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創建期の大徳寺と王権

科研『禅宗寺院文書の古文書学的研究ーー宗教史と史料論のはざま』(課題番号14201031)2002年~2004年度科学研究費補助金(基盤研究A2)研究代表者保立道久、に載せた論文です。大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超)の周辺を知りたく、またこれにつづく部分の研究を始めています。

創建期の大徳寺と王権
  ーー開堂前後の時期に視点をおいて
Ⅰ宗峰妙超と花園天皇・後醍醐天皇
 一三二六年(嘉暦一)一二月八日の大徳寺開堂において、宗峰妙超は鎌倉建長寺で師の大応国師・南浦紹明の印可を受けて以来、「嚢蔵」していた香木を五回にわたって捧げた(『大燈国師語録』))。第一は「今上天皇」(後醍醐)、第二は「太上天皇」(花園)であって、妙超はそのおのおのに対して祝詞を述べている。後醍醐に対する祝詞は「龍図永く固く、玉葉弥芳しからんことを」、花園に対する祝詞は「上徳を千載に超え、風声を後毘に樹てたまわんことを」と結論されている。前者は「龍図」(国家構想)の実現と永続、「玉葉」(子孫)の繁栄の祈願、後者は「上徳」(徳化)の永続と、「風声」(徳望)の後毘(後人)への継承の祈願ということになる。現王に対しては国家政策を問い、前王に対しては徳望をほめあげるというこの祝詞の使い分けは理解しやすい。ここで語られているのは王というものの理念であって、現王と前王が別の王統からでているというような実態とは関係ない。
 解釈上の問題はそれに続く第三の「香」の理解にあるが、その前に最後の方から、第五・第四という順に説明しておくと、第五の「香」は先師・南浦紹明に対して焚かれた。「前住建長禅寺、勅諡円通大応国師南浦大和尚に供養して、用て法乳の恩に酬ゆ」というのが結論である。そこでは南浦紹明に帰依し、国師号を与えた後宇多の存在も自然に語られることになっている。また第四の香は「法莚を光重する諸尊官および満朝の文武百僚」に捧げられている。若干の貴族官人が法会に臨席していたことは認めてよいのであろう。
 問題は「第三の香」を捧げた人物が誰であったか、また臨席していたかどうかにあるが、第三の焼香にかんする法語の文章は、全文、下記のようなものである。
又、香を拈じて云く「此の一瓣の香、金紫光禄大夫黄門侍郎、禄算を増崇せんがために奉る、伏して願わくは松栢の寿、甫・申の幹のごとく、国家に柱石となりて、生民を撫育したまはんことを』
 この「金紫光禄大夫」という言葉は中国で「金紫」(金印紫綬)の貴顕身分の宮内職を示す言葉であるが、日本では「正三位」を表現する唐名として使用された。また「黄門侍郎」とは中納言の唐名である。それ故に、「金紫光禄大夫黄門侍郎」というのは、正三位の中納言という地位にいる人物を示すことになるが、この時の中納言のうち、これに該当するのは『公卿補任』によれば三条公明(侍従、四六歳)、洞院公泰(中宮権大夫、左衛門督、二二歳)、西園寺公宗(春宮大夫、一七歳)の三名のみである。このうち誰をあてるかは問題が残るが、ここでは西園寺公宗であった可能性を指摘したい。公宗はこの年七月二四日の量仁親王(後の光厳天皇)の立太子に際して権大夫となり、ついで十一月四日に正三位になるとともに大夫に転じている。さらにその直後、父の実衡が死去し、それにともなって公宗は西園寺家が西園寺公経ー(その子)実氏ー(その孫)実兼ー(その子)公衡ー(その子)実衡と歴代にわたって襲職してきた関東申次の地位に就任していることも特筆される。「国家に柱石となりて、生民を撫育したまはんことを」という祝詞は、まずは開堂法語にしばしばみられる形式的なものというべきであろうが、しかし、公宗の立場が文字通りそのようなものであったことも否定できない。
 以上のように考えることが許されるとすると、妙超は、大徳寺の開堂にあたって今上天皇・後醍醐と太上天皇・花園、そして西園寺公宗を通じて皇太子・量仁に対して祝詞を述べたということになる。もちろん、今上天皇・太上天皇・皇太子に対して焼香を行うというのは、ある意味で当然のことではある。しかし、亀山ー後宇多と南浦紹明の関係を後継者として担う存在であった妙超が、それだからこそぎゃくに王家の全体を強く意識していたことは明らかであると思う。
 ここにあらわれた王権と大徳寺の開堂の関係を考えるためには、一応、この前後の大覚寺統・持明院統の王統迭立の状況を確認しておく必要がある*1。そもそも大徳寺開堂にいたる約二〇年ほどの時期は、南北朝内乱における王家の軍事的分裂にまでつながっていく諸矛盾が王権内部に蓄積されていった時期である。それは一三〇五年(嘉元三)における亀山法皇の死去、一三〇八年(延慶一)の後二条天皇の死去に始まった(二四歳)。その代わりに即位したのは花園天皇であったが、この時、後宇多は、後二条長子・邦良(九歳)ではなく、尊治(後醍醐)を皇太子とした。花園と後醍醐という大徳寺にとって根本的に重要な位置にある二人の天皇が登場したのである。宮中の花園が妙超を招いて問法したのが一三一六年(正和五)のことであった(『大燈国師年譜』)。そして、これも周知のように、当初、後醍醐は妙超の法兄にあたる通翁鏡円を「師」としていたという(『花園院日記』正中二年閏正月二八日)。花園と後醍醐の二人が宗峰妙超と通翁鏡円の二人におのおの問法していたというのはきわめて興味深い事態であることはいうまでもない。
 ところが、妙超が花園を訪ねた翌年、いわゆる「文保和談」(一三一七年・文保一)において後宇多は、花園の退位を迫り、尊治(後醍醐)を即位させた。しかも翌一三一八(文保二)、後宇多は六歳の量仁(後の光厳)の立坊を希望する後伏見上皇の意向を退け、先に立坊を見送った邦良を立坊することに成功したのである。邦良には健康の問題があったが、その弟の邦省が、一三二一(元亨一)に元服し、「慇懃の沙汰」があって、「皇嫡」としての資格も認められたという。こうして、後宇多は、天皇位・皇太子位の全体を統御し、大覚寺統・持明院統の王統対立を清算する糸口をつけたようにもみえたのであるが、しかし、一三二四年(元亨四)に、後宇多が死去し、一三二六年(正中三=嘉暦一)三月二十日に皇太子邦良が死去したことによって(二七歳)、王統をめぐる事態はもう一度振り出しにもどることになった。この時の春宮候補としては、①恒明、②邦省、③量仁(光厳、後伏見皇子)、④尊良(後醍醐長子)などの選択があったが、同年七月に量仁が立坊したのである(一四歳)。大徳寺の開堂は、まさにこの王統の動きが決まった年の年末であったということになる。この後、一三二八年(嘉暦三)には、一方で持明院統の側による後醍醐退位、量仁即位を要請する使者の派遣があり、他方で、永嘉門院による邦良の子供(康仁)の立太子運動があり、一三二九年(元徳一=嘉暦四)には、邦省親王の側が関東に使者を送ったという。このように王権をめぐる動きが続く中で、妙超の開堂法語に登場した後醍醐・花園・量仁(光厳)、そして春宮大夫公宗の関係が深刻なものになっていったのはいうまでもない。西園寺公宗に即していえば、公宗は、いわゆる元弘の変(一三三一年・元弘一)において光厳天皇の即位と、後醍醐の隠岐配流に関東申次として関わり、一三三五年(建武二)には後伏見上皇の院政再開を目指していわゆる中先代の乱の黒幕となって後醍醐によって処断されている。
 ようするに大徳寺の開堂は、王権の内部的矛盾が展開しはじめるまさに直前の時期であったのである。そして、その前、一三〇五年(嘉元三)に亀山法皇が死去し、そのしばらく後、一三〇八年(延慶一)に後二条天皇が死去した時期から大徳寺開堂にいたる約二十年間の相対的に王権内部が相対的に平和であった時期が、有名な妙超の「聖胎長養」二十年の期間にほぼ重なっていることが重要であろう。妙超が師・紹明から印可をうけ、「聖胎長養」二十年の指示を受けたのは、亀山と後二条の死去の間の年、一三〇七年(徳治二)である。つまり、王権内部の矛盾が押し詰まってくる時間と、妙超の龍潜の時間が一致しているのである。
 この事実は私にはきわめて興味深い。妙超は、京都で研鑽の日々を送りながらも、他方で、鎌倉時代末期の世相を眺望し、また王権内部に徐々に矛盾が蓄積される様相をも熟知することができる立場にあった。前述のように妙超が花園天皇とはじめて対座したのは一三一六年(正和五)のことであったが、その時、天皇が「仏法は不可思議、王法と対座す」と述べたのに対して、妙超が「王法は不可思議、仏法と対座す」と述べたというのは著名な話である(『大燈国師年譜』正和五年条)。この「王法と仏法」を明瞭に対置する覚悟は、この二〇年の間に形作られたものであったのではないだろうか。そして、妙超が、本来めざしたものは、王権内部の両統の相違をこえて、南禅寺を継ぐ位置にある禅宗寺院・研鑽と修学の場を作り出すことであったのではないだろうか。それは南浦紹明の後継者として自然な発想であったに違いないと思う。
Ⅱ花山院兼信・中御門経継と創建期大徳寺
          ーー播磨小宅庄と若狭名田庄
 以上のような王権と大徳寺の関係は、大徳寺の基盤をきわめて広いものにした。それを可能にしたのが妙超の宗教的・人格的力量であったことはいうまでもないが、王権・貴族社会のさまざまなメンバーが接近をはかる寺院として、室町時代を通じて、大徳寺が存在感をもち続けた理由は、このような創立の経過にあったのではないかと思う。もちろん、大徳寺の歴史には様々な屈折が生まれたことはいうまでもない。
 いうまでもなくその最大の問題は、後醍醐と大徳寺の関係の問題にあり、建武の新制期における大徳寺の位置の問題、そしてそれが大徳寺の歴史、そして日本の禅宗史の中でどのような意味をもったかという問題は本報告の手にあまる課題である。ここで検討できるのは、より個別的な問題、つまり、創建期の大徳寺の周辺にいて、王権と妙超の間で一定の役割を果たしたのではないかと想定される二人の貴族の実像をさぐることにすぎない。しかし、大徳寺史の研究の現状は、まだまだこのような基礎的作業の積み重ねが必要な段階にあると思う。
①花山院兼信の周辺と大徳寺
 第一にとりあげる花山院兼信は系図①に示したように、父を花山院師信とし、母(「権大納言典侍」)は三条実盛の娘(『公卿補任』)として一二九四年(永仁二)に生まれている人物である。後醍醐天皇より六歳、花園天皇より三歳の年下という年齢である。兼信と大徳寺の関係が史料的に確認できるのは、兼信が若狭名田庄を大徳寺第一世、徹翁義亨に寄進した時、一三四〇年(暦応三)が最初である(大徳寺文書①一四六)。しかし、そこに「先年相副 勅裁以下公験文書」て寄進とあることをみると、徹翁への寄進はもっと早かったものと思われる。そしておそらく兼信が徹翁義亨に近づき、帰依したのは、義亨の師、宗峰妙超自身を通じてのことであったのではないかというのが、下記の分析からの推定である。
 いうまでもなく、この花山院家およびその庶流五辻家は、後宇多・後二条・後醍醐の系統との縁がきわめて深い。まず祖父・師継は忠雅ー兼雅ー忠経(母は清盛)と続く花山院嫡流に属し、忠経の息子で藤原宗行の女を母とする人物である。師継は一条能保女を母とする兄定雅の家系とはことなって、大覚寺統に密着した春宮大夫の家柄として地歩を固めたということができる。師継は後宇多の東宮太夫(文永五年八月二五日~同八年三月一四日)、その子・師信は後醍醐の春宮太夫(徳治三年九月一九日~文保二年二月二六日)、そして後二条天皇第一子・邦良の春宮傅(文保二年八月二日~元応三年四月二三日薨去)をつとめている。兼信は、この師信の長子であった。
 なお、五辻家は、忠経の同母弟の家経から出た家系であるが、有名な後宇多の妻・談天門院忠子は家経の曾孫で五辻宗親の妹にあたる。その上、宗親は二人の娘を後宇多・後二条の妃としており、後二条に嫁した女性は邦治・邦省の二人の皇子をもうけている。後宇多・後二条・後醍醐の王家大覚寺統にとって花山院家は表向きを、五辻家は嫁家の役割を担ったといえようか。なお、五辻忠子が花山院師継の子供という形をとって入内していることも付言しておく(『神皇正統記』後醍醐)。
 このような伝統を受けて、兼信は一三〇九年(延慶二)十月二四日に皇太子後醍醐の春宮権亮となっている。その前年、父親の師信は一三〇八年(延慶元)九月の後醍醐立坊にともなって、その春宮大夫となっている。後醍醐の立坊が八月の後二条死去、花園即位をうけたものであるのは前述の通りである。父は春宮大夫、子は春宮権亮ということになる。それにくわえて重要なのは、兼信が一三一〇年(延慶三)三月九日に、花園天皇の蔵人頭となり、同年九月四日には一七歳で公卿の座についていることである。兼信は、後醍醐の側近としての立場を確保するとともに花園にも親近したということになり、その前途は洋々たるものがあったということができよう。実際、兼信は、一三一五年(正和四)には従二位権中納言、一三一七年(正和六)には正二位と着々と昇進の道をたどった。
 しかし、一三一八年(文保二)の後醍醐即位の後、しばらくたって、一三二一年(元亨一)、父師信が死去したことが兼信の経歴に大きな変化をもたらした。兼信は父の服忌によって公卿の任を離れ、翌年正月に一度復任したが、あいついで二月に母が死に、その服解の後には公卿に復任せず、以降、散位としての地位にとどまったのである。これは、弟の師賢が同じく母の喪に服しながら、服解の後、権中納言および中宮権大夫に復任しているのと大きな相違となった。これ以降、師賢は、正中の変(一三二四年)、元弘の変(一三三一年)を通じて後醍醐に忠誠を尽くし、笠置の落城の際に逮捕されて出家・下総流罪の運命をたどったのである。それと対比すると、兼信は、ここで後醍醐側近の立場をはなれたというべきであろう。
 その理由は、後に述べる結果からすると、まず兼信が徐々に矛盾を強める後宇多・後醍醐父子の関係の中で後宇多に近づき、後宇多が庇護した後二条の子供たち、つまり邦治親王、邦省親王に近い位置をとったことにあったと思われる。それを示唆する同時代史料としては、一三二一年(元亨元)、兼信が、賀茂祭にでる後宇多・恒明親王・邦省親王の車に従ったという記事をあげることができる(『花園院日記』同年四月十八日条)。そしてそれのみでなく、兼信は花園天皇の蔵人頭をつとめて以降、持明院統との関係をもふかめたように思われる。花園院より三歳年下の同世代であった兼信は、花園院の親密な側近であったのではないだろうか。『花園院日記』によれば、たとえば、一三二〇年(元応二)九月四日に伏見院法華八講に奉仕しているのを初見として、一三二九年(元徳一)の皇太子・量仁親王の元服の習礼に際しては、前中納言兼信が列席して加冠の代理をつとめている(元徳一年一一月九日)など、しばしば兼信の名前を確認することができるのである。その外にも、一三一四年(正和三)の花園の朝覲御幸に際して、父・師信の院司の賞により正三位、翌正和四年には新院・後伏見院の御給により従二位、一三一七年(正和六)四月に父・師信の造宮行事の賞により正二位などの事実は、兼信が持明院統の院・天皇に仕える立場を維持していたことを物語っている。
 このような花園と花山院兼信の関係の条件となったのは、系図①にすでに示してあるように、従兄弟に花園の春宮大夫をつとめた右大臣西園寺公顕がいたことではないだろうか。公顕は西園寺実兼の三男であり、公衡の弟にあたる人物であるが、母が花山院師継の娘であって、公顕が死去した時は、兼信も、親の師信も弟の師賢も除服の宣旨をうけているという人物である。そして、先述の西園寺公宗は、公衡の息子、公顕の甥にあたることになるが、実は兼信の妻は公宗の母(西園寺実衡の妻)の妹にあたる二条為世の娘であった(『尊卑分脈』)。ようするに、花山院師継が西園寺実兼に娘を嫁に入れていることからわかるように、花山院の家柄はいわば西園寺の嫁家であったということができるだろう。またさらに興味深いのは、『皇親系』に花園天皇の皇女に「母藤原実子、適花山院藤原某」とあることである(『大日本史料』貞和四年十一月十一日条)。この「花山院藤原某」とは花山院兼信を意味するのではないだろうか。というのは『本朝皇胤紹運録』に、この皇女が「花山院中納言母儀、母宣光門院」とみえるからである。花園院と兼信はほぼ同世代であるので、この花園の皇女を兼信の母とする『紹運録』の記事には何らかの錯誤があると考えざるをえないが、この二つの史料をつなぎあわせることが許されるとすれば、兼信は花園天皇の皇女を妻としていたということになるのである。
 以上のように追ってくると、もとより確証はないとはいえ、花山院兼信が花園の問法を受けている宗峰妙超に近づいていった可能性はきわめて高いように思う。よく知られているように、祖父の師継は無本覚心*2に帰依し、息・空岩心性を無本の弟子としたことでも知られる。その伝統をうけて、兼信が若い頃から禅宗に親密であったことを想定することも許されるであろう。以上が、兼信が徹翁義亨に近づき、帰依したのは、宗峰妙超自身を通じてのことであったのではないかと推定する理由である。そして、もしそうだとすれば、推定を重ねるようではあるが、妙超が開堂において第三の焼香を捧げた「金紫光禄大夫黄門侍郎」を西園寺公宗(春宮大夫、一七歳)とするのはそれなりにうなずけることになるのではないだろうか。
②中御門経継の周辺と大徳寺
 次ぎに取り上げたいのは、中御門経継という貴族である。経継の父は『経俊卿記』の記主、吉田経俊、経俊は吉田経房の曾孫にあたる。また経継の母は、平業光(平業房と高階栄子の孫にあたる)の娘である。この家系は、花山院家よりも一級格下の貴族であって、花山院家がしばしば春宮大夫を出したのと比較すると、系図②の肩付に明らかなように、「春宮亮の家」ともいえる家柄である(『尊卑分脈』(二)高藤孫)。しかも、彼らは大覚寺統に附属する春宮亮の家柄であったということができる。中御門経継は後宇多院別当をつとめた大覚寺統の廷臣であるが(文保元年十月日、後宇多院庁下文案、『東寺百合文書』リ三六ー一、『鎌倉遺文』三四(二六四一一)は署名部分のみを白河本からとっている)、後二条天皇の春宮亮を勤め(永仁六年八月十日補任)、その子供の中御門経宣も、後二条の子どもの邦良親王の立太子(文保二年三月九日)にさいして春宮亮を勤めている(なお、経宣の子供の宣明も後醍醐の息子の恒良親王の春宮亮を勤めている『尊卑分脈』、『公卿補任』)。経宣は一三一九年(元応一)に春宮亮をやめているが(以上『公卿補任』)、『尊卑分脈』によれば経宣の従兄弟(経継の弟の子)の俊顕にも「春宮亮」という肩付があり、俊顕がその後に春宮亮についたものと思われる。それは俊顕が邦良の死去とともに(二七歳)、一三二六年(正中三)三月二四日に出家していることからも明瞭であろう(『尊卑分脈』)。死去直前の後宇多に邦良が面会する時の様子と、邦良自身の死去の様子は『増鏡』(下、十四春の別れ)に描かれていてよく知られている。そして、その二つの場面に登場する後宇多ー(後二条)ー邦良の従臣の中に、経継と俊顕が名前を連ねているのである。また邦良の弟の邦省親王が経継の養君であったことも重要である(『一代要記』)。後にもふれるように邦良と邦省は同母(五辻宗親の娘)であるから、邦良の最大の従臣であった経継が邦省の養君であるというのはわかりやすい。
 さて、創建期の大徳寺と中御門経継の関係は、花山院兼信と宗峰妙超の関係が推定にとどまったのと比較してより明瞭であって、大徳寺開堂の前年、一三二五年(正中二)十月一一日に妙超に対して寄進されたという史料によって知ることができる(『大徳寺文書』一六六)。そして、『大徳寺文書』の中にはその由来をたどることができる文書が残されており、それによれば経継が春宮亮に補任されてしばらくして、一二九八年(永仁六)の十一月二日に明年より小宅庄が付与されることが通知され(『大徳寺文書』二九三二(1))、翌年一二九九年(正安元)十二月二日に亀山院院宣によって小宅庄が「春宮(後二条)亮」あてに安堵されているのである。経継による小宅庄の知行はいわば春宮亮の奉仕についたものであったということもできるかもしれない。後二条は翌々年一三〇一年(正安三)に即位して経継は蔵人頭になったが、経継による小宅の知行は続き、それが右に述べたように、大徳寺開堂の前年に妙超に対して寄進されたのである。
 この寄進状において経継は「且つは帰依の志により、且つは仏法興隆のために次第の証文を相副、大徳寺禅寺に寄附」と述べている。中御門経継が実際に妙超に帰依していたことは疑いなく、しかも、それは単に個人的な帰依ではなく、大徳寺が後宇多ー後二条ー邦良の王統の中の寺院として位置づけられたことの表現であったというべきであろう。しかし、それは小宅庄の寄進の翌年、三月二十日に皇太子邦良が死去したことによって一つの意図のままに終わってしまった。
 以上、花山院兼信と中御門経継について概略を論じたが、大覚寺統の従臣として二人の間には一定の関係があったはずである。そもそも系図②に掲げた経継の従兄弟・経任は娘を西園寺公衡に入れており、その間に生まれたのが実衡であった。それ故に、系図①と②は、実は、経任を通じて接続していることに注意しなければならないのである。そしてそうだとすると、花山院兼信と中御門経継が後二条天皇の子ども、邦良親王(皇太子)・邦省親王の内、弟の邦省親王を通じて具体的な接点をもっていたことが重要な意味をもってくるだろう。前述のように、『花園院日記』には、一三二一年(元亨元)、兼信が、賀茂祭にでる後宇多・恒明親王・邦省親王の車に従ったという記事が残っているが、すぐに述べるように、兼信と邦省との関係は、その後もながく続いたのである。そして、経継が邦省親王が経継の養君であったことは前述の通りである。
 そして何よりも問題なのは、前述のように邦省が、一三二一(元亨一)に元服した時、「慇懃の沙汰」があって、「皇嫡」としての資格も認められたという事実である。一三二九年(元徳一=嘉暦四)には、邦省親王の側が関東に使者を送ったことも知られている。その背後には相当の貴族がついていたはずであるが、中御門経継は邦良の死後に出家している。邦省には経継にかわる人物がいたはずであり、次に述べるような邦省と花山院兼信の長い間にわたる関係からいって、少なくともその一人として、花山院兼信がいたと考えることができるのである。
 もし、以上が認められるとすれば、宗峰妙超と王権の関係を見直す必要がでてくることは明かであろう。創建期の大徳寺にとって、このことの意味はきわめて大きい。
Ⅲ徹翁義亨・花山院兼信と後二条王統
 以下、若狭名田庄の史料を中心に検討を加えることによって、邦省親王と花山院兼信の関係がきわめて深かったことを示して、右にのべた創建期大徳寺と王権という問題がたしかに存在することを確定しておきたい*3。
 前述のように、兼信が大徳寺文書に登場するのは、兼信が若狭名田庄を徹翁義亨に寄進した一三四〇年(暦応三)のことであるが(大徳寺文書①146)、問題は、この名田庄が、室町時代中期までは大覚寺統あるいは亀山院領の王領荘園であるという領有意識の下に存在していたことである。まず邦省親王が、亀山ー後宇多ー後二条の王統をうける王族として、その意識を持ち続けていたことは『大徳寺文書』にのこる一三六三年(貞治二)の弾正親王<邦省>家庁申状案が述べるとおりである(三七三(1))。この申状は「右、名田庄は、亀山院御領として、後宇多院御管領の後、万秋門院に譲り進めらるるの間、女院、花山院入道中納言家に譲り下され訖、彼の芳「足+蜀」に温み、且は本家と仰ぎ奉り、且は当村においては一円に弾正親王家新宮に譲り進らせられ、下村にいたっては義亨上人に譲与せしめ」とのべる。そして、花山院兼信も名田庄をそう位置づけていたことは、その三年前に「名田庄田村」を、邦省親王の息子、簾仁王に譲与したことによって明かである。そこには「ここに弾正親王の御息の新宮、すでに両皇(亀山院・後宇多院)の皇胤をうけ、御成人の上は、本家と号し奉り、当村を譲り申すものなり」とある(大徳寺文書三七三(2))。
 ここにあらわれた花山院兼信と邦省親王の関係が、鎌倉時代末期にまでさかのぼることは確実であろう。花山院兼信は、この譲状の執筆のしばらく後に死去したが、この譲状の最後に「覚円、余算幾ばくもあるべからざるの上は、閉眼の後、一円不輸に当村の事、御管領あるべし」と述べているのは、兼信にとっては邦省親王およびその息子・簾仁王への遺言ともいうべき位置をもっていたことになる。またこの譲状において花山院兼信が「およそ名田庄七ヶ村訴訟を致すの時は、贔屓ありて、公家・武家につけ御扶持あるべし」と述べながら、「事を本家の号に寄せ、いささかといえども、妄りに参差の御沙汰に及ばば、この状を御受用あるべからず」などといっているのは、弾正親王家(邦省親王家)が、公家・武家に対して一定の影響力をいまだに保持していることを意味するといってもよいだろう。
 そもそもこの段階においても邦省親王が皇位への希望を捨てていなかったことは、一三六九年(応安二)に邦省親王が、右の名田庄を譲与された簾仁王に相伝文書などを譲与した時の置文にしることができる(『三条西家所蔵文書』、『大日本史料』六編一一、應安二年十一月一三日条)。そこには一三四九年(貞和四)九月には邦省親王の立坊のことが議論されたという記事があるのが興味深い*4。「上杉重能籌策の間、障碍せしむるにより」と述べられていることをふくめて、この経過についての詳細は明かでないが、ともかく、この置文に「宿執の至り無力」を嘆きながらも、「天下正理に帰さしむれば、聖運、さだめて予儀あるべからざるか。もっとも執心致すべし」といわれているのには、それなりの背景があったことになる。しかし、『本朝皇胤紹運録』の「早世」という注記からみると、この期待をおわされた簾仁王は、おそらくこの置文が記されたしばらく後に死去したものと思われる。そして邦省親王も、一三七五年(永和一)に九月一七日に死去し(『大日本史料』六編)、これによって後二条王統が復権する可能性は最終的に絶たれたのである。
 以上が、邦省親王と花山院兼信の関係の確認であるが、さらに注目すべきなのは、以上を前提とすると、徹翁義亨をめぐる宮廷社会・貴族社会の環境の若干をかいま見ることができることである。徹翁義亨は六歳で出家を志し、京都建仁寺の鏡堂覚円に師事したが、鏡堂覚円の寂後に、宗峰妙超に参じて得悟したという経歴の持ち主であるから、南浦紹明の段階にさかのぼる王家あるいは貴族社会とのさまざまな所縁をもっていた可能性は残されている。ただ本論の推定は、義亨上人と花山院兼信の関係はまずは宗峰妙超を通じて生まれたのではないかという点にあることは前述の通りである。これらは論証不可能なことではあるが、ともかくも花山院兼信と義亨上人との縁がきわめてながく深いものであったことは確実である。とくに一三五三年(文和二)には名田庄を「徳禪寺鎮守春日大明神に寄進し奉る」とされているのはきわめて興味深い。兼信は徳禪寺の庭に霊鹿がやってきて倒れたところを掘ったところ銀の小塔が発見されたという著名な伝説を共有し、徳禪寺「春日大明神」を氏神として尊崇していたのではないだろうか(大徳寺文書①357)。また右にふれた一三六三年(貞治二)の弾正親王<邦省>家庁申状案によれば、名田庄の文書は「徳禪寺寺庫」に預けられていたという。禅寺における文書保管の一端については、本報告書所載の別稿を御参照ねがいたいが、この史料が文書保管の慣行を示すものとしてきわめて価値が高いことはいうまでもない。『東寺百合文書』の一三四九年(貞和五)年五月二一日の信誓請文(六芸部九ー五)によれば、兼信は山城上桂庄の正文を預かっているが、兼信は所々の庄園の文書を保管するような立場におり、義亨上人との関係は、寺庫に文書を預けるというような信頼関係にあったことは明かである。
 そもそも花山院兼信が義亨によって「千本殿」と呼ばれているのは(『大徳寺文書』①三七三(4))、彼が大徳寺の近くに居を構え、その日常的な交友関係の中に義亨上人が位置していたことを示すのではないだろうか。そして、その交友関係の内容としては、和歌の歌壇との関係があった可能性が高いのである。つまり、『徹翁和尚語録』によれば、徹翁は聖俗の多くの人々から問道と景仰をえたが、その中に、花山中納言(兼信)と並んで、歌人として著名な三宝院賢俊・住吉神主(国夏)があげられているのである。そして、前述のように兼信の妻は歌人として著名な二条(御子左)為世の娘であった(『尊卑分脈』)。系図①に示したように、二条(御子左)為世の妻の一人に女性歌人として名前をしられる住吉神主津守国助女がいるが、兼信の妻は彼女を母としていたのではないだろうか*5。もしそうでないとしても、義亨に問法した住吉神主国夏は、国助の孫にあたる人物であり、義亨と国夏の関係は、兼信→御子左家→住吉神主という縁を背景としていた可能性は高いと思う。こうして義亨の門人である気叟宗意が津守国夏の請によって「住吉第二神宮寺」を住持したこと、同じく義亨の門人で大徳寺第八世の卓然宗立はが国夏の弟と伝えられていることなどの意味が明らかになってくるのである(『龍宝山志』四)。
*1この間の経過については、筧雅博「道薀・浄仙・城入道」(『三浦古文化』三八号、一九八五年年)、森茂暁『後醍醐天皇』(中公新書、二〇〇〇年)、菊地大樹「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」(『歴史学研究』七四七号、二〇〇一年)などを参照されたい。
*2無本覚心および彼を祖とする法燈派については原田正俊「禅宗の地方展開と神祇」(原田『日本中世の禅宗と社会』吉川弘文館、一九九八)を参照。
*3なお、中御門経継と大徳寺の所縁は、経継の出家によって少なくとも一度は切れてしまったものと考えられる。そして逆にそのために経継の寄進した小宅庄は、この後、室町時代を通じて、一貫して大徳寺の荘園所領の中核として残ることとなったのであろうか。小宅庄については存在したはずの「次第の証文」が残っておらず、大徳寺領諸荘園目録(貞和五年、『大徳寺文書』一二二)にみえる「播磨国小宅三職、綸旨院宣武家下知手継等参拾五通」の内容もはっきりしない。そのために伝領の過程で何らかの問題が存在した可能性もあるが、まずは大徳寺にとっての大檀那である赤松氏との関係が重要であったのであろうか。詳細の検討は今後に残したい。
*4『園太暦』(貞和四年九月五日)に「今日、上皇御幸萩原殿云々、立坊以下事為被申談歟」とある。この年一〇月崇光天皇(建武五年に立太子している)が即位したが、皇太子は不在のままであった。
*5なお、系図に掲載したその姉「後二条院女房権大納言局」為子については、当面、彼女が尊澄法親王母であり、同法親王はきわめて早い段階で宗峰妙超に土地を去り渡していることも注目しておきたい(『大徳寺文書』①一六八)。