最初に神保町に通い始めた頃
私がはじめて買った『歴史学研究』は、大学一年の時、一九六八年一〇月号の特集号で、書棚で確認したところ、たしかに記憶通りに、黄色い表紙に「天皇制イデオロギー(明治百年批判)」という赤地に黒の見出しのものであった。色川さん、安丸さん、中村政則さんなどの論文をよく読んだ跡がある。
後に、中村さんが委員長時代に委員をやることになるとは、その時は知るよしもなかった。歴研の研究者の中でもっとも早い記憶は藤原彰さんと佐々木潤之介さんで、大学の三年か四年の時に一橋大学の授業を盗聴にいった。藤原さんの授業が日本革命論なのに驚き、佐々木さんの授業で「農民的剰余」の概念の説明に感心した。ノートをなくしてしまったのが残念である。
次の歴史学研究会についての記憶は、大学四年の時、「日本の中世史の勉強をやりたいのだが、どうしたらいいだろうか」と事務所に電話したことである。どうしたらいいだろうかといわれても困ったのではないかと思うが、その電話に答えてくれたのは、事務局の会務担当者で(『歴研半世紀の歩み』によると松崎さんか重松さんのどちらかということになる)、中世の委員であった渡辺正樹さんを紹介してくれた。おそらく渡辺さんの電話を教えてくれたのではないかと思う。それでは『平安遺文』の読み方を教えてあげるからということで、渡辺さんに高田馬場の駅のそばの喫茶店を指定された。たしか、目印に『平安遺文』をもってくるようにということであったように思う。もうほとんど記憶がないが、その後に、時々、中世史部会に出ることになり、古代史部会にもでるようになった。当時は事務所は狭かったのだと思う、よく学士会館で部会が開かれたが、大学のあった三鷹から通うと、会費のお茶代がぎりぎりのことが多くて不安だったことを覚えている。
結局、一年留年をすることになったが、卒論は、渡辺さんに読み方を教えてもらった『平安遺文』の最初の方に並んでいた近江国大国郷の土地売券を題材にした。私の母校は国際キリスト教大学で日本前近代史の教員がいなかったが、指導教官はありがたいことに大塚久雄先生だった。しかし、ほとんど無手勝流で書いた。
歴史学研究会の大会の記憶は留年中の一九七二年の東大本郷での大会で、小谷さん、峰岸さんの全体会大会報告を聞き、部会は古代史部会の関口裕子報告の印象が残っている。大会の全体会会場のそばで、部会でやはりいろいろ教えてくれた富沢清人氏に、当時、都立大学にいらした戸田芳実さんを紹介してもらい、いわゆるテンプラで都立の院の授業にでてもいいといわれた。そして翌年、戸田さんによると英語の点がよかったということで都立大学の修士課程に入学できた。大学は大荒れの状態で、自分の将来について考える余裕はないまま、多忙かつ不節制という状態であったから、大学院というものに入れて非常にうれしかったのを覚えている。
歴研事務所については、ぎりぎり、すずらん通りのあたりにあった旧事務所の記憶がある。『歴研半世紀の歩み』によれば、歴研事務所が現在の事務所に引っ越したのは一九七三年七月のことである。その引っ越しの直前に旧事務所を覗いたような気がする。
私の高校・大学時代、歴史に興味をもった一つの理由は、高校二年の時に提起された家永教科書訴訟だった。とくに大学時代、一九七〇年の杉本判決は教科書検定訴訟を支援する全国連絡会が発行した青いパンフレットでよく読んだ記憶がある。
けれども何といっても、私などの世代にとって大きかったのは、ベトナム戦争であった。浪人中に、代々木ゼミで小田実氏の英語の授業でケネディーの就任演説のテープを聞かされ、その明解な文法の説明に感心した。小田さんが亡くなって、急に思い出したが、考えてみると、最初のデモはべ平連のデモで、最近まで神田外国語大学にいらした山領健二先生(その頃は私のいた高校の世界史の先生)に出会ったことも覚えている。『ベトナム戦争の記録』(大月書店)を取り出してみると、一九六八年のテト攻勢、一九七三年のパリ協定、一九七五年のサイゴン陥落の時期におのおの自分が何をしていたかを思い出す。
私の場合、歴史が動いたという実感は、あれが唯一のものかもしれない。その頃から、社会党の解党、売上税導入、小選挙区制、そしてその先には憲法改悪だといわれ、その予測通りに歴史は「変化」している。だから、あまり動いたという実感はないということかもしれないが、ともかくパリ協定の成立をたしか国会議事堂の近くで聞いたときの強烈な印象が残っている。
私は、大学時代に、自身の考え方は決めていたが、将来は混沌としており、ともかくも、そういう中で、徐々に方向を決め、歴史学研究会に通うようになった。