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鰻消費の歴史を紐解く

鰻消費の歴史を紐解く(「日本養殖新聞」2007(平成19)年1月5日号)インタビュー

 万葉の時代から食されていた鰻だが、当時の消費の実態は定かではない。醤油ができたのも戦国時代とされていることから今のような蒲焼きではなかったと推測され、業界の関心も高い。そうした中で、東京大学史料編纂所所長の保立道久教授に鎌倉時代の鰻食文化について話を伺い、その概要をまとめてみた(本紙発行の「日本の鰻二〇〇七データ&ダイアリー」にも掲載)。

 このような研究に興味をもったきっかけについて、保立教授は「日本では漁業の歴史研究が少なく、二〇年前には五人もいなかった。漁業研究の先達として著名な網野善彦さんから『日本の漁業は日本の重要な文化の一つ。このままでは歴史の見方が歪む』という薫陶を受けた」と振り返る。
 自らも霞ヶ浦の土浦の出身で、コイ等内水面を含めた漁業に強い関心を持っていたことから、専門である中世史の研究で、水産業の研究に力を入れてきた。その中で「前からウナギに興味を持って調べていた」という。研究の過程において、第一に気がついたのは『永昌記』という貴族の日記の裏側に残っていた鎌倉時代初期の「宇治鱣請訴状」であった。
 この「鱣」という字は、本来は「ウミヘビ」という意味で、それがウナギの意味でも使われているのに興味をもったという。
 この中にある「鱣請」の文字は、「ウナギウケ」と読む。この文書を詳しく解釈していくと、彼らは、宇治川で「石積漁」という方法でウナギをとっていたウナギ取りの集団だった。皮に石を積み上げ、その中に「ウケ」と呼ばれる竹籠を仕掛け、中に入った鰻を捕らえるというもので、シーズンの7~8月にはこの仕掛けが川一面を覆ったという。
 また、昔、琵琶湖には多くの鰻がすんでいたようで、江戸時代には、勢多川の流出口、勢多・膳所(ぜぜ)の雨の夜には一つの梁で、一晩三〇〇〇匹以上もとれたといわれる。
 夏・秋の出水のシーズンに大量のウナギが勢多川の急流を下り、宇治のあたりで一休みをして、石組の中にこもる。それを一網打尽にするという訳である。
 興味深いのは、当時の宇治橋を描いた絵には、宇治橋の橋脚のところに橋脚を保護する為の石組みが描かれている。この石組みは、鱣請たちが、毎年、洪水の後、橋を守るために積み直していたものであるとされる。ウナギ漁民は宇治橋の橋守をかねていたことが推測される。
 また、宇治橋は宇治の平等院が管理しており、その関係で、ウナギ漁民たちは平等院の寺男(てらおとこ)でもあったということがわかる。
 ただ、寺男が「殺生」である漁をするというのは矛盾するように聞こえるものの、当時の漁業は相当の実入りのある職業で、特権でもあったから、問題視されなかったようだ。
 そもそもこの史料には同じく河川事業で大きな勢力を維持していた「氷魚(=陸封された小アユ)」の漁師が漁場の問題で鱣請と勢力争いを繰り広げたことが記されている。この「氷魚」の漁師は京都の賀茂社に奉仕する「神人」であった。
 こうした史料からも近畿地方の漁業は著名な寺社がその漁場特権を有していたことがわかる。宇治橋は平等院の近くにあるため、「氷魚」の漁師の意見よりも、鱣請が優先されたようだ。鱣請は、特別な存在で、相当の力をもっていたことになる。
 今でこそ河川事業の雄である天然アユ漁だが、文献によると簗漁や四つ手網漁等、今でも現存する漁の写真も確認できる。琵琶湖をはじめとする全国各河川での漁業は釣り、エリ、簗、四つ手網、追いさで等様々な漁法で漁獲されるアユ漁がダントツの位置付けを誇るのはあくまで現在に入ってからのことのようで、鎌倉時代には、石積み漁をメインとする「鱣漁」に圧倒されていたといえそうだ。
 更に、保立教授は「禪定寺文書」の鎌倉時代中期の一通の文書に「鱣鮨」という言葉がでてくることに気付いた。この字(写真)は活字本では、魚ヘンの隣のツクリが「面」と読まれていた。しかし、保立教授は「面」が「亶」であることを突き止めた。しかもこの字は「鱣請」の「鱣」の字と同じである。鎌倉時代には「鰻」ではなく「鱣」という文字を使うのが普通だった。
 保立教授は「ここにでてくる『鱣鮨』は、スシであるから、そのもとはウナギの白焼であろう。そして、これは室町時代になると『宇治丸』という愛称で呼ばれ、宴会等でもメインの料理として積極的に使われていたようだ」と説明する。
 そして、「宇治丸」を数える単位が「筋」となっていることから、ウナギズシ=宇治丸は、長い、「押し鮨」のような姿をしていたのではないかと推測する。
 うなぎ蒲焼は、かつてブツ切りにした鱣を串に刺して焼き上げた姿が「蒲の穂に似ている」ことから蒲焼といわれるようになったとされる。ただ、醤油の存在しない鎌倉時代において、蒲の穂のような色で焼き上げた蒲焼は勿論存在せず、白焼のみの流通であったことはいうまでもない。
 この「鱣請」が「長焼のような形態のものを使った押し鮨」のような料理だったとすれば、既に割き技術が存在していたことの証明にもなり、蒲焼の語源に対する認識が変わってくる。
 大伴家持の歌にあった鰻料理とはどのようなものであったのだろうか。こうした疑問も解き明かせることが期待されるこの研究は業界にとっても重要な意味を持つことになる。
 また、面白いのはその価格で、室町時代には、「宇治丸筋二五筋に対し、『一〇〇文を払った』という記録が残っている。一〇〇文は今でいうと一〇〇〇円ほど。今の鰻に比べると安かったかもしれない」と語る。
 ともかく、鎌倉時代から、宇治のウナギが京都などに盛んに出荷され、夏の食べ物として好まれたことは確実で、それは「平安時代からも同様の形態で消費されていたといえる」という。
 保立教授は、今後の課題として「『鱣鮨』がどのような料理だったのか、そのレシピを解明してみたい」とした上で、「それには考古学との連携が必要になっていくだろう。遺跡の中からはしばしば食べ物の残りカスがでてくるし、魚の骨も多い。その中にウナギの骨が残っているのを知っている人は知っているはずだ。考古学者に聞いて、つめていきたい」と語った。
 現在、うなぎというと「浜名湖」や「静岡」が代名詞となっているものの、当時は「宇治」がブランドとして通っていたといえそうだ。保立教授は「当時から存在した魚の産地ブランドとしては『明石のタイ』『紀州のカツオ』『越後のサケ』等が挙げられる」と語る。そのいずれもが現在もブランドとして残っている中で、「宇治」に関してうなぎのイメージは一般的とは言い難く、少々残念なことといえそうだ。