民俗学、『柳田国男の民俗学』福田アジオ、吉川弘文館、1992年)
民俗学、『柳田国男の民俗学』福田アジオ、吉川弘文館、1992年)
現在の日本国家のように学者・政治家・官僚が意思を疎通せず、四分五裂な民主主義国家は珍しいのではないか。明治憲法体制のなかでは、福沢諭吉・吉野作造・美濃部達吉・新渡戸稲造、そして大隈重信・森有礼・石黒忠篤など、学者あるいは学者的な資質をもった政治家・官僚はそれなりの影響力があった。幕藩制国家の解体において「洋学」と「国学」が相当の役割をになった以上、これは当然のことであったろう。しかし、昭和の超国家主義はそれを完全に破壊した。戦争責任はしばしば軍部の「無謀さ」におしつけられるが、しかし戦時体制は政治から「深慮遠謀」と学術を排除するシステムそのものであったのであって、それは実際にはいまだに機能しているようにも思える。
柳田国男は、もっともすぐれた学者官僚の一人であり、決して豊かではない家から出身しながら、東京帝国大学を卒業し、農商務省の農政官僚として出発し、すぐに高等文官試験に合格し、法制局参事官、貴族院書記官長(勅任官)、国際連盟委任統治委員、そして第二次世界大戦の終了後に枢密顧問官(親任官)に就任するなど「出世」コースを歩んだ人物である。出発点となった農政経済学では農業の資本主義化と中農の育成、小作料金納制の導入と産業組合の組織などによって分配関係の改良を主張した。また内閣文庫に勤務してその蔵書を読みあさり、さらに早く宮内書記官となり、明治天皇の死去と大正天皇の即位、大嘗祭に奉仕するなど、国家機構内部の伝統・儀式に精通する立場にあった。
岩本由輝『柳田民俗学と天皇制』(吉川弘文館、一九九二年)がいうように柳田は明治知識人の典型的な限界のなかにいた人物で、その農政学は地主制的な土地所有の変革を課題とすることはなく、また終生、勤皇を自称していた。戦争体制に対する抵抗という意味では、その保守主義が無力であり、実際上は迎合的な側面もあったことは冷厳な事実である。柳田は社会には基本的に調和しえない利害の対立、階級的な対立と分裂が存在しており、実際上、歴史はそれを中軸として動いているという単純な事実を認めようとしなかった。
しかし、それにもかかわらず、柳田の合理主義はきわめて強靱なもので、戦争と国家神道に対しては、ともかく一線を画する処世を維持し、しかも第二次世界大戦の敗戦後には、その処世についても誠実な反省を述べている。そして、柳田が、全力を挙げて、資本主義化のなかで破壊されていく生活と生業の相互扶助の歴史文化を記録し、それを通じて、この国における「民族的な感情」の謎を解き、透明なものとして再構築するための学問、すなわち「民俗学」を構築しようとしたことは、やはりきわめて大きな意味をもっている。柳田は農政学から始めた「社会のための学問」という初心を、この別の道を通じて生かそうとしたのである。これが、実際上は、言葉の本来の意味での保守主義者でなければできない仕事であったことは認められるべきであると思う。
さて、私はかって「歴史学にとっての柳田国男」(『物語の中世』)という文章を書いたことがあるが、そこで述べたように、柳田の仕事は、歴史学者にとって「学際」という項目で扱うのは、何か他人行儀なような気もするほど親しいものであって、『柳田国男集』の用語総索引の巻などを、万能の研究工具のようにして座右においている研究者は多いと思う。しかし、柳田の仕事は柳田がなかば自己流の方法で組み上げたものであり、かつ上記のように柳田の立場が複雑であったこともあって、その全貌はきわめてわかりにくい。もちろん、歴史学にとっては、柳田の民俗学の意味は、それが必須の研究工具であるという点に尽くされおり、それこそが柳田の学術的な栄誉を表現するものなのではあるが、しかし、その民俗学の体系の全体を、いちおうでも知っておくことも必要である。
本書は、(1)柳田国男の生涯と民俗学、(2)方法と歴史意識、(3)家永続の願いと親子、(4)働く女と神を祀る女、(5)ハレとケ、という過不足のない構成をもっており、座右に置いて必要に応じて柳田民俗学の全貌を見通すためにもっとも適している本である。さらに特記しておきたいのは、本書が民俗学者自身による柳田民俗学に対する、ほぼ初めての全面的な批判の書であることである。(1)の紹介は省略するが、(2)「方法と歴史意識」ではいわゆる「重出立証法」と「常民」の概念への批判があり、これは方法論の問題としては決定的なものである。
また(3)「家永続の願いと親子」は、まず『明治大正史世相編』の第九章「家永続の願い」の冒頭に引用された行き倒れの老人が先祖の位牌をもっていたという新聞記事の説明から始められている。柳田の多面的な「家」論について、その中心となった祖霊祭祀にしぼって的確な紹介がされている。そのうえで、柳田が最初は重視していた沖縄における祖霊観念を議論の体系化の中で無視するにいたったこと、それに関係して、祖霊を集合霊と立論する議論が実証性をもたないという批判がされている。「霊魂」についての現在の研究レヴェルは松前健や熊谷公男らの研究にあるが、その初発に位置する柳田の仕事には意外な問題がはらまれていたということになる。
また「親子」は親方・子方を論じたものである。福田には『可能性としてのムラ社会ーー労働と情報の民俗学』(青弓社、一九九〇年)という労働の組織と意識に踏み込んだ民俗学的な仕事があるが、その観点からみた「親方ー子方」という柳田の議論の評価はきわめて興味深い。また、そこでは柳田の家族史論が紹介されている。それによれば柳田は、江戸期以前の地主制は、融和的な大家族そのものであったが、江戸時代に小家族が一般化することによって地主制から一体感が消失したと考えていたという。福田のいうように、これは江戸時代史研究の「通説」が、「家父長的奴隷制」という大家族制から小家族の一般的な成立への変化を描くのと枠組としては同じことであり、現在からみれば、どちらもあまりに図式的な歴史像であることは明らかである。この種の大家族から小家族という図式は、諸形態の地主制が一般的であった戦前社会が自然に生み出した通俗常識というべきものであって、歴史学も民俗学もそれに流されてきたということになるだろう。歴史学の場合は、それに『資本論』の誤読がつけ加わってドグマ化していた訳である。
そして、(4)「働く女と神を祀る女」では女性の境遇に対する柳田のあたたかな共感にみちた婚姻史論、主婦論と巫女論が体系的に紹介されて、その画期的な意味が強調されている。しかし、他方で、福田は、所詮、柳田の議論は性別役割分担論の域を越えていないとしており、その高い評価と厳しい批判の対照は味読に値するものである。そして、結局、柳田は女性の歴史的な存在形態を全体像として整合的に把握していない。主婦論においては家の祭祀の担い手としての主婦という観点はなく、巫女論においては、巫女の職能の形成や仕組み、その漂白の境遇の厳しさは問われることがないという説明があり、それはそのままで研究の課題を示唆するものとなっている。
(5)「ハレとケ」でも、高い評価と端的な批判の対照は読み応えがある。たとえば有名な家作りの「右勝手・左勝手」(入口と土間が家のどちらがわにあるか)によって関東と関西が区別されるという図式について、福田は、自らの調査経験をふまえて、学術的に実証できることではない、「思いつきの域をでるものではない」と断言する。またさらに有名な「木綿以前の事」については、ここで述べられているのは「直感による解釈」にすぎず、もちろん、評価するべき点はあるとしても、このままでは「民俗学の論文」とはいえないとまで酷評している。
以上、批判の点に偏って紹介をしすぎたかもしれない。慌ただしい世相との関わりのなかで実施された柳田の民俗学的な研究が、様々なほころびをもつのは当然のことである。そして何よりも重要なのは、実際上、このような批判的な読み方を貫くことによって、私たちは、初めて柳田の民俗学の体系性を認識することができることであろう。柳田の仕事を人一倍読み込み、高く評価している民俗学者自身による点検によって、柳田の仕事のどこが間違いで、どこが正しいのか、どこを安心して使うことができるのかの案が示されたのである。このことは、柳田の仕事を利用せざるをえない歴史学者にも課せられた共通の課題であるように思われる。そもそも柳田の対象とした明治・大正の民俗は、直接には江戸期社会に根をもつものである。その本格的な検討を歴史学者と民俗学者の共同の仕事として行なうことは、前述のような性格をもつ柳田の仕事の内容や影響の大きさからいっても必須の仕事であろう。福田は文献史料にもとづく本格的な江戸期村落論の仕事をもつ、歴史学者ときわめて近いセンスをもつ研究者であるが、それと対比すると、最近の江戸時代史研究では村落論が全体として低調なのが気にかかる点である。
さて、柳田民俗学と歴史学の関係については、このほかに佐伯有清『柳田国男と古代史』(吉川弘文館、一九八八年)が柳田の『日本書紀』『古事記』に対する見方を系統的に論じたものとして有益である。そして、柳田が南方熊楠からフレーザーの『金枝篇』を教えられ、その強い影響をうけたこと、しかし、戦争中には同書が天皇制の宗教的秘密を暴くものとして危険視されることを警戒し、翻訳の試みを止めようとしたことを明らかにしたことも特筆される。
また川田稔『柳田国男ーー固有信仰の世界』(未来社、一九九二年)も、「国家神道」に対する批判と反省の意をこめて、晩年の柳田が立ち戻った「氏神信仰論」を徹底的に復元した仕事である。福田の説明した「家永続の願いと親子」を補うものとして利用価値が高い。また第三章「柳田国男の神話論」は、柳田の祖霊信仰論と「語り物・昔話・伝説」などの口承文芸論の背景に存在していた「神話」論を体系的に復元したものとして独自の意味をもっている。柳田は自己の仕事を「新国学」と称したこともあるが、ここに視点を置くことによって、「国学」に始まる、日本近代の学術全体を見直すことも可能となるように思う。
その他、柳田については、その仕事が現在的な意味をもっているだけに、いまでも様々な評論が行われて絶えることがない。それらはそれなりの示唆をあたえるとはいえ、多くは、柳田民俗学の学術的な内容と限界にまで立ち入らない評論であって、歴史学者にはあまり感心できない場合も多い。その意味でも、前述のように、歴史学と民俗学のあいだでの緊密な共同研究と議論が必要とされているといってよい。