神戸と方丈記の時代
神戸と方丈記の時代 保立道久
『歴史のなかの神戸と平家』神戸新聞。1999
Ⅰ後白河院と福原京
福原京は、多くの場合、平清盛の恣意によって生まれた一時的、例外的な都と受けとめられている。そこには、この時期の歴史をもっぱら平氏のおごりという筋書きにそってみてしまう、「平家物語」以来の根深い図式がある。そうではなく、『平安王朝』(岩波新書)でも述べたように、そもそも、一一六一年(永暦二)の福原とその南の港湾=大輪田泊の建設開始が、後白河院の側近によって主導されたことを重視すべきである。つまり、福原の建設は、後白河院の近臣グループと清盛が、共同で別荘と港湾経営に乗り出したことを意味しているのである。
このような動きの背景には、同じ一一六一年、清盛の義理の妹(妻・時子の妹)にあたる建春門院平滋子が後白河院の男子を出産したことがある。この男子、つまり後の高倉天皇の誕生は、後白河院の王統が血によって平氏と結合したことを意味した。これによって宮廷社会は平氏を中心に再編成されることになったのである。
このような時期に後白河側近と平氏が共同で建設した福原と大輪田泊は、後白河ー高倉という王統全体の別荘、港湾、そして対外貿易港として構想されたと考えるべきであろう。実際に、高倉天皇が九歳で即位した翌年、一一六九年、後白河院は大輪田泊を訪れ、その翌年には清盛の福原山荘で宋人を見物している。そして、この後、約一〇年間にわたって、後白河はほぼ毎年のように福原に下っているのである。後白河は、この間、高倉天皇の父として院政を敷き、強大な権力をふるった。その下で、清盛と平氏が栄達の道を駆け上っていった。それ故に、あたかも年中行事のようにして行なわれた福原行幸は、後白河と清盛の良好な関係の象徴だったのである。
そして、忘れてならないのは、この福原行に高倉天皇の母にして清盛の義妹である「国母」、建春門院平滋子がしばしば同行していたことである。後白河院の建春門院に対する愛着はきわめて濃いものであったとされており、その意味では、福原は、後白河と平氏の「国母」建春門院の愛情の象徴であったのである。この関係が順調に続いていけば、福原は、後白河ー高倉ー清盛政権にとっての第二の王都の位置を確立したであろう。そして、もしそうなれば、福原を拠点として瀬戸内海を通じて中国や朝鮮にも開かれた国家が創り出され、それは日本の歴史の進路を大きく変えたかもしれない。
しかし、この一〇年間の後、後白河と清盛の関係は暗礁に乗り上げるに至った。その直接のきっかけをなしたのは、二人を仲介していた建春門院が、若くして(三五歳)死去してしまったことにあった。『愚管抄』が「建春門院は安元二年七月八日、瘡病みて失せ給ひぬ。その後、院中荒れ行やうにて過る程に、院の男のおぼえにて、成親とて信頼が時あやうかりし人(中略)を殊に斜ならず御寵ありける」と述べているように、建春門院の死去による後白河の失意は大きかった。その後、「院中荒れ行やうにて過る程に」、後白河は若年の頃の男色への嗜好を復活させ、それが事態を一挙に破綻に導いたのである。
政治史の展開はきわめて急で、まず、建春門院の死の翌年、一一七七年(安元三)四月、有名な安元の大火が京都市街地の相当部分を焼き尽くし、引き続いて六月、鹿ヶ谷事件が発生し、藤原成親らが陰謀のかどによって逮捕される。この藤原成親が後白河の古くからの男色相手であることはいうまでもない。そして、一一七九年(治承三)一一月には、いわゆる平氏クーデターが発生する。この時、清盛は隠棲していた福原から大軍を率いて上洛し、公卿会議から反平氏勢力を一掃し、後白河を鳥羽離宮に幽閉したのであるが、それは最初から高倉院政の樹立をねらったものであった。ここでは詳しい話は省略するが、平氏の公達と女房たちの中で成長し、すでに一九歳となっていた高倉も、この成り行きを了承していたに違いない。翌年二月、ちょうど二〇歳となった高倉は退位して子どもの安徳を即位させ、自分は院政を敷いたのである。
そして、そのしばらく後、六月に福原遷都が発令された。もちろん軍事的な理由があったことはいうまでもないが、この王家の福原移座は、高倉の誕生の時からの経過全体の中でみると、この時期の王家にとって、けっして単に偶発的な問題ではなく、半ばは必然的な動きであったといえるだろう。高倉が遷都を決断した理由は、すくなくとも主観の上では、後白河を都の近辺から連れ出して、建春門院との思い出と遊楽の地である福原に同道し、高倉とその妻・建礼門院、孫の天皇・安徳との家族的世界に連れ戻すことにあったのではないだろうか。
Ⅱ『方丈記』の福原京
以上のようにみてくると、この時期、福原は明らかに歴史の中心に位置していた。そして、その福原の様子を伝えるもっともよい史料が、有名な鴨長明の『方丈記』である。「ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず」という冒頭の有名な文章によって、『方丈記』はいわゆる無常感を述懐した文学であるかのように考えられているが、しかし、たとえば堀田善衛の『方丈記私記』がいうように、長明はやわな人物ではなく、実際には好奇心と政治的関心にみちた行動人であった。堀田も注目しているように、長明は『方丈記』執筆の前年、もう老人の身でありながら、歌人で源実朝の蹴鞠の師である飛鳥井雅経とともにわざわざ鎌倉まで出かけている。それを伝える『吾妻鏡』には「菊大夫長明入道」とあるから、長明自身も「菊」(=鞠)の達人であったのであろう。蹴鞠がなかなか激しいスポーツであったことはいうまでもない。
『方丈記』が福原京について述べた部分を読んでいると、その記事は、たしかにいわば良質のルポルタージュという感じである。もっとも有名なのは次の一節であろうか。
日々にこぼち、河もせに運び下す家、いづくに造れるにかあるらむ。なほ空しき地はおほく、造れる屋はすくなし。古京はすでにあれて新都はいまだならず。ありとしある人は皆浮雲のおもひをなせり。もとよりこの所にをるものは地を失ひてうれふ。今うつれる人は土木のわづらひある事をなげく。(中略)。都の手振りたちまちにあらたまりて、ただ鄙びたるものゝふにことならず。世の乱るる瑞相とかきけるもしるく、日をへつゝ世中うきたちて、人の心もおさまらず、民の愁へつひに空しからざりければ、同じき年の冬なほこの京に帰りにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか。
福原京における建設ラッシュの中で、京都から住宅を壊し移す様子、福原の旧住人が立ち退きを強要され、それを愁へている様子などは貴重な歴史の証言である。さらに、当時の人々の中に「西南海の所領をねがひて東北の庄園をこのまず」という風潮があったというのも重要で、これは当時、荘園の領有体系が「西南海」、つまり西海道・南海道を中心に再編されていき、福原がその要の位置にすわっていたことを意味している。その中で実際に動いていたのが武士であることはいうまでもない。たとえば大輪田泊に存在した荘園、輪田荘を本拠とする輪田則久という武士が、公家貴族が福原を訪れた時に、屋敷地の支給や船の世話をしたりしている様子を知ることができるが(『山槐記』)、こういう摂津国の武士たちが活発に活動したであろうし、「西南海」の武士たちの全体が、新たな高倉ー安徳王朝への奉仕という意識をもって動き出していたに違いない。もし平家が内乱を勝ち抜いたとしたら(そしてそれは歴史の偶然の動き方によっては現実の可能性があったと考えるのであるが)、瀬戸内海から四国・九州に広がる武士のネットワークを中心にして、いわば海上軍事王国ともいうべきものが形成され、その中枢として福原京が大きな位置をしめたことは確実である。
ただ『方丈記』の記事は良質であるとはいっても、やはりルポルタージュであって、そこには歴史的な視点はほとんど欠如している。内乱の中で、福原京がどうなったか、強制立ち退きを迫られた住人がどうなったかなどということは、「いかになりにけるにか」という一言ですまされるのである。そもそも、不思議に思うのは、平安時代末期の内乱の時代を素材としながら、『方丈記』が戦争の災害自身については何も触れようとしないことなのであるが、福原の住人にとっての悲劇は、むしろ福原京の後の戦争の時代にあったはずである。
とはいえ、これまでの歴史学の研究にも、福原の住人にとって治承寿永の内乱はどのような意味をもっていたか、またそもそも治承寿永の内乱における「天下分け目の合戦」が福原の西(現在の神戸市須磨区)で戦われた一の谷合戦であったことをどう考えるかという視点は十分に存在していなかった。先に見てきたような由緒や経過からしても、福原は、安徳を擁する平氏にとって、どうしても死守しなければならない戦略的な拠点だったはずである。だからこそ、ここでの敗北が、軍勢の志気をもふくめて情勢に決定的な影響を及ぼしたのではないだろうか。『平家物語』の「鵯越え」の印象があまりに強いために、一の谷合戦という用語が一般的になっているが、落合重信『神戸の歴史・研究編』が述べるように戦闘は現在の神戸市域全体に及んでいるのであって、歴史の用語法としては、一の谷合戦というよりも福原合戦とでも称した方が適当のようにも思うのである。
そして、この合戦によって神戸地域が壊滅的な破壊をうけたことは確実である。歴史の常として敗者の側の史料は残らないから、正確なところはわからないが、たとえば、内乱直後、北条時政が頼朝の意志をうけて書かせた手紙に「摂津国、平家追討の跡として、安堵の輩なし」という一節がある。また、大輪田泊の位置にあった庄園、輪田庄について述べた鎌倉時代の古文書の中に「文書は乱逆の時、底を払って紛失し了、凡一郡の文書、一紙を残さず候なり」という一節がある。「凡一郡の文書、一紙を残さず候なり」という言葉は、今回の地震における歴史資料の破壊のことを思うと、印象的な言葉であるが、この場合の「一郡」とは、今の神戸市域のほとんど相当部分が属している八田部郡を意味する。そして、この二つの史料をあわせてみると、摂津国の武士はほとんどが平家に従っていたために、鎌倉幕府から安堵を受けている武士がいない、また安堵をうけようにも、証拠となるような文書も内乱の中ですべて紛失してしまっているという実態が浮かび上がる。
とはいえ、福原の住人の記憶の中には、この戦乱は長く残った。それは、落合重信『神戸の歴史・研究編』、森田修一「庄山『平盛俊墓』を興す」(『百耕』創刊号、一九九二)などがふれているように、現在の神戸市域全体にわたって、忠度塚、盛俊墓などの墳墓や古戦場遺跡が伝承されていることに明らかである。もちろん、これらの伝承にどれだけの歴史的根拠があるかについては、今後の研究、特に考古学的な研究にまたねばならないだろうし、さらにまた、おそらく『平家物語』の物語や郷土史的な興味の発展の影響の下で、それらの伝承が中世・近世の神戸の中で伝えられ、あるいは創造されていった経過も、研究の対象としなければならない。しかし、一般に流布している源平合戦の歴史像を正していく上では、このような伝承の存在自体が重要な意味をもっているのではないだろうか。
右の論文で、森田氏は「『おごれる平家』と蔑まれ、世間では、源平いずれかといえば、源氏を『善玉』平家を『悪玉』というのが、通り相場のようになっている中で、神戸市民の大多数は、平家一門に対して深い愛着をいまだに抱いている」と述べている。もちろん、このような平家びいきという感情や民俗は神戸の地域的な歴史文化であって、歴史学とイコールではない。しかし、これまでの一般的な福原京のイメージはあまりに実態からはなれている。そこには勝者の歴史観、いわば源氏中心史観が知らず知らずの内に入り込んでいる。それを正していく上で、神戸の平家びいきの歴史文化に注目することは大きな意味をもっているのではないだろうか。
Ⅲ地震と時代閉塞の世論
『方丈記』が福原京について語っていることは、もう一つある。『方丈記』は、「予、ものゝ心をしれりしよりこのかた、よそじあまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見る事、やゝたびゞになりぬ」として、平安時代末期から鎌倉時代という内乱の時代を生きた自己の経験・見聞を語っているのであるが、そのトップは、先にもにふれた一一七七年(安元三)の京都大火であり、次が一一八〇年(治承四)四月の大つむじ風、そして同じ年六月の福原遷都となり、さらにその翌年一一八一年(養和一)の大飢饉、さらに一一八五年(元暦二年)の京都大地震と続くのである。『方丈記』の生々しい記述を読んでいると、この時代が異様といってよいほど災害の頻発した困難な時代であったことがよくわかる。
しかし、考えてみると、『方丈記』は、福原遷都をのぞくと、「世の不思議」としてすべて自然災害を数え上げるだけで、社会的・政治的な事件(その筆頭が治承寿永の内乱と戦争であることはいうまでもない)を取り上げないである。長明にとっては、福原遷都は、自然災害と並ぶような意味での「世の不思議」に属することであったことになる。『方丈記』は次のようにいう。
おほかた、此の京の始めをきける事は嵯峨の天皇の御時みやこと定まりにけるより後、すでに四百余歳をへたり。ことなる故なくて、たやすく、あらたまるべくもあらねば、これを世の人やすからず、愁へあえるさま、実に理にもすぎたり。
つまり、京都に都があるということは、「四百余歳」「定まりにける」ことであって、一種の自然的な秩序なのである。そして、長明にとっては、自然的な秩序が壊れるというのは、要するに家が壊れることを意味していた。長明は、「さしもあやふき京中の家」(安元の大火について)、「三四町をふきまくるあひだにこもれる家ども、大きなるもちひさきもーー」(治承四年のつむじ風)、「たのむかたなき人は、みずからが家をこぼちて」(養和の大飢饉)などという。一読して、奇妙に家のことばかりいっているという感じであるが、さらに、元暦二年の京都大地震の様子を述べた後、全体の結論は、「すべて世の中のありにくゝ、わがみとすみかとのはかなくあだなるさま、又かくのごとし」ということになり、だから山の中に隠棲してしまおう、家などは「方丈」だけあれば十分だと話を展開するのである。無常感どころか、長明の家へのこだわりたるや、なまなかなものでないということになるが、こう考えると、長明が「家はこぼたれて淀河にうかび」とか「されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか」などと、福原京についても、さかんに家を問題にした理由がわかるだろう。遷都というのは、当時の人々にとっては、家の立つべき場の崩壊、一種の地盤喪失であったのである。
右に引用した部分のラストにも、「世の人やすからず、うれへあえる」とあるように、福原遷都は、高倉院や清盛の予想を越えて、人々に時代の閉塞とその大きな転換を感じさせ、それに関わって、さまざまな流言が乱れ飛んだ。たとえば、福原に出張した官人が、九世紀の嵯峨隠君子なる人物が平安京からの遷都は王朝の崩壊を意味すると予言していたとか、建春門院が高倉院の夢中に現れて遷都を責めたとかいう噂を広めている(『玉葉』)。清盛に物の怪がとりついたという『平家物語』の有名な話をはじめとして、福原は、おそらくこの種の流言の発信地でもあったようである。そう考えると、一一七九年(治承三)、ちょうど平氏クーデターの年、中国銭の流入にともなって「銭の病」という奇病(お多福風邪?)が流行したというが、考えてみれば、これも宋船が入港した福原あたりを震源地としていたに違いない。
さて、この時代の流言の中で、特に重要なのは、一一七九年(治承三)一一月七日、京都を激震が襲い、それを占った陰陽頭安倍泰親が内裏に参上して泣いて訴えたという「遠くは七日、近くは五・三日に御大事に及ぶべし」「世は唯今失なんず」「法皇も遠旅に立せ御座し、臣下も都の外に出給べし」なる予言である。この地震の発生自体は他にも記録があり、事実であるが、泰親の予言は『平家物語』や『源平盛衰記』に載せられているのみなので、本当にあったことかどうかはわからない。しかし、実際に、その七日後の一四日に清盛が福原から上洛して後白河を鳥羽に幽閉した訳であるから、当時から、この種の噂が流布していた可能性は高いだろう。
そして、この時代、地震が世の中の秩序を一挙に地盤崩壊させるという根深い恐怖が現実に存在していたことは、一一八五年(元暦二)七月、京都近辺で発生した大地震の記録に明らかである。阪神大震災を経てみると、『方丈記』の「地のうごき、家のやぶるゝおと、いかづちにことならず。家の内におれば、忽にひしげなんとす。はしりいづれば、地われさく。はねなければ、そらをもとぶべからず、龍ならばや雲にも登らむ。おそれのなかにおそるべかりけるは只地震なりけりとこそ覚え侍しか」という一節は、地震というものについての人間の根源的な恐れをよく表現していることが実感される。
しかし、この大地震は、三月の壇ノ浦合戦によって内乱に一応の決着がついた直後であっただけに、人々に時代が変わったという実感をも与えたようである。もちろん、この地震によって、年号が元暦から文治に変わったというのは、まずは形式的なことに過ぎない。ただ、右大臣・九条兼実は、地震の理由を「源平の乱により、死亡の人、国に満つ」という事態に求めて「徳政」の必要性を説き(『玉葉』)、新たに成立した鎌倉権力の側でも、この地震を契機として、朝廷に「徳政」をもとめるという姿勢を明示するにいたっていることは注目してよい(『吾妻鏡』)。もちろん、ここで「徳政」といわれているものはけっして本質的な政治の変化ではない。しかし、ともかくも、この地震を一つの契機とする公武の「徳政」の中から、鎌倉時代の政治体制が生まれてきたことは事実なのである。歴史はけっして繰り返さないから、まったく違う形となるのはいうまでもないが、阪神大震災も、かならず時代の変化をもたらすことになると、私は思う。