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宇治橋とウナギ漁(『月刊海洋』2008年、ウナギ特集)

宇治橋と鱣漁
             ーーーーウナギ請と網代村君
月刊海洋「ウナギ資源の現状と保全」特集、(2008年頃)
 ウナギが日本の歴史史料にはじめて登場するのは、次の『万葉集』(巻一六)の和歌である。
 石麻呂に吾物申す、夏痩せに良しといふ物ぞ、ムナギ漁り食せ
 痩す痩すも生けらばあらむを、はたやはた、鰻を漁ると河に流るな
 これは大伴家持が、やせっぽちの石麻呂という男をからかった戯れ歌で、「夏痩せに良いというぞ、鰻をとって食べたらどうだ。もっとも、命あってのものだねだから、鰻とりのために川流れになっては仕方ないが」という意味であろう。すでに奈良時代から、ウナギが夏痩によいといわれていたこと、またウナギ漁が「川に立ち込む」漁であることが知られていたことなどが興味深い。
 しかし、これ以降、ウナギの史料は江戸時代までほとんどない。明治時代に作成された百科事典、『古事類苑』の「動物部」の「鰻」の項目には右の『万葉集』の歌のほかに『新撰字鏡』『和名抄』などの平安時代初頭の辞書類が挙げられているが、その後は江戸期の料理書などにとんでしまう。そして、明治時代以降、歴史の研究は飛躍的に進んだが、現在でも、平安時代から室町時代の史料はほとんどあげることができないのである。そのためこれまで、この時代のウナギについての研究はまったくといってよいほど存在しなかった。そこで、本稿では、琵琶湖水系のウナギについて気づいたことを紹介してみたいと思う。
Ⅰ宇治のウナギ漁とヒウオ漁
 琵琶湖水系には、大量の鰻が生息しており、大きく成長した彼らは、産卵のために夏から秋にかけて海に下る途次、勢多、田上渓谷そして宇治橋近辺などで、一網打尽に捕獲された。『明治前漁業技術史』(六三三頁)に引かれた『滋賀県漁業沿革誌』によれば、瀬田橋下流の田上に近世初期より置かれた膳所藩の鰻梁の例では、その収穫量は、一年五万尾、大雨の夜などは一晩三千尾に上ったという。
 ここで紹介したいのは、宇治橋の近辺で活動していた「宇治鱣請」という漁民集団の史料である(なお、この「鱣」という字でウナギを表記することの意味については最後に少しふれてみたい)。彼らの姿を語る史料として、『永昌記』という貴族の日記の紙背文書に、建久八年(一一九七)十一月に京都の鴨御祖社(下賀茂社)の社司の訴状(『鎌倉遺文』九四七号)と、それに反論した鱣請たちの陳状(九四八号)が残っている。この史料については、『宇治市史』で林屋辰三郎氏が、論文「宇治の網代」で網野善彦氏が(『日本中世の非農業民と天皇』)、若干ふれているが、どちらも二~三行の短文なので、ここで少し詳しく解説してみたい。
 まず前者の鴨御祖社の訴状から説明すると、この訴状には「網代村君等申状一紙」が副えられており、本来、この鴨社に所属する「網代村君」が鴨社に訴え、鴨社がそれを取り次いで摂関家にまで訴え出たということがわかる。「網代」というのは、宇治川に設置された簗のことで、『源氏物語』などで宇治の景物を代表するものとして描かれていて著名なものである。そして、「村君」というのは、漁民集団の長を表現する言葉であって、彼等は「真木島住人」とも呼ばれているから、宇治橋の下手にある真木島という川中島を拠点とした漁民集団であることがわかる。この時代、漁民はしばしば神社に「供祭」の物を貢上して、その保護をうけて「神人」という身分を獲得し、その職掌によって「供祭人」「供菜人」などと呼ばれたが、その中でも鴨社の神人=供祭人はきわめて有力なものであった。とくに宇治の供祭人は、「氷魚の供祭」を納入している。「氷魚」とは、琵琶湖水系に生息する陸封された小さな鮎のことで、同じく宇治の網代でとれるものとして有名であったから、それに応じて宇治の供祭人も有名で有力な供祭人であったことは疑いない。
 この鴨社供祭人たちが、漁場を争っていたのが、「宇治鱣請」という集団であったのである。彼らがどのような身分の存在であったかについては、鴨社の側が摂関家に訴えていることからして、広い意味で摂関家に所属する身分であったことは確実で、それは林屋氏が「摂関家とかかわり深い鱣請」といい、網野氏が「摂関家と関わりのある特異な漁撈民であるが、その詳細は明らかでない」といっている通りである。そのような地位こそが鱣請たちが有力な神人漁民に対抗して自分たちの漁業権を主張しうる根拠であったと思われるのである。
 とはいえ、鱣請たちの行動はきわめて強硬なものであった。つまり、鴨社供祭人の側の主張によれば、「鱣取」たちは「大石をもって網代の面を関塞ぐの間、氷魚の供祭、往古の勤め懈怠に及ぶところなり」というのである。宇治川に鴨社供祭人の設置した網代の上に大石がおかれて、そのために鴨社への「氷魚の供祭」がストップしてしまったというのであるから、鱣請たちの行動については、単に摂関家の権威をかりたというのではなく、より具体的な事情があったはずである。そして、それは「石」にかかわるものであったことも容易に想像されるのである。
 つまり、この鴨御祖社の訴状に対して鱣請たちが反論した陳状によって、鱣請たちの漁法がどのようなものであったか、さらに明瞭に知ることができる。その陳状によれば、このような相論は、この頃常に繰り返されていたらしく、一年前にも鴨社供祭人たちが「(鱣請が)御厨の面を(石で)拾い埋め、水流れ来らず」と主張したため、鱣請の側は「何許の大石をもって、□水流れざらんや」と反論したという(御厨とは漁業荘園を意味する)。つまり、どれだけの大石をもってすれば水が流れてこないなどということが起こるのかという訳である。そして、六年前、建久二年の相論についてもふれられており、その時には、「真木島の住人等、恣に橋より下の石を船をもって拾い取る時、制止を加え」るために「所司」が参向し、「件の石を運び返させ」たという。この「所司」の理解が問題になるところであり、私は後に述べる理由から、これは平等院の役人であったと考えるものであるが、まずはここで「橋より下の石」といわれていることに注意しよう。つまり、これは漁場相論の焦点が「橋より下」、宇治橋の下流にあったことを示すのである。真木島は宇治橋の下流にあるから、真木島住人は真木島を拠点として上流へ宇治橋まで漁場権を主張し、それに対して鱣請たちの漁場は宇治橋を拠点としていたことになるだろう。
 さて、以上から、鱣請の漁法が「石」を使用するものであったことが明らかになる。とくに鱣請が「石下るの条においては、鱣を請けんがため河に立つの間、自然に石を踏み流せしむるか」としているのは、鱣取のために石を扱ったことを明示している。つまり、この漁法は河の中に鱣の寄場として石を積むものであったのである。網野氏が鱣請の漁法を「琵琶湖で用いられ、鰻塚と類似するといわれる『石積』の漁法であろう」としているのは、正鵠を射ているといわなければならない。この石積み漁法には、柳田国男・倉田一郎著『分類漁村語彙』によるだけでも、様々な形があったようであるが、宇治鱣請のそれを髣髴させるのは、豊前国山国川下流から海面にかけて行われていたアグラという漁法であろう。それは、澪筋を避け、底質岩礁のところを選び、丸石を二坪ほどの広さに積み、(そこに魚が集まったのち)それを茣蓙網で囲ってから石を外へどけ、網を狭めて獲る漁法であったという。豊前では、この石組が、三・四間おきに三・四百組もつくられたというが、宇治の鱣請の場合も、橋の上流を中心として相当量の石組を設置したのではないだろうか。
 なお、「宇治川に鱣請を立てることは、当初よりの所行なり」といわれているのも興味深い。つまり、宇治では、この石組自体を「鱣請」と呼んだのである。とすると、この「請」とは「筌」(普通竹でできた魚を閉じ篭める漁具)を意味した可能性が高いことになるだろう。これは捕魚具としての「ウケ」の語源・語義に関わる問題ということになる。「筌」は本来ウヘと読んだようであるが(『和名抄』)、それを中世にはウケとも読み(「按ずるに今俗、譌りて宇介と呼ぶ」『拾遺集語』)、その語義が、魚を請ける、受けるという点にシフトしているということなのかもしれない。なお、右の『分類漁村語彙』の説明では、石組みの中には何も設置されていないようであるが、小沢一弘「木曽川中流域のマス漁とウナギ漁」(『民具マンスリー』第一七巻九号)によれば、石組の間に隠された筌が、捕魚部となったこともあったようである。しかし、この宇治鱣請たちの場合は、石組の中には何も入れられなかったと考えておきたい。ある座談会で、網野氏は、鱣請の漁法が「手掴み」であり、その特有の技能は「まさに血としか言いようがない」(『中世の風景』上、中公新書)とされている。これは砂地に潜ったウナギを取るとき、頭を出す穴と、シッポの穴を区別し、後ろの穴の方から探っていってシッポをくすぐり、頭が飛び出たところをつかまえるという話しであるが、宇治鱣請の場合に、「血としか言いようがない」とまではいえないだろうが、石の間に潜ったウナギを竹製の筌なしで手づかみにしたということはありうるように思うのである。
Ⅱウナギと橋守
 問題は、このようなウナギ漁がいつ頃から行われていたかということだが、これについては、鱣請たちの陳状に「知足院禪定殿下の御時、小松殿において村君と鱣請と召し合わさるるの刻、村君等無理の由定めせしめ給う」とわれているのが参考になろう。この「知足院禪定殿下」とは藤原忠実のことであるから、この文書によって、遅くも平安時代の院政期には、鱣請たちが活動しており、すでに真木島村君たちと相論をしていたということになる。
 しかし、私は、鱣請たちの活動はさらにさかのぼる可能性が高いと思う。それを示すのは鱣請たちの次の主張である。
鱣請らは、これ宇治第一の重役□輩なり、その故は、洪水出るの時、橋本の石洗い流され、橋を□(顛?)倒すべし、仍て、往古より彼の役においては、毎年、橋本の石を拾い置き、□重役を巧み奉るものなり、
 ここには、鱣請たちが自分たちの仕事を「往古より」の仕事であり、「宇治第一の重役□輩」ととらえていたことがわかる。そして、その根拠は彼らが、毎年の洪水の後に「橋本の石を拾い置き」、橋が転倒しないように手当をする役を負っていることにあったのである。鱣請たちは、この宇治橋の橋脚保護の「役」を「橋役」ともいっている。彼らは、この橋役を負う集団として自分たちの権利を主張していたのである。私は、鱣請たちは、このような仕事の中で、鰻の独特の取り方を身に付けたいったのではないかと思う。
 大水の翌朝、流された石を戻し起こし、橋脚の見回りや修理に取りかかる「橋守」たちは、石の間に蠢く沢山の鱣を発見したことであろう。彼らはそれを橋役の役得とし、同時に鱣漁の漁法・漁具を様々に工夫していったに違いない。彼らが自分たちの仕事を「当初よりの所行なり」と自称する場合、少なくとも、彼らは宇治橋の建立と鱣請漁の開始を同時期と認識していたに違いない。
 そして、『帝王編年記』に記載された宇治橋造橋銘よれば、宇治橋は、大化二年(六四六)に道登・道昭(道照)が共同で架橋したとされており、江戸時代、宇治橋のたもとの橋寺放生院付近で発見された碑石の断片にほぼ同様の記載があることから、それは事実であると考えられている。しかも、注目すべきなのは、『日本書紀』の壬申の乱の関係記事に、「菟道(うぢ)の守橋者」に対して、大海人皇子(=天武天皇)の側の動きを押さえるための命令(軍粮の運搬妨害命令)が下ったとあることである。つまり、七世紀の半ばには宇治橋が架橋されており、そこに「守橋者」が置かれていたということになるのである。この橋守は、『古今和歌集』にも「ちはやぶるうぢの橋守なれをしぞ、あはれとはおもふ、としのへぬれば」と見え、奈良・平安時代を通じて置かれていたことは確実である。彼らが「橋役」の役得として、早くからウナギ漁の権利をもっていたと考えるのに大きな問題はないのではないだろうか。
 そして、問題は、いつの頃からか、宇治の平等院が宇治橋を管理する位置にあったことである。その証拠は、承安三年(一一七三)の延暦寺と興福寺の相論において、興福寺が延暦寺発向の軍勢の通路として「修復宇治橋」を平等院に要請したことにある(『平安遺文』⑦三六三八、参照三六四六、三六四〇)。
 こう考えると、鱣請の陳状に、藤原忠実の頃に「小松殿において村君と鱣請と召し合わさるる」とあったことの意味が明瞭となる。つまり、この小松殿とは「富家殿」の焼亡後、忠実の宇治における居所として利用された宇治平等院の院家であった。私はこれを重視し、鱣請は、直接には摂関家の氏寺としての宇治平等院の寄人であったと考えている。当時、様々な権門貴族あるいは寺社にその生業を通じて所属した身分のことを、寄人といった。前述の供祭人も寄人の一種であって、彼らが神社に所属する場合に供祭人・神人などと呼ばれたのである。寄人の権利は、貴族や寺社によって強力に保護されていた。おそらくこの訴訟の場にも、摂関家家司が臨んだものであろうが、いずれにせよ、摂関家と忠実の立場は、平等院を差配する氏長者としての立場であったのであろう。
  寺院に属しながら殺生を事とする漁民集団というと、常識に反するようであるが、弘安四年(一二八一)、花取・湯那・大炊・専当・承仕などの役職にある三五名の平等院寺官が、連署して、彼らの傍輩の鎰取の倉光の「重代相伝所領網代」を安堵することを要請している(『鎌倉遺文』一四四一六)。平等院の寺官の多くは、網代を領有することを当然としていたのである。これらの寺官のなかでも下層の人々、つまり花取・湯那のような人々は、しばしば公人と呼ばれたが、鱣請たちも、その陳状に「鱣請は、色々の公人なり、一人においても間人なし」と自称している。この「公人ー間人」とは、対をなす言葉であり、寄人身分のものの内、公的に下級の家役人や寺役人などに補任され、あるいは本来の寄人としての由緒を認められたものを公人といい、正規に認められたものでなく非公式に事実上寄人となったものを間人といったのである(諸橋轍次『大漢和辞典』によると「間」には公的ではないという意味がある)。鱣請は自分たちの全員公人であると主張している訳である。
 ようするに、氷魚取と鱣請の相論は、鴨社と平等院の供祭人ー寄人の間の争いであったのである。そして、さすがの鴨社供祭人たちの漁民としての特権も、摂関家の膝下ともいえる宇治平等院の寄人であった鱣請たちには一歩ゆずるところがあったのではないだろうか。
 おわりに
 以上、おもわず紙幅をついやし、また禪定寺文書にみえる「鱣鮨」の問題や、『石山寺縁起』『芦引絵』などに描かれた宇治橋の風景など、説明し残した問題も多いが、最後にもう一つ、氷魚取と鱣取の相論で注目しておきたいのは漁期の問題である。
 何度もふれた鱣請の陳状で、彼らは「鱣を請るのことは八・九両月の所行なり、氷魚を下すのことは十月よりの供祭なり」と主張して、両者の漁業権には矛盾がないはずだと主張している。つまり、宇治の鱣漁の盛期は八月・九月の台風と洪水のシーズンであったということになる。耳学問によると、ウナギは増水の時にその活動が活発になるという。そして、鰻は夜行性で、昼間は、狭いところ、特に石と石の間に潜り込む習性をもっており、しかも特に新しい石を好むという。瀬多川の急な渓谷を下った鰻たちにとっては、宇治の瀬におかれた石組みはたしかに、絶好の棲処・休息所になったに違いない。
 現在、琵琶湖水系には、どの程度ウナギが分布しているのだろうか。その漁獲量はどうなのであろうか。現在でも琵琶湖からの下りウナギはいるのであろうか。彼らは現在でも、急流を下った後に宇治で休憩するのであろうか。いくら環境がかわったとはいっても、琵琶湖に相当量のウナギが生き延びていれば、こういう生態は変わらないであろうから、平安時代・鎌倉時代の貴重な歴史史料を精細に解釈するためにも、是非、詳細を知りたいところである。
 とくに私が知りたいのは、琵琶湖ウナギが海に下るとしたら、その時の大きさである。百科事典によると、生後五・六年から一0年ほどかけて淡水の中で十分成長した鰻は大きく太く成長し油ものり、「体の背面および胸びれは濃黒色となり、腹面も黒みをおびた銀色に輝いてくるので、銀バラウナギと呼ばれる」(平凡社『大百科事典』)という。もし、琵琶湖の下りウナギについても同様に考えてよいとすると、宇治鱣請たちが、自分のことを表記する際に、鱣という特異な字を使ったことの理由もわかるのではないかと思うからである。諸橋『大漢和辞典』によると、鱣というは、本来は、ウミヘビを意味する字であるという。それはこのような大鰻を特に表現したのではないだろうかと想像するのである。かって、蛇と洪水の問題については、「中世における山野河海の領有と支配」(『日本の社会史2』(岩波書店、一九八七年)でふれたことがあるが、鱣が台風にともなう洪水の時に捉えられることが多いとすると、鱣が「蛇ー龍ー水神」という観念連想の中に存在していた可能性もあるのかもしれないなどと思うのである。
  なお、本文で利用した鎌倉時代の全古文書を集成した『鎌倉遺文』は竹内理三氏の編纂にかかる古文書集であるが、現在、東京大学史料編纂所のホームページからフルテキストデータベースとなってオープンされている。本来は、魚偏のデータをすべて集めれば有益かもしれないのであるが、しかし、「鱣」という文字が特殊なために、残念ながら、現状では、その検索では引っかからないことを御断りしておきたい。
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