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tsuushiの11戦国時代

⑪戦国時代
政治史の考え方
 足利義教の謀殺事件の後に室町殿となった義政が親政を開始するまでの15年間のあいだに蓄積した、西国・東国の争いや細川・畠山・山名の争いは、「応仁文明の乱」として爆発する。しかし、この内乱の実態はただに支配階級内部の戦争ではなく、それに正長・嘉吉の土一揆に相似した京都攻撃・掠奪が重なり、同時発生したものというべきものであった。こうして京都は焼け野原となり、時代は戦国時代に突入する。
 続いて1485年の山城国一揆、1487年の加賀一向一揆という一揆による権力掌握という前代未聞の事態が生まれた。しかも、これらは社会的な富を地域留保する自律的視野をもった広域的なネットワークを確保していた。これ以降、戦乱が混迷の一途を辿り、伝統的な武家の家柄が共倒れに追い込まれたのは、結局、彼らが京都の旧王ー覇王の都市宮廷を中心とした荘園体制とと骨絡みの存在であり、この自律的な民間ネットワークを統御すべき存在ではなかったためである。こうして、彼らの下で現地をおさえていた守護代クラスの武家が台頭して、院政期の以来の伝統的な家柄のほとんどすべてを追い落としていった。いわゆる「下克上」であるが、こうして安芸の毛利、越前の朝倉、尾張の織田、甲斐の武田、越後の上杉、伊豆の後北条などの戦国大名が登場する。彼らが室町時代の広域守護の複数領国を継承した広域ブロック権力を構成していたことはいうまでもない。
 戦国時代は、彼らが相互に唯一の覇者を目指して戦かう戦争の時代である。勝利をおさめたのは地の利をもち、かつ一向一揆との殲滅戦を戦い抜いて、抑圧すべき民間の実力を知り抜いていた織田信長であった。その戦略の中心は都市と交通網の掌握によって軍事経済を作り出すことにあり、安土に始まる城と城下町の建設、関所撤廃、楽市政策などは、それを中心に評価する必要がある。信長は、その独裁の下に軍事経済の組織をバックとする全面戦争によって、他の広域ブロック権力の打倒に邁進した。信長の個人独裁は明智光秀によって信長が殺害された後には統治機構は何も残らなかったほど極端なものであった。
 ぎゃくにそれによって秀吉は、信長の軍事的成果を受け継いで新しく出発することが可能になったのであるが、秀吉はその際、関白任官によって天皇権威をかついだ。ここでも旧王ー覇王体制は維持されたのである。そして、関白の命による「平和」=惣無事を表に立てて令によって広域権力相互の矛盾をつく戦略をとった。国分によって(後の江戸時代でいう)一国大名にまで広域ブロックを押さえ込むのがその最終目標であり、その支えは信長の路線を引き継いだ圧倒的な兵糧・武器の補給を可能とする軍事経済であった。軍事経済の組織は、同時に地域間の都市と交通網を支配して、自らの広域権力を他と隔絶するレヴェルに押し上げることであったことはいうまでもない。
 すでに戦国時代の範囲をこえた説明となるが、このような立場に立った秀吉は、西国を代表して、関東公方から東国を引き継いだ後北条氏を惣無事令の下に押さえ込み全国制覇を決定したのである。戦国時代の戦争と政治は、ここで結論がでたことになる。このような過程に、江戸時代の幕藩体制と呼ばれる、幕府が広域的に要地を押さえ込み、国持大名が藩というレヴェルに押さえ込まれるという体制の萌芽があったということができる。もちろん、それは秀吉政権の崩壊ののち、東国大名を動員した徳川家康と西国大名を動員した石田三成の争い(関ヶ原合戦)という本格的な東国西国戦争の決着を必要とし、その後の国分けで原型が定まったのではあるが。
 ようするに、平氏と頼朝が争った1180年代内乱(治承寿永内乱)ではでは東の頼朝がが勝ち、南北朝内乱では後醍醐・尊氏の西が勝ち、三度目の関ヶ原合戦ではでは東が勝ったのである。広域戦争の最終的帰趨は、つねに激しい東国西国戦争によって決定されたということになる。
東アジア世界
 1482年、朝鮮国王のもとに「夷千島王遐ひ叉?」から使者がきて北海の産物を贈ったという。この王の実態は明らかではないが、夷島に関わりをもって「王」を称する人物がいたことは、この時期のアイヌ民族の活動の影響を示している。しばらく前には北海道南部に侵入して多くの「館」を築いた倭人に対してコシャマインを指導者とするアイヌが善戦したことも、アイヌ民族の活発な活動を示している。
 また琉球は、明の承認のもとに南海交易の中継基地として「万国の津梁」といわれた繁栄の時期に入っている。尚氏の下に統一された王朝は琉球は明の冊封をうけるとともに、日本の禅宗寺院の末寺をうけいれ、その禅宗寺院を通じて室町殿と外交関係をもった。その勢力は、一時期、強大となり、南九州の領主たちが臣下としての儀礼をとって接近してくるほどであった。琉球の貿易船は明帝国の名をかり、各地の華僑に依拠しつつ、シャム・マラッカ・ジャワまで往来し、また南海各地からの貿易船がやってきたのである。
 しかし、東アジアの情勢を一変させたのは、1511年ポルトガルがマラッカ王国を滅ぼし商館を設置し、ヨーロッパの重商主義勢力が本格的に登場したことである。ポルトガル人は、早くも1542年、南海で活動していた中国人倭寇の首領王直の差配するジャンクにのって種子島にきた。いわゆる鉄砲伝来である(なお年表では旧説に従って1543年としたが、村井章介『世界史のなかの戦国日本』にしたがって1542年とする)。F・ザビエルの鹿児島到着は1549年。ポルトガルの動きは最初は倭寇集団との混成の中にあったが、1557年にはマカオを確保してマラッカ・マカオ・長崎定期航路をはしらせた。スペインの太平洋航路とも連接していく。
 これによって琉球が南海交易においてしめる位置は大きく低下することになったのであるが、かわって登場したのが日本産の銀である。1533年、石見国大森銀山で灰吹法(銀精錬法)が導入され、佐渡・生野などを合わせると、最盛期には全世界の産出量の三分の一をしめるという膨大な量である。これが右のマカオや朝鮮ルートで中国に入り、東アジアの富を流出させ、16世紀におけるヨーロッパ資本主義の原始蓄積の最大の条件となった。
 そして、東アジアの側にとっての問題は、このような国際経済の動きが日本のみならず朝鮮・中国の境界に位置する女真に膨大な利益をもたらし、秀吉の朝鮮出兵から女真(清)の軍事的行動を刺激したことである。覇権勃興をもたらすことになる。これはモンゴルがイスラムの組織したユーラシア経済の発展にのって帝国を広めたのと同じことで、その前提が今度は資本主義的な世界市場であったということになろう。またその担い手がモンゴルよりも東の女真となったのは、今回の世界経済が東海から入ってきたためである。
社会構造の考え方
 戦国時代は右に述べたような世界経済の大波にさらされるとともに、史上はじめて本格的な軍事経済の展開した時代である。兵糧と武器のほか弾薬・軍衣・城郭建築などの軍需品の生産と流通の体制が発展し、整備された。この軍事経済を支えた商人たちの実態は、少なくとも初めは、しばしば山賊・海賊と区別のつかないようなものであったらしいが、戦国大名の下に商人司として登場した彼らは広いネットワークをもち、特権をあたえられて、あるいは密偵や使者などの役割も果たす政商となった。彼らのネットワークは室町時代の経済発展のなかで形成されたものであるが、その姿はこれまでの商人とは大きく異なっている。上杉氏の蔵田、今川氏の友野、信長の加藤や今井宗久などが有名である。
 都市の形態は多様であるが、従来の市町などは疎塊村といわれるような隙間の多い空間構成をとっていたが、この時代、寺内町・城下町など、町人・職人が密に集住する町のスタイルが目立つようになった。そこで何でも揃うような集約性や町の防衛の必要によるものであろう。このような町のスタイルから、江戸時代の城下町や領国経済に近いものが生まれていったのである。
 戦争の遂行のために国力をやしなうという発想が、こういう関係の中から生まれてきたことも事実である。実際、治水工事や鉱山開発などの事業が戦国大名によって推進された。また、戦争には様々な人間と物資が必要であったから、一種の出稼ぎのようにして足軽となって戦闘に参加する人々も多かった。秀吉をとっても、もとはそういう低い身分の人間であったことが明かになっている。
 しかし、戦国時代の農山村の人々にとっては、戦争に抗して、村を守り、命を守ることが第一の課題であったことは否定できない。自衛と生命維持のための村である。列島全域の人々が、共通して、このような経験をもったことが、その村に長く土着した地主を中心として村の自治を強めるという結果をもたらしたのである。これが江戸時代の村の大きな前提となった。
参考文献
藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書、2001年
池上裕子『戦国の群像』(集英社『日本の歴史』10)
同『織豊政権と江戸幕府』(講談社『日本の歴史』15 )
村井章介『世界史のなかの戦国日本』(ちくま学芸文庫)