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tsuushiの10室町時代

⑩室町時代
政治史の考え方
 南北朝の併立は、1392年、尊氏の孫にあたる第3代将軍足利義満の調停によって終息した。内紛を自力でさばけなかった王家の権威は低落し、「覇王」足利氏に「旧王」として戴かれると同時に保護される存在となったのである*1。もちろん、義満は天皇にとって代わったのではない。室町殿は「治天の務=政務」を担当する「院」として公家を含む国家機構を領導する役割を担ったのであって、その意味では天皇を形式上の君主として政務は院が握るという院政以来の王権の形式は維持されたのである。こうして、武臣国家において「旧王ー覇王」の二つの王権が並立するという、以降、江戸時代まで続く体制が確立したのである。なお、足利氏が後醍醐の敷いた禅宗国家の路線を採用したことも重要で、これによって室町殿は聖武天皇以来の仏教国家という国制を維持し、禅宗の大檀越として王権を領導するという立場から天皇王権の名分を吸収したのである。
 この南北朝終息期のころから西国守護の家柄はほぼ固定し、しかも島津・大友(九州)、大内(北九州・中国西部)、細川(四国・中国東部)、山名(山陰)、斯波(北陸)、今川(東海)のような隣接地帯を押さえる場合や、あるいは能登・紀伊・日向の畠山のように離れた地域を押さえるかの違いはあっても、複数領国をおさえる広域守護の権力が安定するようになる。これは平安時代以来の広域支配システムの成熟の上にできあがった体制であったということができる*2。室町殿は畿内近国を強力に支配して、このような広域守護の上に聳え立ったのである。さらに室町殿が九州探題を設置して、九州を支配し、さらに西国を代表して関東公方を押さえ込むことを機軸的な戦略としていたが、ここにも室町期国家が広域権力の相互バランスの上にたっていた事情が明らかである。
 しかし、このような体制は将軍の代替りや実力・軍事力のバランスの失調によってしばしば危機におちいり、そのため室町時代の政治史は、そこに由来する政変や戦闘の連続となった。それでも尊氏→義詮→義満→義持までは将軍の軍事指揮権は強力であった。しかし義持が後継者を決めないままに死去し、それに称光天皇の死去が重なって二重の代替りとなったとき、「日本開闢以来」といわれた大土一揆が代替徳政を求めて蜂起した(1428年、正長の土一揆)。そして、その後をうけた弟の義教は専制に走って、鎌倉公方を自殺に追い込み、さらに有力守護家の家督継承に乱暴に介入した。これに恐怖した播磨・備前などの守護、赤松氏が義教を謀殺するや(1441年、嘉吉の変)、ふたたび代替りの嘉吉の土一揆が発生したのである。東国・西国の争い、広域権力相互の争いの中での大規模な民衆的運動の高揚によって、幕府は一挙に危機の時代に入ったのである。
東アジア世界
 明は、成立後すぐに日本に対して国書を送り、中国沿岸に対しても侵攻するようになっていた倭寇の禁圧を求めた。その背景には、元の崩壊時に、洪武帝(朱元璋)と同じように反乱を起こした諸勢力が、明建後にも明に従わず、倭寇と行動をともにしていたという事情があった。倭寇の行動は明が「海禁」政策をとる最大の理由の一つであったのである。日本・朝鮮・琉球・中国の境界地帯から南海にまでおよぶ倭寇の問題は東アジア世界にとって決定的に重要な問題であった。
 もちろん、明は南宋・モンゴルの展開した世界的な交易体制を前提とした貿易政策をとった。これは史上初めて中国南部から興起した帝国・明にとっての重要な権力基盤であったのである。しかし、それは朝貢貿易など以外は、禁制の対象とする特権的・閉鎖的な貿易関係であった。華僑たちは、東南アジアからインドネシアにかけて広がっていた港市のネットワークに食い込み、あるいは華僑街を作り出していたが、明にとっては、朝貢貿易などを拡大するという形で、そのような貿易関係を国家的な統御の下におくことが重要であったのである。
 対外交通の窓口、大宰府は、このころ南朝の南朝方の懐良親王であったために、懐良が明の国書をうけとり、「日本国王」として冊封された。もちろん、懐良は室町幕府の九州探題によってすぐに大宰府を追われたが、これは対外関係が政治に及ぼす影響を実感させた。実際、明の洪武帝は義満を陪臣であるとして冊封することを拒否し、義満が明と冊封関係を結ぶことに成功して「日本国王」の地位を承認されるのは1402年、孫の建文帝の時代まで遅れたのである。しかし、南朝を併呑し「院」の立場に立った室町殿にとっては、これが覇王の実質を宣言するものであったことは明らかである。日明貿易の利益も無視できないものであったことはいうまでもない。
 また明王朝は、宋学の本場、江南から出自した明王朝は朱子学を国教としていたが、朝鮮王朝は、これをうけて朱子学を国教とした。これに対して日本が禅宗国家、仏教国家という形式を維持したことは、後の時代に大きな影響をあたえた。公家貴族からは中国皇帝から冊封をうけることについては非難があったが、重要なのは、このとき義満はすでに出家しており、かつ外交関係の実務をとったのが、相国寺などの五山の禅僧であったことである。これは太政官などの宮廷国家機構の外側で室町殿の下で外交関係を統括するというほとんど抵抗しがたい方策がとられたことを意味する。この点でも室町幕府は禅宗国家の体裁をとったことは巧妙であったというべきであろう。
社会構造の考え方
 政治の不安定にもかかわらず、京都を中心とした庄園制的な経済はきわめて活発であった。それは都市的な産業社会の成熟あるいは爛熟ともいえるような様相をみせている。しかし、その中で、15世紀、新しい様相が現れた。庄園年貢輸送を担っていた中央向け航路の港町の没落、貨幣信用システムの激変(地域ごとに銭の撰銭の仕方が異なるようになり、また中央向けの替銭が機能しなくなる)、比叡山などの中央寺社の神人らの商工業支配の終焉などの事態である。これは庄園制的な求心的な経済構造が大きくシフトして、広域守護の勢力圏に対応するような広域経済が自律的に発展していったことを意味する。
 それを支えたのは大鋸、大桶などの木工技術、金屋(鋳物師・鍛冶)の発達、木綿生産の開始、入り浜式塩田の開拓などの様々な技術と分業の発達があった。市町の分布はさらに稠密なものとなっていき、職種ごとにきわめて細分された職人の座が発展している。そして鋳物師の一国営業圏を守護が保証するような動きに明らかなように、社会的な分業の発展を前提として、一国あるいは複数国の単位での営業のネットワークが発展していった。
 他方、考古学的な発掘の成果から、農山村においては、だいたい15世紀に、村落がなかば恒久的に現在に続く場に立地するようになったことが想定されている。これにともなって、有力な地主・農民たちが構成する惣村が隣接する惣村とある場合は連合し、ある場合は対立する諸関係を広げていった。もちろん、国・郡・郷というような国内部の統括関係は残ったのであるが、惣村が主体的な単位となって、国堺にとらわれない広域的な関係がひろがっていた。各地で戦争が続き、また室町時代に気候の冷涼化とともにしばしば飢饉が発生したことも重要である。このなかで、村々は京都との庄園制的な関係に集約されないような広域的なネットワークを広げ、その中での自己の地域的な利害を意識していった。
参考文献
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世史を見直す』(悠思社1994年)
村井章介『分裂する王権と社会』(『日本の中世』)
榎原雅治編『一揆の時代』吉川弘文館