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tsuushi9南北朝時代と王家の分裂

⑨南北朝時代と王家の分裂 政治史の考え方   後醍醐が大覚寺統のなかでも傍流に属していた。後宇多は譲状において後醍醐は一代限りであることを厳密に命じ、実際に若死にした後二条の子、邦良を皇太子として、後二条ー邦良を嫡系に指定している。この背景には、亀山・後宇多・後醍醐の間での(後醍醐の母が亀山に寵愛されたなどの)矛盾と対立があったとされるが、後醍醐はこうして大覚寺統の皇太子邦良と、その後に即位を予定された量仁(光厳)の属する持明院統の双方から退位を迫られ、幕府もそれを後押しするという状況に立たされたのである。  後醍醐のクーデターは後鳥羽クーデターと同じように東国・西国戦争から出発し、当初、後醍醐の側に立った武士は西国勢力であった。しかし、全国的な支配を確保していた北條氏の専制的な姿勢は、東国内部の離反を導き、鎌倉幕府の中枢の源氏門葉の家柄が後醍醐側に寝返った。足利尊氏が西国で、新田義貞が東国で蜂起することによって北条氏の権力はあっけなく崩壊したのである。  後醍醐の目指したものは後鳥羽と同じく、院政時代の復活であり、武臣国家の否定であった。ただ相違していたのは、その国家構想が京都の北の大徳寺を国家寺院とするなど、中国で流行していた禅宗や儒学にもとづく皇帝専制を理念としていたことである。また陸奥将軍府や鎌倉将軍府のような「鎮」=広域行政府を設置する構想も南宋の設置した総領所に類似したものといえる。これは、鎌倉時代、北条氏の下で機動的な全国支配のシステムや広域的な権力のあり方が生まれていたことに対応するものである。もちろん、皇帝専制という思想や法と行政のスタイルは大きく異なっており、それが矛盾を引き起こしたことは事実であるが、後醍醐の構想をただの空論ということはできない。  逆にいえば、後醍醐の建武政権がもろくも滅びた理由は、北條氏の専制が崩れるのと同じことであったということにもなるが、崩壊のきっかけとなったのは、後醍醐が、蜂起に功績のあった大塔宮護良親王を疎外し、その寵姫・阿野簾子所生の皇子を皇太子に立て、陸奥・鎌倉の将軍府に据えたことであろう。西国武士の組織において中枢的な役割を果たした護良を排除したことは西国武士の組織を脆弱なものとしたことは疑いない。  そして後醍醐が護良の身を尊氏・直義兄弟に預け、鎌倉に幽閉されたことも大きな影響をもったであろう。つまり、鎌倉将軍府にいたのは、成良親王であったが、それを支える地位にいたのは鎌倉に根拠をおいて鎌倉幕府の伝統を固守する路線にたった足利直義であった。そして後醍醐を見限った尊氏は直義を頼って鎌倉に下り、兄弟で後醍醐に反旗をひるがえし、護良を殺害し、東国の軍勢とともに京都に攻め上ったのである。こうして後鳥羽の時と同じ東国西国戦争が戦われ、結局、尊氏・直義が勝利して、後鳥羽の時と同じように後醍醐の西軍は敗北して建武政権は崩壊したのである。  これによって後醍醐の構想する宋朝型国家ではなく、武臣国家の路線が定まったのであるが、尊氏が「覇王」となるためには、京都ー西国を抑えるのみでなく、東国を抑え、頼朝が瞬間的についた「日本国惣官」ともいうべき地位を確保することが必要であった。それを実現するために尊氏が選択したのは、自分の息子の義詮を京都に据え、もう一人の息子を鎌倉将軍府に据えて、直義を殺害することであった。いわゆる観応の擾乱の終了、1352年のことであって、これによって、内乱の全局が定まった。そこにいたる過程で、尊氏・直義・南朝は相互に合従連衡と乱闘を繰り返し、その後も同じようなことは続いたが、すでに南朝には独自の力はなかった。  この過程は兄・尊氏が西国を握り、弟・直義が東国を拠点としたという意味では、頼朝・義経とちょうど逆であったが、ともかくも二回目の西国東国戦争の結果、尊氏は頼朝とは違って、掛け値なしに「覇王」の地位を確保したのである。 東アジア世界  14世紀に入るとユーラシア全域に拡大したモンゴルの活動は停滞期に入り、それとともに中国の元は内部的な争いが激しくなり、江南を背景とした白蓮教の反乱が起きた。王朝の末期に宗教的な反乱が起きるのは中国ではしばしばあることであるが、それが江南から起きた漢民族復興運動という形をとったのは珍しいことで、中国南部の発展を物語っている。こうして、1368年、反乱軍から出自した朱元璋が明の建国を宣言する。  鎌倉時代末期、北方において蝦夷反乱が起き、北條氏権力の没落において重大な役割を果たしたが、その背景には、元の衰亡のなかでアイヌ族の人々のサハリンからアムールにかけての動きが再び活発になったことがあった。実際に明建国の直後に、明がアイヌを押さえ込むための動きをしているのはその証拠である。  南方では倭寇の本格化がはじまった。倭寇はすでに1220年代より確認できるが、彼らが朝鮮半島沿岸部を大規模に襲うようになるのは、1350年、右に述べた直義殺害事件のころのことである。九州では直義の側の動きが続き、内乱状況が存在したから、軍事的な雰囲気の中で九州の島嶼地帯の人々が海賊行為に走ったのである。  そこには実際上、朝鮮・中国人々も参加していたが、南海にはそのような国境を越えた集団が形成されていたのである。ただ、広く見れば、このような動きをささえたのは、琉球列島で進んだ「日本国」とは別個の国家の形成の動きであった。つまり14世紀の初めには琉球には北山・中山・南山などと呼ばれる三人の強力な按司に率いられた権力が登場したと考えられている。北条氏は、奄美大島までは影響力を及ぼし、地頭職を広げたが、その勢力は琉球諸島までは及んでいない。宋・モンゴルと続いた南海との交流は、琉球に倭国とは異なる独自な文化をもたらしたのである。こうして、明の成立とともに琉球は南海交易のメッカとして急速な繁栄を遂げることになる。 社会構造の考え方  日本列島の社会は14世紀には初期的な産業社会に到達していた。そこでは、交通や商業の発達、銭貨の社会的流通、座の広汎な活動などのなかで、庄園の経営それ自身が請負契約によって行われる趨勢となった。請負は従来から庄園のシステムにしみこんでいたが、家来や従者の人格関係に依拠していた部分も多かった。しかし、この時期、庄園の経営権自身が請負契約によって転々と移動することがふえたのである。北条氏が領地を家人に給付するのではなく、「料所」と号して「富有の輩」に経営を委託したというのが典型的な事例である。素性の不明な人間という意味で「甲乙人」という言葉が使われるが、市町は「甲乙人」が富裕となる場であったともいう。  後醍醐は、全国の庄園公領を検注して「貫高」で評価し、その二〇分の一を(おそらく土倉が運営する)天皇直属の倉に収納しようとし、さらには貨幣を鋳造し、紙幣を発行しようとした。これは北条氏が実際にやっていたことの延長にある。後醍醐の建武政権に「悪党」といわれるような勢力との連携がいわれるのも同じことである。  このような初期的な産業社会の様相が安定した農山村における地主を中心とした村落システムによって支えられるようになったことも、この時期の特徴である。村落が自治性をもって庄園を下から支える役割をしたのは昔から変わらないが、しかし、地主的な階層が計数能力をもって百姓請・地下請を行い、村有財産をもって代官と折衝し、「大人・老」などとして「惣村」の構成するというのは、このころからの特徴である。  これとの関係で、『一遍聖絵』の福岡市の場面について簡単に説明をしておくと、向こう側には「絹布・米・山鳥・魚」などを売る店がならんでいる。これは地元産の物資であって、それらの物品が銭によって売買されている様子がわかる(右奥の店内の女、左側の男が銭束をもっている)。中段右側の掘立の左端にみえる赤い丸いものは、男が腰に下げる腰袋という革製の銭袋をうっているところである(詳しくは保立道久「腰袋と桃太郎」『物語の中世』講談社学術文庫)を参照)。実際の市庭はより広い面積をしめており、そのため河原などの無主地が利用されたが、近辺には町場ができており、その町と市の両方をあわせて「市町」といったのである。この時代の地域は、地主を中心とした自治的な農山村と富裕な「甲乙人」がいる市町から構成されるようになっていたのである。 参考文献  佐藤進一『南北朝の内乱』(『日本の歴史』9、中央公論社)  筧雅博『蒙古襲来と徳政令』(講談社日本の歴史10).なお、この筧の著書は後醍醐が祖父亀山の胤であることを明示しており(359頁)、南北朝内乱論としては、崇徳が同じように祖父白河の子であることを明示した竹内理三の『武士の登場』(中央公論『日本の歴史』)とならぶ意味をもっている。