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河音能平著作集(3)の解説

河音能平著作集③解説
 本書は河音の著書『中世封建制成立史論』第二部の理論的論考とそれに関わる諸論文を中心として編成されている。このうちもっとも有名なのは『中世封建制成立史論』におさめられた論文「農奴制についてのおぼえがき」(本巻第一章、一九六一)である。この論文は、第二次世界大戦後、一九五〇年代の歴史学界に圧倒的な影響をあたえた「世界史の基本法則」という思考方法の批判を先導した。
 一九六〇年代の歴史学研究においては、日本史研究会を中心とする京都の歴史学界が理論的・全体的なイニシアティヴをとった局面が多かった。国民的歴史学運動の中で深刻な挫折の経験をもった歴史学研究会などの東京の歴史学界は、「世界史の基本法則」の議論を総括することもできない状況にあった。その中で、この河音の論文は、芝原拓自・安丸良夫の仕事などと並んで、新しい動きを代表する理論論文となったのである。
 河音の宣告は、「いわゆる『世界史の基本法則』ーーアジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的諸生産様式の序列ーーを各民族史を通じて貫徹する歴史発展のコースとして固定化・ドグマ化し、その不可侵な仮説の適用のもとに、日本列島における歴史的諸事象をいわば純粋培養的に認識・構成するという、弁証法的思考としてはきわめて妥協的な方法が形成された」という厳しいものであった。『中世封建制成立史論』の書評において、この論文を懇切に解説した網野善彦の言によれば、河音は、六〇年当時の状況を「科学的歴史学は自らの巨大な運動をとめてしまった」と的確に把握したうえで、「世界史の基本法則」なるものへの「根底的批判」を行い、科学的歴史学を再び始動させるべく、「生態史観とそれを批判した太田秀通の所論とを串刺しに批判すること」を目ざしたのである(一九七二年発表、『網野善彦著作集』⑧)。
 いうまでもなく、ここでいう生態史観とは、梅棹忠夫・上山春平によって主唱されたものである。その実質的な中身の評価は別として、「世界史の基本法則」なるものはヨーロッパ中心の単系発展段階論というべき図式に過ぎないという、彼らの批判それ自身は正当なものであった。しかも、それはそれまで大きな権威をもっていた講座派理論に対する批判をともなっていただけに、論壇で大きな波紋を呼んだのである。
 もちろん、ギリシャ史の太田秀通が、いかにも古典学者らしい蓄積の上に立って、反論したように、戦後歴史学の全体、さらには講座派の議論や、マルクスの議論そのものを「単系発展段階論」に解消するのは誤解である。しかし、梅棹らの批判にどのように答えるかが方法論的に決定的な意味をもっていたことは明かであった。
 河音は、この時、ドクターコースに進学したばかりであったが、この有名な論争に果敢に介入した。河音は、「世界史の基本法則」なるものは「わが国の一部の研究者」が囚われているものに過ぎないとした太田秀通の弁疏は「傍観者的」な言い方であるという違和感を表明し、問題の中心を農奴制論にあると見定め、内容的な議論に踏みこんだのである。もちろん、太田は、この論文を出発点として「単系発展段階論」批判を生涯にわたる理論課題としたのではあるが、この時の太田の議論がやや高踏的であったことは否定できないと思う。河音が、これでは「上山氏を納得させることはできない」としたのは十分に理解できる。
 現在では、「単系発展段階論」という批判は、ある種の常識になっているような感さえあるが、歴史学の研究者としては、それがすでに五〇年前から、歴史学の内部で議論され続けてきた論点であることを十分に踏まえる必要があるだろう。そして、学術の世界において、理論的省察への到達がつねに最終目標の一つである以上、太田・河音の論文を追跡しておくことは、研究者として必須の作業である。
 以下、内容の紹介に入るが、「農奴制についてのおぼえがき」は、第一に「世界史の基本法則」というシェーマの前提となっていた「農奴制ウクラードの形成を奴隷制生産様式の内部矛盾と」捉える立場、「奴隷から農奴への進化」という図式をくつがえした。河音が、そこで依拠したのは、「本源的所有」との対比において奴隷制・農奴制を並列的に「二次的所有」とするマルクスの『資本制生産に先行する諸形態』と「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」であった。第二に河音が強調したのは、小経営生産様式の普遍的な存在であった。それが前代の国家的な共同体所有の内部に重層していた集団的生産関係の中に食い込むことによって、新たな政治的諸組織、諸共同組織が形成され、それが領主や地主による私的な農奴制支配の条件となったという。その前提に、社会の経済的基礎を自然と人間との関係に求め、そこにおける生産諸力を前提として、本源的な集団的生産関係と小経営生産様式が矛盾をはらむという「共同体の二重性」のシェーマがあったことはいうまでもない。
 この河音の議論は、一九七〇年代に福富正美・平田清明・芝原拓自・望月清司・林直道・熊野聡などによって展開された前近代歴史理論論争を先取りするレヴェルに到達していた。もちろん、河音は、この論文で、「アジア的専制国家=アジア的生産様式」からの社会構成の移行についてはマルクス・エンゲルスの議論にそのまま依拠することはできないことを明言している。河音が右の論争に参加しなかったのは、このようなレヴェルでのマルクス解釈論議の限界性を、すでに早くから実感していたためかもしれない。
 むしろ、河音の中心的な問題関心は、国家的な共同体所有=種族的な関係の中から農奴制形成に対応する政治的諸組織、諸共同組織が解き放たれ、歴史的経験、政治過程を媒介として「民族」(Volk)の形成を導くという点にあった。河音の農奴制論は、最初から民族論と結びつけられていたのであって、その意味できわめて政治史的な視角を含んでいたのである。
 以上が河音の歴史理論の出発点なのであるが、よく知られているように、河音は、その理論作業を戸田芳実・大山喬平・工藤敬一などとの共同研究の中で遂行した。それは河音の理論を空論ではなく、歴史家としての柔軟性や説得性をもつものにした。この点では河音の理論研究の環境は、羨ましいほど恵まれたものであった。
 本巻第十二章「封建的土地所有分析の方法的視点」、第十一章「日本中世史研究における学風の問題」は、河音がこのグループに参加した初心を示す論文である。まず前者はこのグループが学問的に格闘する対象として撰んだ石母田正の共同体論に対する批判的メモであり、河音が発表した最初の理論メモである。すでにここで河音は「奴隷の農奴への進化」を基本とする石母田の農奴制形成論を批判し、さらに石母田の議論には共同体範疇の正しい方法的規定が欠如しているとしている。また後者は「学問の次元においては人民大衆に対する責任において厳格に相互批判=論争が行われなければならない」という「学風」のあり方を強調するのみでなく、「日本人民全体の真の敵であるアメリカ帝国主義と日本支配者層の利益(日米安保体制)に奉仕する歴史理論とそれにもとづくあやまった歴史分析=実証・歴史像にたいする敵対的批判を実践し、その中で自己自身の方法=思想をきたえあげる」(傍点筆者)と述べており、その覚悟のあり方を知ることができる。
 後に述べるように、私は、後者の「敵対的批判」という考え方には異論があるが、しかし、「現代における日本封建制研究の課題と方法ーー永原慶二『日本封建制成立過程の研究』の書評にかえて」(本巻第一四章、一九六二)は、河音の相互批判の姿勢が生きた事例であるということができる。そこで河音は、自立経営が形成され領主の経済外強制があれば農奴制支配ができあがるかのように処理する永原の議論を厳しく批判している。永原のように「領主=農奴関係」をアプリオリに「自立的小経営プラス封建権力の経済外強制」ととらえる図式では、なぜ、小経営生産様式が必然的に封建的隷属をともなわなければならないのか、その合理的な存在理由、物質的根拠は明らかにならないというのである。もちろん、私は南北朝期までを見通した永原説全体に対する批判としては、河音の指摘が十全なものとは考えない。しかし、農奴制形成論に限っていえば、この河音の永原批判は有効であり、明晰なものであると思う。
 このような河音の議論は、網野善彦がいうように、六〇年代の「中世史研究」において独特の指導性をもっていた。実際、河音論文のしばらく後、戸田は、それと共通する論調で、領主が暴力をもって土地を私有し、小経営農民から収奪するということで事態を描きだす研究動向に対する批判として、有名な領主的土地所有の「本宅ー敷地」的形態の議論を提出した(戸田「中世の封建領主制」一九六三年、同『日本中世の民衆と領主』)。また網野も、同じように領主が土地を私有し経済外な強制力をもっているのだから年貢・公事を取れるのは当然だという考え方はあまりに単純だと述べている(「日本中世史研究の現在」一九七九年、『中世再考』)。
 河音の理論作業がたんに戸田・大山・工藤らの共同研究グループ内部のみでなく、広い影響力をもっていたことについては、河音の理論作業が、『無縁・公界・楽』を初めとする網野の議論の理論的前提となったことも指摘しておきたい。網野は前述の書評において、河音との「非常に接近した関心」を自認し、河音の議論になかば依拠して、『無縁・公界・楽』に直接に連なるシェーマを述べているのである。その意味では、初学者にとっては、河音の歴史理論を理解するためには、網野の議論を通路とすることがわかりやすいかもしれない
 本巻第八章「歴史における人民闘争の役割」(一九七〇)は、この網野の議論との交叉を考える上でも有益である。しかし、この論文は、まずは、「農奴制についてのおぼえがき」で展開された「民族(Volk)」論を、その後の検討にもとづき、凝縮した形で定式化したものとして読まれなければならない。河音の議論をふまえて、私なりにこの定式を要約すれば、(1)Volkは種族(Stamm)の私的階級分解の歴史的経験を媒介として新しく形成されたものであること、(2)封建時代の領主の集団性と村落の共同体は、どちらも政治組織として捉えられねばならず、そのような階級対立の具体的構造を媒介としてVolkが構成されていること、(3)フォルク的世界(農村部)とその周辺やその内部に点在する原始的種族的集団(非農業集団)との経済的・政治的・イデオロギー的な交通・分業関係がVolkの内部構成・国家形態を決定すること、(4)神人寄人体制への上層荘園住人と非農業集団の組織が都市貴族的な領有体制(荘園制)の根幹をなす分裂支配の実態であること、(5)この分裂支配は、民衆と荘園領主・都市貴族、地域の領主・領主連合との奉仕対抗の複雑な政治・イデオロギー編成によって彩られること、(6)そこにはらまれる「平等=正義」感こそが、反封建人民闘争のキーとなることなどである。
 ここに網野の図式と類似する点が多いことは一目瞭然であろうが、しかし何よりも注目すべきなのは、河音の議論が、網野の見解とくらべて、荘園制社会構成論の体系的理解への通路が明解であることであろう。つまりここには、河音の執筆した北京シンポジウム論文「中世封建時代の土地制度と階級構成」(本著作集第一巻所収)における荘園領主の都市貴族的土地所有、荘園上層住人による地主的土地所有、そして在地領主的土地所有という土地所有の三形態論の基礎となる理解を確認することができるのである。是非、若い読者には、河音の理論作業の淵源としての論文「農奴制についてのおぼえがき」から出発して、ここまで読解することを御願いしたい。
 さて、この論文、「歴史における人民闘争の役割」は、河音が自身の歴史学研究にこめた政治的・文化的主張を、もっとも率直かつ鮮明に打ち出した論文としても重要なものである。この論文は、本来、一九七〇年の日米安全保障条約の改定にむけて日本史研究会が設置した「七〇年問題特別委員会」の研究会において、河音が行った報告「日本ブルジョア民族主義の岩盤」を文章化したもので、河音は、ここで和辻哲郎・津田左右吉・柳田国男らの議論を「日本文化論」と一括し、それに対する徹底的批判の必要を強調した(この時、河音と並んで黒田紘一郎が「戸坂潤『日本イデオロギー論』について」を報告していることも記憶しておきたい)。
 この河音の報告は、一九七〇年四月に日本史研究会・歴史学研究会・歴史科学協議会・歴史教育者協議会の四者の共催によって行われた「安保廃棄・沖縄返還要求四月集会」において、藤井松一が日本史研究会を代表して行った報告「軍国主義思想攻勢の現段階」にそのまま取り入れられ、当時、大きな反響を呼んだ(『七〇年代の歴史認識と歴史学の課題』青木書店、一九七〇、所収)。私事にわたるが、そのころ、私は、専攻も決めていない学生であったが、歴史学が果たすべき思想的役割を強調する藤井の報告から鮮明な印象をうけ、その後、この報告の基礎に河音の報告があることを確認して感動した記憶がある。河音の「農奴制についてのおぼえがき」が六〇年安保闘争の最中に執筆され、「歴史における人民闘争の役割」が七〇年安保闘争における歴史研究者の運動の中で執筆されたことは、やはり特記するべきことではないだろうか。時代は変わったかのようであるが、しかし、日米安保体制が巨大な重圧となっている状況は基本的に変化していない。これを突破するために、民族問題の理論を鍛えなければならないという河音の姿勢を、私たちは忘れるべきではないと思う。
 とはいえ、ここには相当に微妙な問題がある。それは前述の論文「日本中世史研究における学風の問題」で、「敵対的批判」をなかば義務的なものとして強調する河音の姿勢である。もちろん、たとえば和辻の戦中の言論には戦争協力の要素があったことは事実であり、その言論の本質を批判することは批判者の思想の自由に属する。また河音が議論の前提とした戸坂潤の『日本イデオロギー論』が行ったような「日本文化論」に対する思想的・方法的批判は十分に成立するものである。そのような批判が歴史学の問題意識を鋭くし、新しい歴史像を作り出す上で有益なことは、河音自身の仕事で明かである。また、歴史学は、偏狭なナショナリズムや民衆的視座を無視する文化主義が実際上は支配的な思想として機能している状況に強い違和感をもつ。歴史学は、それらに対して必要な思想的批判を行うことを避けてはならない。とくに、それらをマスコミュニケーションや歴史教育の中に持ち込もうとする動きに対しては厳しい対応をせざるをえないだろう。
 しかし、研究者としての言論活動において、河音のいう「あやまった歴史分析=実証・歴史像にたいする敵対的批判」というものが本当に必要なのであろうか。学術的な立場からいっても融和できないような、偏った非歴史的な思想が実在することは事実であるが、「歴史分析=実証、歴史像」それ自身は、どのように意見が相違するとしても、「敵」ではなく、ともに公共的な知識圏に属するものであるというのが常識的な見方ではないだろうか。
 たとえば河音が、本巻第十三章「書評 竹内理三著『日本の歴史 武士の登場』」において、「武士の登場によって日本は西ヨーロッパに類似した封建社会に移行し、それが日本の近代化の条件となった」という、いわゆる脱亜論のニュアンスを含んだ竹内の見解に対して、イデオロギー的といわざるをえない批判を展開するのを読むと、率直にいって河音の「敵対的批判」という姿勢には相当の留保を置かざるをえないのである。たしかに日本「封建制」の形成を脱亜論的に論じることは正しくはないが、しかし、我々が本当に、それに代わる説得力ある歴史像と歴史理論を提出しえているのであろうか。
 私がこのようなことを述べるのは、けっして河音の姿勢をあげつらおうというのではない。そうではなく、むしろ、このような文章にあらわれた歴史的制約を研究史の中で捉え直すことこそが、今後、河音の仕事を受けとめていく上で決定的に重要であることを述べておきたいということである。
 とくに注意したいのは、河音の議論のすべての出発点となった「農奴制についてのおぼえがき」が、本来の河音らしい、むしろ柔軟で寛容な姿勢を示していたことである。前述のように、この論文は、当時、大きな議論を呼んだ梅棹忠夫・上山春平による「生態史観」の提起とそれに対する太田秀通の批判を切り口としている。前述のように、河音は太田の態度を傍観者的として、これでは「上山氏を納得させることはできない」と述べたが、さらに踏みこんで、「(太田の弁疏とは異なって)むしろ上山氏がとらえた『マルクス史観』の方がより現実的=実践的でさえある。少なくともこの点において上山氏は、マルクス解釈学という不毛の場においてではなく、この日本における知的諸生産における現実という共通の広場において主体的に発言しようとしている」としている。河音が、この段階において「敵対的批判」という立場をとっていないことは、一読して明かである。
 しかし、このような河音の立場は、六〇年代に徐々に変化していった。私はその起点が、「農奴制についてのおぼえがき」掲載の翌年、一九六一年一月、上山が「大東亜戦争の思想史的意義」を公刊したことにあったと思う。この上山論文は、戦後思想史の上でも、いわゆる「戦後民主主義」に親和的あるいは迎合的であったジャーナリズムの状況が切り替わっていく上で大きな画期となった。その雰囲気は、この年の一二月に開催された「最近の明治維新論とその思想的意義」という日本史研究会の例会シンポジウムにおける、京都大学の人文研の井上清と桑原・上山などの間の激しいやりとりにあらわれている(『日本史研究』五九号)。
 しかし、現在の観点から、このシンポジウムの記録を読むと、そもそも方法的な議論がきわめて難しいという状況が存在した以上、もう少し寛容であることはできなかったのか。学界で思想信条を語っても仕方がないのではないか。桑原や上山が自衛隊の存在や再軍備に反対であり、南京虐殺には戦争責任があると発言していることを、もう少し尊重することはできなかったのかと思う。おそらく、そこまで議論が錯綜した原因は、右の上山の「大東亜戦争の思想史的意義」への違和感が背景にあったのであろうが、当時の「左翼」の神経にさわるような指摘があったとしても、六〇年安保闘争の意義を認め、憲法九条の維持を主張し、「大東亜戦争」肯定史観の復活に不同意を表明する、この論文にそんなに大きな問題があるとは考えられない。もし、唯一、言説として問題があるとしたら、上山が開国の道は産業革命ーアジア侵略ー先進国との衝突ー戦争に必然的に結びついたとするのみでなく、それによって現実の「大東亜戦争」という戦争の形態をも必然的なものとするかのような表現をした点であろう。しかし、これはなかばはレトリックの問題であり、なかばは歴史分析の方法に関わる議論の枠内で議論してもよいことではなかったろうか。河音も、このシンポジウムで発言をしているが、その内容からすると、あるいはこのシンポジウムの雰囲気には違和感があったのかもしれない。
 しかし、結局、河音は上山に対する「敵対的批判」にふみ切り、一九七〇年に発表した「『国風文化』の歴史的位置」(一九七〇年、本著作集第二巻)では、「桑原武夫・堀米庸三・梅棹忠夫・上山春平氏等々にいたる一連の日本近代主義」を「日本文化論=文化人類学」「非科学的なブルジョア日本民族観」を代表するものと扱っている。ただし、河音にとって上山の論文「大東亜戦争の思想史的意義」は重い意味があったようで、後になって、上山論文の翌年に発表した文章に(「国風的世界の開拓」、本著作集第二巻、一九六二年)、「ヨーロッパ列強による植民地化の危機から自民族を守るということと、自ら進んでアジア諸民族を侵略し、植民地化するということはまさに同じであった」という一節があることにふれ、これは上山の論理と同じ「アジア侵略戦争必然=宿命論」に陥っていたと自己批判している(「『国風文化』の歴史的位置」(一九七〇年、本著作集第二巻)。つまり、河音は自己批判を媒介として上山への「敵対的批判」に踏み切ったのであり、それ自身はいかにも河音らしい姿勢と思う。
 それにしても、このような「敵対的批判」が本当に必要なものであったのであろうか。もちろん、このような意見に対しては、当事者からは「今だからいえることだ」という反論があるに違いない。実際の状況の中では、諸個人は、おのおのの経験を前提として自己の信ずる道を進むほかない以上、それは当然のことであろう。そして、河音が自分自身に課した義務としての「敵対的批判」を行う研究作業の重圧に耐え、「若狭国鎮守一二宮縁起の成立」(本巻第十六章)、「『国風文化』の歴史的位置」、「ヤスライハナの成立」(本巻第十八章)など、日本文化論批判を全面にかかげた文化史・思想史にかかわる重要論文を仕上げたことの意味は大きい。そもそも、京都の日本史研究会のグループが、六〇年代の歴史学界で大きな役割を果たしえたのは、このような鋭い批判的姿勢によっていた部分があったとも思う。
 しかし、現在の状況に立てば、前記のシンポジウムの前後の状況が、戦後の学問史や思想史の一つの分岐点であったことは明かであり、そこから問題を見直すことが確実に必要であると考える。それは現在の歴史学と歴史意識をめぐる状況を、できるかぎり広い視野で捉えることにつながっていくはずである。
 以上、すでに許された紙幅を越えているが、河音の歴史理論研究が目指したものを確認するために、最後に雄編「前近代の人民闘争」にふれておきたい。この論文は、一言でいって、河音が「世界史の基本法則」にかわるべき世界史の理論を考えようとした論文である。河音は、科学的歴史学の役割、民族理論の意味、小経営生産様式論を確認した上で、シュメール都市国家、ギリシャ都市国家、ゲルマン諸社会について論じている。その論調は、ギリシャ古典古代社会の本質を「人類史上ただ一つ平民階級が勝利した、その政治的決着の結果として成立した」点に求めていることに明かなように、世界史を構成する諸社会の発展コースが最終的には「人民闘争」によって左右されたという仮説である。このような考え方によれば、一般に、各社会構成体の発展コースの条件をなしたとされる所有諸形態、人身の従属諸形態、あるいは共同体の諸形態などは、最初から絶対的な与件であるのではなく、むしろその最終的な形態は、「人民闘争」や民族的諸矛盾などの政治過程を前提として、社会構成体が構成される際に決定されるものであるということになるだろう。
 網野は、このような「人民」という用語の使い方は、(その前提となっている小経営生産様式という範疇をふくめて)あまりに抽象的であるとし、河音の問題提起は「未完」のものであるとし、『無縁・公界・楽』において、直接にマルクスの「共同体の二重性」論に依拠したシェーマを展開した。私は、網野の河音に対する批判自身の妥当性は認めようと思うが、しかし、河音の指摘は、まずは、特定の社会は「政治と人民闘争」の局面なしには構成されないという原論レヴェルのものとして了解すべきものである。つまり、河音が一生をかけて批判しようとした「世界史の基本法則」なるものの前提には、各民族社会に特定の共同体や所有の諸形態を先験的に想定し、それを根拠として、それに照応する社会類型が自動的に生成してくるという宿命的・類型論的な社会構成論の組み立て方があったように思う。それに対して、河音は、社会形態を最終的に構成するのは政治的契機であり、しかもそれは結局のところ「人民闘争」を中軸とするものであることを強調することによって、そのような社会構成論を相対化しようとしたのである。これは、すでに述べたように、「農奴制についてのおぼえがき」の農奴制論が最初から政治史的な視角をもっていたことに対応するものである。
 もちろん、河音も強調するように、前近代における基礎的な経済関係は、あくまでも自然と人間との関係、そしてそこに根拠をもって生成する生産と分業の様式にある。社会は、その上で「政治」を媒介として社会の上から下までを貫く所有体系と諸形態の共同組織の重層として構成されていくのである。
 これは原論的にいえば、ある意味で当然のことかもしれない。しかし、河音にとっては、このような形で「人民闘争」の概念的意義を確認することは必須の手続きであったと思われる。その抽象性は、河音自身がよく知っていたであろうが、河音としては、この論文「前近代の人民闘争」を執筆することによって、「農奴制についてのおぼえがき」以来の理論作業に一応の区切りをつけたということであったに相違ない。
 そして、この後、河音は、本著作集巻五にまとめられる史料論研究と国際交流活動に邁進することになった。本巻第二章「西山武一氏の『アジア的封建制』を読む」、第三章「『小経営生産様式』範疇ノート」、第四章「オットー・ヒンツェの日本封建制論」、第五章「マルク・ブロックの日本封建制論」、第六章「『農奴』・『農奴制』範疇ノート」、第一〇章「世界史における中世日本」などは、その中でさらに問題を探求しようとした河音の営為を示している。しかし、それは「未完」に終わったといわざるをえない。そして、私は、河音がそこで考えようとした筋道を承知していない。このことを、河音を直接に後継する世代の一員として申し訳なく思う。