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酒と徳政ーーー中世の禁欲主義

酒と徳政ーーー中世の禁欲主義
 はじめに
  世には心えぬことの多きなり。ともあるごとにはまず酒をすすめて、しひ飲ませたる  を興とすること、如何なる故とも心えず。
 これは、『徒然草』の第一七五段の書出しの一節である。そして、兼好は、酒を飲む女が「額髪はれらかにかきやり、まばゆからず顔うちささげてうち笑」う様子をあげつらい、「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生まる」という仏典の一節まで引用して酒飲みの悪徳を説く。特に「我身いみじきことどもかたはらいたくいひきかせ、あるは酔泣きし、下ざまの人は、のりあひいさかひて、あさましくおそろし」などというのは、酒飲みにとっては耳が痛いところである。
 私は、『徒然草』は、中世的な禁欲主義の一つの完成を示す文学であると思っている。勿論、禁欲主義といってもファナティックな自己犠牲を伴うものではない。ユーラシア大陸の諸文化に比べて、日本中世の禁欲主義は微温的であり、やや安易であることは否めないところだろう。それは、右の一節が、直ぐに一転して
  かくうとましと思ふものなれど、おのづから捨てがたき折もあるべし。月の夜、雪の  あした、花の下にても、心長閑に物語して盃出だしたる、万の興をそふるわざなり。などと飲酒の貴族的・文化的な雰囲気の講釈に移ることによっても明らかである。もとより、この一段の基調は、節酒の勧めにあるのではあるが、それは、貴族的な遊興と風流の美学に裏打ちされた生活文化としての禁欲主義であり、『徒然草』は、そのようなものとして後世に大きな影響を残したのである。
 こういう酒と禁欲主義の問題の歴史的背景を、どう想定すべきであろうか。そこには意外と重大な問題が秘められている。
Ⅰ弘安徳政と沽酒の禁
 最近まとめられた林瑞枝氏の『兼好発掘』は、兼好=卜部兼好が、金沢文庫を建てた北条氏の一族、金沢氏の執事の家柄の出身であると述べている。国文学の研究史に全く不案内のためもあって、今、氏の説について賛否を明らかにすることはできないが、これは中世史学にとっては実に魅力的な指摘である。網野善彦氏が述べたように、林氏の学説が成立するとすれば、『徒然草』の所々に収められている東国と武家関係の逸話の意味が大きく変わってくることになるのである。
 たとえば、名執権とうたわれた北条時頼の母、松下禪尼が自ら障子の繕いをして息子の教訓としたという逸話(第一八四段)は、戦前の修身の教科書などで「勤倹節約」の鑑のようにもてはやされたものである。兼好は彼女について「世をおさむる道倹約をもととす、女性なれども聖人の心に通へり」と評価している。そして、息子の時頼が、ある夜の酒宴で、「台所の棚に小土器にみその少つきたるを見出て」、酒肴としたという話(第二一五段)も有名だろう。母の教育によって、時頼も質実剛健な人物に育ったというのが、『徒然草』の描くイメージなのである。
 時頼、およびやはり名執権の名をほしいままにした祖父の北条泰時の節倹の美談は、たとえば『渋柿』に泰時が飢饉の年には「家中に倹約を行て」「昼の一食をとどめ、酒宴遊覧の儀なくして」とあるように、『徒然草』の他にも多い話であるが、もし、林説が成立するとすれば、兼好の『徒然草』は、関東における実生活の経験を踏まえて書かれたということになる。
 ところで、このような美談が語り継がれたのは、いうまでもなく、彼らが、鎌倉時代、武家の間でも広く喧伝された政治思想、「徳政」の最初の実践者だったからである。そして、以下で問題にする鎌倉時代半ばの「弘安徳政」の最中に発布された武家の新御式目の一条に「倹約を行わるべき事」とあるように、倹約は徳政の中心問題の一つであった。
 徳政というと、今でも一般には「徳政一揆」=借金棒引きのモラトリアムというイメージで捉えられているだろうが、実はそれは一つの教化主義的・道学者的な政治思想であったのである。そしてこの「倹約」の眼目の一つは、右の泰時と時頼の逸話が示すような飲酒や酒宴の簡素化にあった。もとより、飲酒・酒宴の統制は、支配者が教化主義的な態度をもっていれば必ず行われることであり、実際に奈良・平安時代を通じて、「新制」の一環として古くより存在していたのであるが、しかし、鎌倉時代の酒に対する統制は、従来に比べて大きな特徴があった。
 それは、「沽酒」、つまり売り酒の禁止という具体的措置が取られた点にある。たとえば、建長四年(一二五二)に諸国の「市酒」を禁じて、鎌倉の民家の酒壷を大量に破却し、文永元年(一二六四)にも「東国沽酒」を禁制すると同時に、「土樽」と称する筑紫の酒の流入を禁じるなどの措置が取られている。これがまさに徳政の眼目であったことは、若干時代を下るが、正平十年(一三五五)の出雲国鰐淵寺大衆条々連署請文の「一、寺中酷酒禁制事」という条項が、
  此条、ただに仏家第五の重禁たるにあらず、殆ど世務一箇の徳政たり、これにより、  和漢の明君、皆もってこれを誡め、愚拙の貧夫、ひとえにこれを犯すのもなり
と述べていることに最もよく現れている。傍点部の「仏家第五の重禁」については後に触れるが、ここで「沽酒禁制」が徳政である理由が「和漢の明君」との関わりで語られていることは儒教の論理を示している。また、兼好が松下禪尼について「聖人の心に通へり」といっているのにも儒教的な意味があるだろう。そしてあるいは、沽酒という言葉自身、本来は『論語』郷党第十の「沽酒と市脯は食らわず」という一節によっているとすべきなのかも知れない。
 さて、以上のような徳政のイメージを前提として、鎌倉時代後期の徳政、この沽酒の禁制の在り様を最もよく示す「弘安の徳政」を検討することにしよう。幕府による沽酒禁制は、右に建長四年や文永元年の例を挙げたように、以前から行われていたが、この弘安徳政における沽酒禁制は、さらに大きな影響をもったのである。
 武家の弘安徳政が、弘安七年三月の執権北条時宗の死(弘安七年[一二八六]三月)を直接のキッカケとして興行されたものであり、鎌倉時代の徳政の中でも画期的な意味を有するものであることはいうまでもない。そこにおける沽酒禁制の動向を示す史料を上げれば、まず、この年の六月三日に幕府の御教書によって「沽酒事」の禁制などの四つの「条々」が「諸国一同に仰せ下され」た。この全国に通達された「条々」の持つ意義については後にも触れることになるが、それは持続的に追究されたのであって、翌々年の弘安九年には遠江・佐渡両国の「悪党」取り締まりと関係して、「押買・迎買・沽酒以下事」についての「先度」の仰せの再確認が行われており、さらに翌々年の正応三年(一二九〇)に出された関東新制条々の一節にも沽酒の禁制がうたわれている。
 そして、この時期は公家側の史料でも沽酒禁制を比較的多く確認できる時期である。まず、弘安二年八月十日の新制には、「一、沽酒一切停止すべき事」という一節があり、
  仰、民は食をもって天となし、食は穀にあらずんば生ぜず、しかるに徒らにその穀を  費やし、その実を顧みることなきは、万民の費え、十戒の禁なり、専ら制禁を守り、  一切停止せよ。
と命令されている。そして、この公家の沽酒禁制は、各地の寺社などによっても施行された模様である。それは、翌年の弘安三年三月に奈良春日社が、「社辺の酒宴を停止せしむべし」という「条々」を発し、紀伊の高野山も二月に「酒これを停止す、寺領内の売買、同じく停止す」という寺辺制符を発していることで分かろう。これらの効果は、相当のものがあったのではないか。ただ、残念ながら、弘安八年の新制の条文が三ヶ条のみしか伝わらないので、武家の弘安徳政のピーク時の弘安七・八年頃における公家側の沽酒禁制の状況は不明である。しかし、散逸した条文の中に沽酒禁制がうたわれていたことは確実である。
 このようにして弘安徳政における沽酒禁制は、公家・武家・寺社などの強力な処置によって、天下一同のものとして推進されていった。
Ⅱ殺生禁断と禁酒の戒律
 この弘安の沽酒禁制の思想的な背景は、右に述べた儒教のみではない。兼好が「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生まる」という仏典の一節を引いて禁酒を勧めていることを、冒頭で触れたが、もう一つ無視できないのは仏教の影響である。それは、右に引用した「出雲国鰐淵寺大衆条々連署請文」の傍点部に、「仏家第五の重禁」とあり、弘安二年の公家新制の傍点部に「十戒の禁」とあるように、沽酒の戒は、仏教の禁戒でもあった。それは、「梵網経」にいう「十重禁戒」の内の第五の戒にあたる。そして、右の兼好の引用した仏典の一節というのも、実はこの梵網経の一節なのである。
 さらに、この沽酒を禁じる戒律を、特に強調したのが、林氏によって兼好と深い関係があったと想定されている金沢称名寺の属する宗派、そして、鎌倉時代のいわゆる「旧仏教」改革運動の中心をなした宗派、律宗であったことは注目に足りる。勿論、古代の律令で、僧尼の飲酒が禁じられているように、飲酒の節制は仏教にとって本来的なものだったが、鎌倉時代の念仏者が「あるいは女人を招き寄せ、常に濫行を致し、あるいは魚鳥の類を食い、酒宴を好む」存在として非難されているように、仏教者の持律は建前どうりである訳はなかった。これに対して、念仏興行停止の「興福寺奏状」を執筆して、法然上人源空を攻撃したことで有名な解脱上人貞慶は、律宗の先駆者と位置づけることができるが、彼は臨終近くに「薬酒」を少し嗜んだ他は、一切酒宴を許さず、彼の住した海住山寺は参詣の人々が「酒宴射的」などを行うことを禁じていたという。
 なお、貞慶の後をうけて次代の住持となった弟子の覚真も、同寺の学衆と禪衆の酒宴停止を起請文によって確認しているが、この起請文で面白いのは、学衆の場合、「たとえ客人たりと雖も、輙く酒を勧むべからず」としながら「もし、親厚のため薬酒を飲ましむるは、酒宴の儀にあらず」という苦しい例外規定があり、禪衆の場合はもっとはっきりと「たとえ上戸と雖も二坏を過ごすべからず」とあることである。
 これが同じく南都律の復興者の東大寺宗性上人の禁酒の誓文となると、もっとケッサクで、酒を良薬として飲むことも僧侶のすべきことではないなどといって、千日間の酒宴の禁止を誓いながら、「ただし、串習これ久し、全断すること輙すからず、病患を治さんがため、良薬に用いんと欲っす、即ち、六時の間、三合を許すべきなり」、つまり一日三合の酒を飲みながら禁酒だというのだからいじきたない。そして、これは上人が三四才の時のことであるが、その約十年後にも、上人は、「生年十二歳の夏より、四十一歳の冬に至り、愛して多飲し、酔いて狂乱す」と自己反省し、禁酒を誓っている。この時も、「但し如法真実に難治の時を除く」という断り書きがついているが、果たして上人は本当に禁酒できたであろうか。
 これに対して、律宗の大成者であった西大寺叡尊は、さすがに徹底した禁酒論者であった。私は、叡尊個人が生来の酒嫌いであったのではないかなどと想像するのだが、彼の教団の中では特に禁酒が重視されていた。たとえば、叡尊の行実を伝える「感身学正記」は、叡尊の法嗣で律宗の第二祖である忍性が最初に叡尊から「十重」の禁戒を授けられたことを伝えるが、そこでは「十重を授く、飲酒」として特に飲酒が強調されているし、その他の受戒の例でも「飲酒過」が特記されている場合がある。あるいは叡尊に比べて忍性は酒が少しは飲める方だったのかも知れないが、律宗の戒律においては、食物・飲酒に関わる持戒の意味は大変に重かったのである。
 問題はそれのみでない。各地で説戒し、布薩(持斎と慚悔の集会)を行う律宗の宗教活動は、一面で禁酒サークルの組織とでもいうべき側面をもっていたのである。「感身学正記」によれば、丁度弘安六年の三月、すでに先に述べたような公家側の沽酒禁制が実施されている頃、宇陀の極楽寺の勧請によって大和国南部を巡った時、安位寺において、叡尊は三〇二人に菩薩戒を授け、彼らは「堂内飲酒、仏事酒宴、諸房酷酒、止住諸人、四一半・双六、寺領殺生」を禁断するという趣旨の起請文を捧げた。もちろん、叡尊は、以前から各地で同じような事業を行っていたのであって、同じ「感身学正記」によれば、文永六年(一二六九)の三月にも、叡尊は、紀伊国の金剛宝寺(紀三井寺)を巡り、名草郡の神宮寺領内の十九郷において殺生禁断を興行し、「御読経所、神宮寺及び散在諸堂三十余箇所の内」において「飲酒乱舞・寺中酲酒・酒宴」などをやめる趣旨の住民の「状(起請文)」を取っている。しかし、弘安の大和巡行において、特に注目されるのは、叡尊が、三輪の非人宿の堂で百三八人の非人に断酒の戒を誓わせ「宿内に酒を入れるべからず」という「札」を懸けさせたことである。その意味は後に触れよう。
 ところで従来、叡尊のこの時期の宗教活動としてよく知られていたのは、弘安七年二月、亀山上皇に勧めて宇治の網代を破却したことを始め、各地で殺生禁断を興行したことである。しかし、上記の「感身学正記」の禁酒運動の記事で重要なのは、殺生禁断が沽酒禁制を含み込んでおり、両者が一体化していることである。次に掲げる播磨国法光寺文書の中に残された地頭・下司などの連署した書状は、その様子をさらによく示している。
  法光寺竝永谷村殺生禁断、於寺内者、可為永代沙汰、惣村者、可為二ケ年御教養、酒  於堂内飲事、永代可停止仕候、村内酒者一年可止候、以此旨可有御披露候、恐々謹言     弘安七年七月廿五日       下司康定(花押)
                     地頭代佐吉(花押)
                       小野行員(花押)
                     地頭小野氏女(花押)
 「感身学正記」によれば、ちょうどこの書状の前年の弘安六年頃から、播磨国では法花山一乗寺が中心となって、播磨国の所々から「殺生禁断之起請文」を集め、それをもって西大寺に叡尊の下向を勧請することが度々に及んでいた。その起請文にも、殺生禁断だけではなく、同時に禁酒の誓いが書かれていたことは、右の例によって明らかであろう。そして、叡尊の播磨下向は弘安八年になって実現するのだが、その招請運動は、右の文書に下司地頭などが署名しているのみでなく、「村内の酒は一年止むべく候」とあるように、荘園の領主・住民を含む荘園ぐるみ・村ぐるみの運動であったのである。
 つまり、この弘安徳政のピークの頃、叡尊は、殺生禁断とともに、大々的に禁酒運動を展開していたことになるが、これは、ある意味で当然のことであった。「殺生禁断」とは、律宗の立場からは「十重の禁戒」のうちの第一の禁戒である「不殺生戒」の実践であり、それともう一つの禁戒(第五の戒)としての飲酒・酒宴・沽酒の禁制が同時に興行されるのは全く自然なことである。そして、なお注意すべきことは、殺生禁断がさらに肉食の忌避にもつながっていることである。この観点から見るならば、両者は、一つの宗教的な食物節制、食物タブーという点でも共通しているのである。中世の食物史と生活文化にとっての律宗と弘安徳政の意味は、大変に深いものがあったというべきであろう。
 さて、いうまでもなく、叡尊は、弘長二年(一二六〇)に招きによって鎌倉に下り、執権北条時頼の強い信頼と帰依を受けて以降、公武の動向に直接の影響力を行使する位置におり、亀山上皇への菩薩戒の授与など、その声望は弘安徳政の時期において頂点に達していた。弘安徳政期における沽酒禁制の背景にあった叡尊の禁欲主義的宗教活動は、既に狭い範囲の宗教者自身の戒律の問題ではなく、大きな宗教的権威と社会的地位にもとづいて広く社会を巻き込む力をもっていたのである。
Ⅲ酒狂と寺酒・市酒
 塚本学氏の名著『生類をめぐる政治ー元禄のフォークロア』によれば、「生類憐れみの令」で有名な将軍徳川綱吉は、大変な「酒嫌い」であり、元禄時代は様々な飲酒統制令が発布された時代でもあったという。「愚行の将軍」というイメージに反して、綱吉の政策は「人々仁心に罷りなり候様」という「仁政」の理念に基づいた体系的なものであったのである。
 「仁政」と「徳政」とは同じことである。だから、綱吉の仁政には、徳政の下での殺生禁断(生類憐れみ)と沽酒禁制(飲酒制限)という弘安徳政の図式がそのまま復活していることになる。残念なのは、綱吉政権期の政策が「徳政」と自称されていた明証がないことだが、しかし、このことを塚本氏に問い合わせたところ、徳政という言葉の使用が元禄時代頃までは確認できるという寳月圭吾氏の研究を考慮すべきではないかいう示唆を与えてくれた。もし、そうだとすると、綱吉の政策は、元禄の時代に復活した最後の徳政、近世に反映した最後の中世とでもいうべきだろうか。
 さて、この飲酒統制令は、「大酒」を禁止し、「酒狂之者」に酒を与えたものの刑事責任を問い、さらに「酒商売仕候もの連々減候様に仕るべく候」ために酒造業を抑制しようとしている。興味深いのは、塚本氏が、元禄時代頃からの人々の酒の飲み方自体が変化したとし、それと「酒狂」の発生を関連づけていることである。つまり、氏は、柳田国男の仕事などにもよりながら、この頃、主人からの振る舞い酒や家での飲酒でなく、市町などでの「買い酒」による飲酒が一般化し、それにともなって庶民の中に、より個人的な楽しみのための飲酒、そしてその反面において「酒狂」、アルコール中毒症状が広まっていた。綱吉の政策は、この社会問題化した「酒狂」を追放し、「買い酒」消費の中でアトム化した庶民の精神生活を善導しようという「善き意思」に基づいていたというのである。
 元禄の世に復活した中世的徳政が、結局人々の物笑いの種となって潰え去ったことは確かであろう。氏が、この酒の飲み方の変化を中世的な「親方」の下から解放されていく奉公人の姿に引き付けて考えている点も了解できる。しかし、まず確認しておくべきことは、中世においても、決して全ての酒が自給的に供給されたものではなく、既に相当の酒造業の発達があったことである。それは、小野晃嗣氏の古典的研究によって明らかであるが、京都の酒屋となれば「東西両京以下、条里を相分け、その員を知らず」といわれているし、鎌倉でも、先にも触れた建長四年(一二五二)の幕府による沽酒禁制のさいの調査によると、全部で三万七千二百七十四口の酒壷があったという。
 もちろん、中世と近世で酒造業の在り方が大きく違っていたことは事実である、先に上げた史料の何箇所かに「寺中沽酒」「寺領内の売買」「寺中沽酒」「寺房沽酒」などと出てくるように、中世の酒造業は、鎌倉時代から寺社を中心とするものであった。そして、寺社による酒造業の背景には、広くその寄人・公人などと称する人々の活動が存在したのである。それは、網野善彦氏が、「押小路文書」によって、既に鎌倉時代の畿内において「神社仏閣権門勢家の領」と称し、「諸社神人、諸院宮酒殿、諸方の公人」などと号する酒麹売りが、朝廷の造酒司の統括の外で活発な商売を営んでいたと述べている通りである。それは地方社会でも同様であり、たとえば、厳島神社に残されている御経の裏文書によると、備後国歌嶋の人々は大規模な酒屋を営んでいたが、彼らの運営資金は、ある寺社の「□物」であり、その神聖化された元本によって高利貸を営んでいたというから、彼らが、寺社の寄人的商工民であったことは明らかである。
 つまり、中世の酒は、直接に「仏物」や「神物」としての性格をもっていたのであり、それに対して近世社会は、酒の製造・供給の上でも、世俗的な消費社会としての性格を強めていたということはできるであろう。だから、弘安徳政の沽酒禁制は、綱吉の仁政が酒屋に対する攻撃となったのと比べると、より宗教的なスタイル、既成寺院の酒造業を攻撃する律宗を背景とする運動という性格をもったのかもしれない。
 しかし、だからといって、中世において「買い酒」がなかったのではなく、沽酒は普通のことであった。建長の沽酒禁制の時、「諸国の市酒、全分停止すべし」とあるように、市庭で酒が売買されることは全国的なことであったし、そこで、沽酒が「市酒」とも呼ばれていたことは、中世の市にも酒が付き物であったことを示している。『一遍聖絵』に描かれた福岡市の情景に二つの大甕に酒を満たした酒売の女が描かれているのも周知の事実であろうし、また、ある市庭での借金返済の様子を物語る史料は「酒を買い肴を構えて饗応を致し、件の銭を弁ぜしめ了」と述べている。市での取り引き・契約の際には「手打ちの酒」が必要となったことも当然であり、人々が町場・市町へ出れば酒を飲みたくなるのは中世も近世も変わったことではなかったのである。
 そして、この誘惑に人々がとらえられること、および、それによる「酒狂」と秩序紊乱を権力が容認できないのも、中世と近世で変わったことではなかった。鎌倉時代においても、「酒狂」は、御成敗式目第十条を初めとして、上は御家人から下は下人にいたるまで、都市・農村を問わず問題となっていたのである。塚本氏によれば、江戸幕府は、「市町へ出、むさと酒のむべからざる事」という法令を出しているという。その法令の意味が、倹約を励行させるとともに、市庭の静謐を維持し、秩序紊乱を取り締まるものであったことは明らかであろう。私は、鎌倉幕府の「市酒」の禁制にも、同じような意図があったことは確実だと思う。
 それは、まさに今まで問題としてきた弘安徳政において、幕府が沽酒禁制を指令した弘安七年六月三日の鎌倉幕府御教書に明らかである。実は、この御教書は、次の四ヶ条、即ち、「一、河手事、一、津泊市津料事、一、沽酒事、一、押買事、」の四ヶ条を禁制したものである。いうまでもなく、第一条の「河手」とは河関の通関料のことであり、第二条の「津泊の市津料」は津泊の通関料=津料とそこに存在した市庭の市場税のことであり、第三条が問題の沽酒、そして最後の押買(抑買)は市庭における強制的な買得、多くは買い叩きのことである。つまり、これらは、すべて市や関における自由と静謐と平和を保証するための法令なのである。そして、それらと沽酒が並べられているということは、沽酒禁制も市町での酒狂と喧嘩口論を避けようという意味を持っていたことを示している。
 要するに、この法令は鎌倉幕府が弘安徳政に際して発した全国的な「市の平和令」なのである。もちろん、これについては、その前提を含め別個の分析が必要である。たとえば、今まで特に指摘されてはいないが、頼朝の「奥州征伐」において奥州藤原氏から平泉を接収した葛西清重は「所領内に市を立て」た。頼朝がそれを「凡そ国中静謐の由」と賞賛したことは、まさに幕府が早くから「市の平和」の論理を有していたことを示している。しかし、弘安徳政の時期が、この政策の展開期であることは確実である。(なお、弘安徳政の時期が、当時問題となっていた「悪党」対策の強化を中心とする治安対策の強化の時期でもあったことはいうまでもない。だから私は、この「市の平和令」の背景として悪党対策を中心とする治安対策を考えておくべきだろうと思う。「悪党」と「酒」の間には切っても切れない縁があったに違いないのである)
 ともあれ、既に触れたような古代以来行われていた飲酒統制においては、共通して「ただに争論の萌芽たるにあらず、兼ねて闘殺の根元たり」などとするだけであった。それに対して、この時代には、沽酒禁制が市場政策の一環として行われるようになったことは注目に足りることである。塚本氏は、綱吉による飲酒の抑制策について、建武式目や武家諸法度における飲酒統制の問題にも触れながら、「政権が、秩序の安定を目指すとき、大酒高論またその上での血気の行動が抑えられるのは当然であった」としているが、この点でも中世と近世は同じ姿を示しているのである。
 さて、前節で見た律宗の祖、叡尊は、様々な寺社と関係をもったが、以上のように考えてくると、彼が有名な三輪神社の中興に功績があったことが注目されてくる。中世において、この三輪神社の神、三輪神が、大国主命=大国天の姿をもった福神、そして特に日本の市の発祥の地に鎮座する市神であるとされていたことはよく知られていよう。そして、叡尊・忍性が、その布教にあたって鎌倉江ノ島の弁才天などの「福神」の宣伝を重要な武器としていたことについては、最近の細川涼一氏の研究がある。
 弘安徳政を宗教の側面から支えた叡尊は、市や宿における沽酒を禁制し、三輪神になりかわって市の繁栄と平穏をもたらそうとしたのではないだろうか。彼は、そのようにして、幕府の「市の平和令」の全国的な実施を支える役割を果たしたのではないだろうか。右の幕府御教書が発布されたのは弘安七年六月であるが、その前年の三月、先に触れたように大和国を巡って沽酒禁制を張行した叡尊が、「三輪」の「非人宿」の堂において、百三八人の非人に断酒の戒を誓わせ、同時に「宿内に酒を入れるべからず」という札を懸けさせたことは、まさに象徴的なことであったといわねばならない。
Ⅳ有徳の沽酒家
 ところで、塚本氏によれば、元禄十年、江戸幕府は、飲酒統制令の一環として、「酒商売多く、下々猥に酒を飲み不届きなる儀も仕出し候に付き、高直になし、下々酒多く飲まざるように」という趣旨で、全国の酒造家から「酒運上」を徴収したという。
 酒の値段を上げるために酒税を懸け、酒造業を抑制するという、この手前勝手な理屈は、権力による飲酒の統制において実に一般的なものであろう。問題は、弘安徳政の飲酒統制令=沽酒禁制においても、このような酒税賦課政策の痕跡が確認できるかどうかである。もとより、この時期の酒税政策については、小野氏の研究以来、消極的な評価が普通である。氏は、沽酒禁制を伝統的政策とする武家にとっては、酒造税の採用は「道義的思想の遺棄」であること、酒屋をもって有力な財源と認めた公家にとっても、酒税賦課は「新儀」として実現しなかったこと、それ故に「(鎌倉時代の)酒造業はその発達の高度にも拘わらず、未だ課税対象となっていなかったのであ」り、それが安定した制度になるのは南北朝時代のことであったとしている。
 しかし、倹約の「道義的思想」を示すために、沽酒禁制を指令し、鎌倉府中の酒甕を壊したからといって、武家が酒税自体を「道義的思想の遺棄」と考えていたというのは飛躍であろう。沽酒禁制によって全国の酒屋が潰されてしまった訳ではないから、残された酒屋への対処策として酒税徴取が計られた可能性も無視できないのではないか。そして、公家側の問題については、網野氏の新研究が、公家にとって「新儀」であったのは、酒屋の「上分」を毎年一律に「屋別」に取る課税方式であり、酒税の賦課自体は、既に鎌倉時代初期以前より行われていたことを明らかにしている。
 常識的にいっても、この時期、相当程度発達した酒造業が「課税対象となっていなかった」とは考えられない。小野氏が無視したのは、沽酒禁制が教化主義的な徳政の施策として公家・武家を通じて喧伝されていたことであり、そして、中世における徳政は、その裏側において「有徳役」といわれた一種の富裕税の賦課をはらんでいた事実である。別稿で見たように、それは徳政を呼号する支配層が富裕な民衆に対しても「徳」の分担を強要し、安上がりに「撫民」などの諸経費を捻出する政策だったのである。
 私は、こういう文脈において、やはり弘安徳政における大規模な沽酒禁制は、実質上、酒屋に対する公事賦課・有徳役の賦課において一つの画期を形成したと考えたい。ただ残念なのは、現在残された史料には弘安徳政と直接に関係する有徳役の賦課を示す史料はないし、また他の史料にも有徳役を賦課された人々の職業が明示されていないことが多いことである。しかし、『沙石集』(巻六ー一六)に洛西の著名な銘酒を産する洛西の嵯峨の僧房の隣に店を構えていた「沽酒家の徳人の尼」が見えるように、酒屋が有徳人の代表であることはいうまでもない。また、たとえば、東大寺の寺辺には「酒屋」の店があったが、東大寺は、手掻・今小路・押上などの寺辺の有徳人に対して有徳役を賦課しており、その中に酒屋がいたことは確実であろう。
 もちろん、鎌倉時代から酒屋に対する公事賦課が、有徳役という形で広汎に行われていたとしても、たしかに、酒屋公事が酒屋という職業に即した安定した制度になってくるのは、後醍醐天皇による「酒鑪役」の設定以降のことである。しかし、永原慶二氏の『下克上の時代』が述べているように、南北朝時代以降の発達した酒屋役・酒税も、有徳役としての本質を有していたことは確実である。それは前代よりの歴史的蓄積なしには考えられない。
 そして永原氏は、室町時代に活発な活動をする商工民の中心がこの有徳人であり、彼らこそがいわゆる「町衆」の実態であり、たとえば朝鮮の使者が室町幕府の財政状態を「国に府庫なし、ただ富人をして支待せしむ」と観察したという周知の事実が示すように、この時代の支配体制の根幹が有徳人に対する支配と編成によって支えられていたことを強調している。
 さて、こう考えてくると、思いおこされるのは、『徒然草』の第二一七段、
  「人は万をさしおきて、ひたぶるに徳をつくべきなり、まづしくては生けるかひなし  、徳をつかむと思はば、すべからくまづその心づかひを修行すべし、その心といふは  他のことにあらず、人間常住の思ひに住して、かりにも無常を観ずることなかれ、こ  れ第一の用心なり、(中略)次に、正直にして約をかたくすべし、この義をまぼりて  利をもとめむ人は、富の来ること、火のかわけるにつき、水のくだれるにしたがふが  ごとくなるべし、銭つもりてつきざる時は、宴飲声色をこととせず、居所をかざらず  、所願を成さざれども、心とこしなへにやすくたのし」
という「大福長者」の言葉である。ここには、まさに、鎌倉時代に形成された「大福長者」=有徳人の生活倫理が、まことに見事に表現されている。そしてそれが、佐竹昭広氏、およびそれによりつつ峰岸純夫氏が明らかにした「正人」(マタフド、正直実直な人)という室町・戦国期の京の町人の理想像に連なるものであることも明らかであろう。そこには、一つの勤労的・民衆的な富への賛歌と禁欲の倫理の反映がある。
 これに対して、兼好は
  「銭あれども用いざらむは、全く貧者と同じ、何をか楽びとせむ。このおきては、た  だ人間の望みをたちて、貧を憂ふべからずと聞えたり、欲を成じてたのしびとせむよ  りは、しかじ、財なからむには、(中略)、ここにいたりては、貧富わく所なし、究  竟は理即にひとし、大欲は無欲に似たり」
と述べる。つまり、兼好は、大福長者の現世的な蓄財の論理に貫かれた禁欲のエートスに対して、禁欲の文化的・宗教的な意味自体を対置するのである。勿論、兼好は「正直にして約をかたくすべし」という「大福長者」の道徳自体を否定するのではないようである。しかし、兼好の志向は、彼らのエートスを部分的に取り込みながらも、生活文化としての禁欲主義を対置することにあったのではないだろうか。そして、あれだけ兼好がもてはやされた理由は、それが有徳人の倫理と一定の緊張関係をもちつつも、公家・武家を始めとする貴族の倫理を表現するという微妙な性格をもつものだったからではないだろうか。
                                         このように見てくると、兼好の禁欲主義は、以上で累々述べてきた鎌倉時代の徳政によって大きく規定されているのではないかと思う。今後の研究が必要とはいえ、歴史学の方から見ると、『徒然草』は鎌倉時代が残した徳政と禁欲の文学ともいえるのではないか。私が、国文学から歴史学への架橋を試みた林氏の『兼好発掘』に応答できるのはこんなところである。
 話は酒の問題からあまりに遠くまで来た。しかし、酒と徳政という問題は、最低のところでも、これくらいの奥行きを含んでいたようである。そして最後にこれからの課題として述べておきたいのは、「徳政」を要求する「一揆」の行動において、しばしば酒屋に対する攻撃が行われたことの意味である。徳政を要求する彼らが酒屋から奪った酒を飲んだとすれば、それは世直しの酒であり、いずれにせよ彼らは、自己の行動を、沽酒・酒売りの罪を滅ぼし、徳政の本旨を実行するものとして意識していたのではないだろうか。
 先の著書の中で、永原氏は「徳政を求める土一揆の攻撃目標が有徳人とよばれていたことは、皮肉でもあり、言葉の妙ともいうべきだ」と指摘しているが、私はその「皮肉」には必然的な意味があったと考える。そこには、広汎な民衆の勤労のエートスを背景としつつも、実際には民衆の生活のレヴェルをはるかに越えた富が大規模に展開するようになった室町時代の社会の矛盾が集中的に表現されているのである。
以下注
(一)筑摩書房、一九八三年
(二)「倉栖氏と兼好ー林瑞枝氏『兼好発掘』によせて」(『文学』     )
(三)徳政については、笠松宏至『徳政令』(岩波書店)を参照。
(四)弘安七年五月廿日新御式目、『中世法制史料集』Ⅰ、追加法四九一ー五二八、
(五)水戸部正男『公家新制の研究』。これについては別稿を用意している。
(六)『吾妻鏡』建長四年一〇月一六日、同年九月三〇日条参照。
(七)『中世法制史料集』Ⅰ、追加法四二一ー四二五、文永元年四月日、なお、この沽酒禁制は、前年八月十三日に発布された公家側の新制(『中世社会政治思想』下、岩波書店、所収)を受けている可能性は高い。それは、この公家新制には、僧侶の戒律の復興と酒宴の停止を定めた条項があり、またその発布手続きの中で下った「聖問」に応えた興福寺の同年八月十日の奏状には酒を「過悪之源」とする主張があり、それを受けた同年十月の興福寺充ての太政官牒には(恐らく大和国全域における)「群飲」の禁断が命じられているからである(この太政官牒は稲葉伸道「公家新制と寺辺新制」、『名古屋大学文学部研究論集』ⅩCⅤ・史学三二所収。発布手続きについても、この論文を参照)。
(八)出雲国鰐淵寺文書、正平十年
(九)『中世法制史料集』Ⅰ、追加法五四〇ー五四三、弘安七年六月三日
(一〇)『中世法制史料集』Ⅰ、追加法五九三、弘安九年三月二日
(一一)『中世法制史料集』Ⅰ、追加法六二一ー六二七、正応三年
(一二)「田中本制符」第四三条、後藤紀彦「『田中本制符』ー分類を試みた公家新制の古写本」(『中世史研究』第五号、一九八〇年)で紹介されたもの。
(一三)『春日社記録』弘安三年三月、五九㌻、三〇㌻。なお、東大寺においても、この頃、「三方法師原」が寺役に奉仕する時、寺辺の酒屋から間酒の給付を受ける慣習が、「近年三方会合の時、自然口論等の煩い出来の間、停止せられ候い了」ということがあった。それを語る史料が弘安十一年のものであることから見て、この間酒停止令も、弘安年間の公家新制に関係をもつものであるかもしれない。(『鎌倉遺文』一六五三八、一六五五七)
(一四)『鎌倉遺文』一三八六五。この史料については小野晃嗣「中世酒造業の発達」(『日本産業発達史の研究』所収、覆刻版一九八一年、法政大学出版会、一一五㌻)に言及がある。『鎌倉遺文』は、本文で触れた「酒の事」の次条を欠字にしているが、小野が「神麹事」とするのが正しく、これにより、麹の生産も寺領内で行われていたことが分かる。また、特に引用しないが、この史料には、酒の売買だけでなく様々な酒宴の停止も含まれている。
(一五)「感身学正記」(『叡尊忍性伝記集成』所収)弘安四年八月八日条に、亀山院から叡尊に対して「沽価法事、可被停止之由被仰下了」という記事がある。これについて、丹生谷哲一氏は、叡尊が沽価法の実施と何らかの関係があったことを示すのではないかとしているが(「中世における非人施行と公武政権」、『歴史研究一七』大阪教育大学歴史学研究室)、しかし、文脈の上では、そのような解釈は困難ではないか。私は、ここはたとえば「沽酒以下可被停止之由被仰下了」というような文章の誤写であると考えてみたい。もしそうだとすれば、弘安二年の公家新制以降も、沽酒禁制の政策が維持されていた証拠とすることができる。
(一六)『望月仏教大辞典』「五戒」「十重禁」の項を参照。
(一七)梵網経
(一八)『中世法制史料集』Ⅰ、追加法三三七ー三九三、弘長元年二月廿日、なお、この法令には、さらに御家人などの群飲停止令が記載されており、また、「僧房酒宴並魚鳥会」を「俗人児童相交の間、専ら肉物をもって、その肴に充て用う」などの点で、「禁戒」に背くものとして禁断した条文がある。念仏者に対するこのような非難の例は多い。
(一九)『鎌倉遺文』四七一六、
(二〇)『鎌倉遺文』一九六六
(二一)『鎌倉遺文』四七一六、四七一七、
(二二)『鎌倉遺文』四七七一。なお、『同』四七六七、五一九〇も参照。後者の二つの史料には、より赤裸な禁欲生活上の諸問題が記されている。
(二三)『鎌倉遺文』六一四六、なお、この史料は笠松宏至氏の教示を受けた。
(二四)「感身学正記」(『叡尊忍性伝記集成』所収)延応元年九月八日条
(二五)「感身学正記」寛元元年三月十八・十九日条など。
(二六)注一四の後藤紀彦論文は、公家新制における沽酒禁制条項に与えた律宗の戒律の影響を指摘している。なお、律宗が、禁酒の戒律の興行にともなって喫茶の風習を広めようとしたことについては別稿を用意している。
(二七)この部分、『叡尊忍性伝記集成』は「酷酒」と読んでいるが、東大史料編纂所架蔵写真帳によって改めた。「酷」と「沽」は同字。文永六年三月条についても同じ。
(二八)和島芳男『叡尊・忍性』
(二九)『鎌倉遺文』二〇、一五二六〇
(三〇)なお、「西大寺文書五」の貞治六年八月の「西大寺敷地四至内検断規式条々」において沽酒が「盗(二戒)・殺(一戒)」に准じて罰せられていることを参照。
(三一)原田信男「日本中世における肉食について」(石毛直道編『論集・東アジアの食事文化』一九八五年所収)参照。
(三二)平凡社叢書、一九八三年、なお、同氏「酒と政治ーー綱吉政権期のばあい」(『月刊百科』一九八〇年、一〇月№二一七も参照。
(三三)寳月圭吾                『信濃』
(三四)注一四所引小野晃嗣論文
(三五)『平戸記』仁治元年閏十月十七日条。
(三六)網野善彦「造酒司酒麹役の成立についてー室町幕府酒屋役の前提」(『続荘園制と武家社会』所収)。
(三七)『鎌倉遺文』二二六二九
(三八)『鎌倉遺文』⑧五九八八、なお網野善彦氏は、酒屋の市への「定住」が相対的に早かったことを強調している(『蒙古襲来』二八七、三七九㌻)
(三九)注九
(四〇)『吾妻鏡』文治五年十一月八日条。
(四一)建久二年三月新制、『鎌倉遺文』五二六
(四二)『三輪流神道の研究』
(四三)細川涼一「忍性と六浦・江ノ島ー上行寺東遺跡の周辺」(『歴史手帖』一四巻三号、一九九八六年)
(四四)注三六論文参照。
(四五)拙稿「中世民衆経済の展開」(『講座日本歴史中世一』東大出版会)
(四六)『鎌倉遺文』一六五三八、一六五五七
(四七)「東大寺文書」第四回採訪九四、嘉元二年正月十四日、寺辺有徳人交名
(四八)網野善彦注三六論文参照。
(四九)中央公論社『日本の歴史』
(五〇)『世宗実録』
(五一)佐竹昭広氏『民話の思想』(平凡社叢書)、峰岸純夫「一向一揆」(『岩波講座日本歴史』八所収)