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歴史経済学の方法と自然

歴史経済学の方法と自然
はじめに
 本稿の課題は、一般的にいえば歴史経済学の基礎範疇を論ずることにある。ここでいう基礎範疇とは、マルクス・エンゲルスが古典派経済学やヘーゲルに対する批判的検討によって構成した、土地、価値と利用価値(使用価値)*1、労働の二重性、精神労働と肉体労働の対立、さらに前資本制的な商品や地代などの範疇である。この作業の最終目的は、前資本制社会の社会構成論の再構築であるが、しかし、私は、そのためには労働論のレヴェルからの基礎範疇の再検討が必須であると考えている。
 なお、私は歴史研究者であり、その立場から念のために確認しておけば、近年しばしば聞かれるようになった、戦後歴史学が「単系発展段階論」、単なる近代主義的な進歩史観に過ぎなかったという意見には賛同できない。そもそも戦後歴史学が最大の課題としたのは日本社会の歴史を、世界史、とくに東アジア史の中でトータルに理論的にとらえること、そして諸地域・諸民族が作り出す世界史を、その社会構成の共通性と独自性にそくして理解することであった。その中で、「単系発展段階説」批判は早い時期から戦後歴史学にとっての本質的論点の一つであったのであって、それは、すでに、一九五九年、太田秀通が、「世界史における社会構成の前進的諸時代や共同体的土地所有の諸段階を、原則として各民族の通過すべきものと考えがちなわが国の一部の研究者」を批判し、「諸民族の発展系列の束としての世界史像を構成すれば、それはたんに単系発展の歴史像でもなく、たんに多系発展の歴史像でもなく、両者が交錯する複雑な歴史像とならざるをえない」と述べていることに明らかである。そして、それ以降、太田が「一国史的分析を中心とする一系的発展段階論」にたいする批判、「単純な一系発展図式を破砕すること」を終生の課題としたこともよく知られている(『世界史認識の思想と方法』、青木書店、一九七八年)。また一九六三年の歴史学研究会大会テーマ「東アジア歴史像の検討」の議論の中で、遠山茂樹が、世界史を「発展段階や社会構成を異にする諸民族の構造的複合体」とみなし、そのような複合体の一つとして「東アジア」を設定するとともに、個別の民族体とは相対的に別のレヴェルに成立する世界史の時代範疇として、①古代帝国の時代、②その解体過程、③世界市場形成過程の時代、④帝国主義の時代という時代区分を提示したことも知らぬ人はないはずである(『歴史学研究』三〇一号、一九六五年)。
 学問共同体としての戦後歴史学は、この太田ー遠山のラインにそって歩みを進めてきた。もちろん、歴史学界の現状は、いまだに戦後歴史学がかかげた課題を解決する目処も立っていないというのが率直なところであって、またその中で、最初は歴史学に対する攻撃としてはじまった、戦後歴史学が「単系発展段階論」であったという見方が学界の内部でも無視できない影響をもちはじめていることも事実である。具体的な諸研究が圧倒的に進展し、同時に、社会構成の客観的かつ発展的な把握のために経済構造の規定性を重視するべきことが常識化しながら、その方法論議が暗礁に乗り上げているという事情もあって、歴史学界内部においても過去の学史への見方は大きく揺れている。しかし、学史は、そのもっとも高い地点で、その峰をもって評価すべきものである。戦後歴史学が提出した問題のレヴェルにふさわしい対案なしに、先行者に対して声高な批判を浴びせることは学者のするべきことではないだろう。
 むしろ批判はより根本的に行われなければならない。そして私見によれば、その検討は、戦後歴史学の全体に対して経済理論的な基礎をあたえていた大塚久雄の『共同体の基礎理論』の点検をふくまざるをえないはずである。本稿は、戦後歴史学との関係でいえば、大塚の「土地」論、「共同体論」をそこに欠如していた労働論に踏み入って検討し、その意味を認めつつも、内在的に検討・批判することを課題としている。そして、そのために最初にふまえなければならないのは、自然の問題、人間にとっての対象的自然と主体的自然の問題であることは、『共同体の基礎理論』を読んだことのあるものにとっては明らかだろう。大塚は、そこに本質的な問題設定を行い、それ故にこそ、その学説は大きな影響をもちえたのである。それ故に我々の検討もそこから始まるのであるが、しかし、以上は歴史研究者としての専門的立場をのべたものにすぎない。むしろ現在重要なのは、歴史研究者と経済学研究者の間に新しい議論の枠を開くことであろう。そして、その仕事の少なくとも一部は、やはりマルクスの諸見解の理解を刷新することによって始めるほかないというのが、一九世紀以来の社会諸科学の学史が示す事実なのである。
 さて、以上の確認をふまえて、叙述を本筋に戻すこととする。マルクスは、前資本制社会を、対象的自然と主体的自然が本源的・基礎的には結合、癒着している社会であると考えていた。マルクスはそのような本源的な所有、自然的な所有のあり方を「生産手段と労働力との本源的な結合」(DKⅡ38)という用語で説明している。このような本源的結合は、前資本制的な階級的社会、階級的な支配構造をもった社会の中においても、その経済関係の最大の特徴として持続的な意味をもっていたというのが、マルクスの見方である*2。前資本制社会は、この結合を前提としながら、その結合関係を制約し、あるいはそれを部分的に分離する諸関係によって構成されていたということになる。
 『資本制生産に先行する諸形態』の一節を引用してみよう。「これらすべての形態において次のことが存在する。(一)労働の自然的条件を、すなわち本源的な労働用具であり、仕事場であるとともに原料の貯蔵庫でもある大地を、労働によってでなく、労働に前提されるものとして取得すること。個人は、労働の客体的諸条件にたいして、単純に、自分のものにたいする様態で関わるのであり、それら諸条件にたいして、彼の主体性がもつ非有機的自然にたいする様態で関わる。(中略)、(二)しかしこのように、土地にたいして、大地にたいして、労働する個人の所有物に対する様態で関わることは、ただちに、個人が何らかの共同体の成員として自然生的に、ただし多かれすくなかれ歴史的に発展し変形された形で定在すること(個人が部族等々の成員として自然生的に定在すること)によって媒介されている」(DKV②133)。
 つまり、マルクスの考え方では、本源的所有は、まず第一に大地の所有が彼の非有機的自然、彼の客体的な存在様式として存在するような形で存在する、個人による単純な自然の所有・占取である。そして、そこに前提されている人間が対象的自然に対して群れるということは、同時に人間が(そこに群れている)自己自身の種属的な自然に群れることも意味している。それ故に、対象的自然に対する本源的所有は、第二に、人間の「類」帰属、その主体的自然としての種属的な族群の身体的・自然的占有に媒介されており、その意味でつねに集団的な所有としての性格をもっているということになる。この前資本制的な本源的な自然所有が一般的にもっている二側面、つまり個人的な所有と集団的な所有の二側面が、どのように関連し、どのように存在しているか、それを経済学的な諸範疇によって論じる筋道を考えること、これが本稿の直接の課題である。これを前提として階級的な支配隷属関係の形成の筋道を考えることについては、別稿を用意している。
 なお、ここでとくに強調しておきたいのは、この問題はエンゲルスが有名な『家族・私有財産・国家の起源』の序文において述べた命題の理解に関係してくることである。そこでエンゲルスは、「歴史における究極の基底的要因」としての「直接的生命の生産と再生産」は、「一方では、生活資料の生産、すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具の生産、他方では、人間そのものの生産、すなわち種の繁殖」の二つに区分されると述べ、さらに「ある特定の歴史的時代およびある特定の国土の人間の生活がいとなまれる社会制度は、二種類の生産によって、すなわち、一方では労働の、他方では家族の発展段階によって制約される。労働がなお未発達であればあるほど、またその生産物の量が、したがってまた社会の富が乏しければ乏しいほど、社会秩序はそれだけ圧倒的に性的紐帯に支配されるものとしてあらわれる」と述べている((21)27)*3。つまり、性的紐帯、マルクスの用語でいえば「類」帰属は、労働が生産手段と本源的に自然的に結合しているような「未発達な労働」である場合は、社会関係の主要な内容をなすというのである。前資本制社会においては、生活資料の生産=対象的生産と、人間的自然・主体的自然そのものの生産、性的生産は表裏一体の関係をなして社会関係を規定しているのである。私は、このエンゲルスの立論は、マルクスのそれと実質上同じことを表現していると思う。そして、マルクスも、このような種属的・性的生産の諸関係、家族と性的紐帯を中心とした生命の再生産と種(Gattung)の問題を一貫して重視していたことは本稿の全体が示すことになる*4。
Ⅰ土地の二要因と自然拘束性
            ー土地の有用性・無用性、利用価値と自然
1土地=「自然の機械」の有用性
 自然は労働と並んであらゆる富の源泉であるといわれるが*5、前資本制社会における第一次的生産においては、富は大地の力として現れる。土地は、無限に多様な諸側面、地質的・土壌的・気候的・生態学的にみて多様な側面をもつ一つの全体であって、さまざまな有用性をもっている。人間と自然の物質代謝においては、その自然の有用的側面が利用・占取される。最初の前提は、まずこの物質代謝が対象的自然と諸個人の肉体の間で行われているということ、有用的な自然占取が諸個人の個人的な身体によって行われているということである。これが前述のような本源的所有の第一の側面である。諸個人は、自然は自己の無制限な専権に従うものであると夢想することはできるが、一個の動物としては、身体的自然をつうじて実際に自然を占取するほかには自然を占取することはできない。
 このような有用的占取によって土地は、その有用性におうじた区分、つまり園宅地、水田、畑地などの耕地、用水池溝、草場、牧地、薪炭地、漁場、狩り場、道路などの区分をうけとることになる。どのような形態であれ、生産と占取の行為それ自身の中で、自然は、その有用的形態の運動に即した形で区分される。その区分の規模は、その占取の主体がまずは自然全体からくらべれば小規模な諸個人の身体であることによって、必然的に小規模である。また、諸個人が大地を占取するのは生産行為の中における有用的な生産手段の占取としてのみではない。彼らは、そこから労働手段=道具の一部をも取得し、さらに必要生活手段の主要部分を直接に取得する。前資本制社会における本源的な自然的所有の下においては、「生産の本源的諸条件(土地)には果実、動物などのような、労働を加えることなしに、直ちに消費できる資材も含まれている。つまり、消費元本はそれ自体が本源的な生産元本の構成部分として現れる」(DKV②145)。大地は衣食住その他の生活材料や労働用具そのものを提供する倉庫として存在している。このような自給的・自己調達的(その意味で非商品的)な諸関係の下においては、諸個人による生産手段占取の小規模性はさらに生活と労働の諸手段の小規模な取得によって媒介されている。
 このような有用的な物質代謝を媒介する土地の生産手段としての性格を、マルクスは、「自然の機械」と表現している。「農業では、大地が、その化学的等々の作用においてそれ自身すでに一つの機械である。この機械は直接的労働をより生産的にし、したがってまたより早くから剰余を与える。なぜなら、ここではより早くから機械、つまり自然の機械を使って労働が行われるからである」(DKV②301)。このような「自然の機械」という表現はとくに農耕において適合的な表現であるが、それを自然の再生産過程と理解すれば、「漁撈、狩猟、等々は再生産過程と結合されうるし、森林利用も同様である」(DKV②522)といわれるように、(純粋の採取産業としての鉱山業などを別とすれば)自然的産業においても多かれ少なかれあてはまる。大地は、人間が有用的に利用・占取するさまざまな性質をもった「自然の機械」が刺繍された織物のように存在し、諸個人は、これらの土地区分を複合的・重層的に占取することによって、必要生活手段、必要生産物の主要部分を直接に取得する。よく知られているように、マルクスは、前資本制的な「農村家内工業と農耕との結合」の存在を強調したが、その基礎はこのような土地の複合的な所有にあった。
 これらの「自然の機械」の有用性の量と質を規定するのは、土地の量と質、空間的位置と組成・豊度である。土地区分は特定の土地の位置と豊度によってあたえられる。たとえば水田・畑地・放牧地などの特定の種類の土地区分は、その土地区画の特定の位置と豊度を条件としている。しかし、もちろん、土地が実際に所持・占有されるかどうかは、人間との関係における多様な条件に左右される。それはとくに右に述べた大地の複合的な占取のあり方がさまざまな生業によってことなっていることに規定されている。とくにこの様相に大きな影響を与えるのは、生業と宅地の関係、居住形態の問題である。たとえば遊牧生活においては人間の側の移動によって、広大な領域に分散した特定の豊度をもった土地=草地が利用されるのに対して、農耕生活においては相対的に定着的な生活様式のなかで、豊かな地力の土地であっても、あまりに遠い土地は現実の利用範囲の外におかれるのである。土地の位置と豊度が土地の有用的占取と区分を規定するという場合、その位置と豊度にこのような社会的・現実的な要素が入り込むことはいうまでもない。
 以上のような土地の有用性はまったく自然的なものではなく、一定の限度で開発・改良されうる。「ある一定の地片、ある一定の限定された場所にある土地にたいし、他の場所にある土地、またしばしばすぐ近くにある他の土地が天然にそなえている諸属性をあたえるということである。ある土地は天然に平らになっているが、他の土地は平らにされなければならない。ある土地は天然の排水路をもっているが、他の土地は人工の排水が必要である」(DKⅢ754)などなど、土地改良とは、自然の中にすでに特定の位置と豊度をもって存在している状態への変化である。さらに重要なのは、「機械などに投下された固定資本は、使用によっては改善されないで、反対に摩滅する」。「これに反して、土地は正しく取り扱えばたえず改良される」「農業では、大地そのものが生産用具として作用するので、順次的資本諸投下が実りをもたらすものとしてなされうる」ことである(DKⅢ789)。この使用自身によって改善されうるという点では、土地は真の機械よりも優れている*6。
 こうして土地と人間との間の有用的な物質代謝の組織は一つの歴史的行為としてあらわれる。最初の前提では、人間と自然の物質代謝は諸個人の個人的な身体において媒介されており、自然の有用的占取の主体は、諸個人の身体自身であったが、事態は必然的に異なってくる。つまり、歴史的過程を前提とすれば、そもそも「自然の産物とみなされがちな動物や植物も、おそらく前年の労働の生産物であるだけでなく、現在の形態をとっているそれらのものは、幾多の世代を通じて、人間の管理のもとで、人間の労働を介して続けられてきた変形の産物である」(DKⅠ196)。ここでは類としての人間と他の動植物の相互的な影響・規定の諸関係が成立しているのであって、個人的肉体、動物的個人としての人間ではなく、類としての人間と自然がたがいに向き合っているのである。諸個人の運命は、この類としての人間の営為と自然との関係に運命的に規定されたものとしてあらわれる。つまり「自然に対するその影響(人間の生産的営為の影響ーー筆者注)は、あらかじめわかっている特定の目標にむけられた、まえもって考えぬかれた、計画的な行動という性格をますますもっておびるようになる。動物がある地域の草木を根絶やしにしても、自分がなにをしているかは自分ではわかっていない。人間が草木を根絶やしにすれば、それはあとの空地に穀類を蒔くか樹木やブドウを植え付けるためであって、やがてそれらがその何倍もの収穫をもたらしてくれるだろうということは承知の上でのことである。彼は有用植物や家畜をある土地からある土地に移動させ、またそうすることで諸大陸全体の植生や動物生活を変化させている。そればかりではない。人為的な育種をつうじて、動植物は人間の手でそれとわからぬまでに変化させられている」((20)490)。
 こうして、土地は、「社会を支える基盤」(DKV①331)となっていく。「人間を刺激するのは、土地の絶対的豊度ではなく、その分化、その自然的産物の多様性である」(DKⅠ537)が、その多様性はさらに人為的に増大させられる。以上のような意味をふくめて、土地は、人類にとっての「永遠の共同所有」の対象として「交替する人間諸世代の連鎖の譲ることのできない生存および再生産の条件」なのである(DKⅢ820)。
2土地の無用性と自然拘束性
a自然の無用性
 自然の有用性が特定の規模の土地区分に特定の利用価値をあたえるのであるが、しかし、「この有用性は空中に浮かんでいるのではない」(DKⅠ50)のは商品の場合などと同様であり、しかも特定の土地区分は商品一般とはことなって自然全体から切り離すことができない。大地は、どのように有用性と利用価値を埋め込まれた豊かな織物のようになっていったとしても、自然としての本質を維持している。土地の利用価値は、物としての自然と結合しており、つねにその圧倒的な力に浸透されているのである。今みたように、人間が類として自然に立ち向かうとすれば、自然も自然として人間に立ち向かうのであって、しかも本質的には、どのような場合も、自然は圧倒的な優勢をたもっている。
 そもそも人間と自然の間の物質代謝は有用的な形態に限られている訳ではない。自然自身の観点からみれば、土地は根本的には無用・無縁な自然の一部である。自然力は「われわれがそれらを認識せず、考慮にいれないあいだは、盲目的に、暴力的に、破壊的に作用する」(⑳288)。大地の地質的・土壌的・気候的な変化は、大地の豊度=地力を自然的に変化させる。それは地震・洪水・山崩・土砂堆積などの地質学的な変化であることもあり、土壌と地力の長期的な変化や減退という形態を取ることもあり、また気候的変化の度合いの過剰や過小、気候不順、多雨・寡雨・日照りなどの形態をとることもあり、さらにそれらが、たとえば雑草の繁茂、虫害の発生などなど、多様な生態学的な変化と複合する場合もある。自然の運動の無用性の形態は、無限に多様であるが、それは、人間の手によって作り出された二次的な自然の多様性を剥奪し、それを単調な自然性自身に還元してしまう。この側面からみると、さまざまな有用的土地占取は、自然の表層に分散して埋め込まれているに過ぎない。自然の無用性は、つねにこの有用的な土地区分を削り取り、土地の利用価値をはぎ取ってしまう。土地の利用価値の条件となっている土地区分の相違、つまり土地の特定の位置と豊度の相違は、その意味を失い、そこには自然自身があらわれる。
 こうして自然の本質的な無縁・無用性にとって、土地の有用性は偶然にすぎないが、逆に、土地の有用性はつねに自然自身の力によって支えられており、利用価値あるいは有用性の側は無用性を排除することはできない。有用性は人間にとっての主観的事実であって、自然の中では有用性と無用性は一体である。人間は労働において物質代謝過程の中で特定の有用性を生み出す諸過程を選択・促進しようとする。しかし、たとえば「播種期と収穫期のあいだ、労働過程はほとんどまったく中断され」、その過程で「労働対象はあるいは短い期間、あるいは長い期間にわたって持続する自然過程の支配下におかれ、物理学的、化学的、生理学的な諸変化をこうむらざるをえない」(DKⅡ242)。労働過程は自然過程の必然性の支配をそのまま受容する。
 もちろん、自然過程の有用的な側面と無縁・無用な側面はつねに自然的な矛盾を含んでいる。二次的な有用的自然の拡大は、徐々にそれにともなう物質代謝と自然自身の矛盾を拡大し、それを自然過程自身の基本的な矛盾に転化していく。重要なことは、この中でさまざまな環境的・生態学的な問題が作り出されてきたことである。「勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐する。なるほど、どの勝利もはじめは我々の予期したとおりの結果をもたらしはする。しかし二次的・三次的には、それらはまったく違った、予想もしなかった作用を生じ、それらは往々にして最初の結果そのものを帳消しにしてしまうことさえある。メソポタミア、ギリシャ、小アジアその他の国々で耕地を得るために森林を根こそぎ引き抜いてしまった人々は、そうすることで水分の集中し貯えられる場所をも森林といっしょにそこから奪いさることによって、それらの国々の今日の荒廃の土台を自分たちが築いていたのだとは夢想もしなかった。アルプス地方のイタリア人たちは、北側の山腹であれほどたいせつに保護されていたモミの森林を南側の山腹では伐りつくしてしまったとき、それによって自分たちの地域でのアルペン牧牛業を根絶やしにしてしまったことには気づかなかった。またそれによって一年の大半をつうじて自分たちの山の泉が涸れ、雨期にはそれだけ猛威をました洪水が平地に氾濫するようになろうとは、なおさら気がつかなかった」((20)91)。
 一般的にいって、この自然の有用性と無縁・無用性の自然的な矛盾は前資本制的な生産における根本的な矛盾である。周知のように、資本制的生産様式の根本的矛盾は、機械制大工業の発達した社会的生産諸力と生産手段の私的所有によって規定される社会的生産の無政府性の矛盾にある。これにたいして、前資本制的な生産においては、この自然的な矛盾が社会的生産の矛盾の基底に存在している。有用的な物質代謝を組織する諸力、生産諸力は自然の無用性との矛盾の中で存在している。
b土地の自然拘束性
 近代的な大工場制における機械においても、「労働過程で役に立たない機械は無用である。そのうえ、機械は自然の物質代謝の破壊力に侵される。鉄はさび、木は朽ちる」(DKⅠ198)。生産諸条件が有用性と無用性の両側面をもつのは、その意味では歴史貫通的な事柄である。しかし、「はじめの種類の摩滅(機械の使用から生じる摩滅)は、機械の使用に多かれ少なかれ正比例し、あとの種類の摩滅(機械の不使用から生じる「自然力による機械の消耗」)は、ある程度まで機械の使用に反比例する」といわれるように、近代的な機械においては無用性の発現は予測可能である(DKⅠ426)。
 しかし、自然の運動において有用性(多様性)が表面にでるか、無用性(単調性)が表面にでるかを決定するのは、自然の運動それ自身の権限である。自然的な土地においては、生産の主要な発條は土地・自然自身のなかに存在する。「生産期間(秋まきでは平均九ヶ月)の短縮または延長は、それ自身がまた豊年と凶年の変転に依存し、それゆえ本来の工業でのように,正確に予測し制御することはできない」(DKⅡ243)。自然災害、地力の減退、気候不順、多雨・寡雨・日照、雑草の繁茂、虫害の発生などなど、自然の無用性が発動すれば、彼らは土地を有用的に占取する行為それ自身によって自然の運動の不順、過剰、不足などにさらされる。自然の無用性は有用労働の効果を随時にうしなわせ、それを中断・延長・延期してしまう可能性をつねに潜在させている。もちろん、たとえば農耕においては、耕起・施肥・種蒔・灌水・採草・収穫・脱穀などの具体的な有用労働の季節・労働期間・手順や組み合わせは平均的に決められている。しかし、「自然の機械」は、真の機械とはことなり、不連続性・間歇性という特徴をもっており、その平均的運動は随意に中断・延長・延期されることになる。こうして、人々は、そのような無用性から土地の利用価値、有用的な物質代謝のシステムを防衛するための労苦を強制され、それを通じて自然に従属する。「機械」とはいっても、土地は、いわばつねにメインテナンスを必要とする「自然の機械」である。近代的な大工場制における機械においても、その維持のためにはメインテナンスの労働が必要となるが、真の機械のメインテナンスの労働は、資本制的大工場の内部において特定の分業分野をなし、一つの個別的な熟練労働である。それに対して、「自然の機械」のメインテナンスの労働は、自然の手足となって自然の運動の逸脱を復元するにすぎず、それはつねに単純な労苦・単純な生理的肉体労働である。
 ようするに、そこでは土地の「自然の機械」としての利用価値は捨象され、「人間たちに君臨する疎遠な力としての土地の支配」((40)425)が生産の主体としてあらわれるのである。「土地は、ここでは、まだ人間から独立の自然的定在として承認され、(中略)労働そのものの一契機としては承認されない。むしろ労働が土地の契機として現れる」((40)453)。前述のように、前資本制社会において労働と土地が本来的な自然的結合の中にあるということは、人間による有用性の享受のみでなく、むしろ自然の無用性による拘束の側面が本質的な位置をもっていることを意味している。土地が自立的・客体的な自然存在である以上、土地占取は、人間にとってその利用価値に限定したひたすらな享楽ではありえない。土地占取の所有としての特質は、それがたしかに占取であるが、同時に土地の無用性による被占取・緊縛でもあることである。商品の所持は少なくとの法的にはまったくの自由な意志行為として構成される。しかし、土地占取行為は、同時に、それ自体として自由な意志行為ではありえない拘束を意味するのである。
 前述のように、大地は人間に対して生活や労働の手段を直接に提供する倉庫としての性格をもっているが、その倉庫はただ空虚で人間を拘束する自然の牢獄でもありうるのである*7。こうして対象化された労働は、土地の自然的契機としてそこに統合されてしまい、その有用性と目的意識性は相対化・剥奪される。それは(資本制的生産において)「機械労働は神経系統を極度に疲れさせるが、他方ではそれは筋力の多面的な働きを抑圧し、いっさいの自由な肉体的および精神的活動も奪い去る。(中略)機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放する。労働過程であるだけでなく、同時に資本の価値増殖過程でもある限り、すべての資本主義的生産にとっては、労働者が労働条件を使用するのではなく、逆に、労働条件が労働者を使用するということが共通している」(DKⅠ445)といわれるのと、相似した事態である。
 さらに問題は、資本制下における固定資本=機械が「魂を与えられた怪物」(DKV②116)として労働の事実上の統合者であるのと同じように、ここでは、土地が、それを占取する人々の労働を生産過程の中に統合することである。前述のように、土地と人間との間の有用的な物質代謝の過程を歴史的な過程として観察すると、そこには類としての人間と他の動植物の相互的な影響・規定の諸関係が成立し、個人的肉体、動物的個人としての人間ではなく、類としての人間と自然がたがいに向き合っていた。右のような自然拘束性を前提にすると、このことは、さらに土地占取が所有関係としては、本質的に個人的な行為ではありえないこと、土地占取は土地の無用性による被占取・緊縛を意味するのみでなく、個人が土地を媒介として人々との結合の中に拘束されることをも意味することになる。諸個人は生産過程の内部において対象的自然によって客観的に統合されているのである。自然とその無用性の運動は、諸個人に対して平等にはたらく。自然の無用性が発現すれば、人々は自然によって同じ行動をとるように拘束されるのである。ここでは人々は同じ人間としてあるいは同じ動物としての共通性に還元され、そのようなものとして集団的な存在としてあらわれる。前提によれば、人々は、まず諸個人は大地を有用的な生産手段として小規模に占取する個人的存在としてあらわれた。これが本源的所有の第一の側面である。しかし、ここに本源的所有のもっている第二の側面、本源的所有の集団的側面が必然的なものとしてあらわれる。人間と自然の物質代謝は自然の有用性と無用性の両側面において行われるのであって、自然の有用的な豊かさは、自然占取の特殊的・個別的な有用性をもたらすが、自然の無用性は、人々を自然の中に拘束するとともに、人々に自分たちが共通する運命の中に投げ込まれた「類」的集団であることをも伝える。自然がその本質的な自然性、無用性において登場すれば、人間も種属的・類的な集団的存在としてあらわれるのである。
 こうして、前資本制的な本源的な自然所有が一般的にもっている二側面、つまり個人的な所有と集団的な所有の二側面は対象的自然の有用性と無用性に対応している。そして、対象にとっての真実は主体にとっても真実なのであって、人間が自然の一部であるということは、人間的自然も対象的自然と同じように、有用性と無用性という二面性をもっていることを意味する。人間の身体は、生活と労働の手段として多様な有用的性格をもっているが、それ自身、他面で、諸個人を外側から制約する無用で受苦的な自然性として現れる。(人間は)「一方では自然的諸力、生の諸力をそなえた一つの活動的な自然存在であって、これらの力は彼のなかに諸々の素質や堪能性として、衝動として現存している。他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として、動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件づけられた、制限された存在である」((40)500)。彼らにとっての身体は、もっとも本源的な労働手段であると同時に無用で受苦的な制約条件である。それ故に、人間は、たとえば身体的な飢餓につねにとりつかれている。「飢えは、おのれの外にあっておのれの更新補完と本質表明のために不可欠な対象を求めるところの、身体の対象的な要求である」((40)500)。身体の更新補完=物質代謝は、飢え・消耗・病・死などの受苦性を内部にはらんでいる。食欲・性欲などの欲求なしには肉体も精神も存在することはできないが、しかし、人間はそれらの欲求それ自体を所有し、自己の意志に従わせることはできない。前資本制社会における自然の無用性の不可避的な優越の中で、「われわれは、一歩進むたびごとに次のことをおもいしらされる。すなわち、われわれが自然を支配するのは、ある征服者がよそのある民族を支配するとか、なにか自然の外にあって自然を支配するといったぐあいに支配するのではなく、ーーそうではなくてわれわれは肉と血と脳髄ことごとく自然のものであり、自然のただなかにあるのだということを」(⑳492)。こうして、自然の無用性の運動の中で自然が自然自身に還元されるのに対応して、人間的自然も、その具体的な有用的性格を捨象されて、自然自身として登場する。ここでは対立は自然一般と人間一般に還元されている。人間は自己の環境として作り出した二次的な自然の保護を剥奪されて、自然一般と対峙し、人間の本来的な受苦性の中におい込められ、自己が共通する運命の中に投げ込まれた「類」的集団であることを思い知らされる。
c自然の無価値性と労働
 以上のような自然拘束性による土地の具体的な有用性、利用価値の捨象と人間の個体的存在の「類的存在」への還元は、いわば貨幣が商品の具体的な有用性を剥奪するシステムとして機能すること、貨幣が自己自身の利用価値を抽象化すると同時に他の物の有用性を剥奪することによって、物同士を関係させることにパラレルな関係であるということができよう。この問題をさらに自然に対象化された労働との関係でより詳しくみてみよう。自然の具体的な有用性が捨象されるということは、自然を利用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象されていることを意味する。それはもはや水田・畑地・放牧地・漁場などの具体的な土地区画ではないのみか、稲・麦・牛・魚などの具体的な収穫物でもなく、植物・動物などの生態学的な自然でさえなく、さらに平野・河川・山地・海などの地理的な自然でさえない。前述のように、災害、地力の減退、気候不順、多雨・寡雨・日照、雑草の繁茂、虫害の発生などの自然の無用性の発動にあらわれるのは、人間を拘束する自然自身である。
 マルクスの商品論での叙述をそのまま借用すれば、そこでは自然の有用的性格とともに、それを媒介していた「労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働、すなわち抽象的人間的労働に還元されている」「そこに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない」(DKⅠ52)。貨幣は商品そこに表現されているのは、その自然が本来的な自然それ自身ではなく、人間の占取と労働一般によって変更された自然、二次的な自然であるという単純な事実自身である。自然の具体的な有用性が捨象されれば、そこにのこっているのは自然それ自身であるが、しかし自然もすでに不可逆的な変化をとげており、人間の労働が加えられた二次的な自然となっている。そして、二次的な自然とは人間の労働力一般が対象化された自然、つまり価値一般を内部にはらんだ自然であるといいかえることができる。「資本投下は、単純な耕作一般と同じように、土地を改良し、その生産物を増加させ、土地を単なる物質から土地資本に転化させる。耕作された畑地は、同じ自然的な質の未耕の原野よりも価値が大きい」(DKⅢ(633))ということは前資本制社会でも同じことである。
 しかし、逆にいえば、本来的な自然、「空気、処女地、自然の草原、原生林など」自体は、有用な利用価値であっても、「その物の効用が労働によって媒介されていない」以上、価値をもたない(DKⅠ55)。価値物はかならず有用性をもつが、有用物がかならず価値物であるとはかぎらない。「人間の関与なしに天然に現存するすべての生産諸手段の場合、土地、風、水、鉱脈内の鉄、原生林の木材等の場合」(DKⅠ218)、土地は「それ自体なんらの価値をもたない物」(DKⅢ646)である。また、たとえば灌漑水路の中を流れる「落流は、土地一般と同じように、あらゆる自然力と同じように、そのなかに対象化されたなんらの労働も表していないのであるから、なんらの価値ももた」ない(DKⅢ(660))。土地の経済学的な意味での無価値性は、土地が本質的に自然的な存在であることに対応している。そして、そもそも二次的な自然の形成は、本来的自然、無価値の物の中に人間の労働が割り込み、その自然力に有用的な形態をあたえ、利用するという形で展開するのである。
 「土地・風・水」自身、地盤や空気や落流自身は、本来的自然として無価値であるが、人間の生産活動は、水路を設定して、土壌を耕し、土壌の団粒構造を作り出して地盤と空気・水との間の循環を有用的に組織し、無価値物の世界に割り込んでいく。そのなかで本来的な自然は二次的な自然と一体化していくが、それは新たな自然の無用性の発動の可能性をあたえるのであり、それが発動すれば、二次的自然は本来的自然の一部に還元される。たとえば、大河川につらなる灌漑水路が破損して洪水が耕地をおそい、その土地が河原や荒野と化してしまえば、そこに残るのは人間労働の痕跡を残す自然的基体にすぎない。自然にとっては、それは人間という動物の「類」的な生存と巣作りの痕跡として、他の動物の巣作りの痕と区別することはできない。
 「物が無用であれば、それに含まれている労働もまた無用であり、労働としては数えられず、したがってなんらの価値もない」(DKⅠ55)。それ故に、たとえば水田とその灌漑水路が完全に流されて河原にかわるとか、放牧地が放棄されて原始林の一部にもどってしまうなど、土地が有用性を失った自然に戻ってしまえば、それは価値を失う。また、たとえば水田の灌漑水路を水が走らなければ、それは無用な構築物であり、そこに対象化された労働は無用な労働である。ある時、大地が価値を持ち、そして価値を失うという反復する過程が人間による大地の開発の歴史であったということができる。「優秀な生産物では、その生産物の使用諸属性の、過去の労働による媒介は消えうせている」(DKⅠ197)ように、土地への労働の対象化の成功は、新しい自然、二次的な自然の形成である。そこではそれを媒介した過去労働は自然の形態を変更することによって自然の一部となり、本来的自然の運動と連接した恒常的な二次的自然のサイクルが形成される。土地労働が有用的なものであるということは、労働が自然の運動の有用的な形態を媒介する形で対象化されることである。
 このように土地が価値をもつということは、本来的自然が二次的かつ有用的な自然に転化したという事実そのものである。そこには、労働の対象化が商品への価値対象化である場合とは違って、直接の社会関係をふくまない。もちろん、前資本制社会においても、土地は商品とはなりうる。しかし土地の商品価値を規定するのは、土地に対象化された労働ではなく、基本的には資本制社会におけるのと同様に社会的な地代関係であって、後にふれるように、前資本制社会においては、この地代関係も、商品の呪物性のような不可思議な関係をふくまないのである。その意味で、商品価値とはちがって、土地が内在的にもつ価値には何の不思議もない。
Ⅱ労働の二重性と分業・協業
1労働の二重性
 土地を有用性と無用性の両側面から解析してみると、土地は土地と人間の間の有用的な物質代謝を媒介する「自然の機械」として登場するが、それは同時に自然の無用性による人間の拘束をふくんでいた。そして、自然に対象化された労働は、利用価値の生みの親としての労働とは異なる性格をあたえられていることが判明した。こうして、問題はいわゆる労働の二重性論に関係してくる。
 いうまでもなく、労働の二重性論とは、商品の分析を通じてマルクスによって確定された、すべての労働は一面では目的意識的な具体的有用労働であって、そのようなものとして有用物の利用価値を構成し、他面において、生理学的意味での人間労働力の支出、抽象的労働であって、そのようなものとしても有用物の中に対象化されているという分析である。私は、この問題は、前資本制経済の分析にあたってもゆるがせにできない基礎範疇であると考える。
2有用労働と小生産・個別家族
a労働の目的意識性と小生産様式
 「合目的的な生産的活動または有用的労働」、「特殊な自然素材を特殊な人間的欲求に適合させるある一つの特殊な合目的的な生産的活動」(DKⅠ57)の本質は、その目的意識性にある。有用労働は「労働者の表象の中にすでに現存していた結果」=目的を実現するために、「人間が自然とその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程」である(DKⅠ192)*8。マルクスが「農業は独自な種類の生産様式をなしている。なぜなら、そこでは力学的ならびに化学的過程に有機的過程が付け加わるからである。また単に自然の再生産過程が制御され、管理されるにすぎないからである」(DKV②522)とも述べているように、生産者は土地の有用的側面=「自然の機械」を「媒介・規制・管理」する主体としてあらわれるのである。
 そしていうまでもなく、「労働者の表象の中にすでに現存していた結果」=目的意識は特定の個人の身体と頭脳にやどるものとしてしか存在しない。そこでは「自然諸力だけでなく自然によって整えられた機械が協力するからであり、一人一人の労働者がすぐに一つの機械をもって労働する」(DKV⑥11)といわれるように、この労働の主体、「自然の機械」の「媒介・規制・管理」の主体はまずは個人としてあらわれる。もちろん、人間は自己自身の主体的な活動としての「媒介・規制・管理」の主体が自己の外側に存在していると考えることができるし、その意識があたかも自然自身の中に埋め込まれているかのように、一種の幽霊のような存在として想像することはできる。しかし、労働過程の現実においては、「自然の機械」の「媒介・規制・管理」の主体は個人の肉体と頭脳でしかありえない。これは、彼らが相互にどのように結合し、どのような社会的関係をもっているかにも関わりないことである。
 以上が、有用的な自然占取がまずは諸個人の個人的な身体によって行われているという最初の前提に対応する事柄であることはいうまでもない。このような事態、つまり生産物が一般に「個人的生産者の直接的生産物」であるような状態においては、「労働過程が純粋に個人的な労働過程である限りは、のちには分離されるすべての機能を同じ労働者が一つに結合している。彼は自分の生活目的のために自然対象を個人的に取得するにあたって、自分自身を管理している。個々の人間は、彼自身の頭脳の管理のもとで彼自身の筋肉を動かすことなしには、自然に働きかけることはできない。自然体系(生来の人体)では頭と手が一組になっているように、労働過程では、頭の労働と手の労働とが結合されている」(DKⅠ531)。そして、「労働者がじかに自分のものとしてもつ対象は」まずは「彼自身の肉体的諸器官」である。ここでは有用労働の目的意識性、しかも多様な有用労働を統合する労働の目的意識性が、諸個人としての生産者の身体(頭と手足)の内部に宿っているのである。マルクスは、はやくも『ドイツ・イデオロギー』の段階で、前資本制社会においては、直接的な生産労働の過程において、このような「身体活動と精神活動がまだ全然わかれていない」事態が支配的であると述べている((3)61)。
 もちろん、それは道具によって拡充・補完されている。有用労働の目的意識性は、技量・熟練・工夫などの仕事の能力として身体化されると同時に、道具に刻みつけられる。「自然的なものそれ自身が、彼の能動活動の器官、(中略)、彼が自分自身の肉体的諸器官につけ加えて彼の自然の姿を引き伸ばす一器官になる。土地は彼の本源的な食料倉庫であるのと同様に、彼の労働諸手段の本源的な武器庫である。それはたとえば彼に投げたり、こすったり、重しにしたり、切ったりなどするための石を供給する。土地そのものが一つの労働手段であるとはいえ、それが農業において労働手段として役立つためには、さらに全一連の他の労働手段と、すでに比較的高度に発展をとげた労働力とを前提とする。(中略)。労働諸手段の使用と創造は、萌芽的にはすでにある種の動物にそなわっているとはいえ、独自的人間的労働過程を特徴づけるものであり、それゆえフランクリンは、人間をa tool making animalすなわち道具をつくる動物と定義している」(DKⅠ194)。土地=「自然の機械」の管理・利用のためには、近代の機械体系がその製作とメインテナンスにさまざまな工具を必要としているように、さまざまな労働用具が必要である。しかし、ここでは、労働はつねに小規模であり、単体としての労働においては、道具(その作業機)は身体の直接の延長であり、その作業範囲は身体によって制限されている。
b「器用仕事」と労働種類
 このような生産と労働の様式が、一つの社会的な労働様式として存在している諸形態が小生産様式と呼ばれるものである。そして、マルクスは、この小生産様式、別の言い方をすれば、「生産諸手段が事実上または法律上、耕作者自身の所有である生産諸様式」における労働のあり方を「農業の手仕事的な経営」(DkⅢ688)と呼んでいる。このような「手仕事」、あるいはレヴィ・ストロースの用語を使えば「器用仕事」が、前資本制的な小生産の労働様式の最大の特徴であり、そこで本質的なものは、前述のような目的意識性をもった「頭」と「手」の労働の結合と熟練である。そしてこの「器用仕事」は一つの特定の労働に特化しているのではなく、いくつかの有用労働を一身に結合しているという意味でも「器用仕事」である。前述のように、本来的な自然的所有の下においては、大地の有用的占取にはさまざまな利用価値をもった土地区分が複合的・重層的にふくまれている。この状態においては「同じ人間が裁縫労働と織布労働とをかわるがわる行い、したがって、この二つの異なる労働様式は同じ個人の労働の諸変形にすぎず、まだ異なる諸個人の特殊な固定的な職能にはなっていない」(DKⅠ58)、「未発展な社会状態では、同じ人間がこもごも、非常に違った種類の労働を行う。あるときは畠を耕し、あるときは機を織り、あるときは鉄を鍛え、あるときは大工仕事を行う」*9のが一般的である。彼がこういう何種類かの労働を遂行することは、彼がいくつかの種類の利用価値をもつ土地を一身で占取していることに対応している。
 明らかなことは、このような「器用仕事」における労働の柔軟性・多様性・目的意識性は、この個人の「頭」と「手」が対応できる限りの狭隘で経験的な範囲に限られていることである。「器用仕事」においては、労働者はさまざまな労働種類を自然の空間的・時間的秩序にそって順々にこなしていく。そして、この「器用」さは、前述のような「自然の機械」の運動の(真の機械とまったくことなった)不連続性・間歇性という特徴、たとえば、「播種期と収穫期のあいだ、労働過程はほとんどまったく中断され」る、「農業では、労働期間の比較的長い持続と、労働時間と生産時間との大きな差という二つのことが一体になっている」といわれるような特徴を大きな条件としている(DKⅡ245)。マルクスがしばしば強調した前資本制的な「農村家内工業と農耕との結合」という生業複合の自然的な条件はここにあった。「たとえばロシア、そこのいくつかの北部地方では、耕作労働は一年に一三〇日ー一五〇日あいだできるだけである」、「気候が悪ければ悪いほど、農業の労働時間は(中略)短い時間に圧縮される」のであって、このような「生産期間とその一部分をなすにすぎない労働期間との不一致が、農業と副業的農村工業との結合の自然的基礎をなしている」のである(DKⅡ244)。
 しかし、このような小規模で経験的な「器用仕事」こそが、労働者の個性と労働能力の発展、それ故に広い意味での文明の基礎であった。マルクスは「労働者がその生産的活動の手段を私的に所有しているということは、農業または工業(手工業)における小経営の必然的帰結であるが、この小経営は、社会的生産の苗床であり、労働者の手の熟練や工夫の才や自由な個性が磨かれる学校である」(DKⅠ789)と述べている。「手の熟練や工夫の才」、つまりここでいう「器用仕事」こそが「個性」の基礎であるのはいうまでもない。そしてこのような個性・異種性の相互承認、人間という種属の中では「もっとも異質的な天分がたがいに有用である」ことこそが人間が「類的存在」であることの端的な表現である。
 もちろん、この「人間的な才能の異種性は、分業の、つまり交換の、原因であるよりもむしろ結果である」((40)482)*10。前述のように、資本制社会が受け継いだ大地とその生態系は「幾多の世代を通じて、人間の管理のもとで、人間の労働を介して続けられてきた変形の産物」であったが、それと同様に、「(近代において)資本関係が生まれる基礎である労働の既存の生産性は、自然の賜物ではなくて、幾十万年にもわたる歴史の賜物である」(DKⅠ535)。人間は労働の過程で「自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる。彼は、自分自身の自然のうちに眠っている諸力能を発展させ、その諸力の働きを自分自身の統御に服させる」(DKⅠ192)。こうして「自然の機械」としての土地が多様な豊かさを獲得していく過程と、「同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用的労働の総体」、すなわち「社会的分業」(DKⅠ56)の発展は同一過程の二側面であったことが明らかとなる。
 小生産体の「器用仕事」こそが、多様な生産=生活の諸条件の隅々にまで入り込む柔軟性と強靱性をあたえたのであって、個々としてみればあくまでも小規模な、この労働こそが、その目的意識性を土地に対象化し、自然を第二次的な自然に転化したのである。具体的な有用労働は、土地との物質代謝を有用的形態において「媒介・規制・管理」する目的意識性に貫かれている。「個性」「人間的な才能の異種性」はこのような分業の中での労働の長期にわたる陶冶の結果である。
c家族的分業と農工未分離
 前提によれば、労働の主体はまずは個人としてあらわれたが、この大地の織物にポリプのように入り込んだ小生産体は家族を構成している。「小経営という生産様式にあっては、土地の占有が自分自身の労働の生産物に対する労働者の所有のための一条件であり、また耕作者が自由な所有者であろうと隷属民であろうと、つねに自分の生活維持諸手段を、自分自身で、独立して、個々の孤立的労働者として、自分の家族といっしょに生産しなければならない」(DKⅢ815)。もっとも基礎的な意味での小生産、つまり人間がその個人的身体によって小規模な有用的土地区分を占取するという意味での小生産様式は、人類史の最初から存在するとっていよいが、しかし、小生産様式はそれに対応する個別家族をもつことによって、家族という動物的関係を編成することによって、はじめて一つの社会的な労働様式、家族制的な小生産様式となる。それは小生産様式に対応する最初の社会的労働の組織である。
 エンゲルスは『家族・国家・私有財産の起源』で、未開時代の特徴的な家族形態として「対偶家族」をあげ、「両性間の婚姻共同生活のおこなわれる圏が、もとは種族全体を包括していたのが、たえず縮小されていった」ことに注目し、「まずより近縁のものが、ついでますます遠縁のものが、最後にはたんなる姻族までが、排除されつづけることによって、ついにはどんな種類の群婚も不可能になる。そのあげくのはてにのこるのは、当面はまだ結合のゆるい一対の配偶である。これは分子にあたるもので、これが分解すれば婚姻一般がなくなってしまう」((21)52)、「対偶関係では、群はすでにその最終の単位、二原子からなりたつその分子、すなわち一人の男と一人の女にまで引き下げられていた」((21)58)と述べている。私見では本源的な家族としては、このような意味での対偶家族を措定するほかない。もちろん、前資本制な階級社会における家族は、エンゲルスがフーリエに依拠して「諸対立に分裂したすべての不完全な社会(文明社会)では個別家族が経済単位である」((21)176)と述べているように、いわゆる「個別家族」、家父長制的な単婚家族である。しかし、エンゲルスが「歴史にあらわれる最初の階級対立は一夫一婦制における男女の敵対の発展と一致し、また最初の階級抑圧は男性による女性の抑圧と一致する」((21)70)と述べているように、家父長制の成立構造は階級的支配の成立構造と相互規定的である。それ故に、前資本制的な階級社会における現実の家族が家父長制家族を必然化する社会構造の中に置かれていたとしても、(今の問題分析のレヴェルにおいて)家父長制の成立を前提として社会の構造を解明しようとするのは一つのトートロジーである。家族の家父長制的形態についての議論は後に階級的支配の構造を論じる中で検討されるほかない。その意味でも、ここで家族制生産様式を問題にするにあたって前提となっている家族は対偶家族的な家族範疇であるというほかない。そして、そのような対偶的な規定性しかもたない本源的な家族制生産様式は、様々な歴史的形態をとった家父長制家族の内部にも、その一つの実態的側面として潜在的に存在し続けるのである。
 この家族組織は、右に述べた「手仕事」「器用仕事」のもっとも自然的な基礎となる。マルクスは「自家用のために、穀物・家畜・糸・リンネル・衣類などを生産する農民家族の田舎風な家父長的な勤労」*11においては、「これらの生産物を生み出すさまざまな労働、農耕労働、牧畜労働、紡績労働、織布労働、裁縫労働などは、その自然的形態のままで、社会的機能をなしている。なぜなら、それらは、商品生産と同じように、それ独自の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だからである。男女の別、年齢の相違、および季節の推移につれて変わる労働の自然的諸条件が、家族のあいだでの労働の配分と個々の家族成員の労働時間とを規制する」(DKⅠ92)と述べている。ここでは「器用仕事」が家族的な自然発生的分業によって男女・老若に分担されているのである。ここでは労働の器用仕事と個性の相互承認が、家族の動物的・身体的紐帯のただ中で行われている。この家族的な分業は「男女の別、年齢の相違」という家族の内部の身体的・生理的相違を基礎として組織されている。ここで人間的自然のもつ量的変化(年齢)と特定の豊饒性(性)が有用労働の条件となっているのは、土地の位置と豊度が相異なる利用価値の条件をなしているのと同じことである。前述のように大地の生産性は長期にわたる人間労働の蓄積によって形成されたものであり、逆に労働の生産性もおなじような歴史過程の産物であったのであるが、その基礎は小規模な自然と身体との物質代謝の集積であり、それを担保してきたのは小規模な身体的自然相互の結合であって、その中で「器用仕事」の技能も鍛錬・継受されるのである。このような家族の機能の蓄積効果なしに労働能力の発展はなかったことは明らかである。
 こうして、家族の労働は、対象的自然の相違に規定されるとの同じように身体的自然の相違に規定されている。出産や授乳、つまり性的な再生産能力の有無とそれによって規定される身体的諸条件、筋肉能力の形態の平準的な相違などは男女間分業の生理的内容をなし、それに直接に規定されて、彼らは仕事を分担する。労働の性的分割の具体的なあり方はさまざまであるが、男の労働は、しばしば狩猟・漁撈・畜産・林業などの「力仕事」を重点とし、これに対して女の労働は家事労働と近接した家内手工・屋敷畑・繊維労働などの「根気仕事」を重点とする。そして、この体系の中に老若の家族・親族が編入され、男女間分業に子供の見習い労働、老人の熟練労働との分業がつけくわわることになる。もちろん、現実の男女間の身体的相違、さらに「老」「若」の相違は、平準をはずれる場合がしばしばであるが、しかし、彼らは、その相互関係を性格づける社会的相違として平準的な身体的相違を第一の結晶軸とするほかの手段をもたない。そして、逆にそのような基準、原初的な社会的な性差にそって身体的相違が労働の中で現実に固定されていくのである。
3生理的労働と身体的協業(家族的協業、単純協業)
 自然の無用性の運動は土地の利用価値およびそれに対応する労働の目的意識的性格を捨象し、その労働の効果を人間種属の巣作りの跡として他の動物の巣作りの痕跡とかわらないものとしてしまうこと、自然一般と人間一般の対峙の中で、人間の労働はその抽象的な形態に還元されてしまうことは前節で述べたとおりである。これを主体としての労働の側からさらに詳しく観察してみよう。
a労働一般
 経済学理論の側では、前資本制社会の分析においても、マルクスのいう抽象的人間的労働、生理的人間労働なる範疇が必要なのかどうか、あるいは有効な意味をもつのかどうかに関しては疑問とする意見が多い。しかし、「生産のどんな段階にも労働のある種の共通性、労働の社会的性格などが存在している」(DKV①521)ことは明らかである。一般的に考えて、人間と人間の間の関係は、両者が同一の種属に属する存在としての生理的能力・労働能力をもっているという事実にもとづいており、社会関係は何らかの形で人間的能力の生理的同一性を反映している。
 資本制社会においては、このような労働の共通性は、労働力の売買・譲渡、労働力の一般的な商品化という形態をとって実現している。この労働力の商品化は、交換過程において、すべての生活諸手段・生産諸手段がその具体的な利用価値を捨象され、そこに含まれる労働一般の量によって交換され、商品化される事態に対応している。前資本制社会では利用価値の捨象が自然的に事実として行われるのに対して、資本制社会では、それが商品の普遍的な価値=貨幣形態を媒介として社会的に貫徹・実現している。そこでは人間労働の普遍的な同等性が前提となっている。『資本論』の有名な相対的価値形態の表現の「回り道」に関する分析が、人間Aは、商品交換において、他者Bの所持する商品bの利用価値を価値鏡として自己の所持する商品aの価値を規定し、自己の特定の具体的労働を人間労働一般に還元すると述べているように、商品形態の析出は人間相互の同一性を前提とした意識関係行為を媒介としているのである。
 いうまでもなく、前資本制社会では、商品交換関係は社会関係の全体を覆ってはおらず、このような人間労働の同等性を前提にした一般的な社会関係は存在していない。しかし、そこでも限定された範囲では、有用労働の種属的形態への還元、労働の同等性関係が存在する。たとえばマルクスが、右の価値形態の「回り道」を論じた一節の注記において、「(人間は)はじめはまず他の人間に自己自身を映してみる。人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通してはじめて人間としての自己自身に関連する。だがそれとともに、ペーターにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用する」と述べているように、個別的な関係としてみるならば、どのような場合も人間労働の同等性関係が成立することは明らかである(DKⅠ67)。たしかに前資本制社会の人々は、資本制社会におけるような便利な一般的価値鏡をもっていないが、彼らはこの注記通りに実際に具体的な人間ペーターとパウルとして登場し、相互に同等性関係を措定するのである。
 もちろん、ここでペーターとパウルが相互を具体的に人間種属として発見しうるのは、彼らが、同一の労働諸条件あるいは自然拘束性の下での利用価値の捨象という関係を共有しているという狭い範囲に限られる。しかし、労働諸条件を共通にするという条件の中では、彼らは相互の具体的労働の背後に自分と同じ「類」としての人間的労働の同等性を経験的に発見する。この点では、「経済学批判序説」における定式化も重要である。そこでマルクスはまず「労働一般、単なる労働という範疇の抽象は」「すべての社会形態にあてはまる非常に古い関係をあらわしている」こと、「未開人」の労働にも、「文明人」の労働にも「労働の特定性に対する無関心」「何にでも用いられる素質」、つまり「労働一般」、抽象的労働という概念自身は共通して存在していることを確認する。その上でマルクスは、「未開人が何にでも用いられる素質をもっているということと、文明人が自分自身を何にでも用いるということとの間には、たいへんな違いがある」と論じ、この両者の相違の根拠を、「文明人」の場合は「現実の労働種類の非常に発展した総体を前提」とし、「労働一般という抽象、特定の労働に対する無関心は、個々人がたやすく一つの労働から他の労働に移り、彼らにとっては労働の特定種類は偶然であり、したがってどうでもよいものになるという社会形態に対応」しているのに対し、「未開人」の場合は、彼らの労働が「職分として個人と一つの特殊性において合生し」、「まったく規定された労働のうちに伝統によってかたくはめこまれていて、外からの影響によらなければそこから投げ出されないということ」に対応していることに求めている(DKV①57)。つまり、マルクスは「未開人」の労働は「規定された労働のうちに伝統によってかたくはめこまれている」という範囲の中で、その労働種類の範囲内ならば何でもこなすという意味での「労働への無関心」という狭隘なものにすぎないが、それでも一種の「労働一般」性であるというのである。
 このような「未開人」の労働においても成立する「労働一般」という観念の背景にある平等は、彼らが同一種の動物であるというレヴェルにおける平等、「すべての人間には人間としてある共通のものがあり、そしてこの共通のもののおよぶ範囲内では彼らはまた平等である」という「相対的平等というあの原初の観念」(⑳107)である。そこではたしかに「人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになっている」(DKⅠ74)訳ではない。それ故に彼らは商品価値の形態の中に労働の同等性を発見できないのではあるが、しかし、労働が「器用仕事」として営まれる関係の範囲内では、労働の同等性それ自身は、逆にむしろ経験的・常識的な事実であった。「どんな状態のもとでも、人間は生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった」し、「古代ゲルマン人のあいだでは、一モルゲンの土地の大きさは一日の(男の)労働によってはかられた」ことはよく知られている(DKⅠ86)。狭い意味での農産物のみでなく、副業的手工業生産物についても「中世の人々は、それぞれほかの人の原料、補助材料、労働時間についての生産費をかなり正確に産出することができた」のである(DKⅢ908)。
 マルクスは「未発展な社会状態では、同じ人間がこもごも、非常に違った種類の労働を行う。あるときは畠を耕し、あるときは機を織り、あるときは鉄を鍛え、あるときは大工仕事を行う。しかし、彼の仕事がどんなに多種多様であっても、それらはつねに、彼が自分自身の脳髄、自分の神経、筋肉、手等々を用いるときの、一言でいえば彼が自分自身の労働力を支出するときの、異なった有用的な仕方でしかない」と述べている*12。前資本制社会における相異なる労働の「器用仕事」の間に労働の経験的な同等性を発見することは、実際上、資本制社会における発展した労働の間に同等性を知覚するよりもはるかに簡単なのである。そして、前述のような自然の無用性と拘束性の下で、生産の発條が自然によってあたえられるという中では、「彼の労働はいつでも力の支出(労働そのもの)なのであって、この支出の有用的な形態、つまり労働種類が彼の目的とする有用効果に応じて変化するのである」*13という主体的な事実は、労働が自然の季節的な運動によって結合されるいくつかの種類の伝統的な労働の単調な組み合わせに「かたくはめこまれる」という外在的な事実に転化してしまう。
b家族的協業と奴隷=「労働機械」の指揮管理
 前述のような家族制小生産様式の内部では、家族的な共同労働が異なる「器用仕事」の間に労働の同等性を成り立たせる。マルクスは、「家父長制的農村工業においては、家族の限界内で糸とリンネルとは社会的生産物であり、紡績労働と織布労働とは社会的労働であった。(中略)、(ここでは)原生的な分業をもつ家族関連が、労働の生産物にその固有の社会的極印をおしたのである」。このような「共同社会的な生産の基礎の上では、労働は交換に先立ってそのような一般的労働として措定されている」(DKV①160)と述べている。「農業やマニュファクチュアの幼稚で未発展な姿態にまといついていた両産業の本源的な家族のきずな」(DKⅠ528)においては、共同の生産物が家族成員の必要を直接に満たすのであって、生産された利用価値物の社会的性格は、その共同的・共有的な性格の中にあり、生産労働の具体的な性格はそのままで家族の共同労働としての性格をもっている(DKV①160)。そして、ここでは「継続時間によってはかられる個人的労働力の支出が、はじめから労働そのものの社会的規定として現れる。なぜなら、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の器官としてのみ作用する」(DKⅠ92)。
 この家族の共同的労働力は家族的生活の共同と一体をなしている。そして、家族的関係の中心は、人間の生命の再生産、繁殖、養育、給養など、それ自体としては動物的な関係にある。もちろん、彼らの相互関係は、家族的な相互承認と器用仕事の主体相互として承認関係をもっている。しかし、ここでは前述のような人間の身体の自然性、「彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として、動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件づけられた、制限された存在である」((40)500)という関係が本質的である。彼らは、複数の身体によって構成される一つの家族的群体が、その「共同的労働力の器官」である個々の家族員の身体の更新補完=物質代謝の主体であるかのように、身体の無用性としてあらわれる自然的・受苦的欲求を相互に直接に充足しあう。「人間の人間に対する直接的、自然的、必然的な関係は男の女に対する関係である。この自然的な類関係においては、人間の自然にたいする関係は直接に、人間の人間に対する関係であり、また人間にたいする関係は直接に、人間の自然にたいする関係、人間自身の自然的な規定である」((40)456)。家族関係は自己自身の身体を相互に直接的な「もの」、受苦的・受動的な「もの」として扱いあう関係であり、彼らの共同の内容は動物的な関係を超えることができるとはいえ、動物的な生命の身体的紐帯から分離することはない。
 この性的紐帯を中軸として組織された「共同的労働力」においては老若男女の労働の自然的区別が労働組織の中軸に存在する。それは資本制工場における児童労働の駆使において、「自動化工場では、(中略)部分労働者たちの人為的に作り出された区別に代わって、年齢および性の自然的区別が主要なものとしてあらわれ」(DKⅠ442)るのと同じことである。もちろん、前資本制社会における児童労働が厳しさとともに、自然的な家族的共同にともなう平等性という要素をもっているのは、資本制工場における児童労働と相違することはいうまでもないとしても、労働編成自体には同一の側面があるのである。家族的共同は、家族が身体=労働力を自己増殖させる自然的な力をもつ存在であるということ、つまり家族の身体性と自然性に依拠している。そのような家族の自然性は、家族員個々の労働を家族の生理的労働の「共同的労働力の器官」に吸収し、それを通じて家族員の器用仕事、有用労働の相違を捨象してしまう。それは、いわば土地の自然的な力が土地の位置と豊度、土地の利用価値の相違を捨象してしまうのと同じことである。
 このような労働の生理的労働への抽象化は家族制的生産様式の事実上の内部的関係という限界の中にあるが、しかし、家族は、家族員の増大、親族の寄住、流浪・零落者の保護などを通じて必然的に大規模化する。とくに家族の内部への他者の取り込みは、直接に家族的協業の規模を拡大する。「農耕家族の内部での自然生的な分業は、ある程度の裕福さが達せられたとき、一人またはそれ以上の他人の労働力をとりいれることを可能にした」((20)186)。そして、家族の自然的・動物的な関係の中に組み込まれながら、他者として性的・家族的な人格関係とその技能・器用仕事・個性の相互承認から排除されている人間に残された関係は、家族関係の自然的・動物的な側面のみである。それ故に、このような存在は家族からの疎外において一個の動物=家畜として、つまり「奴隷」としてあらわれる。
 家畜と「僕」=奴隷を区別するものは、「主」と「僕」が同じ人間という意識をもった動物の「類」に属することであり、それゆえに、家畜所有と区別される人身所有の特殊性は「他人の意思の取得が支配関係の前提なのである」(DKV②156)という点にあるが、しかし、「彼はある他人に属する事物なのであり、それゆえ彼は、自己の特殊的な、力の発現に対して、すなわち生きた労働行為に対して、主体としては関わらない。奴隷関係では、労働者は生きた労働機械にすぎないのであり、それゆえ、他人にとって一つの価値をもつもの、あるいはむしろ一つの価値である」(DKV②107)。つまり、奴隷は、その労働の特殊的な内容と目的意識性に対して自分のものとしては関わらない。彼は労働に対する自己の目的意識性をもたず、「主」の目的意識性によって固形状態から流動状態に移行する労働力能の塊として「価値」そのものである。つまり、奴隷の生存は、「主」の給養による生活手段に依存しており、それ故にその生活手段に対象化された労働によって、その価値を表示される。その点では奴隷の価値規定は、資本制的な労働者の労働力の価値規定と同じなのであるが、しかし、奴隷は労働力能を自己の意思においてもっているのではない。奴隷は人間としての具体的な意思を否定された労働力能の塊そのものなのである。奴隷の給養は「労働力がある価値をもつようになった」ということ、あるいは「(奴隷としての)捕虜がある価値をもつようになった」こと((20)186)のもっとも粗野で直接的な表現である(ほぼ同趣旨の文章が(21)59にもある)。労働が価値の源泉となることは、奴隷の給養という形ではじめて具体的に確認されるのである。エンゲルスがいうように、このような奴隷関係は、「主」が「僕」の労働能力を維持するのに必要な労働手段と生活手段を蓄積し、「僕」がそれを欠如していること、そして「僕」に引き続き労働能力をもたせておくために「主」があたえなければならない生活手段よりも、「僕」が彼の労働によって作り出す生活手段のほうが多いという条件があれば不可避的に発生する(⑳165)。
 家族的な「共同的労働力の器官」、生理的協業の下部に組み込まれた奴隷の労働においては、労働の技能・個性は無視される。そこでは労働の目的意識性は主人の指揮的な労働としてあらわれ、それを剥奪された労働は、まさに苦役としての生理的労働、単純労働に還元される。奴隷は、所有された労働力能の塊として、「主」は「僕」の身体を自己の身体の延長とし、自己の頭脳をもって、この複合的身体を指揮する。それ故に、そこでは「主」と「僕」の種属的な同一性(「僕」も労働機械ではあるが意識をもつ労働機械であること)は、「主」が「僕」の労働の目的意識的・精神的要素を剥奪し、「僕」の人間労働を疎外された動物的労働、単純肉体労働に抽象化するという形で否定的に現象する。こうして、エンゲルスがいうように、奴隷関係は、「この(精神労働と肉体労働の)分業のもっとも簡単な、もっとも自然生的な形態」(⑳188)なのである*14。ここに労働の目的意識性と生理的性格、具体的有用労働と抽象的人間的労働のもっとも原初的な分裂、「精神的活動と物質的活動、享受と労働の分離」(③28)の第一の形態が存在する*15。とはいえ、これは萌芽的な形態であって、主人の精神的労働、指揮労働はほとんど「主人としてふるまうこと等々」であるにすぎない(DKV②150)。そして、その主人の指揮的な振る舞いと「僕」の管理の中には鞭や恫喝などとして暴力が織り込まれている。もちろん、「暴力」は単なる意思行為ではなく、実在的な先行条件を必要としているのであって、「主」は「僕」を給養するための生活手段のみでなく、武具をふくむ多様な物質的手段を先行的に確保していなければならない。(⑳172)。しかし、「主」による「僕」の意思の管理と剥奪はやはり一つの意志行為なのであって、暴力は「主」の精神労働・指揮管理労働の特殊な表現形態・肉体化形態なのである。
 ここに、「人間奪取、奴隷制、奴隷の売買と奴隷の強制労働、これらの労働する機械のーー増加は直接に強力によって措定されている」(DKV②590)という奴隷=「労働機械」関係の基礎がある。もちろん、今問題にしている関係は、あくまでも自然生的な家内奴隷制である。それは家族という集団を前提にしており、それ故にそこでは精神労働と肉体労働の分裂は大規模な敵対的な形にまでは発展しない。家内奴隷の数、およびそれに規定された家族的協業の規模は必然的に小規模である。しかし、そのようなものであっても、それが家族的関係にあたえる質的な規定性は重大である。それは後にもふれるように、必然的に暴力と男権主義の強化をもたらすのである。
c単純協業と指揮機能
 右にみたように、家族的生産様式の範囲内では、奴隷労働を含む場合も、その協業の規模はつねに小規模であるが、自然の運動、自然の機械の運動を有用的な形態に整えるとか、その有用的軌道からの逸脱を修正するなどの場合、それ自体として単純協業の必要があらわれる。たとえば実った穀物を降雨の前に一挙に刈り取るとか、重い材木を車に載せるとか、広大な草原に広がった畜群を追い集めるとか、漁撈・狩猟などの場合のように、多くの生産部門において「自然の機械」の有用性を維持するためには、単純協業を必要とするような決定的な時期が存在する(DKV④410)。また土地の干拓、築堤、灌漑、道路建設など、労働対象が一定の空間的な広がりをもっている場合には、その労働対象の性格自体が協業の必要を呼び出す(DKⅠ347)。そして自然の無用性・過剰性の作用範囲が大きくなれば、前述のようにその自然に拘束された諸個人・諸家族は、自己の生産条件を防衛するためにおなじように受苦的運命にさらされる。「生産がまだまったくの手労働、筋力の使用等々、要するに諸個人の肉体的労苦・労働にもとづいている度合いが高ければ高いほど、生産力の上昇は諸個人が大量的に協働することに依存する」。ここでは「労働の社会的精神」は、諸個体の肉体の量的集積、「熟練と結合していない」協業の中に存在している(DKV②199)。このような仕事のスタイル、いわば言葉の本来の意味での「賦役仕事」(平等に役を賦る。いわゆる「普請」)の生産力を上げるためには人々を動員するほかないのは、家畜の生産性の向上は多数の家畜を集めるほかないのと同じことである。このような「賦役」仕事の中で、人々は特定の労働種類の具体的労働の背後に自分と同じ「類」としての人間の自然力の緊張を経験的に発見する。
 マルクスは、資本制的な労働力の商品化のシステムをも、「この独自な商品所有者の”種属”が商品市場で自己を永久化する」(DKⅠ186)システム、つまり自己の労働力を販売する労働者が種属的な本質をもつ生理的労働を代表する独自な「種属」としてあらわれるシステムと特徴づけている*16。賃金労働者は生理的労働種属であるという訳であるが、それと同じように、前資本制社会においても、人々は、特定の種としての相互的共通性と労働の相互的な共通性を照応するものとして認識し、自己自身を一つの「人間種属」として認識するのである。しかもこの場合、彼らは、それを自己の「群棲動物」・族群としての自然的存在の一部として発見する。彼らが対象的自然に群れ、その無用性の拘束をうけるということは、何度かふれたように、裏返せば同時に人間が自身の「類」的自然のもつ自然的な力に群れるということである。「男女両性の自然的過程によって増進する人口の再生産」「人口の増加」は「それに対して支払われることのない自然力」であって(DKV②140,①523)、土地が「自然の機械」であるとすれば、その上に広がっていく労働自体も自然的な賜物である。人間は家族として小規模に個人的に族群の性的・身体的自然を占取するが、逆に家族は各年齢層に一定数の男女を確保した族群集団なしには成立しない。このような種属的集団は、どのような場合も性的紐帯の連続的・世代的な連鎖と親族的諸関係によって結合されている。
 このような「単純協業では、活動するのはただ人間力の集団だけである。二つの眼等々をもった一人に代わって、多くの眼、多くの腕、等々をもった怪物があらわれる」(DKV④414)。そして、この「怪物」、人間の群体には(対象的にせよ主体的・身体的にせよ)自然的な紐帯によって結合した諸個人が埋め込まれている。この「それ自身として集団力であるべき生産力」(DKⅠ345)においては個々人・個別家族の目的意識的な有用労働ではなく、人間の肉体的エネルギーの単純な量的蓄積がものをいう。しかも「たいていの生産的労働の場合には、単なる社会的接触によって、生気(”動物精気”)の独自の興奮と競争心が生み出され、それらが個々人の個別的作業能力を高める」(DKⅠ345)。このような単純協業の中から発生する「動物精気」は、家族からより大きなそれにいたるまで、人間の「群」が生得的にもつ、生理的抽象労働の相乗効果であって、このような「結合生産者」の行う協業の中で、「群」は「彼の個人的諸制限を脱して、彼の種属的能力を発展させる」のである(DKⅠ349)。
 この性的紐帯を中軸として組織された「共同的労働力」において、「性と年齢の相違」が本質的意味をもつのは、家族的協業と同じことである。資本制工場における児童労働の駆使において、「自動化工場では、(中略)部分労働者たちの人為的に作り出された区別に代わって、年齢および性の自然的区別が主要なものとしてあらわれ」(DKⅠ442)ることは前述の通りであるが、このような「性と年齢の相違」による労働組織が種属的集団においては、家族的生産様式よりもさらに拡大された形で成立する。こうして、族群的な単純協業の組織においては、「男」「女」「老」「若」が一つの集団として存在し、それが協業組織の中軸をなすことになる。
 エンゲルスは、古典的な氏族制度においては、たとえば「女たちの大部分あるいは全部が同一の氏族に属し、男たちのほうはいくつかのちがった氏族に分属する」((21)54)とし、マルクスも「親族関係」「氏族の組織化」の前提には「男女別の分族」つまり「性別に基礎を置く社会組織」が存在したという(補④320-321)。また、マルクスは、「太古的形態の氏族に応じた血族体系は、氏族の全成員の相互の親族関係に関する知識を保存していた」というモーガンの記述に対して「彼らにとって決定的に重要なこの知識を、彼らは幼児のころからのならわしをつうじて学びとった」と述べているが(補④410)、ここでは「男」は男集団に属することで「男」になっていき、「女」は女集団に属することで「女」になっていく。このような関係が、原始社会にのみかぎられることではなく、前資本制社会を通じて大きな意味をもっていたことは明らかである。
 これまでの前提は、人間がその個人的身体によって小規模な有用的土地区分を占取するという点にあった。そして、前節ではそれが社会的な労働と生産の様式として成立する第一の形態として、家族制生産様式を論じたのであるが、以上で分析した単純協業を中軸とする種属的な本質をもった集団的生産様式は、その第二の形態である。マルクスは「未発達な封建制度の国やカスト制度の国」における農民について「ポリプのように地面にしがみついてたくさんの腕をもってはいるものの、それはもっぱら土地が生み出す果実を自分よりも上位の種属のためにつみとるためであって、自分自身はちりを食ってやっと生きながらえているような種属」と表現し、彼らの知っている平等は「ただ一つ、つまりある動物が自分と同じ特定の種に属する他の動物と等しいという平等であり、特定種のもののみが平等であるということだけであって、「類」の平等ではない」(①34)と述べたことがあるが、このマルクスの定式化は、土地にしがみついた人々、生きた「ポリプ」が自分たち自身を相互に一つの「種属」として編成している事情をよく示している。このような、平等は、前述のように、彼らが同一種の動物であるというレヴェルにおける平等、「相対的平等というあの原初の観念」(⑳107)である。そこに存在する平等は単純協業が動物的・生理的労働の動員を本質としていることに対応している。この意味で、「労働過程における協業は、人類文化の初期に、狩猟民族において、またはたとえばインド的共同体の農業において、支配的であるが、この協業は、一方では、生産諸条件の共同所有にもとづいており、他方では、一匹一匹のミツバチがその巣から切り離されていないことにもとづいている」(DKⅠ354)、「すべての文化民族の歴史の入口でみられるような、原生的形態にある共同労働をとってみよう。(中略)、(そこでは)個々人の労働が私的労働となることを妨げ、むしろ個々の労働を直接に社会有機体の一肢体の機能として現れさせるものは、生産の前提とされている共同体である」(⑬19)などといわれる事態は原始的社会に限られることではなく、程度の差はあれ、前資本制社会を貫通する現象であった。
 そして注意すべきなのは、この結合労働もその全体的な姿態としては、やはり一つの複合的な有用労働として機能することである。そこに自然力をあたえるのは、この群体の腕や足であり、有用的な目的意識性をあたえ、全体の活動を指揮するのは、この群体の頭脳・眼・神経系統である。つまり、「比較的大規模の直接に社会的または共同的な労働は、すべて多かれ少なかれ一つの指揮を必要とするのであるが、この指揮は、個別的諸活動の調和をもたらし、生産体総体の運動ーーその自立した器官の運動とは違うーーから生じる一般的諸機能を遂行する」(DKⅠ350、傍点筆者)というのはすべての生産に共通したことである。しかも、この指揮労働は「自然の機械」に対する「統御・調整・監督」と肉体的単純協業に対する「指揮・監督および調整」を自己のうちに統合しなければならない。そして、このような指揮労働と賦役労働の対立は、「社会的機能の独自化とその職務の世襲」という形で精神的労働と肉体的労働の対立と分裂を作り出すのである((20)185、傍点筆者)。もちろん、この「一般的諸機能」=「社会的機能」の担い手、いわゆる「首長」の社会的固定は、賦役仕事のもつ本質的な平等性の関係でストレートには進行しない。しかし、どのような程度のものであろうと、共同労働・単純協業が「共同の備蓄、いわば保険のために、また共同団体そのものの経費に充当するために、つまり戦争、祭祀等々のためになされ」、「もっとも本源的な意味での首長の財産管理権」が生まれるのは必然的である(DKV②121)。こうして、種属的単純協業の大規模化が、必然的に一個の「怪物」として集団の構成員の労働から、その「頭の労働」を吸い取っていき、それを「手足の労働」=生理的抽象労働に還元していくことになる。ここに労働の目的意識性と生理的性格、具体的有用労働と抽象的人間的労働の分裂、「精神的活動と物質的活動、享楽と労働の分離」(③28)の第二の形態が存在する。
Ⅲ本源的所有と共同体
1本源的所有の二側面と共同体の二重性
a家族制小生産様式と自然発生的集団主義
 以上、「すべての富の源泉、すなわち土地および労働者」(DKⅠ530)、つまり富の二大源泉としての対象的自然と主体的自然を順次に概観し、両者の本源的な結合、「生産手段と労働力との本源的統一」のあり方について、土地、「自然の機械」、利用価値・有用性と無用性、労働の具体的性格と生理的性格などの経済学的な範疇によりながら検討してきた。
 その最初の前提となったのは、本源的所有の第一の側面、単純な自然の個人的所有・占取の側面であった。つまり、対象的自然の側においては、有用的占取と土地区分の小規模性、主体的自然の側においては、労働過程の個人的な性格を前提として、土地=「自然の機械」のすみずみにまで入り込む家族制生産様式の「器用仕事」としての性格を論じてきた。しかし、分析の進展は、その内部に本源的所有の第二の側面、種属的・集団的な自然所有が存在することを照らし出すこととなった。つまり、対象的自然の側においては、土地の無用性が、それを占取する人々の労働を拘束・統合し、諸個人を同じ種属的・集団的な存在に還元し、それを通じて集団的所有が必然化されること、主体的自然の側においては、労働する主体の動物的・種属的諸関係が人々を統合し、家族的もしくは種属的な協業において彼らの労働が抽象的・生理的労働に還元されることが示された。本源的所有は自然の有用的占取を第一の側面とし、自然の無用性による諸個人の種属的集団への還元を第二の側面とするのであって、その意味で自然の有用性・無用性を独自に反映しているということになる。
 これを労働論の側からいえば、前資本制社会における労働の目的意識的性格は「器用仕事」から出発するが、家族的もしくは種属的な協業に対応して労働の目的意識性が特殊な有用的労働形態としての精神的な労働、指揮管理労働形態を生み出す。そして、この指揮管理労働は、第一に家族的労働にともなう奴隷などの人身的従属者に対する主人の指揮管理労働としてあらわれ、第二に集団的賦役労働における首長的な指揮労働としてあらわれることになる。こうして具体的有用労働はその目的意識性を精神的労働・指揮管理労働に発展させると同時に、家族的協業と首長的協業の指揮系統に自己を二重化し、それに対応して、抽象的労働も、奴隷をはらむ家族的労働と共同体的な単純協業に自己を二重化したということになる。その意味では具体的労働の目的意識的性格は、家族制生産様式の「器用仕事」に表現され、生理的労働の抽象的性格は、奴隷と首長制的な賦役に表現されるということになる。
 このように、本稿は、前資本制社会の分析においても、労働の二重性の範疇が重大な意味をもっているという視点にたち、しかもできる限りマルクスの文章に依拠して論述を展開するようにつとめたが、このような手法は、初歩的な仕事としてはどうしても必要なことであったと考えている。これがマルクス的な見解の大枠をとらえているかどうかは、読者の批判をえたいと思うが、ともかくも、こうして冒頭に述べた本源的所有の二つの側面、自然の単純な個人的所有・占取と種属的・集団的な所有をより厳密に経済学的で基礎的な範疇をもってあとづけると同時に、それに対応する社会的な労働と生産の様式として、家族制的な協業を組織した小生産様式と種属的な単純協業を組織した集団的な生産様式を確認することができたと考える。
 そこで、次に、ここから進んで、問題の本源的所有の二つの側面自身についてのマルクスの見解を検討し、さらに以上のような観点から「共同体の二重性」論の意味を確認していくこととしたい。
 さて、マルクスの『諸形態』(1857-58執筆)と『剰余価値学説史』(1861-63執筆)には、次のようなほぼ同趣旨の文章がある。
「(資本制生産の前提は)労働者を彼の自然の仕事場としての大地から切り離すこと、それゆえ東洋的共同体にもとづく共同体的な土地所有の解体ならびに自由な小土地所有の解体である。このどちらの形態においても、労働者は自分の労働の客体的諸条件にたいして、自分の所有物にたいする様態で関わるのであって、これこそ、労働とその物象的諸前提との自然的統一である。」(DKV②117)。
「労働者と労働条件との本源的統一には(労働者自身が客体的な労働条件に属している奴隷関係を別とすれば)二つの主要形態がある。すなわちアジア的共同体(自然発生的共産主義)とあれこれの形態での小さな家族農業(それには家庭工業が結びついている)とがそれである。この両形態は小児形態であって、両方とも、労働を社会的労働として発展させ社会的労働の生産力を発展させるには適していない。それだからこそ、労働と所有との分離、対立、切断の必然性があるのである。この切断の極端な形態、同時に社会的労働の生産力がもっとも強力に発展させられる形態は、資本の形態である。資本が創造する物質的基礎のうえに、そして、この創造の過程で労働者階級と全社会とが経験する諸革命によって、はじめて本源的統一は再建されるのである」(DKV⑧531)。
 『諸形態』の文章は、実はその冒頭の一節、この草稿の問題設定を行った冒頭の一節である。『剰余価値学説史』の文章が『諸形態』の検討結果をふまえて執筆されていることは明らかであろう。そして、この二つの文章で論じられている=「自由な小土地所有」=「あれこれの形態での小さな家族農業(それには家庭工業が結びついている)」なるものが、前資本制社会に一般的に存在した小農経営、前節までに検討してきた家族制小生産様式そのものにあたることも明らかである。
 問題は、「アジア的共同体(自然発生的共産主義)」=「東洋的共同体にもとづく共同体的な土地所有」なるものが何をを意味するかという点にあるが、「東洋的共同体にもとづく」というのは修飾語であって、ここでの重点は「共同体的な土地所有」一般にある*17。ようするに、『諸形態』の問題の一節は、資本制生産の前提は共同体的な土地所有と小規模な自由な土地所有の解体にあるあるという平明な事実を述べたものである。そして『剰余価値学説史』の一節も、本源的結合、その解体、本源的結合の新しい歴史的形態での復活というマルクスの議論の文脈*18の中で「アジア的共同体(自然発生的共産主義)」が主要な本源的な形態の一つとして述べられている以上、前資本制社会に一般的な特徴を述べたものなのである。マルクスが「アジア的共同体」を「自然発生的共産主義」と注釈しているのは、それがかならずしも具体的な地理的「アジア」のみを意味しているのではないことを示唆している*19。
 それはマルクスが『諸形態』において、アジア的・ギリシャローマ的・ゲルマン的所有を一応検討したのちに、ふたたび同じ一般論に立ち戻って「(本源的形態は)すべて何らかの共同体組織を前提しているのであって、その成員たちは、たとえ彼らのあいだに形式的な区別はあるとしても、共同体組織の成員として所有者なのである。それゆえこの所有の本源的形態は、それ事態が直接的な共同所有である([つまり]東洋的形態[がそうであり]、スラヴ的形態では変形を蒙っている。古代的所有およびゲルマン的所有では対立物にまで発展するが、しかしやはりまだ対立的ではあっても隠れた基礎として本源的形態が存在している)」(DKV②152)としていることからもわかる。ここでも東洋的形態は本源的形態の典型例としてあげられているのであって、その他の共同体所有も基本的には「東洋的共同体にもとづく」、それを「隠れた基礎」としているものとしてとらえられているのである。
b共同体の固有の弁証法・二重性
 そもそも、草稿『資本主義的生産に先行する諸形態』は、全体として、この本源的所有の二側面、あるいは「共同体的な土地所有」と「自由な小土地所有」の歴史的連関を、アジア的土地所有、ローマ的土地所有、ゲルマン的土地所有などとして分析しようとしたものである。それはマルクスが共同体的所有の歴史的諸形態に共通する特徴を次のように概括していることにあらわれている。
「所有物にたいする様態での大地にたいする関わりは、つねに、なんらかの多かれ少なかれ自然生的な、あるいはすでに歴史的にさらに発展した形態にある部族、共同体が、平和的ないし強力的に土地を占拠することによって媒介されているのである。ここでは諸個人が、彼が単なる自由な労働者として現れるときのような点的存在として登場することはけっしてありえない。彼の労働のための客体的条件が彼のものとして前提されている一方で、彼自身はなんらかの共同体の成員として、主体として前提されており、土地にたいする彼の関係はこの共同体によって媒介されている。労働の客体的諸条件にたいする彼の連関は、共同体成員としての彼の定在によって媒介されており、他方で、共同体の現実の定在は、労働の客体的条件にたいする彼の特定の形態によって規定されている」(DKV②134)。
 つまり、ここで問題になっているのは、「労働のための客体的条件が彼のものとして前提される」個人的所有と「共同体成員としての彼の定在によって媒介されている所有」=共同体所有の相互関係である。マルクスは、これに続いてアジア的土地所有、ローマ的土地所有、ゲルマン的土地所有の歴史的特徴を概括し、それを共同体所有が直接の共同所有であって個々人は占有者(あるいは共同所有者の分身)でしかない場合(アジア的形態)、共同体所有が都市的国家所有であり、その国家市民が国家市民としての資格において私的所有者である場合(ローマ的形態)、共同体所有が個人的所有の補完物であり、個人的所有が土台となっている場合(ゲルマン的形態)として再確認しているが、その区別の基準が、共同体所有と個人的所有の関係形態によっていることは明らかである。右に引き続いて、マルクスが「個々人が共同体にたいする自分の関係を変化させれば、そのことによって彼は、共同体をもそれの経済的前提をも変化させ、それらに破壊的に作用するが、他方で、この経済的前提の変化は、その固有の弁証法によって、(個々人の側にー筆者注)窮乏化等々をもたらす。とくに軍事と征服との影響は、共同体の基礎となっている現実の紐帯を止揚する」(DKV②135、傍点筆者)と述べていることも、マルクスが共同体をつらぬく矛盾を個人的所有と共同体所有の矛盾においていたことを明示している。
 そして、この「固有の弁証法」なるものが、後年のマルクスが、有名な「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」の次の一節において述べた「共同体の二重性」という議論に直結することはいうまでもない。
「一方では、共有財産とそれから生じるすべての社会関係とがその基礎を強固にすると同時に、私有の家屋と耕地の分割耕作と成果の私的占有とが、より原始的な共同社会の諸条件とは両立しない個性の発展を可能にする。けれども、この同じ二重性が、時のたつにつれて解体の一つの源泉になりうるということも、それにおとらず明らかである。敵対的な諸環境からのすべての影響を別としても、家畜の形での富に始まる(そして、農奴の形での富をも可能にする)動産的富の漸次的蓄積の一事、さらにこの動産的要素が農業そのもののなかで果たすますます顕著な役割、この蓄積と不可分である他の多くの諸事情、これらすべてのことが、経済的および社会的平等を解体するものとして作用し、共同体の内部に利害の衝突をおこさせる。この衝突は、まず耕地が私有財産に転化することにはじまり、すでに私有財産の共同体的付属物になっている森林、牧地、荒蕪地などまでもの私的占有にいたるのである。こういうわけで、『農耕共同体』はどこでも社会の原古的構成の最近の型として現れるのであり、また古代および近代の西ヨーロッパの歴史的運動においては、農耕共同体の時期は、共同所有から私的所有への過渡期として、第一次的構成から第二次的構成への過渡期として現れるのである。けれども、このことは、どんな事情のもとでも[そしてどんな歴史的環境のもとにあっても]『農耕共同体』の発展はこの道をたどらなければならないということを意味するのであろうか。けっしてそうではない。農耕共同体の構造上の形態は、次の二者択一を許している。すなわち、『農耕共同体』にふくまれている私的所有の要素が集団的要素に打ち勝つか、それとも後者が前者に打ち勝つか。すべては、それがおかれている歴史的環境に依存する」(⑲390)。
 つまり、共同体の「固有の二重性」とは、「私有の家屋と耕地の分割耕作と成果の私的占有」を拠点とする「個性」・富の蓄積などの私的要素と、共同体の社会的基盤を強固にする「原始的な」「経済的および社会的平等」性、集団的要素の二重性を意味する。もちろん、ここでいう『農耕共同体』とは、マルクスの見方では無階級的な「原始的社会構成」の最新の段階、「最後のことば」(⑲406)を意味するが、しかし、マルクスも、ヨーロッパ封建社会における「新しい共同体ー耕地は耕作者の私的所有となっているが、同時にまた森林や牧地や荒廃地などは依然として共同所有のままになっているこの共同体は、ゲルマン人によって、その征服したすべての国々に導入された。自己の原型からうけついだ諸性格のおかげで、この共同体は、全中世をつうじて、自由と人民生活の唯一のかまど(根元)となった」(⑲405)と述べているように、共同体の二重性という矛盾自身は前資本制社会を通じて執拗に持続したのである。
2共同体の平等性と自然
 以上のようにして、マルクスのいう「共同体の二重性」なるシェーマは、本源的所有の第一の側面、個人的な自然の有用的占取を表現する家族制生産様式と、その第二の側面、種属的・集団的な自然所有を表現する自然発生的集団主義が、共同体における私的要素と集団的要素として、共同体の内部に二元的な矛盾をもたらすということであった。前述のように、本源的所有は自然の有用的占取を第一の側面とし、自然の無用性による諸個人の種属的集団への還元を第二の側面とし、つまり自然の有用性・無用性を独自に反映していたから、その意味では、共同体の二重性は自然の有用性と無用性の矛盾を反映しているということになる。共同体は、自然の有用性と無用性の矛盾、つまり前資本制的な生産の根本的矛盾を、自己の内部的な矛盾とし、それを自己を突き動かすエネルギーとしていたのである。こうして、おおざっぱにいえば、自然の有用性と無用性ーー具体的有用労働と抽象的生理的労働ーー家族制生産様式と自然発生的集団主義ーー共同体の二重性ーー共同体の私的利害・私的要素と共同的利害・集団的要素の二重性という形で、本源的所有の世界における自然と人間の矛盾は連鎖的に展開しているのである。そして、本稿冒頭に確認したように、本源的所有、本源的結合は、前資本制的な階級的社会、階級的な支配構造をもった社会の中において持続的な位置をもっていた以上、これは基本的には前資本制社会通有の矛盾の展開のあり方と考えなければならない。
 マルクスの「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」は「経済的および社会的平等」の集団的諸関係と集団的利害が根強く長期にわたって続くこと、それ故に共同体の二重性が機能し続けることを強調している。もちろん、この二重性を単純化してとらえてはならない。共同体の経済的な基礎は、社会が複雑化すればするほど、また別稿において後に検討するような支配隷属関係が社会的に発展すればするほど単純ではなくなるのであって、この点は歴史学的な議論にとってはとくに重要である。共同体は、私的関係と集団的関係がせめぎあう場である。そこでは、私的利害と共同的利害、私的関係と集団的関係はふかくからまりあっており、両者が純粋な形で弁別できるようなかたちで分離して存在している訳ではない。たとえば、そこでは個別家族の相互関係は小規模な共同労働をうみだすし、また集団的な単純協業は現実には個別家族内部の家族的協業や個別家族相互の共同労働を吸収して機能している。私的関係が相互に広がることによって集団的関係を生みだし、集団的関係も私的に組織される。単純協業にたいする首長による指揮労働は、社会的に固定された姿態をとらず、むしろ臨時的・一時的な存在で終わることの方が一般的である。共同労働の形態をかならず全村規模の単純協業とすることもできないのであって、むしろそれは個別家族相互の隣人関係や親族的関係を媒介にした臨時的な労働交換・労働徴募によって行われる。そもそも家族制小生産と単純協業が個別の共同体の内部で自足的に関係しているということもできないのであって、家族制小生産体が集落をこえたレヴェルの経済活動の領域をもったり、単純協業が集落をこえた範囲で組織されることもしばしばである*20。「村落」は、それ自体さまざまな範囲で成立しうるのであって、「村落」を措定すること自身がしばしば困難であり、諸種の土地区分も「族群」帰属も境界をこえて広がり、あるいは複数の村落に両属する。自然の占有においても、「類」帰属の現実においても、共同体の網の目の広さ・形状・濃淡は実にさまざまである。それらの多様な社会的・経済的関係が先行し、家族や共同体はその後に境界づけられるのである。
 しかし、そうであったとしても、前述のような自然の無用性を背景とした諸個人の種属的集団への還元は、共同体の最深部に、自然発生的集団主義を維持し続けるのである。この点で、若きマルクスが『ライン新聞』の編集者として山林入会権について論じた論文の、次に引用する一節は注目すべきものである*21。
「自然そのものが、有機的生命から切りはなされ折りとられてひからびている小枝や細枝と、しっかり根をはって、空気や光、水、土壌をば有機的に自分の姿と固体的生命とに同化しつつある汁液にみちた樹木や幹、との対立という形で、いわば貧富の対立をあらわしている。これは貧富の自然的表現である。貧しい人々は、人間界と自然界とがこのようにきわめて類似していると感じ、そしてこの感覚から自分たちの所有権を導きだす。それゆえ彼らは、自然的・有機的な富は権謀術策に富む財産所有者のものとして承認するが、自然界の貧困(枯枝など)は、彼らの欲求とその偶然との手にかえせ、と要求するのである。彼らは、自然力のこのはたらきのなかに、人間的な力よりもいっそう本源的に人道的な親しみやすい力を感じる。特権者たちの偶然的な恣意にかわって、自然力の偶然があらわれている。この自然力は、私有財産がもはや手放さないものを、私有財産から引きはなすのである。路上に投げられる施し物は、富者が拾い上げるべきものではないと同じように、この自然の施し物も富者のうけとるべきものではない。しかしまた貧者は、彼らの行動のなかにすでに自分たちの権利を見いだしている。枯れ枝あつめにおいて、人間社会における根元的・自然的な階級が、同じく根源的な自然力の産物とぴったり対応しあっているのである。同じことは、自然に成長するにまかされて、土地財産のまったく偶然的な属性をなしているにすぎず、まさにあまり重要性をもたないために本来の所有者の活動対象にはならないような生産物についてもいえる。また落ち穂拾い、二番刈り、およびこれに類する慣習上の権利についても事情は同じである。したがって、貧民階級のこれらの慣習の中には本能的な権利感覚が生きており、その慣習の根源は確固として正当なものである」(①138)。
 枯れ枝において現れるような「自然界の貧困」「自然力の偶然」、つまり自然の無用性・無縁性は「私有財産がもはや手放さないものを、私有財産から引きはなす」平等な力をもっているのであって、その面ではそれは「本源的に人道的な親しみやすい力」として、共同体の平等性の最後の基礎となる。もちろん、森林も河海も、徐々に私的・有用的な占取に分割されるが、しかし、共同体の領有する自然には、『諸形態』もいうように、「公有地、共同体の土地が、すなわち個々人の所有とは区別される入会地が見いだされる。それは狩猟、牧草、採木、等々の用地であって、この特定の形態で生産手段として役立てようとすれば分割することができない部分の土地である」(DKV②131)。このような事情を具体的に論じることは、ここでの問題ではないが、しかし、事情は、世界各地でみられる開放耕地制=刈跡放牧などでも同じであって、冬季の農作地は「生産手段として役立てようとすれば分割することができない土地」、あるいは「あまり重要性をもたないために本来の所有者の活動対象にはならない」土地として、共同的領有に戻るのである。
 これに対して自然の有機的な富は私的所有の対象となるのであって、こうして、「有機的生命から切りはなされ折りとられてひからびている小枝や細枝」と「しっかり根をはって、空気や光、水、土壌をば有機的に自分の姿と固体的生命とに同化しつつある汁液にみちた樹木や幹」の対照は「貧富の自然的表現」となる。これはそもそも前述のように、土地の「富」が自然的なものであったことと関係している。つまり、「農業では、大地が、その化学的等々の作用においてそれ自身すでに一つの機械である。この機械は直接的労働をより生産的にし、したがってまたより早くから剰余を与える」(DKV②301)。「富の最初の原生的な形態は過剰または余剰という形態であり、生産物のうち利用価値としては直接に必要とされない部分であり、あるいはまたその利用価値がたんなる必需品の範囲をこえるような生産物の所有である」(⑬106)。「農業労働の生産性は自然的諸条件と結びついており、その生産性の程度に応じて、同じ分量の労働が多量のまたは少量の諸生産物・諸利用価値に現れる」(DKⅢ825)。このような諸事情、土地の位置と豊度の自然的な相違、災害その他の無用性の発動という条件の中で、「富」そして「貧困」は諸個人の間に自然的に偏在するのである。マルクスが「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」において「共同体の成員たちは、地代論の研究をしたことはないが、同一量の労働が自然的豊度と位置の異なるさまざまな畑に支出される場合、さまざまに異なる収穫をあげるということ」(⑲409)を知っていたと述べたのは、以上をふまえたものであったことはいうまでもない。このような彼らの占有する自然の相違性は個々の家族制生産体に異なる利害をもたらし、それがさらに動産の蓄積などとむすびついて私的な富、自然的な富をもたらし、私的利害関係を拡大するというのが、「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」がもっている論理なのである。若きマルクスの観点は、平等性と共同利害の側面においても富と私的利害の側面においても、『諸形態』を執筆した壮年、そして「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」を執筆した晩年にいたるまで驚くべきレヴェルで一貫していたように思われる。
 こうして「共同体の二重性」は、前資本制的な生産の根本的な矛盾の基底に存在する自然の有用性と無縁・無用性の矛盾の社会的な表現であったということができる。続稿における社会構成全体を視野に入れた分析は、この自然的な「富」の蓄積が、どのように社会的に固定され、拡大されるかを論じることになるが、ともかくも、そのような段階においても、共同体の中には「自然界の貧困(枯枝など)」「落ち穂拾い、二番刈り、およびこれに類する慣習上の権利」に対する本能的な権利感覚が生きつづけ、「根元的・自然的な階級が、同じく根源的な自然力の産物とぴったりと対応して」、「自然的・有機的な富」=私的所有にたいする異議を維持しつづけるのである。
 おわりに
 小谷汪之が明らかにしたように、マルクス(およびエンゲルス)の「アジア的生産様式」に関する見解には、すくなくとも一九世紀アジアに土地を共同所有する本源的な共同社会の存在を想定することによって、アジア社会を原始以来の持続という論理の枠内でとらえる結果におちいったという点で、大きな問題があった*22。
 しかし、小谷が同時に強調しているように、晩年のマルクスが「土地の共同所有」の意義を高く評価するという「価値的座標」にたって、土地の私的所有を歴史の発展的契機一般と等置することはせず、むしろ「文明の基礎としての土地所有」という観点には批判的であったこと((32)535)、そういう立場から資本主義的強国の「文化破壊行為」(vandalisme)を強烈に批判し、十九世紀のオリエンタリズムとは明瞭な一線を画していたことの意味も決定的である。これについて小谷はマルクスが「土地の共同所有」の意義を高く評価するという「価値的座標」に到達したのは晩年のことであるが、ぎゃくにそれ故にこそ、この「事実誤認の上にたつ近代批判」が大きな意味をもったと評価している。この評価は、右の『ライン新聞』の論説が明示するように、この「価値的座標」がマルクス本来のものであった以上、もう一度再検討されねばならないであろうが、ともあれ、マルクスが、「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」において「さまざまな原始的共同社会の生命力は、セム人、ギリシャ人、ローマ人などの社会のそれよりも、まして近代資本主義諸社会のそれよりも、比較にならないほど大きかった」(⑲388)と述べていること自身、つまり前資本制社会の基礎に本源的な所有の構造、それ故に共同体の二重性の運動の持続を想定し、その一面をなす「自然発生的共産主義」が人類史的な持続性をもって展開し、「自由と人民生活の唯一のかまど(根元)」(⑲405)となっていたと評価したこと、それ自体の意味は否定しがたい。
 また、マルクスの「アジア的生産様式」論には、本源的所有の集団的側面、共同体的所有の側面を基礎にして社会的な支配隷属関係が構成されることがありうるということを示している点でも、現在に引き継がれるべき論点がはらまれている。これについては別稿でふれることになるが、日本の前資本制社会研究の理論史において、これと関わって想起すべきなのは、かって戸田芳実が、従来の歴史理論研究は「集団所有をもっぱら非階級的な共同体に結びつけ、私的所有をもっぱら階級関係にむすびつけることによって前資本制的所有の二側面を分離する傾向が強かった」と指摘しつつ、「奴隷制規定や封建制規定の枠をこえた『前資本制』『所有の本源的形態』と『派生的形態』、『民族』などの論点」の追究の必要を強調し、「アジア的社会構成における所有の性格は、集団所有の側面が優越し、それに規定された階級的所有形態という点にその特質がある」と述べたことである*23。もちろん、現在の段階でマルクスのアジア的生産様式論をそのまま引き継ぐわけには行かないが、しかし、国家的・集団的な所有を中軸として存在していた二〇世紀の自称社会主義を眼前にした現在では、ぎゃくに、マルクスの「アジア的生産様式論」の復活が必要なのではないかとさえ思われるのである。
 それ故に、彼らの「アジア論」の偏向は、彼らの視角と方法の問題というよりも、まずは彼らの世界史の知識が何といっても地中海・ヨーロッパ中心であり、本当の意味での世界史の構想が不可能であったためであると考えるべきであろう。彼らは資本の本源的蓄積の過程においてヨーロッパと他の世界の関連が決定的な位置をしめたことをよく知っていたが、グローバルな世界史的連関を一五世紀の「地理上の発見」以前の時代に構想するための学問的・史料的素材をもっていなかった。彼らは、ほぼ一三世紀頃から、世界史が新しい時代に突入し、近世の時代(early modern)が始まっていたことを認識できなかった。この時代は、それまでの中世の世界史の構造を改変し、どの地域においても商品生産と国際関係の意味が高くなっていく時代、モンゴルの大帝国がユーラシアをおおい、同時にユーラシア・東南アジア・アフリカが海路を通じて連接した時代である。この世界史上の近世は一八世紀のフランス革命まで続いたと考えことができるが、現在では、どのように凡庸な歴史学者であっても、ヨーロッパ近世が資本主義へむかう過程は、そもそも中世末から近世にいたる時代全体の世界史的な相互的影響なしには存在しえなかったことを知っている*24。
 そのような仮定は本来成り立つものではないが、もし、必要にして十分な世界史の知識をマルクス・エンゲルスがもっていたとすれば、彼らは広大なユーラシアに広がった社会構成をアジア的社会構成の一語で処理するようなことはしなかったろう。私は、例の有名な「アジア的・古典古代的・封建的・近代ブルジョア的」の四種類の社会構成体の累進的発展なる「経済学批判序言」のテーゼも、あくまでも試論的なものであって、十分な条件さえあれば、彼らは世界史における社会構成をより無限に多様なものとしてとらえたに違いないと考えている。
 ともあれ、以上をふまえると、マルクスによるアジア的な共同体所有の規定、たとえば「共同体のなかに定在することによって媒介されるこの所有が共同所有としてあらわれ、個々人は占有者でしかなく、土地の私的占有はないという形態」(DKV②135 )、「所有のいかなる部分も、個々の成員に属するのではなくて、共同体の直接的分肢としての成員に、つまりそれと直接に一体となっており、それと区別されないものとしての成員に属するものだからである」(DKV②126 )などという規定は、本当の意味で原始的な共同体には成立するとしても、文明期の「アジア」のどこにおいても成立しがたいものであることは明らかであろう。マルクスは、「東洋的専制主義の、また法制的にはそこに存在するようにみえる所有欠如のまっただなかに、実際には、こうした部族所有または共同体所有が、基礎として存在しているのである」(DKV②120)と述べているが、その言い方をかりれば、むしろ、「東洋的専制主義の基礎に存在するようにみえる部族所有または共同体所有は、実際には、きわめて発達した国家的な支配と所有の特殊な反映形態なのである」といえるのではないだろうか。広大なユーラシアに存在した共同体所有の諸形態を「アジア的所有」として一括し、それをそのまま原始以来の共同体ととらえ、そこを起点としてアジア的社会構成なる範疇を作り上げたことは、やはり小谷のいうようにマルクスの事実誤認であったというほかないのである。
 そもそも、「共同体」とは、それ自体として物質的な経済的関係であるのではなく、政治的・イデオロギー的な諸関係をもふくんで存在する具体的な社会関係である。マルクスにおいても「共同体」のカテゴリーはそのようなものであって、たとえば、『諸形態』におけるさまざまな歴史的な共同体に関する特徴付けをみてみると、アジア的共同体は「小さな共同体組織の上にたつ総括的統一体が上位の所有者として、または唯一の所有者として現れ、したがって現実の諸共同体は、世襲的な占有者としてしか現れない」(DKV②120)と規定され、ローマ的共同体は「事実上国家、国家制度として存在」し(DKV②131)、「なによりもまず軍事的に組織されているのであり」「居住地を都市に集中することが、この軍事的な組織の基礎である」(DKV②123)とされている。そしてゲルマン的共同体は「経済的完結体」ではなく(DKV②132)、「ただ共通の諸目的のために開かれる、それの現実の集会(DKV②133)」であるという。さらにマルクスが社会構成体の概念それ事態を「生産関係そのものから発生する経済的共同体の全姿容、それと同時に、この共同体の独自の政治的姿態」とも説明しているように、国家とそれに総括された社会と民族それ自身さえも一種の大規模な共同体として存在しうるのである(DKⅢ(799))。共同体とは、「家父長制家族の形態をとっていようと、古インド的共同体の形態をとっていようと、インカ国家などの形態をとっていようと」(DKⅠ(102)、特定の地理的・自然的条件によって分節された共同利害をもった単位社会を表現する包含的範疇である。
 共同体の具体的形態は都市や国家、そして政治的・イデオロギー的・政治的・軍事的な諸関係などの具体的な国家的・社会的関係の規定性の中で分析されるべき問題なのである。マルクスが『諸形態』において、共同体とその土地所有の形態は、自然的・経済的諸条件のみでなく、さらに「敵対諸部族にたいする関わり」「移動、歴史的経験などがもたらすもろもろの変化」によって規定されているといい、また「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」において、「農業共同体のなかにふくまれている私的所有の要素が集団的要素に打ち勝つか、それとも後者が前者に打ち勝つか。すべては、それがおかれている歴史的環境に依存する」(⑲386-391)と述べていることの意味は、ここに求めなければならない。つまり、共同体の歴史的形態は、たしかに共同体の二重性を起点として形成されるのではあるが、共同体内部で経済的に自己決定され、そこを起点として「自己転変」していくようなものではなく、社会構成の中軸をなす所有構造全体、そして歴史的な経過と環境それ自身によって重層的に何度も逆規定される。共同体の具体的な歴史的形態は社会構成体の全体的性格の究明の不可分の一部として論じられなければならないのである。そもそも社会をつらぬく現実的な所有関係とは、つねにそのようなものではないだろうか。「社会的・集団的所有」とその「対立物としての私的所有」は両者とも、その所有者が「労働者であるか非労働者であるかに応じて」(DKⅠ一二九七㌻)、つねに社会的・階級的対抗をはらむのであって、その対抗関係の歴史的動態ぬきに社会構成を把握できないことは明らかである*25。そうではなく、万が一にも、異なる社会構成からその自己転変のキーとして「共同体類型」を抽出し、そのような抽象にもとづいた社会関係の比較史論を、そのままの形で展開するならば*26、それは、必然的に共同体論を、いわゆるオリエンタリズムや「日本文化論」などの非歴史的な類型論に陥れることになるだろう。
{注記}本稿でのマルクス・エンゲルスの著作の引用は、大月書店版全集におさめられているものは、その巻数と頁数のみを付記した。ただし、『資本論』はDKとして巻数とディーツ版の頁数を付し、MEGAの『資本論草稿集』(『剰余価値学説史』をふくむ)については、DKVとして大月書店版の巻数と頁数を付記した。なお、本文の文脈中に引用したこともあって、訳文はかならずしもこれらの版によっていない。
*1「Gebrauchswert」「Use-value」は、一般に使用価値と翻訳されるが、本稿では川島武宜『所有権法の理論』(岩波書店、1949、111頁)における「利用価値」という訳語を採用する(あるいは効用価値でもよいと考える)。利用価値という訳語は、使用価値という言葉が、目的意識性というよりも、むしろ「物」の物的使用のみを印象させ、それを経済学の外側の問題として処理する傾向をもたらすのに対して、より一般的に物や人間自身の有用性・効用や労働の目的意識性を含意させることが可能な適訳である。この訳語問題が、いわゆる「マルクス経済学」における「使用価値ではなく、交換価値だけが経済学の対象だという誤解」(内田義彦『資本論の世界』岩波書店、1966)の一つの根にあるように思う。また、私は利用価値ー具体的有用労働ー労働の目的意識性ー目的定立的精神労働という連関を設定することがきわめて重要であり、その文脈でも使用価値という訳語は適当でないと考えている。なお、川島のこの訳語は、川島がマルクスの価値論の一源泉であるへーゲル法哲学に依拠していることと関係すると思われる。
*2この「本源的結合」の問題については、中村哲『奴隷制・農奴制の理論』(東京大学出版会、1977)参照。
*3この『家族・私有財産・国家の起源』序文の一節についての議論状況は、C・メイヤスー『家族制共同体の理論』筑摩書房、川田順造・原口武彦訳、1977(原著”Femmes,greniers,& capitaux”、マスペロ社)を参照。なお本文の「性的紐帯」の部分の原語はGeschlechtsbandeである。これは、普通、「血縁の紐帯」と翻訳されるが、この用語は親族的な社会組織そのもののニュアンスを含んでいる。むしろ、人間的自然の社会関係に対する自然規定性を示す即物的な翻訳が適当である。
*4マルクスは『資本論』段階まで「Gattung」という用語をきわめて重要な範疇として使用し続けた。マルクスはヘーゲル・フォイエルバッハ的な「類」という哲学用語を、しばしば「種属」という現実的範疇としても使用している。初期マルクスにおける類概念の全体については山本広太郎『差異とマルクス』(青木書店、一九八五年)、またこの「類」という用語がヘーゲルの生命過程論に根をもつことについては、角田修一「ヘーゲル生命論と初期マルクス」(同『生活様式の経済学』青木書店、1992)を参照。『経済学・哲学手稿』は、この「類」「種属」概念の駆使こそが、マルクスの経済学研究、とくにその労働論にもっとも強力な拠点をあたえ、後における抽象的人間労働の概念の原型を作り出したことを示している。その際に重要であったのは、ヘーゲル・フォイエルバッハのみでなく、A・スミスの「種」の概念であり(『諸国民の富』第一編第二章)、マルクスは三者を総合するなかで「類」「種属」概念を自己の用語として確定した。
*5土地範疇については大塚久雄『共同体の基礎理論』(著作集⑦、岩波書店)を参照。ただし、大塚には自然の無用性・拘束性や土地=「自然の機械」などという土地の自然としての性格にふみこんだ分析はない。
*6なお、「自然の機械」という規定は、労働内容が「抽出的なもの」「地球から利用価値を分離するだけ」という性格をもった現代以前の農業ではなく、労働が「形態付与的なもの」「利用価値に形態を与える」(DMV②590)ようになった農業、つまり自然の生態系の内部に踏み込む新たな有用性の形態を創出し、自然的には存在しない品種の創出、土壌の化学的その他の改良、ようするに自然を科学的に支配するようになった現代的農業には全面的には十分な形では適用できない。それはすでに「自然によって整えられた機械」ではなく、人間によって整えられた「自然の機械」である。ここに現代の環境問題の起点があることはいうまでもない。
*7なおアルフレート・シュミットは、単純な自然回帰のイデオロギーに対して「原始人にとっては、必要なものは自然の自由な賜物としてあたえられるというのは、馬鹿げたおとぎ話である。黄金時代などかって存在せず、原始人は文字どおり、生存の諸困難、自然とのたたかいの諸困難の重圧のもとにうめき苦るしんだのである」というレーニンの『農業問題と「マルクス批判家」』(国民文庫、一二㌻)の一節を引用して批判的に論じている(『マルクスの自然概念』(法政大学出版局、1972、173頁)。
*8なお、関連する注記(DKⅠ195)にあるように、労働の目的意識性論は、ヘーゲルによっている。ヘーゲルの労働論とマルクスのそれとの関係については、前掲アルフレート・シュミット著書を参照。
*9ヨハン・モスト原著、カール・マルクス改訂『資本論入門』(岩波書店、1986)6頁。この一節はマルクスの改訂部分である。なお、この部分はアダム・スミス『諸国民の富』第一編第一章のほぼ同様の叙述によっている。
*10マルクスは『経済学哲学草稿』の同じ箇所で「一つの動物種のいろいろ違った種族の特殊な属性は生来、人間的な素質や活動の差異性よりも截然たるものがある。しかし、動物は交換する能力がないために、どの動物個体にとっても、同一種ではあるが、異なった種族の動物の別な属性が役立たない。(中略)彼らは自分の種の共同的な利益と便宜のためになにひとつ寄与しえない。人間はこれとは違って、きわめて相違した諸々の才能や活動様式がお互いに役立ちあう」としている。なお、この部分はルクスによるアダム・スミス『諸国民の富』第一編第二章の議論の要約であるが、同じ『草稿』において人間の類的な存在の仕方について「類に対しては彼自身の本質に対するように、あるいは自己に対しては類的存在にたいしてのようにふるまう」、「動物はただ、それが所属する種の尺度と要求にしたがって形作るにすぎない、ところが人間はあらゆる種の尺度にしたがって生産するすべを知っている」((40)437)などとほぼ同趣旨のことを述べている。
*11本稿では、マルクスのこの文章を家父長制規定を捨象して、いわば「対偶家族」の描写として使用している。なおこの「田舎風の」という言葉はしばしば「素朴な」と訳されているが、その訳は「家父長制」が素朴なものであるという神話を表現しかねない。字義通りに「田舎風」と訳すべきであろう。このような家父長制的勤労についてマルクスはいくつかの例示的な文章を残しているが、詳細なものとしてはドゥガルド・ステュアートよりの引用がある(DKⅠ513)。
*12前掲、モスト原著、マルクス改訂『資本論入門』(岩波書店、1986)六㌻
*13前掲、モスト原著、マルクス改訂『資本論入門』(岩波書店、1986)六㌻
*14なお、このような奴隷関係の労働論的・分業論的性格は、きわめて重要なので、その原型がヘーゲルの労働論における「主」と「僕」の隷属関係の弁証法に示されていることを確認しておきたい。それによれば、隷属とは、「僕」が主人の非有機的な身体として「物一般と結合されていることを本質とするような意識」であるのに対して、「主」が、「物と自分との間に僕を押しこみ、そのことによって物の非自立性と結びつくだけで、物をひたすら享楽するが、物の自立性の面は物にはたらきかける僕にまかせてしまう」( ヘーゲル『精神現象学』「自己意識、主と僕」)ことである。ここでいう「物の自立性」とは、本稿の用語でいえば自然の客体性=無用性を意味し、逆に「物の非自立性」とは自然の主観性=有用性を意味する。つまり、ここでいわれているのは、「僕」は自然の無用性をあてがわれ、本来自己のものである合目的的な対象形成力(素材を形態転換する「熟練」)を収奪され、具体的な有用性=使用価値の「享楽」が主人のものとしてあらわれるということである。「主ー僕」の関係において肉体労働と精神労働の対立の原型、「享楽と労働」の関係が確認されているのである。『ドイツイデオロギー』の「分業とともに、精神的活動と物質的活動、享受と労働、生産と消費とが別々の個人のものになる可能性が、それどころか現実性があたえられている」(③28)という一節は、これを直接にうけたものだろう。ヘーゲルの社会的分業論がマルクス・エンゲルスが『ドイツイデオロギー』で展開した議論の前提となっていることは、『法の哲学』§198などで明らかである。なお、周知のようにマルクスは『資本論』の労働地代の項において、(労働地代に必要なのは)「人身的隷属関係、程度はどのようなものであれ人身的不自由、および土地の付属物としての、土地への緊縛、本来の意味での隷属である」(DKⅢ799)としているが、この「土地の付属物、土地への緊縛、本来の意味での隷属」という用語も、上記のようなヘーゲルの「物一般と結合されていることを本質とするような意識」という規定を直接にうけたものであろう。この「本来の意味での隷属」という言葉は、「ヘーゲルのいう意味での隷属」と読み替えて解釈すべきことになる。これについては、予定された別稿において詳説する。
*15社会的分業と精神労働・肉体労働の問題について全面的に取り扱うのは、予定された別稿の課題となる。なお、内田義彦は「マルクスは、目的定立をし、自分の目的に従って労働の過程を指揮する営みを精神労働、それに従って神経や筋肉を動かす仕事を肉体労働と名づけています」(前掲書)としている。この指摘はきわめて重要であるが、内田は実質上、有用労働と抽象労働の二重性を精神労働と肉体労働の二重性と等置しており、前者から後者を展開する方法を述べていない。本稿は、この指摘を検討するための前提となるはずである。
*16また「もし労働者が、彼自身と彼の種属の維持に必要な生活手段を生産するために彼のすべての時間を用いるとすれば」ともある(DKⅠ五三五㌻、上八七二㌻)。「労働者の諸要求とは、国民経済学にとってはただ、労働者を労働しているあいだじゅう養う必要、しかも労働種族が死に絶えないようにという限りで養う必要でしかない」((40)444)という『経済学哲学草稿』の一節も参照。「労働者という種属(genus)」という言い方もある(DKV①342)。
*17これまでの一般的な解釈では、この「東洋的共同体にもとづく共同体的な土地所有」はアジアに存在する共同体あるいは共同体的な土地所有という意味にとられている。たとえば小林良正『アジア的生産様式研究』(大月書店、1970、49頁)、望月清司『マルクス歴史理論の研究』(岩波書店、1973、422頁)、中村哲『奴隷制・農奴制の理論』(18頁)など。しかし、この部分は、大野節夫『生産様式と所有の理論』(青木書店、一九七九年、260頁)も述べるように、「共同体的生産と小生産」という前資本制的な所有、本源的結合の一般的特徴とみるべきであろう。
*18参照。前掲、中村哲『奴隷制・農奴制の理論』
*19なおこの用語は、「自然発生的な共産主義(インドなど)」という形でも言及されている(29-247)。エンゲルスも「共同体共産主義、原始的共産主義」((36)99)という言葉で同じ問題を表現している。
*20このような点を確認しておくことが歴史学的な共同体論にとって必須である事情は、黒田俊雄「中世村落史研究と村落共同体の理論」(『黒田俊雄著作集』6、法蔵館)を参照。この論文は大塚久雄『共同体の基礎理論』に対する日本史学からの批判として重要な位置をもっている。
*21なお、この文章は、網野善彦による無縁という問題提起に密接に関係するものである(増補『無縁・公界・楽』平凡社、1987)。網野の見解は、自然の無用性・無縁性の理解それ自身についてもさまざまな問題点をはらむ未成のものであるが(私見は「網野善彦氏の『非農業民と天皇』論について」『日本史研究』300号を参照)、しかし、それがマルクスの見解の枢要な一部を正しくとらえていることは疑いない。
*22小谷汪之『共同体と近代』(青木書店、1982)。なお小谷『マルクスとアジア』(青木書店、1979)も参照。本稿は「共同体の二重性論」自身を否定または無視する(それゆえにこの概念を基礎とする大塚久雄の理論の意味をほぼ全面的に否定する)小谷の方法的観点には承伏できない部分を残すが、右の小谷の指摘が決定的な意味をもっていることは明らかである。
*23戸田芳実「アジア史研究の課題」(同『日本中世の民衆と領主』1994年、校倉書房)。なお、保立「戸田芳実氏と封建制成立論争」(「新しい歴史学のために」二〇四号、1991)を参照されたい。
*24この点についての私の見通しは、保立「封建制概念の放棄、その他」(『歴史学研究』749、2001)を参照されたい。
*25これは問題の先回りではあるが、周知のように、この問題は、マルクスの社会主義論の基本に関わる問題であると同時に、右に戸田芳実の見解をひいて述べたように、前資本制社会論にとっても本質的な問題であることを確認しておきたい。マルクスによる私的所有と集団的所有の明瞭な対比は、この『資本論』原蓄論においてはじめて登場し、さらに「フランス労働党の綱領前文」(⑲二三四㌻、一八八〇年)、「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」(一八八一年)でも敷衍されている。しかし、本稿冒頭で述べたように、その原型はすでに『資本制生産に先行する諸形態』の中にふくまれているといえる。それは自然が、対象的自然においては有用的に占取された土地区分と無用性をはらむ自然自身、主体的自然においては諸個人の個人的身体と一つの「類」自身という四極的構造をもって存在していることに対応する事態であるといってよい。なお、本稿は、マルクスの所有範疇については、林直道『史的唯物論と所有理論』(大月書店、一九七四年)および藤田勇『法と経済の一般理論』(日本評論社、一九七四年)を前提にしている。しかし、「社会的・集団的所有」の構造論についてはさらに検討が必要なように思う。
*26大塚久雄『共同体の基礎理論』とそれをうけた平田清明『市民社会と社会主義』(岩波書店、1970)が展開した共同体論は、この危険性に十分意識的でなかったと考える。