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教材としての社会史ーー芋粥から鉢かづきの下人

教材としての社会史
 『前近代史の新しい学び方』青木書店、歴教協編集        保立道久
  はじめに
 「社会史と歴史教育」というと、新しく提起された問題のようであるが、歴史学と歴史教育の「対話」が長期にわたって形づくってきた問題群の中では、むしろもっとも古典的なものの一つである。たとえば遠山茂樹「教科書検定訴訟支援と歴史学の課題」(1979年 )は、食事・衣服・交通・職業などの小学生に認識可能な「生活史」的諸事象の検討から社会の仕組と時代の歴史像を導くという必要を提起している。「社会史と歴史教育」というテーマは、歴史学・歴史教育において、もっとも重要であったといってよい論争問題、①歴史教育における感覚・直感と認識の構造の問題、②「民衆史・民衆生活史と歴史教育」という二つの問題に直接に関係しているのである。
 だから、歴史学の歴史の中でみる場合、私は、社会史研究は本質的に歴史教育に対する視野を確保しなければならないし、社会史研究の今後は、歴史教育のあり方との関係で議論されるべきだと考える。
 もちろん、「社会史」とはいっても様々な思想的・方法的立場があり(保立、1991年 )、実際には、学史に対する「断絶」「無関心」を強調する雰囲気が強い。新しい研究動向が生まれる場合に、過去との断絶を強調するのは、自然なことではあるが、しかし、私が専攻する中世史研究の場合、社会史研究の動向は、すでに20年近くになろうとしている。それを学史の中に客観的に位置付けることは、すでに一つの社会的責務になっており、いつまでも「余計者」の態度で過ごすことは許されないのではないだろうか。
 さて、これまで私は、社会史研究と歴史教育の問題に関わって、①「中世史研究と歴史教育ーー通史的認識と社会史の課題にふれて」、②「日本中世の教科書叙述と教材」、③「歴史を通して社会をみつめる」の三本の文章を書いてきた。①②は通史的認識や絵画史料・民話史料の教材化との関係での概論、③は平安時代の政治史・宮廷史と『御伽草子』(「鉢かつぎ」)という具体的な素材を取り扱ったものである。
 それらをうけて、本稿では、小学校教育における社会史の教材化について、中世における「下人」を素材として試論を述べることとしたい。小学校教育を対象とするのは、まず、小学校では感性的認識なしにはまったく授業が成立しないこと、また、小学校教育は社会史を教材化するために必要な文学・絵画などの授業との相互乗り入れがやりやすいことなどの事情によっている。
 と同時に、社会史的・民衆史的研究は、歴史叙述の新しい形式として生まれたものであり、その成果を日常意識・文化的常識の中に浸透させたいという衝動を自己の中にもっている。社会史的認識は、それ自体の性格として、小学校段階から、いつのまにか常識となるような種類の認識として蓄積され、鍛えられることを要求しているのである。これが小学校教育を対象としたことの第二の理由である。社会史はいわば歴史文化の基底部における変革という大望をいだいているともいえようか。その希望をマスコミやジャーナリズムなどの「外部的」条件に委ねることなく、研究者と教育者の「共同的」な議論と実験の中で実現することができれば、歴史学をめぐる状況は大きくかわるだろう。
 中世の下人論の動向
 まず確認しなければならないのは、中世の領主経営において下人の存在は規定的な意味をもっており、たとえば高校教科書も、領主・名主の下の隷属農民として下人が存在したことをかならず論述していることである。研究の側でも、領主の下人支配と、その階級的性格の問題は、「農奴的存在か、奴隷的存在か」という形で長く論争されてきたことは周知の事実であろう。このような研究の到達点は、高橋昌明の仕事であり、そこには現在でも受け継ぐべき多くの論点が提示されている。歴史教育の系統性を重視する立場からすると、この問題は時代区分論に関係し、本質的に重要であることはいうまでもない(木村茂光・今野日出晴、1995年)。
 他方、高橋の仕事が実質上の出発点となっていたのであるが、たとえば安野真幸、盛本昌弘、高橋公明、関口博巨などによる、多かれ少なかれ社会史的な性格をもった最近の下人研究は、文学史料・対外関係史料を含めた多様な史料を発掘し、下人の暇乞い、薮入り、放状、さらに下人の「非農業的」性格や異民族的性格などを明らかにしている。これらの研究が従来の論争では見逃されていた下人身分の具体的形態に光をあてたことは明らかである。
 たしかに別稿でみたように(保立、1993年a)、下人身分は都市・平安京における下級卑賎の者一般を指す貴族側の呼称からはじまった下層被支配身分の概括的呼称であり、階級的な関係をそのまま表現しているものではなく、さらにしばしばいわれるような私人への従属一般を意味する身分用語でもない。それは本質的に「浄穢」の貴賎観念をからみつかせた身分用語として、「下衆・下種」などと同じ側面をもっており、たとえば安野真幸がいうような流浪者の雇用や、高橋公明が例示したような都市的奴隷存在をも表現するのである。
 しかし、だからといって庄園や領主支配の内部における下人の社会的性格の論理的把握が無用な訳ではない。私も、下人の社会史的研究を一つの研究テーマとしてきたが(保立、1981年、1986年)、その中で、領主と下人の関係の中に、託身の意識、御恩に対する互酬の意識の存在を確認した。それは右の諸研究の明らかにした下人の暇乞い、薮入り、放状などの問題と同じ状況を表現している。私の立場からすると、このことは、下人の隷属関係の中にはしばしば意思関係上の一定度の自立・自由が想定できること、それ故に下人を全体としては農奴的存在とすべきことを示している。領主支配の下における下人の階級的・社会的性格の究明とその社会史的研究は、けっしてことさらに他を排除すべきものではないのである。
 下人身分論の教材化
 特に、下人身分論の教材化を考える場合には、領主経営との関係を無視することはできない。中世史教育において、中世における地域の伝統的領主の家柄を、地域史資料(文書史料、さらに可能な場合は館・城郭遺跡などの考古学史料)に依拠して示しておくこと、領主経営の下で、民衆の相当部分が下人身分に編成されていたことを子どもたちに伝えることは自然なことなのである。
 その個性的な教材化は、個々の教師に委ねられているが、典型教材としては、まず、歴史教育の場でしばしば取り上げられる『今昔物語集』(巻26ー17)の芋粥の説話がある。芥川竜之介の翻案でよく知られている、この説話は、実は、研究史の上では重要な下人史料として注目されているものなのである。話の概略は、摂関家に仕える「貧乏」五位が藤原利仁の越前敦賀の館で歓待を受けたということだが、問題は、館に五位が到着した夜、館の側にある「人呼びの丘」という塚の上から、執事の男が「此の辺の下人承れ、明旦の卯の時(6時)に切口三寸、長さ五尺の芋、各一筋づつ持て参れ」と叫んだという部分である。
 その結果、翌日の早朝から巳の時(10時)にいたるまで、山芋を持参する下人が陸続とやってきて、芋を家の軒の高さにまで積み上げたという。そして『今昔物語集』は「其の声の及ぶ限りの下人どもの持ち来たるだにさばかり多かり、いかに況むや、去きたる従者(遠退いた所にいる従者)どもの多さ思い遣るべし」と語っている。ここには領主館近辺の下人と管轄地域内部に散在的に居住する下人の全体を支配する大規模な領主経営の様相をみてとることができるのである(戸田芳実、1967年、62頁、150 頁)。
 そして、これらの下人は庭で客人の五位の「おろし」(余り物)を振る舞われたのであるが、「おろし」を食べるのは従者・下人の従属を象徴する所作であり、そもそも五位が摂関家の正月の饗宴で食べた芋粥自身が摂関家当主の余り物であったのである。社会史的民衆史は、単に民衆生活の細部を描くものであってはならず、子どもたちに、このような前近代的な人格的従属の具体相を伝えるものでなければならないだろう。人間が人間に従属するということがどのようなことであるのか、それ自体のイメージをもっていなければ、そもそも農奴とか奴隷とかいった議論そのものが無意味なのである。農奴とは翌朝に何をさせられるか分からないような生活を送っている存在であるというのはヨーロッパ中世史でしばしばいわれる定義であるが、利仁の下人たちは、まさにそのような存在として描かれているのであって、しかも、黎明前から起き出して持参した冬の貯蔵食料・山芋をふんだんに使った饗宴の「おあまり」を喜んで頂けなければならないような存在なのである。
 そして、このような芋粥をめぐる上下の「食物連鎖」が、「京都の貴族」ーー「地方の領主」ーー「その下人たち」を貫く都鄙の社会関係を正確に表現していることも重要である。その観点から、この説話に依拠して、成立期の荘園制支配のあり方を実感的に子ども達に伝えることもできるのではないだろうか。それは、本書、藤原千久子報告の用語でいえば、都市の領主と地方の領主の「二重支配」という本質をもつ荘園制支配の学習素材というこになる。
 以上、芋粥説話についての詳細は別稿を参照いただければ幸いであるが(保立、1981年)、地域の領主史料、あるいは領主館・城跡の遺跡を利用したりしながら、この芋粥の話をしていけば、中世の荘園制・領主制下の下人のイメージを子どもたちの心の中に結ばせることは比較的たやすいのではないだろうか。特に、領主館の遺跡の中に近辺の下人小屋ーーまさに「声の及ぶ限りの下人」の小屋の遺構を想定できる場合は、現地見学などを組み合わせれば、さらに具体的なイメージを考えることが可能になる。そうでない場合も、その地域の下人史料を探索すれば、さまざまな工夫が可能になるだろう。そのような作業は実際上は、地域史研究の教師自身による取り組みとなることになるが、その中からオリジナルな下人研究の新たな課題が開拓される可能性がまだまだ残されているのである。
文学教材と「人商人」
 下人について、これ以上の時間を小学校の歴史の授業に配当することはむずかしいだろうが、しかし、下人の物語をふくむ文学素材を「国語」の授業であわせて選択することは十分に試みる価値がある。下人の境遇や売買を示す文学作品には、説教節の「さんせう大夫」、謡曲「隅田川」「自然居士」、さらには、中国人が九州の箱崎に連行されて牛飼の下人として使役されたという謡曲「唐船」など、子どもにも理解可能なものが多い。これらは「封建的」な人身従属というものが、どういうものであったかを知らず知らずに人々に伝える力をもっている文学である。
 気になるのは、最近の子どもたちは、これらの文学作品のうち、「さんせう大夫」「隅田川」などの有名なものさえ、ほとんど知らないのではないかと思われることである。社会の現代的変容は豊富な「児童文学」を生み出し、それはそれで評価するべき点もあるが、しかし、「伝統的」民話の世界との断絶という状況は否定しがたい。
 また、私は、文学教育の側にも、現在の「国語・古文」教科書の実態などとの関係で、いわば「源氏物語主義」ともいうべき、古典への姿勢があるのではないかと疑っている。もちろん、『源氏物語』の授業には独自の意味があるが、『源氏物語』は、物語の構成自身の中に(王権の性的放縦の実態など)生の形では子どもには理解しがたい部分を含んでいる。『源氏物語』の断片を授業するよりも、語法も相対的に単純な『今昔物語集』『御伽草子』などの物語や謡曲を大量に教材化した方が、「古典に親しむ」近道ではないか。特に小学校では、それらの文学を系統的に取り上げる試みがあってもよいのではないかと思うのである。
 これはまずは文学教育の側で検討してほしい問題であるが、歴史学の側でも考えるべきことである。特に、下人論の領域では、安野や棚橋光男の謡曲・『御伽草子』などについての研究がよるべき成果となっており、それを素材として歴史の側から文学教育の側へ問題を提起することができるのではないだろうか。このこととの関係で、忘れてはならないのは、家永教科書に対する検定において、「人をかどわかしては、東国の農村に連れていき、下人として売る商人」という「人商人」の叙述が問題とされたこと、この叙述の前提に「武士・名主はその田畑を、あるいは手作りといって郎従・下人に耕作させ(下人は財産同様に売買された)」という叙述があったことである(『検定不合格日本史』89頁、68頁、三省堂、1974)。家永が、ここで謡曲隅田川を念頭においていたことは確実である。歴史学が健忘症であってよい訳はなく、下人論を文学素材をも視野に入れて新たな形で教材化していくことは、この意味で、私たちの古くからの課題に属することなのである。
 研究・教育の素材としては、①狂言、②「人商人」、③人身売買文書などが上げられるだろう。まず第一の狂言については、いわゆる「太郎冠者」が中世末期の下人の姿を反映していることが重要である。これについては、安野の仕事のほか、「たくらだ」「のさ」「ものぐさ」な反抗的下人の姿を捉えた佐竹昭広の文学研究の側からの見事な仕事がある(佐竹、1967年)。狂言は、小学校で見物にいったり、巡回が来たりということがあるだろうが、その際に太郎冠者が出てくれば、歴史的下人の姿を伝えておくことはきわめて自然なことである。私は、社会史は、こういう「伝統芸能」の鑑賞もふくめて「歴史的なるもの」を文化の中に保証していく仕事の一環として考えなければならないと思う。
 次の人商人については、「さんせう大夫」(安寿と厨子王)や「隅田川」が利用できることはいうまでもない。別稿でふれたように(保立、1986年)、人商人が人(特に子ども)を捕まえて連れ去る時には、その道具として「大袋」を使用することがあり、中世絵巻の中には、肩に「大きな袋」をかけた強盗の姿も見ることができる。ヨーロッパでもサンタクロースの従者に「むちうち小父さん」という人物がいて、悪い子どもを袋に入れて連れ去ってしまうそうだが、日本でも「大袋」というのは「人さらい」のことをいったのである。私は、厨子王が山伏の笈の中に隠れて逃走したというのも、このような実態を背景とした連鎖イメージであると思う。また市庭で人身売買が行われていたことについても、和泉国や越後国の事例などがある(保立、1986年)。これらの史料を利用して、さまざまな授業のスタイルが可能となるのではないだろうか(なお、「さんせう大夫」については、下人の性別の問題、女性の下人の問題も注意をしておくべき点である。下人は男性のみでなかったことはいうまでもなく、この女性下人の姿については、保立(1995年)の「鉢かつぎ」についての分析を参照されたい)。
 さらに、棚橋が発掘したような人身売買文書は、仮名のものも多く、比較的に写真でも読みやすいので、子どもたちにとっては衝撃力のある教材となりうるかもしれない(なお人身売買文書の一覧が磯貝富士男(1977年 )の仕事にある)。また磯貝(1980年)が指摘した飢饉と人身売買の問題も重要である。これらの文書を文学作品と一緒に使用できる場合、つまり人身売買文書に縁のある地域の授業では、(実際には中学校の授業ということになるかもしれないが)、さらにさまざまな工夫ができるのではないだろうか。

 さて、以上、早足の上、個別のテーマに深入りしすぎたかもしれないが、このような方針を取ったのは、現在のところ、「社会史と歴史教育」というテーマにとっては、よくみかける種類の社会史に関する一般論議よりも具体的に利用可能な教材を細かく詰めていくことが大切だと考えているためである。同じような形で、たとえば「市庭」「ライフサイクルと子ども」「労働」などなど、多様なテーマ研究を蓄積していくことが重要なのではないだろうか。
 そして、これらを地域資料と結合して、教材化していくためには、考古学や民俗学の研究者をふくむ、歴史教育を中心軸とした共同的なネットワークを形成していかねばならないのだろう。そのためにはなによりも歴史学の研究者と教育者の間で新たな創意と研究を組織化しなければならないはずである。

安野真幸『下人論』、日本エディタースクール出版部、1987年、
磯貝富士男「百姓身分の特質と奴隷への転落をめぐって」『歴史学研究』1977年度大会別冊。
同「寛喜の飢饉と公武の人身売買政策」『東京学芸大学附属高等学校研究紀要』、17ー19号,1980ー82年
木村茂光・今野日出晴「歴史教育と時代区分」『日本史研究』400号,1995年,
佐竹昭広『下克上の文学』、筑摩書房、1967年
関口博巨「近世前期奥能登における『下人』化の契機」、『歴史と民俗』、平凡社、1993年
高橋公明「異民族の人身売買」、『アジアの中の日本史Ⅲ』、東京大学出版会、1992年
高橋昌明「日本中世封建社会論の前進のためにーー下人の基本的性格とその本質」、『歴史評論』332号,1978年、
棚橋光男「人身売買文書と謡曲隅田川」、同『中世成立期の法と国家』、塙書房、1983年 、
遠山茂樹「教科書検定訴訟支援と歴史学の課題」、『歴史学研究』474 号)
戸田芳実『日本領主制成立史の研究』、岩波書店、1967年 、
保立道久「庄園制的身分配置と社会史研究の課題」『歴史評論』380号、1981年
同『中世の愛と従属』、平凡社、1986年
同「中世史研究と歴史教育ー通史的認識と社会史の課題にふれて」『歴史学研究』569 号、1987年 (後に『歴史学と歴史教育のあいだ』三省堂、1993年 )
同「日本中世の教科書叙述と教材」『歴史学研究』611 号、1990年、
同「日本中世社会史研究の方法と展望」『歴史評論』500号、1991年
同「日本中世の諸身分と王権」『講座、前近代の天皇③』青木書店、1993年 a同「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」『国立歴史民俗博物館研究報告』54集、1993年b
同「歴史を通して社会をみつめる」(『共生する社会』、シリーズ学びと文化④、東京大学出版会。1995年
盛本昌弘「中世における主人・下人関係の様相」(『歴史学研究』603 号、1990年

 藤原報告は、1977年に『歴史地理教育』誌上で提案した中世史の小学校カリキュラムの現在の段階を報告したものである。「小学校の通史学習で中世をどう教えたか」(『歴史地理教育』267号、1977)、「躍動する中世の民衆」(『同』471号、1991)と読み比べると、長期にわたって経験と工夫が蓄積されてきたことがわかる。
 授業の内容と形態が地域・教師・子どもたちの特徴や個性によって多様性をもつことは当然だが、我々にとっての「過去」が動かしがたい客観性をもつものである以上、「それらの歴史事実をどのような順序で、どのような教材を使用して子どもたちに伝えるべきかについて十分な試論を組織すること」(保立「歴史を通して社会をみつめる」(『共生する社会』、シリーズ学びと文化④』、東京大学出版会、1995年)、別の言い方をすれば、小学校の中世史授業の「典型」を考えていくことは、どうしても必要なことだと思う。それはけっして授業のマニュアル化ということではなく、カリキュラムと教材研究の深化と共有、複線的な系統化ということである筈である。
 藤原先生の基本認識は、「子どもたちが楽しくわかるというのは、この様に、その時代を生きぬいた人々の様子が具体的にイメージ化できることである。また、その時代が他の時代とどうちがうのか、前の時代よりどのように発展してきたのかの順次性を認識することである」(■■頁)というまっとうなものである。その上に立って、藤原カリキュラムは、歴史の順次性という点では、中世の歴史の展開を①中世=荘園制下における貴族と武士の二重支配からの解放、②生産諸力と商品経済の発展、③都市・農村における共同体の自立、④民衆運動の発展という筋を通す方針をとっている。そして、具体的なイメージの展開という点では、1977年段階では、河野通明氏の史料・教材研究を前提として、紀伊国阿テ川荘の百姓言上状などの文書を子どもとともに解釈する点を重視しており、最近ではさらに絵画史料によって教材を豊富化することを目指している。
 報告を読ませていただいて、歴史認識における初心に戻ることの必要を痛感させられた。藤原カリキュラムが全体として了解しやすく先進的なプランであることは明らかであり、これを生かして、中世史のカリキュラム論を進展させるための議論に参加したい。私にとっては、その最大の論点は、①の「二重支配」の内容である。これは中世社会をどのように理解すべきかという問題とイコールであり、まず、私は、中世を通じた二重支配の存在という指摘に賛成である。その視点は、中世を公家から武家への権力交替の時代とみて、国家、王権や公権力の問題を背景においやってしまう古い見方、いわゆる公武権力交替史観から基本的に解放されている(参照、保立「中世史研究と歴史教育」、『歴史学と歴史教育のあいだ』、三省堂、1993年)。しかし、それを「貴族と武士の二重支配」(■■頁)、「貴族と地頭の二重支配」(■■頁)、「荘園領主と守護大名の両者による支配」(■■頁)と捉えること、つまり、「貴族(公家貴族)=荘園領主」「武士=地頭=守護」の二重支配とすることには検討の余地があるのではないか。もし、荘園制を公家貴族を中心に捉え、地方領主を武士と等置してしまうならば、そこには、まだ公武権力交替史観の残り滓がまだ含まれているように思う。
 具体的にいえば、まず、荘園領主は京都・鎌倉・奈良などの大都市に居住する都市貴族であるが、その中には公家貴族の外にも、「将軍家」以下の軍事貴族が含まれる。平安時代末期の内乱以降、都市貴族の中で軍事貴族の位置が優越していき、室町時代以降は、軍事貴族が国家と荘園制的土地領有体系の中心にすわったのである。また、「武士=地頭=守護」という定式についても疑問がある。一般に地頭領主は、地頭職を広域的・全国的に保有している。彼らは一面では中央都市軍事貴族の中層を構成し、他面では諸階層の地方領主の上層にいるような存在なのである。そして、武士とは、黒田俊雄氏がいうように、それ自体としては暴力を職能とする身分を意味する(黒田「中世の身分制と卑賎観念」著作集⑥、法蔵館)。武士は、そのトップクラスには将軍家以下の都市軍事貴族を含み、裾野には様々なランクの暴力行使を職能とする身分階層が存在するような、階級的には多様な存在である。もちろん、この職能をテコにして彼らは領主制を発展させたのであるが、それにしても「武士=地頭」という等式は正確ではないのである。
 以上、藤原報告の提起した中世の二重支配の問題は、中央都市貴族・領主と地方貴族・領主が二重に存在する荘園制下の階級的構造の問題に読み直すことによって生かしていくべきだと思う。近世社会への移行とは、この二つの領主類型とその家柄が、荘園制の成立と消滅に対応して、だいたい平安時代末期に成立して戦国期に消失していくという問題であり、それを各地域・各荘園の代表的な荘園領主と在地領主の家柄に即して説明すればよいのだと思う。もちろん、現在の中世史研究は、中世社会の構造や発展に関する共通認識を提示できておらず、順次的・通史的認識のために必要な古代・近世史研究との間での移行期論争も、70年代半ば以降、低調となっている。この事情の下で、以上は抽象的な全体論に過ぎず、また私個人の受け止め方にとどまるものであることをお断りしておきたい。しかし、それをおそれず私見を述べたのは、この議論が、藤原カリキュラムの全体像に関わってくるからである。
 以下、それを、カリキュラム全体の中での武力のイメージの問題に絞って述べたい。報告には、暴力を荘園制とは区別された国家権力や身分・職能の問題として説明するのではなく、もっぱら「地方領主=武士」を中心に説明する傾向がないだろうか。たとえば、平安時代末期の内乱が、武士団相互の戦闘行為を越えた国家暴力の創出の本質をもつことは独自に強調してよい。それが本格的な戦争としての惨酷な性格をもっていたことを即物的に伝えたい(参照、野口実『武家の棟梁の条件』中公新書、1994。川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社新書、1996)。それは中世後期になれば近世社会にむけて、いよいよ強化されていくのである(池上裕子『戦国の群像』、集英社版日本の歴史、1992)。
 藤原カリキュラムでは、武士の教材として『平家物語』の河原兄弟の一節を採用し、中層武士の苦悩を読み取らせることにポイントが置かれている。また、「武士」というと「一所懸命」というキーワードによって、土地との結合を論ずるのは、小学校から高校までの定形パターンであるが、それはやめた方がよいのではないか。地頭領主はけっして「一所懸命」ではない。さらに、それとの関係で、「元寇」の取り上げ方がどうなっているのかも気になるところである。
 そして、河原兄弟の挿話を教材として採用するならば、むしろ注目すべきは、戦場に従者として動員された下人の問題である。下人論については、本書の別稿で論じたが、中世における多数者・民衆=下人の立場からは戦争はどう見えたかというような立論があってよいのではないだろうか。戦争被害は、まず何よりもこのような階層に現れること、他面で下人の戦闘動員こそが、村落における「地侍」の形成の基礎をなしたことを重視したい。また、これとの関係で、一揆的運動における武力の意味ももっと限定して伝えるべきではないだろうか。「地侍」はよくいえば自警団組織、実際には地方暴力団組織ともいうべき側面があり、彼らの武力は一揆闘争の中で大きな意味をもつものの、現実には支配層内部の分裂の中で一方の武力として動いている場合が多い。その点では、山城国一揆も加賀一向一揆も無限定に評価することには慎重でなければならないと思う。また私は実態としても民衆運動と武力の問題は、すでに平安時代には登場していると考えており、(研究の側に跳ね返ってくることを恐れずにいえば)これによって、民衆運動の段階を画することには慎重であるべきだと思う。
 以上、本来は藤原カリキュラムの重点である民衆史や経済史的諸問題について述べるべきであったのかもしれないが、紙幅の関係もあって本当に一面的なコメントになってしまったことを御許しいただければと思う。しかし、報告の提起した「二重支配」の問題はそれをどのように子ども達に論理化して伝えるかという問題を含めて最大の要点であると考える。私は、本書所収の別稿で、しばしば五位の「零落」と対比して武士の新興を教えるという形で取り上げられることが多い『今昔物語集』の芋粥の説話を下人論の素材として取り上げた。それは、藤原報告に接して、芋粥の説話は、京都の荘園領主(摂関家)と地方の領主制(藤原利仁)の関係を示しており、成立期の荘園制的支配の「二重性」の素材としても興味深い素材であることを実感したためでもある。
 藤原カリキュラムの「二重性」の提起を踏まえ、中世のカリキュラムを、芋粥の時代、荘園制の成立期の平安時代から組み立て直す必要があるのではないか。それは全ての問題に波及してくるが、しかし、その作業によって授業時間数の制約の中でも中世のカリキュラムをより全面的なものにしうるのではないかと思うのである。
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