日本史の海洋史観ーー海からの視線で神話を読む
近年の考古学は、弥生時代の始まりをこれまでより約500年さかのぼって紀元前9世紀前後とするようになった。これによって、日本史における「海」の位置について根本的な再考が必要となった事情を説明してみたい。
弥生文明は朝鮮半島から移住してきた人々によってもたらされたものである。しかし、縄文文化を築き上げた人々は、容易にその生活様式をすてたのではない。つまり、弥生時代の始まりが500年もさかのぼったということは、両者の接触の時期がこれまで考えられていたよりもはるかに長かったことを意味するのである。
それは、日本史の中での縄文文化の持つ非農業的な側面、とくに弥生文明との関係では、海川の交通・漁撈などの意味を重視しなければならないという結論を導く。このような縄文から弥生にかけての海の世界の連続と変容は、今後の考古学研究の焦点となるに違いない。
これは弥生文明の原型が朝鮮半島からやってきた過程の理解にも大きな影響をおよぼす。つまり、最近の研究は紀元前15世紀頃、朝鮮半島において灌漑農耕が開始されたことを明らかにしている。そして、彼らが、海を越えて北九州に移住を開始するのが、だいたい、紀元前10世紀から8世紀にかけて、ちょうど日本の考古学の新見解のいう弥生文明の開始時期に重なるのである。そしてしかも、古気候学は、その頃、東北アジアで気候の冷涼化が起こったことを明らかにしている。つまり、これによって朝鮮の人々が、農耕文明を持って温かい東南の列島へと移住を開始したとみればすべての説明がつくのである。
しかも、最近の考古学は移住の具体的な様子を生々しく復元しつつある。たとえば、山口県の土井が浜遺跡の墓に埋められた相当数の人骨の人種的な特質は、移住の初期から不変で、それは、朝鮮の故地から、何波にも渡り、世代を越えて、人々がやってきたことを示している。それはギリシャ人たちが地中海周辺につくったコロニーと似たようなもので、彼らが半島の文物を持ち込んで北九州各地に集住する様子も明らかになっている。弥生式土器の原型となった朝鮮の土器を無文土器というが、それと似た遠賀川式土器をもった村落が、相当のスピードで日本列島の西半分に分布するようになったことも分かっている。
このとき、朝鮮半島からの移民は神話を持ってきたに違いない。すでに第二次世界大戦前に京都大学の三品彰英()や後に「騎馬民族征服国家説」を主唱して有名になった東京大学の岡正雄()は、朝鮮と日本の神話の奇妙な一致に注目している。とくに有名なのは、『日本書紀』『古事記』に記録された天孫降臨神話であろう。日向霧島の「高千穂のクシフル峯」へのニニギノミコトの降臨神話は、朝鮮南部の伽耶国始祖の「亀旨峯」降臨神話と細部まで共通しているのである。
私は、近著『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)で、このような共通性は、おそらく朝鮮半島北部から・済州島、さらに九州の阿蘇から霧島につづく東アジア火山帯固有の文化現象であろうと論じた。と同時にそれが建国神話として共通しているのは、「天皇族」の始祖が、加耶渡来という自己意識を持っていたこと以外には説明がつかないと考えている。この発想は、右に岡正雄らが、1948年に発表した「騎馬民族征服国家説」と同じものである。歴史学界では、この学説は一貫して評判が悪いが、私は、その発想自体はしたがうべき点があると考えている。
もちろん、この学説の発表はすでに50年以上前のことである。現在では、5世紀に朝鮮半島の騎馬民族が一挙に日本に侵入して、土着の国家を制圧した、という理解が無理なことははっきりしている。おそらく、天孫降臨神話は、何度も繰り返された朝鮮半島から移住の経験をふまえて、紀元前2世紀頃に北九州に簇生していたクニグニの建国神話として生まれ、古墳時代を通じて維持され形を整えて、さらにヤマト王権による加羅などの朝鮮半島南部の諸国との連携の根拠となったのであろう。
なによりも、やってきたのは「騎馬民族」ではなくて、「海民」であり、移住した彼らは、連続的に列島の海辺に広がっていったと考えなければならない。彼らにとって瀬戸内海から伊勢湾にいたる内海の世界は、胸躍るほど豊かなものにみえたに違いない。
また、彼らの行動は「征服」というようなものではなく、むしろ縄文時代から日本に暮らしていた海民の集落と平和的な関係の中で広がっていったと考えられる。それは『日本書紀』などに記録された神話が朝鮮由来のみでは説明できないような深い海の香をもっていることにも示されているのである。
天孫降臨の後に続く、海幸彦・山幸彦の神話は、人々が海の試練を受け、しかし結局、海の世界に入り込むことに成功したことの物語への反映と考えることができるのではないだろうか。全国に広がった阿曇氏、賀茂氏などの海民が、この種の神話を祖先神話として持っていた可能性は高い。
次ページの上に横長に掲げた絵は、海幸彦・山幸彦の神話を描いたものである。もちろん、この絵巻物は平安時代末期に描かれたものであり、神話の舞台も本来の南九州ではなく、紀伊国となっている。しかし、重要なのは、その場が「御厨」、つまり天皇領の漁業荘園とされていることであろう。このことは、この神話が王権に従属する海民たちによって各地に広がっていったことを示すのかもしれない。
紀州は武内宿弥を祖先とする紀氏の拠点であって、紀氏はここから瀬戸内海の海民集団を組織し、さらに神話時代の天皇家の直臣として、朝鮮、中
国との対外関係にも深く関わっていった。私は、これが「神武東征」神話においてヤマト侵入のルートが紀川沿いとされていることと関係していると
考えている。
その関係では、この場面に海亀の甲羅が描かれていることも注意しておきたい。奈良平安時代の海亀の史料は紀伊と伊豆にしかないが、紀伊の海民は、紀州沖から瀬戸内に入ってくる海亀を積極的に捕らえたのであろう。「神武東征」神話では、瀬戸内海に浮かぶ「亀」が水先案内の役割を果たしているが、こういう「亀」の神秘性の観念は一般的であったに違いない。紀伊や伊豆で捕らえられた亀の甲羅が「占い」の材料として貢上されたことも、そういう観念を生む原因であったろう。
そもそも、瀬戸内海は、日本の世界創成神話、イザナギ・イザナミの「国生」神話の場であったことも重要である。イザナミ・イザナミがその周りで恋愛遊戯をして性交に及んだ「天柱」の原型は、写真②に掲げたような天体現象、太陽柱・月光柱の幻想を反映していた可能性も高い。太陽柱・月光注は各地で観察されるが、歴史家としては、それが奈良・大坂の境界の生駒山の上でも観測されることが興味深い。奈良から月光柱を見た場合には、それは瀬戸内海に聳えるものともみえたであろう。朝鮮半島から移住してきた人々にとっても、それは印象的なものであったろう。「天柱」はオノゴロ島に立ったというが、オノゴロ島は瀬戸内の淡路島の南の小島である。
ここには、日本の国土は海の中から生まれたという感じ方があることは確実である。そして、この「国生」神話はやはり、神話学がいうように、南島起源のものであって、おそらくは弥生時代以前から、この列島社会にすでに存在していた基層神話であったということになるのではないだろうか。日本の神話は朝鮮半島由来の天孫降臨の神話、天界の神話と、南島に起源をもつ「国生」神話が合流することによって形を整えたというのは神話学の通説である。
このようにして、海と神話ということを考えてくると、悠久の昔から、日本列島が、東アジアの北と南の交点に位置したことの意味に思いいたるを考えさせるのである。そして、そういう視野の下で、その中で日本列島に独自なものが何であったのかということになると、私は、やはり地震と津波の神を上げておきたいと思う。つまり、一般に海の神としてしられるスサノオは、怒って天に昇る時には、「山川ことごとくに動み、国土みな震りき」といい、またそのもつ「天の沼琴」が鳴ると地震が起こるというから、彼は強力な地震神でもあったと考えられるのである。(『古事記』上)。これはギリシャ神話のポセイドンが海神であると同時に地震神であったことと同じである。
これをふまえると、スサノオの子孫=大国主命と同体であるとされる大物主命が「海をてらし、より来る神」とされることは、大物主命が津波を代表する神であったことを示すのであろう。海を光らせてやってくる神。これは大津波にともなってしばしば観測される地震発光を示すものであったということになる。
以上、列島の海と大地は、さまざまなとらえ直しを必要としているが、そのすべての前提となるのは、大気と海洋、さらに天体現象・地震・津波などの研究のすべてをふくむ歴史科学と自然科学の学際的な協力である。
東京大学海洋アライアンス編『海の大国ニッポン』
(小学館2011)