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小論文、中世の東海道と交通、

 中世の東海道と交通
  (『歴史手帖』二一巻1号、1993年1月)

 中世では京都と鎌倉が相並ぶ政治都市でしたから、その間を結ぶ東海道は極めて重要なルートでした。この意味で、東海道の地帯構造、その政治・社会構造を確定していくことは、中世の社会と国家の研究にとって大きな意味をもちます。ここでは、鎌倉時代の初期、頼朝の時代に限定して東海道の問題の幾つかを紹介してみますが、私が、このような問題を考えたのは一の谷遺跡の保存運動にかかわる中で、『中世の都市と墳墓』(日本エディタースクール出版)の計画に参加し、「町場の墓所の宗教と文化」という論文を書いてからでした。一の谷遺跡の強烈なイメージを前提にし、遠江国の府中・見付に視座をおいてみると、東海道にはまだまだ残された問題が多いことを実感したのです。
Ⅰ頼朝の挙兵と蒲屋御厨の製鉄
 頼朝は、一一八〇年(治承四)の八月に挙兵します。その直後、頼朝は蒲屋御厨に対して下文を出します。詳しくは別稿「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第三九)を参照してほしいのですが、蒲屋御厨は、相模湾に面する伊豆半島の東南端に位置し、鯉名泊という東国海上交通の要衝を含んでいました。頼朝は早くから東国の海上交通の制海権を握ろうとしていたのです。
 この御厨は、遺跡からも文献からも製鉄を営んでいたことがわかる稀有の庄園です。そもそも外岡龍二「伊豆の製鉄関係遺跡」(『歴史手帖』一一ー二)によれば、伊豆は東国有数の砂鉄地帯でした。特に最近、伊東市の宇佐美で発見された寺中遺跡は、関東では初めて発見された大規模な中世の製鉄遺跡です。これらからみて都市・鎌倉の鉄需要の相当部分を、伊豆が供給し、そして相模国・武蔵国、さらに駿河国から甲斐国辺りまで伊豆の鉄材が入っていたのではないでしょうか。八三一年(天長八)、甲斐国の浮囚の蝦夷が「魚塩に便あるなり」という理由で、駿河国に「附貫」された戸籍を移されたという史料がありますが(『類聚国史』巻一九〇)、私は、これは甲斐と駿河の間での交易道の存在を前提にして理解できる記事だと思っています。
 能登国には「鉄のすがねと云うなる物を取りて、国の司に弁ずる事をなむすなる」「鉄堀」集団がおり、彼らの「長」がひそかに佐渡国に船一つで渡り、「金の花咲きたる所」・大金鉱を発見したという説話があります(『今昔物語』巻二六ー一五)。彼らは、「けぶりが崎に鋳るなる能登鼎」「能登の釜」(『堤中納言物語』、『新猿楽記』)などの能登の特産鉄製品を鋳る人々と重なっていたでしょう。彼らは、日本海海域を渡り歩く廻船鋳物師でもあったに違いありません。同じような人々が伊豆国にもいたはずです。
 頼朝の時代、伊豆国の領主はたいへんに活発な活動をしました。それはこのような鉄生産や水運を始めとする伊豆国の地域的特色なしには考えられません。たとえば、先にふれた寺中遺跡の製鉄には狩野氏の一族の宇佐美氏が関わっていたでしょう。曽我兄弟の仇討ち物語を生んだ狩野氏の同族間相論、伊東・宇佐美・河津の同族の間での相論は有名ですが、これら伊東・宇佐美・河津の各荘園は本来は伊豆東海岸に久津見庄という広大な荘園をなしており、この荘園が製鉄や船運などを支配していたことは明らかです。
Ⅱ東海道宿の傀儡と頼朝持仏堂・文覚
 後藤紀彦氏が紹介して有名になった香取田所文書の中に入っている鎌倉時代の蔵人所牒の案文には、唐人と傀儡子が各地で櫛を売って櫛売供御人たちの権利を侵害しているとあります(参照、網野善彦『日本中世の民衆像』)。この文書が香取神社に伝えられていることからみて、櫛売供御人と唐人・傀儡子の衝突が、東国でも起きていたのでしょう。
 傀儡子は平安時代以来、遠江国では橋本・池田・菊川、駿河国では手越・蒲原・黄瀬川、さらに美濃の青墓宿、三河の赤坂宿など東海道各地の宿場に広く分布していたといわれます。その具体像がわかる史料は少ないのですが、伊豆国の国司が目代として雇った人物が実は駿河国の傀儡子であることが暴露されたという説話が注意をひきます(『今昔物語』巻二八ー二七)。駿河国は傀儡子の拠点地域だったのではないでしょうか。というのは駿河国宇都谷郷の今宿の傀儡子の史料もあるからです(『鎌倉遺文』七〇九三)。その史料に「岡部権守、岡部・宇津谷の両郷を領知してより以来、代々此のごときの雑事、一切当てがわれざるのところ」とあります。この岡部権守とは岡部泰綱またはその父の清綱であると思われますので(『尊卑分脈』)、鎌倉時代初期あるいは平安時代末期に傀儡子が宿場町の領主権力の下に組織化されていたことになります。
 岡部泰綱は頼朝からも信頼されており、『平家物語』の最後で平氏の生き残り「六代」を切った人物として有名ですが、そういう人物が傀儡子を支配していたのです。しかも、今宿のあった宇津谷郷は鎌倉の久遠寿量院(頼朝の持仏堂)の領で、同寺の経営には有名な文覚上人が深く関わっていました(『吾妻鏡』建久二年二月二一日条)。おそらく宇津谷が久遠寿量院領になったのは文覚がならびない権勢をもって東海道をさかんに往来していた頼朝の時代のことであったに違いありません。文覚の書状に「大津々料に馬のくつ五十足計、宇津やつはらにかヽせて可遣候也云々」という一節がありますが、この「宇津やつはら」というのはあるいは宇津谷の傀儡子たちのことを意味するのではないでしょうか。もちろん、神護寺領の丹波の宇津郷の人々を意味した可能性も高いのですが、ただ、この書状は、丁度文覚が東海道を上っていく時に出し、大津を越えるのに「津料」が必要だから「馬沓」を送ってくれと無心しているのですから、文脈からいうと、むしろ、東海道を上洛する文覚が引き連れてきた駿河国宇津谷の傀儡子たちであったように思います。
 傀儡子たちは、旅の従者としては最適な人々であったに違いありません。私は、東海道の各地の宿場に分布する傀儡子たちは相当の組織・連絡網をもっていたはずで、権力はそれをしばしば利用したと考えてみたいのです。それは、当時の武士が宿の遊女をしばしば妻にしたという周知の事実の背景でもあったのではないでしょうか。
 もちろん、傀儡子たちは、そういう意味での宿あるいは遊女業のみではなく、より日常的な生業も営んでいたでしょう。その観点からすると注目されるのは、先に触れた蔵人所牒で、傀儡子が櫛売りと争っていることで、それは傀儡たちが木工品の製作・売買を行っていた可能性を示唆しています。傀儡子が木の人形を舞わせることを本来の芸能としていたことはいうまでもなく、峠の宿場で木工品が特産になっている例も多いですから、傀儡子は木地師が共通する存在だったのではないでしょうか。そこからは、すぐにたとえば鎌倉から大量に出土する木製品は誰が作ったのかという問題がでてくることになり、やはり東海道地帯における分業と生業の問題に突き当たるのです。
Ⅲ東海道の新宿興行と領主たち
 東海道の研究において最も困難なのは、たとえば以上に触れた製鉄と木工と宿というような問題を解明していくことであって、それは今後における考古学と文献史学の協力にかかっています。私は、一の谷遺跡の保存のために費やされたエネルギーが、そのような方向でさらに発展していくことを確信していますが、東海道という問題の性格からして、それはもっと幅のある問題でもあります。想起されるのは、一の谷遺跡が都市史や宗教史の遺跡としてのみでなく、大仏氏・勝間田氏と時宗、また冷泉家と遠江国との関わりなど、遠江の地域政治史のイメージを作れる遺跡として重視されたことです。
 本稿では狩野氏の一族の宇佐美・曽我・工藤・河津・伊東、さらに岡部氏などの東海道諸国の武士に触れてきましたが、実は彼らはすべて三四代前にさかのぼると非常に近い親戚になります。桓武平氏の祖先として有名な高望王の娘を母とする藤原為憲という人物の子孫になるのです(『尊卑分脈』藤乙麿子孫)。私は、桓武平氏は相模国以東、そしてこの家系は伊豆国以西という棲み分けがあったと考えています。だいたい、狩野氏が伊豆、岡部氏を含む入江氏が駿河から遠江、そしてあるいは二階堂氏はもっと西というように分布していたのではないでしょうか。
 最近、峰岸純夫氏が、この系図の「入江権守」と狩野氏の同族関係に注目されて、一種の水軍的な要素をもった同族武士団が伊豆と駿河の両方を抑えていたのではないかという興味深い指摘をされています(「中世東国の水運史研究をめぐって」『歴史評論』五〇七号)。この入江とは現在の清水港をいい、鎌倉末期、そこに伊勢の商船が入港していたというのです。氏の指摘を敷衍すれば、平安時代の半ば以降には、東海道の交通を各地の領主階級が同族的な関係、姻戚関係などを媒介として編成していたことになるでしょう。入江氏の系列を地名を追っていきますと、船越・岡部・興津・蒲原・相良など、駿河国の交通の要衝の地名が現れてきます。『曽我物語』(巻一)には工藤助経が「船越木津輪の人共を語ひ」などとでてきます。このような同族関係の様子をみると、東海道をめぐる交通形態は、平安末期には相当成熟していたことは明らかです。