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絵画史料の歴史学的読み方

  絵 画 史 料 の 歴 史 学 的 読 み 方                ーーーーー『粉河寺縁起』再論                 『絵巻物の鑑賞基礎知識』1995年11月、至文堂  以前に書いた本の中で、私は、絵巻物史料研究の目指すべき課題を二つ挙げたことがあ る(保立『中世の愛と従属』、平凡社)。第一は、「絵巻に描かれた『物』や『人』が、 それ自体として何なのかを確定すること」である。単純なことであるが、これが「絵画を 読む」作業の基礎、「絵巻分析の基礎」であることは誰でもが認めることだろう。ただ、 画面に描かれた全ての事物に対して、この「問い」ーー「これは『何』なのか」ーーを発 することが重要なのである。本来の作業としては、疎漏をさけるために、絵巻ごとに、描 かれた全ての事物・人間について、古文書の「文書番号」と同じように「図像番号」を付 してチェックしていくべきだろう。そして、そのように分割された各画像について、色彩 、描法、修正・破損部分の詳細などの注記(できれば原本観察にもとづく)が蓄積され公 開されれば理想的である。  このようにして絵画は、あたかも考古学的発掘の図面のように略号と数字で一杯になっ た散文的な図面と注解に転化することになる。それが絵画を史料として読む正当な方法な のかもしれない。少なくとも考古史料と絵画史料の史料としての性格の相似は誰もが認め るところである。絵画は、考古史料と同様に、言葉による説明があたえられていない無記 名・匿名の史料なのであり、それだからこそ、その扱いのためにはまず「これは『何』な のか」という「問い」を発し、それに名前と説明を与えることが必要になるのである。  第二は、絵巻物史料をみる場合、「相手が絵であるだけに、そこに描かれていることが 、そのまま実在していたと考えがちであるが、実際には、それはさまざまな定形的な観念 の反映である場合が多い」、それ故に絵画史料分析にあたっては「絵巻の絵画表現の中に 含まれる観念やイデオロギー、特に宗教的な観念などを明らかにすること」が必要である 。特に日本の絵巻には詞書が付属しており、それは直接に宗教的・説話的な物語性を有し ている。絵巻の詞書は、それ自体として一つの宗教的・文学的な説話なのであって、絵巻 の理解のためには詞書と画面の間で往復運動を繰り返すことが必要なのである。それを形 で実感するためにも、絵巻の分析のためには、絵巻のコピーを作って長尺の巻物に仕立て 、それを開きながら詞書と画面を交互にみていくことが有益だろう。  以上の二点は当然のことではあるが、まとめていえば、絵巻物史料は匿名性と物語性を もつ歴史史料であるということになろうか。匿名性と物語性。こういう特徴をもった史料 を扱うのは、歴史学にとってはたしかに新たな課題であるが、近年の中世史学は、この分 野で顕著な仕事を蓄積してきた。しばしばいわれるように、ほぼ一九七〇年代までは、絵 巻が利用されるのはほとんど概説書や教科書における「挿し絵」としてに過ぎなかった。 歴史学において文字・言語史料が第一であって、画像史料は二次的なものに過ぎなかった 。しかし、どのような史料が一次的な位置を占めるかは、分析対象の性格によって決まる ことであり、最初から決定されている訳ではない。歴史の研究者は、近年における絵画史 料の研究の発展によって、この単純な原則を再確認したのである。  今後、絵画史料の歴史学的分析は、美術史研究者、文学史研究者と一般の歴史研究者の 間での共同作業として発展していくであろう。上記のような特徴をもった日本の絵画史料 の研究のためには、それが必要である。その中で、これまで主に中世前期の古典的な絵巻 を中心としていた歴史学的な絵画史料分析は、中世後期そして近世の多様な絵画史料に視 野を広げると同時に、作品論・作者論など従来は美術史研究の独壇場であった分野でも発 言を認められるようになっていくに違いない。しかし、それが見通せるようになった現在 、絵画史料分析を美術史研究者あるいは博物館研究者が中心的に担い、その中から、近世 史料をふくめた絵画史料の調査・保存とその公開体制を強化していくという期待も高まっ ている。特に絵画史料を所蔵するさまざまな諸機関の研究者の役割は大きい。その中で、 少なくとも中世史研究者の役割は徐々に限られたものになっていくかもしれない。  もちろん、誰にとっても絵に描かれた珍しい「事物」を収集し、それが「何であるか」 を問う作業は楽しいものである。そして、その歴史学にとっての醍醐味は、何よりもこの 作業が研究課題の発見の豊かな土壌の役割を果たすことにある。そこでは絵画は、「挿し 絵」のような添え物ではなく、むしろ視覚的に与えられた過去の世界の「入口」「索引」 「予兆」の役割を果たすのである。  Ⅰ 『 粉 河 寺 縁 起 』 の 場 の 理 解  ところで、現在、以上のような問題にもかかわって、黒田日出男・五味文彦・藤本正行 などの間で、絵画史料の分析方法をめぐる中世史学内部のシビアーな論争が展開している (黒田「絵巻をいかに読むか」、『岩波講座 社会科学の方法⑨』。五味「絵巻の方法」 、『思想』八三七号。藤本「『一遍聖絵』の解釈をめぐって」、『日本歴史』五五四号) 。ここでは、その内容に立ち入ることはしないが、絵画史料の歴史的研究の状況紹介をか ねて、この論争の中で五味が言及した私の『粉河寺縁起』についての分析を再検討するこ とから出発したいと思う。  いうまでもなく、『粉河寺縁起』は、院政時代から鎌倉時代初頭に成立した初期中世絵 巻の代表作の一つである。そこには二つの話が含まれている。私が拙著『中世の愛と従属 』に収めた「娘の恋と従者たち」で取り上げたのは、第二の話で、河内国讃良郡の長者の 娘が長い間の重病で明日の命も知れないという状態におちいった時、門前に「小童」の姿 の行者が現れ、その一心の祈祷によって娘の重病が癒されたという話である。家中のもの が驚き喜んだのはいうまでもないが、行者は娘の差し出した「幼きときより身をはなたず もちて候」「提げ鞘」(小刀)と「紅袴」のみはどうにか受け取ってものの、長者の持ち 出した「七珍万宝」をふりすてて姿を消してしまう。しかし、それでは気持ちのすまない 娘と長者が、行者の残した言葉にしたがって粉河を訪ねてみると、粉河寺の千手観音が娘 の送った提げ鞘と紅袴を手に下げていたという訳である。それを眼前にした長者と娘、「 一家」のものは驚きの余り、一度に出家してしまう。  右の論考「娘の恋と従者たち」で、私は、この奇跡譚のキーをなす提げ鞘と紅袴の意味 に注目し、その画像を収集・例示するとともに、女性の紅袴を観音がもっているという形 で奇跡が示されるのは宗教説話の定形的パターンであること、提げ鞘と紅袴には娘のかす かな慕情が表現されていることなどを論じた。それは、この論点が今まで見逃されていた からであり、また、それがこの説話において第一に注目すべき独自な物語性であると考え たからである。  これに対して五味は、『粉河寺縁起』の全体を貫くのは、(紀伊国の猟者・大伴孔子古 が千手観音を発見するという粉河寺の本縁を物語る第一話を含めて)「殺生を業とする人 々と信仰との関わり」であり、保立が「娘が話の中心」ととらえるのは正しくない。むし ろ「長者とその一家の群像」こそを問題としなければならないとし、「絵の群的な把握」 が必要であるという。それは具体的には、第一に、図①の門前を厳しく警固する侍たちに 示されるように、長者の家が武士の館として描かれていること、第二に、図②のように館 の庭に集められた貢納物は主として山野河海の産物、非農業的な富であって、それは長者 の住む「河内国讃良郡」が有名な大江御厨の中に含まれることに関係し、長者が御厨領主 ・御厨武士・供御人武士であることを表現していること、第三に、図③に示されるように 、長者が小童姿の行者に面接する部屋の背後には、双六盤と賽の袋が放置されているが、 これは双六盤が祈祷の道具でもあったことからして、この部屋が行者が来る前には祈祷の ための部屋であったことを示すことなどである。このような把握によってこそ「武士の館 の風景とそこにおける日常の生活空間の様相」が窺えるということになる。  これだけのことを見逃していれば、たしかに私の分析は「娘を話の中心」と誤断したこ とになるかもしれない。しかし、私も「『粉河寺縁起』は単に娘の病気と恋の話に終わる 内容のものではない。(中略)。それは当時の地方社会における長者ー有力な在地領主の 家庭生活、特にその郎等・従者集団の在り方の絵画的・可視的イメージである」(一九㌻ )としている。具体的に述べれば、第一の図①は歴史教科書にもしばしば「挿し絵」とし て取り上げられているもので、私もその実像を明らかにする意味で、それを在地領主の「 門前暴力」の問題と規定し、門下の武士・矢倉・厩などの問題にふれている。  第二の図②の画像については、五味のいうように「門前から続く様々な物品の貢納の列 と品々は長者の富を物語るものである」し、庭先の二つの長櫃に盛られた山の幸、海の幸 は構図の上で目立つ位置に置かれている。『日本絵巻大成』の脚注(小松茂美)にもある ように、この画面は長者の富の豊かさと多様性を示しているのである。しかし、そのこと からこの画面が「この長者の富は主として山野河海の産物によってなったものであること 」を示しているとまではいえないだろう。また、長者の住所が「河内国讃良郡」であるこ とから、即、長者が御厨領主・御厨武士として描かれていると想定することにも無理が多 いと思う。この画面は山の幸と海の幸を示してるとはいえるが、大江御厨のような内水面 の御厨の水産物を示している訳ではない。  むしろ考えるべきなのは、この画面と、図④の『松崎天神縁起』(巻四)、図⑤の『石 山寺縁起』(巻五)、図⑥の『春日権現験記絵』(巻五)のような貴族邸宅・寝殿造住宅 における「富」を表現する画面との共通性である。どちらも中門を入ったところは庭とな っており、貴族邸宅の場合は、侍廊の入り口のところに長櫃が置かれて大魚・蟹・蛸・貝 などの海産物が貢納されている。立蔀の塀で囲まれ、畳と朱漆の台盤が据えられた侍廊内 部には侍や客人がはべり、文使が奥へ通ろうとしている様子など、それらの画面はほとん ど類型的な表現になっていることがわかるだろう。周知のように中世の武士住宅も寝殿造 住宅を基本にしており、『粉河寺縁起』の長者宅における貢納の様子も、このような類型 的な画面の変形であり、それと図柄を共有するものと考えるべきであろう。  第三の、図③の場面の理解については、五味の理解はたしかに私の意見の難点をついて いる。もちろん、この画面の双六盤とが祈祷の道具であった可能性自体は、私も、(五味 は見逃されたようであるが)拙著『中世の愛と従属』におさめた別の論文で、図⑦の『餓 鬼草紙』の出産の場面に関する分析との関係でふれたことである(一九四㌻)。ただそこ で私が「(この)双六盤も、修験者としての『小童』が長者の娘の祈祷のために使用した ものだったろう」と推測したのは適当ではなかった。拙稿では「残念ながら、祈祷の道具 として双六盤をどのように利用したものなのかは、今の私にはわからない」としていたが 、網野善彦は『公衡公記』所載の御産部類記によって、この双六盤は「物付」の女・巫女 が産所で「打博」するのに使用したことを明らかにしたのである(「中世遍歴民と『芸能 』」、『中世遍歴民の世界』平凡社)。  つまり、この双六盤を、僧侶自身が使用することはなかったと思われるのであって、『 粉河寺縁起』の場合も、双六盤は「小童」の使用するものではなく、解釈の問題としては 、五味のいうように小童が来る前に(巫女によって)使用されていたとした方が自然であ ると考えざるをえない。つまり、「(これまで)多くの僧達を請じ奉り、ひまなく祈れど も叶はねば」という詞書では、「僧」のみが祈祷したようであるが、僧は巫女を伴って祈 祷にきたことが想定されているのである。この双六盤を描いた絵師の意図の前提には、僧 の祈祷ーー巫女ーー双六盤という中世人の観念連合があったということになる。  Ⅱ 『 粉 河 寺 縁 起 』 に 嫡 子 は 描 か れ て い る か  このように論点を発展させた部分があるとはいえ、全体としては、五味の「群的把握」 なる方法にもとづく批判は、私見と大きく異ならない部分やいわずもがなの部分があり、 最初に読んだ時、私には五味の批判の趣旨が分からなかった。先述のように、五味は、保 立が「娘を話の中心」ととらえ、「全体を貫くのは長者とその一家の群像」であり、長者 の武士の出家であること、「殺生を業とする人々と信仰との関わりが絵巻の基本的なテー マであった」ことを見失っているとする。しかし、長者とその眷属・従者の群像を明らか にすることは、「娘の恋と従者たち」という拙論の題名でわかるように、私の本来の課題 であったし、それについては上記の外にも幾つかの論点を提出しているつもりである。ま た、この説話が殺生をこととする武士の出家譚であることについても、私は次のように述 べている。   「この絵巻が中世の民衆にとって、一つの感覚的な衝撃力・喚起力をもちえたとすれ   ば、それは、以上に見たような暴力の持ち主である長者が、粉河において突然出家し   、郎等たちも髻を切り武具を棄てて暴力を破棄するという点にあったのではないかと   思う。そのような武士の出家の説話は『今昔物語集』以来、往生伝説話の一類型であ   ったことはいうまでもないのである。この絵巻の特殊なところは、その結末を導いた   のが娘の病と恋であったことに過ぎない」(四三㌻)  しかし、今回読んでみてよく分かったのは、五味の批判は以上の諸点というよりも、実 は次の五味の主張点に関わるものであることであった。五味は『粉河寺縁起』の中に、長 者の嫡子、つまり娘の兄弟が描かれており、これまでの研究の全ては、「群的把握」をし なかったためにそれを見逃していたというのである。以下それを紹介するが、もしそれが 成立すれば、たしかに五味の読みは画期的なものとなる。しかし、それははたして正当な 論証方法にもとづく主張であろうか。  五味は、図⑧⑨⑩⑪の男をすべて同一人物で長者の嫡子であるとする。まず⑧は、娘の 病室となっていた建物の右奥から覗いている男の顔で、彼は全快した娘が行者に「袴」を 捧げ、長者が「七珍万宝」を贈っているところを覗いている。私は、別画面では、この部 分に垂布がかかっていること、男の目の高さからして向こう側が土間であったと考えられ ることなどから、奥は台所になっているのではないかと考えた。これに対して五味は「垂 布があるのは台所だけではないし、また既に指摘したように台所は他の所に描かれている 」と私見を批判するのであるが、私も寝殿の方に御厨子所が存在していることを指摘しな かったのではない(同書、注⑤)。ただ女性の従者の役割を考えていく過程で、娘の世話 のための土間・台所がこの建物にも存在したと推定したにすぎない。もちろん、そこが台 所でない可能性もあるだろう。しかし、そうだとすればこの奥の段差があるように描かれ た空間は何にあたるのだろうか。少なくともそれについての試論が必要になるだろう。  ただ五味にとってはそれは問題とならないようである。五味が何故この問題にこだわる かというと、それはこの男が長者の嫡子であるという仮定と、彼が台所から覗いているこ とがしっくりこないからに過ぎない。五味は次のように議論を展開する。   (この場面、図⑧を)よく見ると、娘が治ったということで皆の視線が娘と童に集中   しているのに、この男だけが違った視線を走らせている。そこでさらに別の場面を見   てゆくと、出立の場面の門の近くの網代垣の向こうの倉の前で弓矢をもっている武士   が違った視線を有しているが(筆者注、上記図⑨参照)、これがかの男に近い風貌で   ある。また粉河の近くの民家で場所を尋ねている立派な鞍馬に乗った水玉模様の狩衣   を着た武士がいるが、この武士もその姿や視線の方向からして、同じ人物に相違なか   ろう(上記図⑩参照)。とすれば、この武士は最後の場面(上記図⑪参照)にも登場   しており、皆が出家しているなかで一人だけ出家せずにソッポを向いている。この武   士は直接にストーリーとは関係がない。しかし全くストーリーと関係がないのではな   く、ストーリーを支える人物として描かれているのであろう。  しかし、これらの図⑧から図⑪の男が同一人物であるという論証はきわめて危ういもの である。まず図⑧と図⑨に一部のみを描かれた男の顔のみを見て、「違った視線をしてい る」ということで同一人物であると断定するのは無茶だろう。そして図⑨と図⑩の騎馬の 男(これまでは騎馬の郎等と解釈されてきた)を同一人物と断定するのも、相当に無理な 話である。一見、図⑨と図⑩の部分写真のみを見せられれば弓と矢の形や烏帽子の形が似 ているように思うかもしれない。しかし、図⑫にみえるように、図⑨のすぐ左手には矢を 背負い青い水玉模様の狩衣を着、内側に赤に白い水玉模様の服をつけてムカバキをはいた 男が描かれている。その姿形は図⑩の騎馬の男と酷似しているのである。出立の場面に同 時存在している図⑨の男と図⑫の男はいうまでもなく、違う人物である。とすると、⑨≠ ⑫、少なくとも着衣・扮装によるかぎり、図⑨の男と図⑩の男は違う人物である可能性が 高いということになる。そして最後に図⑩の男と図⑪の男が同一人物であるというのも、 私は断定してよいかどうかは躊躇する。図⑩の男の狩衣は青の水玉模様であるが、図⑪の 男の狩衣は白である。絵師がこの二人をまったく同じ人物として描いたというには証拠不 足といわざるをえない。  ここに、図⑧ 図⑨ 図⑩ 図⑪という等式は破綻する。そしてそもそも、このような 「人相」や「着衣」によって絵巻に描かれた人物が同一人物かどうかを判定する方法がど こまで蓋然性をもつか、しかも「群像」の中の一人一人について比較する論法が成り立つ かどうかという問題自体が、相当微妙なものではないだろうか。絵師の「顔」を描き分け る能力の問題も顧慮しなければならないだろう。もちろん、このような論法を『粉河寺縁 起』について取ったのは五味が初めてでなく、河原由雄「『粉河寺縁起』の成立とその解 釈をめぐる問題」(『日本絵巻大成』第五巻解説)も、私の論考「娘の恋と従者たち」も 部分的に採用しているが、しかし、ここまでの綱渡りをするためには、右の方法的問題に ついての周到な検討が必要になるのではないだろうか。  しかも、五味は、この長者たちの出家の場面の図⑪の男を長者の嫡子であると断定する のである。「一家のなかで彼だけが出家しなかった点から考えられるのは、長者の息子、 それも武士の家を継ぐ嫡子・家督であろうということである」「一家が皆出家したならば 、誰がこの家を継承するのか、そんな疑問に答えるためにも嫡子が描かれたのであろう。 この武士の家が代々続いてゆくことがそこに示されていよう」「そうした武士の家を表現 するとともに、長者の本来的な生き方を嫡子の存在を通じて浮彫りにする工夫であった」 などなど。  「一家が皆出家したならば、誰がこの家を継承するのか」という「疑問」は五味の疑問 である。そのような疑問を絵巻を前にした中世の人々がもったかどうかは不明である。ま た絵師がこのような形で「長者の本来的な生き方を嫡子の存在を通じて浮彫りにする工夫 」を行ったというのも五味の意見である。絵師が、そのような意図をもって五味のいう一 連の「嫡子」の画像を描いたことは論証しえない。もちろん、形式論理の上でみれば、長 者の「一家」の行列の中には息子がいてもいい筈だということになり、こういう意見も成 立するかもしれない。しかし、同じ論理で、長者の「一家」の行列の中には騎馬の郎等が いない筈はないという意見も成立しうるだろう。そしてその候補としては先にみた図⑩の 騎馬の郎等以外に存在しないのである。  Ⅲ 『 粉 河 寺 縁 起 』 理 解 の 残 っ た 問 題  以上、『粉河寺縁起』に関する五味の理解にほとんど賛成することはできなかったが、 この再検討を通じて『粉河寺縁起』の解釈と理解について、幾つかの細かな詰めを行うこ とができたと思う。このような作業と試行錯誤は、たとえば詳細な図像分割と注解など、 冒頭で述べたような中世絵巻物史料の史料的な分析の完成のためにはどうしても必要であ ろう。  そもそも、中世の絵巻は数が限られている。現在の急激な研究の進展度からみると、私 は、あくまでも歴史学の側の史料論の問題という限りのことであるが、室町時代までの中 世の絵巻については、遅くない時期に、画像の細部についてまで解釈が行き届くようにな るだろうと思う。もちろん、解釈の多様性は一定の範囲で残るであろうし、逆に解釈不能 のまま確定してまう画像もでてくるであろう。しかし、おそらく今後一〇年の内には、歴 史学内部での論議は終結してしまうに違いない。これは、散文的なことではあるが、しか し、逆に考えて、もし各絵巻について図面化と注釈が行われ、関連の文献史料の紹介を含 めた詳細なコンメンタールが作成されることになれば、それは中世史研究にとっては強力 な入門書が与えられることになるのかもしれない。  さて、この予想が適当かどうかは別として、本論の最後に、現在の段階で、『粉河寺縁 起』の画像について残されていると思われる問題の一つを検討することにしたい。それは 五味の注目した『粉河寺縁起』における「富」の表象・イメージの問題に関わってくる。 先述のように、五味の意見は富の「山野河海」的な性格、非農業的な性格を強調するもの であった。私もそれが長者の富の一部をなしたこと自体は否定しない。しかし、ここで問 いたいのは、『粉河寺縁起』に描かれた「富」の全体的イメージである。  第一に注目したいのは、図②の貢納物を受け取る庭場の手前側に描かれた米俵である。 五味はこれについて「農産物として米も描かれているが、端のほうに付随的に描かれてい るのみ」と評価する。しかし、これがそれとして貴重な画像であることは見逃してはなら ない。鎌倉時代、ある荘園の「政所之庭」に「八石五斗納置米」があったというような断 片的な記事は発見できるものの(『東寺百合文書』な函、五三)、こういう情景は中世の 文献史料にはなかなか現れないのである。  さらに私は、米が「俵」の形式で納められ、蓄えられていることに注目したい。という のは、平安時代の農村においては、稲はむしろ「束」「刈束」のまま、「穎」「稲」のま まで貯蓄されるのが一般であったからである。たとえば、一一四六年(久安二)二月の頃 、阿波国の某荘の下司が身柄を拘束され「斤定稲三千束」を奪い取られたなど、領主や有 力住人が大量の稲を「束」の形でもっていたことを示す史料は多い(『平安遺文』⑥二五 八三。なお、「斤定稲」とは一束の重量を「稲秤」で計って収納・貯蓄した稲をいい、そ の一束はだいたい舂米にして五升であった)。もちろん、有名な『今昔物語集』の「猫怖 じの大夫」・藤原清廉の説話によれば(巻二八ー三一)、清廉の大和国宇陀郡の邸宅には 「稲米籾三種の物」が貯蓄してあったというから、「稲」のみでなく、米・籾の俵での貯 蓄もあったことはいうまでもない。しかし、農村経営において重要な意味をもっていた「 出挙」(農料・種稲の貸付)は「束」「把」の形式で行われたし、「佃」(直営田)の収 納も本来は「束」で行われていた。また荘園の地子田の経営も「地子稲を斤定めして、農 料に下し」(『平安遺文』③八七三)という形で実際には束の形で運用されることがしば しばだったのである。  おそらく、このような実態に対応していたのであろう。戸田芳実が平安時代における「 富」の思想、農村の繁栄を期待する貴族的美意識を表現するという「大嘗会屏風」の中に は、「板倉山下田、積稲尤高、有人見之」「晩冬、石蔵山下、有納稲之人家」「大蔵山、 山脚民家、多積稲之所」など、在地社会における秋・冬の積稲の風景がしばしば登場する (戸田芳実『日本領主制成立史の研究』岩波書店。参照、家永三郎『上代倭絵全史』)。 残念ながら、平安時代においては極めて一般的なものであったこの屏風絵の画像は残され ていないが、それはおそらく図⑬のようなものであったであろう。  この図は、『一遍聖絵』(巻五)に描かれた常陸国の豪族の家である。屋根にうっすら と雪が積もっていることから、季節は冬であることがわかるが、注目していただきたいの は、家の裏手に積まれた四つの丸い稲束の山である。これがいわゆる稲堆、イナツカ、イ ナニオである。「大嘗会屏風」に「積稲」とあるのも、イナツカなどと読んだのであろう 。『色葉字類抄』は「積、イナツカ、イナツミ、イナハタリ」としている。イナニホとは 、干しあげた稲を円形に積み上げて、その上を藁でふき、食料や種子料として貯蓄したも のである(参照、宮本常一『絵巻にみる日本庶民生活誌』、中公新書)  私は右の『一遍聖絵』の画像は、平安時代の倭絵を手本にもっていたのではないかと考 えるのであるが、いずれにせよ、『粉河寺縁起』の長者の庭に積み上げられた米俵が積稲 ・イナニホによって代表される平安時代の伝統的な農村的富の観念とは大きく異なるもの であったことは疑えないように思う。もちろん、そう解釈するのは、『粉河寺縁起』にお ける「富」のイメージを読み込むという課題によったものであることはいうまでもない。 しかし、私には、この画像は「富」一般の表象として描かれたもの、有名な『信貴山縁起 』に、淀、山崎の「徳人」(富裕者)の豊かさの象徴として描かれた蔵の中の大量の米俵 に共通する画像イメージをねらったものという印象が消えないのである。  それは『粉河寺縁起』に書き込まれたもう一つの「富」のイメージが都市的な経済、流 通経済を想起させることとも関係している。何度ものべたように長者は小童の行者に感謝 するあまり、「七珍万宝積み重ねて、童の前にはね出だす」というが、その場面が図⑭で ある。それらは図⑮のように蔵から持ち出されたものであるが、この画像の解釈のために は、まずこれらの「物」が、そもそも「何」であるかを確定しなければならない。  まず行者の手前、畳のへりの上に置かれた黒漆の箱に注意しよう。よくみると、金色の 蒔絵で花模様がほどこされているのがわかるだろうが、その中には約十二・三箇の丸い紙 包が描かれている。これは砂金の袋である。この箱のすぐ左手に置かれた板はこの箱の蓋 で、満面朱漆で塗られているから、箱自体の内面も朱漆に塗られていたに違いない。豪華 なものである。また、その右手、細長い小型の箱の中に五本ほど並べられている灰色の物 は銀の延べ金、いわゆる南廷・南鐐である。その右側、柱の蔭にかかって置かれている黒 漆の箱の中の物は、紙継目による原本の破損もあって詳細は不明だが、灰色の物品のよう で、おそらく別の形をした銀塊なのではないかと思われる。なおよくみると、この箱の側 板にもやはり花形の蒔絵がある。  このほか、この場面にみえる丸い筒のようなものはすべて巻絹である。こちら側の縁の 上、柱の手前の箱には七本ほどの巻絹が入っているが、そのうち二本は鮮やかな紅に染め られている。その左、白磁を捧げる男の膝先にある二つの平箱の中身は、焦げ茶色に塗り 潰されていてよく見えないが、これも同じものに違いない。また、室内の行者に近いとこ ろに何本かをまとめて束ねて置かれたものもやはり巻絹であると思う。  金・銀と絹、これが中世前期における「七珍万宝」の典型的な形であったのである。た とえば、一二五二年(建長四)、京都から鎌倉に下着して将軍となった宗尊親王に差し出 された財宝は、馬のほか、「砂金百両、南庭十、羽一箱」であり、さらにその塗篭には「 美精好絹五十疋、美(巻)絹二百疋、帖絹二百疋、紺絹二百端、紫五十端、糸千両、綿二 千両、檀紙三百帖、厚紙二百帖、中紙千帖」などが納められたという(『吾妻鏡』建長四 年四月一日条)。中心が「金・銀・絹」であったことは明らかであろう。なお、翌日に台 所に献上された「帖絹百疋」は「櫃十合に納め、長櫃三合に入る」とあるから、これらの ものは、櫃に入れ、さらに「長櫃」に入れられていたようである(『吾妻鏡』建長四年四 月二日条)。これを勘案すると、『粉河寺縁起』の絹を入れた平櫃も、縁先の地面におか れた「長櫃」(破損により一部しかみえないが)に入れられて蔵の中に納められていたの だろうと思われる。  今後、本格的にこの種の文献史料を収集し再構成しなければならないのであるが、ここ では、『粉河寺縁起』以外の画像史料を紹介しておくと、第一に砂金の包の画像としては 、図⑯の『松崎天神縁起』(巻七)があるが、今のところ、それ以外に見当たらないよう である。第二に絹の画像としては、図⑰の『前九年合戦絵詞』(東京国立博物館本)が興 味深い。これは源頼義に安倍頼時が馬などの財宝を献上する場面、『陸奥話記』に「駿馬 ・金・宝の類、悉く幕下に献ず」とある場面であるが、画面右手には駿馬献上の場面がみ え、左手の三本の長櫃には大量の絹が入れられている。検討を必要とするのは一番縁に近 い長櫃の内容物で、巻絹が束になっている上に上下を紐でしばって横たえられたものは何 であろうか。今後、絹類の形状を表現する用語と画像の対応をつけることが必要だろう。 第三に掲げたいのは、若干時代は降るが、図⑱、鎌倉時代末期頃に成立した『頬焼阿弥陀 縁起』の一場面である。これは鎌倉の裕福な住人が仏像の作料に提供した「金銀羽皮等の たくひ」の財宝である。左手奥の部分、真中にある斧形のものは銀塊であろうか。写真版 では詳細は不明で、金の画像が読み取れないのが残念である。ただ、まわりに絹が置かれ ているのは確実で、男たちが櫃から出して縁先に積み上げているのも巻絹であろう。  以上のように確認してくると、『粉河寺縁起』の「七珍万宝」の図像の史料的価値がき わめて高いことが確認できるだろう。それらは、平安時代末期、『粉河寺縁起』が描かれ た時代の「七珍万宝」という言葉の意味を正確に物語っているのである。その眼で考えて みると、『粉河寺縁起』の問題の場面で、縁の左手にすわって進物の献上を差配している かにみえる萎烏帽子の男が手に捧げている壷が注意をひく。同じものが男の脇に置いてあ るのがみえるが、これらは宋の白磁の壷ではないかと思われるのである。宋舶来の白磁の 壷は文献史料にはほとんど現れないが、この画像は平安時代末期において中国陶磁器が「 七珍万宝」の一つであったことを端的に示しているほぼ唯一の史料といって過言でない。 それはどのような文献史料よりも雄弁である。  金・銀・中国陶磁。先にも述べたように、このような財宝の在り方、富の形態は都市的 な経済、流通経済の中から生まれたものである。というよりも、金銀は平安時代において は貨幣としての意味が強かった(保立「絵巻にみる商人と職人」、『中世都市と商人職人 』、名著出版)。また絹も平安時代においては現物貨幣としての意味が高かったことは、 有名な「わらしべ長者」の説話の中で、絹が旅行中の交換手段・謝礼の意味をもっていた ことを想起するだけで十分だろう。『粉河寺縁起』における「富」のイメージは、このよ うにして寝殿造り住宅の庭に貢納物が山積される富の貴族的表現、米俵、そして「七珍万 宝」の図像とその流通経済的性格など、きわめて重層的なものであったのである。  以上、歴史学の立場からみた画像史料の扱いについて、『粉河寺縁起』を例としてみて きた。それにしても、私にとっての『粉河寺縁起』の魅力は、その何とはない稚拙さ、特 に長者たちの対極にいる従者・庶民の姿の素朴さである。そして、上記のような分析を踏 まえてみると、鎌倉時代以降の絵巻と比べて、この絵巻の民衆像に感じられる素朴さは、 単に描法のみのことではないのではないかと思えてくる。というのは、いくらここに描か れた「七珍万宝」が流通経済を前提としていたとはいっても、平安時代末期の社会はまだ 本格的な貨幣経済には突入していない。そしてそれに対応して、ここに描かれた民衆は『 一遍聖絵』など鎌倉中期以降の絵巻の民衆がほとんど必ず銭袋を腰に下げているのと比べ て(保立「腰袋と桃太郎」、『月刊百科』三一八、平凡社)、まったくの丸腰である。腰 袋と(それを下げる)腰刀を身分標識としている中世の民衆像に比較すると、彼らが何と なく貧相に感じられるのは、そのせいではないかとも思う。