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tsuushi2弥生時代の通史

②弥生時代
 弥生時代の開始はこれまで土器編年などの作業によって前5世紀から前3世紀ごろと考えられてきた。しかし、土器の煮焦げなどの微量炭素(C14)を素材とした加速器による年代測定(AMS)によって、九州北部では前10世紀後半に水田稲作が始まったという結果が出た。水田稲作が弥生時代の指標であることはいうまでもなく、これによって弥生時代は全体で1100年弱の長さをもち、早期、前期(紀元前8世紀から)、中期(紀元前4世紀初頭から)、後期(紀元前1世紀末から2世紀末)に区分されるという意見が強くなっている(なおAMSによる年代の見直しが縄文文化論にどう影響するかはまだ考古学界でも一致点がない)。
 このような弥生時代の開始時期の変更によって、東アジア規模での水田耕作の拡大の年代観が可能になった。水田稲作と弥生文化は朝鮮半島南部から北九州に伝わってきたものであるが、朝鮮における水田農耕の開始は、中国に殷が形成(BC17世紀頃)されたことの影響にまでさかのぼる。この農耕の波及はゆっくりとしたものであるが、殷が崩壊し、西周が形成された紀元前1000年のころは、いわゆるヤンガー・ドリアス期の寒冷期にあたる。そもそもこの時代に「日本」「朝鮮」という民族も国境もある訳ではなく、北九州と朝鮮半島は日常的な交流とネットワークの下にあったが、気候の寒冷化は、その中でより適した気候と立地の九州を選択させたという。また日本の弥生式土器が朝鮮の無文土器と基本的に同じもので、弥生土器が朝鮮南部で発見されていることも、朝鮮半島南部と北九州地域が一体的な関係にあったことを示している。そして、朝鮮半島の無文土器に付着したC14の加速器による分析は弥生式土器と同じ結果がでている。
 なお、弥生時代の開始のBC10世紀後半といえば中国では西周がはじまってしばらくしての時代である。そして、それに続く春秋時代は紀元前8世紀前半から同5世紀後半頃までで、ここまでは青銅器時代に分類されている。そして鉄器時代といわれる戦国時代は、5世紀後半にはじまって紀元前3世紀末までである。それ故に、弥生時代のほとんどが、中国史でいえば春秋戦国時代にあたり、また弥生時代の前半は日本では実際上は「石器時代」であったということになる。
 これは学説の大きな変化であるが、しかし、弥生時代が東アジア文明の本格的な影響の下に列島ジャパネシアがはじめてさらされた時代であるという従来のイメージは変わらない。この時代こそ、中国において本格的な文字の利用にもとづく法文明、自然と人間の支配が開始された時期であった。水田稲作は前者の自然支配であるとすれば、後者を意味するのが、銅剣・銅矛などの武器と軍事防衛の機能をもった環濠のセットであろう。
 もちろん、「文明」の意味のすべてを否定することはできないが、文明の辺境にあった平和なBarbarisum地域にとっては、自然を支配する灌漑技術と人間を支配する暴力がセットになって入ってきたは肯定的な影響のみではなかったろいう。とはいっても、弥生時代の始まりが500年も遡ったことは、この時代の歴史の動きが、従来考えられていたよりも、ゆっくりしたものであって、縄文文化からの継承と融合にも長い時間がかかったことを意味する。縄文時代後期の西国は柔軟で開放的な社会システムをとっていたにも関わらず、弥生式土器を代表する北九州の遠賀川式土器が伊勢湾周辺に到達するのに2・300年もかかったのである。
 しかし、このなかで、縄文時代に芽生えていた地域性、部族的な諸関係はさらに明瞭になっていった。彼らはおのおの異なる定住・移住の経緯にそくして祖先意識(リネージ)をもって部族を構成していく。たとえば、山口県土井が浜遺跡の墓に埋められた相当数の人骨の人種的な特質は、移住の初期から不変で、それは、朝鮮の故地から、何波にも渡り、世代を越えて、人々がやってきたことを示しているという。縄文時代から引き継いだ部族的な関係は、弥生文化にともなう他者の部族意識によってさらに強化されたであろう。たとえば、伊勢湾を東にこえた三河においては、西からの移住者との遭遇にの局面では、部族と部族のあいだでの殺し合いをともなう軋轢も想定されている。弥生中期から始まる銅矛・銅鐸などの青銅器祭祀は、朝鮮半島に由来するものであるが、それをあつかうシャーマン(神懸かり呪能者)によって部族意識はさらに拡張されたはずである*1。
 弥生時代における部族的な関係は、水田・畑作などの農業的な関係にもとづく拠点ー周辺集落を単位として組み上がっていた。これは水田農耕の普及とともに全国に広がり、弥生時代を通じて維持されていく。拠点集落の代表的なスタイルは内外に二重の濠をもつ環濠集落で、徐々に、内区には指導層、外区には一般の人々など、居住区の階層編成をもつようになる点で縄文の馬蹄形集落とは異なるものである。縄文時代よりも社会の階層化がさらに進展したことは疑いない。もちろん、環濠は集落の自衛とともに灌漑水路の設定と関係しており、共同体の共同労働を象徴するものであった。集落が大規模化した場合は、集団性・共同性の内側に対立が内蔵され、首長が継続的に存在するようになっており、このような集落においては素朴な共同労働はすでに存在しない。その協業の規模が広い大型水田となるのは(従来考えられていたのとは相違して)例外的なもので、低湿の適地をえらび必要な場合は田植えも行うような集約的な個別水田経営による部分が大きかった。縄文時代以来の個別化の動きは根強く、畑作や森林利用、狩猟・採集もあわせて、人々は複合的な生活様式の中にいたのである。
 弥生時代の中期に入るころ、中国は戦国時代に突入する。「倭は燕に属す」と『山海経』(海内経)にあることからして、そのころ倭は中国東北部の広い領域にあった戦国七雄の一つ、燕につながる地域として知られていた。そして、朝鮮南部・五島列島・北九州・瀬戸内西部は一種の多島海地域のようにして縄文時代以来のなかば部族的なネットワークを維持していたといってよい。ジャパネシアはそこを通じて、燕に接続していた。
 燕は前3世紀末、戦国時代の終了とともに秦によって滅ぼされるが、そのとき多くの避難民が朝鮮に逃れ、朝鮮に存在していた「古朝鮮(実態は不明であるが「箕子朝鮮」と伝承される)」は、その中で動乱の時期に入り、結局、前2世紀初め、燕国の亡命者衛満によって衛氏朝鮮が建国された。しかし、BC206年に成立した漢帝国は、BC108年、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を設置した。
 以上のような東アジアの動乱とともに起きた人々の大規模な移動が、弥生時代中期の倭国にも戦争状態をもたらす。弥生文化の開始は大陸からの武器の流入をともなっていたが、人骨に戦争の痕跡が目立つようになるのは、弥生中期、BC4世紀ころからで、とくに北九州に多い。そしてBC3世紀からBC2世紀になると瀬戸内東部や大阪平野でも犠牲者が増える。こうして戦争とその準備体制が従来の部族相互の関係を緊張させ、列島の交通・交流関係を密接化し、一挙に部族相互の上下関係を作り出されていった。そしてBC1世紀後半から1世紀前半ころ、瀬戸内・近畿に大型石製武具をそなえた高地性集落が確認されるが、これは九州と畿内のあいだでの軍事的な緊張を表現している。
 『前漢書』地理志の「燕地」に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来たり献見す」とあるのは、紀元前1世紀半ばに、部族がすでに「国」と呼ばれる実態をもち、国家形成の初期段階に入っていたことを示している。それを象徴するのが、AD57年の「奴国金印」の授与、そして107年の倭国王師升(伊都国王)などによる生口(奴隷)の献上記事である(『後漢書』)。朝鮮半島南部と長い歴史的関係をもち、朝鮮の鉄の輸入をほぼ独占していた北九州の位置はきわめて大きかった。初期的な国家はまず北九州に成立したのである。それは広くみれば、この時期、漢帝国の成立の影響の下に、ユーラシア東部で始まった「民族」的な動きの一環であった。黒竜江流域から扶余=高句麗が台頭し、南朝鮮で韓族(三韓、馬韓・辰韓・弁韓)の動きが目立つようになるのも同じ問題である。2世紀半ば、漢ー楽浪郡の体制が、高句麗や鮮卑(トルコ系)などの反乱に直面したのはその象徴である。
 こういうなかで漢自身が、黄巾の乱によって没落していき、もとの燕の地では遼東大守公孫氏が王位を称し、50年ほど覇権を握る。こういう奴国・伊都国を支えていた漢帝国の崩壊に対応して、「倭国大乱」といわれる状況が生まれた(『後漢書』)*1。この時期にも瀬戸内から近畿にかけて高地性集落が顕著になる。そして、3世紀初頭(200年頃)、倭国の女王・卑弥呼が「共立」されたのである。『魏志倭人伝』(三世紀後半の成立)には「その国、本亦男子をもって王となし、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」とある。なお卑弥呼がどこで即位したかについては論争があるが、ここでは、すぐに述べる最近の纏向の発掘成果との整合を重視し、ヤマトで即位したとして説明することとしたい。
 卑弥呼は伊都国と関係あった楽浪郡から離れて公孫氏に属した。しかし、220年、魏が漢帝国を最終的にほろぼし、さらに公孫氏を滅ぼすと、その翌年、卑弥呼は魏に使者を派遣して、239年「親魏倭王」に補任された(『魏志倭人伝』)。従来、奴国・伊都国などの北九州の国々が朝鮮半島の南部との半ば部族的とさえいえる関係によって主導していた外交の主導権は、この時期以降、近畿地方に移動した*1。これは列島社会がはじめて「他者」としての大陸を明瞭に認識する本格的な機会となったはずである。
参考文献*2
寺沢薫『王権誕生』
山尾幸久『古代王権の原像』(学生社)
藤尾ほか「弥生時代の開始年代」(『総研大文化科学研究』創刊号2005年)