tsuushi8鎌倉時代の概説
鎌倉時代
政治史の考え方
現在、鎌倉幕府の成立を頼朝が征夷大将軍に補任された一一九二年(建久三)と考える専門研究者はいない。頼朝の地位としては、その種の官職身分関係ではなく、蜂起した頼朝が握った東国支配の実権、あるいは壇ノ浦で平家を覆滅させて西国の制覇した義経を追い落とす中で頼朝が獲得した「日本国惣地頭」の実権をこそ重視するからである。
前者は「東国惣官」ともよばれる東国に対する広域支配権であり、後者の「日本国惣地頭」も「四国地頭」「九国地頭」などのいくつかの国をたばねる広域支配権から構成されていた。これらは個別の地頭とは異なる国を単位とする「地頭職」(国地頭)であり、武士の本領地頭を安堵し、また占領地の地頭職を承認する強力な権限を含んでいた。しかも頼朝は、最初、これにくわえて全国の総守護権をも公認させた。もとより、歴史的伝統をもつ天皇王権の西国支配は根強く、頼朝は西国守護を差配する権限を放棄し、西国は院権力の支配の下にもどった。しかし、短期間であれ、頼朝の地位は「日本国惣官」、国土の領有と支配権を王権と分有する「覇王」ともいうべき国家的地位であった。
こうして鎌倉期の国家は武家が公家貴族に優越する武臣国家となったのであるが、武力によって成立した政権のつねとして内紛に内紛を重ねた。東国の有力な地方軍事貴族(源氏の一族、東国の大領主、北条氏)の間での闘争はきわめて激しく、その中で頼朝の子供たちの血統は中絶してしまう。そして、それをみた京都の後鳥羽院は国家のあり方を院政時代に戻そうとしたが、それは逆に東国の武家の一致した反発を引き起こした。これが「承久の乱」と呼ばれた東国・西国戦争である。
後鳥羽は院政を敷いていたが、隠岐に流されて死んだ。後鳥羽の下で王位についた土御門・順徳・仲恭も(幼かった仲恭をのぞいて)配所で死去した。幕府は、その代わりに頼朝の京都の親族に縁続きの後堀河天皇を王位につけ、新たな王統を作ろうとしたが、後堀河も、その子の四条も夭折したために、土御門の息子の後嵯峨を選択したのである。こうして王家の自律性が失われ、内部分裂が継続して、結局、後嵯峨の息子の後深草の子孫(持明院統)と、その弟の亀山の子孫(大覚寺統)の両統が交代に王位につくという異常事態がもたらされたのである。しかも、その即位順序の斡旋などまで北条氏がおこなうようになるなかで、公家貴族も両統に分裂し北条氏の意を重んじたため、国家の実権は北条氏の手にわたった。
しかし、北条氏は、本来、頼朝の妻の実家という家柄にすぎなかったから、このような経過は、北条氏の専制と孤立を導き、幕府内部および王家・武家・公家間矛盾を抜き差しならないものにしていった。
東アジア世界ーモンゴルと極東世界
テムジンがチンギスハーンを称したのは1206年。そして、南宋の崩壊は1279年であった。この間、約七〇年。モンゴルと女真の相違は、モンゴルが西部に位置して、7世紀以降のアラビア=イスラム圏のユーラシア広域の世界経済を条件として世界史の舞台に躍り出たことである。そういう彼らにとっては極東世界は世界史的な価値のない地域であり、逆にいえば、日本のような辺境の島国にとっては、モンゴルの制覇はいわば別世界の問題であった。実際、それは女真の勃興以来の趨勢の基本を変化させるものではなかった。琉球弧から千島につらなる列島ジャパネシアの全体が、南海交易と北方貿易をつなぐ場となるという趨勢は不変であったのである。
つまりアイヌの人々の活動は引き続いて活発で、鎌倉時代にはギリヤークを追ってサハリンを押さえ、さらにアムール川流域で交易を展開するところまで進み出ていた。これに対して、モンゴルは1264・1284・1286年と大軍をもって何度もサハリンを攻めた。いわゆる北からの蒙古襲来であるが、北の海での防衛戦にはアイヌの側に地の利があったことは明らかで、アイヌがいちおうモンゴルに服したのは、それから20年も後のことであったという。
もし、1264年の緒戦において、モンゴルが勝利し、サハリンから北海道に入り込むということになっていれば、事態はまったく異なる展開をみせたであろうが、モンゴル軍は、1268年、南宋攻撃を優先し、1274年(文永二)には、南宋の背後にひかえていると考えた日本の攻略にかかった。日本攻略は南宋接収作戦の一環なのであって、1276年には南宋の恭宗を降伏させて中国本土征服に目処をつけ、翌年にはビルマに侵攻している。これでモンゴルの戦略的目標は達成されているのであって、モンゴルが日本侵攻を宿願としていたなどというのは幻想である。実際、第二次の1281年の来襲は、数十万におよぶ旧南宋軍の再就職問題に発する移民軍団という要素が強かったという。
南宋を崩壊させた後、元(モンゴル)の覇権にとっては、ユーラシアの陸路のみでなく、宋の南方への発展を踏襲し、南回りの海路を充実させ、イスラム経済に対抗しうる国際経済システムを東アジアから東南アジアの世界に作り上げることがもっとも重要な問題であった。その中で、日元貿易は掌を返したように、発展の一途をたどった。むしろ、島国の局外的な平和を享受する日本にとっては、平安時代以来続くユーラシアの争乱は、戦争経済のなかで硫黄などの直接の軍需品貿易をふくめた利益の機会となった。倭人にとってはモンゴルの襲来は、南宋の崩壊という事件の間奏曲のような一過性のものであったといえよう。
北条氏は、そのバブルにのって膨大な利益を手中とした。北海交易においては、函館の志苔館その他で膨大な埋納銭が発見されていることが示すように、北条氏は、アイヌ族のうち渡島半島の「渡党」の人々の力量を利用し、日本海交通を支配して莫大な利益をあげていた。そして南海においても、薩摩から奄美大島の地頭職をにぎって、このころ拡大を開始した琉球の「城」主たちとつんらなる南島交易を差配したのである。こうして、北条氏の下で、列島の北と南の広大な領域をつかみ、機動的な全国経済が動き始めたのである。
社会構造の考え方
鎌倉幕府は、将軍の下に、源氏の一族や三浦・千葉などの東国軍事貴族、そして北条氏によって構成されていたが、北条氏が東国の領主を圧伏して権力を握り、六波羅探題を設置して京都をおさえるとともに、全国の守護職を集中していった。その条件は、発展する交通・商業・貿易などの都市的な諸条件にあったが、それは北条権力のみでなく、当時の領主権力全体にとっても有利にはたらいた。この段階で領主支配の中に市町の支配が明瞭に確認できるのである。そういう中で、鎌倉時代を通じて東国の御家人たちが全国に移住し、彼らは地頭領主として本拠を都市において代官・又代官などの組織をはりめぐらせて直轄支配を展開した。軍事力を基礎として都市的な関係を握って全国支配の体制をつくることは、頼朝の段階から必然的な動きであったのであるが、結局、それは北条氏の手によって実現されたのである。
武士の生活を「質実剛健」なものというのは誤解であって、むしろ鎌倉時代こそ都市的な経済の発達を利用した全国的で機動的な支配の在り方がうまれた時代であった。武士が、都市生活に進出していくと、地方では、商業や交通などの仕事に進出する人々が増えた。図版として『一遍聖絵』の福岡市の場面を掲げたが、そこには活発な貨幣流通の様子もみることができる。市町を場として年貢を替銭で送るような信用システムも発達し、このような市に出入りする人々が地頭の又代官などになって活動する局面がふえたのである。また前述のように比叡山や祇園などの神社に属する神人たちが商業資本というべき活動を活発化させ、平安時代以来の各地域の開発の中で様々な特産物の生産と交易が進展していた。それが各種の「座」などと結びついて列島には各地初期的な産業社会の様相が到来していたのである。
これを支えたのは農山村地帯に広く地主というにふさわしい人々が根を下ろしたことであった。彼らは名主として荘園の年貢収納事務を請け負い、必要な場合は「庄家の一揆」を組んで領主に抵抗することもあった。なお、ここでいう「一揆」とは、「一致する」という意味であってそれ自体としては実力行使を意味するものではなく、むしろ合法的な訴訟の権利であり、行動であったことに注意しておく必要がある。これは平安時代の百姓の訴訟権と同じものである。
なお、鎌倉時代中期に起きた大飢饉は、以前、気候の冷涼化一般で説明されていたが、1250年代に頻発したインドネシアなどでおきた巨大噴火による火山性エアロゾルの影響が大きかったことが明らかになったことを付言しておく。
参考文献
近藤成一編『モンゴルの襲来』(『日本の時代史』9、吉川弘文館)
山本幸司『頼朝の天下草創』(講談社『日本の歴史』9)
西谷地晴美『日本中世の気候変動と土地所有』(校倉書房)