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中世史研究と歴史教育ー通史的認識と社会史の課題にふれて

「中世史研究と歴史教育ー通史的認識と社会史の課題にふれて」
                    保立道久
                    『歴史学研究』569号。1987年7月号。

Ⅰはじめに
 ベルギーの歴史家レオポール・ジェニコの著書『歴史学の伝統と革新』を読んで、本当にうらやましく思ったのは、歴史学が社会から大切にされている雰囲気が、その文章の端々に見てとれることであった。日本の歴史学の「伝統と革新」を問題としたら、とてもそうは行くまいと思う。
 マスコミで、下らない「縄文文化万歳論」や「日本文化論」が流行し、歴史学の成果は興味本位につまみぐいされるだけなのを見ると、全く日本という国はどうしようもないところだと感じる。私は、別に歴史学という学問に誇りを持っている訳ではない。むしろ、歴史学は相対的には「ひま」な学問であり、あるいは「縁の下の力持ち」の役割であると思っているほうである。けれども、だからといって歴史学が馬鹿にされてよいとは考えない。歴史学がその実力以下のマイナーな地位に置かれているのは、現代日本の文化が、貧困で反動的であり、しかも言葉の最もよい意味での「保守性」さえももたず、無責任に伝統破壊的なことと関連している。
 実は、去年の暮れに出した『中世の愛と従属』という本の中に、こういう趣旨で、どうせ今の日本の社会では歴史学は「日陰の学問」・「マイナーな分野」だからと書いた。斜めに構えていると思われたのであろう、何人もの人から賛成できないといわれた。しかし、私がそこで指摘したかったのは、歴史学が社会・文化の中で置かれている客観的状況如何の問題であり、それは、歴史学と社会との関係、歴史学に関わる現代の文化・イデオロギー状況の分析において最も基軸的な論点である。
 歴史学会では、今でも「歴史学の社会的責任」ということをいう。それが戦後の学問史の中で一定の意味をもったことはいうまでもないし、一般論としてはどのような職業も社会的責任を有していることは当然である。しかし、右のような現状、つまり従事する学問自身が社会から軽んじられている状況の中で、一般的にそれを繰り返すならば、それは、よくいって空想的な自負と善意であり、実態はよっぽどの間抜けということになりかねない。私は、問題は、自己の職業と立場を擁護すること、「歴史学の社会的復権」として立てられなければならないと考えている。
Ⅰ「検定」と歴史教育・歴史研究
 そして、教科書問題は、まさに歴史学が特殊な意味をもって総体としてコケにされていることの典型例である。公教育の中でまで馬鹿にされてしまったら学問は終わりである。教科書問題が、基本的には歴史教育を上から利用しようという周知の政治的思惑によって発生していることはいうまでもない。しかし、その政治問題としての側面を越えて、教科書の自由は学界と社会の関係において死活問題であり、上記の意味での「歴史学の社会的復権」にとっても最重要な問題の一つである。
 いうまでもなく、教科書とは、全体的・通史的叙述の特殊な形態である。その機能は、第一に固有に歴史教育および教師と子供の世界に属する教材、第二に教師と学者の間あるいは歴史学の研究と教育の間を繋ぐ主要な社会的媒体という点にあるといってよいだろう。そして、何よりも現在の「検定」が困るのは、それが、後者の機能を長期にわたって麻痺状態に追い込んでいることにある。これによって新たな研究成果が教育の場に伝わり、新たな授業実践が学界に反映する道が閉ざされているのである。その非常識さかげんは、たとえていえばある産業の生産工場と研究所の業務連絡を妨害することに等しい。しかもそれは無意識的なものではなく、学界の地盤をなす研究と教育の統一を阻害し、両者を分裂させ統制しようという悪しき意図にもとづいている。これに対する直接的怒りは、様々な立場や理屈を越えて、学としての歴史に関わる人々ならば、職業的に共有できるものであろう。
 周知のように、このような状況の中で、ステロ化した「教科書的歴史像」と学説的・教育的な実証・実践の新たな発展との間に甚だしい乖離が生じている。ただもちろん、小規模なものであれば、そのような乖離自体はかならず起こりうることだろう。それは、研究と教育が相互に関係しながらも、他面で別の論理をもって変化・発展するものである以上、当然のことである。その上、教科書叙述は、安易に変更できない種類の堅牢で首尾一貫した事実構成をもたねばならず、また「歴史観の相違にもかかわらず、教育学習の中身は安定したものでなければならない」のであり、教科書の改善は本来的には徐々にしか進みえない。
 しかし、私の意見では、現在問題となっている乖離は、そのような種類のものではない。「検定」制度発足以来、叙述の改善が妨害されつづけたために、それは教科書叙述の枠組み全体に及んでいるのである。だから、現状ではこの遅れを取り戻す作業は相当の重荷となっている。まず、教科書執筆者の側では、学説対立状況がある中での叙述の枠組みの変更には相当の用意と決意を必要とするし、また教育者の側でも、一時代の授業方式の変更が全体的なカリキュラム変更に響く以上、ことは簡単でない。特に教科書執筆においては検定と学習指導要領の制約があまりにも大きいし、執筆者はすでに社会的常識にまでなってしまった「教科書的歴史像」とも闘わなければならない。しかし、私は、この点での躊躇は長期にわたる「検定」体制=研究と教育の分離を強制する体制から生じた惰性に身を委ねることになりかねないと考える。勿論、そのような惰性を拒否する人々も多いことは事実だし、このような言い方は他人の懸命の実践に対する評論趣味的非礼になりかねないが、一方で、検定が、研究と教育をめぐる状況を惰性の方向に組織することで再生産されている以上、このような論点は常に提出されるべきものだとも思う。
Ⅱ教科書的中世史像と公武交替史観
 中世史研究は特に戦後多様な学説が発展した分野である。これによって、中世史においては他の時代と比べても右の乖離は異常といえる状態にあり、その「教科書的中世史像」たるや、文字どうり旧態依然・古色蒼然としたものである。そこでは、部分部分でなく教科書叙述の枠組み自体が一つの桎梏になっているといってよい。この桎梏化した「教科書的中世史像」の枠組みがどのようなものであるかについては、様々な議論がありうるだろう。しかし、教科書を読み比べてみれば解るように、おのおのの相違と特徴はあるものの、それらが一種の奇妙に共通した歴史像を提供していることは事実なのである。以下はその共通点を検討しようとするものであって、現実には様々な改善点を含んでいる個別の教科書や教師のカリキュラム構成の在り方を批判するものではないことは、特に御断りしておきたいと思う。 私は、「教科書的中世史像」を構成する第一の要素は、戦前あるいは新井白石の『読史余論』以来の「公武権力交替史観」、つまり天皇・「王家の衰」によって歴史を把握するという下降史観と抽象的に捉えられた軍事指揮権の移動をもって歴史の変化を説明するという軍事史観の結合にあると考える。そしてその第二の要素は、武士の発達と中世の発展を等置する一種の「武士史観」あるいは彼らと土地との結合を復古的にロマン化する「領主史観」であって、それは右の軍事史観に対応している。そして、この二つの要素は、一つの歴史的特徴をもった中世という時代のもつ独自な構造と運動法則を見失わせ、それを国制の現象形態が形式的に明解な古代から近世へ長大な過渡期として描き出す結果を導いているのである。
 勿論、たとえば、殆どの教科書で、鎌倉幕府の成立は「封建社会の成立」、幕藩体制の成立は「封建社会の確立」とされているように、これは戦後の封建制論が未だにそれを基礎とする政治史を構築しえていない状況に規定されている側面があるのだが、問題は、これらが、単に研究上の問題であるのみでなく、一つの社会的意味をもった通俗常識にまでなっていることだろう。この教科書史観をもう少し詳しく、といってもやや戯画化した形でいえば、次のようなことになるであろうか。①国家について。中世社会は、律令制中央集権の解体以降、幕府の若干の官僚機構はあるものの、無国家的状態が長く続き、戦国期になって真に領域的な権力が登場する。②支配層の階級的構成について。中世社会は、公家に武家がだんだんにとってかわる過程である。③支配層の地域的配置について。公家は都で閉ざされた退廃的生活をし、武家は田舎で質実な生活をしている。④土地所有体系について。荘園とは貴族の生活を支えるものであり、武士はそれを侵略していく。⑤民衆運動について、鎌倉末期・南北朝期頃から民衆の抵抗が始まるが、政治過程においてそれが問題となるのは、室町中期の土一揆からである。
 もとより、「公武権力交替史観」との強制的複合によって俗流化された通史叙述ではあっても、戦後中世史学の諸成果との一種のバランスの上に立っている側面もあるのであるから、右のような戯画化については批判もあるであろう。しかし、少なくとも上述のような事情の下に検定が加えられて平均化してしまった教科書叙述の中から子供が得るイメージ、あるいは一般の読書人が無意識に抱いているイメージとしては、これが相当の普遍性をもっていることは認めて頂けるだろう。大学生に予備知識を与えないまま中世史について書けといえば、要領のよい子が書くのは、だいたいこんなところである。
 研究者の側からいえば、この「教科書的通史」が全くの時代遅れであることを知っていることが研究者の最低条件であり、正常な大学の授業は教科書的「通説」を馬鹿にするところから出発するとさえいって過言でない。そして、このような状況が、なによりも教科書裁判支援の研究・証言活動の中で大きな問題であったことはいうまでもないが、最近、事態はいよいよ発展し、中世史の研究者の発言の中には、教科書叙述の在り方を意識したある場合感情的でさえある発言をしばしばみることができる。記憶に残る研究書での発言を上げるだけでも、今谷明氏の『戦国期の室町幕府』の「はしがき」には、室町幕府論に関する教科書叙述の「十年一日のごとき」状況への強い批判が明記されており、網野善彦氏の『日本中世の民衆像』は、教科書が水稲耕作を中心とする「単一民族史観」によって書かれていることへ不満から説き起こされている。また、そう明示的でないとしても、たとえば、笠松宏至氏の『徳政令』が、教科書の永仁の徳政令の叙述への皮肉から始まっているような例は多いのである。
 そして、教育の側からいっても、中世史の状況は極めて特別な様相を帯びているようである。たとえば、教師の中に「中世史は教えにくい」という声が聞かれることはよく知られている。けれどもそれは中世史の教育実践が低いレヴェルにとどまっているということではない。筆者の力量からして、ここで中世史の教育実践の状況の全体を概観することはできないが、思いつくままに上げても、安井俊夫氏の「秀吉が松戸に来た」とか、河野通明氏の阿弖川庄仮名書言上状の分析、あるいは昨年の五〇〇周年記念のシンポジウムに反映された「山城国一揆」をめぐる授業実践など、むしろ研究の新たな視点をも提示する力を持った実践は、中世史分野に多いとさえいえよう。だから、問題はここでも全体の枠組みと教科書叙述にあるのである。
Ⅲ社会史研究と小学校の授業
 つまり、研究においても教育においても「教科書的中世史像」を再検討する機運は熟している。そして周知のように、中世史学界の状況は「諸説乱立」「百家争鳴」で権威的通説は一つとして存在しないが、直ぐに触れる遠山氏の論文がいうように、「通説」の不在は研究と教育にとって決して非生産的なものではない。それは中世史の研究と教育の活発な現状がよく物語っているといえよう。さらに、これは手前ミソであるが、中世史の学界は、古くは南北朝正閏論以来、日本史学界の中では最もリベラルな伝統をもっており、そうした意味でも、「教科書的歴史像」の再検討を組織する突破口になりうるのである。
 そして、このような中世史の研究・教育状況の全体を展望した提言は、すでに教科書裁判の支援運動の中から出されている。その第一は教科書訴訟(第二次)の最高裁判所判決を前にした遠山茂樹氏の論文、第二は昨年の鈴木判決や中曽根首相の教科書発言などの状況の中で行われた峰岸純夫氏の発言である。遠山氏は、教科書訴訟において大きな問題となった教科書的「通説」なるものと研究の発展によって形づくられた学界の共有財産との関係を論じる中で、「歴史教育と歴史学の一体化」を提唱し、小・中・高・大の教師による相互討論を呼び掛けた。氏は、その出発点として、山下国幸氏の提出した小学校授業カリキュラム案の中世史部分に対する研究者と小学校教員による共同の検討を提案している。そして、峰岸氏は、平均的な生徒にとっては教科書叙述自体が難しいという学力状況との関係で、中世史の教科書叙述・教育内容の総点検と思い切った発想の転換の必要を強調している。
 この両者は、両方とも短文であるとはいえ、教科書裁判の現場からの問題提起の一部が期せずして中世に集中している様相を示す点で興味深いものがある。問題を全体的に出している遠山氏について触れると、氏は、まず、1978年の指導要領において小学校6年の社会科の歴史が人物中心の学習に変わったこととの関係で、「階級・国家・革命・民族・生産力といった基礎的概念をとりいれるのは、中・高校の段階であり、小学校高学年での歴史学習では、人物・事件・地域・国についてのゆたかなイメージを形成させることにある」という山下氏の見解や、「飲食・排泄、着ること、住むこと、仕事、そして劇的なできごと、こういう所に、小学生にふさわしい歴史学習の素材を求めることができると思う」という本間昇氏の見解を肯定的に引用する。氏は、子供の日常的興味のあり方、生活史のイメージ化から、個別の物語・人物などを重視しつつ社会・歴史認識へ至る道こそが「歴史学習の正道」であるとするのである。
 私は、六年ほど前の歴史科学協議会の大会報告準備の中で、この遠山氏の提言に触れ、「それは別の形でいえば、社会史研究の課題であると受けとめる」と述べ、山下氏のカリキュラム案にも含まれている「いもがゆ」の説話についての分析を試みたことがある。その時以来、私は、社会史研究が教材として生きる場所は、概念的認識のスタイルを確保しなければならない高校ではなく、まずは小学校の歴史教育においてであろうと考え、そこを意識していくつかの分析を行ってきた。そして、最近の社会史研究の発展は、小学校の中世史教育において遠山氏のいうような試みをするための条件を相当程度作りだしている。もちろん、実際上は、要求されているような民衆生活史的な社会史研究はまだまだ不足しており、それは小学校における教育課題を視野に入れながら促進され調整されなければならないだろう。寡聞にして小学校におけるその種の教育実践の最近の状況を知らないが、行われているであろう多様な試みと中世史研究者の間での議論が是非組織されてほしいものだと思う。
 ここでは社会史研究の抱える諸問題については触れることができないが、右の大会準備にさいして述べたように「研究動向としては当然の動きである社会史研究の進展が、短期的にみれば、反動的歴史主義、復古的実感主義の台頭に利用されかねない現代の状況は確かにある。しかし、加藤文三氏が遠山氏の著書『歴史学から歴史教育へ』の解説で述べているように、生活史的歴史事実の具体性を徹底的に重視することは唯物論の立場である」ことは否定すべくもない。もっとも、社会史研究については、いまだに「流行・イデオロギー」批判に問題を一面化し、現実の研究の課題や必然性から遊離した説教主義的空論が聞かれる。そういう人々は、「たとえば歴研では、戦後一貫して、民衆の歴史を明らかにすることを高唱してきた。しかし(教科書)裁判で問題になっているような、民衆の服装や食生活が、政治・経済の基本の動きとどう関連するかを、明らかにしてきたであろうか。ーーー戦後歴史学のこの弱さは、たまたまそこまで手がまわらなかったという偶然的事情によるものではない。もっと本質的・必然的な問題だと考える」という遠山氏の厳しい指摘を読んだことがあるのだろうか。この指摘からの高踏的逃避は決して許されない。
Ⅳ中世の通史学習と荘園
 以上は、おそらく多くの教育者から賛同を得ることができる議論であろう。しかし、遠山氏の議論の独自性は単に以上に尽きるものではない。氏は、小学校の歴史教育では、「生活史」を中心とする飛び々々のイメージから時代の具体的な歴史像と「歴史の流れ」を実感させることが必要だとし、そのためには逆に教員の側に歴史像の明確な通史的把握が必要になると、厳しい要望を教師に提起しているのである。これは、もちろん研究者にもはねかえってくる問題である。それは現在の中世史学界の状況に引きつけていえば、民衆生活史あるいは社会史の課題と歴史の発展的・通史的把握をどのように統一するかという問題とイコールである。
 しかも問題は、遠山氏が、もし、生活史を重視しながら「歴史の流れ」の把握(つまり別言すれば歴史的時間の客観性の認識)が可能になるようなプランが成り立たなければ、小学校において通史学習は不必要であるとまで断言していることである。私は、勿論それは可能であり、必要であると考える。また小学校における生活史の重視と通史イメージを基礎として、中学・高校・へと続く学習的思考の発展性・系統性を保証することもできると思う。そして、おそらく、人生経験の増大する大学においては、別の観点から社会史的諸問題を取り扱い、概念的認識を活性化することによって両者を統一するべきなのであろう。以上が正しいかどうかは別として、このような議論が行われるとしたら、それによって遠山氏の提出した問題、民衆生活史・社会史と通史的把握の統一という問題の解決は研究の面でも教育の面でも新たな段階に達することだろう。
 ここでは、この問題の全体に触れることはできないが、遠山氏が検討を呼び掛けた山下国幸氏の年間100時間からなる小学校歴史教育のプランの中の通史的問題についての検討を行おう。その中世部分の項目は次のようなものである。まず「貴族の時代」として、(い)奈良の都、(ろ)東国のむら(防人)、(は)いもがゆのはなし、(に)川越館という項目を置き、次に「武士の時代」として(ア)いざ鎌倉、(イ)山城国一揆、(ウ)ヨーロッパへわたった少年たち、(エ)慶安のおふれがきーーーとなっている。
 遠山氏は、このプランにおける問題点として、「荘園」がかなり違った内容で(は)(に)と(ア)に出てくることを上げ、それが子供にとって「荘園・武士のイメージを作るのに障害とならぬか」「中世の荘園・武士の典型とは何か」とし、さらにこの問題は「歴史認識の基本たるべき時代区分の問題にかかわっている」とする。そして実は先の峰岸氏のいう「発想の転換」も、この問題に関わっている。氏は「高校日本史の前近代の部分でもっとも取り扱いが難しくて、教師を悩ませるのは荘園の問題なんです。ーーーこれは先ほどの歴史研究と歴史教育との関係にも関わることですが、荘園は中世以前、あるいは前封建的なものと捉える記述の説明が難しいのですというと、この説を維持されている方々に叱られるかも知れませんが、そのために荘園がかなり早い時期、古代末期に教科書では位置づけられているわけです。そうしますと、荘園が摂関政治のところで出てきて、それからその後でも出てくるということになって、必ずしも全体が整合的でなく、混乱を招いている。そこで思い切って、これを中世社会の基本の土地制度と位置づけることによって、他の事象との整合性をはかった方が、すっきりすると思うのです」と発言している。
 このような「荘園」の扱いは、遠山氏のいうように、教科書叙述や定形的なカリキュラムにおいて「中世が一つの時代としてとらえられていないこと」を示す典型的事例である。しかし、遠山氏がそれを認めながら、逆に「中世のまとまりのある歴史像を構成しにくいこと、それは研究状況の問題であるとともに、対象の時期の複雑な(私の考えでは過渡期的な)性格の反映である」としているのには賛成できない。これを問題とせざるをえないのは、氏が、ここから「そうであれば、重点設定とイメージの焦点をきめる基準は確立できない。その結果は小学校での中世史学習は困難であり、ーーひいては原始から現代にいたる各時代の重点事項を学ばせるという通史的学習形態は無理となる」という先のようなカリキュラムの全体編成に関わる重大な結論を導いているからである。
 いうまでもなく、論理的な意味で中世に一種の「過渡性」を認めるかどうかということ自体は時代区分論上の大きな論点である。荘園制の本質を古代的なものと考え、中世に社会構成体論の問題として「過渡性」を認める学説は一つの学説として十分成立している。また、社会構成体論としてのこの学説と、先に概観したような教科書叙述の枠組みになっている「公武権力交替史観的過渡期論」は、現実には全くといってよいほど異なるものである。しかし、私のように、中世は、9世紀における律令制支配の変容以降、内部での発展諸段階を有するとはいえ一つのまとまった時代としての性格をもっていると考える立場にとっては、問題は峰岸氏のいうような方向で解決されるべきことになる。もちろん、この種の封建制の早期成立説を、媒介なしにそのまま教科書叙述に持ち込めというわけではないが、この立場も荘園制の古代的性格を説く見解とともに、有力な学説として存在することは事実である。そして遠山氏も強調するような教科書叙述における学説の自由の観点からいって、この学説も何らかの形で教科書叙述に反映してもよいのではないかと思う。特に、中世前期については、相当程度の論争が進み、社会構成体論としての「封建制」の成立時期の問題は別としても、すくなくとも中世的な支配と社会の在り方の成立を院政期に求めることは、ほぼ学界全体の容認するものとなっており、遠山氏のいう学説対立状況の中でも形成されている「学界の共有財産」が形成されている。この状態の中で、それすら教科書に殆ど反映していないのは、やはり異常な事態というべきであろう。
 遠山氏に対して批判がましいことを述べたが、以上が、氏の結論ではなく、氏の問題指摘に導かれたものであることを御理解頂きたい。先の峰岸氏の感触によれば、状況は峰岸氏の提示するような方向へも向かいつつあるということであり、また歴史教育者協議会においても「荘園をどう教えるか」という問題が議論されているということなので、議論が研究者・教育者を含めたものに展開していく日は近いであろうが、そこでは、当然、遠山氏のいう「中世の荘園・武士の典型とは何か」という論点が、すぐに触れるように問題とならざるをえないであろう。Ⅴ中世史カリキュラムのミニマムな修正
 中世史研究者ならば、先に述べたような「教科書的中世史像」に対して何らかの部分的あるいは感覚的な批判を行うことは簡単なことである。ただ、その異和感を全体として説明することは、中世史を通史的に概観することと実質上同じことであって、現在の研究状況では、非常に困難なことであるといわざるをえない。しかし、以上のような議論を展開した以上、「学界の共有財産」(もちろん、それには個人的な解釈が入ることはいうまでもない)から見て、中世史のカリキュラムにおいて最低考慮すべきこと、いわばミニマムな修正はどのようであるべきかを考える権利と義務は、私にもあるだろう。
 その第一は、まず、荘園制についてである。戦後中世史学は、戦前の荘園制研究におけるいわゆる「伝領派」的研究が含んでいた「公武権力交替史観」的な通俗的政治史を経済史の分野に安易に輸入し、荘園制と「公家」を等置してしまう傾向に賛成せず、荘園制の形成と解体の過程と段階、国家的支配と荘園制の相互関連、それを規定した荘園の社会的・階級的性格などについて、一貫した説明を得るための努力を続けてきたといえよう。その中で、私は、荘園制は峰岸氏のいうように中世的な土地所有体系の在り方であり、中世前期(平安・鎌倉期)における所謂「大開発時代」を推進する中で、中世の都市貴族と地方領主が、身分的に結合して取り結んだ人的・物的交流と土地所有の全国的なシステムのことであると考える立場に立っている。それは歴史的に多様な諸形態・典型を取ったが、まず、平安時代における国衙荘園体制として、または土地所有のシステムであると同時に国制の中軸を構成する権力体としての性格ももった院政期における膨大な院領荘園の体系として、さらに平安末期の内乱を経過した国家機構の軍事化に照応する「没官領」「新補地頭」などを含む鎌倉期的な一種の軍事的荘園制として変化発展したことは認めることができるであろう。そしてそれは、「大開発の時代」の終りとともに、鎌倉後期から南北朝時代にかけて大きな危機を迎えつつも、黒田俊雄氏・稲垣泰彦氏が述べたように、すくなくとも応仁・文明の乱までは存続したと考えてもよいであろう。
 次の問題は、これと関係して中世の支配者身分の階級配置をどのように考えるかにある。これについては、私は、封建貴族範疇の導入がどうしても必要であると考えており、中世の支配層は都市貴族(宮廷貴族・軍事貴族・官僚貴族に区分される)と地方貴族に区分され、ほぼ平安末期には形成されたその様々な家柄の交流・交替・連合が、中世政治史の根幹をなすものであると考えている。もとより、その中で「兵」の強化・複雑化が大勢としては進行するが、それは他方において公家と武家の間における都鄙間・階層間交流や武家の貴族化の進展と公家下僚の領主的発展・有力化を媒介として、公武連合ーー後嵯峨院政以降、南北朝期における「公武一統」を典型としてーーの諸形態の発展を通じて展開する。日本の公家は決して単純に都市に閉ざされた受動的な存在ではないのであって、単なる「公武交替史観」はこのような歴史事実を説明できないのである。そして、中世成立期に形成された武士貴族・軍事貴族を含めた貴族的家格の崩壊が戦国期に決定的になることはいうまでもない。現在の研究状況では、中世の宮廷的・官僚的な貴族の家格についての議論が進行しており、私は、そのような論点を考慮することが、中世史の通史的イメージの明快さを保証することは確実だと考えている。
 もとより、これがミニマムな修正であるかどうかについては議論がありうるだろう。また問題となるであろう学説上の分岐点は、荘園制の全ての矛盾が出揃い、王権を始めとして支配層の階級配置が複雑化する中世後期社会をどう捉えるかにあることはいうまでもない。しかし、周知のように、中世史研究においては、後期の研究の方が前期よりも研究史が新しく、学説対立の中での「共有財産」の形成も遅れており、中世前期と後期での学説的あるいは歴史像的な一貫性の確保はいよいよ困難な状況にある。だから以上は、中世前期から後期を展望した場合の試案として限定的に受けとめて頂きたいが、少なくとも、荘園制や中世貴族の諸身分という場合、その時代的な典型・諸類型と変化・発展の様相を政治史とも関係させながら明示することが必要なことだけは賛成を得られるのではないだろうか。
 さて、以上のようにいうと、中世という時代は基本的に同一の構造を有することになり、これによって逆に社会構成体の変化に代表される時代の客観的発展をイメージ化することが困難になるという批判が起こりうるだろう。しかし、通史的叙述において、重要なのは、社会構成体論を踏まえつつも、時代を大きく分ける内乱を重視することである。最後にそれを論じてみたいと思う。
 まず、古代の最後に、たとえば「中世社会の黎明と国風文化」として9世紀から12世紀までの平安時代を入れるべきだろう。それは、たとえば、①桓武の政治、薬子の変、承和の変、9世紀の内乱状況。②10世紀の国制改革と摂関政治、③国司制度、承平天慶の乱、国司苛政上訴、④初期荘園・荘園制の発展と地方社会ーーー領主と田堵、⑤国風文化などの小項目を含むことになる。最近の古代史研究では、平安時代を「古代の典型的発展期」として、9ーー12世紀の連続性を重視する傾向が強く、議論は残るものの、時代の歴史像としてはこのような連続的カリキュラムは古代史研究者からも支持されることであろう。そして、先に述べたような意味で、中世は、院政から始めるべきである。その項目は、たとえば、「中世社会の成立と文化の新潮流」として、①院政の成立と保元平治の内乱、②平氏政権と治承寿永の内乱、③承久の乱と院政の動向(含む皇統・院領荘園の分裂)、④幕府政治と地頭・御家人、⑥中世文化の形成と鎌倉新仏教というようなものになるだろう。
 私は、このように9・10世紀の内乱と12世紀の内乱によってカリキュラム区分をすることが最も適当であると思う。そして、これ以降についても、たとえば、「中世社会の転換と庶民文化(南北朝・室町)」として、①、モンゴルの来攻と東アジア社会、②、北条得宗専制と内乱状況、②、建武政権と「公武一統」、③、室町幕府を論じ、そして「統一への胎動と地方文化(戦国・織豊期)」などとして応仁文明の乱から近世への移行を論じることができるのではないかと考える。
Ⅵ研究と教育の風とおし
 ここで、さらに国家形態や王権、あるいはそれに対峙する民衆の在り方についてまで論じる用意はない。それは現状ではまず研究や通史叙述自体の問題である。あるいは以上の「ミニマムな修正」もまずは一つの通史として構成されるべきものであるかもしれない。しかし、峰岸氏のいうように現状は「思い切った転換」を必要としているし、そこでは様々な形での発言が許されるのではないかと思う。
 ただ、特に断っておきたいのは、このような議論は、学説上の対立を教育の分野に持ち込もうというというものではないことである。そのような誤解は起こりがちであり、歴史研究者からの歴史教育への具体的提言が少ないのは、実質上はこの顧慮による側面もあると思う。もとより、学説上の問題は学説上の論争において解決されなければならない問題である。しかし、あえて議論してみたのは、私には先に述べたような平均的な「教科書的中世史像」が歴史教育にとって一つの桎梏となっているという認識があり、それが何らかの意味で認めうるものであるとすれば、「教科書的中世史像」を再検討することは、どの学説にとっても一つの試金石となることであると考えたからである。さらに、それによって教科書と歴史教育をめぐる議論が活性化し、それと関係して学説と学説の間の論争が風とおしよく行われることは望ましいことだからである。もとより、問題はおのもおのもの研究の実質的発展に委ねられることはいうまでもないが、教科書問題あるいはそれを媒介として文化問題について、直接に実践的な意識に貫かれた研究が組織されることなしには、歴史学の「革新」を妨げる安住性紋切型学問症候群におちいることになりかねないのではないか。
 ところで、教科書は研究と教育の間の統一を保証し、相互を連結する社会的パイプの一つであるという先に述べた認識に立つと、問題は、学説間の「風とおし」のみでなく、研究と教育、学者と教師の間の「風とおし」にも関わっている。歴史学関係者の世界、つまり我々の「業界」には、たとえば、大学教師、研究所教官・技官、小中高の教師、教育委員会や博物館の学芸員・職員、さらに広く取ればジャーナリストの一部など様々な職業が存在しており、その間でも常に「風とおし」がよいという訳ではない。しかし、その内でも最も大きく問題としなければならないのは、学者と教師の間での「風とおし」であろう。
 本音のところで議論すると、学者の間では、教師は新たな学説の発展の吸収には消極的・保守的だという風に感じがちだし、教師の間には、学者は教育に必要な全体的見通しも述べないまま自己の学説を「新学説」と称して押し付けたがるという感じ方があるのではないだろうか。学者といい教師といっても色々な人々がいるのだから、こういう一般的ないいかたは、正しくないのかも知れない。しかし、客観的に考えると、私たちは、常に研究と教育自体に内在する論理に従うのみでなく、自己の職業的な視野や感情に制約されている場合があるのではないか。そして、そこで忘れられているのは、学者と教師は、職業としての学者や職業としての教師ということを越えて、両者とも知識人であり、何らかの分野の研究者でも教育者でもあるという事実であろう。学者であることと研究者であること、教師であることと教育者であることが閉ざされた一対一対応の関係にあるものでないことは当然のことである。だから、研究と教育の間では、各々の独自の分野を確認しながら、研究についても教育についても相互乗り入れしつつ付き合うべきことになるのだろう。現実にはこれは大変なことだろうが、それによってこそ歴史の学者と教師が生き生きとしたまとまりや社会的影響力をもちうるのだろう。
 さて、思わず長文になってしまったが、大学時代から教科書裁判に興味をもち、歴史の分野に入ることになってその状況を眼前でみた私にとって、本稿で主に触れた遠山氏の論文と、その直後に出た著書『歴史学から歴史教育へ』(およびその加藤文三氏による解説)は大きなショックであった。特に遠山氏の発言の一定部分が中世に集中していることを知り、さらに、加藤氏が右の解説で「歴史学者は歴史教育に冷淡である」とまで述べておられるのを読んだ時の気持ちは忘れがたい。もちろん、教科書裁判支援に注がれている研究者のエネルギーは膨大なものであり、そこまでいわなければならないものかと反問もしたが、しかし、遠山氏・加藤氏の立論自体は、抵抗できないような強さを有していた。本稿は、それへの解答であり、以上の事情を汲んで、文中非礼にわたる部分は御容赦をお願いしたいし、もし検討するべき部分があれば御批判を頂ければ幸いに思う。
1)L、ジェニコ『歴史学の伝統と革新』、森本芳樹監 訳、九州大学出版会、
2)私は、特に梅原猛氏などの縄文文化論は、戦後初め ての「学問的装い」をとった一種の種族主義イデオロ ギーに展開し、日本文化論を種族主義、人種主義の方 向へもっていく可能性があると考えている。また、昨 年の中曽根首相の人種差別発言も単に国家主義とか「 単一民族史観」であるというのみでなく、むしろ一種 の種族主義であって、だからこそ非常な問題であると 思う。
3)『中世の愛と従属』、平凡社、イメージリーディン グ叢書、1986。なお、この本の原形となった二本 の論文は『歴史地理教育』(362、364号、19 84)に掲載したものである。
4)遠山茂樹『歴史学から歴史教育へ』、105㌻、岩 崎書店。1980、2
5)「公武権力交替史観」については、河内祥輔『古代 政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、198 6)を参照。この本は、従来古代から中世・平安への 移行期の授業においておそらく最も教えにくい暗記物 になっていたであろう平安初期政治史を、系統的に解 説したものとしても利用価値が高いと思う。この本に ついては、1986年12月の歴研古代中世合同部会 で書評をする機会をもった。なお、私も、1980年 の中世史部会運営委員会報告で同じ用語を使用して本 稿の原形となる報告を行ったことがあり、本稿は河内 氏の明解な指摘に勇気づけられて執筆したものである  また「武士史観」あるいは「領主史観」については 黒田俊雄「戦後中世史研究の思想と方法」(同『日本 中世封建社会論』、東京大学出版会、所収)および戸 田芳実「中世史研究における思想的課題について」( 大阪歴史科学協議会「歴史科学」№14)を参照。
6)今谷明『戦国期の室町幕府』、角川書店、19757)網野善彦『日本中世の民衆像』、岩波新書、198 0、
8)笠松宏至『徳政令』、岩波新書、1983。なお、 『たのしくわかる日本史100時間』(千葉県歴史教 育者協議会日本史部会編、あゆみ出版)の第24講( 田村浩氏執筆)は、本書を素材とした授業計画である 政治史上の徳政の意味や土地の本主権という論点を、 室町時代の徳政一揆を含めてどう授業に組み込むかに ついては、研究の問題としても検討の余地がある。
9)安井俊夫『子どもと学ぶ歴史の授業』278㌻(地 歴社、1977)。なお、1979年度の歴史学研究 会大会中世史部会の運営委員会報告(市村高男氏)に おいて、安井氏の授業実践が問題とされている。安井 氏の授業の一つの特色としては、東国地域史の系統的 把握があるが、この大会では、高校教科書の中世東国 史部分で最も解りにくいであろう「関東公方」論が取 り上げられた。
10)河野通明「阿弖川庄百姓カタカナ言上状全釈試案 (『歴史地理教育』381ー382、389、198 5)。なお氏は「二つの『技術の社会史』の刊行と前 近代技術史研究の課題」(大阪歴史科学協議会編集『 歴史科学』1984年11月)においては、技術史の 授業と研究状況についての見解を提示している。本稿 では狭い意味での経済史について触れる余裕がなかっ たが、氏の論文「牛の小鞍の発達とその意義」(『ヒ ストリア』105号、1984)、「鎌倉絵画にみる カラスキ」(『近畿民具』第九輯、1985)や、黒 田日出男「市の風景」「施肥とトイレ」(『姿としぐ さの中世史』、平凡社、1986年)、拙稿「海から みた川、山からみた川」(『月刊百科』259号、平 凡社、1984)、「甕と壷の風景」(注3引用拙著 所収)のような絵巻物の利用は、一つの方向であると 考える。なお、右の河野氏の論文は、高校の教科書で しばしば使用される牛耕の絵(『松崎天神縁起』)に ついての始めての本格的分析としても意味が大きい。11)特集「山城国一揆五〇〇年」(『歴史地理教育』 390号、1985)。その成果は『山城国一揆ーー 自治と平和を求めて』(日本史研究会・歴史学研究会 編、東京大学出版会)の全体と、そのコメント2「地 域住民の『国一揆五〇〇周年』」(栗原敦)に反映し ている。
12)遠山茂樹「教科書訴訟支援と歴史学の課題」(『 歴史学研究』474号、特集歴史学と教科書裁判、1 979、以下、特に断らない場合の遠山氏からの引用 はこの論文による。
13)座談会「歴史学と歴史教育のあいだ(出席、石渡 延男、本多公栄、峰岸純夫、安井俊夫)」(『歴史学 研究』553号、1986)
14)山下国幸編著『小学校社会科のカギーー6年』( 岩崎書店、1980)
15)同上44㌻
16)本間昇『小学校の歴史教育』20㌻(地歴社、1 976)
17)保立「大会報告のために」(『歴史評論』376 号、1981)
18)保立「庄園制的身分配置と社会史研究の課題」( 歴史科学協議会1981年度大会報告、『歴史評論』 380号、1981)。
19)保立「『彦火々出見尊絵巻』と御厨的世界」(田 名網宏編『古代国家の支配と構造』、東京堂出版、1 986)および注3引用の拙著『中世の愛と従属』。 子供に愛を教えようというのではないが、社会史的な 事象から人間の前近代的「従属」の在り方を示すこと は大切であろう。「農奴」とか「奴隷」とかいう範疇 がそれ自体としては子供には印象できないのだから。20)遠山茂樹注4引用著書『歴史学から歴史教育へ』 262㌻。なお、社会史の問題が思想的には構造主義 の評価に関係する側面をもつことはいうまでもない。 そして、遠山氏は、問題としている注12の論文で、 世界史教育における地域あるいは広域的な文化圏の具 体的・生活史的な歴史像を重視する諸見解、何らかの 意味で上原専緑氏の議論を前提とした諸見解をも肯定 的に引用している。私は上原氏の「文化圏」の議論と レヴィ・ストロースが『人種と歴史』(みすず書房) で展開した累進的な歴史の発展・進歩を諸種族、諸文 明の<提携>に求める見解には共通性があると考えて いる(ただ上原氏の議論の方が体系的であるようにも 思う)ので、遠山氏の提起した地域的世界像と生活史 の二つの問題は、現在の理論状況においては、どちら もいわゆる構造主義の検討に関わってくると思う。そ してこの二つの問題は無関係なものではなく、社会史 研究においても、種族的関係、より歴史的・民族的な 諸関係、そして、前者と後者を媒介する広域的な文化 圏の問題を統一的に検討することが重要であることに ついては、ヨーロッパと日本のオマージュ・臣従儀礼 の問題に触れて試論を述べた(注3引用拙著88ー9 1㌻)
21)注12引用論文。これが、遠山氏の持論であるこ とは、以前に発表された「前近代史学習の目標」(前 掲『歴史学から歴史教育へ』所収、186㌻)に明ら かである。なおこの論文で遠山氏は大胆に中世史のカ リキュラムを提出しているが、基本的な観点は別とし て、私は残念ながらそれに賛成できない。むしろ、実 はこのような構想こそ批判されなければならないと考 えている。
22)永原慶二「中世の社会構成と封建制」(『講座日 本歴史』中世2、東京大学出版会)。なお、そこで氏 は「中世」と「封建制」を別次元の概念としているが そこには問題が残っている。
23)以上、荘園制については、『シンポジウム日本歴 史5、中世社会』『同6、荘園制』(学生社、197 2、1973)が、問題の全体状況を掴むために未だ に有用である。最近の研究については大石直正「荘園 公領制の展開」(『講座日本歴史』中世1、東京大学 出版会)、鎌倉期の荘園制については入間田宣夫「鎌 倉時代の国家権力」(『大系日本国家史2、中世、東 京大学出版会)を参照。
24)黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『日本中世の国 家と宗教』、岩波書店)
25)稲垣泰彦「応仁文明の乱」(『日本中世社会史論 』、東京大学出版会)
26)保立「荘園制支配と都市・農村関係」(1978 年度歴史学研究会大会別冊)
27)佐藤進一『日本の中世国家』(岩波書店)
28)代表的な見解としては吉田孝『律令国家と古代の 社会』(岩波書店)。ただ社会構成体論上の「古代」 とこの場合の「古代」の関係は、たとえば「中世」と 「封建制」との関係と同じように、問題を残す。なお これに関連して注8引用の『たのしくわかる日本史1 00時間』の第13講「平安京に都を移したのはなぜ か」(宮原武夫氏執筆)は、このような論点を授業の 展開の鍵とし、教科書叙述を批判している点で先駆的 な意味をもつと考える。
29)戸田芳実「律令制からの解放」(『日本民衆の歴 史2、土一揆と内乱』、三省堂)参照。