日本史研究の名著30冊/歴史学の勧め。『日本史学』人文書院
『日本史学ーー基本の30冊』(人文書院、ブックガイドシリーズ)に書いた「歴史学の勧め」です。
歴史学は若く新しい学問である。歴史学らしい歴史学、つまり史料の堅実な操作にもとづいて歴史の変動の総体を考察する歴史学の成立は、人文社会科学の中でもっとも遅く、ヨーロッパでも19世紀からである。しかし、日本の歴史学はもっともっと若い。
つまり、日本の歴史学の場合、その本格的な学術的出発は1960年代、今から約50年前のことにすぎない。私は、日本史研究の分野でそれを象徴するのが、中央公論社からでた『日本の歴史』シリーズだと思う。あの茶色い本であるが、私などは、まだあの本に愛着がある。私が好きで実際に影響をうけたのは、青木和夫『奈良の都』、佐藤進一『南北朝内乱』、永原慶二『下克上の時代』、そして佐々木潤之介『大名と百姓』などである。このシリーズの著者は、ほとんど、1962年に刊行が開始された岩波書店の『講座 日本歴史』(第一次)の執筆者でもあって、ようするに、この二つの企画のなかで、日本史の研究は、はじめてその学問としての成熟の歩みをみせたのである。
こういうと、第二次大戦直後のいわゆる「戦後派歴史学」を無視するのかという反対意見がでるだろう。しかし、「戦後派歴史学」は、いわば歴史学の青春時代の輝きであったのだと思う。私が大学時代に指導をうけたのは、西洋史の大塚久雄先生だが、大塚さんのような戦後派歴史学の担い手からいえば、大正デモクラシー末期からの時代の歴史学はすでに新興の意気にもえる青春時代にあったということらしい。ただ、その青春は戦争への流れのなかで、一度、挫折したのであって、本格的な歴史学の青春は第二次大戦の敗戦をへて遅れてやってきたのである。そういう意味で、やはり「戦後派歴史学」の本質は成熟ではなく若さにあったのだと思う。歴史学における学問としての成熟というのは、なによりも着実な考証が内側から充実してきて、具体的な歴史像の叙述にまで自然に進んでいくということである。「戦後派歴史学」にはその余裕はあたえられていなかったのである。
19世紀ヨーロッパの歴史学のことを考えてみれば分かるが、歴史学は何よりも安定した環境が必要な学問である。アカデミーとしての歴史学にとってまず必要なのは史料の共有と研究のための施設や、人員・予算である。そして、史料が公開されていてアクセスが可能で、史料批判は自由で、テキストクリティークと考証のための人手と時間が保証されていることだろう。歴史学はこういう手間のかかる学問であることを社会に認めて貰わなければやっていけないのだが、しかし、第二次大戦以前には、そういう条件はなかった。たしかに「東京帝国大学」に史料編纂所はあったが、当時の史料編纂所は、狭い意味での国家的な史料の収集・編纂の機関であって、史料編纂所がその設置目的に「史料の編纂と研究」という形で「研究」をかかげ、史料の共有と公開を原則とするのは第二次大戦後のことである。しかもその上に問題であったのは、「皇国史観」といわれた戦争のための「史観」の重圧は、いまでは考えられないほど強烈で、学問研究の自由のために必須の思想・信条の自由は局限されていた。
もちろん、そうだからこそ、第二次大戦直後の歴史学、いわゆる「戦後派歴史学」は輝かしい光をはなったということはいえる。私は高校生のころ、明治生まれの祖父に「神武天皇は実在しなかったんだという話しを聞くが、それは本当なのか」と真顔で聞かれて驚いたことがあるが、「皇国史観」の呪縛力は社会全体に及んでいたのである。だから、それを崩して歴史を研究し、新たな歴史像を描くという課題は、終戦直後の社会にとって必須のもので、そのなかで歴史学はもっとも目立つ学問であった。研究のための史料的な条件などは、厳しいものがあったが、彼らの歴史的な教養や、史眼・方法意識は、もちろん時代的な限界のなかにあったものの、きわめて高いものがあったのである。「戦後派歴史学」の代表者たちは、井上清氏などの本当に一部を除いて、みな大学を出ており、嫌味な言い方をすれば、家柄もよく、能力も高いトップクラスのエリートたちであった。そのような人びとが大量に歴史学の分野に流入してくる時代だったのである。彼らは第二次世界大戦前の上中流の「市民社会」の文化的・教養的な豊かさを身につけており、最初から、日本国家が戦争に流される様子に大きな違和感をいだいていた。これがいわば彼らの世代的な実力だったのであって、とくに彼らが戦前社会を経験的に知っているということは何といっても歴史家としての圧倒的な強みであったと思う。
こうして、彼らと彼らの直接の指導をうけた人びとが、「皇国史観」の重圧から解放されるや、研究の方法論を組み立て、それを時代や専門分野をこえて交流し、学問にはげんだ。その努力のなかで1950年代の末くらいから、急速に専門的な歴史学研究の体裁が整い、1960年代に入って、その最初の成果を象徴する、先述の中央公論社の通史シリーズ『日本の歴史』などが出発したのである。
しかし、それが青春時代だとすれば、それからもう50年以上経っているではないか、それでも「若い学問」というのかという意見もあるかもしれない。しかし、歴史学は長い時間を必要とし、「世代」の単位で進む学問である。私などの世代は、日本の歴史学の青春世代=「戦後派歴史学」のあとをうけた第二世代である。おかげて、歴史学の第一段階での成熟の経験を受け取ることができたが、しかし、たとえてええば、私などの世代はまだ20代だと思う。
ともかく歴史学は時間がかかる。しかも、歴史学は過去のなかを歩く学問であるから、そこには決まった道はない。それは、人生と同じように、一歩一歩、進んでいくほかない。私たちは、過去の世界のなかに蟻のようにもぐりこみ、歩いた跡がいつかつながって広い道になり、過去が誰にでも見えるようになることを期待はしている。「宇宙の晴れ上がり」ならぬ、「過去の晴れ上がり」である。私たち歴史学者は、過去が誰にでもよく見えるようになることが、現在の人類社会と世界史にとってどうしても必要であると考えている。
しかし、その仕事の進行となると、つねに確信をもてるというわけではない。「過去を共有し、記憶の歴史像が歪まぬようにしたい」とはいっても、法学や経済学のように現在の社会に働きかけているという訳ではなく、歴史学は直接の有用性をもたない。「過去のなかを歩く」といっても、行き着くところがあるのかは不安だらけである。歴史学という学問は、やはり変わった学問であるといわざるをえないように思う。実際、歴史学を知るようになると、「これは一体どういう学問なのか」と迷うことは多いのである。そこでここでは、そういうときに私たちの世代が参考にしてきた本を紹介してみたい。
まず哲学の分野での定番は、三木清『歴史哲学』であった。いうまでもなく、三木清は、治安維持法違反の被疑者をかくまったことを理由にして逮捕され、第二次世界大戦の終戦から一月以上たった9月26日、48歳で豊多摩刑務所の独房で死亡した哲学者である。西田幾太郎の最良の弟子であり、新カント派から出発して、ドイツに留学してハイデガーに師事し、アリストテレスからマルクスまでを読み抜いたオールラウンドの哲学者である。「戦後派歴史学」を代表する研究者は日本史では石母田正、西洋史では大塚久雄であろうが、二人とも三木を通じて歴史学、社会科学の方法論を身につけたことが知られている。いわばご先祖さまのようなものであるから大事にしてもバチはあたらない。
この『歴史哲学』は難解をもって知られるが、日本の哲学界には、体系的な歴史哲学の書としては、いまでも、この本しかないといわれている。そのよいところは、歴史というものについて、「事実としての歴史」「ロゴスとしての歴史」「存在としての歴史」の三つを区別したことであろう。まず「事実としての歴史」の「事実」とは、Tatsacheというドイツ語の翻訳であって、三木は、Tatsacheとは、Tat(行為)とSache(物事)をあわせたもので、「そこでは行為と物とが二つでない」と説明している。三木は、ハイデガーがこのTatsacheという用語に「問題」「運命」という意味を読み込んだことを前提として(『存在と時間』12節)、「事実Tatsacheとしての歴史」を運命的・歴史的な実践それ自体の意味で使っている。これはイタリアの歴史哲学者、クローチェが「すべての歴史は現在史である(現在性Contemporaneitaをもつ)」というのに通ずるもので、人びとは、「現在の瞬間」に立って、その「運命」「問題」につらなる過去を手繰り寄せる。だから歴史は、ここでは本質的に遡行的に認識されるものとなる。
このような「遡行」(retroactive)は「回顧」(retrospective)とは違う。それは現在まで連続してきた歴史の運動、「行為=物」(Tatsache)の実体を手繰り寄せて、自己の経験や記憶と具体的に付き合わせて確認することであって、むしろ「追体験」という表現がふさわしい。そしてこれが「ロゴスとしての歴史」に関わってくる。つまりこの「ロゴスとしての歴史」とは具体的には「叙述(歴史叙述)された歴史」という形をとるが、しかし、ロゴスというギリシャ語の原義は、三木においてもハイデガーと同様に「告示=知」という意味である(『存在と時間』第7節B)。それは過去の記憶と追体験を組み直し、その中から精神に対する「告示=知」を獲得する作業であり、そこに歴史叙述の本質があるというのである。
もちろん、歴史学が分析の測錘をおろすのは過去それ自体であって、「存在としての歴史」の圧倒的な力と永遠に近い時間は、人間に自己の位置感覚を忘失させる。過去は人間の環境となり、環境と人間との物質代謝の中で逆に人間の自己変化がもたらされる。それは一つのランダムな傾向性(法則)として貫いていて、人間を押し流す。歴史は、多数の意思とその環境との多種多様な相互作用の結果であって、たしかに人間の歴史ではあるのであるが、それは人間から疎外されたもののように存在している。三木の別の言い方では「歴史は人間の被造物でありながら、創造者たる人間を隷属せしめる」のである。「存在」はハイデガーのいうように、現在から、外へEx投げ出された存在istenz (Existenz)として偶然的なもの、「過去=無」として重層していくということになる。
しかし、三木の『歴史哲学』はハイデガーへの批判の書であった。三木が「過去=存在=無」という場合、それはハイデガーのように意味を了解しがたいものとしての「存在=無=不条理」であるのではなく、「存在としての歴史」は「ロゴス(告示=知)」の光に照らされて、「ロゴスとしての歴史」の意味をもっていく。そしてこれによって人びとは、過去の全体像を記憶のなかに追体験し、過去を取り戻して、その先端に立って、歴史的な実践に踏み出すということになる。三木が、ハイデガーのナチス礼賛とユダヤ人弾圧への協調をどこまで知っていたかはわからないが、決してハイデガーのような非合理主義と虚無の立場に落ち込むことはなかったと思う。そこに、三木が戦争体制のなかで獄死するということになった理由があったこともいうまでもない。
私は、三木の仕事は歴史哲学の達成としては、今でもめざましいものだと思う。しかし、残念ながら三木の死によって『歴史哲学』は未完に終わってしまった。ハイデガーが、結局、『存在と時間』を完結することができず、それを目指すといっていた「歴史哲学」の基礎構築もできなかったのはいうまでもない。結局、こういう中で、日本の哲学界にも、そして世界の哲学界にも体系的な歴史哲学は存在しておらず、「歴史とは何か」「歴史学とはどういう仕事か」という問題については、結局、歴史家自身による論著やエッセイを参照するほかないというのが実際なのである。
歴史家の歴史論の代表は、フランスの歴史家、マルク・ブロックの『歴史のための弁明』(岩波書店、2004年)であった。ブロックは20世紀最大の歴史家といわれるが、ナチスへのレジスタンスに参加し銃殺された。この本はブロックが、なかばそのような運命を予感しながら書いたものであり、「『パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ』と、私に近しいある少年が数年前、歴史家である父親に尋ねたことがある」と始まる。この少年がブロックの息子であることはいうまでもない。ブロックは、それに答えるという形をとって、自分の仕事がどういうものなのかを語る。ブロックは歴史家の仕事は職人に似ているといい、この書を「日々の務めに関して瞑想することを常に好んできた職人の備忘録」であるという。そこにあるのは手順にもとづいて史料を読み、考証し、組み立てる職人的な愉楽、「独自の美的な愉楽、その他のいかなる学科のそれとも異なる愉楽」であるという。それを突き動かすのは、歴史学が人間科学としてもつ人間に対する無限の興味であるというのがブロックの説明である。
その歴史学という仕事それ自体を見つめる内省的な記述は、フランス語の微妙なニュアンスもあって、そう読みやすいという訳ではないが印象的なものである。一番有名なのは「歴史学の対象は本質的に人間である。風景や道具と機械、さらに文書や制度などの背後に歴史学がとらえようとするのは人間たちなのである。よい歴史家とは伝説の食人鬼に似ている。人の肉を嗅ぎつけるところに獲物があると知っているのである」という文章であって、これは端的に歴史学が人間の科学であることを主張している。しかし、そのほかページを繰るごとに「知ろうと望む頭脳の要請に合わせて史料がお膳立てしてくれることは決してない」「感情の強さが言語の精密さをうながすことはあまりない。歴史家たちにおいてさえ、封建制と領主制という二つの言葉は実に残念な形で混同される」「まず一つの過ちの告白から始めることは決して悪いことではない。過去を研究する人びとが自然におちいるのは起源の強迫観念である」「西欧文明は、その他のタイプの文化とは異なり、常に記憶というものに多くを求めてきた。我々の最初の師匠であるギリシア人とローマ人は歴史を書く民族であった」などなど(一部縮約した)、歴史家に内省をもたらす言葉が連ねられている。史料の考証・選択・比較と批判、歴史用語の言語学と分析概念の関係、歴史事象の分類と分野史の意味、自然科学をふくむ隣接科学による分析技術の改善、時代の連続性と区分、世代の概念などなどの話題は味読に値する。とくに前近代史に興味のある方は、よく知られたブロックの名著『封建社会』とともに必読のものである。
ただ、『歴史のための弁明』はブロックがレジスタンスの運動に忙殺されるなかで未完に終わっており、それを補うものとして私たちの世代で読まれたのが、ギリシャ史の大家、太田秀通の『史学概論』であった。章節の題名だけを掲げると「歴史に対する懐疑」「歴史意識の発展」「実証的科学としての歴史学」「精神的生産としての歴史研究」「歴史研究の構造(研究材料・研究手段・研究主体)」「歴史研究の過程(問題提起・研究作業・叙述)」「歴史学の社会的機能(イデオロギーとしての歴史学・歴史学の存在理由・歴史学の社会的有効性)」「人間の科学としての歴史学」ということになる。
最後の「人間の科学としての歴史学」の部分は、ブロックと同じような内省的な雰囲気がある。太田は歴史学にとっては研究主体の世界観・人生観や人生的な経験が直接の意味をもつとし、歴史学を「研究主体の人間的な苦悩を包摂する力をもつ人間的な科学である」と特徴づける。そしてその上で、「人間としての生き方の問題。人間の科学を自負する歴史学は、この問題にも何がしかの助言をあたえることができかもしれない。しかし小宇宙のことはその内部で解決しなければならない。個体としての人間の尊厳を包蔵するこの問いの前に立ち尽くす若い人々に対して、不惑の歴史学は、自己の無力を悟りつつ、しかし人間の科学にふさわしい愛情をこめて、次のようにいうほかない。――ひとりで開けて入れ」と、この書を閉じている。
これは歴史学の分野に進もうとする若者への情熱的な呼びかけになっており、私たちの世代の歴史家にはよく知られていたものである。たしかに歴史学は変わった学問ではあろうが、過去を精細に総合的にみる能力は養い、人間が、その心と経験をふくめて過去を客観視するための訓練にはなる。私のような惑いの多い人間も、ともかく歴史学によって生きる力を支えられてきたと思う。
さて、ともかく、歴史学はまだ若い学問であり、やるべき仕事は数限りなくあり、覚悟を決めた人手はいくらあってもたりない。本書は、それをわかっていただくために書いた。何歳から始めても、中年になっても、定年後になっても、いま始めれば、人生の時間はたっぷりである。歴史学の研究はやり方になれれば、そう金もかからず、また特定の分野の考証にしぼれば、史料の公開やデータベース化が進展した現在、誰でも一級の仕事ができる。その仕事場をのぞいていただくために、以下、30冊の本を選んで、(1)「読書の初め」、(2)「史料の読み」、(3)「学際からの視野」、(4)「研究書の世界」、(5)「研究基礎ー歴史理論」という順序に分類して紹介していくことにしたい。
参考文献
三木清『歴史哲学』(『三木清全集』第六巻、初出1932年)
マルク・ブロック『歴史のための弁明』
『封建社会』
太田秀通『史学概論』(学生社、1965年)