武士道』を、すでに明治時代に明瞭に批判していたBasil Hall Chamberlainの”Things Japanese”(一八九〇)を紹介しました("Globalisation Regionalisation and National Policy Systems" Proceedings of the Second Anglo-Japanese Academy, 7-11 January 2006)。実は、この批判の部分は日本で出版された際に、検閲によって削除された”Abdication (of Emperors)"、”Bushido”、"History and Mythology"、"Mikado"の部分に含まれているのですが、私が注目したのは次の一節です。それを引用して報告を終えたいと思います。
 Love of country seemed likely to yield to humble bowing down before foreign models. Officialdom not unnaturally took fright at this abdication of national individualism. Evidently something must be done to turn the tide. Accordingly, patriotic sentiment was appealed to through the throne, whose hoary antiquity had ever been a source of pride to Japanese literati, who loved to dwell on the contrast between Japan's unique line of absolute monarchs and the short-lived dynasties of China. Shintoh, a primitive nature cult, which had fallen into discredit was taken out of its cupboard and dusted. The common people, it is true, continued to place their affection on Buddhism. The popular festivals were Buddhist, Buddhist also the temples where they buried their dead. The governing class determined to change all this. They insisted on the Shintoh doctrine that the Mikado descends in direct succession from the native Goddess o the Sun, and that he himself is a living God on earth who justly claims the absolute fealty of his subjects.