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tsuushi6平安時代(9-11世紀)

⑥平安時代(9-11世紀)
政治史の考え方
 平安時代とは、平安京を都とする時代ということであるが(平安遷都794年)、普通は、その前の長岡京遷都の時からをふくめることが多い。長岡京と平安京に遷都したのは桓武天皇であり、ようするに平安時代は桓武天皇の時代にはじまったというのである。
 しかし、実際上の時代の転換は、桓武の父の光仁の時から始まっていた。もっとも大きな問題は二つあって、一つは後に述べる蝦夷戦争の開始で、もう一つは、光仁が桓武の皇太子に同母弟、早良親王を指名したことであった。桓武はこの弟を長岡京建設の責任者、藤原種継の暗殺を使嗾したとして死に追い込み、自分の子どもの平城を皇太子の地位につけた。
 殺された種継は藤原氏の式家という家の出身であったが、桓武はこの式家と深い関係をもって式家の女性との間に平城・嵯峨・淳和の三人の王子をもうけ、おのおのに異母妹を配して王位継承権をみとめた。この三人の競争は、まず末弟の淳和がリードした。死の直前の桓武が淳和のもとに初孫が誕生したのをみて、その子を正嫡とする意向をみせたのである。これに反発した平城は即位ののち、式家の仲成・薬子を支えとして王位を独占しようとして破れた。
 この後、嵯峨・淳和が交代に王位につき、さらに淳和の次の天皇に嵯峨の王子・仁明、その皇太子に淳和の王子・恒貞が立った。兄弟間での王統の迭立である。藤原北家の内麻呂(摂関家の祖)は、この複雑な情勢を子どもの真夏・冬嗣の兄弟を各々平城・嵯峨に仕えさせることで巧妙に切り抜け、冬嗣と嵯峨は相互に男女の子どもを配偶させる密接な関係となった。そして、淳和と嵯峨が相次いで死んだのち、仁明は皇太子の恒貞を廃位に追い込んだのである(「承和の変」)。良房は、この時に仁明を支え、かつ仁明の子どもの文徳に配した自分の女子から清和が生まれた。こうして良房は天皇の外祖父として初の人臣摂政の地位についた。これに対して藤原式家は、平城の時に中心人物を失った痛手を回復できないままに力を失っていった。
 このように王位継承の紛議は続いたが、奈良時代のように天皇や王子、王族が怨霊となるようなことはなくなった。もちろん、右の恒貞廃太子事件では侍臣の橘逸勢が配流されて怨霊になった事件、あるいは、9世紀末期、宇多天皇の侍臣の菅原道真が、宇多と子どもの醍醐の間の矛盾に巻き込まれて死霊=雷神となったという事件などはあった。しかし、平安時代の王権の特徴は、上記の例のように、王位を兄弟の間で「迭立」させ、両流の王統が競合するなかで事態を決着させるという形が多くなったことである。
 これは10世紀にも村上天皇の子ども、冷泉と円融の子孫の間で起こった。つまり、冷泉の子孫3人、花山ー三条ー小一条(皇太子)と、円融の子孫3人、一条ー後一条ー後朱雀の両流の間での迭立である。藤原道長は円融系の側にたっていたが、右の6人のうち花山以外の全員に自分の娘を配し、両流を調整して権威をふるった。こうして良房も道長も、王家の迭立と内部矛盾を調整することによって大きな権力を入手したのである。
 これがいわゆる摂関政治の本質であるが、これは10、11世紀の平安王朝を安定したものとした。このような王権の安定の基礎となったのは、上級の王族・貴族が平安京に集中した巨大な富と充実した官僚組織を基礎にして、華やかな宮廷社会の中に自足し、その中での平和を追求したためである。このような都市王権のシステムは実際は人格的な奉仕関係、「侍」の関係の稠密な網の目を通じて動かされていく。侍の中心は天皇と后妃の側近に宮廷貴族の子弟が仕える「男房」(蔵人)と「女房」の組織で、これにならって貴族の家にも「侍」を中心とする奉仕組織ができていく。また侍の中には武官がいたことが重要で、その中には王族などの血を引く、源氏や平氏などの軍事貴族が重要な位置をしめていく。なお、平城上皇の事件の後に設置された蔵人所と検非違使が、この文武の「侍」組織が成長する場となったことは注目しておきたい。
 王権は、8世紀以来の開発振興策によって権力基盤を拡大しつつ、平安京が都市としてもつ求心力を利用して順調に発展した。このような条件の上に乗って、たとえば醍醐が発布した延喜の新制のように、天皇は代替りにあたって維新・新制の法を発布して徳政を標榜した。これは明治維新の「維新」と同じ意味である。そのことが示すように、平安時代の前期、9世紀から11世紀は日本の王権、天皇制の古典時代であったということができる。
東アジア世界
 光仁は、即位すると、すぐに代替りの遣唐使派遣を計画し、他戸を廃位し、桓武を立太子させた後に派遣事業を本格化した。対外的な面子からいって皇太子の人事の決着をまったということである。そして、次の外交政策は蝦夷との戦争であった。王の血統が天智系に切り替わるという不安定な政治状況のなかで、遣唐使の派遣によって正統性を示威し、他方では戦争に訴えるという代替りの方策がとられたのである。
 擦文文化以来、狩猟・農耕を組み合わせた安定した社会を形成していた蝦夷の抵抗は強かった。蝦夷にとっては、文明的な戦闘を戦わざるをえなくなった初めての戦争であったにも関わらず、この戦争は38年続いた。蝦夷にとってもっとも重大なのは樺太から北海道の北東に広がっていたオホーツク文化との競合であったが、東北における戦争=交通の経験は北海道の蝦夷の人々を北へ進出させた。
 こうしてそこに産するオオワシの尾羽などが『新猿楽記』に登場する商人のあつかう北海物資のなかに登場する。彼らが南は喜界が島にもわたり、夜久貝・硫黄などの南海の産物を交易していることが示すように、ここでは南海交易と北海交易が連接していったのである。琉球では農耕も開始され、後の「城」への動きが芽生えている。
 光仁の後、桓武・仁明が代替りにあたって遣唐使を派遣し、宇多も派遣を計画した。ただ、宇多の遣唐使は計画が曖昧になっている間に唐帝国が崩壊したために、以降遣唐使は派遣されなくなったが、平安王朝は、東北・北海道の特産物交易をドル箱としており、それは一貫して重視された。とくに陸奥の黄金は蔵人所の倉庫に収められて王室財政の直接の基礎となったことが特筆される。
 この時期の東アジアは、北方諸民族の活発な活動を原点として、契丹=遼の勃興、朝鮮半島における新羅の滅亡と内乱、高麗の建国、中国における唐の滅亡、「五代十国」の内乱、そして宋の建国と女真族(後の「金」)の台頭と続く内乱の時代であった。このなかで、唯一、王家が続き、域外からの富にもめぐまれた日本は、「君が代」に表現されるような島国的な独特の万世一系思想を強化していった。
 王権は外交においても摂関家による大臣外交のシステムを作り出していた。摂関家は、まず五代十国のうち江南に位置した呉越に対して、仏僧を使者として公的関係をもった。呉越はぶっきょこくで合ったから、これは南方交易のルートを維持する上で大きな意味をもった。さらに摂関家は東北地方や南九州に広大な荘園を設置して、貿易基地とする体制を整えていた。こういう中で相当数の貴族官人が陸奥に下向し蝦夷と通婚するなかで、陸奥鎮守府が改編され、それが平泉権力へ結びついていったのである。
社会構造の考え方
 平安王朝は都市に集中する富と組織を利用して強大な権威を実現しており、国家による大地の領有(国土高権)の強さは変わらなかった。国家的な勧農は本質的な変化はなく、班田収受制も「散田請作」という形にかわって国衙による土地管理は続いた。「班」も「散」も「あがつ」(配る)とよみ、人々が「班田」と「散田」を請作したという点では同じことである。
 ただ、9世紀には荘園の設立が目立った。平安王朝は華やかで平和であったが、宮廷の中心に参加できるのは摂関家を初めとする特権貴族であったから、そこから排除された人々は、国司の経験や人脈を生かし、農業や商業の富をもとめて地方の荘園に留住することも多かった。王族・貴族・寺社の「庄」の領有は8世紀から最初から認められていたが、地方に下った貴族は都との関係は維持しながらも、地域の領主となっていく。国司自身が留住してしまう場合もあり、地域社会は一種の開発ブームのなかで新しい権威を迎え入れることになった。
 9世紀にも温暖化した気候のなかで干魃の被害は続いたから、村の人々の営為とともに、この開発ブームがそれを防ぐための灌漑水路の改善などに相当の意味をもった。そして、そういうなかで「富豪」と呼ばれる人々が多く登場し、「里倉負名」といって、郡衙ではないところに自分の倉を建てることを認められ、周囲の耕地を名請けする地主となっていった。なおこの負名が「散田請作」をするシステムが後々まで続く「名」の原型である。8世紀の班田収受制からの変化は、地方行政組織ではなく、そこから生まれ郡郷の内側に巣くうようになった地主がこのシステムを支えるというという点にあった。
 地域社会には様々な機縁をもってやってきて中央と関係をもちながら土着の道を進む貴族領主たちと、富豪の地主たちが作り出す世界が生まれ、奈良時代につくりだされた経済インフラを前提として経済の基礎的な発展の時代がやってきたのである。なお、9世紀には京都の役所ごとに相当数の工匠(「作手」といった)が抱えられるようになっており、これが後まで続く「道々之輩」の原型である。その意味は役所の関係する「道」(分野)ごとに所属した工匠ということで、工匠の呼び方は「手人ー作手ー道々之輩」と変わっていったことになる。遠隔地商業が発展し、各地の特産物が生まれたことも特筆される。地方では、郡衙や国衙などの行政機関は縮小していったが、しかし、交通・港湾都市は発展して経済を支えた。また8世紀にはじめて導入された銅銭は王朝が改鋳利益をねらって粗悪化したために、民間で交換経済の桎梏として嫌われ、鋳造が行われなくなった。しかし、米・布などの現物貨幣のシステムはむしろ充実していった。
参考文献
保立道久『平安時代』(岩波書店ジュニア新書)