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tsuushi7平安時代(院政期)の通史メモ

⑦平安時代(院政期)
政治史の考え方
 道長が王家の両流の5人の天皇・皇太子に娘を配し、王家の主要な男子がすべて道長の聟・孫・曾孫ということになって、10世紀の王統分裂は消滅した。迭立する王統を調整することを条件としていた道長の家の権力は、こうして絶頂に達することによって同時に権力の基盤を失った。後を継いだのは道長の孫同士の結婚から生まれ、母を通じて冷泉流の血もうけついだ後三条天皇であった。
 このように両流の統合者という地位に立った後三条は徳政を呼号して新制を発し、長男の白河に譲位して院政を開始しようとしたが、退位後すぐに死去してしまった。問題は後三条が白河の皇太弟に母方の冷泉流の王族との間にうまれた男子を指名していたことで、白河は院政を実際に実現して巨大な権力を握りながらも、この父の素意をおそれ続けた。そして、子どもの堀河が即位しても、孫の鳥羽が即位しても皇太子を置くことを許さず、王位継承順序の決定を自身で握り続けた。さらに従来、天皇や貴族は「王の侍」=蔵人のシステムを通じて官衙機構を動かしていたのであるが、院は「治天の務」を独占し、天皇を形式上の君主としてしまい、実際には院司・院側近を通じて政務をとって官衙を動かすというシステムを作り出したのである。
 これが院政の体制であるが、そのなかで院は、その権力の基礎を武家軍事貴族を直接に臣従させることにおいた。とくに白河は後三条の指名した皇太子に近い立場にあった武家源氏を嫌い、伊勢に留住した平氏の一流を重用した。これに対して源氏の側は復権を期して東国に勢力を広めるなどの戦略をとった。こうして、源平の軍事貴族相互の争いが王権の内部に持ち込まれることになるのである。
 院が王位継承権を握ることは短期的には王位継承を安定させたが、しかし、それは矛盾が生まれた場合、親子の対立をもふくむことになり、兄弟間の迭立よりも深刻なものとなる。そして、後三条ー白河、白河ー堀河の段階では、親子間の対立は潜在していたが、鳥羽と崇徳の親子関係は厳しいもので、鳥羽の死去をきっかけに現任の天皇で弟にあたる後白河に対して崇徳がクーデターをおこした(「保元の乱」)。これは王位をめぐる実際の軍事衝突としては「壬申の乱」から後、初めてのことで、しかも「王城合戦」であったから衝撃は深かった。しかも続いて、院政を敷いた後白河と子どもの二条天皇の間での紛議も軍事衝突に展開した(「平治の乱」)。この二回の合戦の中で、摂関家も分裂し、源家・平家もおのおの分裂して覇権をかけて争ったが、最終的な勝利者は平清盛で、敗北した武家の将・源義朝は東国に向かう途中で殺害された。
 後白河院は、清盛の妻の妹、平滋子を寵愛し、彼女が生んだ子が高倉天皇となった。この過程で、従来は公家貴族の下にいた武家貴族がその実力によって公家貴族に優越するようになった。さらに清盛は自分の娘を高倉の中宮とし、その子・安徳を天皇として、平家の支配する王朝を樹立する一歩手前までいった。しかし、平滋子が死ぬと後白河と高倉の父子関係は冷却し、そのなかで後白河と清盛が対立した。これは権力の正統性を「保元・平治の乱」の段階まで巻き戻して問うことにならざるをえず、これが1180年代の10年間の激しい内乱を結果した。それは平家がどちらかといえば京都と西国に拠点を置いており、義朝の子どもの頼朝が伊豆に流されていたこととの関係で西国・東国との間での史上初めての全国戦争になったのである。
東アジア
 一二世紀、中国東北部の女真族の動きを起点とする大波のような動きが日本に到達した。まず北においては、女真の活動はオホーツク文化(ギリヤーク族とされる)がふたたび北海道において影響を広げることに連動した。彼らと北海道の西部・中央部の蝦夷(アイヌ族)の間の交流と抗争こそが、後のアイヌのユーカラ、「英雄叙事詩」の背景をなすものであるという。1019年、沿海州女真族の一派、刀伊が朝鮮を襲い、さらに北九州に来襲して王朝に強い脅威をあたえたが、実は、それは一時的なもので列島におけるおもな抗争の場は北にあったのである。
 大陸に広がる北方諸民族と倭人の間の、いわば緩衝地帯にアイヌ族が存在したことは、倭人が北方の富を吸収する最大の条件になっていた。そのアイヌとの境界地帯に位置する平泉政権は院や院司に取り入りながらも半ば独立的な様相をみせて繁栄したが、彼らはアイヌ族との関係を媒介することによってそのような立場をえたのである。
 他方、さらに巨大な影響を及ぼしたのが、女真の「金」の建国によって宋が南に追われて南宋となったことである。その状態でも南宋は羅針盤、火薬、紙、印刷(「本」)などの技術と知識の刷新を進め、東南アジアからインドネシアにかけてまで広範な商業活動を展開した。各地の港市に居住した商人たちの姿は華僑の原型となったが、日本でも宋商が九州に居留地をもって活発に往来した。その中で琉球・九州は独自性を強め、広域的なまとまりを強化した。院の近臣たちは、それを直接に支配し富を吸い上げることに狂奔したのであるが、その中心に位置して瀬戸内から九州に広がる海の世界を固有の権力基盤としたのが平氏権力であった。福原京は、いわばそのような海上軍事王国の要に位置する副都という位置にあったのである。
 従来、東アジア交易の世界においては、倭人は基本的には中国に食い込んだ朝鮮の商人との関係を軸として動いていた。しかし、院政期になると、南宋の南方への発展の中で、琉球弧・日本四島・千島につらなる列島ジャパネシアの全体が、南海交易と北方貿易をつないで直接に交易世界に参入していったのである。これはかならずしも平和的なものではなく、1093年、宋人・倭人が乗り組んだ硫黄・真珠などを積載した武装商船が高麗に拿捕されている。これは、後の倭寇につながる動きが芽生えていることを示している。そのなかで、従来のような排外的な意識のみでなく、日本の武士は虎に挑んで射殺した、高麗は弱く、日本は兵が強いというような噂が広がっていた。
 しかし、実際には東アジア世界からの経済的な影響は日本社会の内部に深く及んだ。京・琵琶湖から日本海沿い商業網をひろげた比叡山の神人たち、ある場合は平家と結んで西国に拠点を広げた祇園社の神人などが鎌倉期以降にも続く商業資本の本流としてのし上がったのは、このような対外交易との関わりを抜きに考えることはできない。また一二世紀半ば以降、大量の宋銭が日本に流入したことは決定的であった。もちろん、交換経済自体は遙か昔から存在したが、宋銭の流通は、年貢としておさめた絹布・米の現物貨幣としての流通を前提にしていた従来の官衙・国衙の経済システムに対する大きな打撃となり、経済を動かす商人の力を増大させた。
社会構造の考え方
 院権力は王土思想を強調し、国土高権を振りかざしたが、それは現実には大地の国家的領有を分裂させる方向に向かった。まず院は、その知行国支配の中で院司を相次いで大国の国司に任命したり、隣接する諸国に任命して広域的な支配を展開する場合があった。とくに後白河院の院司集団は関東諸国をほとんど独占して、協力しつつ広域的支配を展開していた。院政の下で発展した知行国は国司職を子弟などに配分するシステムであったから、支配の便宜のために親族や関係者で隣接する諸国を一定期間にわたって支配することがしばしば発生した。これは院の代表する国土高権が現実には広域的支配権に分裂する傾向を意味する。平氏政権の下では、これがさらに進んだ。
 第二の方向はとくに白河院以降、院の国土高権の下で、巨大な院領荘園群が六勝寺などに集中される形で蓄積されたことに関係する。都市の貴族たちの荘園領有は、六勝寺のような都市附属の宗教施設あるいは王権の後宮施設の所職としてひろく分け持たれることになった。これは実際上、国土高権が都市貴族に分割給与されたことを意味する。しかも、院領荘園は山野河海をふくむ非常に広い領域を上から設定して設立されるもので、王の国土高権、大地と海原に対する支配権を分割したといってよい内容をもっている。
 そして、平家が政権を掌握した後には、このような国土高権の相当部分を平家が行使したのである。とくに平氏政権の下では、院領荘園を中心とする大荘園の領主に平氏の家人が補任され地頭といわれるようになった。これは荘園の境目を地頭といったことから始まったことであるが、上から国土高権を分割して荘園が設定される様子をよく示す言葉である。こうして形成された地頭領主制は強い国家的な性格をおびた領主権として鎌倉時代以降にも引き継がれて社会の枠組をきめることになる。
 これに対して村落では地主や有力な百姓を中心とした村落が「古老」などといわれる人々を中心にまとまっていった。その際、村落の側でも「寄人」などといって都などと関係をもって特産物を商品化する動き、村落の備蓄を保有しようとする動き、さらには飢饉に対抗するために開始された二毛作を広める動きなど、活発な動きがあった。
 広域的な地域が生み出されるのと、このような村落の動きは基底の部分では共通した動きで、すでに相当の地域で市庭は平和な場所でなければならないという考え方も生まれていた。それらをつないで地方に出職していく職人たちも生まれており、また商人たちは比叡山などの神人という身分を獲得して資本を動かすようになっている。さらに、平氏政権の下では宋銭が大規模に流入してきて従来の米布の現物貨幣とあわせて、人々の経済活動を活発にした。こうして地域社会の経済は東アジアと同様に活気に満ちたものとなっていったのである。
参考文献
入間田宣夫『武者の世に』(集英社『日本の歴史』⑦)
元木泰雄編『院政の展開と内乱』(吉川弘文館『日本の時代史』)