tsuushi3古墳時代の通史
③古墳時代
古墳時代とはヤマトに政治センターが遷って、古墳が盛んに作られた時代をいう。その最初の中心は伊勢を通れば東国にも近い、奈良盆地東南のヤマト纏向の地であった。箸墓が卑弥呼の墓であったかどうかなどの詳細については学説はまだ一致をみていないが、纏向の成立は卑弥呼共立の時期に近い、3世紀初頭であり、そこあった権力は近畿地方、中国地方(北の出雲と瀬戸内の吉備)、四国などの諸勢力の連合に基礎をおき、その中でも(前方後円墳の原型が生まれた)吉備の位置が大きかったことは確実である。
『魏志倭人伝』によれば卑弥呼は伊都国に「一大率」をおいて北九州を支配し外交を統括した*1。これに対して、東国の部族連合が畿内中心の枠組の外にいたことは、卑弥呼の死去(248年)直前に狗奴国(遠江の久努、あるいは濃尾地方という)と紛争を起こしたことに示されている。ヤマトはこのように列島の中央部という地政学的な位置によって卑弥呼共立の場となったのである。こうして縄文時代の東国、弥生時代の九州にひきつづいて、列島史上はじめての国家、畿内中心の西国国家が生まれた。そこには神殿都市(アクロポリス)が形成され、前方後円墳のならぶ王墓域(ネクロポリス)が生まれた。前方後円墳の形は中国思想(天円地方説、壺型説など)に関係するもので、古墳の形や大きさは葬られた首長の身分を表現している。骨のことをカバネと読むことに注目して、氏姓の「姓」とは本来は「骨」の高貴さのランクを意味するという古くからの考え方をとれば、死者は「殯」によって白骨化し、特定の古墳に葬られることによって身分をあたえられたことになる。
なお「辛亥年」(471年)の稲荷山鉄剣に「オホヒコ」が登場していることによって、5世紀に伝承されていた王統譜に崇神がふくまれていた可能性が高くなった。「ハツクニシラス」(初代の大王)を崇神とする伝承もあった可能性がある。しかし、これはまずは神話の問題である。『古事記』『日本書紀』が、崇神が神を崇め(祭祀制度を創始)、景行が倭建命を初めとする皇子を全国に派遣し、成務が地方制度を作り(国造設置)、仲哀・神功・応神が朝鮮半島を服従させ(帝国形成)、それらをすべてふまえて仁徳が善政を敷いた(国制理念)という形で全国統一の過程を物語るのはそのまま史実とすることはできない。五世紀以前の実態は、記紀をそのまま史料とすることはできないという津田左右吉以来の見解は依然として生きている。
なお、古墳が全国に広まったことをヤマト王権の全国統一の証拠とする考え方も問題が多い。古墳は身分的な要素をもつとしても、それ自体は葬送の儀礼や神話の表現であるから、それを直接に統一国家の制度表現とすることはむずかしい。少なくとも5世紀までのヤマト王権は「部族連合国家」(United Cheefdom)の枠組のなかにあった。西国国家という枠組のなかで、吉備・出雲・肥(九州)などの地域の部族国家は相当の自律性をもっていた。ヤマトの優位性の相当部分は、その地政学的な位置に支えられて、九州を押さえ、東国に対抗する地域連合の動きを代表している点にあったのである。
このような政治や列島の地帯構造の激変に対応して、社会構造は大きく変化した。纏向には政治都市(神殿都市)が形成され、外交文書の作成、倉庫や貢納の管理などの実務がとられたことは確実で、詳細は不明なものの、公共的な仕事も行われたはずである。古墳の造営は徭役によったことはいうまでもない。軍事・警察の組織もあったであろう。また鉄製品その他の物流は畿内中心にまわりはじめている。こうして西国国家の中枢にいた各地域の支配層が纏向に集まっていたことは、各地の土器などが纏向から発掘されたことに示されている。
社会構造の変化でもっとも大きいのは、弥生時代を通じて続いた環状集落が解体し、その中から方形の首長居館が分離したことである。首長居館には畿内製の土器の出土が多く、また前方後円墳の地方普及とともに出現する例があることは、ヤマト王権の成立によって地方社会がうけた影響を物語っている。各地の首長は居館を立てるとともに環濠を埋めたのではないかといわれている。彼らは明瞭に階級的な支配者に変貌したのである。そこでは首長に私的に隷属する人々も生まれていたが、中心は首長が下位の共同体を代表して支配する首長制の社会構造にあったといえよう。支配者は、小さな村、大きな村、部族、さらには部族連合というように重層する集団のシステムの上に大きな権力を確保するに到っていたのである。
さて、漢帝国の滅亡後、220年頃、魏・蜀・呉が相次いで帝位を立て三国時代がはじまり、約60年後、魏の権臣・司馬懿にはじまる(西)晋によって統一される。しかし、西晋は311年、匈奴によって滅ぼされ、中国は大分裂の時期に入る。華北では五胡十六国の時代が始まり、江南では晋の王族が東晋を建国する。宋・梁とつづく南朝である。これに対して、朝鮮では高句麗が、4世紀初頭、楽浪郡を最終的に滅ぼした。以降、中国は朝鮮半島以東を直接統治できなくなる。そして高句麗の動きに刺激されて、朝鮮半島南部の馬韓から百済、辰韓から新羅が登場し、弁韓は北九州との深い関係を維持したまま加耶に再編成される。中国および北辺諸民族と地続きのためもあって特有の困難をもっていた朝鮮においても「民族」の形成が必然となったのである。
朝鮮諸国の競合のなかで、391年、加耶と密接な関係をもっていた倭が朝鮮に出兵する状況も生まれた(広開土王碑文)。これは朝鮮南部(とくに加耶地域)と九州の多島海地域における伝統的な部族的な関係に根付いたものであったが、すでにそれは権益化しており、倭国はその維持に必死であった。実際に王権の意向の下で多くの倭人が加耶・百済に渡っており、最近、彼らの墓所として、5世紀末から6世紀初頭には百済に前方後円墳が築造されている。倭人のなかには、百済王権に組織され、その官人・軍人となって倭王権への二重所属になったものも多かった。そして、倭は、5世紀に南朝の宋に何度も遣使し、朝鮮半島に対する影響を担保しようとした。『宋書』に登場する倭王は五人。そのうち「讃」「珍」の兄弟については履中・反正である可能性があり(異説あり)、「済」とその子「興」「武」については允恭、安康、雄略とされている。彼らは5世紀の前半から後半まで13回に上る使者を派遣し、大将軍・倭国王と将軍号をもって冊封されたが、しかし、宋は倭に何の言質もあたえようとしなかった。
むしろ、この遣使で重要なのは、倭王が将軍・郡大守などの称号を王族や臣下に仮授することを承認されたことである。これは称号の色彩が強いが、稲荷山鉄剣によれば雄略(ワカタケル)の時代に「杖刀人」という軍人身分が生まれていた。ヤマト王権の中に一種の国家組織が生まれていたのである。これを「人」制というが、その一部は朝廷につかえる手工業者を「手人」というなど8世紀までつづいた。また倭王・讃の使者に「司馬曹達」という人物がいたが、これは軍府の軍人の称号(「司馬」)をもつ中国系の渡来人名(「曹」)を示している。
また、5世紀は、高句麗戦などの結果、従来から深い関係をもっていた朝鮮の人々が亡命・移住してきた時代である。これは、いわば日本の歴史のなかでの最初の対外戦争太りといえる。倭王権は、彼らを動員して河内平野を開発した。灌漑水路の設計、韓式の硬質土器の製作、金工技術など、はじめての本格的な手工業の導入である。有名な騎馬民族国家説は、このとき馬・馬具が入ってきたことを騎馬民族の移動と誤解したものである。河内には応神・仁徳などの大王のものと伝承される大古墳群が形成されたが、それは渡来系の人々を河内の開発に動員することと一体の事業であった。
こうして、倭国は奈良盆地の四周のみでなく、奈良盆地の入口・玄関にあたる河内に王墓域を突出させて、国家の偉容を示そうとした。このなかで、王権が部族連合国家から脱却する方向に進もうとしたことは疑いない。倭王「武」(雄略、在位465~489?)がその中国への上表文で「治天下」の理念を述べるのは主観の側面が強いとはいえ、それを反映している。記紀の伝えるこの時期の王権の内部闘争ははげしいもので、このころに皇子のことを「わかみたふり」というようになった。それは「若いタフレモノ=狂者」という意味であるから、いわば皇子が恣意的な行動をすることが許される時代がやってきたのである。実際、そのまま事実とすることはできないとしても、允恭の後継を廻る混乱、即位した安康の乱政と弟雄略との不仲、安康の後継と目された市辺押磐皇子の雄略による殺害などなど、そのような事例は枚挙にいとまがない。同時代の中国の諸王朝においても、その内部闘争や乱倫はすさまじく、この時期の国家の要件なのかとさえ思えるものである。
しかし、5世紀の倭王権の基本的な性格は、依然としてヤマトの部族や筑紫・吉備・出雲・紀などの同盟にもとづく連合国家であったというべきであろう*1。ヤマト王権はむしろ、この内部闘争の経験をへて、徐々に国家的な機構を発展させていったのである。
参考文献
白石太一郎『古墳とヤマト政権』
広瀬和雄『前方後円墳の世界』
都出比呂志『古代国家はいつ成立したか
熊谷公男『大王から天皇へ』(『日本の歴史3』講談社)
鈴木靖民『倭国と東アジア』(『日本の時代史2』吉川弘文館)