tsushi1縄文時代
①縄文時代
猿人の発生はだいたい500万年前、そしてこの猿人が原人にまで進化したのはだいたい200万年前とされる。ただし、現生人類(新人)の直接の祖先はおよそ5万年前にアフリカを出て世界に広がった。その痕跡は、日本列島でも約3・4万年前に始まった後期旧石器時代に確認される。アフリカを出た人類が相当のスピードでユーラシアの端まで到達したのである。このような世界中への拡散は、まだ野性(Savagery、Wildness)の強さと柔軟性をもっていた人類しか担えなかった課題であったといえる。またそのような移動とフロンティアの存在こそが、他のサル類のもつボス社会、序列社会のあり方とは相違する人類の自由さの重要な条件であった。この中で、人間は人間としての身体・神経組織の錬磨を果たしたのである。
そして、約13000年前に氷河期が終わると、人類は「文化」をもちはじめる。新石器時代の開始である。当時の生業システムと移動能力の限界のなかで、人口が、局地的にであれ、いわば初期的な飽和状態に達したのであろうか、人類は定住を開始して、居住環境に永続的な変化をもたらすようになる。労働と技術の体系化が進み、農耕や牧畜などの生業システムが生み出されていったのである。それは野生の自由を制約していくことでもあったが、平等と自由の習慣は強く残っており、他方で徐々に進む人間の個性の発達は、人間のなかに社会と個人の矛盾を芽生えさせる。現在とは相当に異なる文明(Barbarism、しばしば未開と訳されるが本来は理解不能の言葉、バルバロイの意)であるとはいえ、これこそが文化の基であり、それは彼らがもちはじめた原始的な宗教にも反映していく。
新石器時代は、スタイルの相違や時期の前後はあるものの、ユーラシア中央部と辺境の列島ジャパネシアでも、ほぼ同じ時期に始まった。つまり縄文時代の開始である。彼らの作った土器が有名な縄文土器であることはいうまでもない。なお、縄文式土器について、これが世界でもっとも古いということを無限定に強調するような傾向もあったが、土器が古くから作られたのは東アジアの特徴として検討を進めなければならない。
ここでは縄文時代を草創期(BC13000-9000)、早期(BC9000-5000)、前期(BC5000-3500)、中期(BC3500-2500)、後期(BC2500-1200)、晩期(1200-800)と区分する説によって説明するが、先頭を切ったのは南九州の人々であった。彼らは土器や石斧などをもち、成熟した生業戦略をもって採集や狩猟にもとづく定住生活を営なんでいた。彼らの生活は、琉球弧から台湾、フィリピン、インドネシアにつらなる南海の民をルーツとしていたことは疑いがない。それは南九州の鬼界カルデラや桜島の大噴火にともなう大火砕流によって、ほとんど中絶というべき被害をうけたが、その文化は、すでに太平洋岸にそって影響を広げていた。
これは、この時期がちょうど温暖期であったことにもささえられていたが、草創期の後半(BC11000-9000)はヤンガー・ドリアス期といわれる世界共通の冷涼期となった。世界的には、この冷涼期の中で農耕が準備され、冷涼期がすぎるとともに生産諸力のスパートが起きたが、きわめて豊かな列島の自然のなかで、すぐに農耕への道をたどる必要はないまま、縄文時代は、早期から前期の極盛期に入る。北方ではシベリア・樺太方面との関係の影響が及んでおり、漁撈・狩猟が豊かに発達し、東北では山内丸山遺跡で有名になったようにクリの栽培まで行われていた。そして、関東地方に下れば、落葉広葉樹林の豊かな堅果類と狩猟・漁撈によってもっとも人口の集中する地帯となる。
そこでは相当の人口をもつ大集落(環状集落ともいうが、後の弥生時代の環濠集落と区別するために別名の馬蹄形集落という用語を使う)が営まれ、人々は早くも、長期にわたる定住地を中心に労働を結集し、必要な物資は遠隔地とも交易して入手するというシステムを作り上げていた。馬蹄形集落は中央の広場をとりまいて環状に住居が配置されているが、この円形は集団性と平等の象徴である。もちろん、すでにチーフ(首長)はおり、集落を構成するより小さな単位には弱小な個人も生まれ、社会は階層化の道にあったはずである。しかし、有名な火焔式土器など縄文式土器を代表する儀礼的土器が集団生活のなかで使われたこと、馬蹄形集落中央の広場が墓地区画となっていたことなどは、この集落がその集団性に依拠して生業を維持し発展させた様子を示している。人々は結集することを支えとして環境を人間化し、定住システムを作り上げていったのである。
この馬蹄形集落は縄文時代を象徴するものであり、それが東国にのみ分布したということは、縄文時代が東国を中心として動いていたことを示している。これに対して、西国地方は、全体として長期的な定住集落それ自体が少なく、人口は東国よりもはるかに希薄であった。鬼界カルデラの噴火が南九州の拠点集落を破壊した影響もあったろうが、さらに西国は照葉樹林帯であって、照葉樹は堅果類の食料化に不適であったという事情が大きかった(堅果がなる場合もアク抜きの手間が多い)。一時もてはやされた「照葉樹林文化論」は、この点への目配りが不足しており、現在では否定されている考え方である。そこでは温暖化のなかで繁茂して利用しにくい照葉樹林に入り込んでいくのではなく、ぎゃくに、その周縁を必要な場合は移動して効率的に利用しつつ、狩猟・漁撈と組み合わせるような柔軟な生業戦略がとられていた。また、北九州では朝鮮や済州島などとの関係の深い漁民が活動している。それは西日本に人口増をもたらす要因ではなかったとしても、西日本の流動性が高く、柔軟な社会組織のあり方に影響していたのであろう。
しかし、縄文時代後期に入ると、極盛に達した東国の縄文文化が変動をみせるとともに、このような東西の関係と人口バランスが変化していった。つまり、縄文文化の極盛化のなかで、まずその形式的な平等の精神が宗教的な形をとっていく。その代表は東国から北海道にかけて発見されているさまざまな環状のモニュメントである。代表は秋田県鹿角市大湯遺跡などの東北地方の環状列石であって、これはイギリスのストーンサークルと同じような冬至の日出・日没を祭る仕組みである。東国で同じような例は、有名な栃木県小山市寺野東遺跡の環状盛土であって、これは日の祭りが繰り返されるなかで、その遺構が徐々に盛り土になっていったというものである。同じような遺構は北海道でも確認できるといい、またそこからみると縄文時代の馬蹄状貝塚なども同じ性格があったという。環状列石が馬蹄形集落の中央広場に列石ができてきて、それが独立していくものであったように、このような遺構モニュメントはどれも馬蹄形集落と関係するものであった。
このモニュメントは宗教の自立、超自然的な存在の浮上を意味する。別の言い方をすれば、自然の中に人間の世界とは無縁の恐るべきものを発見し、その前では人間は平等であるという観念の浮上を意味するが、それはこのころ、同時に土偶が奇怪な精霊の姿をとりだしていくことに対応している。また、それまではいかにも縄文土器らしい儀礼的な土器が日用にも使用されていたが、このころより以降、土器が儀礼的な精製土器と粗製の日用土器に別れていくことにも関係している。つまり、儀礼や宗教の場と時間が、日常からは区別された姿を現していくのである。
問題は、このような宗教の自立が、実際には、その地盤となった縄文時代の馬蹄形集落が消えていくなかで進んだことである。つまり、縄文時代の中期のおわり近くなると、馬蹄形集落が二・三軒から四・五軒の住居からなる小村落に分解していく傾向があらわれる。これは一つは、温暖な気候に恵まれていた縄文時代も、このころになると再び寒冷化したという条件があった。しかし、それだけでなく、本来、縄文時代の社会のなかに存在した個性が集団性を突き破って明瞭になっていったということを意味する。実際、集落が分解するだけでなく、このころから柄鏡形住居といわれる特別の住居がうまれたり、身体の携帯品・装飾品や墓の副葬品がふえるなどの個人性が目立つようになった。逆にいえば、このような個人性の伸張こそが、観念の上で、人間の集団性や平等性を象徴する呪術や宗教の世界が強調されるという傾向を招いたのである。
ようするに、縄文時代の後期に入ると、縄文社会のなかに以前から存在した共同性と個性の矛盾が明瞭な形をとっていき、馬蹄形集落を中枢にくみ上げられたネットワークが分解・分散していったのである。そして、こういうなかで、長い時間をかけてではあるが、東国から西国へ少しづつ人口の移住が行われていった。それは西国にも、東国に特徴的な柄鏡型住居などの文化要素がみえるようになることなどで知ることができる。こうして、それまでは圧倒的な懸隔があった東国と西国の人口比が5:1くらいには接近していった。
そもそも西国社会は人々を迎え入れることのできる柔構造をとっていた。とくに、この場合、縄文時代後期以降の寒冷化が海退を引き起こして、瀬戸内海などの海辺に低湿地帯が形成されたことも大きかったという。そこをふくめた補助的な雑穀栽培(早くからイネもふくむ可能性がある)と海辺の生業の複合は西国社会に相当の変動をあたえた。西国社会も独自の色彩を帯び始めていったといってよい。それに対してとくに近畿地方など西国のうちでも東側の地域には縄文文化の諸要素が継承されていることが指摘される。これは人口の東から西への漸次的な移動にともなう融合現象であったということになる。詳細は不明としても、近畿地方やフォッサマグナ以西の濃尾平野などが独特の地域性を帯びていたことは事実である。
こういうなかで、列島ジャパネシアの全域が「脱縄文化」ともいうべき状況にいたりつつあったのである。そこには、寒冷化や資源の消尽による人口の減少や移動の影響も大きい。しかし、縄文時代を通じて展開した遠隔地交易のネットワークが新たな地域の再編や移住を可能にしていったという側面は否定できない。そして、その結果として部族が形成された。縄文時代は地理と自然条件の異なる各地域への定住を社会の動きの基調とする時代であったが、それが再編成され、集落をこえて独自な歴史・文化・人脈をもつ人々のまとまり、部族が構成されたのは自然なことであった。
参考文献
宮本一夫『神話から歴史へ』(『中国の歴史』①、講談社2005年)
松木武彦『列島創世記』(『日本の歴史』一、小学館、2007年)。