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tsuushi5奈良時代

⑤奈良時代
 奈良時代は平城遷都(710)から平安遷都(794)までの期間をいうが、ここでは紙幅の関係で、「大化改新」の後から説明する。大化改新はもっぱら中大兄の動きによって説明されがちであるが、実際には難波宮への遷都を主導した孝徳の位置も大きかった。しかし、孝徳が死去し、655年、皇極が重祚して(斉明)、中大兄の位置が上昇する。
 この時代より少し前から、列島の北と南の動きについての記紀などの記載がふえる。これはアムール川流域から樺太に広がる靺鞨諸族の活動(オホーツク文化、後の渤海につらなる)が活発化して蝦夷(後のアイヌ族)との衝突が起こる中で倭が蝦夷側にたって介入し、それを梃子として7世紀後半に陸奥を立国したことに関係する。しかし、その拠点は飛び石的なもので、実際には独立性が高かった。同様に南方では屋久・奄美などの諸島の人々の記事ががみえるが、これはこの地域の中心であった流求国が、隋の煬帝によって王を殺害されるなどの大規模な抑圧をうけたことの反映であった。南島には王がいたことが確認されるから、蝦夷や南島との関係は異国あるいは王と王の間の外交的関係として交易を中心としたものであった。
 とくに658年からの阿倍比羅夫による渡島(北海道)にいたる探査行は高句麗への北方航路の開拓もめざしていたといわれる。この時期、南北への動きが目立つのは大陸・半島との関係のみでない、南北への海の道とネットワークが、列島ジャパネシアの視界に入っていたことを明瞭に示している。
 ところが、660年、唐は大軍を送って高句麗の背後にいる百済を打倒し、比羅夫の探査行は中断する。倭軍は翌年から百済救援のために渡海したのである。そして、九州まで下った斉明は、そこで死去し、唐との決戦も白村江において無惨な結果となった。この戦争の惨禍は列島社会に深い衝撃をあたえた。そして668年、高句麗は唐軍によって滅亡し、669年には唐は倭国征討のための軍船を整えた。天智は防人・水城・山城を設置し、近江に遷都して防衛を固めた。そして軍役動員を表に立てて人々を戸籍によって掌握し、太政官を中心に官僚制を強化して、律令のシステムを成立させた(「近江令」671年)。百済・高句麗の滅亡のなかで、王族をふくめた多数の亡命者がいたことも、このような動きを促進したであろう。
 しかし、670年、事態は一変した。唐と同盟を組んでいた新羅が朝鮮半島の統一にむけて高句麗・百済の故地を占拠し、唐と戦う姿勢をみせたのである。これに対して唐は、今度は倭と軍事同盟を結んで新羅にあたろうとし、翌671年、使者を派遣してきた。唐軍の新羅攻撃への援軍の要請である。これに対して新羅も使者を派遣してくるという慌ただしさである。そして、このさなかに天智が死去してしまった。天智の後継に擬せられたのは大友皇子。母の身分は低かったが、天智はそれを無視した。
 事態を処置しなければならない立場にあった大友は唐の援軍要請にこたえる方針を決め、軍隊の編成にとりかかる。これを奇貨としたのが、天智の死去前、叛意を疑われて出家した大海人皇子(天武)であった。天武は吉野で蜂起し、おそらく戦争を好まぬ社会の雰囲気にも乗っかったのであろう。東国に回り、大友の近江朝廷を打倒することに成功した(「壬申の乱」)。そして、天武は派兵と介入の道をえらばず、防衛体制を維持し、交流を求めてくる新羅との関係を深めたのである。唐帝国は、北で突厥、西で吐蕃と対応することで余裕がなく、結局、朝鮮半島への介入をあきらめたから、これが正解であった。
 天武は兄の事業を受け継ぐ立場にあり、全体として保守的な姿勢が強い。「壬申の乱」は史上初めての大規模戦争に展開し、支配層のなかに重大な亀裂を残した以上、これは自然なことであった。内乱後の国内外の状況の安定をみて、天武は、妻の持統が天智の娘であることを強調して、二人の間に生まれた草壁を皇太子に指名し(ただし夭折)、天武と天智の両流を引く血統を正統とさだめた。また「皇親政治」といわれるように、王族の役割を重視した。そして近江令に手を加えて浄御原令とし、官僚制や儀礼を整え、「法」を重視する姿勢をみせた。それと同時に仏教を国教とし、さらに伝統的な神祇と神話の重視も重視する立場から『古事記』などの編纂に着手した。天武は儒教・仏教・神祇の三つをバランスをもって位置づけようとしたのである。
 天武は686年に死去したが、持統と孫の文武の下で、中国的な都城・藤原京の完成、大宝律令の制定などの事業が進んだ。問題は文武が20代半ばで死去して天智・天武の両流を引く男子が、文武と藤原不比等の娘との間にうまれた聖武に限られてしまったことであった。奈良王朝は元明・元正などの聖武のオバたちを天皇にし、あるいは血の近い藤原不比等をもり立てて、この血統問題をクリヤーしようとした。710年の平城遷都から聖武の立太子へと、この代替りはうまくいき、8世紀前半は国家の威信の拡大の時期となった。
 この時期、郡衙や軍団の編成、戸籍の作成、班田収受などなど国家支配の整備が進む。飛鳥時代の国家にもまだまだ西国国家という性格は残っていたが、ここで関東地方をふくめた全国国家ができあがった。この国家的な貢納システムの中心は、直線道路の設定や条里制の設置、一般的にいえば国家による自然=大地の開発と領有にあった。現代で言えば、開発独裁型の国家社会主義のようなものである。その下で国司は灌漑施設などを監察し、春には水田を班ち、種稲を貸し付けて不作のないように耕作させた。勧農と班田収受制である。この中で、従来の首長層にあたる人々は国司の下で個々に郡郷の行政や文筆の担い手として仕奉させられる。そして、その圧力の下で、民衆は、租庸調などの貢ぎ物や労役など共同体の外の世界にかり出された。
 このように7世紀末以降、国家によって大規模に進められた開発や交通の拡大は、全体として開明的な役割を果たし社会の生産諸力を解放した。それが列島規模の経済の基礎インフラを作り出すという歴史的意義があったことは否定できない。しかし、それはすでに解体していた首長制をさらに破片化したのみでなく、その基礎にあった旧来の共同体自体を分解することになった。民衆はそのなかでしばしば厳しい状況に追い込まれたのである。とくに、このころ、8Cからは世界史的に「中世温暖化」といわれる時期であった。温暖化は山野の植生に好条件であるが、農耕の進んだ社会には干魃の危険をもたらし、また疫病の流行のきっかけともなった。
 8世紀後半、重荷を負っていた地域社会に干魃と疫病が襲いかかったのである。それを象徴したのが、734年に河内・奈良で発生した大地震であった。しかも引き続いて735・6年、天然痘が大流行して奈良王朝に大きなショックをあたえた。これによって藤原不比等の4人の子どもなど公卿の半数以上が死去したが、干魃による飢饉とあいまって人口の3割にものぼるような多数の人々が死んだという研究もある。しかも、この疫病の原因は、聖武の皇太子が幼くして死去したという嫌疑をうけて自殺した長屋王の怨霊であるという噂がもっぱらであった(長屋王事件729年)。長屋王は天武の男子で壬申の乱に功の大きかった高市皇子と天智の娘の間に生まれた皇子で、さらに自身草壁の娘の吉備内親王を妻にむかえている。その男子は文武系以外では、唯一、天武と天智の両方の血をうけるという有力な王位継承候補者であった。疫病の流行のような災異がその死に関わるものと感じられたのは無理がない。そして、男子をなくした聖武は、結局、娘の阿部内親王を立太子させることになった(後の孝謙)。
 このような世情と王統の不安定のなかで、聖武は仏教に鎮護国家の力を求め、大仏の建立を発願した。この時期、高句麗の故地に渤海が興隆し、日本に新羅を挟み撃ちにすることを申し入れたこともあって、朝廷では二次にわたって新羅出兵の議論があった。しかし、聖武と孝謙はそれを嫌い、最初の予定地の山城紫香楽京が745年美濃地震で直撃されたにもめげず、東大寺大仏の造営を国家事業の中心にすえつづけ、それを実現した。大仏開眼会に新羅から王子が使者として来訪してきている。そして聖武の死去後、孝謙はさらに東大寺にならぶ大寺・西大寺の建立につとめた。孝謙は天武の孫にあたる淳仁を天皇としたこともあったが、淳仁が藤原仲麻呂とともに実権をにぎり、新羅出兵を決定したことなどを嫌って、結局、淳仁を廃止した。東大寺の建立と背景となった華厳の思想には平和の理念が含まれていたともいわれており、このような聖武・孝謙の姿勢の意味は大きい。
 しかし王位継承の行方は混沌とし、奈良時代の後期には、その中で天武の血を引く男子はほとんど処罰されるか配流されることになった。その度に、彼らの怨霊が疫病を引き起こしたという風評がたったのである。このなかで、770年、称徳(孝謙の重祚後の名)が死去し、結局、天智の孫の光仁に王位は譲られたのである。孝謙は、光仁に嫁いだ妹の井上内親王がもうけた男子、他戸皇子を後継者とする約束をさせたが、即位した光仁は、この天武・天智の双方の血を引く皇太子他戸を廃位してしまったために、奈良王朝の正統の血は絶えたのである。そして他戸も強力な怨霊となって、奈良時代末期の宮廷を混沌としたものにさせた。