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「頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』20号

 私は、頼朝もそれなりの国家構想というべきものをもっていたと考える。もちろん、頼朝には国家思想の上での独自性などは存在しない。頼朝の国家構想は、上洛して清盛と同様の地位を確保し、さらにいわゆる「覇王」としての地位を希求するという当時の社会に一般的な単純で俗物的なものであった。それ故に、これ自身は取り立てて問題にするに値しないものである。ただ、問題はこの構想の裏側であって、私は、それは本稿で述べたように、義経を乳母の孫娘の聟、さらに自己の猶子として東国の盟主に据えるという構想であったと考えている。そしてこの構想の過程こそが「鎌倉幕府」なるものの初期政治史の実質であったのではないかというのが、それに引き続く想定である。以上のような考え方が、本稿で述べた事柄の前提となっているのであるが、しかし、これは一般的な見解とはあまりに異なるものであるので、ここで若干の説明をし、さらにそれに関係する史料を紹介し、分析しておきたい。
一、寿永三年二月、頼朝の上洛問題
 問題は、研究史的には、頼朝の上洛問題をどのようにとらえるかという論点に関わっている。頼朝の上洛の意思が最初に明示されている史料はいうまでもなく、富士川合戦に勝利した頼朝が「上洛すべきの由を士卒などに命ぜらる」という史料である(『吾妻鏡』治承四年一〇月二一日条)。それはとどめられたものの、頼朝がこの意思を貫こうとしていたことは翌々年二月に伊勢神宮に対して提出した願文に「無為・無事に参洛を遂げ」と記していることに明かである(『吾妻鏡』養和二年二月八日条)。
 しかし、このような頼朝の上洛の野望が王権中枢における本格的な政治問題となったことを示す史料は『九条兼実日記』寿永三年二月一六日条であろう。それによれば、兼実のところにやってきた源雅頼は、その家人の中原親能が「院御使」として頼朝の上洛を促すために東国に下向したと語り、さらに「頼朝四月に上洛すべし」という観測をも伝えている。そこには親能に対して後白河院の「頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸あるべきの由」という意向が伝えられたとも記されている。本論との関係で注目されるのは、同じ日記の二月二八日条に近衛基通が「外記大夫信成を使として頼朝の許に通はさる云々、人、何事なるかを知らず、今旦首途了云々」という記事がみえることである。この意味ありげな記事は、後白河による頼朝上洛の催促が最初から摂政基通と気脈を通じて企てられたものであることを示している。
 これらは今回の頼朝上洛という動きが京都側、後白河院の側からの働きかけを中心として現実的な問題に展開している様相をよく示している。この段階では頼朝がすぐにも上洛することは、一つの既定事実となっていたのである。これがこれ以降の政治史の基調低音となったことは確実であって、前者の情報を兼実に語った源雅頼は、同じ二月二七日にも「頼朝、四月下旬に上洛すべし云々、又、折紙をもって、朝務を計申す云々」という伝聞を伝えている。これは東国に下った親能から後白河院の意向をきいた頼朝が、実際に「四月上洛」の意向を後白河院に対して回答し、それと一連のものとして「朝務」に関わる折紙奏状を提出したことを示している(以上、『九条兼実日記』寿永三年正月廿八日、二月二日、二月一六日、二月二七日条。なおこの奏状は『吾妻鏡』元暦一年二月二五日条に引用されているが、その実際の作成日時は二月一八日前後であって、二月二五日はこの奏状が京都に届き、高階泰経を通じて院に奏上された日時であろう)。
 さて、私が注目したいのは、まずは、これらの情報を兼実に伝えた源雅頼の周辺の人的な関係である。この時期の『九条兼実日記』を見ると、雅頼の周辺が頼朝と兼実を結ぶ最大のルートとなっていたことがわかる。雅頼は村上源氏の一流に属し、以仁王、そして義経・頼朝の挙兵において重要な位置をもっていたとされる八条院に近い存在であった。雅頼の子供兼忠は八条院よりの御給をうけた人物であることも注意される。この関係で雅頼は八条院領相模国前取社を支配していたと思われるが(参照、石井進「源平争乱期の八条院周辺」『石井進著作集』七巻)、中原親能が雅頼の家人となっているのは、親能が相模国で生育したという経歴をもっていることとも関係している。親能は雅頼の息子の兼忠の乳母夫でもあり、雅頼ときわめて深い関係を結んでいた。いうまでもなく、中原親能は土肥実平とともに義経の義仲追討軍について上洛し、「頼朝代官として九郎につき上洛せしむるところなり、よって万事奉行をなす」といわれた人物であるが、土肥実平には、親能のような京都の貴族社会との密接な関係は知られていないから、少なくとも、この段階での雅頼ー親能の関係は頼朝にとってきわめて重要なものであったことは疑いない。
 雅頼と兼実の関係がどのようなものであったかは別個の検討課題であるが、ともかくもこの年、一一八四年(寿永三)二月一日、雅頼は、兼実のところにやってきて、「若し天下を直さるべくんば、右大臣殿、世を知らしめすべきなり」という頼朝の希望を親能からの確言として兼実に伝えている。この日記の一節で兼実が「齋院次官親能」に「前明法博士広季の子」という細注を付け加えているように、兼実は親能の父親の広季のことも兼実はよく知っていた。そして、兼実は広季の子供、親能の弟にあたる中原広元(大江広元)が、当時鎌倉にいたことも知っていた。頼朝はすぐに実際に兼実を摂政として推挙することになるが、その奏状が三月一九日に京都に到着した後、この奏状を執筆したのが広元であるという事実は広季のところから兼実の許に入っているのである(『九条兼実日記』三月二三日条、四月七日)。
二、手鑑『湖山集』の二通の書状
 残念ながら、頼朝の上洛を督促した後白河ー基通の側の史料は存在せず、その詳細は不明であるが、しかし、兼実ーー頼朝のルートにおいては、以上のように、雅頼ー親能ー広季ー広元のグループが大きな役割をしていたのは確実である。以下、これに関係して、これまでとくに注目されたことのない史料を紹介し、若干の解説を行うことによって、頼朝上洛問題の状況を固める作業としたいと思う。それは手鑑『湖山集』におさめられた二通の書状である。この二通の書状は、料紙や紙背の聖教の精査の結果によっては、いわゆる八条院庁文書の一部である可能性もあるもので、本来原本調査をへて論ずべきであるが、ここでは簡単な紹介にとどめたい。まず一通目を掲げる。
(一)
 来四日御使所司可下遣之由、謹承候了、親光使者、件日可進之由、同成約諾候了、
 土肥下文、今朝申遣候了、宣旨 并武衛奏状九郎下文等案、同可相具候也、恐々謹言
   三月二日   円雅
 この署名者は円雅と読んだが、おそらく前述の源中納言雅頼の兄の雅綱の孫で比叡山の僧侶となっている円雅という人物ではないかと考える(『尊卑分脈』三巻、五三八頁)。円雅という人物は、後に、八条院領の重要な部分をなした安楽寿院領の出雲佐陀庄および大和宇多庄の領主として登場する律師円雅と同一人物であろう(参照、石井進前掲論文。ただし、石井は後者の円雅を花山院忠雅の子としている)。前述のような京都と頼朝の関係ルートのあり方からしても、すぐに述べるようなこの書状の内容からしても、源雅頼の近親者がこの書状の差出者であるという想定は成立しうると思う。
 手紙の趣旨は「来る四日に御使所司を下したいという手紙をたしかに拝見しました。親光からは使者を同じ日に進めるということについて約束をえてあります。また土肥の下文は今朝取りにやらせました。そして宣旨および武衛の奏状および九郎の下文などの案も、一緒に持っていくことができるように処置する積もりです」ということになる。この書状の話題となっているのは、次に述べる「宣旨 并武衛奏状九郎下文等案」の内容からして、兵糧米の賦課に関係する訴訟であったろう。円雅は、しばらく前、その庄園の領主(おそらく著名寺院の住持クラスの僧侶)から、鎌倉軍の中枢部、つまり義経等のしかるべき裁許文書を入手してほしいと頼まれたのであろう。そして(この書状を出した当日あるいは一・二日前の頃であろうか)かさねて依頼者の庄園領主から手紙が来て、「来る四日」(つまり、この書状が出された日の翌々日)に、御使所司を庄園に下向させたい、前の依頼はどうなっているかと問い合わせがあったということになる。円雅は、それに対して、まず親光という人物に依頼して、四日に使者を派遣することについて了解をえたということを報告し、さらに今朝ほどには、土肥のところにも下文を取りにやりましたと報告した。まず、この「親光」は、大江=中原親光、つまり大江系図(『尊卑分脈』)では、大江維光の子供で大江広元の兄として登場し、中原系図(『続群書類従』)では親能・広元の父の広季の弟、つまり親能・広元の叔父にあたる人物として登場する人物であろう。この中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。そして、「土肥」は中原親能とともに義経軍についてきた「頼朝代官」土肥実平であることはいうまでもない。とくにそうなると重要なのは、この手紙は実平が京都近郊にいた頃に出されたものであるということである。そして、土肥が京都の周辺にいた「三月二日」に適合するのは一一八四年(寿永三)のみとなる。
 さらに注目されるのは、傍線をひいた「宣旨 并武衛奏状九郎下文等案、同可相具候也」という部分である。この宣旨は一一八四年(元暦一)二月一九日の武士濫行停止の宣旨、同じく二月二二日の兵糧米停止の宣旨であろう(『九条兼実日記』二月二三日条)。そして、「武衛奏状」とは、おそらく先にふれた雅頼が二月二七日に兼実に対して、「頼朝、四月下旬に上洛すべし云々、又、折紙をもって、朝務を計申す云々」と伝えたという「折紙」のことであろう。これが四日後には伝わっていることをみると、書状(一)の差出者の円雅は、関東からの情報が伝わってくる中枢部のそばにいた人間であることになる。次ぎの「九郎下文」は二月二二日の兵糧米停止宣旨を同日に施行した下文であろうか。これまでは同じ二月二二日、義経が摂津国垂水牧に賦課された兵糧米を免除した書状が知られているだけであったが(参照菱沼一憲「源義経の政治的再評価」『国史学』一七九号)、義経は自身で「諸国兵糧米停止」を令した「下文」を発していたことになる。これによって垂水牧宛の兵糧米免除書状に「諸国の兵糧米、停止おわんぬ、下知仕り候おわんぬ、御承引あるべからず候か、よって庁御下文二枚、進上候」とある趣旨もよく理解できることになるだろう。義経が後白河院庁の発給した兵糧米免除の下文を不要であるとして返却した理由は、すでに一般的指示としての宣旨が存在し、しかもそれにそって自己の下文が発給されている以上不要であるということだったのである。「九郎下文案」がこのように流通していたということは、義経の軍事的リーダーシップが宮廷社会において承認されていたことの何よりもの証左である。
 次に第二の書状を掲げる。
(二)
 仰候し飛騨母家、自院申給天候也、散々成可住様不候、修理如何可仕候哉。
自昨日、如此沙汰、一切被留候也、自鎌蔵殿申させ給事候やらん、脚力上洛已後善悪沙汰せしと候也、於自今已後者、土肥許へ可仰遣候也、土肥にも自此仰遣事をハせしと候也、恐々
           (花押)
 残念なことには、この書状には差し出しの署名も宛先もなく、花押や筆跡から筆者を同定することもできていない。以下、仮にこの人物をTとして説明することとするが、重要なのは、この書状の「と候也」などという表現からして、この書状は執筆者のTの上位にいる人物(これをXとしておく)の意思を伝える奉書的な性格をもっていたと考えられることである。さらに、この書状(二)が、(一)の円雅書状の内容と密接にかかわることは一読明らかである。その趣旨は、「昨日から、こういう案件は、一切、処理することを留められた。(Xに対して)鎌倉殿よりおっしゃってこられたことがあったようである。(その指示をもってきた)脚力(飛脚)が上洛したのちは、善きにつけ悪しきにつけ沙汰はせじということだ。これからは、(こういうことについては)土肥の方へ仰遣わしてほしい。土肥方に対して、こちらから仰せ遣わすこともしないということだ」というところであろうか。これはようするにXが兵糧米の賦課に関係する訴訟を沙汰する権限を今後は行使しない、もしそういう問題が発生したら土肥実平の方へもっていけと指示したということである。これはこの時期の情勢の本質的な問題にふれた書状=奉書であるということになる。
 読みとりにくいのは尚々書であるが、これは円雅の書状(一)の趣旨にも、書状(二)の本文の趣旨にも、そしてXが誰かということとも直接の関係はないようで、むしろ手紙のやりとりの中で、ついでに議論された問題であると解釈するほかないであろう。つまり「様子はどうなっているかと御心配をいただいた『飛騨の母の家』のことですが、これは後白河院庁より措置をしていただきました。散々になっていて住みようもないほどで、修理をどうしようかなどと相談したいところです」ということになろうか。しかし、この「飛騨」は飛騨守のことを意味すると考えるほかないが、この頃の飛騨守を求めると、前述の親光か、広季のどちらかとなる(広季は『中原系図』(『続群書類従』)に「飛騨守」、一一八四年(寿永三)七月二日の関東御教書に「六条院年預飛騨前司広季」とみえ(『平安遺文』四一五八)、親光は一一八四年(元暦一)八月二二日に飛騨守現任とみえる(『山槐記』同日条))。ここではそのどちらであるかを推測するのは控えておきたいが、この書状(一)(二)が村上源氏と中原広季の周辺に関わっているものであることの傍証にはなるであろう。
 問題は、このTの書状(二)に「土肥許へ可仰遣候也、土肥にも自此仰遣事をハせしと候」とある部分であって、これは(一)の円雅書状に「土肥下文、今朝申遣候了」とあるのと対応している。つまり、(一)は(二)を受けてだされたということになるから、(二)の書状の宛先は円雅であったというのが自然な解釈であろう。
 そうだとすれば、Tのだした書状(二)の日付の推測が可能になる。つまり、書状(二)の日付は、(一)の円雅書状の日付、「三月二日」を若干さかのぼった日付であるということができる。円雅が土肥実平のところへ下文の発給を要請したのは、三月二日の朝(「今朝」)であるから、このTの書状(二)が円雅のところへとどいたのは、前日の三月一日のことであったろうか。もちろん、円雅は書状(二)を受けとってから、「親光使者、件日可進之由、同成約諾候了」という手間をかけているから、書状(二)が円雅のところへとどいたのは、さらに前のことなのかもしれない。おそらくTの書状(二)の日付は二月末というのが妥当なところであろう。実際、円雅に対してそもそも「沙汰」を依頼してきた荘園領主(さきの想定によれば京都の著名寺院の僧侶)は、おそらく二月二二日前後の兵糧米停止の宣旨の噂をきいて円雅に対して鎌倉軍筋への口入を頼んできたのであろう。たとえばそれが宣旨発給の翌々日、二月二三日であるとし、円雅がそれをTに伝達したのがたとえば二月二四日、そしてそれに対して、TがXの意向を聞いた上で、書状(二)をだしたのが翌日であるとすると、書状(二)の日付は二月二五日ということになる。
 別の方向からこの書状(二)の日付を絞ってみると、「脚力上洛以後は善悪沙汰せしと候也」とあることが注目されよう。つまり、この書状執筆の直前に頼朝の脚力が上洛してきたことになるが、『吾妻鏡』による限り、この脚力は、一ノ谷合戦の勝利(二月七日)を伝える急使が二月一五日に鎌倉に到着した後、それをうけて二月一八日に鎌倉を発して上ってきた脚力である可能性が高い。もちろん、『吾妻鏡』に使者の往来がすべて記録されているということはできないから、あるいは若干早くあるいは何度かにわたって使者が出ている可能性も高いが、しかし、いずれにせよ、この「脚力」が一ノ谷合戦勝利後の情勢に対して「鎌倉殿」=頼朝の意思を伝えたものであるとすれば、(この頃の通例として京都鎌倉間の日程が足かけ七日ほどであったとすると)その京都到着は二月二四日頃(あるいは『吾妻鏡』の記載に何らかの根拠があるとすれば二五日)であるということになろう(先述のように源雅頼は二月二七日に兼実のところへ来て頼朝の「朝務を計申す」「折紙」のことを説明しているのは、この日程計算にだいたい合致する)。そして、Tの書状(二)は「自昨日、如此沙汰、一切被留候也」と述べているから、「二月二四日」=「脚力上洛」の日=「昨日」とすると、この書状の日付はやはり二月二五日前後に絞られることになる。
 このように日程を計算してくると、この重大な時期に、鎌倉殿頼朝の意思を直接に受けた人物、そして、それをうけて「於自今已後者、土肥許へ可仰遣候也、土肥にも自此仰遣事をハせし」と宣言するような人物、つまりこの書状を差出したTの上にいた人物Xは、義経その人と考えるほかなくなってくる。そして、それが正しいとすると、これまで知ることのできなかった頼朝ー義経関係が明らかになってくる。つまり、頼朝は、一方において、『吾妻鏡』にのせられた頼朝奏状(右の二月二四日もしくは二五日に京都に届いた奏状)では「畿内近国、源氏平氏と号し、弓箭に携わるの輩は、義経の下知に任せ引率すべきの由、仰せくださるべく候」として義経が木曽義仲追討のために派遣した軍勢の指導者であることを認めていた。しかし、他面、おそらくこの奏状と同時に京都に到着した義経宛の書状では、義経が「自昨日、如此沙汰、一切被留候也」と反応するようなことをいってきた、ようするに、頼朝は、義経に対して兵糧米の賦課に関係する訴訟を裁決するようなことをするなと指示してきたということになるのである。
三、頼朝上洛問題の展開
 頼朝は、この段階で義経が続々と提起される訴訟に関わって裁判権力として成長していくことを牽制したということができるだろう。そして義経に対して、それらの訴訟についての関わりは自身が上洛の上で処置するべきものだと示唆したのではないだろうか。
 この点で考える上で参考になるのが、ちょうどこの時期、進行していた主殿寮年預の職をめぐる伴守方と伴基方の兄弟の間での訴訟の成り行きである(参照、千村佳代・鳥居和之・中洞尚子「主殿寮年預伴氏と小野山供御人」『中世史研究』三号)。この訴訟はおそくもこの年の二月はじめには頭弁ー職事、院庁のルートで開始されていながら、「九郎御曹司において、両方の理非を対決せらるべき」という方向に展開した。それは伴守方の息子の一人の俊重が平家郎従として西走した平家の許におり、守方が俊重に洛中の情報を流していたとされたためであったようであり、そのためもあって、結局、義経の側では問注に入らず、基方の側が「理致顕然」であると「仰せ切られ候」という結果となった。貴族官人社会の中で、義経が「理非」決断の本格的な裁判権力としての役割を期待されたというのは注目すべき事実であるが、少なくとも結果としては、義経の権力は軍事裁判の範囲を越えて、そのような道に入ることはなかったのである。そして、それをふまえて(元暦元年)三月十三日、梶原景時は、基方の勝訴を確認する書状を出しているのであるが、注意すべきなのは、そこで守方の処罰については「公人に候の故に、鎌倉殿御上洛を相待つところに候」と述べていることである(『平安遺文』四一六五。なお景時はこの書状を出した直後には平重衡を護送して鎌倉にむけて旅立っているはずである)。この背後には、内乱後の情勢後の訴訟について最終的な決着をつけるのは頼朝の上洛であり、それは近く実現するという認識が明瞭に現れているといってよい。それはおそらく、義経をふくめて京都に進軍した鎌倉の武士に急速に一般化していったに違いない。
 この問題がどのように展開したかを詳細に論じることは、一一八四年(元暦一)の政治史・軍事史の全体を再点検することを必要としており、ここはそれを述べる場ではないが、しかし、本論で述べた義経の結婚問題や大姫の聟・木曽義高の殺害問題などとの関係については簡単な紹介をしておきたいと思う。
 頼朝の上洛は、本来は四月とされていたことは前述の通りであるが、実際には、一一八四年(元暦一)三月二七日に頼朝が従四位に任命され、京都の貴族社会に復帰する過程が先行した。これによって王朝国家の中での頼朝の位置をより具体的に構想する過程がはじまったはずである。前述のように、頼朝が、義経の畿内における行政的権限、裁判権限を制約した以上、そのことは鎌倉軍の指導者としての地位を確保していた義経をどのように処遇するかに直結する。しかし、この問題は、頼朝が自己の子供との関係、兄弟関係や親族関係の姻族・親族関係をどのように組織するかという状況全体と関係しており、問題はその全体の中で考察されなければならない。
 もちろん、頼朝に成人した男子がいれば、当然に、国家構想は頼朝の男子を中心に男系直系で構想するはずであるが、頼朝と政子の間に頼家が誕生したのは一一八二年(寿永一)八月で、頼家はまだまだ幼く、頼朝にはその余裕はなかった。頼朝にとってまず処理しなければならないのは、実は、一一八三年(寿永二)の春に大姫の聟として鎌倉に到着した木曽義仲の息子の義高の処遇であったと思われるのである。頼朝にとっては、一月二〇日の木曽義仲の敗死は臍をかむようなことであったろう。頼朝にとっては義仲の打倒は、すぐにその子供・義高殺害の意思に結びついていったはずである。そもそも、頼朝にとっては、自身の命令によって誅殺した義仲の息子を娘の聟としたまま放置しておいて上洛することはあり得なかった。それ故に、「四月上洛」という計画を明らかにした段階では、殺害計画の具体化はまったなしになったはずである。もとより詳細は論証しがたいが、木曽義高が頼朝の殺意を知って鎌倉の屋敷を逃亡したのは四月二一日である。その事情は、『吾妻鏡』によれば、それは頼朝が「昵近の壮士」に義高誅殺を命令しているのを女房が「伺聞き」、それが大姫を通じて義高に伝えられたためであるという。そういう時間関係からすると、この義高に対する殺害計画が決定し、用意が開始されたのは、以前も述べたように、三月二七日の頼朝の従四位に任命の後であったであろう(「日本国惣地頭源頼朝と鎌倉初期新制」、『国立歴史民俗学博物館研究報告』第三九集、一九九二)。
 しかし、ともかくも、娘の聟を殺害するというのは相当の計画である。『吾妻鏡』には「姫公、周章し、魂を銷さしめ給う」とし、「愁嘆のあまり、漿水を断たしめ給う。御台所また彼御心中を察するにより、御哀傷殊に太し。しかる間、殿中の男女、多くもって嘆色をふくむ」とある。これは頼朝にとってもわかっていたことに相違ない。そうだとすると、私は、本論で述べた頼朝娘の大姫と摂政基通の婚儀の可能性がすでに、この段階で頼朝の心意の中には存在していたのではないかと考える。本論で述べたように、『九条兼実日記』に基通と大姫の噂が記録されるのは八月二三日のことであるが、近衛基通が後白河と一緒になって頼朝に使者を送ったのは、二月のことである。その後に、基通と頼朝の連絡が途絶えたとは考えがたい。頼朝と京都との連絡はすでに二月段階の源雅頼ー中原親能ルートに限られない広く多様な接触を確保していたはずであって、その中で、院ー基通とのルートは強化されていたはずである。とすれば、三月末あるいは四月の段階で基通と大姫の婚姻話が内密に整いつつあったということは十分に考えられるのではないだろうか。ここに頼朝の上洛は、大姫と基通の婚姻とセットになって動き出したのではないだろうか。
 大胆な仮説であることは自覚しているが、義経の処遇は、時間的な前後からみて、この義高問題の処置の中で、具体的には四月二一日の帳台襲撃からしばらく後で構想された可能性が高い。三月二七日に頼朝の従四位任命がすんでいる以上、四月には関東勢に対する勧賞の叙位・叙官が予想されていたはずである。義経がさかんに官途の推挙を求めた(『吾妻鏡』元暦元年六月二一日条)というのが正確に何時の段階のことであるかは不明であるが、しかし、四月にはこの問題が議題に上っていたとして問題はない。ところが、頼朝は、五月二一日に、頼朝は、高階泰経に書状を発し、範頼・広綱・義信などを国司に推薦しているが、その中には義経を入れなかったのである。私見では、この段階ですでに頼朝は「内々の儀」として義経は比企尼孫娘との婚姻を前提として将来は東国に呼び戻すという構想をいだいていたと考えるものである。そして、これと基通と大姫の婚姻、それ故に頼朝が上洛して京都の中枢部を握るという構想は一連のものであったのではないだろうか。
 なおいうまでもなく、このような仮説の前提となるのは、すでに、義経と比企尼の孫娘の婚儀は既定路線として定められていたということである。私は、それはおそらく一一八三年(寿永二)閏一〇月の木曽義仲追討軍の鎌倉出発前に定められていたに相違ないと思う。その傍証は木曽義仲追討軍の義経側近に川越重頼・重房の父子がいたことであって、このような配置は、義経がすでに川越氏との婚姻関係を予定していたことの表現である。出陣の時、義経はすでに二五歳である。義経と比企尼の孫娘の婚儀をいつ、どのように行うかは、比企尼との関係でいっても川越氏との関係からいっても頼朝にとって無視できない問題であったに相違ない。
 私は、以上のような経過の中で、頼朝は必死になって義高暗殺の事後処理を行ったのであろうと考える。五月一日には義高の伴類を討つために多数の御家人を信濃国に派遣している。そして五月一五日伊勢国において逃亡していた義仲の最強の同盟者、志太先生義広を打ち取ったという報が入ったことは頼朝と鎌倉軍にとっては、木曽義仲との因縁のすべてを解消することにみえたに相違ない。そして六月一六日に実行された甲斐源氏、一条忠頼の虐殺もこれに関わっていたのではないだろうか。もちろん、義高と忠頼の関係を証明するものはなく、『吾妻鏡』はこの暗殺について「威勢を振るうのあまり、世を濫さんとするの志を挿しはさむ」とするのみである。しかし、この暗殺は六月五日の池頼盛の帰京をまって実行されたものに相違ないから、五月には計画されていたものであるとすると、時間的には義高暗殺事件との連続性の中で考えるべきものであると思う。なお、義高暗殺事件のもう一つの余波が、暗殺を実行した堀親家の郎従の梟首であることはいうまでもない。これは義高暗殺の約二ヶ月後、六月二七日のことであったが、『吾妻鏡』は日を追って憔悴する大姫をみた政子が「強く憤り申す」とその事情を説明している。この政子の親家郎従への怒りの真意が、頼朝への抗議にあったか、あるいは単に娘をなだめ、新たな婚儀にそなえさせるための説得材料にすぎなかったかは史料から推測することはできない。
 ともかくも、これによって、頼朝にとっては、義高と大姫の問題は一応の一段落ということであったろう。私は、以上のような想定が時間的な前後関係をふくめて確実であると主張するつもりはないが、これが過ぎた段階で、もう一度、頼朝上洛の計画が幕閣において確認されたことについては、史料の支えがある。つまり、寿永三年七月二日の関東御教書(大江広元奉)に「一、滅金事、右、今秋御入洛あるべし、これ、かつがつ大仏修復の御知識のためなり、必ず御入洛の時、相具さしめたまうべきなり」とあるのが決定的である(『平安遺文』四一五八)。ここで「今秋御入洛あるべし」というのが「法皇の仰せ」によって基通が頼朝上洛の時、大姫を嫁として迎えるために五条亭の修理を行っている事態に対応するものであったことは明かである(『玉葉』元暦一年八月二三日)。
 これを見通して、右の七月二日の関東御教書が大江広元によって執筆された翌日、七月三日、頼朝は、義経を平氏追討のために西国に派遣することを申し入れたのである(『吾妻鏡』元暦一年七月三日条)。しかし、これは同じ七日、伊賀国における平氏一党の蜂起によって実現せず、以降、本論で述べたような信兼問題の処理に直面することになったのである。もし、これがなければ、おそらく、この段階で、比企尼孫娘は京都の義経のもとに行き、婚儀の後に、平氏追討将軍として出で立つ義経を見送ることになったのではないかというのが、私の想像である。