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書評、峰岸純夫著『日本中世の社会構成・階級と身分』 

書評、峰岸純夫著『日本中世の社会構成・階級と身分』      保立道久  近年、『中世東国の荘園公領と宗教』(二〇〇六)、『中世社会の一揆と宗教』(二〇〇八)、『中世荘園公領制と流通』(二〇〇九)など、峰岸氏の長年の仕事が相次いで発刊された。本書にまとめられた仕事は、それらを支えた峰岸氏の一貫した視座を示すものである。  本来、著者の研究の全体を視野に入れた書評が望まれるが、私の力量の関係で、この書評は、本書の第四・五章、つまり一九六六年の歴史学研究会中世史部会報告とその準備論文、「中世社会の階級構成ーとくに「下人」を中心に」、「室町・戦国時代の階級構成ーとくに「地主」を中心に」をおもな対象とした理論ノートとなった。不十分さを申し訳なく思うが御許し願いたい。 一「封建制」・「領主制」・「地主制」  まず峰岸地主論の基本的な主張は、室町戦国期の地主的土地所有を、「日本におけるアジア社会との共通分母」としてとらえ、これが江戸期社会に持ち込まれ、戦後の農地改革まで社会の基礎実態として存続したというもので、しばしば「小農満面開花」といわれる事態はつねに見果てぬ夢に終わったという点にあった(本書序文)。  峰岸は、領主とは区別された存在としての「土豪」という黒川直則の提案した概念を前提として(「中世後期の領主制について」『日本史研究』六八号)、その実態を地主と捉えた。地主は、「職」を媒介に領域支配を展開する領主権力の下部に編成されるが、同時に「惣」の代表者として「殿」「侍」という特権身分をもつ。このような「土豪=地主」の存在形態は、惣郷ー惣村という村落の二重編成と深く関係しており、共同体の支配権力への編成と抵抗の砦という二側面を体現しているという。この「惣郷ー惣村論」(村落の広域的・中間的な二重構成論)は、本書第六章「村落と土豪」で仲村研(「中世後期の村落」『荘園支配構造の研究』)や島田次郎(「荘園村落の構造とその展開」『日本中世の領主制と村落』下巻)の議論を前提として定式化されたものである。ここではそれが室町期における地主制的関係の社会的自立を指摘したものであることを確認しておくにとどめるが、これが峰岸の地域社会論の多産性をもたらしたのである。  峰岸が室町期の地主ー小作関係を(1)下人給、下人充作のみでなく、作人小作をふくむ多様な従属小作制、(2)地主・平百姓相互間に展開する散懸り小作関係、(3)領主による加地子名主職の集積(領主の地主化)という三類型に整理したことの影響も大きかった。この理解については上島有による批判的追補があり(『京郊庄園村落の研究』)、またとくに藤木久志が(3)を具体的に深めたことが重要であった(「戦国期社会における中間層の動向」『戦国社会史論』)。  以上を前提として、峰岸は、戦国期変革を、戦国期地主の運動(領主の地主化をふくむ)を基底におき、「領主・地主の社会的分離の強行」を中軸として社会構成論的に理解する立場を明らかにした。この移行論が安良城盛昭の家父長制的奴隷論への真剣な応答であったことはいうまでもない。もとより、江戸期社会への移行において、村落の側の運動とその社会的実力、規定性をどうとらえるかという、藤木が峰岸説を前提として展開した問題領域は、理論的にも社会構成における共同体と集団構成の側面の位置に関わって重大な問題として残ったが、しかし、以上、峰岸の理解は有効で、全体として説得的なものであったと思う。  とはいえ、峰岸の主張の研究史的な重点は、いわゆる北京シンポジウム論文の批判にあった。これは現在の研究状況では理解しがたいかもしれないが、峰岸は、同論文が日本における封建的土地所有の形成を都市貴族的土地所有、領主的土地所有、地主的土地所有の三形態から説明しようとするのに対して、領主的土地所有を実体化することに反対し、この三形態を「上級土地所有=国家的・領主的土地所有」と「下級土地所有=地主的土地所有」の二形態に整理しなおしたのである。峰岸は領主的土地所有とは地主的土地所有に「職」が付加されたものに過ぎないとまでいって研究者を挑発した。  私は、このような立論が室町戦国期をイメージしたところから生まれるのは自然なことであると思う。室町期のような発展した領主制と国家を前提とすれば、法的には「職」があれば領主地代をとれるというのは事実であるし、実際には峰岸が領主の位置を一貫して重視する領主制論者であることも承知している。  しかし、峰岸の議論には地主的土地所有の範疇の定立のための理論的な詰めという点で曖昧さがある。もっとも大きかったのは、地主的関係の自立に対応する領主制の段階や国家との関係の議論がないことである。そもそも北京シンポジウム論文に対する峰岸の理解に誤解があった。つまり、戸田芳実によれば「都市貴族的土地所有、領主的土地所有、地主的土地所有」は「封建的土地所有の三形態と理解されがちなのですけれど」、「日本の中世封建制の土地所有体系ができる過程での、土地所有の法的形式の三形態である」「これが結び合って、日本の封建的土地所有体系ができる」というのが同論文の趣旨であるという(『シンポジウム・荘園制』)。峰岸は、本書に論文を収録するにあたって、「国家的・領主的土地所有」に「(荘園公領制)」と追記して、それを説明しなおしているが、戸田の理解では荘園公領制は一つの「土地所有体系」なのであって、その形成にあたっての土地所有の三つの諸形態の結合のあり方を、その上に聳立する国家をも視野に入れて議論する手続きが必要だということになる。戸田は、そのような立場から峰岸の一九六六年歴史学研究会大会報告の討論において、荘園はそのものとして国家的土地所有ではなく、むしろ貴族的・領主的土地所有とし、国家はその外に出すべきだとしたのである(『歴史学研究』三一五号)。  私も、荘園制は国家的土地所有の形式を残した国衙荘園体制の中から都市貴族的土地所有の領主化(と軍事化)によって深化・拡大を遂げたとみるべきだと思う(保立「都市王権と貴族範疇」『日本史の方法』創刊号、「土地範疇と地頭領主権」『東寺文書と中世の諸相』)。より具体的にいえば、荘園制は、都市貴族的な土地所有関係の下で、私営田領主所有、ついで留住領主的所有を基礎として運動し、さらに広域的な地頭領主的所有と結合して「荘園公田制」に展開したものと考えている(地頭領主制の具体像や都市的性格については入間田「鎌倉時代の国家権力」を参照)。そして、この「荘園公田制」に規定されて存在した地頭領主制とそれを基礎にする軍事貴族の家格の基本構造は、数カ国守護を兼ねるような広域権力の展開や、京都を中枢とする都市網と広域的地帯構造の中で競合し、変容をとげつつも、永原慶二のいう領主制の最高の発展段階としての戦国大名の展開までは維持されたということになるだろう。  峰岸は、領主と地主を区別するのは「職」に過ぎず、それ以外の点では同一であるという。しかし、地主制は、このような領主の所有と権力の展開を条件として、領主制とは自己を相対的に区別する方向ももっていた。つまり、地主制は、九世紀以降、本来国衙機構の下部に宋朝の胥吏のような形で組織された郡司・公文・刀禰層などの経営に巣くいはじめたもので、領主権力の拡大と広域化とともに、その隙間を埋めるようにして固有に地主制的な諸関係を拡大していった。領主制の規定をうけていたとはいえ、そこには国家と地主制との直接的な関係の側面もみなければならない。大山喬平は、荘園制的な「都市と農村」をつなぐ「血の通わない一種の合理的関係」は地主の「村落上層の実用主義的行政能力」に支えられていたというが(「中世史研究の一視角」『日本中世農村史の研究』)、それは国家と地主の関係という側面を示している。地主制が農民的土地所有を地盤とする以上、それを基盤として、本質的には領主制の外側に存在する諸要素が展開するのである。  これに対して、峰岸の地主論は、実質上、地主制的関係は室町時代から始まるという構成になっており、平安鎌倉時代からの具体的な移行論を欠いていた。もちろん、峰岸説は入間田宣夫の「作手」論を前提としていたが、名主は鎌倉中期以降に「職」の請負・管理の立場から地主化(加地子名主職)したという永原慶二の「職の分化」説を清算していなかったのである。それ故に、現在の到達点からいえば、峰岸説は、農民的土地所有関係は「徴税単位」としての「名」を基底とする職の体系の外側に存在していたという稲垣泰彦の所説を前提として再検討されねばらないだろう。私は、稲垣の「下級土地所有」という用語は峰岸説をめぐる討論を継承したものと考えているが、残念ながら、峰岸は、この議論に本格的に参入することはなかったように思う。この点で、峰岸の「地主論」が、後に安田次郎「百姓名と土地所有」(『史学雑誌』九〇編四号)が明解に解き明かした「地主、名主事也」という史料文言(平野殿庄預所陳状)についての清水三男以来の誤解を前提としていたことは象徴的であろう。  地主的土地所有という範疇は、稲垣のいう意味での「作手」=農民的土地所有と徴税その他の地主的諸権限の統一として、その歴史的姿態が系統的に明らかにされねばならない。私は、峰岸説を稲垣説を前提とした「地主」論として組み直し、国家や上級所有・領主的所有の歴史的な姿態や段階との関係を具体化していくことが長い間の研究史上の課題であったと考えている。そして、それを検討する際には、地主制の国家との関係と領主との関係を区別して、三者の全体像を組み上げていくことが重要であろう。 二、下人は奴隷か、農奴か  峰岸説の研究史上の位置の大きさは、本書第四章「中世社会の階級構成ーとくに「下人」を中心に」で展開された下人論にもよっていることはいうまでもない。峰岸は水上一久(『中世の荘園と社会』)の先駆的な仕事を批判的に継承して、下人を「古代の遺制」とみる見方を批判し、「中世社会」の基本身分とし、田所文書・禰寝文書などの鎌倉期の代表的な下人史料を点検して、彼らが一般には家族・屋敷・耕地を占有し、自己経営しているという実態を「動かし難いもの」として確認した。  これは研究史上では、「下人=家父長制的奴隷」を強調する安良城説に対して、下人の「農奴」的性格を論証したものとして位置づけられる。私は、この点でも峰岸説を前提として研究を行ってきた。「下人は奴隷か、農奴か」という問題は、峰岸のいうように下人の実態の判断によるほかないからである。  峰岸は、このような鎌倉期の下人支配が、室町戦国期地主制においてむしろ維持・拡大されたとした。これによって松本新八郎以来の南北朝期における下人の自立・解放という見方は失効したのであるが、峰岸の議論の説得性を高めたのは、峰岸が地主の直営田支配の基礎を百姓夫役に求めた大山喬平の「大経営」論を批判し、下人労働を管理労働程度のものとして軽視してはならないとし、後に大山自身がその批判を了解したことであろう(『シンポジウム・荘園制』)。従属小作制をふくめて地主経営内部に小規模生産が貫徹していたという峰岸の見解は正しいと思う。  近年では、室町期の地主ー小作関係論における従属小作制を軽くみる傾向が強いが、そのような議論はあまりに京郊農村の史料の読みに流されている。峰岸がいうように、それでは幕藩制初期の史料にあらわれる下人の説明はできない。盛本昌弘「中世における主人・下人関係の様相」(『歴史学研究』六〇三号)、安野眞幸『下人論』、磯貝富士男『日本中世奴隷制論』などで蓄積された下人研究は、峰岸説の位置を高めたと思う。また峰岸がその地主・下人論を前提として、「農民」身分を、その上層(「地主」)、中層(平百姓=隷農)、下層(小百姓・下人=農奴)とした階層論は、たとえば最近の池上裕子の「侍・百姓・下人」についての身分標識論でも明らかなように(「戦国の村落」『戦国時代社会構造の研究』)、そのまま常識化している。峰岸説の位置はやはりきわめて大きいと思う。そもそも下人を分析枠組みの中におかないような地域社会論は、論としてはほとんど意味がないというのが、私などの考え方である。  しかし、問題は、峰岸が「下人」身分を一義的に「奴隷身分」としたことにある。これは、実質上、「階級的本質において質的に異なる奴隷と農奴の両者に、一つの身分でありながら同時に対応できるヌエ的身分は存立しえないが故に、下人の階級的実態がいかに多様であっても『下人身分』は身分としては一義的でなければならない」という安良城の見解を承認したものであり(「最近の身分制研究をめぐる二、三の理論的・実証的問題」『日本封建社会成立史論』)、峰岸は、以降も、磯貝の所論を追認する形で「下人=奴隷身分」論を確認しつづけた。  もちろん、峰岸が「下人」身分の中に家内奴隷がいたことを積極的に承認したこと、また「下人売買」をもって下人の「所有剥奪」とし、その奴隷的地位を示すとしたことは正しい。高橋昌明がヨーロッパの事例を引いて主張するように農奴も売買されうる存在ではあるが(高橋昌明「日本中世封建社会論の前進のために」『中世史の理論と方法』)、人身売買がその人身の奴隷的地位を示すということ自体は否定すべきでない。奴隷とは人間としての具体的な労働と目的意思を否定された抽象的な労働力能の塊、価値物、原初的な貨幣そのものであって、本質的に商品としての人間のことである。そのような人間商品は敵対的社会構成の重石、社会関係の極北に歴史貫通的に存在する。  しかし、下人の売買の事実自体は、被売者がその時に奴隷的境遇におかれたことを示すものではあっても、ライフサイクルを通じた奴隷労働、労働奴隷制の組織的な存在を証明するものではない。労働奴隷制は、都市的な爛熟した人間市場=人間の商品定在、多くの場合、征服や奴隷貿易などの恒常的条件を必要とし、共同体からの排除を本質とする(太田秀通『奴隷と隷属農民』)。労働奴隷制においては、「主」が「僕」の労働の目的意識的要素を剥奪し、労働を動物的なものに抽象化するという精神労働と肉体労働の敵対的分業のそれなりの組織化が条件となっている。それらの条件がない場合、人身売買がシステムとしての労働奴隷制に結果せずに、緩和された家内的な奴隷労働、あるいは農奴的労働や賎民的な従属的労働にいたるのは歴史貫通的にみられることである。高橋が具体的に論じたように、これを含めて、奴隷関係と農奴関係が類似する性格をもっているのは当然のことで、だからこそ「農奴」規定が必要なのである。  「奴隷身分」という問題に戻れば、たしかに帝国的関係の下で成熟した商品関係を反映したローマ法においては、奴隷の法的・制度的身分は「もの言う道具」として一義的に表現される。しかし、前近代社会の身分は法的・イデオロギー的な関係であるとともに、事物の呪物性に取り囲まれた人的諸関係の日常意識を反映しており、本質的に一義的なものではない(保立「日本中世の諸身分と王権」『講座前近代の天皇』③)。ローマにおいても奴隷身分の日常性は共同体の対外経済との関係における異族身分という側面がむしろ優越するのであって、ヨーロッパのserfの語源がスラブ奴隷の交易にあったこともよく知られている。  純粋な「奴隷身分」などというものはそもそも存在しない。身分は一義的なものだなどというのは理論的には初歩的な錯誤である。「下人」についていえば、まず、それが従者・所従と連接する身分であり、従者から所従という史料表現が多くなるとともに、有力な人間ないし家に人身的に結合する関係という意味での下人という用語の使用が多くなるとした高橋昌明の見解が重要であろう。そして、その本来の意味が、平安時代から「下衆・下種」という種姓制(氏姓制)的側面、黒田俊雄「中世の身分制と卑賎観念」(同著作集⑥)がいう貴賤的な階層秩序を含んでいたことは戸田が論じたところであり(「下人」『日本中世の民衆と領主』)、それが「侍・凡下」という法的規定とも関係して、強い規定性をもったことは前述の池上の仕事からも了解できる。池上が下人が下層の共同体構成員として存在することを明示しているのは、「下人=奴隷」論の評価との関係でも重要であろう。  以上、現在から考えると、中世=家父長的奴隷制社会論の立場からの「下人は農奴か、奴隷か」という問題提起は理論的にはあまり意味のないもので、それが研究史を呪縛したかのようにみえるのは奇妙なことであった。この呪縛は下人研究にはマイナス要因となったように思う。もちろん、峰岸は実際にはそのような呪縛から自由であって、本書第三章「中世の身分制研究と下人身分の特質」や第十一章「戦国期東国の女性」は下人の「相伝」論や東国の庶民女性のライフサイクルにかかわる人身売買を闊達に論じている。私も下人の意思関係の自立性をその互酬的贈与を素材として論じたことがあるが(「説話芋粥と荘園制支配」『物語の中世』)、いずれにせよ、前記の磯貝・盛本・安野などの具体的な下人研究の進展が望まれるところであると思う。  なお、峰岸はこの論文では、岡光夫『封建村落の研究』の紹介によって「蚊戸のやまは春秋に七人、一二の間つかうべし」という「酒井氏文書」の下人などの譲状の一節を示して、それらの下人が「山の用益を許されている存在である」ことを示すと解釈している。しかし、後に行われた峰岸自身の原本調査の結果によって、これは「蚊戸のやまこ(山子)春秋に廿人、一この間つかうへし」と読み、「山仕事のための労働力収奪」と解釈すべきことが確定している(「丹波国多紀郡南矢代の酒井家文書」『月刊歴史』六号、一九六九年三月)。峰岸は過去の研究にはこだわらないので本書では修正もされていないが、これは重要な調査であり、右の『月刊歴史』の報告を参照されたい。「山子」は百姓の動員である可能性が高く、それ自身として下人ではないことになるが、私は、峰岸の仕事を前提に「庄子・山子・井子」などの身分呼称を検討したことがある(「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』)。「名子・作子」などの呼称からしても、「子」が示す従属性をどう理解するか、この九世紀から続く「子」呼称の検討は重要な研究課題であると考えている(なおこの文書は『兵庫県史』の酒井文書には掲載されていない。下人史料はこの時代の研究にとってかけがえのないものであるが、あるいは逸失したものであろうか)。  さいごに  峰岸の議論の前提に石母田正『日本の古代国家』が展開した新版の「総体的奴隷制論」があったことは、本書には収められなかった理論ノート「中世国家をいかに把握するか」(『歴史学研究』三三六号)に鮮明に示されている。実は、峰岸は、「国家的・領主的土地所有」を石母田のいう二次的生産関係、「地主的土地所有」を本源的生産関係と理解して議論を展開したのである。峰岸は石母田図式にならって、国家・領主制・地主制の範疇を「封建制」という枠内で合成しようとしたともいえようか。  しかし、本書第一章「日本中世社会の構造と国家」において、峰岸は、石母田の議論からはなれ、階級的社会構成体の最初の類型として、塩沢君夫・太田秀通・川口勝康・吉村武彦・戸田芳実・黒田俊雄などが主張する広い意味での「アジア的生産様式」を措定する議論に賛同した。これによって、いわゆる「戦後歴史学」派に属して社会構成論を展開した研究者のほとんどが、奴隷制ではなく、集団的な性格をもった敵対的社会階級構成を「文明」の出発点においたことになる。このことの意味はきわめて重い。  峰岸は、これによって、石母田が「二次的生産関係」とした国家ー公民関係をむしろ基本的関係とした。そして、それによって「古代国家」の転形が「国家的・領主的土地所有」と百姓との対抗を基本関係とする関係を生みだし、他方で「地主ー下人」関係を副次的ウクラードとして派生させたという形で理論理解を切り替えた。そして、この二つの所有関係を媒介する関係として、石母田のいう首長層が在地領主に転化する過程を措定して自説の枠組みを再設定したのである。  これが峰岸説の理論的整合性を高めたことは明らかであるが、しかし、残念ながら、この峰岸の理論作業は、峰岸説の問題点を訂正するものとはならかった。私は、ここには峰岸を中心とした共同研究が「アジア的封建制」という命題にそって組み立てられたことの限界があったと考える。地主が支配階級であるとともに、被支配階級であることに「日本封建制」のアジア的特質をもとめるという峰岸らの議論は、安良城盛昭にも、北京シンポジウム論文にも共通する図式であって、領主制的な関係が地主制によって取り囲まれている曖昧さにアジア性を求めるというところから脱却していないというのは、藤木も指摘するところである(藤木前掲論文)。いわば量的比較論であって、質的な構成論にはなっていないのである。  これは当時の状況からいって、やむをえなかったとは考えるが、私は、峰岸もいう集団的階級構成を前提として、この列島社会の社会構造が展開したことからいっても、東アジア型の都市・地主制国家を考えることがむしろ妥当ではないかと考えている。もとより、それを立論するためには、平安期から室町期にいたる国家・貴族的領主制・地域地主制の三者の相互関係を追跡しておくことが必須ではあるが、少なくとも、永原のいうように江戸期社会が領主制の極限的展開とそれにともなう自己否定を経過したものであるとすれば、それは封建制とはいいがたいのではないだろうか。実際、それは封建制というにはあまりに組織的・集団的な構成であって、東アジア型の「非封建的な」社会構成というほかないものである。峰岸らの「アジアの共通分母としての地主制」という提案は、そう考えてこそ生きるのではないだろうか。  さて、私は著者に大きな学問的影響をうけ、かつ学会活動などでもつねに頼り続けてきた立場にある。それだけに以上の批判が正当なものであるか、偏ってはいないか、まだ気になるところも多いが、もし、このようなノートでも著者の学説の継承のために何らかの意味をもつことができればと考えている。