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情報と記憶(原論的に)

情報と記憶
  はじめに
 編集委員会によって本稿に課せられた課題は、「人間と情報、そして記憶・記録との関わりの歩みを、口承の世界から文字などの記録の世界への移行、伝達・記録行為にしめる記録史料の位置などを中心に考察する。さらには電子情報社会における”記録”あるいは”記録史料”がもつ意味について展望する」というものであった。
 この「情報と記憶」という、相互に関係する問題は、近年、大きな関心を集めているが、それは言語論・意味論といういかにも現代思想らしい問題関心を背景にもっている。人間の言語活動がコミュニケーションと内的な認知・思考の二つの側面をもっているとすれば、情報は前者に、記憶は後者にふかく関わっている。私は、この二つの問題の関連を理論的に論ずるのに成功した仕事を知らないが、たしかに言語論や認識論にとって「情報と記憶」というテーマは重要な問題であるに違いない。しかし、他方、「情報と記憶」という問題がクローズアップされる状況には、より現実的な問題、つまりアーカイヴズの不在と歴史的記憶の脆弱性という日本社会の状況が露呈している。これは職業としての歴史学に従事するものにとっては、より深刻に受け止めるべき問題である。
 そして、何よりも歴史学にとって大事なことは、この情報と記憶という問題が、すでに歴史学自身によって、自己の学問の意味や役割に関わる形で提出されており、またそれに関わる具体的な研究も着実に進展しつつあることである。まず「情報」については、早く、一九九一年一一月の『歴史学研究』(六二五号)の特集「情報と歴史学」の序言が、「情報とその組織は、いわば社会と国家の神経系と神経中枢ともいいうるものであり、この歴史学的分析がもしも成功するならば、対象とする社会と国家の構造が社会構成論的な意味での把握よりも、より一層具体的で段階的な形で把握されることになる」と述べている*1。そして、その時より以降、情報論に関わる研究は切れ目なく続き、とくに鎌倉期以降の時代で着実な成果をあげている*2。しかし、さまざまな研究を前にしてふり返ってみると、方法論的な議論は、鎌倉室町時代史の西岡芳文の開拓的な試論*3、そして江戸時代史の塚本学の博物学的知識を基礎とする独自な追求*4をのぞいてはきわめて不十分な状態が続いている。近年、歴史学の分野においてもデータベースの構築に大きなエネルギーが注がれるようになり、また社会的にも、将来社会と情報革命の問題が緊要な問題となっているわりには、方法的な議論がやや低調であることは認めざるをえないだろう。
 それに対して、「記憶」についての議論で先行しているのは、近現代史研究であり、その議論は活発で有用である*5。ただ、興味深いのは、その議論の前提に、フランシス・アミーリア・イエイツの『記憶術』*6やジャック・ル・ゴフ『歴史と記憶』*7などの前近代史を素材としたヨーロッパ歴史学の議論があることであって、これは日本史研究では前近代史の側での議論がまだ十分ではないことを際だたせる結果となっている。しかし、この「記憶」の問題について全体として重要なのは、一九九六年に発行された『記録史料の管理と文書館』*8が、文書管理史に関する最初の通史を提供するとともに、日本におけるアーカイヴズの営みをふまえた初めての本格的提言を行ったことであろう。同書がアーキヴィストの立場から、アーカイヴズの役割を「社会的な記憶装置」と規定したことは、日本の現代歴史学の全体にとってもきわめて大きな事件であった。この提言を私なりに説明すれば、アーカイヴズは、もっとも広い意味では社会的分業の体系の特殊な一環を直接に担う組織体・組織活動の形態そのものである。それは、文化・科学のみでなく、社会経済活動全般に直接につながる、より広汎な裾野を有する組織・活動である。日本の近代国家が博物館などの歴史展示装置は設置しながら、アーカイヴズを無視したことは、日本社会の特質に深く関係している。歴史学とアーカイヴズ、歴史学者とアーキヴィストの役割と使命は異なっているが、しかし、歴史学の社会的役割の主要な一つが、この「社会的記憶」を保持する広い意味でのアーカイヴズに奉仕し、過去の情報を、その不可分の母胎としての歴史的環境とともに保守することにあることは明らかである。
 このようにふり返ってみると、現在、歴史学に関係する人々にとって、「情報と記憶」という問題をどうとらえるかは、その立場や方法の相違をもっとも際だたせる問題の一つになっているように思われる。自身の専攻の関係からどうしても前近代史の発想に偏ったものとなることをお許しいただきたいが、本稿では、以上のような観点から、従来の研究の紹介もかねて、問題の所在をさぐってみることとしたい。
1情報と記憶とは何かー神経系統・精神労働・文字
神経系統とネットワーク
 情報と記憶という問題の検討にあたって必要なのは、まずはコミュニケーション論の観点であろう。そこで議論を、右の『歴史学研究』の特集で使用された「神経系統」という用語の説明から始めることとする。この用語が日本の歴史学の中で使用されるようになったのは、おそらく一九七一年の歴史学研究会大会で戸田芳実が比叡山の悪僧・神人たちが、庄園経営や日吉上分米の「借上」などをになう様子を「全山門領支配体系の中枢神経組織と脈管組織の作動状況」と説明して以降のことである*9。戸田はその趣旨を「かって西田文化史学で都鄙の交流といっていた、つまり人的関係を軸に物の関係も理解しようとする」ことにあると説明しているが、さらに理論的には「生産物なり、生産物の交換を中心にした、あるいはそれをもたらす交通を問題にした」概念を「脈管組織」というとすると、「脈管組織から生み出されると同時に、それを動かすものは、まさに神経系統である」という説明も付け加えている。
 戸田が、この用語をどこから発想したかは不明であるが、先行の用例として重要なのは、まずヘーゲルが、『法の哲学』において「国家」を「おのれのうちで有機的に組織された神経組織そのもの」と表現し、神経組織を家族や市民社会などを構成素とする社会有機体を精神にまとめ上げる「理性的なものの威力」であると論じていることである(『法の哲学』§262)。マルクスがライン新聞の論説において「特殊を普遍とむすびつけている目にみえない神経繊維、すなわち、なんの場合もそうであるが、国家にあっても物質的な諸部分を精神ある一つの全体の生きた肢節とならせている神経繊維」*10と述べたのは、このヘーゲルの用語に影響されたものである可能性がある。マルクスは、ここで神経繊維という用語を、社会構成を「精神ある一つの全体」に編成する様相を表現するキイタームとして使用している。またジェームス・スチュアートが『経済学原理』(第一篇第十二章)において「活気を近代社会のあらゆる関節、あらゆる脈管、あらゆる神経系統ともいうべきものに漲らせる」と述べているのも注目される。
 要するに、神経系統という用語は、社会的分業における「物質的な諸部分」=自然的・社会的な物質代謝(Stoffwechsel、Metabolism)の組織の上に、網の目のように張りめぐらされ、それらを相互に連関させるコミュニケーション、意識交通過程の組織を意味しているといえようか。社会的物質代謝とは自然と人間の間での物質代謝(自然的物質代謝)ではなく、それとは区別された社会内部での物質の移動・交換を意味するが、神経系統とは、この社会的物質代謝をになう物質的な組織、交通や運輸の脈管組織そのものではなく、戸田の言い方を借りれば、まさにそれを動かすものという意味での情報回路であるということになる。
 それ故に、この神経系統という言葉は、後にも貨幣論との関係でみるようにきわめて広い意味の言葉である。しかし、前近代社会では、戸田が比叡山の悪僧・神人をその実態をなすものとし、また「(そのような)人的関係を軸に物の関係も理解しよう」としているように、神経系統においては、人間自身がメッセンジャーであり、またメディアそれ自身でさえある。そこでは人間が人間に面接し、しばしば物を媒介することなく、自身の口と身体をメディアとしてメッセージが伝達される。つまり神経系統は人間を結節とする情報ネットワークなのである。そして、このネットワークは共通の文化圏、信仰圏、あるいは通婚圏など、多かれ少なかれ、一定の恒常性・閉鎖性をもった身分的な色彩をもっている。神人・寄人が黄衣などの特定の身分的標識をもっていたことはよく知られているが、ネットワークは、かならずこのような身分特権を外被として存在していた。
記憶・記録・文字ーー社会的分業と精神労働
 この神経系統=コミュニケーションの組織は、二重の性格をもっている*11。その第一の側面は音声・記号・文字などによる意識の一回的な伝達と相互関係である。しかし、ラテン語のコムニカーレが「交わり共有しあうこと」を意味することが示すように、コミュニケーションには、感情や意識、経験の共有という第二の側面がある。そして、この「共有」とは伝達された情報の共有であると同時に、その情報が指示(identify)する物件・事柄・事件などについての認知とイメージの共有でもある。つまり、コミュニケーションの神経系統は、人々の意識が情報を共有する場、いわば人間を素材とする結節点をふくんでいるのである。そして、伝達された情報は、そのような結節点に吸収され、蓄積されて記憶の実態をなすことになる。記憶とは、天武天皇の舎人・稗田阿礼が帝紀・旧辞を「誦習」したことを想起するまでもなく、人間の脳に刻みつけられた記録、無文字の記録であるが、これがネットワークの結節点に結晶する。この情報と記憶の結節が、諸個人の共同性・集団性を前提としていることはいうまでもない。この意味で、記憶は一方で個人的なもの、個人の認識と生活に密着したものであると同時に、最初から社会的なコミュニケーションと共同体その他の集団的な関係の産物なのである。
 社会的分業の発展は、前近代社会においても、このようなコミュニケーション過程・意識交通過程の独自化を進め、それを統括する精神的労働を肉体労働から分離・対立して自立化させる。問題はそれが情報と記憶の文字化に関係していることである。「文字」とはそれ自体としては、言語が書面の上に固定化されたものといえるであろうが、その機能については、佐藤進一が、日本における漢字の使用が鏡銘・碑銘・墓誌銘などに始まることに注目し、文字のもつ本来的な機能が「物」を同定する「銘」のような同定標識(identify)にあったとしていることに注目したい*12。「数字」が「一対一対応」の記号化であることを参考として、佐藤の見解を敷衍すれば、文字の機能は、「文字」と「物」の対応関係を設定することによって、「物」を管理することにあるといってよいだろう。文字化が「文字」が情報や記憶(さらに認識自身)を管理する手段に転化するのは、いわばこのような「文字」ー「物」の管理が人間の意識に跳ね返ってきた結果であると考えたい。
 なお、ここで佐藤の「文書」の定義変更の意義を確認しておくと、たとえば日本古文書学の基礎を作った黒板勝美は、受け取り者をもたず、他者に対する効力をもたない備忘書類を「記録」といい、それをさらに「日にかけて記し行く」「日記」と「或事件にかけて記せる」「実録」に区分し*13、それ以来、文書というと「差し出し者と受け取り者の間に授受されるもの」*14、つまり本稿の用語では伝達情報であるという定義が一般的であった。これに対して、佐藤は「文書のもつ同定記録としての性格」に注意を喚起し、言葉の本来の意味での文書の二重の意味を明示したのである。こうして、佐藤は「文書」と「記録」の概念を拡張し、それによって、コミュニケーションが意思関係の外部に存在する「事物」の世界を前提として存在していることを明示した。このようにして史料論の内部に、社会の物質的諸部分、物質代謝の客観的世界への通路を措定することによってこそ、「情報と記憶」の分析を、他の研究諸分野と意識的に連携させるが可能になるのである。
 さて、精神的労働の直接の労働対象は、文字によって記された書面・書類である。というよりも文字の成立こそが精神的労働の自立を可能としたのであって、文字(数字をふくむ)を読み書く能力によって、「情報・記憶」を管理する労働が独自な姿態をとることが可能となったのである。伝達情報が文字化されることによってはじめてコミュニケーション過程を労働対象とすることが可能となり、その蓄積としての記憶(無文字の記録)も、書面(文字記録)によって強化されることになる。もちろん、無文字の情報がすべて文字情報になり、また無文字の記録(記憶)がすべて文字的な記録に置き換えられるわけではない。むしろ文字による情報伝達と記録の充実が、無文字の情報伝達や無文字の記憶をも強化したというのがコミュニケーションの発展の実際である。その意味では無文字から文字へという単線的な変化を想定すべきではなく、どのような社会においても無文字と文字の併存が問題となるのである。しかし、精神労働の自立それ自体は本質的に文字化された意識=書面の操作にあることも明らかだろう。
 このような精神労働の自立は、社会的分業の構造を強く規定する。そこでは一般に諸個人の労働のもつ精神的側面と肉体的側面が分裂する。その中で、労働の生産諸力が発展すればするほど、諸個人の労働は特定の職業領域に拘束され、部分的な生理的労働、肉体労働に特殊化・偏形化されてしまい、それに対して、労働における精神的諸要素は、彼ら自身からは疎遠な存在として疎外される。人々は、都市では都市労働の部分機能にのみ特化した「都市動物」、農村では農村労働の部分機能に特化した「農村動物」として固定化した枠組みの中におかれる。人々は、多かれ少なかれ、特殊な生業の技能を伝習し、その世界には、経験的かつ職業的に認められたもののみがはいることができるようになる。人々は、村落にせよ、職人集団にせよ、種々の自然発生的に分化された生産諸部門を互いに謎にするようなヴェールの中に入る。こうして、人々は人間一般としてでなく、その特殊な職業を通じてのみ社会と関係しあう。そこでは、彼が第一次的に属する社会としての身分的な集団が、彼と社会全体との関係を規制する枠組みとして彼の上にのしかかってくる。そして、彼らから疎外された精神的労働の諸要素は、諸個人が所属する集団自身や主人たちが差配するものとしてあらわれるのである。諸個人と社会との関係は、首長、親方、主人たちの指揮管理と代表職務によって媒介され、こうして、一般的な社会的諸機能、指揮諸機能などの精神的労働が一極に集中し、その対極において、人々は、精神労働から疎外されることになる。
 そして、このような精神的労働の場は、人口・経済・物流の中心としての都市に集約される。都市は、精神的労働と、その労働対象としての書面・記録を蓄積する場であって、そのようなものとして、つねに国家と支配諸機関の中心的な所在地であり、そこには租税その他の剰余生産物が集中し、さらに科学・技術・文化の中心としてあらわれる。これが精神労働と肉体労働の対立の最大の表現としての都市と農村の対立であって、いわば都市は神経系統における情報の伝達と蓄積・記録の巨大な結節点となるのである。日本社会が、律令制都城以来、このような都市を一貫して肥大化させる運動の下にあり、江戸時代においては、この対立が極点まで推し進められたことはよく知られている*15。
コミュニケーションの構造と文字
 以上、原理的な確認に終始したが、問題は、こういう諸集団の間がヴェールに包まれているような社会的分業の構造においては、一般に、村落や身分的な諸集団内部のコミュニケーションと、それらの集団と集団の間の空隙地帯を伝わる社会的なコミュニケーションのあり方が大きく異なってくることである。フランスの歴史家マルク・ブロックは、「非常に一般的な影響の流れが遠くに及ぶことを助長し、同時に近隣社会の相互関係の定形化をさまたげていた」「コミュニケーションの条件」について、「人々は、やむをえない事情があって、かなり長途の旅を企てることを恐れなかったとしても(中略)、短距離の往来を頻繁に繰り返すことを躊躇した」、「どんな土地の一角もほとんどすべて、社会全体を貫くブラウン運動のような情報との何らかの接触を保っていた。反対に、近接する二集落の間では接触はもっと希であり、敢えて言うならば、人々は今日と比べて無限に疎遠であった」と述べている*16。村落と村落の「あいだ」の世界に注目した近年の酒井紀美の仕事は、いわゆる風聞によって意外なほど早く、かつ遠くまで噂話や情報が伝達されたこと、逆に村落と村落の閉鎖性が重大な意味をもっていたことなどを示しており、全体としてブロックの見解に対応するものとなっている*17。
 たしかに前近代社会においては、一般に個別の集団の凝集性が高い場合に、逆に集団間の空隙を流れる情報に加速度があたえられるような二重の構造が存在する場合が多い。社会の閉鎖性のみを強調することは正しくないが、他方、社会の開放性・移動性を過度に強調し、それと凝集性・自給性がもっぱら対立するものであるかのように論ずる傾向にも問題が多い。歴史的社会の条件によって、閉鎖性にも開放性にもおのおの独自な特徴があたえられるのであって、もし前近代史研究において、コミュニケーションの歴史学というものがあるとすれば、そこでは、ブロックが見事に描写した、このような特徴的な二重構造を解明することが最大の課題となるに違いない。
 この集団内部と集団間のコミュニケーションの本質的な相異は各々が媒介する分業形態の相異によっている。それは、集団内部の分業が相対的に同一性をもつのに対し、たとえば古代社会における商業民族があたかもエピクロスが想定したような世界と世界の空隙地帯にすんでいたといわれるように、村落と村落、集団と集団の間の空隙地帯は商業・採取加工業・交通などにかかわる特殊な社会的分業の複合となる。その結果、村落的集団内部の情報伝達は内部的な閉鎖性をもち、近隣村落とは相対的に無縁であるのに対して、遠隔地から訪れる移動・遍歴を生業とする人々は、しばしばブロックのいうブラウン運動のように、地域社会のすみずみにまで情報を伝達するのである。また、後にもみるように、前近代社会においては、集団内部の情報伝達はしばしば無文字的であるが、集団間の情報伝達はしばしば文字的なそれとなる。文字情報は、商品の発生と同様に、集団・ムラがその外部世界と接触する地点において必然化された。また、文字はなによりも支配権力による指示や命令のためのものだったのであって、このような文字の利用が村落と村落、集団と集団の間を流れる情報の速度を増大させたことは確実である。
2交通と情報の諸形態
 以上のように「情報と記憶」という問題の一般的構造をとらえた上で、次に情報伝達行為にそくして、無文字の局面から文字の局面への情報形態の諸類型について検討することにしたい。
(1)生活情報と無文字情報
 まず、情報は生活情報と社会的な情報にわけることができるだろう。生活情報とは、日常生活の中での家族や近隣者などの集団内部の情報交換の過程であって、前近代社会におけるすべての情報伝達を量的に計測すれば、この生活情報の位置はきわめて高い。もちろん、生活情報の中にも社会的情報が入り込んでくるから、生活情報と社会的情報は内容的に重なってくるのであるが、しかし、その場合、社会的情報は集団内部の日常的な情報交換の一部に転化している。
 前近代おいては、この生活情報の中で無文字情報のもつ位置はきわめて高い。たとえば、福田アジオは*18、民俗情報を「制度的な情報伝達」と「非制度的な情報伝達」とを区別しているが、どちらの場合もその基礎には無文字的な情報があるという。まず前者の「制度的な情報伝達」の事例としては、「太鼓櫓」「半鐘」「板木」「提灯」「松明」「焚き火」などの音と光による情報伝達、「ジョウヅカイ(定使)」「イエツギ(家継ぎ)」などの口頭伝達があるという。たとえば「太鼓櫓」とは、事前に周知されている約束にしたがった太鼓の打ち方によって各種の連絡を行うものである。また「定使」とは特定の家筋のものがでることもあるが、しばしば任期と給付つきで選出され、ほぼ決まったコースを巡回して音声による連絡・告知を行うシステムである。福田は、これらが江戸時代には一般的であったとしている。この「定使」という民俗事例がはたして庄園の「定使」についても適用できるかどうかは不明としても、戦国時代の史料にあらわれる「小歩」などという在地の職掌は、これに類似したものであろう。現代社会以前の集団内部の情報が、一般にこのような非文字的な形態をとることは明らかである。
 まな後者の「非制度的な」情報については、福田は風聞・見聞・噂話などの形をとった民俗事例を報告している。そこではしばしば芸能民その他の外来者・旅人がもたらす情報も、噂話としてムラの中に入り込んでくるという。その実態を考えるにあたっては、前述の酒井の仕事がより具体的な参考になるだろう。ただ、福田の見解で注意を引くのは、噂話が口承文芸化したものがいわゆる「世間話」であるという民俗学のシェーマであって、たしかに『御伽草子』などは、このような「世間話」の世界がおそくも室町時代には存在していたと考えないと理解できないのではないだろうか。 
経済情報と技術情報
 このような生活情報の上におおいかぶさってくる社会的情報は、経済的な情報とイデオロギー的な情報とに二大別される。問題は、前近代社会においては、経済的情報においても、無文字の位置が高いことであって、とくに経済的情報のうちでも自然的・技術的な情報は基本的に無文字的である。この自然的・技術的情報とは、人間が自然との物質代謝の中で獲得する「物」情報、基本的には生産的な活動を基礎として獲得される博物学的な情報であるといってよい。それは地理的・地質的・土壌的・生態的・動物的・植物的などの情報を含むが、その中心にはそれらの「物」の有用性に関する効用情報(利用価値情報)がある。商品交換の場合において人々が百科全書的な「商品学」「商品知識」をもっているというのは、あくまでも一つの擬制であるが、前近代社会では社会的な物質代謝の中におかれた「物」の種類は少なく、それだけに、人々は、その生産地、生産の季節、有用性などを熟知している。ここでは効用情報はつねに経済の動きの「副情報」として実際に周知されている。前近代社会の人々にとっては、「物」の効用情報はほとんど既知のものである。
 そして自然科学的な情報と効用情報をつなぐ位置にあり、実際上決定的な意味をもつのが技術情報である。われわれは、現代の商品がどのような技術によって作られているのかをほとんど認知することはできないが、前近代の人々は、この流通する「物」自身の中に技術の仕組みやその巧拙を弁別している。しかし、この技術情報のほとんどは、経験知として、小規模な集団や家族的経営の内部で親から子に伝達され、文字にあらわされることはない。商工民の場合でも、技術の習得が、家族あるいは血縁擬制や同職組合的な業界の中での遍歴と奉公において、秘伝として無文字的に伝達されるのは同じである。それらは、身分的な閉鎖性をもった技能情報であって、道具の中に対象化されることはあっても、原則として文字となることはない。その知識化は、基本的には商品への対象化の中から購買者によって価値情報の副次的な部分として読みとられるという形を基本としており、それが意味をもつのは、基本的には異なった技術圏あるいはまったく異なった文明圏において(ここでは技術情報は飛翔する)に限られる。
 もちろん、すでに二〇年ほど前に編集された『技術の社会史』の全冊*19が示すように、江戸時代社会においては、さまざまな技術情報が、文字化・絵画化されるようになっている。江戸時代は「農書の時代」「仕法の時代」というべき時代であることは事実である。しかし、それはやはり一部は家伝・秘伝として作成されたものであり、また一部は役人の間で技術の管理のために作成されたものであって、実際の技術情報自身を伝習・伝達するために作成されたものではない。それは後にみる社会の文書主義化の極点が技術の局面にあらわれたというべきものである。そして、むしろ実際の技術の習得、技術情報の流通において重要なのは、戦国期から江戸時代にかけて、道具の発達と個性化が圧倒的に進展したことであろう。江戸時代に入ると、職人の使用する道具のみでなく、農民の使用する道具の種類が増大していることは明らかであって、これによる技術の発展・平準化と技術情報の客体化こそをみなければならないであろう。
価値情報と貨幣=社会的象形文字
 経済情報の世界を文字化していくのは、より根本的には商品経済の影響である。つまり、とくに東アジアの鋳貨は、人々にとってもっとも日常的な文字情報として、社会の文字化の象徴であった。一般にも商品の価格情報、価値情報を表現する貨幣は、商品交換の副情報として物的な形式をもった言語、「社会的象形文字」(『資本論』第一章第四節)である。商品は貨幣という記号性・文字性をもった特別の商品との関係を設定されることによって、自己の言葉を語り出す。貨幣は、このような物的な言語であることによって、「社会的な事物の神経」の経済的な担い手として、ラテン語では「万物の神経」と表現される。コミュニケーションの神経系統は、これによって経済的にささえられるのである。もちろん、前近代社会における社会的な物質代謝、社会的交換の形態を商品交換に限定することはできないが、しかし、貨幣が価値尺度として存在することによって、貸借や贈与などのその他の経済的諸関係も貨幣関係による強い規定性をうけることになる。
 そして、このような商品交換にかかわって「口承の世界から文字の世界への移行」を考える場合に逸することができないのは藁しべ長者の説話(『今昔物語集』巻一六ー二八)であろう。周知のように、それは福神として著名な長谷寺の観音に詣でた男が、門前で拾った藁しべを「柑子ー布ー馬ー田地」と交換して長者となったという説話である。その中枢は、貨幣商品としての「布」が京都九条の田地一町に変わり、しかもその「券をしたため取る」ことによって話しが落着していることにある。つまり何にでも自己の姿を変型することができるという貨幣の価値は、最後には「券」ー土地の文書という形で実現する。「貨幣」という象形文字は、「券」という契約を表現する証拠文書によって確定するのである。
 柳田国男の見解を援用して述べたように*20、この説話は「幸運なる交換」を素材にしたさまざまな民話の原型とすべきものであるが、もちろん、現実にはそのような「幸運なる交換」は、存在しない。商品経済は、一般に共同体と共同体の間の人々が相互に他人である空間の中で発展するのであって、このような民話は、その見知らぬ空間における交換と契約に対する心意と幻想を語っているのである。そして、文字的な形態をとったコミュニケーションは、まずこのような共同体間の世界に流れ込んでくるのであって、その意味でも経済の商品化と社会の文字化は対応する過程であった。
 この観点からみれば、貨幣の本格的な流通が軌道にのった鎌倉時代半ば以降が、地域社会における文字利用と識字率の向上の時期であったことも了解しやすい。そして、その中で目指された「幸運な交換」は、市場価格の季節的・地域的相異を利用した前期資本の活動である。すでに鎌倉時代からそのような資本の活動は広範囲に確認することができ、室町時代になれば、各地の「和市」の情報は荘園支配にとって必須の情報となっている。そして、これに対応して、「直法注文」「値札」「割符」などの価値情報を記したさまざまな文書、算用状、有価証券が残されるようになる。さらに江戸時代になれば商業関係の文書の総量は膨大なものに上ることはいうまでもない。
 もちろん、日本の前近代国家は、より古くから、その行政法や財政法の中に、市場と価格に対する支配、価値情報を統括するシステムを鍛え上げていた。つまり、律令制段階から価法の統制は行われており、別にみたように*21、平安・鎌倉時代における沽価法は銭の価法のみでなく、布・米などの交換基準に対する規定をふくみ、さらに度量衡それ自体に対する規定に連動していた。室町・戦国時代の撰銭令などもそれを受けたものであるが、その伝統が、江戸時代の幕藩制国家において極点に達し、さまざまな市場法、価格法、貨幣法によって商品経済が強力に統制されていたことはいうまでもない。
 もちろん、価値情報の動きは、本質的には国家の統制をこえるものである。それは国家の行政行為の外側に存在する自律性をもっている。その上、価値情報はつねにスピードが勝負であって、たとえば廻船問屋の利益の相当部分は、価格の隔地間差額を利用する点にあったが、そのためには船頭による「相場」の確実・迅速な通信を仲介する各港湾の商人・問屋集団の間のネットワークが必要であったという*22。民俗学の報告によれば、江戸時代にも、大阪堂島の米相場は、ごくわずかな時間で滋賀県の彦根や長浜にまで伝えられた。それは大阪仲買店の櫓の上から、丘や山上の中継地を通って、黒白の大旗の信号で瞬時に遠方まで届いた。たとえば嘉永六年のペリー来航による米相場の高騰の情報も、このような方法で迅速に通信されたというのである*23。前述のように商品経済は文字の利用の発展と相即するのではあるが、貨幣は文字ではあっても本質的には記号であって、こうして、無文字の記号と市場法則にまで戻ってしまえば、国家の統括を容易に抜け出すことになるのである。
イデオロギー情報と通信システム
 経済的な情報の上には、さらに、政治・法・行政・文化などにかかわる情報が存在する。これらはしばしば絡み合い、不可分の形で存在していることからも、その全体をイデオロギー情報と呼ぶことが適当であろう。つまり、これらの情報は、イデオロギー、特定の思想や「知識」を媒介として成立している点に特徴がある。それゆえに、イデオロギー情報の全体像は、次章で「記憶ー記録ー知識」という系列を概観した後に立ち戻らねばならない。しかし、イデオロギー情報は、イデオロギーそのものではなく、政治・法・文化などの実態それ自身から生まれるものである。それ故に、イデオロギーの情報論的研究と法制史・政治史・文化史などの基礎的研究は、ほとんど重なってくる。
 実際、これまでの個別研究をみれば明らかなように、法的情報、政治情報、行政的情報などについては文書の機能論的研究自身が、その執行・伝達形態の解明になっているし、また文化とはいわば文化情報そのものなのである。そして、これらの分析において、情報過程の媒介となる文書の史料論的な分析が重要であることもすでに自明のこととなっている。たとえば、山田邦明による戦国大名間の「書状」の史料論的研究にもとづく研究*24、宮地正人による「風説留」を素材にした幕末期の政治情報の研究*25などは、その点で成功をおさめており、それによって、支配的階層や中間層の間でのネットワークの具体例がさまざまな形で発掘されつつある。
 このような研究はそれが歴史学の基礎的諸分野の研究そのものであるだけに、必然的に進展するであろう。その中では、イデオロギー的情報の伝達が、しばしば宗教的・文化的などの特徴的な様相をとったネットワークを通じて伝達される様相もすでに検討対象となっている。それ故に、ここではこれらのイデオロギー的情報の通信が、個別のネットワークではなく、公的な通信システム、情報伝達システムをも前提としていることを強調しておくにとどめたい。たとえば、最近、九世紀の人民教化の高札の現物が発掘されて我々を驚かせたが*26、このような高札は、市庭制札などとして鎌倉期以降も掲示されつづけ、江戸時代には各町村に「高札場」が設けられていた。こういう形で、支配と管理の情報は、社会の隅々にまで伝達され、反作用していったのであって、その中では、私的なネットワーク的な通信も、現実には、宿駅制、関制、伝馬や飛脚制度などの公的な通信システムを特権的に利用する場合がしばしばなのである。鎌倉・室町期の問題に即していえば、御家人役の相当部分が駅制の維持をふくむ何らかの意味で交通に関わる所役であったことの意味は大きい*27。
3記憶と記録の諸形態
 前述のように、コミュニケーション=神経系統の結節点には、人間の記憶と記録が結晶化している。その場合、記憶は無文字の情報、記録は文字情報という形をとっていることはいうまでもない。しかし、情報が記憶と記録に転換する際には、無文字の情報が記録され、文字情報が記憶されるという位置転換が起きる。そのような位置転換をふくみながら、記憶と記録は、現実の生活過程・行動過程の中で機能することを通じて、諸個人の認識の全体構造の基礎となることになる。
 大きくみて、記憶と記録は、生活情報、経済的情報、イデオロギー的情報などに対応した姿をもっているといってよい。生活情報が生活記憶に対応し、経済情報は経済的な記憶や記録に対応し、イデオロギー的情報は、イデオロギー的な記憶や記録に対応する。しかし、問題は、このような区別・分類の仕方にあるのではなく、記憶と記録が、情報を結晶化・固定化することを通じて、社会関係を固定化・システム化する機能をもつことである。つまり、生活ー経済的諸関係ーイデオロギー的諸関係という社会関係は、情報諸形態が、生活的、経済的、イデオロギー的な記憶または記録に結晶化し、社会的意識を定形化し、固定することなしには、客観的な構造をもつことはできないのである。
記憶・記録と文書主義
 無文字的な生活情報が前近代社会においてもっとも普遍的な情報形態であったのと同様、無文字的な生活記憶が、前近代社会において、もっとも普遍的なものであったことは明らかである。それは人間の身体にかかわる家族・親族関係の記憶、村落や大地の位置と豊穣度に関する記憶など自然的記憶においては、とくに顕著であったろう。現在のところ、歴史学はそのような前近代の生活記憶の詳細を論ずる手段をもっていないように思うが、たとえばヨーロッパでも村落の境界を確認する儀礼の中に、その上に子供を立たせてひっぱだいて年をとった後まで記憶させておくというやり方があったという。日本でも村落の境界を証言するのは「古老」の記憶であり、古くから、それにもとづいて行列をなして境界を歩き回り、傍示をたてたり、炭などを埋め込むことによって境界が確認された。そういう堺相論の決着の仕方は、江戸時代にまで残っており、「行逢裁免」という堺相論の民俗では、ある山中の境界地点まで双方の行列のどちらが早く到達するかで相論が決せられたという*28。
 すでに一〇世紀のころ、伊賀国の荘園の境を古老が「相伝え」ていたというが、同じ伊賀国で、古老の証言が地域の歴史に関しても求められたことは、有名な伊賀国の領主、藤原実遠の経営の実像(「郡々に田屋を立てしめ、佃を宛作るところなり」)が「古老」の証言で伝えられていることにも知られる*29。こうして「古老」の記憶は人間の身体的な自然や大地の記憶のみでなく、社会的な事柄に関する「故実」となっていく*30。
 このような無文字的な記憶が「記録」として文字化される契機は、まずは前述のような共同体と共同体の境界に流通する商品の副情報として流通する文字情報にある。しかし、同時に重要なのは、他の共同体との関係において、集団の記憶自身が文字化していく契機であろう。上記の堺相論との関係でいえば、たとえば傍示札に文字が書かれることからすると、山林相論の際に領有の主張の表現として行われる札懸けの木札も銘入りであったに違いない。野札・茅札などの入会の権利を示す木札も鎌倉時代から発給されている。このような文字の同定標識(identify)としての機能は、共同体や集団の内部ではなく、本来その外部との関係で必要となるといってよい。そして、実際に、平安時代から在地で作成され、村落文書の中枢をしめるという「日記」という形態の文書は*31、納物・年貢あるいは土地それ自体などの「目録日記」などの場合も、事件の発生記録としての「事発日記」などの場合も、ほとんどの場合、地域の対外的関係に関する記録であった。「日記」とは、佐藤の用語を使用すれば、特定の事柄に関する記憶の同定記録を意味する古文書の形式であって、ここに「記憶から記録」への移行の典型的な例をみることができる。
 商品交換にせよ、相論その他の諸関係にせよ、共同体間の世界あるいは集団の対外関係を起点とする記憶の記録化は、なかば自生的な下からの諸関係であるが、しかし、情報の書面化、文字記録の拡大は、やはり社会的な支配と管理の契機、上からの契機が大きかった。このような支配の形態・手段としての文書の使用を文書主義ということにすると、日本における文書主義は、ふかく地域社会に浸透し、強力な伝統となっていた。日本の文書主義は律令制を連続的に継受する形で、平安時代に地域的な公証制度を基礎として形を整え*32、鎌倉中期以降は、識字率の上昇を前提に、村落の支配層自身が、村落行事の実務や庄園支配のための文書の相当部分を自己自身で作成するようになっている*33。そして、江戸時代になれば、読み書き能力は国家支配と社会生活の前提であり、きわめて大量の文書が作成された。鎌倉期以降、在村の僧侶・有識者などが「雇筆」としてその能力を提供しているが、江戸時代になると文書情報(宗門改帳その他の在地記録)の流通と作成にかかわる「筆工」(代書屋)などが一つの生業として存在するようにまでなっているのである*34。
 とくに重要なのは、そこでは租税年貢の徴収・上納が、村落と集団自身によって支えられていることである。このようないわゆる「村請」の体制は、室町期から始まっているが、それは一般的にいえば、地主的な諸階層が、一定の「自治」を保証され、公権力に対して村落の利害を代表する体制であり、それは同時に地主的階層の私的利害と特権の公認の体制であった。もちろん、このような社会の集団的代表制と私的特権付与が混合したシステムは、通時代的に存在するものである。しかし、こうして地域社会にまで浸透した日本的な文書主義は、支配関係と村落その他の諸集団の相互関係の全体を文書により処理するという、いわば社会関係それ自身の文書化ともいうべき事態に最大の特徴がある。日本の「村請」制において特殊なのは、それが膨大な文書記録の体制によって支えられ、とても封建制という用語で表現するべきでないような精緻な集団主義的支配が組み上げられたことである。村落の代表者は、そのなかで文書記録を維持し、それによって、権力や隣接集団と村落の諸関係、諸契約をまもるという精神労働・管理労働の担い手として、自己の地位を確保する。江戸時代の村落においてそれを象徴しているのは、屋敷前の「高札場」の管理と検地帳の所持とが、名主の身分特権の表示となっていたという事例であろう*35。彼らは権力の末端に位置して、土地領有の秩序を支え、こうして、年貢租税の収奪は、在地の側からの管理労働を文書主義的に組織することによって、社会的分業と土地領有の経済関係の一部にかたく組み込まれるのである。
記録と礼・恭順の秩序
 このような文書主義の中においても、もちろん、文書に記録された契約事項は、人々の権利を保証する側面をもっている。この意味で、江戸時代の文書主義に関して「文書は階級性をもつと同時に階級性を越えるものでもある。多くの文書は、年貢割付状の場合と同じく、支配のための機能を果たしたのち、村に保存されることによって今度は逆に村の権利や村人の生活を守る役割を担ってきたのである」*36といわれるのは正しい。その中で支配文書が記録に転化し、大量の文書が保存されてきたのであって、その意味を過小評価することはできない。しかし、逆にいえば人々は、その権利を享受するためには、文書を閲覧し、その理を受け入れつつ折衝することが必要なのであって、それは文書の「理」「先例」に対する恭順を組織する上で、公権力に大きな便宜をあたえた。そして、そのような「恭順」の心理が一般化する中で、文書によって保証された身分的な特権は、強い呪縛力をもっていたのである。
 文書主義の背景には、文書のもつ呪縛力、いわば「文書フェティシズム」*37というべきものがあるという指摘が、鎌倉期の土地証文論において注目されているが、それは広い意味での身分制の問題としてとらえ直すべき側面があるだろう。平安時代から、人身売券・所領証文などを首に懸けたり、膚守りの護符としたりする風習が存在するように*38、「物」としての文書はしばしば直接の身分標識として機能した。また文書管理史、保管史の面から指摘がある「史料(文書)管理儀礼」という視点は重要である*39。江戸時代、朱印改めといって、代替りなどごとに、幕府発給の朱印状を江戸に持参する行事が行われたが、その朱印は宿駅における特権を表示する機能をもっていた。江戸時代の京都の町組において「御朱印」が町衆の結合の紐帯として機能していたという事実も*40、古くからの文書儀礼の身分制の文脈の中でとらえるべき問題ではないであろうか。
 このような文書フェティシズムあるいは文書主義的な身分的意識をとらえていく場合には、「物」としての文書の身分的な機能にかかわる儀礼の体系、いわゆる書札礼を体系的に考えておく必要がある*41。こう考えると、鎌倉中期以降の識字率の増大、文書主義の在地浸透は、他面において、書札礼の社会的普及を伴っていたはずだである。そして、より本質的には、この書札礼を通じて、江戸時代に極点をむかえるにいたる社会関係の形式化と煩雑で身分的な儀式化ーーいわゆる「礼的秩序」とそれを根拠とする恭順の体系をとらえ直す必要があるのである。つまり、『古事類苑』の「礼式部」を参照すれば、すぐにわかるように、この煩雑なる儀礼体系は、それ自身が、儀式関係文書の膨大な集積なしには、「稽古」することができないものであった。また、日本的の儀礼の体系においては、「文書と紙」それ自身が儀式過程それ自身の中で大きな役割を果たしている。それはヨーロッパにおける臣従儀礼としてのコンメンダチオ(握手の原型)が直接的な身体的接触を媒介としているのに対して、日本では「名簿拝呈」の儀式として名簿という文書を媒介とするものであった(名刺の原型)ことに象徴的に示されている。これは日本が、直接の身体的接触を忌む文化、いわゆる「穢」という衛生観念に支配された社会であることに関係している*42。また、宮廷儀礼において「笏紙」(笏の裏に儀式次第などを書いた紙をはる)なるカンニングペーパーも、正常な文書の使用の仕方であったことは、礼の秩序が、徹頭徹尾、文字という形で外面化された儀礼と恭順の体系に依拠していたことを示している。いわゆる「古記録」も、基本的には、そのような儀式のために営々として記録し続けられたものであり、「記録の家」も*43、社会的な記録一般というよりも、まず儀礼的記憶の保守者であったことはいうまでもない。江戸時代になると、この繁文縟礼は極点に達したのであって、その影響は、形は違え、現代の社会編成の中にも濃厚に残存しているのではないだろうか。
 この日本的な文書主義と礼の体系が相互に補完しあうイデオロギー的関係であったという問題は、日本社会論の基礎に存在する問題であるだけに、本格的な毛の津は本稿の対象外である。ただ、この「礼の秩序」の問題は、石母田正が日本における法の基礎的特徴として論じ*44、また日本における身分制の基礎的特徴として論じられている問題であること*45、また「徳政」とか「仁政」とかいわれる日本の前近代社会における「政治」イデオロギーの基本にすわる問題であることは確認しておきたい。このような記録ーー文書主義ーー礼の秩序という連鎖関係の枠組みにおいて、日本社会に独自な法的・政治的なイデオロギー的関係が、社会の基礎構造の中から立ち上がってくるのである。
知識と記憶術 
 前述のように、都市は、社会的分業の体系においてしばしば敵対的な性格をもった精神労働の集中装置であったが、そこからはさまざまな精神労働の産物が生み出される。しかし、どの場合も、都市はその社会における公的な支配機関を抱え込んでおり、それ故に、そこには、規模はさまざまであったとしても、かならず官僚制が存在した。官僚制は、どのような場合も文書主義的な行政と意思決定のシステムの体系をもっており、その意味で、それは、これまでに見てきたような社会の集団主義的な支配、そして文書主義的な支配の拠点である。
 そのような官僚制支配に必要な「知識」体系*46の基本は、ほぼ九世紀に形成された。それはいわゆる明法道、紀伝道などを中心とする「道」の学芸・技芸の形成という形をとったが、それらをふくむ諸知識をいわゆる「類書」という形で体系化したのが、菅原道真の『類聚国史』であった。大隅和雄が論じているように*47、六国史を初めとする律令制的知識の体系を「短策」(一種のカード)を利用して部類別に整理し、その索引的利用を可能にした同書は、貴族官人の政務処理のためのハンドブックとしてだけでなく、有職故実や古典研究のための座右の書となり、日本における知識の体系、「類聚」の体系、たとえば『和名抄』『古今著聞集』『太平記』から『和漢三才図会』にいたるまで、きわめて大きな影響をあたえた。
 このような索引的な「類書」が知識の基軸となるのは、前近代社会においては、どこでも一般的なことであるが、これまでにみてきたイデオロギー的情報は、結局、これらの類書まとめられたような知識体系をくぐった上で発信され、記憶・記録として蓄積される。逆にいえば、前近代社会におけるイデオロギーや思想・科学を考える場合には、それが無限定に自由なものではなく、実際上は、これらの「類書」にまとめられた知識体系の水準にふかく規定されていたことを忘れてはならない。いわば、このような「類書」は、煩瑣な文書主義的な記録体系を内在的に理解していく索引なのである。歴史学にとっては、このような文書主義に対する「知識学」的理解はきわめて重要な意味をもっていることは、これまでの論述で明らかであろう。
 しかし、イデオロギー・文化・思想などの研究は、さらにさきに進まなければならない。つまり、いうまでもないことながら、文化や思想は、そのような「知識」体系から自動的に発生してくるものではない。その構築や創造は、このような「類書」に表現される文字情報・文字記録を、一度、個人の無文字的な人間的記憶の中に蓄積することを必要としている。人間的記憶が文字などの形をとって外部化が可能であることはきわめて重要ではあるが、記憶は情報がコンピュータのメモリにたくわえられるように蓄積・模写されたものではない。人間的な記憶は、そのような揮発性のメモリーとはまったく異なり、個人の具体的な経験を媒介とし、その思考と感情の中に内面的に蓄積され、そのようなものとして人間の人格それ自身の基礎となり、また文化や思想・科学の基礎となるのである。
 ただし、だからといって、この記憶の無文字的な世界を、いわゆる無意識の世界と等置することはできない。むしろ、前述のように記憶それ自身はコミュニケーションの中で生まれるものであり、さらにしばしば「記憶術」という意識的な操作の中で蓄積されるようなものなのである。たとえば、F・A・イエイツによれば、ギリシャのシモニデスに由来するとされるヨーロッパ的な記憶術は、意識内部に特定の建築物の座席などの具体的な場を想定し、そのおのおのに記憶すべきものを配置し、それらの場所との関連性において想起作用を容易化するという心術である。これに対して、日本をふくむ東アジア文化圏における記憶術は、第一に種類・意味・字体などの多様な象形文字=漢字が前提となったこと、第二に中国起源の良質の紙があったこと、この二つの条件に支えられてやはり特徴的な姿をとったということができるだろう。周知のように平安時代には、「いろは歌」による音標文字の記憶術が生まれるとともに「天地玄黄ーー」とはじまる「千字文」が習字の稽古本となり、これらが日本的なリテラシーと記憶術を支えた。それがJ・ピジョー『物尽くし』*48が論じ、日本の文化の特徴とされるような「尽くし」という連想技術につながることもいうまでもない。
 もちろん、ピジョーがいうように、ヨーロッパ文化の中にも「物尽くし」という連想形態は、存在するが、日本のそれが東アジアの漢字文化を前提とした独自なものであることは否定できないだろう。イエイツによれば、ヨーロッパ的な記憶術は、スコラ哲学からルネサンスの段階にいたるまでさまざまな形で再生産され、内省と瞑想、幾何学と神秘主義、立体的遠近法と線的な収束的終末観などの二律背反をもたらしながら、ヨーロッパの学芸と科学の伝統の基底に流れ続けていたという。それに比較すると、日本における「物尽くし」の記憶術は、いってみれば、秩序と秩序外れ(隠逸)、博物学と世俗主義、平面的な構図法と永遠の発散的な時間観念などの二律背反に傾いているというべきであろうか。いずれにせよ、記憶あるいは記憶術のスタイルは、しばしば諸文明の構築的な相違にかかわるような基底的な意味をもっていたことは否定できないだろう。
 以上のように情報と記憶・記録の体系の頂点に位置する「知識体系」にまで議論を積み重ねてくると、日本におけるコミュニケーションが東アジアの東端の「島国」という規定性をうけていることに気づかざるをえないのである。とくに哲学や自然学の発展にとっては、ギリシャーインドーイスラムの関係をみるまでもなく、国際的な知識の交流と凝縮が決定的な意味をもっていた。それ故に、東アジアの東端に位置した日本において中国の学が優越し、漢字と和名の間、学知と経験知の間に大きな分裂が存在したことは、いわばやむをえない地理的宿命であったというべきであろう。塚本学によると、この枠組みをゆるがす自然情報の流通を問題にしうるのは、明末に刊行された『本草綱目』(李時珍)の輸入と、それに依拠した『訓蒙図彙』『和漢三才図会』などの普及・出版以降のことであったというが、それも事態の基本を変更するまでにはいかなかったのである*49。
  おわりに
 論ずべき課題の広大さ、そして自身の専攻が平安・鎌倉時代であることもあって、やや抽象的な議論に終始してしまったが、あたえられた課題の最後、つまり情報化社会論については、何度か参照した福田アジオが、前近代と現代の情報のあり方を比較して、「生活の情報はかっては非文字が基本であったが、それが現代では大部分が文字によってなされている。そして非文字の情報はラジオテレビの電波によるマスメディアとして大量情報の手段となっている。民俗の情報から現代マスメディアとしての情報に非文字が奪い取られている」と述べていることに注目したい*50。たしかに、共同体関係の解体は、地域社会の中から非文字的な情報を追放し、さらに現在の情報革命は、職場の中の情報の相当部分をも電子メールという文字情報に変更しつつある。こうして、衝撃力の強い非文字情報は、マスメディアに集中するという結果がもたらされた。
 最近の現代史研究が示しているように、こういう状況が社会的記憶の世界におよぼした影響はきわめて大きく、そういう中で、歴史学者の役割が問われていることも周知の通りである。そこで最後に、それにふれて二つの点を強調しておきたい。
 第一には、我々の時代における大量の記録史料の何を残すべきなのかという問題である。その場合、「残すべきという価値判断をする根拠」「何を残すのかについての方法論」はどうなるのかという問いが必然的に浮かび上がり*51、それはそもそも「歴史資料が価値あるものとされる社会とはいかなる社会か」という問い*52に発展する。このような問いは、もとよりまずは現代史研究者とアーキヴィストが、相互の議論にもとづいて具体的・実践的に答えるべきものであろう。しかし、本稿の観点からいうと、この問いは、今でも日本社会に濃厚に残る文書主義的風潮、そして対応する形式主義、儀礼主義と俗物性を歴史学の立場からどう考えるのかという問題に立ち戻ることを必要としているように思う。そもそも、情報公開という動きは、日本社会の意思形成における形式・手続重視の全員一致主義や文書主義的書類体系自体に対する批判を前提にしている。「情報公開」=「文書公開」というわけではことはいうまでもない。
 第二は、激しい勢いで進む情報化の動向それ自体をどう考えるのかという問題である。いうまでもなく、現代的な情報革命の進展は、量子力学にささえられた半導体物理学を科学的基礎とし、トランジスタ制御と微細加工技術による電子回路の集積化を技術的な基礎としている。また、それを直接に導いたのは、情報を”0”と”1”の電磁符号に転換するデジタル技術と、それをささえる電磁情報理論であった。産業革命の中からうみだされたファラデーやマクスウェルの電磁気研究は、電気・電子工学の発展、電信電話・ラジオ・テレビなどの情報技術の発展を導いたが、情報革命はその新たな発展と刷新であり、これによって二一世紀は人間社会におけるまったく新しい情報のあり方を生み出す時代となりつつある。コミュニケーション=意識交通過程が日常的にコンピュータとそのネットワークによって支えられ、広範な活力・速度・流通力をもつようになることは必然である。すでにコンピュータは社会の中枢を構成する「電脳」としての姿をあらわしている。脳内情報過程と電磁的なデジタル情報過程は、電磁的な物質過程としては相似する部分があるから、このような過程を人間の脳内意識活動の外部化・社会化ということも十分に可能であろう。生産・労働過程にそくしていえば、一方では、人間社会をささえる労働の具体的性格、つまり労働の特定の目的意識性が、ソフトウェアという特殊な物質系によってささえられ、他方では労働の力動的・生理的な性格がコンピュータによって強化されたオートメーション機械体系によって支えられようとしている。ここでは、コンピュータのソフトウェアが労働の目的意識性の外部化を代表し、ハードウェアの嵌め込みによる機械体系のロボット化が労働の生理的・力動的性格の外部化を代表する。こうして、労働の目的意識的・具体的側面と生理的・力動的側面の統一がコンピュータによって直接に補助され、担われることは、いわゆる精神労働と肉体労働の対立の姿を大きく変更することになるだろう。それは労働と人間社会の関係のあり方を根本的に変化させるであろう。
 私は以前、ほぼ一〇年ほど前、このような情報化社会の進展は、アーキヴィストを諸学の共同の基礎としての現代の百科全書派の担い手ともいうべき地位に押し上げるのではないかという期待を述べたことがある*53。しかし、少なくとも現状では、歴史学の側においては情報論に関わって議論するべきことは山積しており、問題の性格にふさわしい議論を展開するのはまだほとんど不可能である。そういう中では、歴史学の研究過程、たとえば史料の「類聚」過程自身に、コンピュータとデータベースを導入するという労働に多くの歴史学者が参加し、自己に責任のある史料情報を公開・共有するという初心に戻るほかないようにも思う。
*1なお、この序言の趣旨は社会構成体論にかわる役割を情報論に求めているようにもみえるし、逆に社会構成体論を情報論によって補充しようとしているようにもみえる。情報論的な議論には、現在のところ、この種の曖昧さがつきまとっている。
*2江戸時代史研究における情報論研究の状況については高部淑子「日本近世史研究における情報」(『歴史評論』六三〇号、二〇〇二年)、小野将「日本近世の政治文化」(『歴史学における方法的転回Ⅱ』青木書店、2003)を参照。近代史については石井寛治『情報・通信の社会史』(有斐閣、一九九四年)が重要であろう。なお、鎌倉期から戦国期については適当な研究状況総括はなく、また奈良時代史研究については、小林昌二「郡符と召文」、佐々木虔一「津・市と情報伝達」などの論文をふくむ『歴史評論』1998年2月号特集「日本古代の情報伝達と民衆」がまとまっている。
*3西岡芳文「『情報史』の構図ー日本中世を中心として」(『歴史学研究』六二五号、一九九一年)
*4塚本学「江戸時代人の生命維持のための情報」(『歴史学研究』六五一号、一九九三年)
*5その全体的状況と文献については参照、岩崎稔「歴史学にとっての記憶と忘却の関係」(『歴史学における方法的転回ーー歴史学の成果と課題Ⅰ』歴史学研究会編、二〇〇二年、青木書店)。
*6『記憶術』フランシス・アミーリア・イエイツ(水声社,1993)、原著The Art of Memory(Routlegdge & Kegan Paul, 1966 )
*7ジャック・ル・ゴフ『歴史と記憶』(立川孝一訳、法政大学出版会、一九九九年
*8安藤正人、青山英幸編『記録史料の管理と文書館』(北海道大学図書刊行会、一九九五年)。なお本書に示唆をうけた論点は多いが、一つ一つ断らなかった場合がある。寛恕をお願いしたい。梅棹忠夫『情報管理論』(岩波書店、1990年)にも、学術文化の基礎にすわるドキュメンテーションの意味を強調する興味深い指摘がある。
*9戸田芳実「荘園体制確立期の宗教的民衆運動」。後に『初期中世社会史の研究』(東京大学出版会、一九九一年)に所収。
*10マルクス「出版の自由と州議会議事の公表についての討論」(『マルクスエンゲルス全集①)
*11この点については、尾関周二『言語と人間』(大月書店、一九八三年)を参考にした。
*12佐藤進一「中世史料論」、『岩波講座日本歴史』別巻②、一九七六年。
*13黒板勝美「日本古文書様式論」、『虚心文集』所収
*14相田二郎『日本の古文書』上、岩波書店、一㌻
*15吉田伸之『巨大都市江戸の分節構造』終章(東京大学出版会、二〇〇〇年)
*16マルク・ブロック『封建社会』第一章
*17酒井紀美『中世のうわさ』、吉川弘文館、一九九七年、同「■■■■■■」(『■視角視角■■、吉川弘文館、■■■■年)
*18福田アジオ『可能性としてのムラ社会ーー労働と情報の民俗学』(青弓社、一九九〇年)
*19永原慶二など編集、日本評論社、一九八三年より八四年
*20保立「腰袋と桃太郎」(『物語の中世』東京大学出版会、一九九八年)
*21保立「中世前期の新制と沽価法」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年
*22高部淑子「北前船の情報世界」(『新しい近世史③』新人物往来社、一九九六年)
*23福田前掲書
*24山田邦明『戦国のコミュニケーション』吉川弘文館、二〇〇二年
*25宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』岩波書店、一九九九年
*26平川南『発見、古代のお触れ書き』大修館、2001年
*27保立「中世の遠江国と見付」『中世都市と一の谷中世墳墓群』名著出版、一九九七年、
*28保立「中世における山野河海の領有と支配」(『日本の社会史』2,岩波書店、一九八七年。柳田国男「日本の伝説」『定本柳田国男集』二六巻、行逢坂)。「行逢裁面」については、拙稿への批判をふくむ赤坂憲雄『境界の発生』(砂子屋書房、一九八九年)によって教えられた。
*29石母田正『中世的世界の形成』、岩波文庫
*30古老と故実については服藤早苗『平安朝に老いを学ぶ』(朝日新聞社、二〇〇一年)を参照。
*31榎原雅治「荘園文書と惣村文書の接点」(同『日本中世地域社会の構造』、校倉書房、二〇〇〇年)
*32参照、梅村喬「平安時代土地公証制試論」(『ヒストリア』一七三号、二〇〇一年)。
*33参照、勝俣鎮夫『戦国時代論』第二部(岩波書店、一九九六年)
*34富善一敏「文書作成請負業者と村社会」
*35高橋実「近世における文書の管理と保存」(前掲『記録史料の管理と文書館』)
*36高橋実前掲論文。
*37「文書フェティシズム」については、菅野文夫「本券と手継」(『日本史研究』二八四号、一九八六年)を参照。また松井輝昭「古代・中世における文書の管理と保存」(前掲『記録史料の管理と文書館』)も重要である。
*38保立「絵巻に描かれた文書」(『絵巻の方法』吉川弘文館、■■■■年)、同「下女の恋愛と呪詛」(『中世の女の一生』洋泉社、一九九九年)。
*39渡部浩一「近世都市における史料管理儀礼と由緒」(『近世の社会集団ー由緒と言説』山川出版社、一九九五年)
*40河内将芳「近世京都における町共有文書の保存と伝来について」(『地方史研究』二三七号、一九九二年)
*41百瀬今朝雄『弘安書札礼』東京大学出版会、2000年
*42中田薫「コンメンダチオと命婦奉呈の儀式」(『法制史論集Ⅲ』)、保立『中世の愛と従属』(平凡社、一九八六年、九〇㌻)
*43松園斉『日記の家』吉川弘文館、■■■■年
*44石母田正「中世政治社会思想上、解説」(『著作集』)巻八)
*45黒田俊雄「中世の身分意識と社会観」(『著作集』巻六)。保立「日本中世の諸身分と天皇」(『前近代の天皇』巻三、青木書店、一九九三年)
*46「知識」論、「知識体系」論という視角を打ち出したのは黒田俊雄「中世的知識体系の形成」(『著作集』第三巻)である。西岡は黒田俊雄説をうけて「情報の側面からみた知識」という立論を展開しており(西岡「日本中世の情報と知識」『歴史学研究』七一六号、一九九八年)、また高部(前掲論文)は、情報論の立場からは、「蓄積・定着して体系性をもつようになった情報」を、「知識」という用語ではなく、「広い意味での情報」と呼称することを提案している。本稿の提案は、むしろ「知識」の前提に「記憶」「記憶術」「記録」をすえようという点にある。それによって、知識・文化・イデオロギーなどの要素形態としての情報および「記憶」「記録」の社会的・定型的スタイルを確定し、より精密な議論を準備することはできるのではないだろうか。
*47大隅『事典の語る日本の歴史』そしえて文庫、一九八八年。大隅「古代末期における価値観の変動」(『北海道大学文学部紀要』16-1。一九六八年)。木村茂光『国風文化の時代』青木書店、一九九七年
*48平凡社、一九九七年
*49塚本学『江戸時代人と動物』(日本エディタースクール出版部、一九九五年)
*50前掲『可能性としてのムラ社会ーー労働と情報の民俗学』
*51久留島浩「史料と歴史叙述」(『歴史学における方法的転回』Ⅰ、青木書店、2002年
*52奥村弘「史料保全運動から見た現代都市社会の歴史意識と歴史学の課題」(『日本史研究』四一〇・四一六号、一九九六・九七年
*53保立「アーカイヴズの課題と中世史料論の状況」(『記録史料情報資源化と史料管理学の体系化に関する研究』(国文学研究資料館・史料館の特定研究、研究レポート№1)