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2017年11月
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書評、服藤早苗編『女と子どもの王朝史』

 本書は第一部「後宮」、第二部「儀礼」、第三部「縁」の三部に編成されている。
 まず、おのおのの内容を紹介すると、第一部は東海林亜矢子「女房女官饗禄ーー後宮の中の皇后」、鈴木織恵「平安中期の女房・中宮宣旨ーー補任を中心として」、栗山圭子「篤子内親王ーー二つの家を生きた女性」、高松百香「平安貴族社会における院号定ーー女院号の決定過程とその議論」の四本の論文と平野理恵子のコラム「美福門院得子」からなる。
 東海林論文は、新后と男性官人の新たな関係を宣言する立后大饗に対し、新后と女官の公的関係を宣言するものとして立后後初入内時の女房女官饗禄が存在したことを論証したものである。後宮というのは男女間関係の制度であるとともに女性間の階層関係の組織化であることはいうまでもない。この儀式は院政期以前に廃絶し、婚姻入内時の給禄に変わるが、これは女御もしくは女御宣下前の給禄であるから君臣関係の設定とはいえないという。重要なのは、この儀式の成立時期が穏子の時であり、それに先行するものとして女官朝賀が想定されていることであって、これによって奈良時代からの後宮制度の通史的な変化を描き出したことは大きな意味がある。
 鈴木論文は、皇后につかえた女房・中宮宣旨について、中宮宣旨は、九世紀末に初見し、本来、立后当日に補任される女房三役、宣旨・御匣殿別当・内侍のうちの筆頭に位置する女房であったが、姉妹や乳母が補任されたり、非出仕でも親の身分の顕貴性に意味をおくなどの事情によって、一一世紀後半には筆頭女房の地位が御匣殿別当に交替したことを論証している。精細な論文であり、さらに院政期への展望や、「宣旨」という名前の由来などの論点が提示されており、その全体の稔りを予測させる内容となっている。
 栗山論文は、白河院の妹で、白河の息子の堀河の中宮となった篤子内親王に関する本格的な研究で、この時期の宮廷史の研究にとって大きな収穫である。とくに篤子の入内の背景に摂関家の師実を軸として、白河院、そして後三条母・陽明門院をむすぶ提携構想があったという指摘は、王権内部の「平和」の女縁による調停パターンを明らかにしたものとして重要で、ここからすると堀河危篤時に発生した政治危機、つまり師通をふくんで発生した輔仁待望の世論の強まりは、この「平和」路線の破綻という平安期宮廷政治によくあるパターンの一つだったのではないかとも想像される。篤子が摂関家の養女として行動したこと、その荘園領有の詳細の考察なども重要な貢献である。
 高松氏は、しばらく以前、上東門院故実が院政の展開においてもった意味を論じ、王権内部における「男院」「女院」の共通性という視角をもたらしたが、この論文では、ぎゃくに女院の独自性を、死後称号の本質をもつ院号の生前付与という点にもとめ、その由緒・先例となった東三条院から内乱期に至る女院「院号定」に現れるジェンダーイデオロギーを詳細に跡づけている。伝統なるものの形成過程のしつこさと、矮小・卑俗な実態を示し、天皇制的伝統を相対化するのにどのような作業が必要かをよく示している。
 第二部「儀礼」は、永島朋子「鬘装飾にみる社会秩序ーー『貞観儀式』にみる鬘装飾を中心に」、服藤「三日夜餅の成立と変容ーー平安王朝貴族の婚姻儀礼」、野秋多賀子「著衣始の色ーー平安貴族の子ども観」の三本の論文からなる。
 永島論文は、『貞観儀式』を素材として、これまで本格的な論究のなかった神事に際して男女が装着する鬘について、その通性的・性差的様相の双方に踏み込んで詳細に追求した論文であり、儀式における集団性の表示という、鬘の意義を明示することに成功している。私には金装の押鬘が五位以上の通貴男性に共通する身分標識であるという指摘が興味深かった。このような仕事が進展することによって、現在、ほとんどみるべき業績のない平安時代身分論を可視的標識のレヴェルに深化させ、奈良時代との構成差の議論が可能となるとよいと思う。なお、永島が引いている折口信夫の「はちまきの話」は平安時代以降の身分論に有形・無形の影響をあたえたものであるが、永島の仕事からは、折口の感性的で、しかし「神秘的」に飛躍する議論を追跡しなおし、具体的なイメージを対置できる可能性を感じた。
 服藤論文は、氏が近年取り組んでいる婚姻儀礼論(「女性の性が他者に管理される象徴的儀礼」)の一環であって、三日夜餅の史料を総覧し、実際に三日目に餅が食され、同時に露顕が行われる段階から、一一世紀末以降、初渡御の段階ですべての儀式を行ってしまうようになる過程を追跡している。すべての史料を網羅的に集成していく服藤氏らしい論文であるが、院政期にかけて儀礼の形式化が進展する様相を示すものとして興味深い。「餅」自身の意味については結論が留保されているが、私は、直接には「力餅」の意味が大きいのではないかと考える。
 野秋論文は、著衣始の産衣の黄・青・白・緑などの色が、「生まれた日の母の色」をとるという原則の下に、誕生日の十干によって決まっていることを論証し、その他産衣に生年月日時を記す風習を点検して、誕生儀礼における陰陽道・宿曜道の影響の大きさを論じている。誕生儀礼論についての貴重な貢献であるが、結論が『古事類苑』の諸史料によって鎌倉期以降の産衣の色についての概説に流れていることは残念であり、たとえばすでに言及のある襁褓の問題をふくめ、平安時代の枠内で誕生儀礼それ自身を立体的に復元する作業が試みられてよいように思う(なお保立「中世の子供の養育と主人権」(『中世の女の一生』)は、「襁褓=おむつ」としたが、阿部猛「『襁褓』は『おむつ』か」(『日本社会史研究』五二号、二〇〇一年八月)によって、襁褓は新生児を四肢ごと長い布でくるんで拘束する衣服であることが示されている)。
 第三部「縁」は、倉田実「平安期の移動する子どもたちーー『源氏物語』の養子縁組」、星倭文子「鎌倉時代の婚姻と離婚ーー『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」、小嶋菜温子「王朝の家と鏡ーーかぐや姫・落窪の姫君の結婚から」の三本の論文と小菅直子のコラム「乳母と御乳人ーーその声とぬくもり」からなる。
 まず倉田論文は、「光源氏家」を素材とした養子関係の分析で、養子関係を表示すると考えられる語彙の分析から平安時代の養子制度を論じている。文学研究の立場から養子の心意について継子関係との相違に着目した点は、継子いじめ論との関係でも興味深かった。栗山論文でも論じられているが、養女・養子によって形成される人為的な諸関係は院政期にかけて大きな意味をもっており、とくに『源氏物語』にその心意の原型を求めることができるという指摘は重要であろう。『源氏物語』が院政期宮廷の範型となったということはどういうことなのか、再び考えさせられる。
 星論文はおもに『明月記』の嘉禄年間の記事を素材として、この時期の婚姻形態や婚姻決定権について論じている。京都と鎌倉、公家と武家相互の婚姻の記事を詳細に点検したきわめて意味の大きな仕事である。注目された史料は多く、どれも興味深いものであるので、詳細は直接に論文について検討されたい。
 かって角田文衛は、鎌倉期公家社会に平家の縁戚の流れが強く影響していることを示したが(『平家後抄』)、この星の仕事をあわせると、宮廷貴族・軍事貴族の相互関係の転換が鎌倉期公家社会の再編成をもたらした動的過程にもっと注目しなけれなならないと感じる。このきわめて政治的な婚姻諸関係をみていると、支配層の階級的結集形態が院政期を経過することによってどう転換したかという問題や、鎌倉初期政治史の背後に存在した通婚関係の意味などにどうしても興味を引かれてしまう。もちろん、論文の基本的な論点は、鎌倉期の婚姻形態と婚姻決定権を論じることにあり、婚姻形態論が支配層の結集形態論と等置できない問題領域であることは了解するが、従来の図式を、鎌倉初期の視点から見直そうという著者の意図からすると、自身が摘出した婚姻の政治性の問題をどう方法的に位置づけるかは大きな問題であるように思う。
 小嶋菜温子「王朝の家と鏡」は『落窪物語』を素材として京宅の地券が娘財としての鏡とともに母系を通じて伝領されることの意味を見事に描き出している。今後、伝領論における母系・女系の問題を考える上で、具体的な女財論がさらに必要であると考えるが、それにしても興味を引かれたのは、他の論文もあわせると相当数の「枕」「枕元」という言葉が登場することであった。これは枕箱・枕刀のセット、それ故にいわゆる「三種の神器」の性格論にもつながるような問題であると思う。
 最後に小菅直子のコラム「乳母と御乳人」も、実質上の授乳者としての「乳人」について論じた興味深いものである。乳人とは、乳母の一人というよりも、階層が低い別個の存在であり、子どもと生活をともにする表舞台にでない存在であるという。乳母論の基本的な前提にふれる問題提起であり、後宮社会・宮廷社会の女性間階層性という問題を論じる上でも興味深い貢献であると思う。
 以上、簡単な紹介からもわかるように、本書は、編者の服藤氏が牽引してきた女性史の視角からみた平安時代宮廷社会論が、崩すことのできない業績の体系を作りつつあることを示している。高群逸枝以来の経過が確実な地点に到達したことは明かである。その中で、日本文学・平安文学研究との学際的な関係が進展していることも特筆されよう。この点で服藤氏の役割が大きかったこともよく知られている。
 そもそも本書は、一九九八年に発足した「平安研究会」を母胎に成立したものである。構成員の研究生活環境の変化もあって、本書の刊行をもって研究会はひとまず終焉をむかえるというが、「あとがき」からは、その共同関係が維持されている様子も伝わってくる。同じく「あとがき」によれば、この研究会の会場は服藤氏の御自宅であり、その実態は「服藤私塾」といいえるものであるという。「私塾」とはいっても、服藤氏の立場や人柄から明かなように、この研究会は開かれた場で展開したものであり、それが平安時代史研究に大きな成果をもたらしたことに目をみはる。
 女性史研究にとって宮廷論はあくまでもその一分野に過ぎないものであろうが、しかし、宮廷というものが後宮なしには機能しないものである以上、女性史研究が切り開くべき分野はきわめて広大である。服藤氏は「序にかえて」で、「儀式の場をはなれて政治を別に考えることはできない」「儀式と政治は不可分であった」などという言葉が、平安時代史研究者の間で繰り返されている現状に対して、「しかし、儀式や政治を遂行する朝廷の場に、まちがいなくいたはずの女たちの姿は、多くの研究成果のなかにはさほど見受けられない」と苦言を呈している。私などにいわせれば、「儀式と政治は不可分であった」という立言は、研究史の実際をみれば、政治史を動的に把握せずに図式的な把握に自己満足していることの弁解論理と居直りにすぎないので、服藤氏の言い方はやわらかすぎるように思う。しかし、いずれにせよ、平安時代の宮廷社会史や制度史、知識学が、本書の示したようなラディカルな女性史的分析によって牽引される必要は高く、その展開は平安時代の研究を開かれたものとし、方法的にも稔りあるものにするに違いない。
 とくに、本書の何カ所かで強調されているように、平安時代はジェンダーをふくむ社会構造の古典範型が形成された時代であるから、この時代を詳細に解明することは日本社会批判の一つの歴史的基準を作ることになる。本書をふくむ「叢書・文化学の越境」という森話社のシリーズには、『王朝の権力と表象』『生育儀礼の歴史と文化』『ケガレの文化史』と、三冊の服藤氏編(あるいは共編)の論集があるが、本書は、記念論集であるだけに、扱っている問題が多様で、その分、平安時代の宮廷社会と後宮についての研究の将来と方法論、そしてその意味を考える機会とするにふさわしいと思う。
 とはいっても、本書は研究史的あるいは方法的な議論を提出することを課題としていないので、書評の仕方に迷う。そこで私が、かって編者の服藤氏からうけた批判について、現在の段階で考えていることを述べるという形で責めをふさぐことを許されたい。
 実は、以前、『平安王朝』という新書を書いた時、服藤さんの批判に虚をつかれたことがある。その趣旨は服藤氏の著書『平安王朝社会のジェンダー』第二部第二章「王権と国母」に記されているが、「王位継承に直接関わる人間関係や政治力を考察するだけでは、宮廷政治史を解明できても王の肉体をめぐる認識過程や王権の本質的変容過程はクリアーにならない」という正論であり、拙著は総じて「男の物語」に過ぎないという厳しいものであった。さらに困ったのは、私が、『平安王朝』に掲げた参考文献リストに服藤さんの著書『平安時代の女と男』を『平安時代の男と女』と「誤記」してしまい、服藤さんに、煮え切らない弁解を詰められて、思い出しても赤面ものであるが、「だって僕は男だもの」と弁解して嘲笑されたことである。
 しかし、当時の私は、そもそも、平安政治史は「男の物語」とはいっても、実は限りなく矮小なものであることを示して、曖昧なタブーを嘲笑・挑発することを目的としていたつもりで、思い出してみると、「そこまでいわなくてもいいじゃないか」と思っていたような記憶がある。その背景には、「王の最高の憲法的行為は彼の性行為であ」(『ヘーゲル国法論批判』)り、それによって「血」に対する呪物崇拝が創出されるというマルクスの理屈があり、私は、それだけで平安国家を論じる基本枠組みは十分であると考えていたのである。
 以下は、そういう感じ方の反省という意味で御読みいただきたいが、それが変わってきたのは、右の服藤氏の論文「王権と国母」の趣旨にもとづいて、面とむかって二度目の批判をうけた、ある研究会での経験の後のことであった。そもそも国母についての系統的な追求の成功こそが、服藤氏の王権論の最大の優位点であり、本書の高松論文でも前提にされているように、研究史的にも揺るぎない位置をもっている。おもに奈良時代以前を素材とした女帝論、後宮論は服藤氏の国母論によって、その歴史的結果を担保されている関係にあり、これによって女性史的視角からの宮廷社会論、後宮論は軌道にのったように思う。
 もちろん、拙著でも摂関時代が兄弟争いの時代であった裏側で、王母が王権内部の「平和と善意」を希求し、子弟間矛盾の調停者として重要な位置にいたことは指摘したつもりであり、言葉としては九世紀の「国母」橘嘉智子から院政期の「院・王母」体制へという筋は引いた積もりであった。しかし、服藤氏がいうように国母論のキーとなる上東門院彰子への言及は拙著では体系性を欠き、それが「摂関時代」から「院政時代」への移行の理解の上でも、平安時代王権構造の理解の上でも重大な欠陥であることは認めざるをえなかった。
 服藤氏は、矮小な「男の物語」のみで王権を語るのではなく、国母権力や女房文学をも徹底的に相対化するためには、「女の物語」(この言葉は服藤氏は使われていないが)も語られねばならないとする。天皇の性を管理し、性欲をコントロールする必要のために知的水準の高い女性たちが構成するサロンが作られ、今につながる女たちの蹉跌としての「母性」が「女らしさ」の一要素として作り上げられたと明言する(論文「王権と国母」おわりに)。その意味で、服藤氏の議論はよりラディカルなもので、筋が通っている。
 最近、私はマルクスの『ヘーゲル国法論批判』が王権内部の性関係を双方向的に捉えたものではなく、やはりヨーロッパ的な王権単婚制を前提とした法学批判であることをふまえなければならないとも考えるようになった。少なくとも、それを繰り返すだけでは、実際上、東アジア的な王権の性的放縦の形態=後宮に組織される女性の側の視座を欠く結果となり、男性視点を相対化できないという結果をもたらす。必要なのはG・バタイユのいう宗教的狂熱とエロティシズムの結合を媒介とするようなヨーロッパスタイルではなく、ハーレム・後宮が直接に支配層の結集形態の中軸となるような機構としてのエロティシズム論であるのかもしれない。東アジア的な多妻性交空間としてのハーレム・後宮が王権内部に組織されたことの規定性、それが王権にあたえたモメンタムを捉えるためには、一度十分な理論的考察を加えるべきなのであろう。さきほどの赤面の経験にそくしていえば、歴史学者は自己の性の経験に依拠するのみでなく、少なくとも研究者としては、男性性・女性性の双方を感性的にも理解して、ある意味で両性具有にならなければならないというようにも考える。
 堀場清子氏は、『アメリカの裏窓』というエッセイで、一年半にわたるアメリカでの生活から帰ってきて日本は「多妻制」の社会だということを実感したという。この多妻制の文化制度とイデオロギーは、おそらく奈良時代以前ではなく、平安時代に枠組みが形成されたもので、他の国制的・支配的イデオロギーと同様、日本国家の中国的な「文明化」の表現であったのではないだろうか。(蔵人所の男社会を場として形成された宦官の疑似形態としての男色)このような諸問題をふくめて、ジェンダーの歴史理論が担うべき論点も広大なものがあると思う。
 以上、本来、書評としては、もっと具体的な批判を述べるか、まとまった整理と課題の提示を行うべきであったろうが、それは私にはやや手に余り、単なる感想を述べるということになってしまったことを申し訳ないと思う。最後に、各執筆者の方々の健筆を期待するとともに、編者の服藤さんには、重ねて、たいへんに失礼をしましたというお詫びを述べたい。
                      (叢書・文化学の越境13、森話社、二九〇〇円)