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大袋と袋持

        「大袋と袋持」
東京大学史料編纂所教授  保立 道久
『黎明館調査研究報告』21集、2008年3月
 ただ今ご紹介に預かりました史料編纂所の保立です。昨年は、「義経・頼朝と島津忠久」という講演を致しましたが、今日は政治の話しではなく、何らかの意味で鹿児島と島津家文書に関係していることで、しかももっと地域に密着した話にしたいと考えました。そこで以前『中世の愛と従属』(平凡社、一九八六)という著書の中で考えたことのあるテーマですが、「袋持」というテーマと「大袋」というテーマの二つを取り上げてみることにしました。前者は平安時代・鎌倉時代頃の人々が「袋」というものをどう利用し、どのように意識していたかという問題です。後者の「大袋」というのは長く謎の犯罪といわれていたもので、犯罪の名前です。同じ袋という言葉が入っていますから、当然、この二つのテーマは相互に関連していますが、どう関係しているかは、話しも最後に近くならないとわからないという、ややテンポの遅い話しになります。どうか辛抱してお聞きいただければ幸いです。
 なお、その後に気がついた史料を付け加え、若干、考え方も前稿とは変わっているところがあります。また『中世の愛と従属』の中でふれた史料については出典などに注をすることをしていませんから、詳しくは前稿を参照していただくとありがたいと思います。
Ⅰ袋持の姿について
 さて、人間が袋を持つということの意味と言いますと、まず私たちの世代ですと思い浮かべるのは、「大きな袋を肩に掛け」という、あの「大国主命」の話ではないでしょうか。大国主命は何しろ一番下の弟でありますから、お兄さんたちと旅行に出かけるときに一番後ろにしたがって、しかもお兄さんたちの荷物を大きな袋の中に入れて担がされたといいます。そして、袋を持っているというのは人の荷物を持っていくということですから、その姿は人にしたがうものの姿、従者の姿ということになります。こういう人を「袋持ちの下人」と言ったということが、平安時代の『中右記』という貴族の日記の中に出て参ります。この場合には、袋の中には鎧が入っていた。武士の従者で鎧を入れた袋を持った従者が京都の町の中を歩いていたということです。この「袋持ち」というものについて、絵を見て頂きたいと思いますけれど、このような形で実際に袋を持った男、男の子が絵巻物に登場するのです。これは、『伴大納言絵詞』という大体平安時代末期にできました絵巻物です。詳しく見ますと、この男の子は、前に「曲げ物」とよばれる檜の薄板で作った丸い桶をもっております。これは何かといいますと、お弁当箱だろうと思います。弁当をこういう形で当時京都の町の中で持って歩いている女達の姿もあることが推測の理由ですが、主人が貴族の邸宅や役所にでているので弁当をもっていくのだと思います。こういう持ち方ですから、空になっているわけです。ですから、主人の勤め先から空になったものを持ち帰っているところでしょう。
 問題は後ろに担いだ袋でありますけれど、パンパンに膨らんでいます。何が入っているかですが、これは衣類、着物だろうと思います。主人の衣類なんだろうと思います。これを持ち帰っている。空のお弁当箱と一緒に持ち帰っているということになれば洗濯物でしょうか。実はこういう袋のことを「宿直(とのい)袋」といいまして、『源氏物語』(賢木)に、「さぶらひに宿直の袋、をさをさ見えず」というように出てきます。これは「御門のわたりに所なく立ち込みたりし馬・車うすらぎて」という文章に続いてでてくるのですが、つまり、ある家が零落すると、それまでは門のあたりに馬や車がたくさん集まっているのが見えなくなっていく。そして同時にさぶらひに---「さぶらひ」といいますのは、侍達のいる控え室のことであります。この侍達の控え室に宿直者の袋がたくさんある、これも見えなくなってしまうという訳です。貴族の家が零落すると、人の出入りがこういう風に少なくなってしまうというわけであります。
 侍達は貴族の家に泊まり込みますから、衣服は自分の家から持ってきて、持って帰るわけです。宿直袋が侍達の控え室にたくさん積まれているということになるわけですが、そのためにさっきの少年のような従者達が、袋を背中に担いで都大路を行き来するのですね。これが都の往時の風景として見慣れた風景であったから『伴大納言絵詞』にでてくるということになります。「侍」というのは貴族に仕える人たちであるいうことはよく知られていると思うのですが、それだけではただの歴史常識です。なんの面白みもありません。私などには、さらにその侍に仕える人々の姿というのが興味深いわけです。
 同じような袋持の従童の姿は、『弘法大師絵伝』という絵巻物にもでてきます。橋の上で主人の前を男の子が袋を担いで歩いているのですが、その袋は真っ白で、大変印象的なものです。また、これが旅行になると、旅姿の袋持ちが出てきます。『粉河寺縁起』という平安時代の末期頃の絵巻物でありますけれど、主人を中心とした一行の旅行の場面が描かれています。主人は行列の先頭で馬に乗っていますが、それに従っている行列であります。先頭が「あっちだ、こっちだ」という風に言っていて、二番目の男が壺だとか小さなテーブルだとかを持ち、その次は大きな櫃、木製の長持のような物を担いだ二人の男がいます。そして最後に布の袋を担いだ男が描かれています。麻布の袋だと思うんですが、細かく見ますと赤や青で染めてありまして、それなりに綺麗な物です。そして上に鹿皮が被さっている、つまり布の上に皮を被せて雨がかかっても大丈夫なようにしてある。今で言うと、まさにリュックサックであります。そして傘を持って従っている。こういう男が旅行の時に袋持ちとして従っていたということです。
 こういう人々が色々な絵巻物に登場しているのですが、さきほど『中右記』という日記の記事にふれましたように、こういう従者たちを「袋持」と言ったのですが、『今川大草子』という戦国時代の書籍にも「袋持」という言葉が出てきます。ですから、平安時代から戦国時代まで使われていた言葉なわけですが、その解説によりますと「袋持ち、主人の御袋を持つこと」というわけです。今で言えば「鞄持ち」ということになるでしょうか。
 さて、実はこういう「袋持」は地方にもいたはずなのですが、これはなかなか文書には出てきません。けれども、島津家文書の一部であります「山田文書」の一三〇〇年(正安二)の鎮西下知状には、これが登場します(「鎌倉遺文」二〇四七六号)。これは五味克夫先生が『鹿児島県史料』の五巻で紹介されて、よく知られるようになった文書でありますけれども、島津家庶家の山田氏の文書であります。島津の二代目忠時の庶子の忠継、忠真そして山田宗久と続く家系でありまして、そのあたりから山田を名乗るようになっています。この家は、谷山郡の山田村の地頭なのですが、谷山郡の郡司との争論が大変有名な史料として知られているわけであります。「袋持」という言葉はでてこないのですが、そこに袋をもった従者がでてくるのです。
 谷山郡司が言うことには、「則ち宗久藤四郎男を召し具し薩摩郡に打ち越えるの時、数日の間、日食を与えず、責め仕はしむるの故、無食に堪えず、身命を助けんが為罷帰るの處」という訳です。要約を致しますと、「宗久が藤四郎男、藤四郎という男を引き連れて谷山郡から薩摩郡に越えていった、旅行をしていった、その時に数日の間、何日もの間毎日のご飯をこの男に食事を与えなかった。それで、責め使うので無食、空腹に堪えかねて命を助けるため勝手に逃げ帰った」ということになります。つまり、従者が旅行について行ったわけですが、ご飯をくれないので袋を持ったまま逃げ出した。それに対して、こいつは布袋を盗んだんだ、ということで、従者の藤四郎という男を攻撃し、代わりに身代をとったというわけであります。
 文献史料に出てくる地方の領主の中に、袋を持った従者を従えているという事が出てくる文献史料はこの一点のみです。袋持ちの下人の地方におけるあり方、そして主人との関係を示す唯一といっていい大変貴重な史料だと思います。冒頭に申し上げましたように、島津家文書というのは、政治の上の方、京都や鎌倉の世界のみでなく、地域社会の実相まで様々なことが記録sれているということをとくに強調したいと思います。これは小さなことのようにみえるかもしれません。しかし、「侍」ということを考える上で、「宿直袋」というものが大切であるというのはさきほど申し述べた通りです。しかもそれはたんに京都のみの話しではないことになります。そういう意味ではおおげさにいいますと、日本中の人が知っていてもよい史料であるということになると思います。とくにこういう絵などから昔のことを理解するのは小学生からできることです。鹿児島の小学校で、「侍」の話しをすることはかならずあると思うのですが、その時は、是非、この史料を紹介するべきだと思うのです。
 以上が、「袋」についての話しですが、ここからみえてくるのは、社会の関係の中で相対的に下の方に位置する人々であるといってよいと思います。昔の社会は主人と従者の関係が、社会の上から下まで貫いているといえばよいでしょうか。「袋」というのは、そういう意味では、人間が人間に従属するということを象徴するものであったといってよいと思います。そして問題は「袋持」の姿をするのが男であるということです。これは基本的には重い者をもって主人の後を歩くのは「力」で奉仕することを役割とする「男」であったということでしょう。社会的な力のある男が、社会的な力はないけれども「筋力」はある男を従えるということでしょう。「袋持」の中には、社会が、そういう主従関係の重層と連鎖のによって組織されていた側面をみることができるのです。
Ⅱ鎌倉時代の犯罪の種類と大袋について
 ところで、一種の偶然だったのですが、「袋」ということを考えた後に、私は、「大袋」という犯罪について考えることになりました。たとえば、建武四年のことですが、鎌倉の覚円寺に「大袋」という人々が乱入したという史料があります。「ここに近来流布の大袋、数度乱入し、本尊・道具等を奪い取り、坊舎を破り取るのあいだ」という訳です。つまり近年流行している「大袋」と呼ばれる人々がある寺に乱入して、本尊やお寺の道具などを奪い取るだけではなく、坊舎---お寺の建物を破壊してしまうという事件が起きたというのです。こういう仏像を盗み取り寺を破壊してしまう大悪人、彼らの事を「大袋」というように言っているわけでありまして、他の史料では「大袋殺害以下の条々の罪科」というようにも出てきます。「大袋」は人殺しと並ぶような大変重い罪であるということがわかるわけです。
 (なお、この論文を佐藤進一先生に御送りしたところ、時代別国語大辞典の室町時代一に大袋の項があり、そこに「頓要<盗賊>」とあり、「ものとりの一種として中世末までには辞書に立項されていたと考えられます」と教えられた。)
 これがどういう罪であるのか。戦前から歴史家の間では謎だっのですが、私は、先ほどご紹介いたしました『中世の愛と従属』という本の中でこの謎に挑んでみました。まずそれにそって、この「大袋」というのがどういう罪なのかについて御紹介をしていきたいと思います。
 鎌倉幕府の法制の入門書のようなもので「沙汰未練書」という書物がありますが、そこに当時の犯罪の名前の一覧のようなものがあり、そこに大袋が登場します。
 検断沙汰トハ、謀叛、夜討、強盗、竊盗、山賊、海賊、殺害、刃傷、放火、打擲、蹂躪、大袋、昼強盗(但追捕狼藉者所務也)、路次狼藉トハ<於路次奪人物事也>、追落、女捕、刈田、刈畠以下事也、
 少し解説をしますと、最初に「検断沙汰トハ」とある検断沙汰といいますのは、犯罪訴訟、犯罪に関する訴訟になるような罪科とは、ということですが、まず最初は「謀叛」、国家的な犯罪です。第二番目は「夜討、強盗、窃盗、山賊、海賊」。つまり、犯罪の形態・スタイル、つまり夜やったり、山でやったり、海でやったり犯罪の種類が書かれているわけであります。その次は「殺害、刃傷、放火、打擲、蹂躙」というようにでてきまして、これは犯罪の加害暴力のふるい方ですね。人を殺すだとか、刀で傷をつけるだとか、火を放つだとか、打擲、殴るだとか、蹂躙、踏みつけるだとか、そういう暴力の使い方によって区別されている犯罪の種類です。
 そこまではわかりやすいんですが、その後「大袋、昼強盗、路地狼藉、追落、女捕、刈田、刈畠以下の事」ときます。これらがよくわからないわけです。そのうちでもまったく意味が理解できない犯罪が「大袋」ですが、まず他のものを解説しますと、「路地狼藉」というのは、路次、つまり道路で行われるような犯罪のことで、史料でも小さな字で解説されているように、「路地おいて、人の物を奪い取ること」です。次の「追落」というのは路次狼藉の一種でしょうか。人が物を持って歩いていますね、これを追っかける訳です。そうしますと、直接に暴力を行使しなくても、人が逃げるためにもっているものを落とします。それを拾って取ってしまうということだといいます。それから「女捕」ですが、これは女性が道を通行しているときに、その女性を追いかけて誘拐をしてしまう。昔から男というのは勝手なものでありますので「女捕」をしても、相手が一人で歩いていればこれはやむ終えない、一人で歩いている女性、しかも繁華街を一人で歩いているような女性は追っかけてからかって、もし誘拐ということになっても、これは女も悪いのだから罪ではない、というようなことが言われています。あと、「刈田、刈畠」というものがありますが、これはやはり道を通っていくときにやはり近くにある収穫物ですね、田圃や畑の収穫物をかっぱらっていく、それが原型だと思います。
 これらは、一応、字をみればどういう犯罪かが理解できるのですが、「大袋」は、字面ではただ大きな袋ということですから、それがどういう犯罪かは分かりません。そのために「謎の犯罪」といわれていた訳です。もちろん、研究はありまして、まず最初に、戦前からの法律の歴史、法制史の研究者として有名な石井良助氏は「大袋」というのは袋を使う強盗であるとされました。「大袋」というのは「昼強盗」と並べられている、これは強盗に似たものに違いない、普通の強盗と違うのは、盗みの道具に「袋」を使ったということであろう、としたわけであります。これが実は絵巻物にも描かれていることを、私、発見いたしました。それは図に掲げました『地蔵菩薩霊験記』という絵巻物の中に出てくる強盗の姿であります。いま廊下から飛び降りて逃げ出そうとしているところでありますけれど、最初の男に注目していただきたいのですが、左肩に袋をかけて後ろに袋がくっついているのが見えます。後ろの男も肩のところに袋を担いでいる様子が見えるかと思います。強盗が押し入って出てくるときに袋を持って出てきて、それを道具にしているということがわかると思います。
 ただ、考えてみますとこの解釈のみでは納得できないところが残ります。つまり、強盗を大きな袋で特徴付ける、ということについて特別な意味があるのでしょうか。強盗が袋を背負っている、そういう姿をしているからといって、強盗と区別して「大袋」という以上、なにかもっと特別なことがなくてはならないのではないでしょうか。というわけで、第二番目の説として少なくとも、これは「昼強盗」というものの一種ではないかという見解が出されました。それは、笠松宏至さんと言う著名な研究者が提案されたもので、より具体的には「昼強盗」の一種ではないかというように言われたわけであります(笠松など『中世の罪と罰』東京大学出版会、一九八三)。
 一般に「昼は平和な時間」であるといわれます。たとえば室町時代の徳政法に質入品を取返す時には「女をもって白昼にとるべし」(『中世法制史料集』Ⅱ一二七頁)とあります。また年貢の収納にあたって、作人自身や作男がもってくるのではなくて、「女等が持ち来る」ということもしばしばであったようです(大徳寺真珠庵文書』九六号)。逆に領主の側が命令文書(=下文)をもって庄園に入っていく時も、「日中に沙汰者を召向かいて沙汰を経べし」などといわれ、夜に押し掛けることは不法とされていました(『鎌倉遺文』四四号文書)。こういう意味での「日中」の犯罪を示す言葉としては古くから「昼盗人」(『今昔物語集』二九巻ー四)という言葉がありました。それは要するに空き巣ということです。昔の言葉では空き巣のことは「日中」あるいは「日中師」といったといいます。昼間は、多くの人々が家から出て野良で働いていましたから、自宅を作業場にしている場合は除いて、しばしば家は誰もいないが、女あるいは幼児がいる世界になります。そこには「空き巣狙い」で入ることはあるとしても、その平和な時間に暴力を使って強盗を行うこと、つまり「昼強盗」は公然と社会秩序を乱すという意味で許されない犯罪だったのだと思います。
 笠松さんの意見は座談会でいわれただけですので、この大袋が、この昼強盗のうちのでどういう特別なものであったかについては明言されていないのですが、笠松さんによりますと、昔アメリカでこういう犯罪があったそうです。デパートにヨットが展示されていた。ところが、真っ昼間に20人くらいの男がドドドッとやってきて、あたかも自然であるようにそのヨットを運び出した。そしたらあんまり堂々とやるもんだから、買った人が持って行くんだろうと放っといておいたら、それは実は泥棒だったと後で分かった、という話であります。これをそのまま敷衍しますと、大袋とは、「日中師(空き巣)」でもなく、昼強盗でもなく、白昼堂々と大袋をもってきてやってきて、人をだまかして物をもっていってしまう高等詐欺罪ということになるのでしょうか。いかにも物を運ぶ格好をしながらやってきて堂々と持って行ってしまう。それで、上手くいかないと急に暴力を使うという犯罪なのではないかというのが笠松さんの意見であると理解しました。
Ⅲ人さらいと大袋について
 大袋についてのこれまでの研究はだいたい以上のようなことでした。しかし、どうもよく分からないというのが率直なところであろうと思います。笠松さんの意見はさすがによく考えられているものだと思うのですが、その弱みは、「昼強盗」それ自身についての研究が行われていないことで、まず昼強盗(そして空き巣)それ自身についての分析が必要な段階であると思います。
 ところが、先ほど申しましたように、私は「袋」についての興味をもっていたこともあって、たまたま面白い史料を発見したわけであります。それは京都山城の松尾神社ですが、「けんにょ」という尼さんの関係の文書なんですが(『鎌倉遺文』二一四六六号文書)、そこに「さきのかみぬしすけかたあまを大ふくろにいれんとし」とあります。つまり、尼さんが前の神主の「すけかた」という人物によって袋に入れられそうになった。そして敷地の証拠文書などを取られてしまったというわけであります。前後の関係は省略しますが、これによって、尼さんが「袋」に入れられて誘拐されたということがわかる訳です。皆さんのなかで「グリコ事件」を覚えてらっしゃる方いらっしゃいますでしょうか。グリコ事件は、30年ほど前のことでしょうか、グリコの社長がヤクザに捕まってシーツで体をグルグル巻にされてガムテープでとめられ、脅迫された事件です。袋もシーツも人間をくるみ込んでしまうという点では同じものですね。
 『吾妻鏡』という鎌倉幕府の歴史書がありますが、そこにはある武士が饗宴の宴席で「絶え入って」(気絶)しまった時に、その武士の身体を動かすのに佐々木盛綱という武士が「大幕を持ち来たり景兼を纏い懐持ち退去す」というようにでてきます(『吾妻鏡』寿永元年六月七日上)。大幕で臨時の担架をつくったという訳です。武士というのは、人を殺害したり、闘ったり、傷つけたりする専門家ですから、ここからは彼らが、人の肉体の動かし方をよくしっているという事情がわかるように思います。さらに興味深いのは、『古今著聞集』(変化)にある人さらいの話しで、道にいた七歳の子供の上に、「後ろの築地の上」から「垂布(=暖簾)」のようなものが下がってきて、子供を包み込んで消えてしまったという話しです(参照小松和彦『神隠し』弘文堂、一九九一、二〇八頁)。
 こうして「大袋」というのは人を誘拐する犯罪であった可能性が一挙に出てきました。つまり、石井さんや笠松さんは、悪人が袋を担いでいる姿の問題として大袋を考えたのですが、そうではなく、問題は袋の機能であった。袋の中に人間を入れることによって袋が拘禁用具として機能するという問題であったというように見方を逆転することになります。そして、そう考えますと、実はすでに石井さんが人間が袋の中に入れられるという史料を指摘していたのです。それは「伏見童形大袋の事」という事書をもった一三六六年(貞治二)の興福寺六方衆評定事書です。つまり、京都の伏見で童形、お寺の稚児さんが大袋にあったというのです。「伏見で児童が大袋にあった」。「童体の難に遇う事、僧徒尤も見助く可き哉」という訳で、稚児が、こういう難儀に遭うことは、お寺のお坊さん達として、何とか援助しあって何とか解決しなければならないことではないかという訳です。そして「彼の児童を助け取り」、すぐにその子どもを助けなければならない。
 つまり、児童が「大袋」という罪にあって助けなければならないという訳です。先ほど紹介した「松尾神社文書」と、この史料をあわせますと、「大袋」というのが人を誘拐する罪であるということは決定的となります。
 そして、こう考えて史料を探してみますと、人間をこの袋の中に入れてしまうという史料は他にも若干あるんです。『古事談』(第二)という平安時代の物語の中には、「近衛院の御時、宇治左府参内の間、山上に大袋アリ」とありまして、宇治左府というのは藤原頼通のことでありますけれど、頼通が内裏の方に向かったときに、内裏の中に小さな山、丘がありましてその上に大袋があった、というわけであります。袋が山の上にあるれど頼通が袋を見てみますと袋が動いた。そこで「随身ヲモッテ見ラルルノ処、袋ノ中ニ人アリ」と出てきまして、家来を派遣してあの袋動いているけど何だ、見て来いと見に行かせたところ袋の中に人が入っていたというわけであります。「開キテ見ルニ中将行通朝臣ナリ」中将の行通という人が入っていた。これは要するに、行通がふざけて喧嘩してですね、この行通という人はどうも背の小さい人だったようで、お前のように小さい人は袋に入れてしまうこともできるんだよ、というように言って、「袋のありけるに掴み入れられける」という訳でした。
 また、そう考えてみますと、先ほどの『地蔵菩薩霊験記』の強盗ですけれど、前を歩いている強盗の袋の中は軽そうに見えます、例えば金とか銀とか銅が入っているのかもしれません。問題は後ろの強盗ですけれど、おもそうな袋を肩に担いでいます。そして右手で袋に剣を当てているように見えます。中に何が入っているかわかりませんけれども、もしかしたら中に子供が入っているかもしれない、刀をあてて脅かしているのかもしれません。
 つまり、大袋が一般の強盗と違うのは、彼等が、物品を強奪するのみでなく、人をさらってしまうという悪行をおかすことにあったのではないかというのが結論です。「大袋」=「誘拐強盗団」説ということです。私は、こういう犯罪の名前が一般的に語られたというのは、現実にこういう組織があったことを意味すると考えるべきであろうと思います。そして誘拐された人は、どういう運命になるかといえば、有名な「安寿と厨子王」という物語が示すように、人買いの手にわたっていずこともしれぬ処へ売られていくということだったに違い有りません。実は「人商い」という言葉があります。これはけっして架空の話しではなく、鎌倉時代には人身売買を専門にしている人というのがいます。幕府の法律によりますと、市場で人が売られているわけであります。そしてこの人売買の組織は「人さらい」の組織と連結していたはずです。「拘引人ならびに売買人の輩を禁制すべきこと」「拘引人ならびに人倫売買の輩を搦め進むべきこと」などという鎌倉幕府の法が繰り返し発布されていることに、それは明らかでしょう。 
Ⅳ人拘引・人さらいと大袋
 以上、「大袋」という犯罪についての謎解きをしてみました。私が、この研究をしたのは、もう二〇年も前のことですけれども、この謎が解けた時はあまりいい気持ちではなかったことを覚えています。つまり、何というか、ある意味で始めて、昔の社会に存在した「悪」というものにふれたという感じがしたように覚えているのです。
 もちろん、「人さらい」ということ自身は、さまざまな理由で行われます。平安時代・鎌倉時代には「人かどい」「人拘引」ということが多かったのですが、そもそも、人々がその身柄を拘束される、連れ去られるということは様々な理由で起きました。それは人間が「物」として扱われるということ自身が一般的であったためです。たとえばさきほどふれた「布袋を盗んだ罪」が書いてある同じ山田文書の鎮西下知状は、きわめて長文のものですが、そこには、「人拘引」に関わる問題も出てきます。大雑把に説明しますと、井出田の水守の又太郎という人が山田村にいました(なおこの又太郎という人は「井出田の水守」といいますから、水守であるとともに、「井出」つまり井堰、灌漑水路の費用を負担する「井出田」(=井料田)を管理する権限をもっていた百姓ということになると思います)。この水守又太郎が「人拘引」をしたということで訴えられます。この又太郎の家にはたしかに又四郎という下人が使われていたのですが、この下人は別の永増という男の下人であったはずで、又太郎はそれを盗んだという訳です。この訴えをうけた地頭は又太郎から一人の下人をとって訴人に渡したといいます。そして又太郎からは、犯罪を理由としてさらに「身代四人」をとったといいます。こういうように下人の所属をめぐる争いはしばしば、「人拘引」として訴えられることになります。これは財産としての「下人」の所属をめぐる争いですから、先にふれた『沙汰未練書』には、こういう民事事件としての「人拘引」は、大袋という犯罪とは区別して書かれています。
 この水守又太郎をめぐる相論では、文字面の範囲内では、地頭のやっていることは調査と処罰のようにみえますから、これは「大袋」のような悪行であるとは思えません。ただ、地頭に対立する郡司の側からは、この地頭の処断に疑問が出されていますし、鎮西下知状自身も、「地頭の成敗不分明」として疑義を提出しています。つまり、これは考えようによっては、地頭の側が又太郎に対して「人拘引」をしたと難癖をつけているというようにもみることができることです。実際に、地頭が借米のことで百姓から「身代」をとったといころ、百姓が彼等を取り返したので、それに対して、地頭が「人拘引」であると攻撃したという項目も同じ鎮西下知状にあります。そうはいっても、これも一応は、右にいう民事事件としての「人拘引」事件であるといってよいでしょう。
 しかし、こういう状態の中で、地頭宗久が不法で乱暴な行動にでていることは否定できません。たとえば、地頭宗久は、寂善という百姓の従者の女が主人のもとから離れる時に、「小袖一つ」をもってでるのをみて、「盗人」と称して、彼女を逮捕したといいます。また同じ百姓の別の女従者がに「間夫の咎」があったということで、寂善の養女を逮捕して売り払ったともいいます。こうなりますと、地頭自身の行動が「人さらい」=「大袋」と紙一重ということにもなるのではないでしょうか。
 こう考えてきますと、やや時代は下りますが、大和国の領主たちが「盗賊の族を扶持し置き、夜討・強盗・大袋などの種々悪行をもって其業となす」といわれているのが、きわめて重要な意味をもってくるように思います。つまり、けっしてすべての領主が、そういう悪行をするという訳ではなかったと思いますが、地頭その他の領主たち自身が、利益をもとめて単に民事事件というレベルではなく、意識的に犯罪行為としての「人拘引」を遂行し、誘拐した男女を売り払うということがあったのではないかという推定が可能になることです。肥前国の領主が隣荘との堺相論において「(隣荘の)百姓所従を召し籠め左右なく沽却せしめ候」(『鎌倉遺文』九七五〇)という事件もあります。また若狭国太良庄の地頭が庄園にやってきた「盲目法師」を寄宿させた住民三人を、この法師がささいな盗みをしたという難癖をつけて売り払ってしまったという史料もあります。
 「袋持」の話しで述べたように、そもそも地域の領主の従者たちの中には、袋を担いだ男たち、しばしば屈強の男たちがいたのは確実ですから、いざとなると、こういう従者を含む、領主の家の組織が、いわばヤクザ化して、「夜討・強盗・大袋などの種々悪行をもって其業となす」ということになる可能性は、やはり無視できないように思うのです。もちろん、領主の従者の「袋持」は、馬に乗る権利はなく、徒歩であったと考えられますから、一般には、領主の従者たちの中でも地位が低く、弱い立場の人々であったと思うのですが、「大袋」という形で、主人の悪行に荷担することも当然あったはずです。最初に申し上げた「袋持」の話しと「大袋」の話しの関係というのは、以上のようなことです。
  おわりに
 以上、何とも暗い話でありますけれど、最後に、それに関係して、少し感想を話すことを御許しください。それは「悪」というものを歴史学がどう考えるかということです。これまでの歴史学はこの「悪」といわれるものについて、正面から考えたことがないのではないかというのが私の意見でありますけれども、しかし、世の中には必ず「悪」というものがあり、そして「悪人」という人たちがいて、それは昔も今も変わらないということを考えるのも歴史学の重要な役割であると思います。それは決して勧善懲悪ということではありませんが、歴史学がしばしば「悪」の現実をみないで、「希望」や「善」のみを語るということになってはならないと思うのです。
 「悪」ということの最初の前提になりますのが「利己主義」ということだと思います。これは誰も「利己」=自分を大事にするということは大事なことですが、それを越えた「利己主義者」が世の中に一定の率でいることも否定できません。そして「利己主義」だけなら、それはいわば個人の自由です。そして、もちろん、「利他主義」が「悪」に変化していくというもっと怖いルートもある訳ですが、一般には利己主義がしばしば「悪」へ変化していく訳です。なぜ「利己主義」が「悪」になっていくのか、そして昔の「悪」というものはどういうものだったのか、どういう社会的条件の中で、どのようにして生れたのか。上のように史料を追ってきますと、そういうことを考えさせられます。「誘拐強盗団」がいる。これが悪人であるというのは超歴史的な言い方だと批判を受けるかもしれませんが、悪いものは悪いと思います。
 もちろん、問題は、こういう「悪」が発生する原因ではあります。今日の話しの構成ですと、その一つの条件に「領主」というものの存在を考えなければなりません。しかし、領主というものは、地主というものを考えてみればいいわけですけれど、人を連行したり、年貢をたくさん取ったりと乱暴なことをやることはありますけれど、同時にその領内のために必要な社会事業をやり、経済を指導し、隣村との争いを指導し、などなど様々なことをやるわけでありまして、領主イコール悪人というわけではありません。そうではなく、そういう社会を条件としてさらに「悪」に突き進んでいく。そういう人々がたしかにいたわけであります。
 少なくとも現代日本の社会の内部においては、「大袋」のような「悪」、人の肉体を直接に痛めつけるような「悪」は、なくなっているようにみえます。そのことの意味がやはり非常に重要です。私たちにとっては、人身的な自由というのは人間にとっての最低の自由として保障されているわけであります。しかし、逆にいうと、そういうことが保障されていない社会というのが平安時代から室町までずっと続いていたということを確認すること、これを常識として現代の人々が知っていることは必要なことなのではないでしょうか。それが温故知新ということであるはずです。
 私は、こういうことについての文化を日本社会がなくしつつあるのではないかということが大変心配であります。私たちの世代ですと、夕方に「人攫いがくるぞ」と言われて脅かされました。子供を脅かすというのは悪い事でしょうけれども、私たちは「安寿と厨子王」の話と「人さらい」を結びつけて感じることがあったと思うのです。その種の文化が徐々に失われてしまっているというのが、今の社会や文化のあり方について危機を感じる点です。
 黎明館で所蔵しています島津家文書を筆頭としまして、日本には奈良時代から幕末までずっと大量の文書が蓄積され、しかも島津家文書などになりますと、地域社会の事が上から下までよくわかるというのは世界でも希有なことです。しかも、その中に今申しあげたような日本の社会に於ける過去の「悪」を具体的にわかる事の出来る希有な史料が含まれているというのも非常に重要だと思います。先ほどの史料「山田文書」のことを例えば谷山郡の子ども達が知れば、これはやはり過去の社会に対しての親近感が違うと思うのです。そういう意味で、歴史学というものは日本の文化を地域の中から豊かにしていく為に重要な位置を持っていると考えるわけでありますけれども、それにしても問題は広いように思います。
 一枚の絵をみていただきますと、これはローマの絵であります。今日はこれまでお聞きになった歴史の話の中では変わった話であったかも知れないと思います。この絵は、今日のような話が単に日本の歴史の話というだけではなくて、世界中のどこの国にも関係する話しであることを示しています。人間というのは、どの国でも、同じような人間であり、ということは同じような「悪」を行うということを示しています。
 この絵は、ローマにおいて親殺しを犯した男はどういう罪、どういう風に処罰されるかを示しています。絵の図柄が細かいところまではみにくいかもしれませんが、目隠しをされた男が両方から捕まれて連行されて、そこに大きな袋があります。実は、親殺しを犯した男は、この大きな袋に詰めこまれます。そして、ここに猫と猿と雉が居るんですけれど、この猫と猿と雉を一緒に袋の中につっこんで、袋の口をとじて海に投げ込むというのです。要するに、人間として許されない親殺しの罪を犯したような男は袋の中に突っ込んで、猫・猿・雉と一緒につっこんで放り投げてしまえ、というのがローマ時代の殺親罪の刑罰であったという事です。
 考えてみますと、御存知のようにヨーロッパで袋を持っているといえばサンタクロースです。サンタクロースは時々自分で袋を持ちますけど、しばしば、お付きの男、お付きの鞭打ち男(「むちうちおじさん」などといいます)が袋を持っております。サンタクロースにはまさに「袋持」の従者がくっついていって、悪い子供が居ると鞭で打って袋に入れて連れてっちゃうぞ、とこういう風にいうわけであります。私は、まだ調査したことはありませんが、ここからみて、ヨーロッパにも、古くから誘拐犯罪としての「大袋」があったに違いないと思います。
 ですから、ヨーロッパでは「大袋」の問題は「親殺し」につながってくるものとして考えられていたに相違ないと思います。人を誘拐するような罪は、大変重い罪であって、袋の中に人間を突っ込むというようなことは許されない。逆に重罪を犯したような人間や「悪人」は、袋に入れるのがふさわしいということになります。グリム童話の「大クラウス、小クラウス」の話しなども、こう考えると興味深いものです。
 「袋」ということでもう一つ思い起こすことは、江戸時代の「袋持」です。江戸時代には「袋持」にはもう一つの意味がありまして、これは乞食なんです。籠持ちだとか袋持ちといいますのは、乞食であるといいます。私が小さな頃には、まだそういう人々が歩いていましたけれども、籠を背中に背負って屑を拾う屑拾い、籠持ちと呼ばれる人々がおりました。そういう意味では、袋が賤しい職業を表現するという観念があります。実は『日本書紀』には、罪を犯した人間の身分を落とすときに「袋担ぎ人」にしてしまうということがでてきます。『日本書紀』のころですから、6~7世紀のころには賤しい人間、差別された人間として「袋担ぎ人」という人がいたということなります。ですから、大国主命が冒頭で申しましたようにお兄さんに付いて袋を担がされているというのは、身分としては下に落とされたということになるわけであります。
 さきほど、「大袋」のような「悪」、人の肉体を直接に痛めつけるような「悪」は、なくなっているようにみえると申しました。けれども、今述べましたような意味での、貧困の象徴としての「袋」という観念は依然として無くなっていないのです。二〇年前に「袋」の研究をした頃に、アメリカのホームレスが大きな話題になっていました。当時、ホームレスの人たちの事、特に女性のホームレスの人の事を「ペーパーバッグレディ」と言っていました。紙袋で生活道具を持ち歩いている女性という訳です。昔の人たちにとっては、袋を持たされるという事は、一面ではとにかく主人にお仕えして、主人の下で生活を保障されている、そんな悪人の主人でなければ袋を持って付いていればとにかく生活は保障されていると言うことだったわけですね。悪い主人だと、その袋を持たされて隣村に押し込んで人を誘拐させられる、誘拐団に動員される事もあったかもしれませんけれど、ともかく袋というのは昔の人にとってはある種の生業、従者としての身分を表現するものであったわけです。もちろん、その保護から離れてしまえば袋を持った乞食になってしまうかも知れない訳ですが。
 最後になりますけれど、島津家文書の中にはホントに多様な事柄が含まれているということをお伝えするために今日のような話を選択をいたしました。ご存じのように、島津家文書を初めとする日本の古文書は大変立派なものであります。率直にいって、それを見ているだけで私たちは何となく嬉しくなってしまうわけでありまして、その中に社会的な厳しい問題や、暴力の問題や、悪の問題というものを見続けるというのは実際にはなかなか難しいことであります。私も時々しかこういう事を考えないんであります。けれども、現代社会では拉致・誘拐の罪としての「大袋」は無くなったけれども、「袋」が象徴するもう一つの問題としての社会的な貧困は、日本の社会の中でも拡大しつつありますし、さらに世界的には全く新しい貧困が、アメリカ、そしてアジアからアフリカにかけて拡がっているのは御存知の通りであります。私たちは歴史的な史料を見る場合でもその種の考え方や感じかた、感性と申しましょうか、そういうことを忘れないようにしていきたいと、そう思います。
 色々と勝手な話をいたしまして失礼致しました。丁度時間となりましたので、ここで終わらせて頂きます。
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