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益田勝実氏と歴史学の立場

 益田勝実氏と歴史学の立場(笠間書房の宣伝誌にのせたもの)
 益田勝実氏の仕事を読むようになったのはいつ頃のことか記憶がない。ただ、大学時代に『火山列島の思想』を手に取ったことは確実で、変わった名前の本だと思ったことが記憶に残っている。そして手許に益田さんが登場する『文学』の一九九〇年冬号があるから、そのころからは意識していたのだと思う。
 ただ、この「研究の対象としての文学」という座談会は、高橋康也、佐竹昭広、大岡信氏との間で行われたもので、これを入手したのは、むしろ佐竹さんの発言を読むためであった。個人的なことだが、私は『御伽草子』に興味があり、その関係でいつも佐竹氏を参照していたのである。しかし、この座談会は、佐竹氏はご自分から発言することはほとんどなく、司会は大岡氏ということになってはいるが、座談は益田さんを中心にまわっている。それは見事なほどで、そもそも冒頭の大岡氏の発言の途中で、益田さんは「ちょっと途中で言葉をさしはさむようだけれども」といって座談の主題にいきなり踏み入っている。
 この座談会で、益田さんは「学問らしくあることから生ずる束縛」を語り、大岡信氏の『うたげと孤心』にふれて「従来の研究の枠を超えてほんとうの評論に抜け出たら、こういう視野がひらける」のだといっている。そしてご自身の研究歴をふり返って、もっと芸術・文芸の創造と批評にまっすぐに近づく仕事をしたかった。自分は独学から出発したから、「いざ早道というのはやっぱり古代文学だったのですね。『源氏物語』とか、平安朝文学だった。それはやり方がやさしいんですよ」などと述懐している。これを読むと、私も独学で日本史研究の中に入ったので、結局、平安時代史から離れられないのかもしれないなどと思う。たしかに歴史研究の場合も、史料が少なく、先行研究も多い平安時代史は「やり方がやさしい」のである。
 それはともかく、益田さんの語り口は私たちに親しい感じを呼び起こす。誰でも、こういう話しをする人にあってみたい、話を聞いてみたいと思うのではないだろうか。しかし、益田さんの仕事の岩盤のような意味を実感したのは、『竹取物語』について考えるようになって、益田さんが鈴木日出男氏を聞き手としてもっぱら『竹取物語』について語った記録「フィクションの誕生―益田勝実氏に聞く」(『国文学』三八ー四)を読み、さらに『火山列島の思想』の世界に入り込んで大きなショックをうけてからのことである。
 私は、その中で、一昨年、『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書)という本を書いたのだが、その本の最後にも書いたように、益田さんからあたえられたショックというのは、「神道」というものをどう考えるかということであった。これは益田さんが深い関心をもっている柳田国男・折口信夫の仕事の意味とも関係して、日本の前近代史研究にとってはもっとも根本的でありながら長く始末が付かないままでいる問題である。その事情に神道研究への一種の忌避が存在したことは認めざるをえないだろう。益田さんはそのようなタブーからは自由であり、しかも、益田さんの提言は、神話から神道へという展望の下に展開されており、その前提に神話論があるという周到なものである。こうして私は、蛇に魅入られたようになって、益田さんの仕事を追跡し、『竹取物語』の向こう側に神話をみるという、まさか自分が研究の対象にするとは考えていなかった領域に迷いこんでしまった。
 そして、その過程に昨年の三,一一の東日本太平洋岸地震の衝撃が重なった。益田さんが『火山列島の思想』で展開したオオナムチ=噴火神論は、当然に地震神話にも連なってくる。そこで、私は、地震学の基礎勉強からはじめて、地震が列島社会にもたらした影響を中心に、歴史学としては「やり方がやさしい」奈良・平安時代の政治史を叙述しなおし、そして自然神が「祟り神」化するという大筋にそって、「地震列島の思想」を描くという作業をすることになった。こうして、ここ一年をかけて、『歴史のなかの大地動乱ー奈良平安時代の天皇と地震』という新書を書き終わったのだが、いま、ここでもう一度、益田さんの仕事をよく考えてみたいという気持ちになっている。
 
 さて、この文章を書くために、あらためて『文学』の座談会での益田さんの発言を読み直してみて、益田さんのいっていることで『かぐや姫と王権神話』では検討し残していることがあるのを思い出した。以下、それを説明して、益田さんの仕事について述べよという本誌からの要請について責めをふさぎたいと思う。
 それは、かぐや姫が、この世に置いていった「不死の薬」について、これは西王母のもっていた不死の薬そのものだという益田さんの指摘である。つまり、中国の神仙譚によれば、羿(げい)という英雄神が苦心惨憺して西王母の許へ行き、この不死の薬をもらって帰ってきたのだが、女房の姮娥がそれを盗んで月に逃げてしまう。益田さんは、『竹取物語』の終わり方は、これを意識したものであるというのである。益田さんの語り口を残しながら要約すると、「こういう経過で、本来、月の世界には不死の薬があるが地上にはないということになっていた。ところが、ひょんなことから、かぐや姫が地上に下り、月の使者が、この不死の薬をもってきてかぐや姫に飲ませて、その残りが日本に稀有に残っちゃった。ところが帝や竹取翁・嫗がその服用を拒否して、薬は富士から御焚き上げになって火山の噴煙になって上り続けてパーになっちゃう。だから、彼らがこのワンチャンスを拒否したおかげで、日本人は誰も永遠の生命を獲得した人がいない。日本人と永遠の生命の出会いが不死の薬の拒否で吹っ飛んだ、という物語です」という訳である(これは「フィクションの誕生」(『国文学』38-4)でも話題とされているが、この座談会での発言の方が詳しくわかりやすい)。
 ようするに、『竹取物語』は「普通、素朴な初期の物語と見られているが、相当に手のこんだ名作じゃないか」。つまり、私なりに敷衍すれば、『竹取物語』は、中国最先端の神仙譚を強く意識し、日本の物語精神がそれに対して高踏的に対応したものだ。中国の神仙譚の中に「自土」の文学を組み込もうとしたものだということだと思う。こういう当然の素直な読みが日本の国文学者にできていないというのが益田さんの主張なのである。そして、佐竹さんが、この益田さんの意見に賛同する様子をみせたのに対して、益田さんが「だけれども僕のいっているのは異端、邪説なんですよ」というと、大岡さんが「いや僕はそうは思わないな」といい、益田さんが「国文学者は認めてくれないのよ」といい、それに対して佐竹さんが「認めてくれない説いっぱいお持ちでしょう(笑い)」と展開する座談の雰囲気が、なんともいえず、あたたかい。
 しかし、最近の渡辺秀夫氏の仕事、「竹取物語と神仙譚」(『平安朝文学と漢文世界』勉誠社)が示すように、現在の「国文学者」は益田説を認める趨勢にあるのではないかと思う。私も『かぐや姫と王権神話』では渡辺氏の見解をふまえて、かぐや姫の昇天を論じたのだから、益田さんの見解をもっと重視するのが自然であったと思う。
 考えてみると、私が、この不死の薬の焚き上げについて十分に益田さんの意見と向き合わなかったのは、明らかに学者根性のなせるわざであって、この場面に残る、いわゆる不審本文について、自説をだすのに気をとられ、それを確認して叙述のつじつまをあわせることだけで満足していたからである(つまり、『竹取物語』の天理本・古活字本ほか諸本には「かの奉る不死の薬に又つぼぐして御使に」とあるが、これは「かの奉る不死の薬の文(の文に傍点)、壺ぐして御使に」と読むべきではないか。傍点部、諸本に「に又」とあるのは誤写で、変体仮名の「尓」は変体仮名の「乃」と誤読されうるし、文脈のつながりは、どうみてもこれがよいというのが私見による校訂である)。
 しかし、私が益田さんの言及を参照しなかった根本的な理由は、この問題がどれだけ根本的な問題かということについての見通しをもっていなかったためであった。つまり、これは初期物語の作者たちにとっては、単なる教養にあふれた高踏的遊びではないはずである。彼らのイマジネーションがそこまで高まった理由は、やはり中国の神仙譚が『古事記』『日本書紀』に表現された神話世界に影響していることからの直接的な延長として自分たちの文学を考えていたことにあったのではないかと思う。初期物語は、そのような神話世界との緊張関係の中で生まれたのではないかというように考えるのである。私はそこまでは考えを詰めなかったが、益田さんのいうのはそういうことだと思う。
 益田さんの神話研究の根本は常世国、少童神、祟り神などと神の再誕の神話、そして「忌み」の思想と「神道」について繰り広げられた『火山列島の思想』(一九六八)から『秘儀の島』(一九七六)にいたる独自な省察の展開にある。それが柳田国男・折口信夫との格闘であったことはいうまでもないが、歴史学の石母田正が主唱した神話論=「英雄時代論」への応答であったことは疑いない。そして、現在では、私は、歴史学徒として、益田さんの議論は石母田さんが目ざしたものを超えたということを認めざるをえないと考えるにいたっている。
 歴史学にとってさらに看過できないことは、益田さんが、前述の神道の問題を神話からの移行論としてのみでなく、日本の在地神祇における「頭人の物忌」の問題として提出していることである。益田さんは日本の「神」においては、「共同体が長い祭りの季節に突入して、全体もきよまわり、慎み深く暮らすが、その中で特定人物(頭人ー筆者注)が、最も厳重な物忌みをつづけて、神がかるプロセスを一歩一歩進んでいくのが普通です」(「日本の神話的想像力」『秘儀の島』)などという多数の示唆的な指摘をしている。これは正しいと思う。歴史学の側でも、最近、『村座・宮座研究の形象と展開』(萩原龍夫旧蔵資料研究会編、二〇一一年、岩田書院)などで新しい議論が進んでいるが、益田の指摘は明らかに、村の「地主神」とは何か、宮座とは何か、村落宗教とは何かという前近代史研究にとっての根本問題を先取りしているのである。
 そもそも、この国における歴史学は、「神話・天皇制」の問題を処理し、それを前提として長い鎌倉・室町時代から江戸時代にかけての民衆宗教の歴史を通観することなしには、民族的な地盤を固めることができない。これは歴史学でいう「英雄時代論争」のころから明らかなことであった。こう考えてくると、私は、いわゆる「戦後歴史学」がかかえてきた問題は、益田さんの仕事を受けとめ、乗り越えることなしには解決の目途が立たないように思うのである。
 その際、もっとも気になるのは、益田さんが『秘儀の島』のあとがきで、「これは、ここまで口はばったく言いたてていた研究だのなんだからの、自分の排斥してきた側への顛落以外のなにものでもないが、小進化の果てにいて、無性に、大進化の終わり小進化のはじまりの時期のことを望み見たくなっているのである。学問に適さない危険な心境である」と述べていることである。このあとがきの執筆は一九七六年。いわゆる「高度成長」の果ての時期である。冒頭に紹介した『文学』の座談会での「学問らしくあることから生ずる束縛」から自由な立場から、芸術・文芸の世界にまっすぐに近づくべきであったという述懐は、その約一五年後のことで、益田さんはすでに「危険な心境」を突き抜けたところに到っているようにみえる。
 これはこれから益田さんの議論を再吟味する中で、よく考えてみたい問題であるが、私は、ここで益田さんが「学問の束縛」からの自由になって、本当の「批評と創造」の世界のに突き抜けるという方向を強く示唆された心境の一部に、歴史学の世界に対する見切りがあったように思う。つまり、この座談会で、益田さんが「純歴史家の、時代の世相の中の一つ一つの現象を掘り起こしていく仕事」では文学研究の目ざす「想像力・表現力の歴史」を解明することはできないと宣告していることを見のがすことはできないのである。私には、これは第二次大戦後の歴史学と文学研究の関係が、結局はうまくいかなかったと益田さんがおっしゃっているように読める。歴史学への一種の破産宣告である。
 もちろん、文学研究の側が「批評と創造」の世界に突き抜けることを本務としていることは当然である。またここには、益田さんの問題提起にほとんどこたえることがなかった歴史学の側の責任が大きいと思う。しかし、これは、当時の事情からいうと、歴史学の側の中心にいた石母田さんが、神話研究の世界に戻って『古事記』の標注と解説の仕事を活字にすることなく、病没してしまったという、やむをえぬ事情があったと思う。石母田さんは一九七三年に発病して長い闘病生活に入ったから、『秘儀の島』(一九七六年)に結実する益田さんの仕事の深化を受けとめることはできなかったのだと思う。
 もし、石母田さんが神話研究と「英雄時代論」についてのまとめをする余裕があれば、文学研究の側が「批評と創造」の世界に突き抜けるのと同様に、歴史研究が神話史料についても、その考証から社会の歴史的・理論的な理解に突き抜ける足場が誰の目にもみえる形で確保されていたのではないかと思う。そして、そもそも益田さんと石母田さんは同じ大学におられたのだから、もし、御二人の協同的な議論が積み重ねられていたとすれば、文学史研究と歴史研究をめぐる風景は大きく異なっていたのではないかと思う。
 これは、私などには本当に残念であるが、言っても詮ないことであり、それに気づいた以上、その時点にまで立ち戻って問題を考える習慣をつけたいと思う。