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君が代と平安文化

『君が代と平安文化』 20040612 九州史学会大会講演
  はじめに
 「君が代」を歴史学の研究と教育の立場から徹底的に考えるということは、それが「国歌」として法制化された以上、ある意味で当然の仕事です。念のために申し上げておけば、それは「君が代」を国歌として歌うことに賛成か反対かとは関係のないことです。それは歴史学者にとっては単純な職責の問題です。
 この仕事をしようという場合の出発点は、まず『古今集』の賀部冒頭に「読人しらず」としておさめられた「わが君は千世に八千世にさゞれ石の巌となりて苔のむすまで」という「君が代」の原型となった和歌を分析することです。これは実際上、八・九世紀における王権論の全体に関わってくる問題となります。ここ二〇年ほど、奈良時代・平安時代の歴史の研究にとって、王権論は本質的な問題でした。しかし、それにしては、君が代を論じようとした研究がまったくないのはどうしたことでしょうか。最近では、学校教育において「君が代」の斉唱の指導を拒否した教師が処分されるという事態まで発生しています。それをどう考えるかは立場によっていろいろかもしれませんが、それらを歴史学という職能にとって本質的な問題と真剣に考え、そして必要な行動や主張をする準備をもたないとしたら、それは知識人としてはいうまでもなく、学問という職能にしたがうものとして決定的な退廃です。
 さて、こういうことを論じるにあたって、まず研究史を確認しておきますと、重要なのは吉田孝氏の見解です。吉田氏は平安時代初期に「天御中主神を始祖とする単一民族が大八州のなかで一つの国を構成するという観念が生じてきた」(四三二頁)、「同じ言語を話す一つの民族が、朝廷を中心とする一つの国家を形成しているという前近代の日本の歴史の基本的な枠組みが、この時代に成立する」(四三九頁)などと述べています(『律令国家と古代の社会』岩波書店)。ここで、吉田さんが平安時代初期に「単一民族という観念」が成立したという状況に対応するものとして、「わが君は千世に八千世にさゞれ石の巌となりて苔のむすまで」という和歌が存在していたというのが、この報告の前提となっている研究史の理解です。
 ただ、私見ではこれは単に観念の問題ではなく、渡来系の官人・貴族が国家機構の中で決定的に融合したこと、私見では民族複合国家から都市王権の国家への決定的な転換をとげたということの反映であったということになります(保立『黄金国家』)。私は、このような点での曖昧さが、おそらく、吉田さんが、平安時代天皇制について「直接的な政治権力から離れた、文化的・美的な価値の中心として、日本の社会を統合する機能を果たす」(四三五頁)と説明されることの遠因になっているように考えています。天皇制を「文化的・美的な価値を中心として」捉えるというのは、やはり決定的な問題で、それは吉田さんが、平安時代において「天皇は経済的には一個の貴族に転落し始め、政治的実権も藤原氏に奪われていく」(四三五頁)という通説的な見方をとられていたことを背景としていたのでしょう。たしかに、平安時代、天皇制が強い文化的・イデオロギー的伝統を作り出したことはいくら強調してもよいと思うのですが、ただ、私は、平安時代王権は権力的にもより実態的なものと評価するべきだと考えています(保立『平安王朝』岩波新書)。また、吉田さんは、このような変化の基礎には「未開な氏からより開明的な家へ」という社会の構成の変化があったという訳ですが、これについても私は「氏から家へ」という吉田さんのシェーマには問題の単純化があると考えています。実際には少なくとも南北朝期までは「氏と家の二重構造」ともいうべきものが存在しつづけたのではないでしょうか(参照、保立「中世の諸身分と天皇」『前近代の天皇』(3))。これを前提として、そして吉田さんは、平安時代初期を、日本社会におけるはじめての文明的国家の成立、いわば「古典的国制」の成立時期としたことはよく知られているでしょう。その趣旨は了解できる部分も多いのですが、私は、上記のような問題もふくめて、この問題は理論的にも実証的にももう少し厳密に考えてみたいと考えています。
 ですから本格的な議論をするためには、もっと別の用意が必要なのですが、しかし、それにしても吉田学説の意味は大きいものがあります。私はいわゆる「古代史」の研究は素人ですので、その基本的な理解は吉田さん、そしてその前提となっている石母田正氏の学説から学んできました。また、私の平安時代の理解は基本的に戸田芳実さんによっていますが、実は、吉田さんの研究は平安時代への見通しを戸田さんに依拠しています。こういう理由で、私は、考えてみると、ながく吉田ー戸田学説を前提にして、奈良時代から平安時代への時代的変化を考えてきました。これは主題からは若干はなれることですが、今日の報告は、私にとっては、その全体をもう一度考えてみたいという気持ちを前提にしていることを御断りしておきたいと思います。
 Ⅰ君が代の原型
 君が代の原型を何と考えるべきかについては、戦前、天皇制を讃美する立場から倉野憲司氏が述べた見解をまず参照するべきでしょう。つまり、倉野氏は、これらのフレーズの原型はいわゆる「寿詞」にあるとして出雲国造神賀詞、中臣賀詞を引用し、それらがまずは王が「千年・万年」も初春を迎えられるようにという長寿を祈る呪詞であったとしています。倉野氏は「君が代」の原型となった和歌の冒頭が「我が君」と始まることは、具体的に目前に存在する王の長寿を祈るものであったことを示すとする訳です。つまり「聖寿の万歳を賀することは同時に御代の長久繁栄を祝することでありますし、君国一体の我が国柄におきましては、御代の長久をことほぐことが、即ち国運の隆昌無窮を祝福することになる」のではあるが、その本来の意味は王の長寿の祈祷であったという訳です。それを確認した上で、倉野は「聖寿万歳、治世の長久、国運無窮」、つまり、第一に王の長寿の賛歌、第二に治世の賛歌、そして第三に王家の永続性の三つは所詮三位一体であると議論を運んでいます(倉野憲司・西下経一「君が代謹解」『むらさき』一九三七年二月号)。
 たしかに、たとえば、「やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十陰 出で立たす 御空を見れば 万代に かくしもがも 千代にもかくしもがも 畏みて 仕え奉らむ」(『日本書紀』推古紀二〇年正月条、大臣・蘇我馬子の寿歌)、「陛下、清平なる徳をもって天下を治らすが故に、爰に白雉あり、西方より出ず。すなわち、これ陛下千秋万歳にいたるまでに、浄く四方の大八島を治めたまひ」(『日本書紀』孝徳紀白雉元年)などの賀詞にあらわれる「千代、万代」つまり「千秋万歳」という用語は、それ自身としては具体的な存在としての王の長寿を祈祷する歌であったというべきであると思います。そして、「千代に万代に」と「千秋万歳」のうち、本来的であったのは「千秋万歳」という中国伝来の言葉でしょう。「千代、八千代」という君が代のフレーズは中国に由来していることは忘れてはなりません。
 問題は、この長寿を祈るということの意味です。それが単に王の長寿を祈るというものではなく、神としての王、現人神の長寿を祈るという意味であったことです。つまり、賀詞の思想の中には「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中・今に至るまでに、天皇が御子のあれ座さむいや継々に、大八嶋国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に座す神の依し奉りし随に、この天津日嗣高御座の業と、現御神と大八嶋知らしめす倭根子天皇命云々」(『続日本紀』文武元年八月庚申条)という論理が含まれています。これは文武天皇の宣命の一節ですが、吉田氏の言い方によれば、ここにはいわゆる「現神」の霊、「天照大神のマナが永遠に再生し続けるという循環的・神話的な時間意識」(一三一頁)を明瞭にみてとることができます。賀詞のもつ論理としては、この神話的な現神思想こそが本質的なものであることは明らかでしょう。
 注意しておきたいのは、この宣命の中で王の世襲ということの意味が、どのように捉えられているかということです。「古代史」の専門家からはあまりに粗雑な検討に過ぎないという批判をいただくことになるでしょうが、右にみてきたような賀詞や『万葉集』の「千代、万代」という言葉には、いまだに王家の一系性、王の血統の連続性そのものに大きな意味をおくという意味連関は希薄なのではないでしょうか。最近の古代史の研究では、王の世襲それ自身が成立するのは、六世紀のことであるという意見があります。ついつい我々は、日本の王位はずっと世襲されていたと考えてしまいますが、王位の世襲という事実も論理も、最初から確立していたものではないということに注意する必要があると思います。そして、天皇位がながく「万世」にわたって世襲されているということを強調し、それ自身に意味を認める考え方、つまりいわゆる万世一系思想は、右にみた文武の宣命の段階でも存在していないのではないでしょうか。たしかに、この宣命には「天皇が御子のあれ座さむいや継々に」とはあります。しかし、「誕生した御子の次ぎ次ぎに」という論理は、世襲それ自身に独自の価値を認めている訳ではありません。そこではまずは誕生した御子が神の子であり、その委託を受けて王位についているという神話的な観念こそが中心であるように思うのです。
 もちろん、言葉は共通しています。宣命や賀詞の「千代、八千代」という言葉、また「やすみしし 我が大君の」などというフレーズは、直接に『万葉集』に流れ込み、そして、さらに『古今集』の「我が君は」という和歌に流れ込み、さらに現代の「国家・君が代」にまで継続しています。その意味では、「君が代」が天皇の長寿のみでなく、賀詞や宣命にふくまれた現人神=天皇の神聖を讃美する歌、しかも神話的な歌としての性格をもっていたことは歴史的な事実です。ですから、たとえば学校教育で君が代についてふれる場合は、少なくとも賀詞ーー『万葉集』という流れの中で、『古今集』の「君が代」の原型となった和歌を提示して、その文脈の中で解説することが必要になるはずです。「君が代」という和歌のフレーズの意味自体は、時代によって様々な意味を含むようになったとしても、その言葉としての原型が、ここにあったことは明瞭に指摘しておかねばなりません。
Ⅱ九世紀の展開ーー仁明天皇の四十賀と「君が代」
 さて、賀詞の「千代、八千代、万代」という用語に現れるような王権讃美の思想と古今集に登場した「君が代」の原型の和歌のもつイデオロギーがまったく同じものかどうかという問題に進みたいと思います。そこで研究史上で確認するべきなのは、やはり吉田氏の見解です。吉田氏は右に述べたような「天照大神のマナが永遠に再生し続けるという循環的・神話的な時間意識」が奈良時代の後半には衰えつつあったという見通しを示しているのです(一三一頁)。たださすがの吉田氏もこれについて具体的な論述をしている訳ではありません。吉田氏は、「ウヂの紐帯であった神話的な血縁系譜の意識も、院政期の社会の脱呪術化の中で、急速に消滅していったと想定される」という抽象的な見通しを述べるにとどまっています(一八一頁)。しかし、神話的な血縁系譜の意識が奈良時代の後半に衰えつつあったという指摘と、それが院政期に消滅したという指摘の間隙はあまりに大きいように思います。その間の約三〇〇年もの時代をどう段階的に捉えることになるのでしょうか。
 私は、院政期をまたず、神話的な時間意識はすでに九世紀において実質的に変化していたと考えます。そして、その過程で、「千代・八千代」の和歌も単なる「よろず代」という呪詞ではなく、新たな「万世一系」という国制イデオロギーの表現としての性格を持ちはじめたのではないかと思います。検討の出発点は、二〇〇〇年の歴史学研究会大会の報告「現代歴史学と国民文化」で論じたように(保立『歴史学をみつめ直すー封建制概念の放棄』校倉書房、二〇〇四年、所収)、九世紀半ばの天皇、仁明天皇の四十歳をいわう「算賀」の祝賀会に興福寺僧侶によって捧げられた長歌の一節です。
 この長歌には「御世御世に相承襲て、皇ごとに現人神と成り給ひいませば、四方の国、隣の皇は百嗣に継ぐというとも、何にてか等しくあらむ。(中略)帝の御世、万代に重ね飾りて、栄えさせたてまつらむ」という一節があります(『続日本後紀』)。もちろん、この「御世御世に相承襲て、皇ごとに現人神と成り給ひいませば」という論理は「天皇が御子のあれ座さむいや継々に、大八嶋国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に座す神の依し奉りし随に」という先述の宣命の論理と同じ側面をもっています。つまり、ここでも天皇は現人神と捉えられています。
 しかし、ここで、決定的に問題となるのは、むしろ「四方の国、隣の皇は百嗣に継ぐというとも、何にてか等しくあらむ」という論理です。つまり、隣国の王は「百嗣」であるというのは、天命をうけた王の家系は百代にもわたって続くという東アジアの政治思想、いわゆる「百王思想」を前提としてます。それに対して日本の天皇は「現人神」であって、さらに「万代」も続くという訳です。これは単に王の長寿を願う寿歌ではなく、また現人神の神話それ自身でもありません。これは東アジアの国制との対比において、王の世代と血統の永続性を宣言している点でほとんど「万世一系」イデオロギーそのものであると思います。いうまでもなく、東アジア全体の状況をみるならば、九世紀は唐・新羅などの東アジアの諸王朝にとっては王権の危機と崩壊の時代でした。それに対して国家と文明の道に本格的に参入したばかりの日本国家はまだまだエネルギーに満ちていました。この東アジアの動乱の時代に、日本の王権がむしろ順調に発展を遂げたことが大きな歴史的影響を残したのです。日本の王権はこれ以降、東アジアの動乱状況の中で、「万世一系」という王権の自己意識を中心とした独特な国制イデオロギーを発展させていきました。右の報告報告、「現代歴史学と国民文化」で論じたように万世一系という論理は、単に国内的な国制意識のあり方ではなく、前近代を通じて、東アジアに対する国際的な意識のあり方でした。
 私は、日本の国制イデオロギー史を問題にする場合、この長歌の論理が「君が代」のもつ王権の論理と同じであることはきわめて重要であると考えます。おそらく、この仁明天皇の時期には「わが君は千世に八千世に」という和歌は成立していたに相違ないのです。つまり同じ算賀で歌われた長歌には、永遠の時間をはかる役割をもった天女、いわば「時の天女」が天皇に対して「不死の薬」を捧げる姿を示した彫像が飾られています。『続日本後紀』は、それを「天衣、石を払うをやめ、翻って御薬(不死の薬)を捧ぐ」と説明しています。仏教では、一年に一度下界に降臨する天女がその羽衣で巨石を撫ではらい、それによって巨石が摩耗しつくすまでの時間を一劫といいますが、この天女は天皇の不死を祈るために、その仕事を一時やめ、永遠の今をもたらしたという訳です(保立「『竹取物語』と王権神話」、『物語の中世』東京大学出版会)。
 一一世紀初めに成立した『拾遺集』(賀部)には、「君が代は天の羽衣まれに来てなづとも尽きぬ巌なるらむ」という和歌が残っている。これは、まさに仁明の算賀に捧げられた天女の彫像にこめられた観念を歌ったものではないだろうか。また「夫木和歌抄」には「君が代のときはの石はあまくたり をとめの袖もいかかなつらん」という和歌が残っています。『国歌大観』には、今、CDロム版がありますから、それを引いて詳細な研究が可能ですが、「君が代和歌群」ともいうべきフレーズをもった和歌がそこには大量に載せられているのです(保立「和歌史料と水田稲作社会」『歴史学をみつめ直す』)。同じ「夫木和歌抄」をとれば、「君が代はうこきもあらしこけのむす ときはの石のいつもときはに」「おきつ風吹上のはまのさゝれ石や 君がよはひの数にとるへき」(「夫木和歌抄」雑部四、石)などという和歌です。こういう平安時代の君が代和歌群の源流が仁明天皇の四十の算賀の長歌にあったことは明らかなように思います。史料による限り、この祝賀会は平安時代における「君が代」イデオロギーの直接の起点をなすように思われるのです。
 さて、以上のように考えてくると、これまでの研究には、「万世一系思想」なるものが何となく古くから存在していたという思い込みがあったように思います。いうまでもなく、王権が自己自身の系譜を正統化しようとする時のイデオロギーは、前近代の国家イデオロギーにとっては中心的な意味をもちますが、その場合の王権の系譜イデオロギーはきわめて多様な姿をとっています。これまでの研究には、それを結果からみて、「万世一系」思想の完成した姿が、六・七世紀から存在していたような感じ方がありました。しかし、それが江戸時代にまで続く形で完成したのは九世紀だったのです。
 そして、この「万世一系」思想の背景には、たしかに神話的な意識が存在してはいますが、より前面にでてきているのは、文化的な意識、端的にいえば「和歌」に代表される文化、「平安文化」なのではないでしょうか。この意味でも、仁明天皇四十賀の長歌は象徴的です。つまり、そこには「日本の倭の国は言玉の幸ふ国とぞ、古語に流れ来れる、神語に流れ来れる」「それ倭歌の体たるや、比興を先となし、人の情を感動することもっともここにあり」(右長歌)という一節があります。そして日本文学研究の方では、これまで十分には注目されていなかったのではないかと思いますが、それは、「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という著名な『古今集』仮名序と同じイデオロギーを表現していることが重大です。ここには、いわば言語ナショナリズムというべきものが組織されているといえるのではないでしょうか。
 この言語ナショナリズムはけっして古くにさかのぼるもの、原始的なものではなく、こ時代の文化の中でこそ自覚されたということが重要です。そして、この言語ナショナリズムは、一種の排外主義に結びついていったことも指摘しておかねばなりません。13世紀末期に成立した『野守鏡』に「和歌よく礼楽をとゝのふるが故に国おさまりて異敵のためにもやぶられず。仏法の流布する事も大国にすぐれたるは、これひとへに和歌の徳也。宋朝には和歌なくして礼楽をたすけざるによりて、八宗みなうせつゝ、異賊のために国をうばはれたり」とあることが、それをよく示しているように思います。
Ⅲ平安時代の儀式と君が代
     ー平安時代の「君が代」と「春日・三笠山・山階山」
 さて、少し脇道に入りますが、私が「君が代」について考えるようになったのは、国家国旗法案の成立の際の国会での論戦を聞いていて、前近代史の研究の側に君が代の具体的な研究がないことに気がついて愕然とした時のことでした。とくに国会の議論の中で、「君が代」はたしかに天皇讃美の歌ではあるが、同時に、「君」は目上の人一般をも示していたという言い方が当然のようにいわれていたことに違和感をもちました。そういう意見は君が代を国歌とすることに反対する側の議論でも前提とされていたように思います。「君が代」は一般的な賀歌であって、「君」の本来の意味は目上の人一般であるというのです。それをそのまま前提にしてしまうと、ようするに君が代は一つの習俗であるということになるのではないか、しかし、「我が大君」という言い方の伝統を引いているとすると、とてもそうは思えないという疑問が残った訳です。
 しばらく後だったと思いますが、この『古今集』賀部冒頭和歌の「わが君」について『新日本古典文学大系』(岩波書店)の解説を読みました。そこには、「我が君」について、「万葉集の『わが大君』に当る。『君』は一般に敬愛する人を言うが、この賀部では天皇を中心とする皇統について言う」とあったのです。これは考えてみなければならないということで、この解説のもとになった編者の新井栄蔵氏が書かれた論文「古今和歌集部立公攷」(『文学』一九七五年八月)を読みました。この論文で新井氏は、『古今集』仮名序が、賀部を「鶴亀につけて、きみをおもひ、ひとをもいはひ」と説明していることに注目し、古今集賀部の構成を説明しています。つまり、賀部は王権賛歌の冒頭四首(「君を思ひ」)と皇統・藤原氏を言祝ぐ算賀の和歌群(「人をも祝ひ」)からなっているという訳です。そして、私にとって示唆的であったのは、この賀部が皇太子保明の誕生賀歌で終わっていることで、ようするに、この賀部は、仁和帝(=光孝天皇)をトップにおき、しかも宇多天皇のことはむしろ脇においておいて醍醐王統をほめたたえるという構造をもっていることでした。藤原基経や藤原定国が重要な位置をしめていることが示唆的です。
 とはいえ、新井氏の意見は、文学史研究の側でが少数意見のようです。文学史研究の側には、「わが君」の「君」は親愛の情をあらわす対象であって、天皇とは限らないという意見が強いようです。それが国歌国旗法案の国会審議にも反映していた訳です。しかし、私は、やはり『古今集』真名序に「陛下(醍醐天皇ー筆者注)の御宇、今に九載、仁は秋津州の外にまで流れ、(中略)、砂長じて巌となるの頌、洋々と耳に満つ」とあることの意味は決定的であると考えます。少なくとも、「我が君」の和歌が醍醐天皇の即位時には天皇賀歌としてさかんに歌われたことは確実で、その政治的文脈を抜きに考えてはならないのではないでしょうか。文学史の研究者は、『古今集』が醍醐王統をほめたたえるというたいへんに政治的なバイアスをもったテキストであるということを軽視しているのではないでしょうか。
 ただ、文学史研究をおってみてわかったことは、こういう「君が代」論の根っこをたぐってみると、それはほとんど山田孝雄氏の『君が代の歴史』(宝文館出版、一九五六年)という著作にたどり着くことでした。つまり、山田氏は、本居宣長の『古今集遠鏡』が、問題の『古今集』の和歌を「コマカイ石ガ大キナ岩ホニナッテ苔ノハエルマデ先年モ万年モ御繁昌デオイデナサレコチノ君ハ」と解釈しているのに依拠して、「わが君の君は親愛の情をあらわすのであって、その対象は天皇とは限らない」、「この歌にいう『君』は祝賀をうける人を誰でもさしている」、「この『君が代』の歌は一般の人々の年寿を賀する歌であり、而してそれは天皇皇族に限らぬものであった」、「これは年寿を賀した歌であって、それは上下一般に通用した歌であった。それが凡く用いらるゝに及んで本来の意味を稍離れて汎く祝賀の意を表するものとなったのである」といいます。そして、山田氏は、「これを民主主義に反した思想を表した歌だとするのも、その人の無智なることを表示するに止まると評すべきものであろう」とまで述べる訳です。ここまでいうかという感じですけれども、ここにも相当の政治的バイアスがあることは明らかでしょう。山田氏が精神文化研究所に所属して「国文学」の分野で「皇国史観」をあおった立場の人間であることはよく知られていますが、やはりそのルサンチマンはすさまじいものです。
 もちろん、山田氏の著書は、江戸時代にまでくだって「君が代」の用例を博捜したもので、きわめて重要なものものであります。これを学説的に乗り越え、ひっくり返すのは相当の作業を必要とします。しかし、事柄の重大性を考えると、このような山田の研究に対する詳細な再検討を行うのは、歴史学界にとっては一種の職責ともいえる仕事であろうと思います。
 さて、このような山田の見解の根拠は、「臣下に対して『君が代』と読んだ歌が有る」ということにありました。たとえば『拾遺集』賀部に「清慎公五十賀し侍りける時の屏風に」書かれたという「君か代を何に譬えむさゝれ石の巌とならむ程もあかねば」という和歌があります。たしかに、ここに現れる「君」は、藤原実頼の長寿を祈るものであって、天皇のことではないと解釈できる可能性があります。つまり、この和歌と同時に、「きみがためけふきる竹のつえなればーーー」という和歌が詠まれていますが、この竹の杖は実頼が老いの坂を上るための杖ということですから、「きみがため」の「君」は実頼のことであり、それに対応して、問題の「君」も実頼のことであると読むことができることになります。
 ただ、この場合、祝宴の席で君主を褒め称えることがその祝宴の主催者を褒め称えることであるという関係も十分に考えるべきではないでしょうか。そして、そういう構造の中で、天皇と宴席の主人が「君」として一体化しているという構造に注目すべきではないでしょうか。そういうことをいうのは、渡辺菜生子さんの論文「拾遺集における賀歌の構造」(『国文』お茶の水女子大学国語国文学会五六号)の議論が、私の立場からするとたいへんに興味深いからです。つまり渡辺さんは、そもそも『拾遺集』賀部は「天皇を頂点とした宮廷社会・宮廷儀礼の縮図」を、和歌の連想、「語句の連なり」と連想の中で組み立てているとしています。『拾遺集』は花山天皇の周辺で作成された和歌集で、その賀部は、花山の王統賛歌、花山の誕生、元服、そして花山王統につらなる天皇・貴族の算賀という形でまとめられているのです。そうだとすると、このような王権への祝賀意識の文脈から切り離して、一つの和歌のみを取り出して「君」の意味を論じることはテキスト論としてはほとんど意味がないのではないでしょうか。
 そもそも実頼は、この年、九四九年(天暦三)、おそらく五十の賀会の直前に王を後見する摂関家長者の地位についたと考えられます。その長寿をいわう公的な祝宴での和歌を例として、「君が代」が、すでにこの段階で「臣下」「上下一般に通用した歌」であるということは無理が多いのではないでしょうか。ここでは天皇と摂関家長者が一体化している構造こそが問題です。そしてその観点からいうと、むしろ『拾遺集』が、この実頼五十賀の前に、村上天皇の四十歳の算賀において興福寺(山階寺)に送った鶴の彫刻の敷物に記された和歌、「山しなの山のいはねに松をうへて ときはかきはにいのりつる哉」「声たかくみかさの山ぞよばふなる あめのしたこそたのしかるらし」という和歌を配していることを重視するべきでしょう。
 この「山科山の磐根」が堅固で「さゝれ石の巌とならむ」ほどであるからこそ「君が代」が永遠である、また「三笠山」が声高く天皇を祝福しているという論理には、天皇と摂関家の一体性を歌い上げる論理が明らかに含まれています。山階山、三笠山が春日山の別名であり藤原氏を指し示す比喩であることはいうまでもありません。そもそも平安時代においては「三笠山」とは天皇の護衛者としての近衛の将を意味する言葉であるといいます。このような「君」と「三笠山」の癒着の中で、実頼に対するホギ歌が唱えられたというべきではないでしょうか。それをとって「上下一般」というのは、この和歌の本質をとらえそこなっていると思うのです。
 なお、山田氏は、その他にも「臣下に対して『君が代』と読んだ歌」の事例として、藤原頼通が営んだ歌合における「君か代はくもりもあらし三笠山 みねに朝日のさゝむ限りは」「君か代は天つ児屋根の命より 祝ひそ初し久しかれとは」(『金葉集』賀部)などの事例をあげています。これも同じ論理の和歌であることは明らかであるように思います。そして、この和歌の場合にさらに重要なのは、そこに天児屋根命が登場することです。天児屋根命が藤原氏の祖先神、というよりも中臣氏の祖先神であって、春日神社の祭神であることはいうまでもありません。そして、河内祥輔氏は、最近出版された『中世の天皇観』(山川出版社)という著書の中で、『古語拾遺』の伝える王権の「侍殿防護の神勅」、つまり天照大神が、天児屋根命と太玉命に対して、日本の国土に下っていくニニギノミコトの御殿に侍ってニニギを守れと命じたという神話が平安時代にきわめて大きな位置をもったことを強調しています。河内氏は、平安時代に「侍殿防護と摂関の任務とを結びつける解釈が生まれ、摂関制の根拠は侍殿防護の神勅にあると考えられるようになった」と論じています。そこには伊勢神宮の神と春日社の神との間の契約、神と神の間の契約があるという訳です。まさにそれに対応して、これらの和歌が詠まれるようになったのではないでしょうか。
 というよりも、何度もふれてきた仁明天皇四十賀の長歌が、興福寺の僧侶によって献上されたことからすると、むしろ最初から「千代・八千代」の和歌はそういう側面をもっていたのかもしれません。つまり、ここにはいわゆる記紀神話が、平安時代においてその実質的な内容や強調点を歴史的に変化させながら続いていたことが表現されているのではないでしょうか。それは神話であるという事実そのものは残っています。しかし、ここには、神話の内容変化を見て取るべきですし、さらに興福寺ー春日社という体系、黒田俊雄氏のいう顕密体制の下で、神話が再解釈されている、国家イデオロギーとしては顕密仏教が中心的な位置を占めだしているということを見て取るべきではないでしょうか。私見では、さきほど述べたような和歌、そして和歌に代表される平安文化は、このな顕密仏教という国家イデオロギーをその内側にもっているということになります。そのようなものとして、やはり「君が代和歌群」の表現する万世一系思想は、九世紀に旧来の神話的構造から区別されるものとして成立したのではないでしょうか。
 なお、今日は、これ以上のことを述べることはできませんが、院政期に入ると、この「侍殿防護の神勅」に現れた神と神の契約というイデオロギーは明瞭にその位置を低下させました。吉田孝氏のいう「ウヂの紐帯であった神話的な血縁系譜の意識も、院政期の社会の脱呪術化の中で、急速に消滅していったと想定される」という事態は、「社会の脱呪術化」という一般的な想定の下で述べられるべきものではなく、やはり国家イデオロギーの転換と変型という具体的な歴史過程、政治過程との関係で位置付けるべきものとなるというのが、私の見とおしとなります。
Ⅳ君が代和歌群と日本社会
 「平安時代の農村風景と『君が代』和歌群」(『中世文学』四九号、二〇〇四年五月)という論文ででも述べたように、「はつ春の花のみやこに松をうへて 民の戸とめる千代そしらるる」「君か代におきふしなひくわか国の 民のちくさやはるのはつ風」(「夫木和歌抄」春部一)などという新春賀歌は、「我が国」の「民」を支配する「王土王民思想」を直截に表現しています。平安時代の宮廷で読まれた大量の「君が代」和歌群は、単に都でもてはやされたのみでなく、平安時代400年の歴史の中で、地方社会に深く浸透していき、たしかに君が代和歌は普通の武士も宴会の最後にうたうような歌になっていきました。平安時代の文化は、このような新春賀歌を地方社会に対してまで浸透させる、相当の影響力をもっていたのです。私は、吉田氏とは違って、それが王権の現実的・政治的支配にともなって展開した過程であると考えます。その意味で吉田さんのように、天皇制を「直接的な政治権力から離れた、文化的・美的な価値の中心として、日本の社会を統合する機能を果たす」という側面に限定してしまうことにはやはり賛成できないのです。
 冒頭に述べましたように、私は最近まで吉田孝ー戸田芳実という学説の中で、平安時代を考えてきました。私はいまでも、体系的な歴史分析としてはそれに代わるものは存在していないと考えるものです。しかし、これに対して、最近の平安時代史研究では、私たちの時代とは違って、むしろ大化前代あるいは奈良時代史の側に本来の根拠をおく研究者による新しい研究が目立ちます。その中で吉田・戸田学説の位置はたしかに変わってきています。そしてそれとの関係で述べておきたいのは、吉田・戸田学説は、おそらく網野善彦さんにとっても長期的な日本史全体の歴史像の問題としては、もっとも大きな問題であったろうということです。吉田さん・戸田さんと網野さんの間の意見の相違は、結局大きな論争にはなりませんでした。ただ、私は、網野さんがその古代史の側からの平安時代史研究の動向にふれて「戸田さんのいっていることもゆらぎ始めているのだ」とおっしゃっていたのを思い出します。
 さて、最後になりますが、私は、吉田さんの議論に疑問を抱き始めるとともに、昨年、戸田芳実氏の研究に対してもほぼはじめて若干の批判を行うにいたりました。それは服部英雄さんの戸田さん批判に対応せざるをえないということで、戸田さんの見解を点検する中で、昨年執筆した「和歌史料と水田稲作社会」(前掲『歴史学をみつめ直すー封建制概念の放棄』)という論文で述べたことですので、ここでは詳細は省略します。ただ、そこで、私はこれまで述べてきたような「君が代和歌群」が平安時代・鎌倉時代を通じて、稲作農耕の年中行事との関係でくり返し、詠唱されているという事実に気がつきました。平安時代、ほぼ四〇〇年もの時間をかけて、この種の和歌が儀式歌として人々の歌心にすり込まれていったということは、水田農耕と王権の間の諸関係が、新しい形で作られていったということを意味するのです。つまり、網野善彦のいう「水田中心主義」、正確には稲作農本主義は、やはり直接に「原始の大地と海原」、原始的な宗教や祭祀にさかのぼるのではなく、平安時代の400年をかけて、歴史的に形成されたという側面を無視できないのではないかということです(保立「戦後歴史学と君が代ー網野善彦氏の最近の発言にふれて」『歴史学をみつめ直す』)。
  私は今日の報告で吉田・戸田・網野の学説の総括や評価を行っている訳ではありません。ただ、現在の国歌「君が代」をめぐる状況を前にして、問題を追求していきますと、どうしてもこれらの先学が本来明らかにしようとしたことが何であったのか、彼らの学説とその相違の全体を、我々がどう受けとめるべきかという問題につきあたるということを申し上げたいと感じるのです。