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「山立」と「狩人」ーー西行の山立の歌について

「山立」と「狩人」ーー西行の山立の歌について
   『南山経済研究』19巻、3号、2005年3月
   須磨論集入稿校正後の修正を入力ずみ。
Ⅰ「山だち」の用例
 『日葡辞書』の「山賊」の項目に「やまのぬすびと、すなわち、やまだち(山立)、山林にいる盗賊、または、街道にいる強盗」とあるように、「山立」という言葉は、普通、山賊のことを意味している。そして、この言葉の初見例は、次の西行の『聞書集』の一節なのではないかと思う。
世の中に武者おこりて、西東北南いくさならぬ所なし。うちつづき人の死ぬる数聞くおびただし。まこととも覚えぬほどなり。こは何事の争ひぞや。あはれなることのさまかなとと覚えて、
死出の山越ゆる絶え間はあらじかし なくなる人の数つづきつつ
武者のかぎり群れて死出の山越ゆらむ。山だちと申す怖れあらじかしと、この世ならば頼もしくもや。宇治のいくさかとよ、馬筏とかやにて渡りたりけりと聞こえしこと思ひいでられて、
沈むなる死出の山川みなぎりて 馬筏もやかなはざるらむ
 「死出の山」を武士たちが「群れて」越えていくという叙景のもつ力は強い。この和歌は、治承寿永の内乱をうたった和歌として特筆すべきものだと思う。
 ただ、ここで注目したいのは、この和歌の前提として、山越えの時に「武者」を雇うという社会的慣習が意識されていたのではないかということである。そうだからこそ、「武者の群れ」がいるのは、「山だち」の怖れがなく「頼もし」いことであるという歌い方が成立したのではないだろうか。
 「山だち」という語の次の用例は、建仁四年(一二〇四)の東大寺住僧連署申状にある。それによれば、そのころ、山路で山立(山賊)事件が発生した時、現場に繁る樹木を切り払い、「山立の難」の再発を防止するという社会的慣行があったことを知ることができる(『福智院家古文書』一四)。東大寺の重源上人が、平安時代末期に「伊賀国所々山々」の「賊難」の多い山路を切り払って「顕路」としたことが「作善」であるというのも、同じ慣行を前提にしてはじめて理解できることであろう(「南無阿弥陀仏作善集」、以上、保立「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史第二巻』岩波書店、一九八七年を参照)。実際、樹冠が閉じて昼なお暗いうっそうとした山道はしばしば山賊の出没する場所であったのであろう。『古事談』(勇士)には勇名をうたわれた武士、平五大夫致頼が路傍にたたずむ様子についての説話が残されている。それによれば致頼の「路傍なる木下に頗打入て立たりける」「馬之立様」が「一人当千」であると国司下向の行列に緊張が走ったという。これは山道の脇の叢林の中に見え隠れする武者との遭遇が、人々にどのような緊張感をもたらしたかをよく示すエピソードである。そのような意味で、「山立」とは「山に立つこと」、つまり山を自由に行き来し、繁茂した樹林をものともせず、そこに立ち隠れて山道に近づくことのできる集団のことを意味したのであろう。
 管見の限り、以上に次ぐ山だちという語の第三の用例は、『平家物語』が、義経の家人の伊勢三郎について「伊勢国鈴鹿山にて山立し、妻子をも育み、我が身も所従も過ぎける」としている例である(『平家物語』巻一一)。この史料は、鎌倉時代、そしてそれに先立つ平安時代の領主的階層がしばしば山だち=山賊行為をする存在であったことを示唆する点で興味深い。別稿でみたように(「中世の諸身分と王権」『講座前近代の天皇3』青木書店、1993年)、強盗行為が平安時代から武士の本質的な職能と考えられていたことは鎌倉時代初期の史料によって明らかであるが、その中には山賊行為が含まれていたことになる。同じ鈴鹿の山賊の事例としては、すでに早く一一世紀に、公家貴族の近親でありながら近江国甲賀郡に居住して畿内地方を股にかけて活動して「最上馬盗」といわれた男が存在したことを挙げておきたい(『藤原実資日記』長元一年九月八日条)。鈴鹿の山賊が有名であったのは『今昔物語集』に鈴鹿峠の山賊が登場することによっても知ることができる(巻二九ー三六)。そして、建久五年(一一九四)の文書によれば、近江国甲賀郡の領主山中氏が鈴鹿山を守護し、「往還の諸人の安穏」のために「路次近辺の滋木を刈り払い、甲乙の浪人等を招き寄せ、山内に居住せしめ、盗賊の難を鎮むべし」と命令されたということである(『鎌倉遺文』七一一)。この文書は偽文書であるとされているが、しかし、まさに道路の傍の樹木を切り払い、山地開発を進めることが、交通路管理の重要な内容であったことを示している。
 柳田国男は後にも参照する論文「山立と山臥」(著作集三一巻)で次のように述べている。「部落の交際ということに、あまり大いなる関心をもたぬ孤立生活者、所謂一つ家というものゝ分布は明治時代までは見られた。峠や国境の往還は近世(江戸時代のことー筆者)に入って開かれ、是を維持して折々の通行者を保護するためには、五里一里の間に飛び飛びにこういう居住民を招き置く必要があったからである。彼らを悉く山民の末と見ることは許されぬとしても、この寂莫なる境涯に耐え得る力の、尋常農家の子女よりも遙かに強い者が、あったことだけは事実である」。江戸時代における「一つ家」なるものがどのような実態をもち、どのような史料があるかは知らないが、そのような存在の前身として、この鈴鹿峠に「甲乙の浪人等を招き寄せ、山内に居住せしめ」られた人々をあげることは可能であろう。
Ⅱ交通護衛と領主権力ー送迎の礼
 そして、伊勢三郎が「我が身も所従も」山だちを生業としていたというのと、山中氏が鈴鹿山の山内に「甲乙の浪人等を招き寄せ」て居住させたというのは裏腹の関係であったのではないだろうか。山賊行為と山賊監督行為が実質上は同じことであった可能性は高い。少なくとも、これらは領主的な諸階層が、山岳地帯の交通路にそって人身的な従属関係の網の目を広げていたという点では同じことを意味している。
 東海道における山賊の史料としてもっとも著名なのは、鎌倉時代の絵巻、『男衾三郎絵詞』に描かれた山賊であろう。そこには東海道・東山道・北陸道の山賊七百人が遠江国の高師山に集合した様子が描かれている。彼らは、姿も名前も武士そのものであって、それは山賊組織と武士・領主の間に深い因縁があったことを示している。そして、このような存在の淵源は、九世紀末期東国における「僦馬の党」にさかのぼるのではないだろうか。彼らは足柄峠・碓井峠などの国境の山岳地帯を拠点として東海道・東山道の馬を掠奪し、一種の交通・商業を営んだという。しかも、彼らの実態が、「坂東諸国富豪の輩」であったというのが興味深いところである。領主と山賊は一皮むけば同じ存在であったというのは平安時代初期から鎌倉時代にかけて一貫して発展していった関係であったのではないだろうか。
 この点で興味深いのが、以前注意したことがある領主下人の交通護衛の問題である。そこで問題とした「みちのあいだのおそれ候へば、兵士の料に下人具してまいらする」(『平安遺文』二三三八)という史料は、道路通行の安全のために「兵士」=「下人」のお供をつけるという慣習を物語っている(保立「さまざまなオンブ」『中世の愛と従属』平凡社一九八六)。そして、領主的諸階層が相互に営んだ「送迎の礼」においては、縁先での送迎、庭上での送迎、門での送迎のみでなく、「送りつける」という送迎の礼が厚礼として存在したから(保立「彦火々出見尊絵巻と御厨的世界」『物語の中世』東京大学出版会、九九八)、「兵士の料に下人具してまいらする」という慣習が早くから存在したことも疑いない。このような送迎の礼の問題は、駅制、宿直・兵士役、年貢運輸などの交通・交通路支配の問題と広い接触点をもっており、今後の詳細な検討が必要であるが、領主と交通・商業との関係という点をとってみると、かって豊田武が、鎌倉時代の商人は、「所の領主に依頼して、腕節の強い護衛の侍をつけて貰う程安全なことはない」という期待の下に、在地領主に「警護用途」などを出して路次の安全保障せさたことに注目しているのが重要であろう(著作集三巻『中世の商人と交通』三〇頁)。
 こういう観点からいうと、『一遍聖絵』の諸所(巻二、巻五、巻六、巻七、巻十一、おのおの中央公論社『日本の絵巻』五一頁、一二八頁、一六四頁、二〇一頁、三〇三頁)などにおいて、旅人・商人の前後にしばしば随行者として描かれる蓑帽子をかぶり、弓を持った男たちは、豊田のいう「腕節の強い護衛の侍」=「兵士」=「下人」を実態としていたのではないだろうか。そのほか『伊勢物語絵巻』(第九段、『日本の絵巻』一三頁)の場合にも,商人らしき人物が弓矢をもった男(但し彼は蓑帽子はかぶっていない)に護衛されて富士の麓の道を歩いているのがみえる。『伊勢物語』の本文には、業平が宇津の谷で修業者に会い、修業者に手紙を託したという記事がある。この記事は、山伏が手紙の都鄙間流通のあり方を語る相当早い史料であるが、それに対応する絵巻では商人とその護衛が描かれているということになる。そして、これらの護衛の姿は公家・武家の貴族の供として描かれた弓持(『一遍聖絵』、前記『日本の絵巻』一三頁、五〇頁、七九頁、八〇頁、九八頁、二三八頁、二八三頁、三〇六頁、三二三頁など)とほぼ同じ姿であることも注目される。これらの弓持のうち相対的にみすぼらしい姿をしたものは武装下人であると考えてよいだろう(ただし彼らは旅装ではなく、そのため蓑帽子はかぶっていない)。これらの護衛の画像は、その意味でも貴重である。
 このこととの関係で重要なのは、「梁田文書」の詳細な分析によって戦国時代末期から江戸時代初期の「御用商人」が通行料を取ったり、盗人検断を行ったりする立場にあったことを論証した桜井英治の仕事であろう(「中世商人の近世化と都市」『日本都市史入門』Ⅲ、東京大学出版会、一九九〇)。とくに興味深いのは梁田氏配下の「内ノ若キ者」が盗人を働いたり、梁田氏と同じような性格をもった米沢の横山氏の「若衆」が商人の護衛に付けられながら、「送り狼」になって強盗殺人を犯したという事件である。これらから、桜井は、御用商人が、山賊の頭ともいうべき性格をもっていたとしている。本稿の立場からすると、この梁田氏が代官領主的な存在形態をもっていたことも重要であって、桜井のいう商人のヤクザ的性格と、前述のような武士領主のヤクザ的性格は、おそらく平安時代から二重化して存在しつづけていたのではないだろうか。
 つまり、古くから商人団が護衛の武者によって守られているのが普通であったことは、前掲書で豊田がいう通りである。問題は、遠隔地商人の場合、この下級兵士が出発地から同行していたものか、あるいは現地雇用なのかということである。もちろん、出発地からの全行程に武士的な存在が随行することがありえたことは否定しないが、しかし、基本的には護衛下人の多くは旅先での現地臨時採用であった可能性が高いのではないだろうか。商人をふくむ旅行者たちは、「警固料」を支払い、その地域の領主のテリトリーを通過して次のテリトリーに移動し、そこでまた警固料を支払うという形で旅を続けたのではないだろうか。「天正本狂言」に次のようにあるのは、そのような護衛の現地採用の慣習をよく示しているように思う。
(六十)弓山立
一、一人弓もちて山立と名のる。又よきさふらひ一人出る。原中にておつかけて、わるくゆふ。みなはたかにする。侍、せめて此山斗おくつてくれよとゆふ。つれて行。道にて山鳥かとゆふて、あれあそはせとゆふ。まことになつてそそろく。我いんとて弓矢をとる。さてあくたふをいる。みとられたものをとりかへす。後、いころはす(金井清光『天正狂言本全釈』風間書房、平成元年)。
*なお、この「山立」を素材とした狂言については橋本朝生「狂言の悪党たち」(『国語と国文学』一九九五年六月号)を参照。また、ここに山中で山鳥を捕まえる話が登場するのはきわめて興味深い。というのは、絵画史料に描かれた商人が、しばしば雉・山鳥や荷物の上に載せて歩いている様子がみえるからである。山中を歩く商人たちは、チャンスがあれば雉や山鳥をつかまえ、それを山越えしたところの市庭で売却するというようなことが多かったのではないだろうか。そのように考えると、有名な備前国福岡市の市屋の端に描かれた「魚鳥」(贄)の店に山鳥がぶら下がっているのも示唆的であるように思う。
 つまり、山立が原中で侍を追い込め、丸裸にして掠奪することに成功したが、侍が「せめてこの山ばかりは送ってくれよ」というのに情が移って、山中を歩いていたところ、侍が「あそこに山鳥がいる、俺が射てやろう」というのにうっかりして弓矢を渡したところ、侍が向き直って山立に狙いをつけたので、山立は驚いて射転ばされて退場したという訳である。ここで「この山ばかり送ってくれ」というセリフに山立が乗せられたのは、臨時に雇われて山越えの護衛をするという風習の存在を物語っている。そもそも冒頭にふれた西行の和歌も、山越えの時にあたって、麓ちかくで「武者」を雇うという社会的慣習を示しているというべきではないだろうか。『今昔物語集』にも、丹波国大江山の麓で男女の旅人に近づき、「御供」につくといって弓を騙し取った男が山中で送り狼に変身し、女を犯したという説話が残されている(『今昔物語集』巻二九、二三話)。間抜けな夫に女が愛想をつかしたという、この説話の結論は、「山越え」の護衛にともなう悲喜劇が、古くから耳に親しいものであったことを示している。
「山立由来記」と狩人
 『絵巻物による日本常民生活絵引』は、右にみた絵画史料にみえる商人を護衛する蓑帽子の男たちを「狩人」と解釈している。そもそもこの形の帽子を「蓑帽子」ということ自身も、『日本常民生活絵引』の命名によったものである。そして、この「狩人」という解釈は、以降、そのまま維持されており、たとえば網野善彦の「摺衣と婆娑羅」(『異形の王権』)も、前述の『一遍聖絵』の諸場面について、「蓑帽子をかぶり、腰に「うつぼ」をつけた狩人たちの姿は、たしかに「異形」ともいえるが、供をつれ、堂々と胸を張って濶歩する彼らには卑賎視の影は全くない」と述べている。しかし、上記のように考えてくると、ぎゃくに弓矢持こそが商人などの「供」であると考えねばならないのではないだろうか。また、高橋昌明も『一遍聖絵』の商人とともに歩む男について「みの帽子をかぶり、自然木でつくった弓をこわきにかかえ、腰に長いうつぼをつけるのが、狩人のさだまったスタイルであった」としている。そして、高橋はさらに「山の尾根筋など境界を遍歴する狩人には、境の神になりかわって、通過する旅の人々から手向(山神への贈り物ーー筆者注)を徴収することが認められ」ており、ある場合は商人などの旅人を護衛して「旅人の通行保障」をすることがあったのではないかと論じている(『湖の国の中世史』19章、平凡社、一九八七)。そして、黒田日出男も、『日本常民生活絵引』の指摘を前提として、「山人や山伏たちが被った『蓑帽子』『猟師笠』」について論じている(「隠れ蓑・隠れ笠」『歴史としての御伽草子』ペリカン社、一九九六)。
 これらは、結局、交通護衛にしたがう蓑帽子の男たちの権限を、本質的には、彼らの狩人・山民としての立場に求める見解であるといってよい。たしかに、この蓑帽子の姿は、西垣清次が『日本常民生活絵引』のいう蓑帽子を「猟師笠」と呼んでいるように(「笠」『大百科事典』平凡社)、狩人が山中に入る時の姿でもあったのかもしれない。とくに興味深いのは、高橋が、『塵芥集』の「山中行き帰りの人々を、盗人、狩人となずらへ、人の財宝を奪いとる事、その例多し。しかるうへは、いまより後、狩人路次中より三里の外にしてこれをなすべし」という条文を引き、山立(山賊)が狩人の振りをして(「なずらへ」)山中通行の商人などに近づいて強盗を働くことが多かったことに注目していることである。この『塵芥集』の法令については、マタギ法という観点から、ほぼ同時期に安野真幸も検討を加えている(「下人の初見参」『下人論』日本エディタースクール出版部、1987年)。これはたしかに、彼らが、狩人であったからこそ、山中通行を保証したり、それを妨げたりする権限をもっていたということになるだろう。これは、網野が、非農業民=山民の自然的・本源的「権利」が「山野河海に対する天皇の支配権」の下で、特権的な広域的な山野交通、山野支配の権限を確保したと論じたことに直結してくる。
 そして、実は、この問題は、「山立」=「山賊」の研究史において、はじめから最大のの問題だったのである。つまり、「山立」=「山賊」=「狩人」の問題を最初に論じたのは、先にも引用した柳田国男の論文「山立と山臥」である。この論文で、柳田は、「山から山へと移り住んで」「山間の特殊なる生業」に従事した「農を営まざる山地の住民」、とくに「狩を生計とする者」=マタギが、広域的なネットワークをもって、「簡単に解すれば一方は本家、他はそこから分かれて出たものの末と見てしまうこともできる」ような「山中文化の一つの中心」を営んでいた可能性を指摘した。柳田は、たとえば「東北の山地に山居するマタギ」が「信州飛騨の村里にも米を買いに下りた」ような広がりをもって活動しており、その中心が三面のマタギ村であったのではないかと想定している。そして、彼らの伝承する「山立由来記」が「一人の若者が、神の依頼を受けて神の戦いに参加し、片方を助けて他方を打ち負かしたという語りごとで、その手柄によって全国の山々嶽々、到る処に山立をする許しをえて、その特権を永く子孫に伝えたと説くものである」ことに注目している。柳田が紹介した「山立由来記」には、日光山の神が「若し、戦に勝たば、汝、日本国中の山々嶽々に、その身の儘にて、行かざるところなく、山立させむ」と萬三郎という若者に約束し、戦いに勝ったことに感謝した日光山の神の口添えによって、萬三郎が「内裏より御褒美を下され、山々嶽々知行す」という特権を確保したという物語が語られているのである(著作集一二巻「神を助けた話」、原漢文を適宜読み下した)。
 ようするに、柳田は、マタギや木地師のような山民の「山立」の活動の方が、山賊としての「山立」よりも根源的な位置にあるとし、それが宗教的権威と王権によって支えられている構造を指摘したのである。これが網野の見解の直接の原型に位置することはいうまでもまい。
 たしかに、交通護衛にしたがう武装した弓矢持の中には、事実上、このような狩猟民という意味での「山立」が含まれていたことは否定できないだろう。そして、狩猟民が山地交通に対して特定の権限をもち、それを条件として彼らの「山越え」の交通護衛が一つの特権、権利としての意味をもっていたことも否定できないでらろう。しかし、他方、「領主」の配下で「下人」=蓑帽子の男たちが交通護衛にしたがっていたという本稿で跡づけてきたことも事実として認めるべきではないだろうか。交通護衛と「山立」の世界をすべて、特殊な山岳信仰や王権の保護との関係で説明することは、一つの作業仮説としてならば許されるであろうが、より地域的・実態的な関係の媒介なしに、それらの諸関係が純粋に機能すると考えることはできない。それは安易なレトリックというものであろう。
 そこには、武士領主の武装した郎等・下人集団と、武士領主の配下で活動する山民、狩人が部分的に重なる実態をもって形成されたというような事情があるのではないだろうか。留住領主とも呼ぶことができるような広域的な活動を展開するのが常であった平安時代以降の地域領主は、「山賊」的な性格、あるいはそこまでいえないとしても山を「なわばり・境界」とする「ヤクザ」という性格をもち、その広がりはしばしば狩人・山民の山岳ネットワークに重なる側面をもっていたのではないだろうか。もちろん、私も、柳田が主張し、網野が強調したような「山から山へと移り住んで」「山間の特殊なる生業」に従事した「農を営まざる山地の住民」のネットワークの存在自身を否定しようというのではない。しかし、問題を抽象化しないためにも、それが他の社会関係、支配関係と重なりあい、それによって媒介されるシステムであったこともそろそろ認めるべきではないだろうか。
(補記)
 私はながく『大日本古文書 大徳寺文書』の編纂にたずさわっており、須磨先生の賀茂諸郷の詳細な分析にはいつもお世話になっている。そのため、本来、本稿では大徳寺文書にあらわれる賀茂諸郷の史料について論じる予定であった。しかし、途中まで試みたものの、原稿締め切りに間に合うようにそれを完成することはできないことがわかり、このような中途半端な文章で責めをふさぐほかなくなった。ただ、須磨先生に「一つの詩魂ーー西行について」という文章がある。最近、『義経の登場』という本を書き、その最後に西行についての文章を書き加えた時、ちょうどいただいた論集に載せられていたこの文章を読んでいて須磨先生の西行に傾倒する御気持ちがわかり、たいへん印象的だった。そのこともあって、ここでは、本稿の冒頭にかかげた西行の和歌について考えたことを書かせていただくこととした。この点、御許しいただきたいと思う

桜井英治「山賊・海賊と関の起源」(網野善彦編『職人と芸能』平成六年)

関連文献。

勝俣鎮夫「山賊」、『平凡社大百科事典』、一九八五
高橋昌明『湖の国の中世史』、平凡社、一九八七
戸田芳実『中右記ー躍動する院政時代の群像』、「日記・記録による日本歴史叢書」、そしえて、一九七九
保立道久「中世民衆経済の展開」『講座日本歴史』中世①、東京大学出版会、一九八四
保立「日本中世の諸身分と王権」『講座、前近代の天皇③』、青木書店、一九九三)
保立「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史』②、岩波書店、一九八七
柳田国男「山立と山臥」、『柳田国男集』、筑摩書房
実は、これまで私は西行について真剣に考えたことがなかったが、若き須磨先生の文章は、西行に共鳴することが、この時代に関心をもつもの正統的な心情のあり方であることを私たちに告げているように思ったのである。

い「山立」問題は「盗賊」という生業自身がどのように登場したかという問題とかかわっているが、その条件となったのが、第一に山地交通の発達が必要であったはずであり、そとある。この説明で第一に興味深いのは、山賊の活動場所を「山林」のみでなく、そこを通る「街道」であるとしていることで、であった漢語では「緑林」といい、逆に中世の日常語では「山立」といった。どちらも山賊のイメージを山森と二重化していることが重要だろう。山賊は盗賊は、彼らは山林の中から現れる盗賊のことであった。その姿は山立と平致経。のことを中世の日常語ではと山賊のもっていた広域的な組織。山の中の通行。。『小右記』の鈴鹿山山賊。山賊は山立と呼ばれた。
網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店,一九八四
 狩人と山賊の共通性をいうのではなく、山の中が一種の治外法権の場。山の中の法のあり方。