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tsuushi4飛鳥時代

④飛鳥時代
 飛鳥時代という時代区分にはいくつかの考え方があるが、ここでは仏教の伝来した6世紀中ごろ(宣化・欽明朝)から「大化改新」のころまでとする。ただ、ここでは、この時期の王統の祖であった大王継体の登場の事情から説明することにしたい。
 応神・仁徳の直系の王統は、最後の武烈が子どものないままに死去し、それまでの激しい内部闘争もあって係累の男子もなく断絶してしまった。継体は越前にいたが、応神の五代の子孫で、皇親氏族の息長氏を出自としていた。継体のノミネートは息長氏が雄略のころから大王と姻戚関係にあったことに原因があったとされている。しかし、507年に即位したものの、継体の王宮は長く山城にあって、ヤマトに入らず、また子どもの安閑・宣化・欽明の間での王位をめぐる政争も推定されている。雄略の即位(465年)から、欽明の即位の540年ころまですでに80年近く王権は、内部争いと不安定な情勢のなかにいたのである。
 これに対して、欽明は30年の在位をまっとうし、男子の敏達・用明・崇峻、女子の推古をあわせると、この父子5人の天皇が約90年のあいだ王位をしめ続けたことになる。このころ王位は出来る限り血の濃い近親婚によって生まれ、成人している皇子が継承する原則があった*1。これが政治史の理解の基礎となるが、欽明の後継は欽明と兄宣化の娘のあいだに生まれた敏達。敏達の後は敏達と異母妹の推古との間の子、竹田皇子となるはずであった。用明・推古・崇峻は欽明と蘇我稲目の二人の娘との間にうまれていたから、竹田が成人するまでの中継ぎであったことになる。ところが、その間に竹田が夭折し、代わりに正統とされたのは、用明と妹の穴穂部皇女(母は蘇我稲目の娘)の間の兄妹婚でうまれた聖徳太子。
 用明の母は蘇我稲目の姉娘、穴穂部皇女の母はその妹という形で蘇我の血が二重に入っているが、当時の王位継承原則からすると、聖徳太子こそがもっとも純血となることは明かである。問題は、これに怒った崇峻が退位を肯んぜず、蘇我馬子が崇峻を殺害したことであった。しかし、これは聖徳につらなる王位継承原則を乱した訳ではない。事態収拾のために推古が即位したのも自然なことで、推古にとっては太子の父、用明は同母の兄、太子の母は母を姉妹同士とする異母妹という密接な関係である。
 ところが、この太子は推古よりも早く死んでしまい、王位は結局、蘇我氏の血をうけていない敏達の孫の舒明に回ることになった。記紀は蘇我氏の悪行譚を中心にした物語を描くが、実際には、この時期は大王の権威の確立期であり、蘇我氏は欽明をささえ、部族連合国家の枠をふみでた国家システムを作り出すのに決定的な役割を果たした。その地位は、仁徳王統の姻族を代表する大和南西部の葛城地域の部族長、葛城氏の地位を奪取したもので、葛城氏は対外関係を統括していた。蘇我氏は、5世紀の渡来系氏族のボスとして台頭した新興氏族(あるいは蘇我氏自身が渡来系ではないかともいわれる)であったから、葛城氏から朝鮮との窓口の役割を奪ったことは決定的な意味があったのである。
 この時代、6世紀の中国の北部は4世紀末に五胡十六国時代をおわらせた北魏が繁栄していた時代である。北魏は鮮卑族拓跋部の部族の連合国家であったが、すでに部族連合国家の枠をでて、法と官僚機構をもって華北を支配する大国に成長していた。また南部はインドから西来した達磨に法を聴いたことで知られる梁の武帝が治国の実を挙げていた時代である。内紛と分裂にも関わらず、中国の富強が目立ち始めた時代であるということができる。そして、その圧力の中で、朝鮮では高句麗・新羅・百済の三つどもえの死闘が繰り返されていたが、その中で加耶は新羅に最終的に併呑された(562年)。この中で、百済が倭を利用する戦術をとり、これが倭の加耶の権益を主張する名目に一致して、百済=倭の軍事同盟が形成される。
 そもそも継体は出身氏族の息長氏が渡来系に近い関係もあって百済勢力と強い関係をもっており、それが擁立の一つの条件であったともいわれる。そして、いわゆる仏教公伝、538年(元興寺縁起)あるいは552年(『日本書紀』)に百済から仏像や経論が贈られた前提にもこの同盟があった。それを主導したのは蘇我氏とその下の渡来系氏族であって、それは結局、蘇我氏による法興寺(飛鳥寺、588年造営開始)、聖徳太子による法隆寺(607年竣工)の造営に結果する。百済と倭の軍事同盟は、仏教を国教とする文化的同盟をも意味することになったのである*1。それを象徴するのが、敏達を最後にして前方後円墳の形式の王陵が終了したことであろう。以後も殯は行われたが、これは神話をイデオロギーとした部族連合国家からの転換を意味している。
 百済の大きな影響の下、こうしてヤマト王権は「文明」国家に転換したのである。社会構造の側面で、その初発を決めたのは、527年、継体が百済に援軍を送ろうとした際に、それに反対した筑紫の族長、磐井を討伐した事件である。これは明瞭な地域国家の抑圧である。王権は、これを御手本にして各地域の首長を王・国主ではなく、「国造」に性格換えしていく。「ミヤツコ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤッコ」(奴)の意味である。そして、磐井の領地は糟屋屯倉(ミヤケ)として没収される。「ミヤケ」とは「ミ」(朝廷の)「ヤケ」(家)という意味であって、これが東国をふくめた全国に波及し、従来の首長居館のもっていた収納・蓄蔵・経営・交通などの機能が解体されて王権に吸収される。そして、この国造とミヤケへの編成は従来の首長の支配権内部にいた民衆を「部」の民に編成するという形で及んでいく。
 またこれに対応して朝廷のシステムも氏姓制度によって整えられた。朝廷組織をになう有力氏族のもっていた身分は「殯」によって作られる「骨」によって象徴されるのではなく、「臣・連・君」などの官人的な称号としての姓に編成替されていく。そして、そのなかで、たとえば大伴氏は「トモ」(奉仕者)を統括し、物部氏は「モノノフ」(門番など)を統括するという仕奉のあり方が位置づけられる。彼らは、おのおのの職掌におうじて、彼らは国造やミヤケのシステムに依存して、各地の部民を支配するようになっていくのである。もちろん、このようなシステムの前提となるものは氏族の始祖の神話として古くから存在したし、神話の観念自身は、これ以降も長く続くことになるが、しかし、この時代、ヤマト国家が機構による支配の方向に大きく踏み出したことは否定できないのである。その指揮を蘇我氏と文筆・計数能力をもつ渡来系氏族がとったことはいうまでもない。
 このような「文明」的国家への移行は、中国における隋(581年建国)・唐(618建国)の帝国再建の動きに影響され、同期したものである。紀元前後からのユーラシア東部における民族国家形成の動きは漢帝国を南北に分裂させたが、そのなかで多民族の融合と交流のシステムを内包する世界帝国のシステムが組み立てられた。隋も唐も、その王族が北魏の鮮卑・拓跋系の出自をもつという、以前では考えられない体制である。これによって漢にくらべて広大な領域をしめる大帝国が形成され、強大な力をユーラシアに発揮しはじめた。
 600年、推古は聖徳太子の弟を将軍として久しぶりに新羅に出兵し、同時に遣隋使を派遣する。新羅出兵は効果がなく、遣隋使も冷たくあしらわれ、王権は島国日本の思惑をこえる東アジアの動きを実感したはずである。しかし、これにつづいて607年、有名な「日出ところの天子云々」の遣隋使が派遣されるが、今度は、隋は高句麗征服の方針との関係で使者を日本に送り、日本からの留学生をうけいれた。彼らが帰国し始めたのは聖徳太子の死去(622年)の翌年。そしてしばらくすると、推古が死去して舒明が即位し(629年)、翌年には隋に交代した唐帝国への第一次遣唐使が派遣された。
 推古ー聖徳太子ー蘇我氏の枢軸から自由になった舒明の時代は、10年ほどしか続かなかったが、その晩年には留学者が続々と帰国して東アジアの状況が明瞭になっていく。この時期、舒明は勅願寺として百済大寺を建立したが(639年塔竣工)、しかし、留学者たちのなかには仏教のみでなく、儒教や法制を学んだものが多かった。こうして「文明」国家の形態を仏教のみではなく、より広く法的な国家思想にも依拠し、東アジア情勢に対応するという動きが始まる。いわば国家思想の「仏」から「法」への重点の変化である。
 このなかで蘇我氏が退場する。つまり蘇我氏は舒明が死去し、舒明の妻の皇極が即位すると、蘇我馬子の娘を母とする古人皇子に王位をまわすために聖徳太子の息子の山背皇子を殺害した(643年)。そしてそれに対して、645年、軽皇子(皇極の弟、すぐに即位して孝徳))と中大兄(舒明と皇極の子、後の天智)が逆転クーデターを起こし(乙巳の変)、古人と蘇我氏の族長・入鹿を殺害したのである。「乙巳の変」である。これを「大化改新」と呼んで国家文明化の一大画期とみる見方は、天智・天武の治世を誉めあげるというニュアンスがある。とくに6・7世紀の政治史を「蘇我氏の悪行」という見方に塗り込め、そこで進展していた国家の「文明」化を軽視してしまうのは問題が多い。「大化改新」は、実際上は蘇我氏が担った文明化の動きを別の形で引き継いだものであるというべきであろう。
 しかし、そのスタイルは「法」を基礎としていただけに、制度としてみると整ったものであった。「大化改新」が644年から始まった唐の高句麗攻撃など、激変する東アジア情勢に対峙して、「法」国家への転換を急ぐという課題を掲げたことは否定できないであろう。とくに発掘調査の結果、孝徳を中心として取り組まれた難波宮に大規模な官衙遺構がともない、発達した官僚制が構想されていたことが明かとなった。さらに大きいのは、各地でミヤケから「評」への切り替えが進み、統一的な公民支配が指向されたことである。これによって部族的な領有は国家に集中され、必要におうじて分割されて「評」に平準化され*1、部民支配も解体された。首長は評督・郡司となって国家機構に編成され、首長の下にあった共同体の枠組は全体主義的な国家貢納制に編成替えされた。国家は首長を押しつぶして在地社会における下請け人にしていく。
参考文献
吉川真司『飛鳥の都』(岩波新書)