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旅する商人と護衛の下人

旅する商人と護衛の下人(『歴史と地理』385号(1987年9月)
 「面白いは京下りの商人、千駄櫃、荷うてつれは三人なり、千駄櫃には多くの宝が候よ  、商人を恋ふるかや、千駄櫃を恋ゆるかや」
という歌は、有名な『田植草紙』の一節である。小泉和子氏は『家具と室内意匠の文化史』(法政大学出版会)で、この歌を引いて「遠廻りをする行商人は千駄櫃を背負った」として、図1の『石山寺縁起』(巻5、瀬田橋の場面)の絵を掲げている。この男の絵については、高校の日本史教科書の插絵などであるいは御記憶の方もあるかも知れない。教科書も、この男について商人あるいは行商人と説明している。
 しかし、永く教科書に載っていたに違いないこの断定の根拠となると、どうであろうか。絵巻物分析では最初に依拠するべき本の一つである小泉氏の本や、『絵巻物による日本常民生活絵引』(平凡社)にも特に具体的な論及はないし、豊田武氏などの商業史研究でも特に触れられていないのである。もちろん、通説と異なることは書くなという無謀なことをいうと聞く教科書検定でも、この断定には疑問を挟んでいなかったのだから、これは暗黙の「通説」なのかも知れないが、要するに、何時のことだかは知らぬ、誰が言い出したのかは知らぬ、そういうことになっていて、特に研究もないというのが、実際であろう。とはいっても、私もこの断定に何の異論がある訳ではない。むしろ、その根拠を示すことが中世商業史研究にとって大切な意味をもつと考えるのである。
 図2は平安時代の成立とも言われる高松宮家所蔵、図3は室町時代の成立にかかる大東急記念文庫所蔵の「職人尽絵」に描かれた商人の姿である。確かに、それは図1の『石山寺縁起』(『日本絵巻大成』、中央公論社)の男の姿に似ているようである。荷櫃の様子は若干異なり、『石山寺縁起』の男は笠を着ているため、烏帽子の有無も不明であるが、何よりも旅装の必要条件である足ごしらえの脛巾きをつけていること、そして杖を持っていることなど、共通性は高い。
 そして、絵巻物、特に中世の人々の旅の姿を詳しく描き込んでいることで著名な『一遍聖絵』には、その所々に類似の画像を発見することができる。まず注目したいのは、図4、『一遍聖絵』(巻五、『日本絵巻大成』)の白河関から奥羽に下っていく一行の姿である。この一行の前にも二人の同じ姿の男が歩いているが、『日本常民生活絵引』は彼ら全てを「荷持ち」と説明している。これは先の『石山寺縁起』を含めて類似の画像についての『絵引』の統一的解釈であるが、しかし、彼らは別に主人に随行している訳ではないから、『絵引』のいう意味は、彼らがいわゆる「歩荷(ボッカ)」であるというのであろう。しかし、図4の先頭から三人目の男の姿に注目してほしい。これは、荷櫃の様子といい烏帽子といい手に持った傘といい、まさに図3の「職人尽絵」のいう商人の姿と同じである。実際に対応する詞書きに商人が一遍と一緒に奥州にくだったとみえることは決定的である。
 中世に近世の「歩荷」にあたる職業があったのかどうか、その姿はどのようなものかが明らかでない以上、彼らはやはり商人とするべきではないだろうか。ただ、問題として残るのは、彼らの担う荷櫃の構造と担い方である。私は、図3の商人のように背中高く荷を積み上げている商人のことを「高荷商人」といったのではないかと考えるのだが、それを含めて荷櫃の構造については、今後さらに研究を続けなければならない。しかし、これらの荷櫃が細工職人によって作られた細工物であったことは確実であろう。先の『田植草子』にもでてくるいわゆる千駄櫃は、商品を多く入れた櫃を積み重ねて担うものであるとされている。中世後期の史料ではあるが、それが細工職人によって専門的に作られたものであることは「宣胤卿記」(明応六年[1497]六月条)によって明らかなのである。そしてそのような細工物を担う人々として最もふさわしいのは、やはり商人であるということになるのではないだろうか(これらについては豊田武『中世の商人と交通』38㌻、『豊田武著作集』3巻、吉川弘文館、参照)。
 さて、以上を前提としうるとすると、『石山寺縁起』の男は、場面が瀬田橋である以上、東国へ向かう商人という設定ということになる。また、『一遍聖絵』の白河関の場面に描かれている商人は、古くは、9世紀から「白河・菊多の関」を往来していたと伝えられる「商旅の輩」(承和二年十二月三日官符、『類聚三代格』巻18)の姿であろうし、鎌倉時代にも大量の銭貨をもって白河関以東に下って絹布などの物産を買いあさったという商人の姿(鎌倉幕府追加法99条、『中世法制史料集』Ⅰ、岩波書店)であることになるだろう。大津瀬田橋や白河関の風物に、これらの東国往反の商人が描かれるのはいかにも自然であるのかも知れない。
 そして、注目すべきことは、絵巻物史料によると、多くの場合、彼らが連れそって行動していることである。まさに、これは、豊田氏が「多数の隊伍を組み、行商の道すがら、行く先々の市場で商品の取引をなしつつ進んだのが、中世商人の姿であったのであろう」(前掲書、29㌻)と述べている様子の一部を画像によって具体的に示すものであると評価できよう。ただ勿論、豊田氏がいうように、都鄙を往来する現実の商人団は、もっと多人数のものである筈であり、絵巻史料あるいは冒頭で引用した『田植草紙』に「荷うてつれは三人なり」とあるような、小人数のグループは、その大部隊が各地で分散して地方まわりをしている様子を示すとすべきであろう。そう考えて初めて、平安時代の『新猿楽記』にあらわれる京都に拠点を置く広域商人が、「八郎真人は、商人の主領なり」といっている「主領」という言葉が理解できるのである。
 しかし、何よりも重要なのは、絵巻物史料によって見るかぎり、商人の姿は街道の道々において普通の風景であったことである。周知のように、文献史料は定量分析に利用するためには、様々な困難を有している。これに対して、絵巻物史料のよいところは、そこに一定度の普遍性をもって描かれているものならば、現実に普遍性をもっていたことが直接に論証できることなのである。さらに類似の図像を集めて考察を加えなければならないとはいえ、これは商業史研究にとって大きな問題とするべき事柄なのである。
 また、驚くべきことは、中世商人の姿が少なくとも『一遍聖絵』の成立した鎌倉時代から多くの職人尽絵の成立した室町時代まで、基本的に変化しなかったことである。もちろん、商人の活動の規模や量は大規模になったとしても、その姿によって掴むことのできる彼らの行動様式に大きな変化はなかったのではないだろうか。これも今後の研究課題として提示しておきたいと思う。
 さて最後に問題としたいのは、ここで商人と想定した図4の『一遍聖絵』の場面の最後につき従っている蓑帽子をかぶり、弓を持った男の姿である。このような男は、絵巻物に見える商人らしき人々の近くには、殆ど必ずといってよいほど連れ添っている。そして、『絵巻物による日本常民生活絵引』は、これらの蓑帽子の男たちを「狩人」とし解釈し、それは、たとえば、図5の『一遍聖絵』の一場面について、網野善彦氏の『異形の王権』(19㌻)が「蓑帽子をかぶり、腰に「うつぼ」をつけた狩人たちの姿は、たしかに「異形」ともいえるが、供をつれ、堂々と胸を張って濶歩する彼らには卑賎視の影は全くない」と述べているように、一つの常識ともなっているようである
 図5についていえば、「狩人」の後ろから牛に荷を負わせて歩む二人の男の姿は、商人とすべきであろう。少なくとも「狩人」が後ろの二人の護衛であることは明らかである。そして逆にいえば、商人かどうか不明な図像についても、「狩人」の実態がわかれば、それを決定できることになるかも知れない。しかし、彼らは本当に狩人といってよいのであろうか。
 絵巻からこのような蓑帽子の男たちの姿を可能なかぎり集め、網野氏のいうような蓑帽子の意味や道路上での武装の意味を検討することは、また別の課題である。高橋昌明氏が「山の尾根筋など境界を遍歴する狩人には、境の神になりかわって、通過する旅の人々から手向(山神への贈り物ーー筆者注)を徴収することが認められ」ており、ある場合は商人などの旅人を護衛して「旅人の通行保障」をすることがあったのではないか(『湖の国の中世史』19章、平凡社)とするように、彼らが狩人である場合があったのも勿論であろう。
 しかし、絵巻物には平地の普通の道路を歩いている商人や護衛も見ることができる以上、護衛の全てを狩人という職能に引き付けて理解すべきではないだろう。私は、一番穏当なのは、商人に雇用された下級の武者と解釈することだと思う。商人団が護衛の武者によって守られているのが普通であることは、前掲書で豊田氏がいう通りである。そして、問題は、遠隔地商人の場合、この下級武者が出発地から同行していたものか、あるいは現地雇用なのかということである。もちろん、私は出発地からの同行がありえたことを否定はしない。ただ、鎌倉時代の商人は、「所の領主に依頼して、腕節の強い護衛の侍をつけて貰う程安全なことはない」という期待の下に、在地領主に「警護用途」などを出して路次の安全保障せさたことが知られており(豊田前掲書、30㌻)、下級の武者が、実際には地方の領主の所従・下人であった可能性を捨て切れないと思うのである。
 私は「みちのあいだのおそれ候へば、兵士の料に下人具してまいらする」(『平安遺文』2338)という史料を引いて、下人の交通護衛の問題に触れたことがあるが(保立『中世の愛と従属』149㌻、平凡社)、もし、以上のような想定も可能であるとすれば、これらの護衛の画像は、武装した下人所従の姿を示すものとして貴重な意味をもつことになるのではないだろうか。