源義経・源頼朝と島津忠久
源義経・源頼朝と島津忠久
『黎明館研究調査報告』20号、2008年3月
島津家文書『歴代亀鑑』の中におさめられた元暦二年(一一八五)六月十五日の伊勢国波出御厨、須可荘の地頭職補任文書(史料①②)は、高校の教科書などにも取り上げられてきわめて有名な文書です。写真を掲げましたが、考えようによっては、これは日本の前近代社会でもっとも有名な文書であるかもしれません。今日は、このよく知られた文書を中心として、源義経や頼朝との関係で島津忠久という人物をどう考えるべきかについて御話ししたいと思います。
この文書には頼朝がでてくるばかりで義経はでてきませんが、この文書の背景には義経問題があるということは、東島誠氏によってすでに明らかにされていることです(「『義経沙汰』没官領について」、遙かなる中世』一一号、一九九一年)。そして、これも東島氏が注目しているように、島津家文書の中には明瞭に義経にふれた文書が一点あります。この文書は後に史料③として掲げますが、これは謎の文書で、これをどう解釈するかというのが、私、しばらく前に『義経の登場』という本を書く中でずっと考えてきた問題です。この『義経の登場』という本は、最初は義経の敗北と死まで書き抜くつもりだったのですが、実は、この謎の文書の解釈がつかず、時間がなかったこともあって、義経が京都に攻め上ってくる前までで終わってしまいました。最近、この謎についてともかくも一応の解答をえましたので、今日は、最後にそこまでふれていきたいと思います。
Ⅰ須可荘・波出御厨の地頭職と平信兼
この二つの文書は、惟宗忠久、つまり島津忠久を須可荘と波出御厨の地頭職に任命したものですが、おのおのの本文一行目に「故出羽守平信兼党類の領なり」とあるように、本来は、平信兼という武士貴族の所領でした。平信兼については川合康氏の詳しい仕事がありますので、以下の話は基本的にそれに依拠したものですが、この人物は、平安時代末期に伊勢国で大きな勢力を誇っていた平氏、伊勢平氏の有力者です。御承知のように清盛の家系も伊勢平氏に属していますが、彼らは、清盛の祖父の正盛の代に白河院との関係で中央政治に進出していきました。信兼は、この正盛の伯父の子孫にあたる系統で、系図で代数を数えてみると、世代的には清盛と同じ世代になります。
けれども彼は平氏の清盛の一統からは独立した位置をもっていました。彼は、すでに保元の乱で後白河方の武力として活動しており、そういう意味でも、清盛の系統とは別個の家柄の独立した勢力として評価しなければなりません。実際、興味深いことに、清盛の累代の郎等たちは、伊勢国でも北部の安濃郡・鈴鹿郡を根拠としていましたが、それに対して、信兼は、それより南の伊勢国中央部、一志郡を拠点としていました。信兼は父祖代々以来、この一志郡にあった醍醐寺領の曽祢荘という荘園を本拠にしていたのです。曽祢庄には松崎浦という港がありました。そして、この文書に登場する須可荘は、曽祢庄のすぐ北に隣接する藤原氏の荘園、近衛家領の荘園でした。あとの話との関係で、このことを覚えておいていただきたいのですが、信兼はこの荘園に対する権益をもっており、彼がそれを守るために須可庄に武力をもって乱入した様子を示す文書が残っています。この須可荘は、雲出川という川の南に位置していますが、もう一つの波出御厨は、この雲出川の上流、同じ一志郡の美杉村にあった伊勢内宮領の御厨です。西に峠を越えれば伊賀の名張盆地に出るという山の中の土地です。
このように信兼の勢力圏は、伊勢中部、一志郡の全体に広がっているのみでなく、伊勢湾の海上交通から伊賀への峠越えの交通の支配をふくむものでした。信兼は、普通は都で都の武士として活動していて、必要になると伊勢国に下向し、都と地方の間を往来しているという武士であったはずですから、こういう交通路の掌握というのは彼にとって大きな意味をもっていたのでしょう。
そしてそもそも、彼は、この内乱の時代、相当の有名人でした。まず重要なのは、この信兼が山木兼隆の父親であったことです。山木兼隆というのは、頼朝が一一八〇年(治承四)八月の最初の蜂起の時に、おそった伊豆国目代です。『吾妻鏡』を引用しておきますと、「散位平兼隆<前廷尉、山木判官と号す>は、伊豆国の流人なり、和泉守信兼の訴えにより、当国山木郷に配さる。漸く年序を歴るの後、私の意趣を插ましめ給う(『吾妻鏡』治承四年八月四日条)とあります。この山木兼隆は伊豆の北部にいた訳ですが、伊豆国南部には知親という人物がいて、彼も兼隆の親類であるともみえます。つまり、伊豆国には信兼の親類の有力者が二人もいたことになります。信兼が東海道の全域で著名な武士であったこと、そして、頼朝にとっても因縁の深い人物であったことは明らかです。
ただ、兼隆は「信兼の訴えによって」伊豆国へ流されたというのですから、信兼と兼隆の親子の関係はたいへん悪かったということになります。しかし、兼隆は平家中枢との関係はむしろ良好だったのでしょう。だからこそ、伊豆国目代となったはずです。彼は、伊豆に流されたという環境の中で清盛を中心とする平氏主流との関係を発展させ、たんに伊豆国にとどまらず、関東で勢力をもっていったということになります。ここには信兼の一統と平氏清盛の一統の微妙な関係が現れているといってよいのかもしれません。
今日の話は信兼の話ではありませんので、先を急ぎますが、こういう信兼の半独立的な地位は、治承寿永の内乱の深化とともにはっきりしてきます。それは清盛が摂津福原京に拠点を移し、従来の伊勢国よりも、むしろ瀬戸内海から西国を権力の中心に据えてくる動向と関係しているのかもしれません。信兼は、もちろん、最初は信兼は平氏の側で活動しているのですが*1、一一八三年(寿永二)七月の木曽義仲の入京、平家都落ちの後も伊勢国にとどまって独自行動を開始します。川合康氏によれば、平家都落ちにさいしてこういう行動をとった平家側の武士は伊賀・伊勢の両国にたいへん多かったといいます。伊勢国北部には清盛の累代の郎等たちが盤踞していたと述べましたが、伊賀にも同じような性格をもった武士たちがいました。本来は、彼らこそが、平家武士団の伝統的な中核を構成する人々で、そもそも伊勢国の平氏はどちらかというと早く死んでしまった重盛との関係が深かったといいます。彼らが平家の中枢部と徐々に距離を置いていったのは、彼らと、清盛の死後に平家棟梁となった宗盛とは矛盾が多かったためといわれています。
伊勢国に残った彼らは、まず義仲に対抗することになりました。そして、その関係で、おそらくある段階から鎌倉と連絡を取りだしたのではないかと思われます。一一八三年(寿永二)年の冬閏十月には鎌倉の使者が伊勢国に到着し、伊勢国の武士は義仲を倒す動きを開始します。同年、十二月には「当時九郎の勢、僅かに五百騎、そのほか伊勢国人など多く相したがう云々、又、和泉守信兼同じくもって合力」とあります(『九条兼実日記』寿永二年十二月一日条)。川合康氏は、義経の入京と勝利の条件は、ここで義経が伊勢国人と連合することに成功したことにあったとしています。これは正当な指摘でしょう。こういう経過があった上で、一一八四年(寿永三)一月の義仲の戦死、そして二月の摂津福原京における合戦における平家の敗北という形で軍事情勢は大きく展開したということになります。
ここで形成された義経と伊勢国の平氏の結合は内乱に参加していた全国の武士の間で大きな話題となったに相違ありません。よく知られているように、やはり平家の重要な構成員であった平頼盛も頼朝との関係があって、鎌倉に下っていましたから、平家は内部的に分裂し解体しつつあったのですが、この場合は平家武士団の中核部分が義経と連合したというのですからショッキングな話しだったでしょう。見ようによっては、頼朝ー平頼盛、義経ー(平重盛)ー伊賀・伊勢の平氏武士団ー平信兼という連合と対抗の関係をみると、義経も頼朝と同様に平氏の分裂をもたらすような顕著な行動をしたということになります。兄の頼朝は信兼の子供の兼隆を殺したが、弟の義経は兼隆の父の平信兼と連合し良好な関係を維持し、軍事的にも赫々たる成果をおさめているというのですから、それは義経の声望を高める方向で働いたのではないかと思います。
ともかく伊賀・伊勢の平氏武士団の武力はまとまった武力ですから、彼らが義経と結んだことはきわめて重大でした。義経と頼朝が並び立つことができないという雰囲気が、ここからでてきたともいえると思います。そして、こういう経過の中で、結局、これらの伊賀国・伊勢国の平氏たちは、蜂起に追い込まれます。川合康氏は、延慶本『平家物語』の叙述を参考にして、平頼盛が鎌倉で歓待され、頼朝との連合を確実にして京都に帰ってきた、その翌月に彼らが蜂起していることには意味があるという推測を述べています。たしかにありうる推測かもしれません。彼らが伊賀国守護の大内惟義を攻撃するにいたったのは、一ノ谷合戦の五ヶ月後、一一八四年(寿永三・元暦一)七月七日のことでした。この蜂起の中心は北伊賀の平氏たちで、平信兼は参加していませんが、しかし、鎌倉は、この叛乱には信兼が関わっている、信兼を殺せという指示を下しました。鎌倉の側からいえばそれは当然のことだったでしょう。つまり、この時、鎌倉は屋島にいる平氏を攻撃する態勢を固めていたところでした。七月三日には義経を平家追討のために西国へ派遣することを後白河院に申請して、鎌倉でも派遣軍の編成が開始されます。その用意は八月六日には完了し、八月八日には源範頼が平家追討使として鎌倉を出発する運びになっています(九月一日に京都到着)。ちょうどこういう時期に旧来の平家武士団の重要メンバーが蜂起したというのですから、少しでも疑わしいものは踏みつぶせということになったのです。
Ⅱ義経・頼朝問題と近衛基通
こうして、義経はむずかしい立場に追い込まれました。義経と頼朝の関係がいつ悪化したのかということを考える場合、私は、これをターニングポイントとなるものとし重視したいと考えています。最初、義経は信兼とその一族が、この叛乱に関係しているとは考えなかったようです。しかし、頼朝は、八月三日に義経に対して信兼の一族を逮捕し殺害せよという命令を下します。その飛脚が京都に八日頃にはついたでしょうか。また、義経はその直前、八月六日に後白河院から検非違使・左衛門少尉に任命され、「使宣旨」をうけます。これも伊賀・伊勢の平氏の叛乱を鎮圧せよという命令をふくんでいた可能性があります。こうして、義経は八月一〇日に信兼の子息、左衛門尉兼衡・信衡・兼時を自分の私邸に招き、だまし討ちに斬り殺すという行動にでざるをえないことになりました。そして十一日には信兼に対して解官宣旨がでており(『吾妻鏡』元暦元年八月二六日条)、その翌日の一二日に、義経は伊勢国に出陣し、伊勢山中の滝野城に籠城する信兼を攻撃し、自殺に追い込みました。信兼の子息が義経の招きに応じて義経のところまでやってきたというのは義経と信兼の一族の関係に深いものがあったことを示すことは確実です。
この時の義経の行動は、兄頼朝の指令に対してきわめて従順なものだったと思います。ところが検非違使・左衛門少尉に任命されたことを報告する義経の使者が八月一七日に鎌倉に到着するや、頼朝は烈火のように怒ったといいます。「この主のことにおいては内々の儀ありて、左右なく聴されざるのとこと。遮って所望かの由、御疑いあり、凡そ御意に背かるるのこと、今度に限らざるか。これにより、平家追討使たるべきの事、暫く御猶予あり」というのは有名な話しです(『吾妻鏡』元暦元年八月一七日条)。義経と頼朝の間が険悪になったのは、この義経の任官問題によるのであって、頼朝は武家政権樹立のために全体的戦略を熟考していたのに対して、義経はよく考えず、軽薄に後白河の策略にのって、院の側に取り込まれたというのが、普通の解釈です。しかし、以上のように考えてくると、この間の問題の中心点は、東島誠氏が強調したように、むしろ信兼問題にあったことは確実であると思います。とくに重視したいのは、義経が八月一〇日に信兼の子息たちをだまし討ちにしたことを報告する義経の使者が鎌倉に到着したのは、八月二六日のことですから、頼朝の激怒はそれを知る前のことであったことです。頼朝は義経と信兼の関係を危ぶんでいたのではないでしょうか。
もちろん、義経の任官は、確かに頼朝にとっては予定外のことであったのかもしれません。しかし、義経が信兼の子息を討ち取ったこと、そして相継いで信兼自身も誅殺されたことがわかるや、頼朝は、九月九日に、次のような書状を京都の義経に送っています。
平家没官領内
京家地事、
未致沙汰、仍
雖一所、不充賜
人也、武士面々
致其沙汰事、全
不下知事也、所詮
可依 院御定也、
於信兼領者、義経
沙汰也、
御判
いきなり事書からはじまり、日付もなく、頼朝の花押だけで署名もないという非常に略式な文書ですが、頼朝は、しばしばこういうメモのような文書を発給しました。しばしばそうであったように、この頼朝のメモは、折紙に書かれていたことは確実です。東島誠氏が注意しているように、前田家本の『吾妻鏡』は、その様子を明瞭にあらわしています(史料編纂所架蔵写真帳「東鑑抄」)。この文書を説明した『吾妻鏡』の文章は「出羽前司信兼入道已下、平氏家人等京都地、源廷尉の沙汰たるべきの由、武衛御書を遣わさる」(『吾妻鏡』元暦元年九月九日条)と述べています。つまり、これは、頼朝が、義経に対して、平家没官領のうちの京都の家地および信兼の所領について、「沙汰」権を認めたことを示しています。もちろん、それは「院の定め」の下で、それに従うという前提の下での「沙汰」ではありましたが、「信兼領」についてはより踏み込んで義経の権限を認めています。これが義経に対する論功行賞であったことは明らかでしょう。頼朝は、検非違使に任官した義経に対して、それにふさわしい京都支配の権限をあたえたのです。これは、平家没官領のうちの京都の家地の沙汰権を認めたものに過ぎませんが、しかし、これこそが義経の畿内支配の法的な根拠となった文書であるということができます。
しかも、この頃、頼朝は、義経に対して、自分の乳母にあたる比企尼の孫にあたる河越重頼の娘を嫁にする気持ちをかため、その準備をさせていました。これはおそらくもうしばらく前から、つまり義経が京都に上る前から計画されていたものであったことは明らかでしょうが、義経の軍功が明らかになったこの時、その計画が実施にむけて動き出したのです。彼女は九月一四日に鎌倉を出発している。それは右の平家家地、信兼領の没官注文の発給の五日後のことですから、あるいは、この注文はこの河越の娘が持っていったのではないでしょうか。もちろん先行した使者がもっていったかもしれませんが、いずれにせよ、これはいわば重頼娘の嫁入り道具であったということになります。私は、こういう点からすると、頼朝は義経に不満をかかえていたとはいえ、この段階では義経を敵視している訳ではなかったとするのが適当だと思います。頼朝と義経は「父子の義」を結んでいたといわれていますが(『玉葉』文治元年十月十七日条)、それは、この時期、河越重頼娘との結婚を前提にして結ばれたものであったのではないでしょうか。頼朝と義経は、比企尼を通じて擬制的な父子関係を結んだといえるのではないでしょうか。
私は「頼朝マザコン論」という主張をしていますが、頼朝は乳母の比企尼を母代わりであるかのように扱っていたことはよく知られています。そして、こういう心理状態は、この時期の頼朝自身の家族関係のあり方からみると、自然なものとして理解できるように思うのです。つまり、この年、一月に木曽義仲が滅亡しました。すると、頼朝は、義仲の息子、義高を迫害し始めます。義高は一種の人質ではあったのですが、娘の大姫の許嫁としてすでに夫婦関係をもっていました。頼朝は、この木曽義高を疎外しはじめたのです。それが決定的になったのは、頼朝が、四月十日に従四位に叙されて京都貴族社会への復帰の展望が確保された後のことでした。頼朝は、その直後、娘の大姫と義高の寝室をおそって、義高を殺害してしまったのです。大姫が、この事件から大きな衝撃をうけたことはよく知られています。私は、こういう頼朝の乱暴な行動は、もうすぐ京都に凱旋する。そうすれば娘の聟として、しかるべき京都の貴族をとることができるという希望を背景にしていたのであろうと思います。何という父親だということになるのですが、実際に、義高襲撃の四ヶ月後、つまり、八月、右の信兼問題を処理しているまさにその時に、京都では、「伝え聞く、摂政、頼朝の聟たるべしと云々、是法皇の仰せと云々、よって五条亭を修理し移住せらる、頼朝上洛の時、新妻を迎えんがため云々」という噂が記録されているのです(『玉葉』元暦一年八月二三日)。
ここで摂政というのは近衛基通という人物です。そして、実は、この基通は実は後白河の男色相手として著名な人物でした。後白河は自分の相手を頼朝の娘の聟にしようとしたということになりますが、これを単なる噂として無視できないのは、この噂が基通が実際に五条亭に移住した理由として記録されている点、そしてこの噂を記録したのが基通の競争相手の兼実であるためです。これは事実であったに違いありません。そして、そうだとすると、ここには、状況によっては、範頼・義経のみでなく、頼朝自身が、この段階で急ぎ上洛するという構想をもっていたことを意味します。頼朝は、大姫を連れて京都に上り、時の摂政、近衛基通を聟にしようという考えたという訳です。しかし、これは実現しませんでした。その理由の詳細はわかりませんが、ここには政治史の問題、軍事史の問題が絡んでいたのではないか、つまり、背景に信兼の乱の帰趨がわからなかったということがあったのではないかというのが、私の意見です。慎重な頼朝は、伊賀・伊勢の平氏の叛乱をみて、全体情勢をもう少し観望することにしたのではなかったでしょうか。
もちろん、理由は、もっと単純で、手のひらをかえすような父親のやり方を大姫がいやがったということであったかもしれません。マザコンの持ち主が娘に対しても冷酷な父親、聟殺しの父親となるというのはありそうな話ですから、大姫がそういう父親のいうことをきくのをいやがったというのが正しいのかもしれません。しかし、そのような一時的な家族的な事情を越えて、ここには、自身の上洛とは同時に家族の上洛であり、娘の政治的な結婚を意味するという頼朝の生涯のオブセッションを見て取るべきでしょう。私は、義経に乳母の孫を嫁とらせるという構想が、こういう家族的な矛盾と軋轢の中で、頼朝の比企尼へのマザコンをも背景として展開していたというように考えるものです。歴史家は、この時代の支配層の「俗物度」に対して甘い見方をすることはできません。
当時の政治とはそういうものだったと思うのですが、しかし、そうだとすると、「この主のことにおいては内々の儀ありて、左右なく聴されざるのところ、遮って所望かの由、御疑いあり」といわれる「内々の儀」というのは、頼朝にとってはどのような政治的な構想を意味していたのかを考えざるをえないことになります。これまで「内々の儀」というのは、頼朝が義経に対してもっていた隔心を意味するとのみ理解されてきましたが、これはそういう個人的な心意ではなく、政治的な構想を背景にもっていたはずです。というのは、本来、年功・功績などからみて当然の補任されるべき官職への就任をわざと猶予して、無官のままでいることによって本望となる別の官職を狙うというのは、当時もっともありふれた戦術であったからです。問題は、義経を無官のままにしておくという「内々の儀」が義経にあてはめようとしていた地位とは、どのようなものだったかということです。頼朝にとっては、自身が上洛して貴族社会に復帰するというのが最大のオブセッションであったという先の前提からすると、それは頼朝の上洛後の政治体制の構想と関わっているはずで、それは義経を関東の主にするという構想であった可能性が高いというのが、私の考え方です。頼朝は、それを見越して、義経を比企氏の血縁関係の中にふくみ込み、自身の乳母の孫を妻とするという形で父子の儀を固めたということではなかったでしょうか。私は、このような畿内・京都と東国・鎌倉の統治を兄弟で分担するという構想は、当時の武門貴族にとって自然なものであったはずであると考えます。
このくらいの国家構想は頼朝にもあったはずです。しかし、結局、頼朝は、一一八〇年年代内乱において東西に軍を走らせながらも、この程度の国家構想さえも実現することはできなかったのです。それを論ずることは今日の課題ではありませんが、そのような帰趨にとって、この時期に、大姫が精神的なトラウマを抱えたこと、そして河越重頼の娘が、義経に嫁し、後に平泉まで義経と行動をともにし、自殺するまで行動をともにしたことは、政治史における重要な岐路であったことは確認しておきたいと思います。頼朝と義経の関係については、もっぱら個人的な運命や性格の相違として論じられますが、それは国家関係と兄弟関係の絡み合いが激しい政治的・軍事的矛盾を引き起こすというのは、前近代日本の政治史の重要な特徴です。
一三三三年(元弘三)、足利尊氏が、義良親王を奉じて奥州に下った北畠親房に対抗して、弟直義に成良親王を奉じさせて鎌倉に下したこと、そして、それ以降、尊氏と直義の争闘が南北朝期の政治史の中心問題となったことには、このような先蹤があったのではなかったでしょうか。
Ⅲ島津忠久と「義経沙汰」
さて、西国に派遣された範頼は十分な戦果を挙げることができませんでした。その中で、翌年一一八五年(元暦元・文治元)の正月、義経は西国にむかいます。そして、二月に屋島の平氏を追い落とし、三月に壇ノ浦で平氏を滅亡に追い込みました。ところが御承知のように、壇ノ浦からかえった義経と頼朝の間は、はっきりと険悪な雰囲気となります。義経は壇ノ浦から帰って席を温める暇もなく、五月、鎌倉に向かい、頼朝との融和を試みて、二四日に腰越状を提出します。しかし、周知のようにこれも入れられず、六月九日に酒匂宿を出発して京都に引き返すことになりました。ご存じの経過ですが、京都へ戻る義経を追っ掛けるようにして、六月一三日、頼朝は、義経にあたえた没官領を沙汰する権利を奪いとります。「廷尉に分け充てらるるところの平家没官領二十四ヶ所、悉くもって、これを改めらる、因幡前司広元、筑後権守俊兼など奉行す」(『吾妻鏡』元暦二年六月一三日条)ということです。
このような政治史の動きについて、ここで論ずることはしませんが、ともかく、この没官領沙汰権こそ義経の近畿地方における法的な位置を表現していたものでしたし、上に述べましたように頼朝が河越重頼の娘にあたえた嫁入り道具、持参金のようなものだったのでした。ですから、これを奪い返すことによって、頼朝と義経は本格的に闘争態勢に入ったことになります。
さて、須可荘と波出御厨の地頭職が島津忠久に安堵されたのは、一一八五年(元暦二)六月一五日ですから、東島誠氏がいうように、それがこの大江広元と俊兼による所領の改替の沙汰の一部であったことは疑いありません。補任状には義経の名前はでてきませんが、これは実際上は義経から奪われたものであったことが重要です。その意味では、この文書は、まさに一度義経にあたえられた「義経沙汰」の権限が奪い去られ、義経と頼朝の関係が、取り返しの付かない時点に立ち至ったことを示すもっとも重要な物証であるといってよいことになります。現在まで残っている文書としては唯一無二のものということになります。これは私まだ詳細な観察をしておりませんが、是非知りたいのは、この二つの文書の異筆の問題です。つまり、この文書のうちで、「左衛門尉惟宗忠久」という地頭職を与えられた人を示す部分の筆跡、名宛人の筆跡のみが本文とはことなっているのです。ということは、おそらく、広元・俊兼の責任で行なわれた平家没官領二十四箇所について、すべて本文の部分のみがまず執筆され、その後に、これは誰、これは誰と知行人を決定し、記入していったということを意味するのだと思います。そうだとすると、本文の方は、書記が書いて、名宛人の記入は責任者が行ったということも考えられる訳です。つまり、この異筆の筆跡は、大江広元の筆跡か、俊兼の筆跡かどちらかである可能性が高いことになります。まだ断言はできませんが、私は、どうもこれは広元の筆ではないのではないかと感じています。
さて、問題は、島津忠久がこの二つの地頭職に補任された意味にあります。なぜ、島津忠久に、このような意味をもつ地頭職があたえられたかということですが、それは島津忠久という人物がどういう人物であったかという問題と直結してきます。そして、この点については井原今朝男氏(「鎮西島津荘支配と惣地頭の役割」『日本中世の国政と家政』、校倉書房所収)と野口実氏(「惟宗忠久をめぐって」『中世東国武士団の研究』高科書店)の論文で指摘されていることでほぼ尽きているだろうと思います。まず、井原氏は、忠久が、摂関家、より具体的には近衛家に世襲的につかえた侍である。しかも「忠」という通字をもった惟宗氏の一流に属する京都の侍であるということを明らかにしました。これは伊勢国須可庄が近衛家領であり、さらに島津庄も、またやはり後に忠久に地頭職があたえられた信濃国太田庄も近衛家領であるということにぴったりと適合します。
そして野口氏は、それを前提にして、忠久と比企氏、そして畠山氏の関係がたしかに存在した可能性が高いことを論じました。系図①として野口氏が『吉見系図』にそって作られた比企氏の姻戚関係図を掲げましたが、これはだいたい正しいのではないかとされています。ただ、ここでは忠久は『島津正統系図』のいう通りに、惟宗広言と丹後内侍の間に生まれたとされていますが、野口氏は、五味克夫氏の仕事(「南北朝・室町時代における島津家被官酒匂氏について」『人文論集』「鹿大史学』三一号、一九八四年)を参照して、惟宗忠康という人物を忠久の実父とし、惟宗広言が父であるという伝承は養子関係であったのではないかと推測しています。この推定はきわめて確度の高いものです。野口氏は断言していませんが、島津忠久の母が比企尼の娘であったという蓋然性は高いといってよいでしょう。
それ故に、忠久が鎌倉に下った背景に、このような比企氏との関係があったということは確かです。しかし、そのような人的な関係と忠久の鎌倉下向の契機を直結することには問題が残ります。野口氏のいうように、頼朝の挙兵の前から、摂関家の東国荘園のネットワークの中で忠久と比企氏・畠山氏・宇都宮氏などとの関係ができていたとしても、これはそれ自身としては当時の京都と東国の間の人的な関係がきわめて密接なものがあったことの表現とみるべきでしょう。東国の情勢を説明するのに、そのすべてを直接に頼朝を中心とした都との関係にさかのぼらせるとしたら、それはあまりにも頼朝を中心とした見方になってしまうのではないかと思います。少なくとも井原氏がいうように、忠久は少なくとも一一八〇年(治承四)五月までは京都で活動しています(『九条兼実日記』)。そうだとすると、どういうきっかけで忠久が関東に下ったかは、別個の問題として検討することが必要でしょう。
ほとんど逆の発想ですが、私は、忠久の所領がほとんど近衛家領との関係であたえられていることからみると、近衛家と忠久の関係から問題を解くべきではないかと考えます。つまり、忠久は、最初から近衛家と鎌倉の間をつなぐような位置にあった人物として鎌倉に下ったのではないでしょうか。普通、頼朝は兼実の九条家との関係が深く、近衛家との関係はそんなに深くないようにいわれますが、こう考えてきますと、さきほど述べたように、一一八四年(元暦一)の八月頃には、後白河院の媒介によって頼朝が基通を聟にとるという話しがあったというのが重要な意味をもってきます。しかも、その情報を日記に記した九条兼実自身が、同じ年の十一月頃、「摂政之辺人、余の事を頼朝に讒す」(『九条兼実日記』元暦元年十一月三日条)ということで危機感を露わにしています。
後白河法皇が完全に近衛基通に入れあげているだけに、頼朝は基通とも相当の関係をもっていたのではないでしょうか。そして、忠久は、このような「摂政の辺人」の一人として鎌倉に下ったと考えてみたいと思います。忠久の活動の原点は、基通・頼朝関係の中にあるということです。
Ⅳ島津忠久と没官領事書折紙
以上を前提として、最初に掲げた須可荘や波出御厨の文書に戻り、島津忠久と義経の関係について論じてみたいと思います。前述のように、これらの文書は腰越状をだして詫びを入れてきた義経を京都に追い返すと同時に、「義経沙汰」の所領を頼朝自身の判断によって知行替えをしたものです。しかし、問題は、それではそれ以前の義経沙汰の時には、誰が須可荘や波出御厨を地頭あるいは下司として差配していたかということです。須可荘・波出御厨の本来の領主(下司)であった信兼が義経によって滅ぼされたのが一一八四年(寿永三・元暦一)八月。そして義経沙汰の所領の知行替えを示す須可荘や波出御厨の文書は、一一八五年(元暦二)六月十五日の日付をもっています。この間、約一年。
これまでこのような問いが立てられたことはありませんが、こう考えますと、須可荘が近衛基通の家領であったことが決定的な意味をもってきます。先述のように、基通と頼朝の娘・大姫の結婚話の噂がでたのが、一一八四年八月二三日。そしてこの時、同時に義経と比企尼の孫娘との婚儀が進められていた訳です。もしこれらが実現すれば、基通ー大姫ー頼朝ー比企尼ー同孫娘ー義経という人的な関係が形成されたはずであるということになります。このような関係は、少なくとも、一一八四年の十一月頃、九条兼実が「摂政之辺人、余の事を頼朝に讒す」と自分の日記に記した頃までは続いているはずです。この時、伊勢国の近衛家領の庄園の地頭・下司の任命が基通の意向を無視して決められたはずはありません。そして、そのような職に任命されるのにもっとも適した人物が島津忠久であったことは明かです。比企尼の孫娘が、義経のもとへ上ってきた九月に忠久がどこにいたかはわかりませんが、もし、まだ京都にいたとしたら、比企尼の娘を母とする忠久は義経の嫁を歓迎する中心にいたでしょう。同じ頃に到着した頼朝の「義経沙汰」を認める文書によって、彼が須可荘・波出御厨の地頭・下司に任命されたという想定がもっとも自然です。そもそも伊勢国の地頭には義経の意向の下で、義経近親の大井実春(父実直が頼政の父の仲政の猶子となっているーー「大井氏系図」『三重県史』資料編中世2)、そして比企尼孫娘の父・河越重頼などが補任されているのです。ようするに、忠久は、元暦元年のころ、まだ頼朝と義経の関係が良好な時代に、義経から近衛家領の須可荘の領主職をあてがわれていた。それはあるいは預所職であったかもしれませんし、地頭職であったかもしれませんが、頼朝による忠久の須可荘・波出御厨の地頭職の充行は、それを安堵したものであったことは確実であるということになります(なお、後に、一一八六年(文治二)一月二六日には基通の義経与同の疑いにより、頼朝は基通の摂政辞任を要請している。そのような基通と義経の関係の前提は、この時期にあったのではないでしょうか)。
さて、私が、こういうことを考えるようになったのは、実は、最初に申し上げましたように、写真で示しました史料③について考える中でのことでした。これは常識的には何とも奇妙な謎の文書です。つまり、この史料は先に全文を紹介した『吾妻鏡』に引用された頼朝の折紙と同じ内容です。この折紙については先ほど説明しましたが、『吾妻鏡』の元暦元年九月九日条にのっているものです。ところが、この史料③には「寿永三年四月十一日」とあります。これは明らかに『吾妻鏡』の方が正しいはずです。つまり、寿永三年は四月一六日に元暦元年と改元されるのですが、その直前四月十一日というのは、まだ伊賀・伊勢の平氏武士団の叛乱が起こる前、信兼が攻め殺される前ですから、これがどうみてもおかしい訳です。
おかしなことの第二点は、文書の形式です。まず直感的にいいますと、何となく字配りがおかしい。公文書にしては文字が大きすぎて、書状のようにみえます。ところが、書状には月日を書くだけで年は書かないのが原則です。この時代、年を書くのは、公文書、あるいは証文としての意味をもつ文書です。つまりこの文書は、書状のような感じなのに、年月日が書いてあるというのが奇妙です。それから「平家没官領内京家地事」という部分、いわゆる事書がこんなに短いものなのに二行になっている。また事書に文章が続いているだけで、いわゆる書止文言もない。「恐々謹言」という結びすらない。それにも関わらず、年月日がついていて、その点だけだと、いわゆる証文、証拠文書としての形式をとっている。こういうのは、古文書学の常識からいくとまったく理解できかねるものです。
しかし、これを正文ではない、偽文書であるとすることはできません。まず花押の形に問題がないのです。東島氏は花押がおかしいというのですが、『花押かゞみ』によって、元暦元年から二年の頼朝の花押を観察してみますと、これは、この年のものであるとみて問題はありません。とくに高野山文書の元暦元年七月の文書に載せられた花押とそっくりです。頼朝の花押の時代的な変化については、林譲氏の論文「源頼朝の花押について」『東京大学史料編纂所研究紀要』第六号、一九九六年)によっても、元暦元年のものは右側の「月」の字の第一画が長く、左側の上の方の書き方が同じであることなど、この怪しい文書の花押は問題がありません。花押の下半分の筆勢が少し弱いようにも感じられたのですが、原本について観察をしますと、その部分にはもと一枚、紙がかぶっていたようです。顕微鏡でみますと、その紙の薄い繊維の膜が花押の下半分にかぶっていることがわかります。あるいは、この部分、虫食で破れていますから、それ以上頼朝の花押の部分が壊れないように、薄い紙を上から張ったのでしょうか。こういう補修紙は普通は裏側にはるでしょうから、少しおかしいですけれども、相当古い段階で下手な応急手当がされたのでしょう。そのために少し筆勢が弱いようにみえるということです。また顕微鏡でみてみますと、この文書の料紙は、若干引合風の溜漉の強い料紙であることが分かります。引合というのは、鎌倉時代・南北朝時代のもっとも良質の紙をよぶ呼び方ですが、この料紙の紙は、とくに疑うべきものではありません。さらに興味深いのは字配りのおかしさの問題です。これについては本来の文書が日付もなく、花押がすわっているだけで署名もない略式の文書、折紙の事書注文であったことを考慮に入れなければなりません。つまり、この文書の字配りの怪しさは、もと折紙の文書をおそらく字配りも真似しながら普通の大きさの紙に書き直したためであるということになります。その時に日付も入れ、証文・証拠文書としての格好を付け直したのでしょう。
以上のようなことだとすると、この文書の形式上の怪しさは、逆にこの文書が実際に機能していた文書であるということを示す証拠になってしまいます。普通、偽文書を作るとしたらこんなに怪しい文書は作れません。その意味できわめて興味深い文書なのですが、内容はさらに興味深いものがあります。何よりも重大なのは、「寿永三年四月十一日」という日付です。これが明らかにおかしいことは先述の通りですが、これは、なかなか複雑な問題でして、頼朝が平家没官領をどう配分したかという経過に関わってきます。つまり、頼朝に与えられる平家没官領が、京都の側からが一覧表、リストにになって鎌倉に報告され、それが配分される時期が、だいたいこの四月十一日の前後です。ですから、たしかにこの文書は日付を前にさかのぼらせているのですが、その日付にはいかにもそれらしい日付を選択しているのです。先述のように、寿永三年が元暦元年に切り替わるのが、この少し後ですから、当時の人々は、年号の切り替わる寿永三年の四月半ばに平家から没収された荘園所領が配分されたということを強く意識していたのではないかということになります。
しかも花押の形は四月段階のものではなく、内容からいっても、おそらくこの年の九月頃のものであるということになります。とくに重要なのは、この文書の内容からいって、これが作成された段階では、この文書の内容、つまり義経の平家没官領の京都家地と平信兼領の沙汰権はまだ生きて機能していたとすべきことです。そこから導かれる結論は、この文書には、本来、義経による庄園知行の充行状がセットになっていた。この文書をもっていた人は、義経沙汰の没官領について、義経の充行状を受け取っていたが、それのみでは法的に不安定であることを知っており、そのため義経にその権限をあたえた頼朝自身の花押のすわった文書を要求したのではないかということです。先に述べたように、義経が信兼領を沙汰する権限は頼朝の折紙の事書注文によっていた訳ですが、この文書をうけとった人物は、この頼朝の事書注文の案文は、(おそらく義経からもらって)もっていた。それを鎌倉にもっていって、それを書き直して、頼朝の花押をすえてもらったということではないかということです。しかもその時、平家没官領の措置の時期としてよく知られている「寿永三年四月十一日」という日付を入れてもらったという訳です。
ここまで解釈をしてきますと、その人物こそ、島津忠久であったと結論したくなるのは当然でしょう。もしそうだとすれば、この謎の文書は義経の須可庄の充行状とセットになっていたが、史料①②の頼朝の安堵状を受けとった後には不要となり、義経の須可庄の充行状自身は失われてしまったということになります。ただ、この文書は他の二通の文書とともに「頼朝公御書」という外題をもつ軸装の巻子になっています(長持五十七番箱、架蔵番号七八/一二/一~三、軸は薩摩切子)。そして、他の二通は島津家に伝来したものではなく、蒐集文書であった可能性がありますので、問題は複雑です。これは本当は原文書をもっとくわしく観察し、他の二通の文書についても調査の上で、報告しなければならないのですが多忙のまま放置していることを御詫びしたいと思います。しかし、この文書はたしかに真正の文書ですので、当面のところ、やはり、須可荘や波出御厨の文書と一連の文書として島津家文書の中に残ったものと考え、御報告をしておくことを御許しいただきたいと思います。
おわりに
竜頭蛇尾のようになりましたが、冒頭に申し上げたように、最後にふれた文書の謎は、『義経の登場』という本を執筆する中で気になったまま解けないでいた問題です。これをいちおう解けたかもしれないと思ったのが、先日の土曜日・日曜日、今日の講演の準備をする中でのことでした。
ご承知のように、島津家文書は、日本の古文書の中では、東大寺文書・醍醐寺文書・東寺百合文書などとならんで、もっとも価値の高い、そして武家文書としては唯一の国宝に指定された文書です。これまで、史料編纂所と黎明館は、この島津家文書を共同で研究し、その価値を社会的に説明し、利用するという共同の事業にとりくむという非常に特別な関係を結んできました。そのために、史料編纂所の所長は所長になった以上、島津家文書についてかならず黎明館で講演をしなければならないということになっている訳です。これはたいへんなプレッシャーでありますが、そのために久しぶりに自分の時間をとって仕事をすることができたことに感謝したいと思います。
とはいえ、それこそ一夜漬けで、お聞きになる方には、わかりにくい講演になってしまったことをお詫びしたいと思います。ただ、講演の趣旨を最後に確認しておきますと、これまでの忠久と頼朝の関係についての議論は、おもに比企氏、比企尼、そして比企尼の娘といわれる丹後内侍との関係で考えるのが一般であったと思います。それに対して、私は以上のような理由で、むしろ近衛家と忠久、そして近衛家と義経・頼朝との間の関係それ自体に、忠久と鎌倉の関係をみていきたいということになります。こういうことで、忠久は、京都に上ってきた義経のお嫁さん、比企尼の孫娘にもあい、頼朝が彼女の嫁入り道具として義経に平家没官領の沙汰権をあたえたことをよくしっていたのではないかなどという推定を述べた訳です。普通の歴史常識ですと、鎌倉時代は「武家の時代」といい、すべてを頼朝中心でみてしまいます。この時代は「武士道」によって代表されるというのが普通の常識でしょう。しかし、現代の歴史学者はまったくそう考えていません。私たちにとっては、鎌倉時代=武家の時代というワンパターンの考え方を越えて、公家貴族・官人さらには一般の庶民をもふくめた時代のイメージを作り、それをできるだけわかりやすく提示することが最大の課題となっています。
さらにいうまでもなく、島津荘は平安時代から東アジアの中で重要な貿易基地となっていました。今日は、このような問題にまでふれることはできませんでしたが、ここ一〇年ほどの間に、古代史の永山修一氏、中世史の小田雄三氏、村井章介氏、近世史では黎明館の徳永和喜氏などが、南島に対する支配と国際的な交易の問題などについてまったく新しい研究を発展させています。おそらくこういう側面を入れて考えれば、これまでの平安時代・鎌倉時代についての鹿児島県の歴史のイメージは根本的に変わっていかざるをえないでしょう。そのような期待を最後に申し上げて、講演を終えたいと思います。