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中世遺跡保存の状況とその方向性

中世遺跡保存の状況とその方向性
                一の谷中世墳墓群の保存運動の経験から
                           保立道久
   はじめにーーーー一の谷中世墳墓群と私
 一九八九年一月に完全に破壊された静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群の保存運動の経験をもとに話させて頂くのですが、しかし、すでに破壊されてしまった遺跡の保存運動の経験について何を語るべきなのかということに、最後まで迷いました。
 遠江国の府中である見付の外縁部に営まれた二千余の墳丘墓、集石墓などからなる一の谷中世墳墓群は、中世の墓制や地方都市の内部構造を明らかにしうる遺跡として全国的注目を集めたものです。この遺跡の学術的意義については、保存の呼び掛けのために急遽出版された『中世の都市と墳墓ーー一の谷遺跡をめぐって』(網野善彦・石井進編、日本エディタースクール出版、一九八八年八月)を是非参照して下さい。
 さらに、一九八五年の史学会シンポ「中世都市における墓地の問題」に始まり、一九八七年七月に発表された日本民俗学会・日本考古学協会・日本歴史学協会文化財保護特別委員会などの四二学会の連署要望書という規模に展開した学会運動の経過については、『列島の文化史』(第五号、一九八八年五月)に池享氏が執筆した「一の谷中世墳墓群保存問題の経過」を参照して頂きたいと思います。また、一九九〇年の八月には、現地で必死の市民的な保存運動を行った「一の谷遺跡を考える会」の活動をうけて、「一の谷」編集委員会が編纂した『見付の町に一の谷があった』が発刊されます。そこには「考える会」が主催した「市民大学」の記録とともに、運動の経過と資料がまとめられています。
 考古学の立場からは遺跡の破壊後もすでに幾つかの仕事が発表され、問題が深められていますが、私が一の谷について語ることができる内容は、以上を越えません。私は、中世の社会史・社会経済史を、主に文献や絵画史料を中心に研究してきたもので、遺跡保存問題との関わりは、横浜市金沢区の上行寺東遺跡の保存運動の最後の段階で国会請願の事務を担当したのが初めてです。一の谷遺跡に関わったのは、正直にいって最初は上行寺東遺跡が破壊された衝撃の中で、これも破壊の方向に進んでいた一の谷中世墳墓群をともかくも見学しておこうと思って一の谷を訪れ、そこで上行寺東遺跡の保存問題の中で偶然の機会に会ったことがある山村宏氏が大きな困難に直面していることを知ったからです。
 私は、個人的な事情もあり、右に上げた一九八五年の史学会シンポにも、翌年一九八六年三月に磐田市で行われたシンポ「中世墳墓を考えるシンポジウム」にも参加しませんでした。その翌年になって再度展開された学会運動に参加して、右にふれた四二学会の声明の実現のための事務局を池享氏とともに勤めることになったのです。こういう経過ですので、どうしても私の念頭を離れなかったのは、自分が運動の初期から関わっていなかったことへの疑念です。
 そういう立場のものが、遺跡が破壊され、山村氏が遺跡の破壊が決定的な状況になる中で体調を崩され、一九八九年七月二七日、死去された後になって、一の谷について何を語るべきかというのは、今でも分からないというのが正直なところです。しかし、氏が常にいっていたこと、つまりここしばらくの内に破壊がさらに激しく進行するであろう日本の中世遺跡をどのように保存すべきか、その全体的方向を考える価値観は何かということについて考えることは残されたものの義務であります。
Ⅰ中世遺跡の保存と史跡指定
 中世遺跡の史跡指定の問題については、文化庁文化財保護部の主任調査官であった北村文治氏の「中世史跡保存の諸問題」(『月刊文化財』一九七二年七月号、文化庁文化財保護部監修)が全体的な論点を提出しています。約二〇年前のことですが、氏はその段階での史跡の内、中世の史跡が「十分の一でしかない」という状況に疑問を発し、史跡の指定基準そのものの視野に「あまり中世のウェイトが置かれていない」「中世固有の遺跡の種別があまり配慮されていない」こと、その原因の一つに「明治以来の顕彰的性格の強い史跡観」があり、そのために「中世が史跡保存のブランク」となっているとしました。
 その上で、氏は、中世遺跡の指定の在り方として、①近世遺跡と重なる場合が多いこととの関係などもあり、保存度のよい遺跡は極めて稀れであるが、その点にのみ着目するのではなく「その史跡の個性に即して現地で充分考えてみる」べきこと、②近世の城跡の指定保存はほぼ終了しているが、中世の城館跡の指定保存はきわめて微々たるものであり、その広域保存が望ましいこと、③「不安定な中世社会に、それゆえにこそ必要にされた秩序、自衛、平和という観点でとらえうる」遺跡として、宗教遺跡、特に修験道関係の遺跡などがあることを提言しています。
 このような指摘が七〇年代初頭に文化財保護行政の立場から行われていたことはたいへん貴重なことで、『日本歴史』の「文化財レポート」に北村氏が執筆した一連の「史跡論」と併せて、それは文化財行政に踏み込んで中世遺跡の問題を考える手掛りを提供しています。おそらく、このような論点が提出された前提には、一九六八年の金沢称名寺、そして一九七〇年代に入ったとたんに起こった埼玉県川越館址と奈良県池田庄遺構などの保存運動などの動向があったのでしょう。
 その後、中世遺跡の指定行政は、ほぼ北村氏の指摘にそって進みました。左図は『史跡名勝天然記念物指定目録』(文化庁、一九八四年)をもとに、その後の指定を加えて八八年度段階で集計してみたものです。十分正確なものではありませんが、これによると、現在国による指定をうけた中世の史跡は一九八件あり、その史跡総数の中での割合は約一、五割に増加しています。そこに文化財行政関係者の懸命の努力があったことは明らかですが、しかし、他面、北村論文が発表されてからほぼ二〇年が経過しようとしているのに、中世遺跡をめぐる問題状況には大きな変化がなかったともいえるように思います。国史跡の総数についても、原始五三六件、古代二六六件という数字と比較して、将来の日本に時代的なバランスをもった史跡を残すという観点からみて、一九六件という中世の史跡総数が妥当なものかについて疑問は残っています。
 そして史跡の内容を全体としてみても、中世史跡の体系には皇国史観のような戦前以来の偏ったイデオロギーと旧式な「博物学」を背景とする顕彰主義的性格がまだまだ優越した側面として残っているといわざるをえません。たとえば、指定基準の「二」の「政治に関する遺跡」のうちの「宮跡」は南朝の行宮跡が相当部分を占めますし、指定基準の「八」の「特に由緒のある地域」(六件)なるものの殆どが南朝忠臣の伝説地(楠木正成、「児島高徳」、新田義貞、桜山茲俊など)です。問題の中世墳墓についても日野俊基、北畠具行、楠木正成の墓などは、「勤王の士」を中心とした顕彰主義的な墳墓の指定方針の一環であり、また城跡についても南朝史観の残存を指摘せざるをえません。
 もちろん、それらの史跡が無意味であるというのではありません。しかし客観的体系としてみれば「南朝史観」が生き残っていることは事実であり、図を見れば分かりますように中世の史跡一九八件のうち半数強(一〇七件)が「政治に関する遺跡」であるという状況との関係で、それに無関心でいることはできません。こういう顕彰主義を除いていくと、やはり中世の史跡の内容は実に貧困なものになってしまうのでないでしょうか。もちろん、この間、特に「城館跡」の指定、追加指定を中心として相当の成果がありました。また八〇年代に入って「女堀」(群馬県)や「奥山荘城館遺跡」(新潟県)が実質上内容のある中世の荘園遺跡として初めて史跡指定されたことは重要な意味をもっています。
 発展は、その上に立ってのみ可能ですが、その際、重視されるべきものが、地域社会の遺跡、そしてそこを生活の場とする民衆と庶民の遺跡であることはいうまでもありません。それこそ、遺跡の体系を戦後の歴史学の発展に追い付かせる課題の中心でしょう。
 その意味で私は、現在問題になっている平泉の奥州藤原氏の政庁「柳御所遺跡」の史跡保存は史跡体系の中心をなす「政治に関する遺跡」という指定基準を問い直す意味で重大な意義をもっていると考えます。大石直正氏は柳御所の保存問題に関係して、指定基準に「館跡」がないことの不備を指摘されていますが(毎日新聞、一九九〇年九月八日夕刊)、一九五一年に制定された指定基準自体の孕む問題は北村氏によっても指摘されています。問題は指定の内容自体にあるのですから、現行の指定基準を改定することで全ての問題が解決される訳ではありませんが、氏の示唆を引き継げば、指定基準はたとえば「政治・法制、都市、集落、商工業、貿易・対外関係、宗教・祭祀・墓制、生活」などのより合理的かつ客観的な分野に再編成されるべきであり、その全てを通じて「多数者」としての民衆を重視した各時代毎の運用の基準が学界の議論を基礎にして構想されるべしょう。
Ⅱ地域の歴史像と中世考古学
 たとえば現在指定されている各地の中世史跡を巡り歩いた人はどういう歴史像をその中からうることができるでしょうか。北村氏は史跡指定とは「全国各地の遺跡を点や面でおさえながら、それを総合して日本の歴史像を再構成していこう」という作業であると述べています。たしかに史跡指定とは国費を使用し、保存された土地・空間自体によって、地域を基礎に全国的視野をもつ重層的な歴史像を構成していく作業、いってみれば土地と遺跡・遺物自身による歴史叙述の作業なのです。
 それは当然に各地域・自治体にとっての問題でもあります。そして、市民の目を重視し学術的基盤をもった歴史像を学問的研究と地域住民の共感の力によって、地域の土地に刻みつけること、それが文化財行政と遺跡保存運動の仕事であることも確かです。その中で現在の焦点は、地域的文化財の保存計画をどのようにして都市・農村の地域計画の一環に系統的に組み入れていくかにあります。それは市町村の作成する各種の総合計画をみれば明らかなように、少なくともうたい文句としては一般行政においても了解されていることであり、七〇年代以降、各地で様々な「史跡の町づくり」構想が作成されました。しかし、実際には担当者の努力にも関わらずそれを実効的なものにする上では様々な問題があったように思われます。中世史研究はこの問題にどのように貢献できるでしょうか。
 一の谷遺跡の存在した磐田市でも、一九八一年、「遠淡海の里」というテーマで歴史的環境整備計画を立案した経験があり、私たちは一の谷遺跡の保存運動の中で、これに注目し、初期の段階における保存計画(参照、佐久間貴士「一の谷中世墳墓群の保存について」、『歴史手帖』一九八六年一一月)をも引き継いで、「提言『遠江の里』構想と磐田市立博物館付属『一の谷史跡公園』」を発表しました。保存のために実際に力を発揮するためには遅すぎた感がありましたが、遺跡保存運動の中で磐田市の中世の歴史が全体として明らかになりつつあったため、それはそれなりの総合性・体系性を有するものとなりえたように思います。
 その作業を通じて感じたのは、「史跡の町づくり」を構想し、さらに市民の支持をえて実現するためには、中世の歴史を重視することが大切な意味をもつということです。たとえば、磐田市民は「ジノカミサン」と呼ばれる屋敷神を今でも大事にしており、また「裸祭り」といわれる見付天神の祭りや、「舞い車」という謡曲や「遠州大念仏」という念仏踊りなどの芸能に親しんでいますが、それらが中世の磐田の歴史に背景を有し、その理解に一の谷中世墳墓群が重要な意味をもつことが明らかになったことは、市民に大きな衝撃を与えました。
 このようなことは、一定の歴史的伝統をもつ地方都市については多かれ少なかれいえることではないでしょうか。たとえば一九六八年の横浜市の金沢文庫称名寺の裏山の保存運動、そして、八〇年代の半ばに同じ地域で起き、現在の中世史学界の遺跡保存問題の方向性を決定した上行寺東遺跡の保存運動は地方都市における身近な遺跡・文化財の保存に対する市民の共感を集めて展開しました。甘粕健氏が前者について「中世史家を中心とする全国的な歴史学者、考古学者、学生と地域住民が手をつないで起ち上がり、婦人会をはじめとする地元住民団体が大きな力を発揮した」といっているように(甘粕健「考古学への招待」、『新編日本史研究入門』東京大学出版会、一九八二)、そこには地域の歴史的・自然的環境の保護に根ざした運動があったのです。
 また、現在、先に触れた平泉の「柳御所」遺跡、和泉国日根庄、石見国益田氏の館跡「三宅御土居」、栃木県小山市の「鷲城」城跡、愛媛の河野氏の居城「湯築城」など、いずれも劣らない中世遺跡の保存運動が展開されており、それは六〇年代末・七〇年代初頭に始まった中世遺跡保存運動が再びピークを迎えていることを意味しています。そして、それらのどの場合をとっても、自然と文化財を守るという立場から都市計画に踏み込んだ問題提起が行われているのが特徴になっています。これは原始・古代の遺跡と比べても、しばしば都市域近郊に立地する中世遺跡が、都市再開発の中で、その町の歴史的伝統や都市環境の保存問題の焦点とならざるをえないことを示しています。
 もちろん、中世史ブームなどといはれるますが、市民の中にはまだまだ中世に興味をもつ人々は多くありません。むしろいわゆる歴史愛好家は原始・古代や近世に多く、また自治体の文化財行政も、しばしば原始・古代の考古学と近世史が中心となる傾向があるのが事実でしょう。しかし、原始・古代の地域史は市民が都市内部に日常化・民俗化した歴史的環境からは離れていることが多いし、逆に近世の文化財は地域の長期的な歴史を実感するためにはあまりに時代が近すぎる場合が多いように思います。
 中世の遺跡はその間を繋いで、広い範囲の人々に身近な文化財の歴史的意味を実感させる力をもっているのではないでしょうか。最近、中世史家が遺跡保存問題に熱心なのは、そのためであるという事情を他の分野の研究者に是非伝えたいと思います。特に古代あるいは考古学の研究者の意見を聞きたいことは、率直にいって、地域の歴史像を構成し、多様な市民の関心を吸収するという立場からすると原始・古代の歴史は大きな限界を抱えている、あるいは少なくとも系統的に通史的な歴史像を構成し、市民の関心を蓄積していくという点からみると大きな限界をもっているという点です。
 もちろん、古代史研究あるいは考古学の独壇場ともいうべき役割が日本における原始的な社会形成を取り扱い、それを通じて直接に人類史・世界史の研究に貢献することであることはいうまでもありません。しかし、考古学の側でも中世考古学と中世遺跡の保存により多くの研究を集中する必要がいわれ始めています。それは遺構から出発する考古学が、どのようにして歴史像を語れるかという問題、いわゆる「歴史叙述をめざす考古学の確立」(『UP考古学選書』刊行のことば)という課題に中世遺跡が深く関係しているからではないでしょうか。それは考古学自身にとっても外側から提起される問題ではなくなっているのです。
Ⅲ中世史研究と遺跡保存
 現在、中世史学界では、中世遺跡の調査・研究が学問的にゆるがせにできない課題であり、その保存が一つの職能的な責務であることを否定することはできなくなっています。それは全国各地で中世遺跡の保存運動が展開しつつあるためですが、より根本的には中世考古学がめざましい発展をみせているからであり、また新たな視野からの地域社会研究の必要が自覚されているからだと思います。
 その場合、何よりも重要なことは、遺跡の保存と地域のフィールドワークの問題から中世史研究の課題と方法を捉え直す仕事を研究者おのおのが独自なスタイルをもって行うことです。たとえば、戸田芳実氏は七〇年代前後の保存運動の経験から「文化財保存と歴史学」(岩波書店『日本歴史』二五、一九七六年)という論文を書いていますが、その時と比べて、特に八〇年代以降急速に中世考古学が発展した現在、それはさらに大きな成果を期待できる仕事になっています。それを根本においた上で、保存運動の考え方としておそらく最も問題となるのは、考古学と文献史学の間での学際的協同の在り方に関わる問題でしょう。
 千々和到氏が「歴史時代の遺跡をめぐる評価は、今後は、歴史研究者と考古学者との協同の中で確定されねばならない。しかもこの原則を文化財保護当局に認めさせなければならない。こうして中世墳墓群の保存運動は、単にその遺跡の学問的評価を問題にするだけにとどまらず、いやでも行政の方針転換を求める運動にならざるをえないのである」(「山城国一揆五〇〇年と戦後歴史学について」、『日本史研究』二九七号、一九八七年)と述べているように、それは単に学問上の問題ではなく、学際的協同が史跡指定行政自身の中に制度化されねばならないという保存運動の課題に直結する事柄です。
 それだけに逆に学際的協同の在り方を率直に議論することが必要になるのですが、問題は、文献史学と考古学の性格・目的の相違とその相互認識の在り方にあります。まず文献史学は、戸田芳実氏の表現によると考古学と対比して「現地をはなれたところでの文献的研究が主となり、現地での調査がその補助手段になる傾向がつよく、したがってフィールドワークも短期間にとどまり、地域の人々の中で保存されてきた諸文化財を、その人々との交流の中で綿密に系統的に研究し地もとへ返していく調査・研究活動はきわめて遅れてい」るという性格をもっています。
 もちろん六〇年代において荘園文書に恵まれた地域の共同研究による現地調査がいちだんと盛んになり、地形・水利・耕地形態・小字名、民俗行事・伝承などに関する調査が意欲的に進められましたが、それは研究動向としては当初期待されたよりも小規模なものに止まったというべきでしょう。そういう状況の中で、最近、服部英雄氏は「荘園調査はなぜ行われないか」(『日本史研究』三一〇号、一九八八年六月)という論文を発表し、荘園・村落の調査研究活動を(近世史との協同までを視野に入れて)科学運動の上で位置付ける必要を指摘しています。たしかに、史料に恵まれない中世荘園の地域史像を構成するためにも、保存運動のためにも、それは重大な意味をもっているというべきでしょう。特に氏の強調する圃場整備の中で消失しつつある地名の調査、あるいは金石文や中世木簡の研究などは、広い意味での文字史料の調査であり、文献史学の立場からも必須のものであるはずです。
 しかし、他方、六〇年代以降、中世史料の公開・編纂が進展し、活字史料を収集・調査するのみで相当の研究が可能になってきたという状況の中で、知らず知らずのうちに狭い意味での文献史料のみで充足する傾向が浸透してきています。それは一面で進歩的かつ必然的な過程ではありますが、私のような普通の文献史学の研究者にとっては、それのみで研究を終えるということになりがちです。このような弱さを「文献主義」というとすると、それがどこかで脱却されねばならず、広い意味での遺跡保存問題がその試金石となることは明らかです。
 さて、これに対して考古学はどうでしょうか。甘粕氏が五〇年代から六〇年代の南武蔵の古代遺跡・古墳群の保存運動に触れて述べているように、考古学およびその立場からする遺跡保存運動は常に徹底的な分布調査・フィールドワークに支えられて展開するのが基本です。そして発掘調査においては、何よりも遺物・遺構の中から、特に長期にわたる遺構調査の中から自然科学的な厳密さをもって問題を提起しようとします。これが文献史学と比べて大きな優位点であることはいうまでもありません。
 しかしその反面、歴史像を語るのに過度に慎重である傾向、そしてそれを越えて北村氏のいう「遺構主義」におちいる傾向がないでしょうか。北村氏によると「遺構主義」とは戦後の文化財行政の中に、戦前的な顕彰主義にかわって登場したもので「戦後の考古学の発達によって、いつとはなしに発掘調査によって検出された重要な遺構がなければ、指定・保存の対象にならないか、もしくは対象にしにくいというような風潮」のことです。氏が「事物を正確にとらえ、安易な指定を排除する点で今後とも欠くべからざるものであるが、これのみに頼ることは、他面社会経済史的・精神文化的視点を見失う懸念なしとしない」とし、荘園や町並・集落の史跡指定において、(本稿に即していえば中世遺跡について)遺構主義が足枷となっているとしていることは注目すべき指摘であると思います(「史跡保存における理想と現実」、『日本歴史』三〇五号、一九七三年一〇月、文化財レポート六三、「史跡保存の思想と理論」、『同』三一四号、一九七四年七月、文化財レポート七二)。
 もとより氏の指摘は、たとえば文化庁記念物課における史跡担当と埋蔵担当の分課の在り方に関わるような文化財行政の問題に直接関わるものでありますが、遺構主義が考古学研究者の中に根強く残っており、「歴史叙述をめざす考古学の確立」においても、文献・考古の協同においても重要なネックになっていることは否定できないと思います。
 以上、文献史学と考古学の両者について検討してきましたが、実はこのことは文献史学と考古学の研究者自身の性格の相違という問題にも関わっています。だいたい考古学は甘粕氏によりますと「野外の健康な学問」で、しかも集団的な作業ですが、文献史学は室内の一人でやるデスクワークが基本となります。考古学者はどのように重要な遺跡に対しても、研究者個人のライフサイクルの中で炎天下の調査活動の中で出会う遺跡の一つとして最初から客観的な構えをもっています。普通の文献研究者にとっては遺跡との出会いは最初から一生に何度かという鮮烈な出会いとなります。
 保存運動にとって「文献主義」と「遺構主義」は両者とも許すことができないものですが、そうであればあるだけ運動論上の問題としても上記のような人間的な相違、感覚的な相違については相互的な寛容を確保していなければなりません。私は、最近の中世遺跡の保存運動が、十分その点を配慮し、特に考古学と文献史学は相互に決してその成果を安易に「寸借」してはならず「相互の方法論に立脚しそれぞれが照射出来る側面を丹念に解明していくことが、将来望まれる共同研究の前提となる」(宮瀧交二「古代東国村落史研究への一視点」、『物質文化』五一号、一九八九年一月)という原則、学問的な自律性の確認を行ってきたことは今後にとって大事な意味をもつと考えます。
 さて、私は、実際のところ、中世考古学の発展の詳細については十分に承知しておりません。しかし、私の専攻する中世前期(平安鎌倉時代)の社会経済史にとっても、それが決定的な意義をもつであろうこと、本当に意外な詳細までも発掘調査は解明していくであろうことは私にも予測できます。その中で中世考古学は、徐々に古代社会の考古学と一体化していくことになるのではないでしょうか。それを通じて中世考古学は実際上は文献史学の位置が非常に高いといわざるをえない従来の古代社会像を相対化し、古代律令制の社会経済的結果がどのようなものであったかを具体的に解明していくことになるでしょう。勿論先にも触れましたように、考古学研究の独壇場が非文献史料の時代、原始時代であることは確かですが、右のような予測が正しいとすると、古代・中世の考古学の一体化は日本における「野蛮から文明へ」の移行とその結果を総体として明らかにする上でいよいよ重大な役割を果たすのではないでしょうか。
 それがどこまで出来るかが、遺跡の調査・発見・保存と破壊の間の競争にかかっていると考えますが、私はそのような見通しをもってこれからも中世史研究と遺跡保存問題を考えていきたいと思います。
 おわりに
 その破壊が暴挙であったことを忘れることはできませんが、一の谷中世墳墓群は、上行寺東遺跡のような行政犯罪(虚偽的な議会対策や文化財審議会無視など)と発掘会社の手によって最初から半ば運命を定められていたような遺跡ではなく、当初は行政の上でも相対的に保存の条件が高かった遺跡です。その破壊は、ことあるごとに歴史的伝統を尊重せよと居丈高な説教を行う現代日本の政治家たちの文化的貧困と底意をみせつけたように思います。その中で、私は、この国の歴史学の社会的根拠はなぜこのように脆弱なのだろうか、現代日本における開発は、なぜほとんどの場合歴史的文化財と自然の破壊をともなうのだろうかと考えさせられました。
 日本社会において「開発」がこのように野蛮で非歴史的な行為となる理由は、まずは近代の日本資本主義の性格、特に戦後の「高度成長」期に独自な特徴として検討すべきだろうとは思います。しかし、問題の根はさらに深いのではないでしょうか。それを考えることは、前近代史の研究者が日本社会の現状分析と国民の歴史意識の分析に参加する上で、大切な仕事になるでしょう。別稿(「中世の開化主義と開発ーー研究史からの視角」、『地方史研究』二二六号、一九八〇年八月)で述べましたように、私は、そこには、丸山真男氏が議論しているような、日本の近代社会が前近代の歴史から受け継いだ開化主義的な(同時にその裏面に復古的「維新」の論理を随伴した)文化的バーバリズムの問題があるのではないかと考えています(丸山「歴史意識の『古層』」、『日本の思想 ⑥ 歴史思想集』筑摩書房、一九七二年)が、その当否はともあれ、歴史学としては遺跡保存運動は、そのような視野の下に取り組まれなければならないことは明らかでしょう。
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