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奈良・平安時代の地震、神話と祇園社

<第46回研究集会 記念講演  東京歴教協> 2013年3月(『東京の歴史教育』42号
       奈良・平安時代の地震、神話と祇園社
           東京大学史料編纂所教授  保立道久
はじめに
 今回の東日本太平洋岸地震と原発震災の複合という事態の中で、今、どういう教材研究が必要なのか、そして小・中・高・大学でどういうカリキュラムを系統的につくっていくべきなのかということを、みなさん、御考えなのではないかと思います。問題はたしかにきわめて大きく、私は、歴史の研究者としても、それに対応して、基本的な部分から考えなおしていくべきことが多いのではないかと思います。
 まず御紹介したいのは最近の『歴史学研究』(2013年3月号)にのった峰岸純夫さんの「自然災害史研究の射程」という論文です。峰岸さんはたんたんと書かれているのですが、それを読んでいると、端的にいえば自然史を本格的に歴史学の研究と教育の中に組み込んでいくことの重要性を改めて認識させられます。とくに私はいま地震学や災害論の研究者と議論する機会が多いのですが、彼らと話して、この論文で重大だと思ったのは、峰岸さんが、自然災害を(1)気象災害(a風水害、b干ばつ・冷害、)、(2)地殻災害(a地震・津波、b火山爆発、)、(3)虫・鳥獣害(a昆虫の大量発生、b鳥獣の作物荒らし)と区分していることです。とくに(2)の地殻災害という言葉は、峰岸さんは「日本列島の地殻構造に起因する地震・津波・火山爆発などである」と説明されていますが、災害研究のキーワードの一つになるのではないかと感じています。ヨーロッパの災害研究では、災害はMeteorological Hazards Geological Hazards Biological Hazardsの三つに分類されているということですが、峰岸さんは、それとは独立に同じ結論に達したようです。このうち、二番目のGeological Hazardsというのは地質災害とも訳せるかもしれませんが、地殻災害という訳は新鮮だというのが災害研究の方の意見でした。
 ただ、三番目の虫・鳥獣害というのは、もっと広くBiological hazards、つまり直訳すれば生態災害とでもいうのがよいのではないかと思います。いま鳥インフルエンザのパンデミック(世界流行)の危険が問題となっていますが、これもある意味での鳥獣害ですが、生態系の攪乱からくる災害という広い意味で分類した方がよいように思います。
 話のはじめに、なぜ、この災害の三類型について御紹介したかといいますと、実は、今日お話しする奈良時代から平安時代は、温暖化、地震・噴火、そしてパンデミックがまさに日本の歴史上、最初に一緒にやってきた時代だからです。地震・噴火などの地殻災害は、そのような人間と自然との関係の歴史全体の中で分析する必要があります。
 そして、八・九世紀においては、人間の生命に対する被害という点では、まず生態災害=疫病、気象災害=飢饉が大きいことを確認しておきたいと思います。もちろん、当時でも、津波は大きな被害をもたらしましたが、しかし、地殻災害は以下に述べていきますように、世界観の問題としてはきわめて大きな問題であったとしても、実態としては、現代ほど多くの人々の死をもたらす災害ではありませんでした。それに対して、明治以降千人を超える死者が出た震災というのは十二回あります。つまり一八九一年(明治二四)の濃尾地震は七二七三人の死者が出ていますが、以来一二〇年ですから、大体十年に一度、千人を超える人が無くなった地震が起きていることになります。これがどこまで国民、市民の中で常識となっているかは分かりませんが、ともかく、今日の話の前提として、現代に近づけば近づくほど、地殻災害の被害は相対的に増大している。そういう意味でもこれを考えることはきわめて重要であることを確認しておきたいと思います。
(1)倭国の神話と地震・噴火
 さて、地震・噴火の問題を考えていく場合に、どうしても「神話」について考えておく必要があるというのが私の意見です。いうまでもなく、戦後の歴史学と歴史教育の出発点における最大の問題の一つが「神話をどのように扱うか」ということでした。そして、戦後の歴史学も歴史教育も、神話を子どもたちに伝えること自体に反対した訳では決してありません。これは石母田正さんの有名な論文「古代貴族の英雄時代」(著作集十巻)であるとか、益田勝実さんの『国語教育論集成』(『益田勝実の仕事』5)であるとかを、是非、読み直していただきたいのですが、そこでは民族にとって、神話というもののもつ重大な意味が明瞭に語られています。民族の神話は、人類が地球の特定の地域に棲みついた時の経験と自然観に深く根づいているもので、それは多かれ少なかれ、民族の根っこを表現するものであると思います。いわゆる国民的歴史学運動の揺れと誤りの問題もあって、この問題についての議論は十分な決着を見ないままできていると思いますが、大地動乱というべき自然の動きを前にして、私は、倭国の神話を自然神を中心にして捉え直すことが必要だと思うのです。
 ともかく、日本の神話の構造には、非常に強く地震と火山の神話が位置づいています。たとえば、大隅の噴火という有名な噴火があります。764年、聖武天皇の娘の孝謙女帝が再即位した直後に、大隅国と薩摩国の国境の地域で大噴火が起きました。『続日本紀』によると、「西方に声あり。雷に似て、雷にあらず」、爆発音が京都にまで聞こえたということです。そして火山島が出現し、その様子が「神が冶鋳の仕業を営むよう」である。つまり神が、冶金や鍛冶・鋳物の仕業を営んでいると表現されています。「大隅国の海中に神造の嶋あり、其名は大穴持神(オオナムチ)といふ」ということで、火山神としてのオオナムチが出てくるので、この史料の分析が益田さんの『火山列島の思想』の中心論題だったのです。
 火山神というのは、全国にその爆発音を響かせるわけですから、非常に強力な神霊であると考えられていました。火山は噴火を起こします。同時にその前から火山性の地震が起こります。マグマが嵌入してきて山体が膨張し、火山性の地震が起き、そして噴火にいたるわけですが、そのときには雷音が響き、火山性の落雷、つまり火山雷が起きるわけです。昔の人々は、ここに注目して、そもそも火山の噴火や火山性の地震の原因が雷音=雷にあると考えました。今でも雷が光ると地面がドーンと揺らぐわけで、要するに地面を揺らすのは雷であり、しかも雷が鳴るなかで噴火が起こるわけですから噴火も雷が起こすというわけです。ここには、雷が自然の動きの中心にいるという統一的な世界観が存在したわけです。これは世界の神話に普遍的なもので、ゼウスにしても何にしてもどこでも同じです。これを私は、雷電・地震・噴火の三位一体の自然観・世界観といっています。そして、それは龍が雷電を起こし、地震を響かせ、そして火山に棲むという観念によって統括されるようになります。もちろん、もっと以前から龍の観念は流通しているのですが、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書きましたように、奈良時代から平安時代にかけて、こうい雷電・地震・噴火のすべてを象徴する龍という観念が、東アジアの影響の中で強く印象されるようになっていくように思います。
 しかも、噴火は鍛冶や鋳物師のような仕業であって、それを神がやっているということですから、これはローマ神話でいうバルカン(火と鍛冶の神=ウルカヌス)が地中に住んでいるというのと同じ幻想です。これは地下にマグマが存在しているという現代人の常識とある意味では同じことです。もちろん、プレートテクトニクスの理論によって、私たちは大地の動きと、それによって地殻災害が発生するシステムを自然科学的に理解できるようになりました。しかし、そうでありながら原発を作り続けるという目先の利己的・階級的な利害を優先する野蛮な判断が社会の中枢に存在させられている。そしてそれをなかばは認め続けているというのが実態ですから、認識の質としては、昔とそう変わっている訳ではありません。それと比較すれば、神話的な形式ではありますが、三位一体の自然観の方が、現代人の自然観よりは世界観としての統一性が強く、自然への尊重の意識も強いのではないでしょうか。いわゆる温故知新ということにもなりますが、昔の人は偉かったという感情は歴史学の研究や教育にとって基本的に大事なものであると、私は思います。こういう意味で、自然観あるいは自然史が神話に反映しているということを押さえておく必要があります。
 それでは、倭国の神話において地震の神は誰だったかというと、私は、スサノヲであったと考えています。スサノヲの母のイザナミは火の神カグツチを出産したとき大やけどを負って死んでしまいます。これは火山爆発の象徴であるというのが、神話学の古典、松村武雄氏の『日本神話の研究』の理解です。これをみた父神のイザナキは「黄泉国=根の堅すの国」に妻を訪問し、イザナミの精気を身にまといつかせて生き返り、海に出て禊ぎをして穢れを放出します。れはギリシャからマヤ文明まで、神話の時代に一般的な、死後婚とネクロフィリアを象徴する神話ですが、この神話は、そのような神話を示すテキストとしてもきわめて詳細なものとして重要なのですが、このときに生まれた神々が、まず第一に穢の神の大禍津日神であったというのが、日本の「穢」の観念を考えるうえで興味深いことです。いわゆる三貴神は、その後に生まれる訳です。すなわち左目からアマテラス(日神)、右目からツキヨミ(月神)を生み、そして鼻をすすいだときにスサノヲ(海神)が生まれます。鼻というのは黄泉の穢、死の穢を残す部位であるとされているというのが私の意見で、つまりスサノヲは貴神でありながら、穢の神でもあるという位置づけです。海の神が穢の神であるというのは、原発の汚染が海に流れているということを想起させますが、神話の時代にも、穢の行く先が海であるということは理解されていた訳です。
 このスサノヲが海の神であると同時に地震の神でもあるというのは、ポセイドンが海神であるとともに地震神であるのと同じことになります。その証拠は、スサノヲは母の「根の堅すの国」を恋い慕って「哭きいさちる」のですが、姉のアマテラスに会いに高天原に駆け上がります。そのとき「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」とあるのが第一です。第二に、スサノヲは「天の沼琴」という琴を持っているというのが、オオナムチ、つまり大国主命の神話にでてきます。オオナムチは兄たちにいじめられてスサノヲの所に逃げていって、結局、スサノヲの娘と婚姻するという話がありますが、そのテーマはこの呪宝の琴を盗む話です。オオナムチはスサノヲの娘を背負いこの琴を肩に担いで逃げるのですが、そのとき「樹にふれて地動鳴みき」とでてきます。つまり琴は地面を揺らす呪具だというのです。こうして、スサノヲの地震神としての資格はオオナムチに引き継がれたことになります。
 さて、二人は黄泉の国から逃げだします。スサノヲは追いかけるのですが、もう追いつけないということがわかると、坂の上から遠くへ逃げていく二人に向かって、「その宝物を使って地上の王者となれ。大国主命と名乗れ」と呼びかけるのです。「オオナムチ」の「ナ」はツングース系の言葉で「大地」を意味する言葉です。「オオ」は美称、「ムチ」は「貴」(尊い)を示す接尾語ですから、オオナムチの実体は「ナ」=「大地の神」「地神」ということです。そして、「クニ」とは、人間の領有・占有した区域のことで、区画された土地=領地をいうわけですから、スサノヲがおまえはオオクニヌシになれというのは――自分の娘との婚姻を承認し、「自然界の地霊から地上の人間界の王者になれ」と叫んだということです。
 重要なのは、スサノヲの神話の上での活動領域が紀伊国と出雲国であることです。まず、紀伊国は日前国懸社を中心として地震が多いところです。たとえばHi-net(高感度地震観測網)などをみると、それは印象的なものですが、また近畿地方だと播磨から出雲にかけてが多い。播磨から摂津にかけて山崎断層という長大な断層が通っているというのは地震学の方では有名な話です。『播磨国風土記』には、巨大な神が播磨国を歩き回って足跡が大沼となって残ったというダイダラボッチ伝説が残っていますが、こういう神が歩き回るのが地震であるというのが当時の考え方です。出雲国については、第4期火山帯は白山から中国地方の北を通って出雲の大山を通って阿蘇に下りてくるわけで、大山の噴火の記録はありませんが、当時から「火神岳」と呼ばれていたように大山が火山であることは知られていました。スサノヲが紀州と出雲に非常に縁が深いというのは、ここに原因があると私は思っています。ようするに、神話的な形式にかくれて、当時の人々も、日本の国土というものをそれなりに構造的に捉えていたはずなのです。益田さんは、「古代人にとって神話は神々の話であるとともに、歴史であり、文芸であり、科学であった」といっていますが、私もそう考えています。

(2)東大寺大仏と河内・大和地震
 さて、詳しくは、『歴史のなかの大地動乱』をみていただけるのがありがたいですが、8世紀から10世紀は、いわば大地動乱の時代でした。一覧表にしますと次のようになります。
・678年、筑紫地震
・684年、南海トラフ地震
・729年、長屋王自死、怨霊化事件
・734年、河内大和地震(長屋王父の高市皇子墳墓も崩壊)
・737年、疫病流行(藤原四兄弟死去)
・740年、恭仁京遷都
・742年、紫香楽京造営
・745年、美濃地震(紫香楽京被災)、平城遷都
・752年、東大寺大仏開眼(華厳経、釈迦は地震を鎮める)
・800年、富士大噴火
・818年、北関東地震
・838年、伊豆神津島大噴火
・864年、富士大噴火(富士五湖ができる)
・869年、東北沖大津波(一昨年の大津波はこの繰り返しだった)
・879年、南関東地震
・887年、東海・南海大地震(八ヶ岳山体崩壊)
・915年、十和田大噴火(記録のあるうちでは日本最大)
 全体としては、七世紀末から八世紀半ばに地震の活発期があって、八世紀後半は少し静かになり、九世紀の四半世紀頃から再び地震が激しくなるということになります。この『歴史のなかの大地動乱』という本では、こういう大地動乱の歴史と政治史が深く関係して展開していた様相を描き出してみました。まず奈良時代についてですが、ご存じのように、この時代は、王家の中で天武系の皇子がいなくなるほどの非常に激しい血みどろの政争が展開しました。日本において天皇制の歴史を教える場合に、これを必ず原点に据えなければいけないというのが私の意見ですが、このような政治史の展開を決定したといってよい長屋王事件とその後の大仏造営に、734年の河内大和地震がふかく関わっているのです。
 この地震は長屋王事件の五年後ですが、長屋王の父の高市皇子の墳墓が崩壊したと考えられています。『歴史のなかの大地動乱』で詳しく述べましたが、この地震の原因が長屋王の自死、怨霊化にあると考えられたことが、人々に大きな衝撃をあたえました。そこでは、スサノヲのような地震神が地震を起こすという神話的な観念と、怨霊が地にもぐって地震を引き起こすという幻想の二つがいわば合体していたように思います。そして、聖武が華厳経への帰依を強めたのはちょうどこの頃のことで、それは華厳経に釈迦の地震を鎮める力が書かれていることに関係していたということです。
 私、東大寺のホームページに、大仏は地震を鎮めるという役割をもっていたとあったのを読んだことがありますが、これは事実とみてもよいのではないでしょうか。貴族層の力を造仏事業に集中し、国家的な危機を釈迦の力に依拠して乗り切ろうとした聖武の構想には、こういう要素を認めるべきであろうと思います。年配の方はご存じと思いますが、戦後一時期の歴史教育では東大寺大仏を無駄で恣意的な政治と搾取の象徴のような描き方をしたことがあります。もちろん、その根拠になっていた北山茂夫氏の仕事の意味をすべて否定しようというのではありません。ただ、いつか『歴史地理教育』に書いたことがありますが、この頃、ちょうど新羅出兵が目論まれていて、聖武と称徳は、それをいやがって東大寺・大仏・西大寺の建設に邁進したという側面があります。そこにさらに地震からの鎮護という要素を加えることができるということになると、少なくとも現代の我々が、東大寺大仏を八世紀の大地動乱の経験とも関係でふりかえるという文化理解をもつことには意味があるのではないでしょうか。
 しばらく後に、紫香楽京からの撤退の原因となった美濃地震がおきましたが、その後、八世紀後半から九世紀の初頭まで地震は静穏期に入ったようにみえます。称徳・孝謙女帝について、歴史教育でどのように扱われているかは寡聞にしてよく知りませんが、唐の則天武后の時代は経済的には発展の時代であったといわれます。私は、大きくみると、この時期、奈良王朝も女帝の下で、経済的な活動や開発が進展したのではないかとひそかに考えているのですが、それが正しいかどうかは別にして、この時代が、地震の静穏期という意味では、いわゆる高度成長期と似ているといっても大きな間違いではないのではないでしょうか。六〇年代の高度成長が偶然的な大地の静穏の上にさいた仇花であったというのはいいすぎでしょうが、地震などの災害が静穏な時に経済的な成長の雰囲気におおわれるというのは日本社会史にとって基本問題であるように思います。
(3)九世紀前半の政治史と地震
 朝廷は、以上のような奈良時代の政争の記憶から離れて京都の長岡に都を移そうとしました。しかし、その長岡京の造営中に、桓武天皇が同母弟の早良親王を処刑します。そして早良は長屋王と同じように怨霊化し、794年7月には長岡京地震が起きます。これは、あるいは100年に一度起こるといわれている南海トラフ地震かもしれないと考えているのですが、これが平安遷都の動きを最終的に追認するような形で、10月に平安遷都が実施されます。地震に襲われた奈良を逃れて長岡に行ったが、そこでもうまくいかず、さらに京都に行ったという訳です。
 そして、800年の富士大噴火、818年の北関東大地震と続いたのですが、この時代はまだ地方での噴火地震であったこともあって大きな問題にはなりませんでした。ところがしばらくたつと、京都は群発地震の巣になってしまいます。この時の首都と近畿地方の地震は九世紀の王権の非常に大きな影響をもたらしました。奈良から平安京への遷都は、王権が地震の巣に飛び込んでいくことになったという皮肉な結果です。
 最初に甚大な影響をうけたのは淳和天皇(在位823-833)でした。彼は、末っ子でしたので桓武天皇の偏愛をうけたといわれ、異腹の妹高志内親王との近親結婚をします。桓武の遺志はそこから生まれた恒世親王を正当な後継者にする点にありました。桓武純血の孫という訳です。ところがこの高志内親王が夭折してしまいます。そこで淳和は兄嵯峨の娘正子内親王と再婚し、恒世は皇太子を継ぐことができなくなりました。すると前妻の高志内親王の陵墓が「不穏」な動きを示します。やがて恒世も亡くなり、正子内親王が妊娠して恒貞親王が生まれるのですが、827年、恒貞が誕生したその夜に雷鳴が鳴り響き、京都で群発地震が開始するのです。
 このあたりの史料を読んでいると、とても怖い話ですが、その後も京都で地震が続く中、829年に祇園社の原型ができます。愛宕郡の丘に紀百継により神社が建立されるのです。この紀氏が祇園社の原型を建てたというのはたいへん重要なことです。紀氏は紀州の紀と関係する一族で、スサノヲを崇敬している氏族です。紀貫之が編纂した『古今集』の序に神々の中で最初に和歌を読んだのはスサノヲであるとして「荒かねの土にしてはスサノヲノミコトよりぞ起こりける」と出てきます。「荒かね」とは鉄のことで、つまり地面の中にある鉄はスサノヲが深く関係しているのですが、その関係からいっても、紀氏は地震の神であるスサノヲを祭ったのにちがいないのです。これが祇園社の前身であることを記憶しておいていただきたいと思います。
 さて、右にふれた誕生の時に群発地震が鳴り響いたという恒貞は一度皇太子になります。ただ、この時期の王統の迭立の中で、その地位を追われたのがいわゆる承和の変です。私は年号をつかって歴史的事件を命名するのは明治の歴史観の残り滓で、何よりも教育でいえば子どもに余計な記憶を強制する悪しき風習であると思っていますので、正確にいえば恒貞廃太子事件と呼ぶべきであるといっていますが、それを乗り切った仁明天皇の時期は、ほかから比べると地震が少ない時期でした。ところが、その治世の末期になると、838年伊豆神津島大噴火が起きて、これは王権中枢にモノノケが登場した理由だととらえられました。それにつづいてまた地震が激しくなります。そして、仁明に次ぐ文徳・清和天皇は地震にさんざん翻弄されることになりました。
 とくに855年に斉衡の地震によって奈良東大寺大仏の仏頭が落下したというのは『方丈記』にものっていて有名な話です。文徳の時はたいへん地震が多かったのですが、地震の神に追われるようにして文徳は死んでしまいます。しかも、死んだ後に陵墓を造る使い(陵墓の占定使)が「地神」の集団に追われたという話が『今昔物語集』(巻24の13)に出てきます。「千万の人の足音」がして地神が追ってくるというので、陰陽師はとにかく田んぼに隠れようとすると、「気色悪しくして異なる香ある風の温かなる」風が吹いてきて、「地震の振るように暫し動きて過ぎぬ」とあります。この「異なる香ある風」とは疫病を運んでくる風のことであり、地の神が地震と同時に疫病を運んできて、王の陵墓を造る使いを追いかけるという話です。
 少し話を戻すようですが、「はじめに」で峰岸さんの論文にふれて、奈良時代・平安時代は日本の歴史上、三類型の災害がすべて出そろった時代であるといいました。温暖化・パンデミック・大地動乱ということになりますが、8~9世紀は、日本だけでなく東アジア全般がパンデミック(広域流行病)の時期に入っています。新羅の史料を読んでも、日本の史料と見まがううような疫病の史料が出てきます。多くの人が死んでいて、とくに藤原四兄弟が死んだ長屋王の事件の後の疫病の流行は激しく、統計によっては人口の3分の1が死んだといわれます。地震とともにパンデミックが起き、その疫病の理由が王家の内部紛争にもとづく貴族・王族の死とその怨霊化によるというふうに考えていました。人口の3分の1といえばオーバーなようですが、エジプトから侵入したペストによる中世ヨーロッパの人口減少はものすごいものでした。
 この『今昔物語集』の説話にみえる、地震を起こす地霊が、同時に疫病を伝える風(疫風といいます)を伝えるという観念は、その意味で興味深いものです。これは当時の人々にとっては理解しがたい一種の神秘的な災害を、同じ実態が起こすものと観念していたことをよく示しています。地震と疫病は同じ悪神が起こすという訳ですが、これはスサノヲが地震の神であるとともに穢の神と考えられたことに関係していると思います。
(4)播磨地震・陸奥地震と祇園会の開始
 こうして文徳が死んだ後に清和が即位したのですが、怨霊の風評は王権にとっても無視できないものであったようです。そのなかで863年、早良親王(崇道天皇)をはじめ藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂らの怨霊を祭る御霊会が、内裏南の神泉苑で行われました。神泉苑には龍が棲むとされていましたから、彼らの怨霊も同じような龍体とされたはずです。これらの人々は桓武王統の内部争いの犠牲者ですが、その政争の犠牲者を朝廷自身が祭らざるをえないというところに追い込まれていると評価すべきだと思います。
 ところが、御霊会の翌月には越中・越後自身がおき、さらに864年には富士の大噴火がおきました。この噴火はきわめて大きなもので、その溶岩流が北に流れて富士五湖ができたことは有名です。そして、それに引き続くようにして、866年に応天門の放火事件が起こるという不吉な経過でした。犯人はご存知のように伴善男とされたのですが、伊豆に配流されて868年に死去します。『今昔物語集』によると、この善男も怨霊化したのです。普通、こういう動きは藤原氏の陰謀という、私のいう「摂関政治中心史観」で処理されてしましますが、これもむしろ王権中枢の矛盾の激発が怨霊をもたらすという奈良時代から続く政治史の動き方の特徴との関係で考えるべきものです。
 問題は868年伴善男が死んだ年に播磨地震が起きたことで、これが善男の怨霊の引き起こしたものであるということになった訳です。この地震は同日に京都も大きくゆらした、M七,〇以上とされる大地震で、その震源は播磨国の大断層、山崎断層であったことが断層の掘削調査で確定しています。『歴史のなかの大地動乱』では、地震学者の読みにくい宣命であったためにデータの集成からもれていた摂津広田社・生田社の史料も挙げて、この前後に摂津も相当にゆれていることを明らかにしました。ここからすると、地震学的に確定している訳ではありませんが、山崎断層の北西部と南西部の全体が連動したものかもしれません。なおその後に山崎断層が動いた地震として「鎮増私聞書」(『兵庫県史』史料編中世四)に記録された一四一二年(応永一九)の地震があります。その震源は山崎断層本体よりも少し南に外れているかもしれませんが、九世紀からみると、その間は543年。そして、その時から1984年の山崎断層の竜野市北東のあたりを震源とするM5,6の地震までは572年です。これをとって、『日本歴史地名大系』(兵庫県)は、600年弱の周期で山崎断層が動いているのではないかとしています。ただ、1984年の地震はそんなに大きくありませんし、山崎断層は非常に長いものですので、すぐそういえるのかどうかは私にはわかりませんが、気になる点です。
 というのは、播磨地震の翌年869年5月に、今回の3,11の歴史的な原型とされる陸奥海溝地震が起きています。つまり陸奥沖で大きなプレート境界型の大地震が起きている訳ですが、この陸奥沖プレート境界地震は次に1454年(享徳三)に発生していて、間が585年。さらにその地震から今回の3,11までは558年で、どちらも600年弱だからです。
 これは地震の超周期性といわれる繰り返し性の問題で、地震学的にはまだ仮説の段階のようですが、ともかく九世紀に山崎断層の大地震と陸奥海溝地震がほぼ同時に発生したことは九世紀の地震の旺盛期といわれるものの規模を物語っているように思われます。なお、今日は九世紀陸奥海溝地震と、その三,一一太平洋岸津波との地震学的な共通性などについて詳しくふれることはしませんが、それについては、右の超周期性の仮説をふくめて佐竹健治「どんな津波だったのか」(『東日本大震災の科学』東京大学出版会)を参照いただきたいと思います。
 ここでは、陸奥海溝地震の直後、6月に祇園御霊会が始まったことについて伴善男の怨霊化とあわせて解説しますが、ふつう祇園御霊会は疫病を鎮めるためといわれています。しかし、そこにはこの時期の連続した地震の影響がありました。注意すべきなのは、祇園御霊会は播磨の広峯社の神が京都に移座してきてはじまったという伝承があることです。もちろん、この伝承は後のものですが、広峯社は祇園の本所であるという史料が鎌倉時代初期にありますので、播磨広峰と祇園の関係自体は存在したことは事実です。しかも、広峯社はもとスサノヲ社といわれていたとされており、さきほどの山崎断層の近くに位置している神社なのです。ようするに地震の神・スサノヲが京都に移座してきたという訳です。その前提にはさきほどの紀百継のたてた神社があったに違いありませんが、そもそも祇園社の建つ場所は花折断層の直上にあります(図1)。この断層は近江・若狭に続く大断層で、京都が揺れる時はここが揺れます。播磨地震は山崎断層が震源ですが、その揺れが摂津に到達し、はねかえって京都にまで及んだことになります。人々は、巨大な地震の神が播磨国の広峯社からドスンドスンと移ってきたと感じたのではないでしょうか。
 こういう播磨地震・陸奥地震の連続のなかで、それは伴善男の怨霊が起こしたという噂がささやかれたことは確実であると思っています。実際、しばらく後、876年に大極殿が炎上しますが、これは伴善男の縁者による付け火ではないか、あるいは伴善男の怨霊による「天火=神火=雷電」と疑われたことが知られています。さすがに地震については、そういう記事は残っていませんが、怨霊が落雷の原因ならば、地震を起こす地霊でもあるというのは前述の三位一体の考え方からいっても自然なことです。しかし、当時の宮廷としては、地震を起こしたのが伴善男であるというよりは、スサノヲであるという方がまだ我慢できることだったということでしょう。実際にはスサノヲを祭ることを表面に立てて伴善男の怨霊を鎮めるという心意もあったことでしょう。つまり祇園のスサノヲの深層には、伴善男の怨霊がいたということです。
 この御霊会が現在まで続いているのですが、祇園の神はご承知のように牛頭天王という神です。この神はスサノヲと同体の神であり、地震神としてのスサノヲが牛頭天王という形をとったものです。さきほど申し上げたように、スサノヲは地震神であると同時にケガレ(疫病)の神でもあり、大禍津日神ですから、まさに牛頭天王と同じ神です。こういうスサノヲ=牛頭天王という同体説は、いわゆる神仏習合の一形態というべきものです。神仏習合というとなにか平和な話と考えるのが一般ですが、河音能平氏が明らかにしたように(「王土思想と神仏習合」『河音能平著作集』2)、その根底に神話的な疫神を仏教などの文明的な宗教によって祭りあげるという意識がありました。神仏習合といいながらこれを語らないのは歴史学にとってはほとんど無意味な言説です。
 それは同時に、倭国の神話が変化していったということも意味しています。つまり平安時代には、牛頭天王が前面にでてスサノヲは陰にかくれます。倭国の神話の根底に存在した地震神スサノヲの物語が、7~10世紀の大地動乱の時代に、ある意味で復活しながら、その神話的な幻想の上に、同時に急速に別の物語が重層していく訳です。ここに現代までつづく習俗的な物語が形成されることになりました。つまりよく知られているによう蘇民将来の物語です。牛頭天王は、異国の神=北海の神で、南海のサカラ龍王という龍王の娘をお嫁さんにするために日本にやってきたけれど、日本で悪い目にあったので疫病をはやらせたというのが物語です。ただ、蘇民将来が牛頭天王を歓待したから、蘇民将来の札を下げておけば疫病からまぬがれることができるという訳です。後に述べることとの関係で、牛頭天王が龍の一族とされたこと、この物語が龍の物語であることを御記憶願いたいと思います。いずれにせよ、こういう物語の流布を前提にして、疫病はこの「蕃神」=疫神=「異土の毒気」のせいだということで、祇園会が首都の習俗の中に確固たる位置をもっていく訳です。ただ、牛頭天王の物語の基底にスサノヲの神話が生きつづけていたことはいうまでもないわけですから、これはいわば、大地動乱の時代、首都にスサノヲの神殿ができたと考えた方がわかりやすいように思います。
*図1.祇園社と花折断層。保立道久『歴史のなかの大地動乱』(p142)<図のキャプションです>
(5)『源氏物語』の時代と地震
 さて、若干の追補はしましたが、以上はだいたい『歴史のなかの大地動乱』で述べたところです。今日は、それを前提として平安時代の通史、とくに政治史を地震を通じて考えることを課題にしています。
 その場合の前提となるのが、868年の陸奥津波の10年後の879年に関東大震災と同じスタイルの南関東地震が起き、さらにその8年後の887年には東海・南海大地震が起きたことです。この887年の大地震の史料を精確に読んだのが地震学者の石橋克彦さんでした。彼の仕事によって、この時の信濃国の大洪水の史料が、地震によって八ヶ岳山体が大崩壊を起こして古千曲湖という巨大な堰止め湖ができ、それが梅雨時に決壊して信州の佐久・埴科・更級という広大な条理水田に洪水が入ったと解釈されるようになったのです。そして、信濃の考古学界の営々とした調査によって、その指摘の通り、八ヶ岳山体崩壊と堰止め湖の決壊に伴うさまざまな考古学的な痕跡が明らかになってきました。この887年地震は非常に広域のもので大阪湾で津波が発生したということから、だいたい一〇〇年に一度発生するとされている南海トラフの地震であることは明瞭だったのですが、東海地方で八ヶ岳の山体崩壊をおこすような強震動があったことが、これによって確定し、この地震が東海・南海の連動地震であったことが論証されたのです。
問題は、この南海トラフ地震の発生によって大地動乱の時代がさらに激しくなった側面です。これが現在のことについてもいえるかどうかはわかりませんが、少なくとも9世紀の地震の旺盛期は10世紀までは続きました。とくに10世紀初頭に十和田と韓半島の白頭山の巨大な噴火が連続したことが重要です。そして、934年(承平4)、938年(天慶元)の地震は非常に激しいもので、938年の震は死者が4人も出ています。9世紀、地震は多かったとはいっても京都では地震による直接の死者はありませんでした。それが10世紀に入って死者4人ということで、これは相当のことです。
このとき天慶に改元されたのですが、その理由は地震と兵乱が予測されたためです。実際、改元にもかかわらずその翌年には平将門と藤原純友の反乱が起きています。9世紀に宮廷争いが起きたといっても大きな政治的反乱が起きたわけではありません。しかし、以前、『平安王朝』という新書で論じましたように、朱雀天皇の後の代替わりがうまくいかない中で将門・純友の大規模な反乱が起きたことに朝廷は大変な危機感を持ちました。10世紀に入りますと、六国史がなくなって史料の雰囲気が変わりますので、歴史家はついそれに流されてしまって、九・一〇世紀の歴史の連続性を見のがしがちですが、当時の宮廷と王権はこの事態を9世紀の事態の連続と考えていたに違いありません。
 しかし、9・10世紀の東アジアの全体でみると、諸王朝の中で一応続いていた王朝は日本だけでした。新羅も唐も滅亡しており、これは日本の王家にとって大変な自信となったわけです。大地動乱があり内部的な争いが激しく大変だったけれども、ともかくも王朝の血筋は続いた。この中で、日本は万世一系であるという国際意識の論理が9・10世紀に一般化します。それが君が代の論理であったわけで、それがこの時期の「ナショナリズム」を根拠としたものであったことは歴史学にとっての重要問題であると考えています。
 それはまた別の話ですが、先日、文学史の三田村雅子さんと河添房枝さんと『源氏物語』に描かれた天変地異というテーマで座談会をした時、この一〇世紀の地震との関係で『宇津保物語』の第一巻にでる俊陰の琴の話を位置づけることができるということを教えられました。つまり、『宇津保物語』のトップ「俊陰」は、遣唐使となった清原俊陰がペルシャで天女から琴を与えられる話です。俊陰の琴は多くは天皇に献上されるのですが、もっとも威力の強い琴は娘に伝領されます。そして、俊陰の死後、娘は子どもと一緒に洛外にでて木の「うつぼ」に棲む運命になるのですが、そこで東国の武士に襲われそうになった時に、琴をかき鳴らすと、山が崩れ、その武士を山の下に埋めてしまった。この琴は「山くずれ地割れさけ」るという力を持っているというのです。この琴によって東国の武士を抑えつけるというのが、いかにも10世紀に形成された観念ではないかと思わせるということです。
 三田村さんのいうように、この時代の王権の中で、地震を鎮める力をもった「琴」という言説がもてはやされたことは確実です。これはスサノヲの呪宝としての琴が形を変えたものではないでしょうか。この『宇津保物語』の冒頭部分は、宮廷において一〇世紀の経験がどう引き継がれたかを示しているように思うのです。こうして時代は、兼家・道長・頼通の時代に入っていく訳ですが、さしもの地震も976年(貞元元)に山城近江を襲った大地震が過ぎると、静穏期に入ります。この時代は地震はあっても建物の崩壊や人死はありません。そう大きな地震はないのです。私はいわゆる摂関時代というのは地震の静穏期なのだということを確認して、そこには同じように静穏期であったいわゆる高度成長期の社会的雰囲気に似たものがあるのかも知れないと考えました。
 座談会でも確認されたのですが、地震は『宇治拾遺物語』にはあるのに『源氏物語』には一つも出てきません。しかし、人死にはなかったものの、この時代にも地震はあったことは先に述べた通りです。そして、10世紀までの記憶にもとづく不安の雰囲気も強く社会と文化の中に残っていたようです。それが『源氏物語』の天変地異の記述に反映していたらしいのです。
 たとえば、どういうふうに天変地異が出てくるかというと、もっとも重要なのは、明石の巻だろうと思います。つまり光源氏が父の桐壺帝の死後、き須磨に流罪になりますが、暴風雨と雷が起き「高潮」が明石によってくる。京都の宮廷でも明石でもこれは一体どういうことだろうと「あやしき物のさとし」とされたという訳です。そのしばらく後、また高潮がおきて、御座所近くまで潮が満ち波が寄ってきて落雷も激しいということになった夜、源氏は夢を見ます。その夢は、源氏の父の桐壺帝が大波とともに「海に入り、渚に上り、内裏に奏すべきことのありて上る」というものです。桐壺帝は死んでいるわけですが、それが海に入って渚に上り明石に上って京都まで上るということで、桐壺帝の霊が天変地異の背後にいたというわけです。
 死霊が海の中から渚に上ってくる。これは桐壺帝が黄泉の国から上ってきたことを意味します。重要なのは、三田村さんが、須磨の屋敷は「海面やや入りて」「山中」とされているのに、そのそばまで潮がやってきたというのは、津波が示唆されているのではないかとされたことです。たしかに、津波の場合はしばしば海面が発光するという、地震発光かと思われるような記載が多いのですが、この場面でも「海面は光り満ちて」とありますし、「高潮といふものになむ。とりあへず人そこなわると聞けど、いとかかることはまだ知らず」(高潮であっという間に人をそこなう)という描写も津波を思わせます。
 つまり、明示されている訳ではないものの、津波が示唆されていると考えることは可能だろうと思います。つまりここには黄泉国の怨霊が地震・津波をおこすという観念が踏まえられていた。とくにここはまさに播磨国の海岸ですから、海神=地神であって同時に「黄泉国=根の国」の主であるスサノヲのイメージがふまえられていた可能性が非常に高いように思います。そして、これが非常に微妙な王権内部の問題をかたる背景にされているのが興味深い訳です。京都にいた冷泉帝(実際には源氏の息子)も、同じ桐壺帝の「さとし」によって驚かされ、源氏は明石から京都に呼び返されることになります。私は、右の座談会でおしえられて、こういう『源氏物語』の叙述は、やはりたいへん見事なものであることを再認識しました。
 ただここで注意しておきたいのは、三田村さんもそう考えられていますが、あるいは紫式部は須磨から明石という土地が地震や津波に縁が深いということを認識していたのではないでしょうか。1596年(文禄5)の地震では須磨明石に津波がよっていますし、この前の阪神大震災でも須磨断層が動いています。そして、もし式部の経験の範囲内に須磨の津波ということがあったとすると、10世紀から11世紀の初頭のある時に大阪湾内で津波があったかもしれないということになります。この時期の地震史で最大の謎になっているのは、だいたい100年に一度はあるはずであるということになっている南海トラフ地震の史料がないことです。そして石橋克彦氏によれば南海トラフ地震の大きな特徴が大阪湾における津波であるということですから、あるいは、現在は特定できないとしても、やはりこの時期、南海トラフ地震が起きていたのかもしれないと想像するのです。これはあくまでも想像ですが、桐壺帝の死霊が須磨の海岸に上ってくると云うのは、簡単には黙過できない問題であることは強調しておきたいと思います。
(6)院政期の祇園社と地震
 摂関期を過ぎて院政期に入ると地震の静穏期は終わるようです。つまり、十一世紀後半、後三条院の時代になりますと地震が目立つようになります。大きかったのは、一〇七〇年(延久二)10月の地震です。『栄花物語』には、祇園社が焼失して、その直後に「なゐ」=地震が起きたとあります。火事は失策ですから、そのために神が怒ったということでしょうか。火事が14日で、20日に地震です。そのため、翌年八月に祇園天神は造り直されて、新造の社ができます。そして、その翌年4月に後三条が祇園に行幸します。後三条の祇園への行幸は、この地震との関係があるのではないかと思っています。これ以降天皇の祇園行幸が慣習になって、祇園の位置が上がっていくのです。
 しかし影響が大きかったのは白河院政の時代でしょう。たとえば一〇九三年(寛治七)二月には京都で地震があって諸所の塔が損害をこうむり、疫病流行の予兆と占われており(『藤原宗忠日記』)、さらに五月一四日には奈良の春日山が鳴動した(『百錬抄』)。ちょうどこの時近江国司と相論をしていた興福寺・春日社の僧侶神人は、京都に嗷訴するという手段にでようとしていたが、その訴状には「社頭頻りに鳴り、山谷しばしば響く」として、地震を神の怒りの表現とする主張がみえます(『扶桑略記』)。この鳴動の記録は、『大日本地震史料』にはとられていません。「鳴動」というのは解釈がむずかしい場合があって、すぐに地震とすることはできないのですが、この場合の「谷々が響く」というのは地震と考えてよいと思います。これが春日神木を動かした最初の嗷訴の事例になります。
 この年には右の二月の大地震のほかに五回の地震の記録があり、さらに年末から翌年にかけては京都で疫病が流行しました。平癒の祈りが諸寺社に捧げられたましたが、翌一〇九四年(嘉保1)正月と九月にはとくに祇園社で読経が行われているのが重大です。この年にも三回の地震が起きていますが、さらにその翌年一〇九五年(嘉保2)には地震の数は減りましたが、八月に京都で「大地震」が感じられるとほぼ同時に出雲大社の鳴動が報告されています。そして九月には、時の天皇の堀河の周囲に物恠が跳梁し、「咳病」から「不予」におちいるという事態になります。この時、堀河が祇園社に立願していることは偶然とは思えません(『藤原宗忠日記』承徳元年四月二六日条)。
 しかも一〇月には今度は叡山が美濃国司源義綱を訴える日吉社神輿の「動座」をともなう最初の嗷訴に突入するという大事件がおきました。これが日吉神輿が京都に下りてきた最初の事例です。これに対して義綱を保護していたと思われる関白師通が「まったく神輿をはばかるべからず」という強硬姿勢をもってのぞんだために、武士が矢を放って神輿を傷つけたことが山僧・神人の激昂を呼びます。私はこの時、悪僧の一部が祇園林に逃げ込んだこと(『藤原宗忠日記』)は祇園社が状況の中心にいたことを示していると考えていますが、叡山の強訴も、春日と同様に、地震(そして疫病)にともなう社会の雰囲気を背景にしていたことは確実だと思います。
 ここに始まった春日神木と日吉神輿の動座が平安時代末期にかけて政治状況とからんで、京都を大きく揺るがせたことはよく知られていますが、これが両方とも地震が頻発する状況の中で起きたことは無視できないと思います。春日の場合はそれを史料が明瞭に語っている訳ですが、ここには地震に神意を聞くという心理が現れています。そして、これを伏線として、一〇九六年(永長1)、永長大田楽の熱狂が導かれました。この年、二月に地震があり、五月頃には旱魃と疫病の流行が始まっています(『藤原宗忠日記』嘉保三年六月一四日条)。その中で、人々は五月から七月頃にかけて石清水・賀茂・松尾・祇園などにむけて田楽を捧げました。この熱狂は「妖異の萌すところ」(洛陽田楽記)、「時の夭言の致すところ」(『藤原宗忠日記』)などといわれていますが、その条件に従来指摘されているような干ばつや疫病の流行のみでなく、地震があったことは疑いありません。
 重要なのは、これが王権の危機とむすびついていたことです。その前提は、そもそも前年の堀河の不予の時には、後三条の「三宮」輔仁が王位につくことが待望されたという問題で、永長大田楽がそういう政情不安の中で起きたことが重大なのです。まず、白河院の側は、愛娘郁芳門院媞子が田楽を好んでいたこともあって、むしろ大田楽を応援して参加する側にたっていましたが、その媞子が八月七日に死去してしまい、ショックをうけた白河院は出家してしまいます。他方、白河の子どもの堀河天皇は関白師通と共同して、白河院政下ではあったものの、白河の介入をおさえて執政する姿勢を強めていました。この田楽はそういう堀河と師通がおこなった形式的な災害対応に対する批判をふくんでいたとされます(戸田芳実「荘園体制確立期の宗教運動」『初期中世社会史の研究』)。堀河はどうにか健康を取り戻したものの、前年、日吉神輿が矢を射かけられるという事態に責任のある師通は、そもそも祇園社が比叡山の末社という位置にあったこともあって、祇園の神人をはじめとする大田楽に参加した人々に敵視されていました。この師通も媞子の死のしばらく後に咳病を発します。
 こういう中で、一〇月の二回の地震の後、一〇九六年(嘉保三)一一月二四日、今度は掛け値なしに大きい被害を各地にあたえた大地震が発生しました。この地震は、京都が数日揺れ、伊勢安濃津と駿河を津波が襲い、近江勢多橋が落ちるという規模からして東海地震であることが確定的なものです。これによって嘉保の年号が永長に改元されたのですが、それを記録した師通は、この改元の理由を「今年世間淫乱、去る廿四日大地震」と述べています(『後二条師通記』)。
 重大なのは、この師通がちょうど二月末頃から「風気」を発して調子を崩し(『後二条師通記』二月二四日条)、三月下旬になって発病して、六月に死去してしまったことです。私は、師通が体調をくずした後の、三月始めになって、東海地震の時に祇園社の宝殿が大震動して、雷音を発したことが怪異として卜占の対象となっているのは偶然のことではないだろうと考えています。詳しくは別の機会に述べることにせざるをえませんが、この頃、師通が日吉神輿を射させた関係で、山王の祟りをうけたという噂が出まわったらしいのです。『平家物語』によれば、最初は師通の母・源麗子の必死の祈りによって、山王が「三年が命を延奉らむ」という猶予をあたえたが、その期限が来て、師通は死去したというのです。
 『源平盛衰記』『山王霊験絵巻』などには、師通の死後、日吉社の神体山、牛尾山の山頂に立つ八王子宮と三宮の神殿の間にある盤石の下に師通の魂が籠め置かれ、雨の夜には石に押されて苦しむ呻吟の声が聞こえたという物語が記録されています。「比叡の大嶽頽れ割けて御身にかゝる」(『源平盛衰記』)という訳です。牛尾山にはオオナムチと同体の大物主神が鎮座しているとされていましたから、ようするに師通は地震の地霊にやられたという訳です。比叡山と祇園の間に本末関係があることはいうまでもありませんから、ここで延暦寺・日吉神社(オオナムチ)ー祇園(スサノヲ)という地霊・地震神の神観念が動いたことは確実です。
 そして、この上に、一〇九九年(承徳三)一月二四日には右の東海地震に引き続いて南海地震が発生しました。石橋克彦さんによると、歴史上だいたい東海地震が起きてから南海地震が起きるといいます。なぜ東海地震が先行するかというのは地震学の大問題のようですが、こういう連鎖の中で、地震の恐怖の物語が再生されたというのは当然であったろうと考えています。

(7)平氏と祇園・福原・厳島──瀬戸内の龍神信仰
 さて、こういう経過の中で一人勝ちしたのは白河院でした。「鴨川の流れ」云々という白河院の言葉は有名ですが、いってみれば「地震」は白河院のいうことをきいたという訳でしょうか。ともかく白河専制という平安末期の政治史に巨大な影響をもたらした条件として、一一世紀末期の東海地震、南海地震の連動があったというのが、いちおうの結論です。
 平氏政権もその延長で読むことができます。上の師通の話はまだ論文にしてませんが、平氏政権期については「平安時代末期の龍神信仰」(『歴史評論』750号)を御参照ください。そういうことで内容は省略して御話ししますが、『平家物語』では、平清盛は白川法皇が祇園社の入口で見そめた町の女・祇園女御に産ませた落胤であるという一節があります。清盛が白河法皇の落胤であるというのはかなり可能性の高い話ですが、母親が祇園女御であるというのはありえないとされています。ただ、こういう経過からして、白河は祇園社への帰依をふかめたことは確実と思います。そしてそこに何らかの所縁をもつ祇園女御を中心にして白河はハーレムを組織した訳ですが、その周辺にたしかに清盛の父の平忠盛がいました(高橋昌明『清盛以前』)。
 清盛の人生の転機となったのは1147年の祇園会で、清盛の郎党と祇園社の神人との乱闘事件で叡山と祇園の強訴を受けたことです。このとき清盛の父の忠盛は荘園を祇園社に寄進するなどして逆に祇園社に取り入ることに成功します。これによって清盛は安定した出世の道を辿ることができたわけですが、その背景に忠盛が祇園女御のハーレムの周辺にいた人物であったということが影響していました。同時に、このとき忠盛が播磨守であったことも重要です。彼は播磨守の地位を生かして祇園の本社といわれる播磨の広峯社との関係を強めたと私は推定しています。こうして、それ以降、播磨は平家の金城湯池になります。摂津から播磨を拠点として瀬戸内海をおさえるというのが平氏政権の基本戦略になります。
 1160年、清盛が大宰大弐から参議に列せられるとき厳島に社参し厳島を平氏の氏神にします。厳島明神は女神でサカラ龍王の娘です。先ほどの祇園の牛頭天王(=スサノヲ)が北からやってきて南のサカラ龍王の娘を嫁にするという話を紹介しましたが、そこからすると、厳島明神は祇園の牛頭天王の親族であるということになります。ですから、平氏は広峯、祇園そして厳島を同じ神様の系譜として押さえていったということです。平氏は瀬戸内から東シナ海に及ぶ広い海を、一種の海上軍事王国として海の王国を作りだそうとするわけですが、そのときに祇園の神人とか厳島の神人とかを使うわけで、こういう平氏政権のシステムの中に祇園社に対する関係が位置づいているものと考えています。
 清盛の福原別荘は、山際の祇園社を中心に営まれています。清盛は大輪田泊で龍神の祭祀を行い、龍神に法華経を手向けるという祭祀を非常に活発にやっています。この供養会に厳島の神主佐伯景弘もやって来ます。こういう関係を持って清盛は福原から厳島に月詣をおこなった訳です。
 月詣の目的は何か? それは『愚管抄』巻五に、「この王(安徳)を平相国(清盛)祈り出しまいらする事は、安芸のいつくしまの明神の利生なり、この厳島と云ふは龍神のむすめとなり」とあることが示しています。つまり清盛が出産祈願のために安芸の厳島に月詣をしてそれによって安徳天皇が生まれたというのです。祇園・福原・厳島と瀬戸内海を拠点にして、平氏の抱える王(=安徳天皇)をつくり出す動きというのが西国国家としての平氏政権の本質であったといえるかもしれません。

(8)源平内乱期の地震
 
 話をどんどん飛ばしますが、源平内乱期の1185年(元暦2)7月9日、マグニチュード7.4の地震が起きます。壇ノ浦合戦がこの年3月ですが、この地震は、『方丈記』に「都のほとりには在々所々、堂舎塔廟ひとつとしてまたからず」と描かれたたいへん有名な地震です。
 これは白川(法勝寺、尊勝寺、最勝寺)から東山(蓮華王院、その南の最勝光院、新熊野)に被害が及び、法勝寺九重塔が大破し、閑院内裏、六条殿(院御所)、法性寺などに被害がでています。花折断層の直上部分がやられ、地震動は東西に揺れたことが地震学の人たちの仕事でわかっていて、『山槐記』に「京中の築垣、東西ことに壊つ、南北の面は頗る残る」と出ています。
 実際に掘ってみると、琵琶湖西岸の堅田断層がこの時期に動いているそうです。近江から伏見、そしてさらに延暦寺がそうとう揺れました。琵琶湖西岸断層帯の略図は、地震調査本部の予測地図にのっていますが、これが揺れて、その西方にある延暦寺の山の上の、そうとう強い岩盤ですが、その山の上も揺れたことが史料で分かります。これはおそらく一番南側は宇治のあたりまで、そして宇治から堅田、近江、さらにその北まで揺れたと考えられます。ようするに近畿地方の中央部が揺れたということです。
 このとき有名な『方丈記』に、「海は傾きて陸地をひたせり」とあることから、津波が起きたと考えられます。ただ、揺れの中心は山城・近江ですから津波が来たとするとそれはどこかが問題になります。地震学の方では、この津波は大阪湾を襲った可能性はないかという意見もありますが、しかし津波が大阪湾を襲うのは南海トラフの地震の時で、元暦の地震は南海トラフとは考えられません。それではどこか?といえば、私は、若狭(福井)を襲ったと考えています。その証拠は、『忠親記』に「美濃・伯耆などの国より来たる輩曰く、殊なる大動にあらず」と伝わっているからです。つまり、この地震の後に、美濃や伯耆から京都にやってきた人たちの話では美濃や伯耆ではたいして揺れなかったというのは、この地震の震度分布を示しています。近畿はそうとうに揺れたけれども、美濃・伯耆以遠は揺れが少なかったというわけです。伯耆は日本海側ですから、伯耆から西は揺れなかったということは、逆にいうと伯耆から東、美濃までのところ、まさに若狭が揺れたという推定が成り立ちます。若狭に津波がいつ、どう起きているかというのは、今、原発の問題もあり、たいへん重要な問題です。『歴史学研究』2013年3月号に、若狭の史料ネットを代表している外岡慎一郎さんが「天正地震の史料を読む──若狭湾に津波は襲来したか」という論文を書いていますが、『方丈記』に書かれた著名な津波が若狭を襲ったということになると、これは日本の文化にとってたいへん大きな問題です。
 さらにこの地震の原因を当時の人々がどう考えたかが問題です。つまり、この地震の3ヶ月前に平家が壇ノ浦で滅亡しています。元暦二年の地震について『愚管抄』は、「龍王動とぞ申し、平相国龍になりてふりたると世には申しき」と、清盛が龍となって大地を揺らしたと当時の噂を記しています。そして安徳は「海に沈ませ給ひぬる」「はてには海へ帰りぬる」ともあります。龍王に祈願して産まれた海の王は海に戻ったと平家滅亡が物語化されたということの意味は軽くありません。地震神スサノヲ=牛頭天王の物語は、平家の滅亡を語る龍の物語に変身しているといえましょうか。
 なお、右の部分は保立「平安時代末期の地震と龍神信仰」(前掲)の要約である。同論文では、右の1185年(元暦2)の近江山城地震についてふれたほかに、一一七九年(治承三)一一月七日の大地震についてもふれて、『兼実記』は「亥刻大地震、比類なし」、『忠親記』も「亥剋大地震」と述べるだけで、史料が十分でないものの、これが地震学の側では100年に一度発生すると考えられている南海トラフ地震である可能性についてふれた。この指摘は、この時の政治情勢において、この地震がきわめて大きな影響をもったという論述のなかで、一つの可能性として指摘したものであった。
 しかし、南海トラフ地震をどこに求めるかについては別の可能性を考えるにいたったので、この機会に訂正しておきたい。つまり、この指摘は、この地震について、『平家物語』の諸本には陰陽頭安倍泰親が院御所に参上して大事発生の占いを泣いて訴えたとあるのみであるが、『平家物語』の延慶本に、この地震の鳴動は巨大で長く続き、「後に聞へけるは」として鳴動が列島全域に波及したという独自の記事があることであった。しかし、この泰親の参上のことは後の『平経高記』という日記にもみえて、これがすべて、ほしいままなフィクションであるとするのに躊躇を感じるのである。
 とくに重要なのは、『平経高記』にこの記事のみえるのが、1245年(寛元三)七月二九日条であることである。つまり、この三日前26日に大地震があり、これについて、石橋が南海トラフ地震である可能性を推測している(「フィリピン海スラブ沈み込みの境界条件としての東海・南海巨大地震」京都大学防災研究所研究集会13Kー7報告書、2002年3月)。石橋は一言示唆するのみであるが、その理由は、京都で「所々破損」という被害の大きさと余震の強さにあるのであろう。もちろん、石橋自身が、南海トラフ地震の特徴を(1)京都の強い揺れと余震、(2)広範囲の強震動・津波被害、(3)大阪湾の津波としており、その観点からいっても、この1245年の地震は(1)をみたすだけであるが、(2)(3)についてはあしかに史料の欠落とみることも可能であるかもしれない。
 そして、『経高記』によれば、この時に摂関家において陰陽師賀茂在清が、治承の時の泰親の院への泣訴の例を語っているのである。とくに『平家物語』には泰親の泣訴に対して「わかき公卿・殿上人はーーわらひあはれけり」あるが、『経高記』にも「泣奏之、近習若年の輩これを咲う」とあって、両者の類似が注意をひく。これは一一七九年(治承三)の地震の記憶が、1245年(寛元三)の地震の中でよみがえっていることを示すといってよいであろう。
 『平家物語』の原型は一二四〇(仁治一)には成立していた(「治承物語六巻<号平家>」)とされるから、これは『平家物語』の語り口ですでに著名になっている話を在清が語ったのかもしれない。あるいは、『平家物語』の語り口は、延慶本への変化もふくめてこのころに成熟しつつあったと考えることもできるから(横井清「『平家物語』成立過程の一考察」『中世日本文化史論攷』)、この時期に行われた在清のような語りが延慶本の中に採り入れられたものなのかも知れない。どちらにせよ、この地震が記憶と想像の種になって、『平家物語』の内乱期大地震のフィクションが定着したのではないかという想定が可能であろう。さらにそれを1245年(寛元三)の地震が大規模なものであったことの一つの傍証とあつかうこともできるかもしれない。もちろん、事柄の性格からして、これは一二四五年の地震が南海トラフ地震であったか否かということを論証するという意味は持ちえないが、ここでは、とりあえず前掲論文の趣旨を訂正すると同時に、『平家物語』のフィクションがどのように作られたかという議論として提出し、後考をまちたいと思う。

おわりに
冒頭で、日本の神話的な自然観が雷神・地震神・火山神の三位一体を中心に組み立てられていたといいました。それが龍神のイメージでまとめられるようになっていき、東アジアの超越神としての龍のイメージが完成していく時代が奈良から平安にかけての時代だともいいましたが、その全体の結果がここに表れている訳です。
 さて、去年の1月に品川区立大間窪小学校で地震についての授業をしました。昔の人は地震と噴火と雷の、神話を使って日本の国土を見て物事を考えていたんだよという話をしました。世界の中で日本が最も地震と火山が集中している地域であるという話もして、さらにプレートテクトニクスの話までしました。相手は小学校4年生でしたが、プレートテクトニクスというのは人文系の私などにとっても分かりやすいもので、小学生でも分かるんですね。
 そのとき子どもたちが一番関心を持ったのは金沢文庫に残っている図2の日本図でした。これは13世紀頃の資料で、近畿から西日本にかけての地図です。残念ながら東日本は残っていないのですが、日本地図の全体を龍が取り囲んでいる絵です。図3は江戸時代初頭の地図で、まさに同じもので日本全体を龍が取り巻いています。この龍の通る道が日本の大地の下を通り抜けていて、阿蘇から京都に穴があり、富士から伊吹山に穴があるという世界観です。これが江戸時代にかけてご存知のように龍が鯰に展開していくわけです。
*図2.金澤文庫本「日本図」(称名寺蔵)
*図3.「大日本国地震之図」(●蔵)

 冒頭に申しましたように、私は、自然史を本格的に歴史学の研究や教育の中に入れていくよう変えていかなければならないと思っています。そういうことで、今日は相当の無理をして、奈良・平安時代の通史の全体を地震に視座をすえて話すということにしました。東大寺大仏、祇園会、『宇津保物語』と『源氏物語』は、春日や比叡山の強訴、白河院が祇園女御にうませた落胤=清盛という伝承、清盛が龍となって起こした地震など、話題は多岐にわたりましたが、これらは日本の歴史と文化を考える上で基本的な問題であると思います。
 ただ、こういう歴史文化の基本になるような諸事実を、地震と自然史を前提にして考え直すという作業は、私のようにいままでさぼっていた、あるいは気づかなかった場合は、専門の時代をこえて、反省して取り組まなければならないことだとは思いますが、歴史学者としてある意味で手慣れた仕事です。むしろ、研究の課題として重要なのは歴史学と地震学、地球科学、火山学そして考古学の間で連携した研究をすることです。実際に地震の被害の細部から震度が推計できるわけですし、地震の周期性の解明のためにも有益な情報を提供できるかもしれない訳です。地球科学に対して貢献するというのは、この列島に棲むものとしての社会的な責務ですし、これは研究として急がなければならないことは確実です。
 このような状況については成田龍一さんと一緒に監修ということになった『日本列島地震の2000年史』朝日新聞出版)を参照願いたいと思いますが、これはさらに東アジアに視野を広げて行う必要があります。東アジアでも日本の地震や噴火と関係したかたちで地球科学的な現象が起きている可能性が高いとみられます。ユーラシア大陸東部の地殻変動・地殻災害について、中国や韓国の資料を検討することは、地震学との関係の上で意外と重要な課題だと感じています。
 ただ、こういうことを進めていくためにはまだまだ不充分なことが多く、そのためにシステムとして考えなければならないことは多いようです。すでに石橋克彦さんが、1980年代に、歴史地震の研究センターが必要だと提言しています。それによって、自然科学的な観測データと歴史資料データと考古学の発掘データ、地質学的データを同一レベルに扱うことによって日本の地殻の運動をさらに精細に検討していくことが可能になる。それらのデータをさらにGIS(地理情報システム)にすべてのせ、各地域でどういう被害が起き、どういう周期性を持ち、どういう確率で起きるかということを誰でも見られるようにしていくことが必要だと思います。
 もしそれが実現していれば一昨年の3・11を迎えるアカデミーと文化の状況は違っていたのではないでしょうか。あの時、3月7日にM7の前震がありました。その時ちょうど地震本部(地震調査研究推進本部)では会議が開かれていて、本来その会議には宮城県沖地震の見直しを検討しようという議題がかかっていたと聞きます。都合によって次回ということになったけれども、なぜ宮城県沖地震の再検討をしようとしたかというと、869年の陸奥大津波が、原発の北から仙台平野、石巻平野まで津波の痕跡を残していたことが明らかになっていたからです。これだけの広大な浸水域の痕跡を残す津波は大規模なもので、これを前提に宮城県沖地震について再検討をしなければいけないということが地震学中枢で課題になっていたのです。宮城県沖地震の見直しを予定していたまさにちょうどその日に3・11の前震があり、地震の方がちょっと早かったということです。もちろん、いってもせんないことですが、もしそれを10年、20年前から歴史学、地震学、考古学の協同体制ができていて、全体としてバックアップを推進していれば、こんなに多くの人が死なないですんだかも知れないということを感じるのは自然な話です。そして、こういう問題は、私たちの立場から、学術的・文化的に原発への批判を持続させるという意味でも重要であったかもしれないと思います。
 いうまでもなく、私たちの立場という場合、その中軸は歴史学の研究と教育の協同にある訳ですので、せっかくの機会、そういう意味で、今後の議論に参考になればということで、若干のことを最後につけくわえさせていただきます。次の3点です。
 第一は、冒頭で述べたことの繰り返しになりますが、神話の文化的位置と教育をどう考えるかということです。この間、「安全神話」という言葉を多くの人々が使っています。この言葉がどのようにマスコミで生み出されたかということを調査する必要があると思いますが、私は、これは「神話」という言葉の誤用であると思います。まず、そもそも実際に行なわれてきたのは、「安全宣伝」です。彼らは原発の危険性を十分に知っていながら、あるいはそれを指摘されながら、それを無視して安全宣伝をやってきた訳です。それを「安全神話」というのは、人々が、それを信じていた、あるいは信じてしまったのが問題であったという言葉使いです。少なくとも多額の宣伝費をつかって原子力発電を推進してきた責任のある側がつかうべき言葉ではありません。その点では有力なマスコミもそう簡単につかってよい言葉とは思いません。私は、「安全神話」といってあたかも全体に責任があるかのようにいうのは、たとえば戦争責任について「一億総懺悔」という言葉を使うのと同じことだと思います。これは、いわせてもらえば神を蔑する言葉使いであって、ようするに神話というものは悪いものだという価値観が入っています。自然神話としての記紀神話は民族的な遺産であり、戦前のような皇国史観による神話の利用とははっきり区別して、これを生かしていくことが必要です。「安全神話」という言葉は列島の自然史=歴史を見通していくこと、歴史学的に研究し歴史的な常識にしていくことを阻害する言葉です。「安全神話」という言葉は使用をやめるべきだと思います。
 第二は、教育における文理融合についてです。今回の重大な教訓は、この間、文部科学省が地学教育を陰に追いやってきたことが間違いであったということです。最近では若干の変化があるようですが、ご存知のようにいわゆる地学は、ここ20年ほど、文科省の政策の下に徐々に少なくなってきました。しかし、プレートテクトニクスを小学生から教えることが必要です。防災教育が、「大変だ!」「どうやって逃げるか」という危機管理教育に偏ってはならないことは明らかです。地震や津波は巨大なプレートの動きであるということが小学生から分かっていることがなによりも重要です。立ち入ったことをいうようですが、こういう基礎からの教育の構えがあれば、今回の悲劇の様相も若干であれ違いがあったのではないでしょうか。着実な科学的知識と国土観・世界観を小学校から系統的に養っていくことが防災教育の基本になることは明らかです。私は、その意味で、地学(地理)教育を充実・復権させるなかで教育における文理融合をはたしていくことが大事であると思います。そのなかで歴史学の教育と研究の位置はたいへん大きなものがあります。
 第三は、話しが飛ぶようですが、教材の電子データ共有についてです。昨年、小学校で地震を題材にして授業をしたことはさきほど申し上げた通りです。私の名前でネットワークを検索していただくと、私のブログがありますが、そこに教材にした「龍の話」というスライドを載せています。みていただければわかりますが、御紹介したような話をした後、この地震列島・火山列島は地殻災害は多いが、逆にそのような列島の成因は列島の自然に世界でも珍しい大地と海原の富をあたえたと結論しました。これは子どもは納得してくれたように感じました。
 もちろん、電子データの教育における利用については相当に大きな問題があります。用意なしにそれに前のめりになると、情報の拡散とネット依存の再生産になりかねないことは十分に注意しなければなりません。そのためには教育学と教師のなかでの議論を優先するべき段階であるということも承知している積もりです。しかし、いま申し上げたような文理融合というレヴェルになると、個人では教材の見直しと教科の融合を実現するのはたいへん難しい状況だろうと思います。その意味では、歴史学と歴史教育が子どもに対し説得的な歴史像を提供するために、教材の電子データによる共有を実験してみる。そしてその中で、自然科学と協同して、自然史を前提とした教材と授業を作り出すということがもしできれば、魅力ある方向のように思います。
 ともかくも、子どもたちが日本の国土と歴史について共感することができるという筋道を集団的に作っていくことは必要だろうと思うのです。この問題は、学界レベルでも検討が必要ではないでしょうか。われわれの歴史学を、現代の情報化社会のなかで、どのようにはぐくんでいくか。
 教育をめぐる状況は本当にたいへんだと思います。しかし、教材と授業が、全体としてマスコミのもつ大量の情報に、学術・教育の世界は負けているという側面もある訳ですから、基本のところにもどって考え直すことも必要ではないかというようなことを感じています。最後は余計なことを申し上げたかもしれませんが、以上で終わります。